昨年紹介した"ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する"の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナルQuanta Magazineに掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。
さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事"A Crisis of Identification"です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。"ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する"も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。
前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。
前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。
[追記: 2019年03月08日]
David Michael Robertsを私はディヴィド・マイケル・ロバースとカタカナ表記しました。日本ではRobertsをどういう訳かロバーツと表記してますが、完全に間違っています。これの最後の発音記号は/ts/です。この意味は/t/の舌のまま/t/ではなく/s/を発せよということなんです。つまり、上顎に舌先が接している状態で/s/を発音するのです。ですから通常の/s/の音(舌先が下の前歯の裏に接しています)ではないけれども表記するなら「ス」しか考えられません。/t/は発音されていないのですから絶対に「ツ」ではありません。こんなことは英語を話せる人なら常識以前の話です。
Robertsではなく、Robertこそロバーツ(もちろん、このツは無声音tの代用であって有声破裂音のツじゃありません。つまり、舌先が上顎についたままで離れていないということです)と表記すべきなんです。まさか、これをロバートと表記するのであれば馬鹿の極みですよ。Robertoという姓名があるのかどうか知りませんが、これこそロバートと表記するのに相応しいのです。
[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2019年03月07日に某サイトに載せたものです。
[追記: 2019年07月27日]
この記事に出て来る、"本物の天才"ピーター・ショルツ博士については"2012年当時のピーター・ショルツへのインタヴュー"、"フィールズ賞受賞者ピーター・ショルツへのインタヴュー"があります。
[追記: 2019年12月12日]
ピーター・ショルツ博士の記事については他にも"数論の賢人"があります。
[追記: 2020年04月28日]
友人共の話によれば、私を何者かと盛んに詮索している馬鹿連中がいるらしいです。海外の人達にも分かるように以下を書いておきます。
識別の危機
2019年3月1日 ディヴィド・マイケル・ロバース
数論において重大な予想が解決されることは殆ど起きないし、初等用語で記述される予想の解決はなおさら起きない。非常に尊敬される数学者が解決したと主張する度に、数学世界は専門家達が議論を取調べるまで休止する。微妙な誤りが長い証明の中に隠れているかも知れない可能性はいつでもある。そんな事柄において、それが優雅に処理される時、永続する不名誉は存在しない。すべての数学者達は結果が正しいという確信を後の点検のもとで崩壊または動揺させることになる体験を持って来ている。そうは言っても専門家達は高度に訓練された直感を持ち、決まりきった手順から斬新なアィディアを、混在する記号から強力な技巧をすぐに認識し区分出来る。アンデュルゥ・ワイルズが最初の、最終的には欠陥を持つフェルマ最終定理の証明を見せた時、数論学者達はそれでも彼の研究が画期的だと自信を持って言えた。ポアンカレ予想に関するグリゴリ・ペレルマンの証明が詳しく調べられる前から、彼のアィディアが非常に斬新であることは明らかだった。
abc予想に関する望月新一の噂されている証明は異なる。証明それ自体が望月が宇宙際タイヒミュラ理論(IUT)1と呼んでいるフレィムワークに埋め込まれている。その証明に関して一流数論学者達と、少ないが非常に自信たっぷりな支持者達の何人かの間に意見の相違がある。2017年の12月に望月が主任編集者2であるジャーナルに彼の論文が登場することになっているという噂が広まった。彼の研究の多くが既に数学者達に利用可能になっている。発刊は彼の結果に査読のお墨付きを与えるために都合がよかったのであろう。数論学者達は彼等の懸念をオンラインで述べ始めた。イニシャルPSで通っている数学者が"論文が出現した直後から私は系3.12の証明の中の図3.8以降のロジックを全く分からないと注意している"3と書いた。彼だけではなかった。ブライアン・コンラドは"私は審査過程が最終的に3.12の証明を完全に明らかにした改訂に当然つながるだろうと思った"4と書いた。噂は間違いだと判明したが、望月は系3.12をはっきりさせることを何もしなかった。"ミスプリントを正した"と彼は変更履歴の中に書いて括弧を削除した5。これはコンラッドが予期していた改訂の類には見えない。
PSは数論幾何学における研究でフィールズ賞を受賞したピータ・ショルツだと判明した。2018年の3月、ショルツとジェイコブ・スティクスは彼等の懸念を議論するために京都に望月を訪問した。会合は内部者達だけに知られていたが、数か月後常識となった6。どちら側も他を納得させられなかった。
議論は失敗に終わった。
ABC
abc予想は加法のもとでの整数の振舞い方とそれらの異なる素因数のサイズと数の間の不思議なリンクを述べている。abc予想とフェルマ最終定理の間に非常に離れた族類似性が存在する。両方が簡単な方程式を含む。フェルマ最終定理の場合、方程式はan+bn=cnで、解はn>2かつabc≠0という条件に従属する。そんな整数解は存在しない。abc予想は更に簡単な方程式a+b=cを含み、共通素因数を持たない正の整数a、b、cに対し、ε>0かつc>rad(abc)1+εならばa+b=cは高々有限個の解しか持たないと断言する。根基rad(abc)は整数abcの異なる素因数の積を表す。この予想に関して不思議なことは2つの非常に簡単な算法、つまり加法a+bと乗法abcの間に引き出される関係性だ。
何らかの大きな問題を取組むために、数学者達はある程度彼等自身の道具一式を拵えなければならない。ヴェイユ予想を証明しようと努めている間にアレクサンドル・グロタンディークは彼自身のコホモロジ理論を最初に構築する必要があった。4つのヴェイユ予想は代数幾何学の遠大な作業に役立ち、代数方程式によって切り取られた図形の点を数えることである。グロタンディークはスキームと呼ばれる新しい幾何学的オブジェクトの華やかな並びを思い描いた。その幾何学的オブジェクトの各々が自身の付随する世界、そのトポスを持つ。グロタンディークの壮大な計画は1960年代の間にSéminaire de Géométrie Algébrique du Bois-Marie(SGA)7の中で実行された。1964年までにグロタンディークは4つのヴェイユ予想のうち3つを証明していた[訳注: これは半分ウソです。決して間違いではないのですが、ド素人に誤解を与えかねません。ヴェイユ予想の一番目、すなわち有理型性の部分はバーナード・ドワークによって最初1959年に解決されました。後の1964年にグロタンディーク独自の証明を提示したというのが実情です。グロタンディークが最初に解決させたものは二番目と四番目です。このことは著者のロバース博士に伝達済みで、ご本人からも同意を得ています]。10年後ピエール・ドリーニュが混合しているアプロゥチを使って最後の、そしてそれらのうちで最も難しい予想を克服した。グロタンディークが導入した構造、テクニーク、用語は代数幾何学を改革した。スキームはスターク、導来スキーム、スペクトルスキームへ一般化されて来ている。トポス理論はその起源を逃れ、幾何学の他の部分と同様に数理論理学での使用を見つけている。
望月はabc方程式に対する解を数えることによって証明を始めなかった。彼が興味を持っていたなら、分散コンピュータプログラムが彼のためにそれを出来ていたであろう8。これらの検索は終わったに違いない。abc予想は実例のすべての列挙の範囲を超えている。望月はabc予想を楕円曲線のより広くより豊かなフレィムワークの中に置くことにより始めた。そこでは幾何学的ツールが利用出来た、もしくは展開可能だった。
IUT論文の2012年リリースまでの望月の行程の一部分は彼がFrobenioidと呼ぶ構造の詳細な研究を含んだ。グロタンディークのトポスと概念的に類似だけれども、Frobenioidはトポスよりもより豊かで異なる趣の並びに入って来る。これすべてが気づかれずに発生したから、興味を持ったかもしれない他者から何の注目も受けなかった。Frobenioidに関する望月の研究はIUTの必要条件として与えられている一方で、その多くが一般論であり、彼の証明にとってあまり必要ではない9。これは大部分の困難で興味のある問題に対する明確な径を奪うことになる。通常の場合、背景の題材は他の数学者達によって急襲を受け、異なる視点から解釈されて更に簡略化し、他の目的に応用される。これは主にグロタンディークの革命と共に発生したことだ。望月の研究は大部分注目されず、外見上は理論を作ることに他者達を引き込まずに彼はどんどん進んだ。
文化的かつ地理的孤立が望月を不利にして来ていることはあり得る。望月は完璧に英語が流暢だが、京都を出たがらない。出来ることを解決するため作業は継続中である。大きな効果は無いけれども、複数のコンフレンスが最近に望月のIUT論文とそれらの先駆けに専念している。出席者達はあまりに大量の題材があまりに短い時間に詰め込まれており、エクスパート達によるちょっとの間の質問のための融通性が無いと言っている。何人かの数学者達は解説をしようと企てて来ている。数論幾何学者Taylor Dupuyは背景の題材を扱うため2015年に映像ブログを始めた10。6か月の間に彼は問題の核心にあまり到着することなしに約36本のヴィディオゥを作った。Dupuyは最近再び動き出し、異論のある系3.12からの不等式に的を絞っている11。望月の不等式の意義は標準的な数論的用語を使って一時間の長さのヴィディオゥを要した。背景の前提についてはもう一時間要した。
二人の達人に役立つこと
数学的解説は、それが効果的ならば、難解なアイディアの直感的構図とそれらの意義の詳細な技術的記述の両方を与えるはずである。ベストな作家達は縫い目なくこれをする。望月の論文は非常に技術的で非常に多くのアナロジ、喚起させる比喩的表現、隠喩も含む。標準の数学用語が新語に屈する時代がある。彼は"従来のスキーム理論の2つの互いに異星人なコピーは一緒にのり付けされる"12と書いている。彼は彼のテクニークを"環の2つの基礎を成す組合せ次元を分解する[強調はオリジナル]"13と表現する。数学者にとってさえ、これらは啓発的な表現ではない。
そんな面白くもない隠喩は疎遠感を蔓延させることにつながる。
ショルツも数学の中に新しいオブジェクトと構造を導入して来ている。最も有名で影響力のあるものはパーフィクトイド空間14だった。これらは長年の未解決問題を解くため、複雑な証明を簡略化するため、重要な定理の範囲を拡大するためにすぐに数学者達に使用された。パーフィクトイド空間は世界中のセミナで研究された。2018年の終わりまでに、MathSciNetは広い範囲の一流ジャーナルに掲載された語"パーフィクトイド"を使っている47本の論文をリストした。これを書いている時点でMathSciNetはFrobenioidsに言及している3本の掲載された論文をリストしている。すべてが望月によるものだ15。
"私が最も気をつけていることは定義に関してだ"16とショルツは書いた。完璧かつ連想させる名前、そしてそれが表す概念の正しい定義にたどり着くことは芸術である。正しい学術用語と表記が生じる時、驚くほど生産的になる得る。望月とショルツはどちらも新しい定義と概念を導入して来ている。各々がある意味でグロタンディークの勧告に倣っている。つまり、硬い数学的木の実を金槌で砕くよりも、それを皮がむけるほど十分柔らかくなるまで水の中に浸しておく。望月の研究が望まれる効果を持つかどうかはまだ分からない。もし彼が成功するなら、Frobenioidとホッジ劇場の理論はそれまでよりももっと詳しく分析され、検討されるだろう。しかし、山下剛が指摘して来ているように、IUT論文の最初の3つでの構築は単一のアルゴリズムを形成している。すなわち、定理3.1117の多輻的アルゴリズムである。定理3.11が直接に系3.12につながり、系3.12が問題の核心だから、abc予想全体を除いて何の結果が達成され得るのか未だ明らかではない。
形式的オブジェクトとして証明は正しいかそうでないかのどちらかである。しかし、殆どの数学者達は形式的証明18を扱わない。プロフェショナルなレベルでの形式的証明は特殊化されたコンピュータ言語とソフトウェアを使って生み出されている。望月論文のリリースの後、何人かの数学者達は彼の結果の形式的コンピュータ証明が展開され得るだろうかと思った19。いつでもすぐにというわけではない。もっとも明らかな理由のためだ。形式的コンピュータ証明は最初に望月の研究を理解するために数学者達を必要とする20。Kevin Buzzardに指揮された数学者達とコンピュータ科学者達のティームはパーフィクトイド空間のショルツの定義を形式化する企てをしている。まだアディク空間理論の部分を構築する必要がある事業だ。数十年に渡って展開された概念と定義を含む研究である21。ホッジ劇場の望月の定義の形式化はもっと気力をくじくような仕事だ。
命題が5ペィジ以上に達するIUTの定理を形式化することは至難だ。
形式的証明が無いから、ショルツとスティクスによって述べられた躊躇いは非専門家達にしっかり捕まえておくべき何かを与えた。"世界のかなり離れた地域で私が知る人達から頼んでもない電子メィルを受けた"とコンラドは言った。そして"彼等の各々が彼等自身でIUT論文を研究し、彼等が非常に難解だと思った特定の証明の所までは大体理解出来たと私に言った"22。その特定の証明はもちろん系3.12のそれであった。
それにもかかわらず、望月の研究を熱心に研究して来ている少数の数学者達がおり、かなり断固としてそれが正しいと断言する23。望月自身がそれを書いている。
IUTchは2012年8月のIUTchに関するプレプリントのリリースから、この研究を専門とする数学者達の集まり(私自身を含まない)によって何度も何度もチェクされ、確認され、読まれては再読され、セミナにおいて全部引用して詳しく口頭で述べられて来ている[強調はオリジナル]24。
誰も繰り返されるクルト・ヒーグナのストーリを見たいと思わない。ドイツの学校教師ヒーグナは1952年に数論における類体問題を解決した主張する論文を発表した25。彼の証明は致命的に誤りだと見なされた。"議論は完全性に、本質にさえも相当な疑いを残すほど非常に曖昧に書かれていた"26とアルフレッド・ファン・デル・ポールテンは言った。後で判明した通り、ヒーグナは正しかった。彼の本当の貢献は"今日まで非常に認められている"とファン・デル・ポールテンは付け加えて言う。痛切な疑問が残る。"彼の貢献が彼の生涯で認められなかったことが恥じるべき不祥事だったのか?"27 ファン・デル・ポールテンはそうではないと考える。
驚くべき主張が正当な審議を受けようとするなら、まともな数学者は大多数の言語(他の数学者達に期待される言語)で明快な議論を書く方が最もいい。それは不公平ではない。それが私達の確率の考慮なのだ28。
証明が正しいことと理解されることは全く別ものである。1976年にケネス・アペルとヴォルフガング・ハーケンは四色定理の証明を発表した。彼等の証明は本質的に巨大場合分け計算だった。チェキングをするためにコンピュータに頼った29。彼等の証明は定理が正しい理由を説明しなかった。当時は誰も知らないし、今も誰も知らない。それがまさにそうだ。続いて起こった論争に関して書いている間に、ウィリヤム・サーストンは1994年に論争が"定理の真実性または証明の正確性に関して人々が持った疑いに殆ど関係が無い"と書いた。アペルとハーケンが満足を与えられなかったことは"定理が真であるという知識に加えて、人間が証明を理解していることに対して続いている願望[強調はオリジナル]"30だった。現在の場合、望月の証明を理解し、それが正しいと信じると言う人々が殆どいないので私達は人間が理解しているということを伝えられそうもないという点で2重に不利な立場にいる。
構造的思考
3月会合に対する望月の反応を含むリポートにおいて、ショルツとスティクスがきちんと認識出来なかったらしい幾つかのポイントを望月は議論した31。リポートは一世紀以上の間に軌道に乗って来ている数学の傾向を望月がある程度拒絶していることを証明しているので興味深い読み物になっている。ダフィト・ヒルベルトはかってユークリド幾何学のオブジェクトを本質的なものではないとして取り合わなかった。"いつでも人は'点、直線、平面'を'台、椅子、大カプ'で置き換えられるはずだ"32とヒルベルトは言った。これらの所見は数学的伝説の一部になっている。ヒルベルトは自身で幾何学のための公理的システム、つまり定義、仮定、共通概念のユークリドのシステムにおける微妙な欠陥を埋めるシステムを構成した。ユークリドは或るオペレィシュンを正当化するために実世界の直感に頼った。ヒルベルトはすべてものが公理によって識別されることを願った。公理が与えられ、それらが支配するオブジェクトの詳細な識別は無関係だ。この種の構造的思考は19世紀の終わりに勃興した。初期で有名な例は1888年にさかのぼり、リヒャルト・デーデキントがWas sind und was sollen die Zahlen?(数は何であり、何であるべきか?)を刊行した時である。大体同じ時のジュゼペ・ペアノと同様にデーデキントは自然数の公理的定義を提案した。彼は無限集合と任意の写像の注意深い説明を与え、そして彼が呼ぶところの"単純無限システム"を定義した。自然数が次に続いた。
変換φによって順序付けられた単純無限システムNを考慮して要素の特別な特徴を全く無視し、要素の識別性を単純に保持し、順序付け変換φによって位置付けされている要素間の互いの関係性だけを考えれば、これらの要素は自然数と呼ばれる[強調はオリジナル]33。
要素の詳細な識別は重要ではない。重要なのはNが自然数に要求された概念を満たすことだ。これは自明な問題ではない。デーデキントの公理を満たす任意のペア(N φ)は本質的にユニークだ。公理を満たす2つのペア(N1 φ1)、(N2 φ2)が与えられた時、φ1とφ2に互換な写像N1→N2は正確に一つだけ存在し、これは一対一かつ上への写像である。任意の自然数オブジェクトはユニークな同型写像までユニークだ。
アンリ・ポアンカレは1908年の国際数学者会議の講演で要点を上手く指摘した。すなわち"数学は異なる事柄に同じ名前を与える芸術である。...これらの事柄が、物質においては異なるけれども、形式において類似であれば十分だ"34。
類似の結果は実数に対しても真である。すなわち、体のユニークな同型写像まで唯一のデーデキント完備順序体が存在する。この厳密性を持たない数構成があり、結果として人がどの構成を使用しているのか特定する時に注意深くなければならない。体Fの代数的閉包はこの意味でユニークではない。代数的閉包の選択に依存する証明は選択が選ばれる時を示さなければならない。
キャテグリ理論
そんな構造を厳密にする現代的方法がキャテグリ理論だ35。キャテグリCはそれが含むオブジェクトとCでのオブジェクトのペアをつなぐ射によって定まる。射はそれら自体で2項結合オペレィシュンによって構成されていてもいい。そして、Cでの任意のXに対して恒等射X→Xが存在する。すべてではないが面白い多くの場合、キャテグリのオブジェクトが余分の構造を備えた集合であり、射はその構造に互換な写像である36。
キャテグリは同型なオブジェクト間を識別しないし出来ない。キャテグリの言語と構造のみを使用して、与えられたオブジェクトに関して指定出来ることは任意の他の同型オブジェクトにも当てはまる。このアイディアはとてもパワフルだが、但し条件付きだ。一つのオブジェクトXからもう一つのオブジェクトYへ情報を移すためには同型写像を選ばなければならない。その後Yに添付された情報はその選択に依存し得る。YがXそのものであることもあり得るが、この場合でさえ、同型写像によって移された情報が必ずしも元々のXに添付された情報と同等であるとは限らない。
キャテグリはそれらの間のオブジェクトと射から主に成っているのだから、Xに添付された情報は指定された射を通して殆どいつも他のオブジェクトとの関係から成っている。代数的閉包F━[訳注: 本当はFの真上にバーがある記号なんですが、F━で代用します]が体の指定された射F→F━により体Fに関して有効である。体の同型写像a:F━→Kが与えられた時、射F→F━→Kを通してKはFの代数的閉包であることが成立する。異なる同型写像b:F━→Kは一般的にKをFの代数的閉包と見なす違う方法を与える。
XとYが或るキャテグリのオブジェクトで{φi: X→Y}がXからYへの同型写像の集合とする抽象的な場合を考える。そんな集合は望月によって多重射と呼ばれている。XとYを同じと見なし得る方法の集まりという意味で私達はそれをYに添付された情報として見なすことが出来る。ある参照同型写像c:X→Yが与えられてcのもとでYをXで置換えると{c-1φi: X→X}となり、Xとそれ自身の同型写像の集まりである。cのみから成る始集合である特別な場合において終集合は単に{idX: X→X}となるだろう。ここでidXは恒等射である。しかし、そうでなければ結果は高度に非自明である。
この制限された代用性は構造的思考によって意味されていることであるが、考えるべき更に多くの微妙な点がある。よくあることであるが、非公式に解釈されて数学オブジェクトが忘却ファンクタによって関連付けられた様々な異なるキャテグリにおけるオブジェクトを引き起こす。キャテグリCのオブジェクトが或る加法的構造を持つ集合であり、射が構造互換な写像ならば忘却ファンクタU:C→Setが存在し、オブジェクトをその基礎集合へ、射を集合間で結果する写像へ送る。多くの他の例も様々なキャテグリ間で可能だ。体の場合に対しては、体Fと集合の同型写像U(F)→Sが与えられた時、唯一の体が存在し、その基礎集合がSであり、与えられた写像を通して体としてFと同型である。
例えば体F1、F2が与えられた時、体の間の射F1→F2から写像U(F1)→U(F2)が生じる必要が無いということに注目することは重要だ。一つの直接な邪魔は体の間の射は必ず一対一であることだ。集合U(F1)が集合U(F2)よりも大きいなら、体の射F1→F2は存在しない。
構造集合と関連する忘却ファンクタのキャテグリのこの仕組みは、十分に豊かな構造ではいろいろな段階で壊れ得る。与えられた忘却ファンクタC→Setがいろいろな忘却ファンクタに対する合成C→D1→D2→...→Setかも知れない。時には一部のオブジェクトの基礎集合のみならず、チェインの中のキャテグリの一つに対して基礎Dn-構造も考慮したい。望月の研究において考慮された典型的な場合が体に添付された純乗法的構造だ。これがモノイドと呼ばれるものの例だ。それでファンクタのチェインField→Monoid→Setがあり、そこでは一番目が加法的構造を忘却し、二番目が基礎集合を除いてすべてを忘却する。
キャテグリそれら自体は数学オブジェクトの例であり、キャテグリのオブジェクトを形成するために集められ得る。同等なキャテグリがサイズにおいて著しく異なり得る。厳密に言えば、デーデキント完備順序体のキャテグリは任意の集合内部で丁度いいものよりももっとオブジェクトを持つが、一つのオブジェクト(任意の特別な完備順序体)しか持たないキャテグリと同等である。完備順序体は厳密だから、これをするためには実際一つしか方法が無い。しかし、他のキャテグリに対しては、拵えるのに多くの選択があり、その選択は互換な方法で作られなければならない。時にはそんな選択を拵えることを避けることが最善であるが、望めば拵えることは可能だ。結局、同等なキャテグリのペアはキャテグリの概念のみを使って、それら自身の間を区別出来ない。従って、それがそんな同等性を確立する深い定理であり得るが、非常に非自明だ。
この思考方法は或る数学分野で、特にキャテグリ論が大規模に使われて来ている分野において益々堅固になっている。代数幾何学がそんな分野の一つだ。時にはあたかも同型オブジェクトが同じかのように気を付けて研究出来る。望月が記述する同型オブジェクトは何が何でも区別すべきであり、それらを区別するためにラベル付けすべきだと彼が主張する時、ボクサに自分の握りこぶしの使用を禁じるような感じを受ける。
ショルツとスティクスが彼等の懸念を述べている10ペィジの覚書は(予備知識があれば)詳細な審査リポート37のように読める。彼等の批判の中で、問題の核心を得ていると思える"ある過激な簡略化"に彼等は訴えているが、"そんな簡略化は望月の証明の中核を形成する興味深い数学全体を剝奪しているかも知れない"38ことも彼等は知っている。彼等は議論を簡略化するための目的で同型オブジェクトを同一視することを認めて来ている。異なるが同型な2つの数学オブジェクトを望月が与えている所では、ショルツとスティクスはそれらが同型であるという理由で一つだけを見ている。望月が禁じ手だと強く咎めているのはこれであり、彼自身の立証の中で幾つかの実例を与えている。その実例はそのように扱えば不正な結果になると彼が主張しているものだ39。しかし、望月は自己弁明の中でキャテグリ論における常識的な解釈に対して再び個人特有の定義を使う一方で、まだ標準の用語を使っている。
望月の不満のすべてが構造的性質に関しているわけではない。キャテグリ論は、
それ自体でトポロジまたは代数学における難しい問題を解かない。それは錯綜する多数の個々に自明な問題を一掃する。難しい問題をはっきり際立たせ、それらの解決を可能にする40。
それでも従事している遠アーベル幾何学(望月がエクスパートと認められいる分野)の微妙な側面がある。ショルツとスティクスによって入念に工作された過激な簡略化が忘却ファンクタの塔の或る段階の後のみで同型なオブジェクトを同一したことは全く可能なままだが、それらが考慮されるべきだった早い段階ではない。様々な必須互換性条件が破られて、オブジェクトのシステムがオブジェクトの更に簡単で異なるシステムと同一視されたのかも知れない。たとえショルツとスティクスの分析に欠陥があり、望月のキャテグリ的な変な癖が無害であるとしても、彼の論文がまだ破れ目、つまり検査されていない無害な思い込み、正当化出来ない存在命題(定理3.11または系3.1241に深く潜むabc型の大きさの破れ目)を持つかも知れない。これは注意深い研究と理想的には望月論文をもっと標準的な言語で書直すことによってのみ見つかるだろう。または、ヒーグナのように、望月はその他の私達が構文解析出来ない方法で証明を書いていたのに過ぎないかも知れず、時間が彼を正しいと証明するだろう。
さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事"A Crisis of Identification"です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。"ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する"も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。
前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。
前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。
[追記: 2019年03月08日]
David Michael Robertsを私はディヴィド・マイケル・ロバースとカタカナ表記しました。日本ではRobertsをどういう訳かロバーツと表記してますが、完全に間違っています。これの最後の発音記号は/ts/です。この意味は/t/の舌のまま/t/ではなく/s/を発せよということなんです。つまり、上顎に舌先が接している状態で/s/を発音するのです。ですから通常の/s/の音(舌先が下の前歯の裏に接しています)ではないけれども表記するなら「ス」しか考えられません。/t/は発音されていないのですから絶対に「ツ」ではありません。こんなことは英語を話せる人なら常識以前の話です。
Robertsではなく、Robertこそロバーツ(もちろん、このツは無声音tの代用であって有声破裂音のツじゃありません。つまり、舌先が上顎についたままで離れていないということです)と表記すべきなんです。まさか、これをロバートと表記するのであれば馬鹿の極みですよ。Robertoという姓名があるのかどうか知りませんが、これこそロバートと表記するのに相応しいのです。
[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2019年03月07日に某サイトに載せたものです。
[追記: 2019年07月27日]
この記事に出て来る、"本物の天才"ピーター・ショルツ博士については"2012年当時のピーター・ショルツへのインタヴュー"、"フィールズ賞受賞者ピーター・ショルツへのインタヴュー"があります。
[追記: 2019年12月12日]
ピーター・ショルツ博士の記事については他にも"数論の賢人"があります。
[追記: 2020年04月28日]
友人共の話によれば、私を何者かと盛んに詮索している馬鹿連中がいるらしいです。海外の人達にも分かるように以下を書いておきます。
"Taro-Nishino" is my pseudonym, and so it's in vain to find me out, whatever search engines you may use. Just as writers do, I use my pseudonym, too.
Of course, relatives, friends, and acquaintances know who I am and my real name. They never expose me. It's common knowledge nowadays to use pseudonyms in writing blogs such as mine.
In a nutshell, what does it matter who I am?
[追記: 2022年08月15日]
“ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する”の[追記: 2022年05月11日]で私が更に追加で書いた“6) P.S. On 1st August 2022”を以下に再掲します。その理由は、ICM 2022が終幕して世界がIUTをどう見ているか、ほぼ結論が出たと思うからです。そしてもう一つの理由は馬鹿IUT fans(ほぼ全員が日本人と言っていいでしょう)の暴走を止めるためです。彼等は少しでもIUTに異を唱える数学者達に支離滅裂な英文(機械翻訳を使っているため)を送り付けて攻撃を加えているからです。更には、ペータ・ショルツェ博士にも彼等は夥しい数の攻撃mailを送り付けたようです。いわゆる国粋馬鹿がIUT fansになっているからだと思います。ともかくも、これらのことは完全に日本の恥です。日本人の民度の低いことが分かります。
6) P.S. On 1st August 2022.
No reference was made to IUT at all in the ICM 2022. That means that the world couldn't care less no matter what Mochizuki and his circle are doing only in far east local Japan, and that, at the same time, IUT has already died a miserable death. That is, almost all mathematicians have no trouble without IUT.
If the proof of Corollary 3.12 should be correct in the strict sense, Mochizuki and his circle should have again and again gone abroad and discussed that proof persistently long before the official publishing of his papers. Moreover, if so, at least they could have explained the essence of that proof in detail. To our great surprise, none of them did that after all. Were they much too mean? Were they amateurs? What on earth was their maths to them? Why didn't they do what even awkward Grisha Perelman by himself could? Since when have they been that irresponsible? Didn't they want to get recognition? If not, let them go their way for all we care. Why were they much closed to the outside? Oddly enough, why would no one, including the members of the RIMS, officially explain the reason that the infamous proof of Corollary 3.12 should be correct? God only knows those answers. It's only natural for Mochizuki and his circle to get disregarded by the maths world. How come? You would rather quit a mathematician than recognize that opaque proof of Corollary 3.12. Mochizuki and his circle thus have only themselves to thank if they get disregarded.
In the end, if I were to be the late Prof. Goro Shimura, I would say, 'I told you so.'
Incidentally, almost all IUT fans, who are Japanese and might not be right in the head, seem to wish that Hiraku Nakajima, the latest president of the IMU, would reverse the status quo surrounding IUT. Are they fools? They always have their heads in the clouds. Dream on!
To put it bluntly, no one, except Mochizuki, his circle, and foolish Japanese IUT fans, thinks the status quo surrounding IUT will take a turn for the better. Or rather, people abroad say that, like Louis de Branges' papers about the Riemann hypothesis, Mochizuki's papers about IUT will gradually get forgotten unbeknown to the public, too. Don't most Japanese masses misunderstand? It's a fact that Mochizuki might be charismatic in Japan, but that is never so abroad. So, the world, looking askance at him, unlike Japan, never indulges him. Most Japanese masses easily get brainwashed by P.R. regarding IUT because they may be weak in the head; it's, however, time you noticed that Mochizuki was no longer the mathematician he used to be.
In hindsight, the news conference on 3rd April 2020 held by the RIMS may have been the last straw for the maths world. At that time, two members of the RIMS happily, with haughty faces, announced that Mochizuki's papers had been accepted officially by the PRIMS at the news conference. That looked as if the RIMS pandered to Mochizuki's every whim. You might want to know how weird Japan is nowadays.
Be that as it may, taking account of the humiliating fact that IUT itself gets disregarded by the maths world, I think that at least the following institutions (truth to tell, I wanted to name individuals, though) have to take some responsibility, for better or worse: the RIMS, Tokyo Institute of Technology, the Asahi Shimbun, NHK, Nikkei Science, and Kadokawa Publishing. I'm hoping each of those institutions will fall apart. The three Japanese news media aforementioned, in particular, set the stage for P.R. regarding IUT. That tells the world how foolish most Japanese masses are.
Last but not least, never forget maths is an international subject!
[追記: 2022年12月08日]
まだまだ馬鹿IUT fansがあちこちで蔓延っているようですので、“ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する”の[追記: 2022年05月11日]で私がまた更に追加で書いた“7) P.S. On 15th November 2022”を以下に再掲します。
7) P.S. On 15th November 2022.
To revive his reputation in the maths world, first and foremost, Shinichi Mochizuki is obliged to apologise for disgracing some greatly respected mathematicians. Where does he get off calling Peter Scholze, a Fields Medal laureate, incompetent? Scholze must've thought that was rich coming from Mochizuki. Mochizuki doesn't seem to have class. I'm confident his companions didn't tell him where to get off. I can't help but say how self-important and conceited he is. He should have bitten his tongue. Also, he would get forced to apologise on behalf of foolish Japanese IUT fans because, by using a myriad of e-mails, those fans, being out of their minds and furious, are attacking those mathematicians who are doubtful of IUT. Probably, he won't apologise because of his hypocritical patriotism. If not, however, the world won't give recognition to him. That means he won't rise like a phoenix from the ashes. To put it to the extreme, only a fat chance of his revival would be there for him. He must've wanted to be a Grothendieck, but after all, he'll end up as only a Grothendieck wannabe.
Incidentally, the RIMS is on the campus of Kyoto University, but it's independent of the university. I'm not sure why it's necessary for there to be highly irresponsible institutes such as the RIMS in Kyoto. I think the RIMS ended its original role almost in the 1990s. Now that one rotten apple spoils the barrel, the RIMS must get thrown away as quickly as possible.
Last but not least, I'd like to ask Mr Fumiharu Kato this: When will Prof. Shinichi Mochizuki get such a glorious prize as the Nobel? Be that as it may, we'd better take what Mochizuki's parties say with a pinch of salt. At least I've had enough of the hype about IUT.
[追記: 2023年07月29日]
DWANGOの川上氏が望月論文の欠陥を指摘した論文に対して百万$を与えることを発表したことは皆さんも既に御存知でしょう。これについて海外の知人達から意見を求められたので、ただ素っ気なく以下を書いて送りました。
Few, if any, mathematicians could be bothered to take up that infamous dubious proof of Corollary 3.12, so there would be no papers deserving to get given this prize. Or rather, it's no use setting up such a prize that wouldn't inspire any new studies. The world is laughing for this reason, if anything. Without a doubt, Mochizuki's team would thus get stuck in a dead end. At this point, I must remind you that Nobuo Kawakami, Shinichi Mochizuki, Fumiharu Kato, Ivan Fesenko, and so on are as thick as thieves. Would you ever feel them weird? We'd better take our eyes off their fuss. It's no exaggeration to say that they piggyback onto the ignorance of the Japanese masses. Most Japanese people stay in the valley and never get over the hill, so they are innocently delighted to watch the activities of Mochizuki's team on Japanese TV. I want to add papers such as Mochizuki's hardly ever succeed because they have whetted almost no one's appetite for understanding them. Had Mochizuki been unknown, his long works would have gotten thrown away immediately into the rubbish bin. In general, the quality of those papers is of such a low degree.
The status quo is this: No one can deny that his proof of Corollary 3.12 may have been fabricated if its validity is unexplainable. The maths world has strong reservations about that and makes Mochizuki's team and quite a few foolish Japanese fans learn a lesson in the sense that it is what it is. Before I forget, this situation bears no relation to the stuff Scholze and Stix have already pointed out. Pedantically speaking, the validity of his proof doesn't necessarily get self-evident, even if Scholze and Stix's say is false. At the very least, Mochizuki should have assumed the burden of convincing other experts abroad of the validity of his proof much earlier if he was confident of it. That's all there is to it. By the way, I'm uncertain why he won't deliver any lectures abroad. Can anyone let me in on the mystery?
In the end, the prize will only highlight the backwardness and introversion of Japan to the rest of the world. It may be time you deserted Japan just as Sumire Nakamura-san, a leading Japanese female Go player, would move overseas.
識別の危機
2019年3月1日 ディヴィド・マイケル・ロバース
数論において重大な予想が解決されることは殆ど起きないし、初等用語で記述される予想の解決はなおさら起きない。非常に尊敬される数学者が解決したと主張する度に、数学世界は専門家達が議論を取調べるまで休止する。微妙な誤りが長い証明の中に隠れているかも知れない可能性はいつでもある。そんな事柄において、それが優雅に処理される時、永続する不名誉は存在しない。すべての数学者達は結果が正しいという確信を後の点検のもとで崩壊または動揺させることになる体験を持って来ている。そうは言っても専門家達は高度に訓練された直感を持ち、決まりきった手順から斬新なアィディアを、混在する記号から強力な技巧をすぐに認識し区分出来る。アンデュルゥ・ワイルズが最初の、最終的には欠陥を持つフェルマ最終定理の証明を見せた時、数論学者達はそれでも彼の研究が画期的だと自信を持って言えた。ポアンカレ予想に関するグリゴリ・ペレルマンの証明が詳しく調べられる前から、彼のアィディアが非常に斬新であることは明らかだった。
abc予想に関する望月新一の噂されている証明は異なる。証明それ自体が望月が宇宙際タイヒミュラ理論(IUT)1と呼んでいるフレィムワークに埋め込まれている。その証明に関して一流数論学者達と、少ないが非常に自信たっぷりな支持者達の何人かの間に意見の相違がある。2017年の12月に望月が主任編集者2であるジャーナルに彼の論文が登場することになっているという噂が広まった。彼の研究の多くが既に数学者達に利用可能になっている。発刊は彼の結果に査読のお墨付きを与えるために都合がよかったのであろう。数論学者達は彼等の懸念をオンラインで述べ始めた。イニシャルPSで通っている数学者が"論文が出現した直後から私は系3.12の証明の中の図3.8以降のロジックを全く分からないと注意している"3と書いた。彼だけではなかった。ブライアン・コンラドは"私は審査過程が最終的に3.12の証明を完全に明らかにした改訂に当然つながるだろうと思った"4と書いた。噂は間違いだと判明したが、望月は系3.12をはっきりさせることを何もしなかった。"ミスプリントを正した"と彼は変更履歴の中に書いて括弧を削除した5。これはコンラッドが予期していた改訂の類には見えない。
PSは数論幾何学における研究でフィールズ賞を受賞したピータ・ショルツだと判明した。2018年の3月、ショルツとジェイコブ・スティクスは彼等の懸念を議論するために京都に望月を訪問した。会合は内部者達だけに知られていたが、数か月後常識となった6。どちら側も他を納得させられなかった。
議論は失敗に終わった。
ABC
abc予想は加法のもとでの整数の振舞い方とそれらの異なる素因数のサイズと数の間の不思議なリンクを述べている。abc予想とフェルマ最終定理の間に非常に離れた族類似性が存在する。両方が簡単な方程式を含む。フェルマ最終定理の場合、方程式はan+bn=cnで、解はn>2かつabc≠0という条件に従属する。そんな整数解は存在しない。abc予想は更に簡単な方程式a+b=cを含み、共通素因数を持たない正の整数a、b、cに対し、ε>0かつc>rad(abc)1+εならばa+b=cは高々有限個の解しか持たないと断言する。根基rad(abc)は整数abcの異なる素因数の積を表す。この予想に関して不思議なことは2つの非常に簡単な算法、つまり加法a+bと乗法abcの間に引き出される関係性だ。
何らかの大きな問題を取組むために、数学者達はある程度彼等自身の道具一式を拵えなければならない。ヴェイユ予想を証明しようと努めている間にアレクサンドル・グロタンディークは彼自身のコホモロジ理論を最初に構築する必要があった。4つのヴェイユ予想は代数幾何学の遠大な作業に役立ち、代数方程式によって切り取られた図形の点を数えることである。グロタンディークはスキームと呼ばれる新しい幾何学的オブジェクトの華やかな並びを思い描いた。その幾何学的オブジェクトの各々が自身の付随する世界、そのトポスを持つ。グロタンディークの壮大な計画は1960年代の間にSéminaire de Géométrie Algébrique du Bois-Marie(SGA)7の中で実行された。1964年までにグロタンディークは4つのヴェイユ予想のうち3つを証明していた[訳注: これは半分ウソです。決して間違いではないのですが、ド素人に誤解を与えかねません。ヴェイユ予想の一番目、すなわち有理型性の部分はバーナード・ドワークによって最初1959年に解決されました。後の1964年にグロタンディーク独自の証明を提示したというのが実情です。グロタンディークが最初に解決させたものは二番目と四番目です。このことは著者のロバース博士に伝達済みで、ご本人からも同意を得ています]。10年後ピエール・ドリーニュが混合しているアプロゥチを使って最後の、そしてそれらのうちで最も難しい予想を克服した。グロタンディークが導入した構造、テクニーク、用語は代数幾何学を改革した。スキームはスターク、導来スキーム、スペクトルスキームへ一般化されて来ている。トポス理論はその起源を逃れ、幾何学の他の部分と同様に数理論理学での使用を見つけている。
望月はabc方程式に対する解を数えることによって証明を始めなかった。彼が興味を持っていたなら、分散コンピュータプログラムが彼のためにそれを出来ていたであろう8。これらの検索は終わったに違いない。abc予想は実例のすべての列挙の範囲を超えている。望月はabc予想を楕円曲線のより広くより豊かなフレィムワークの中に置くことにより始めた。そこでは幾何学的ツールが利用出来た、もしくは展開可能だった。
IUT論文の2012年リリースまでの望月の行程の一部分は彼がFrobenioidと呼ぶ構造の詳細な研究を含んだ。グロタンディークのトポスと概念的に類似だけれども、Frobenioidはトポスよりもより豊かで異なる趣の並びに入って来る。これすべてが気づかれずに発生したから、興味を持ったかもしれない他者から何の注目も受けなかった。Frobenioidに関する望月の研究はIUTの必要条件として与えられている一方で、その多くが一般論であり、彼の証明にとってあまり必要ではない9。これは大部分の困難で興味のある問題に対する明確な径を奪うことになる。通常の場合、背景の題材は他の数学者達によって急襲を受け、異なる視点から解釈されて更に簡略化し、他の目的に応用される。これは主にグロタンディークの革命と共に発生したことだ。望月の研究は大部分注目されず、外見上は理論を作ることに他者達を引き込まずに彼はどんどん進んだ。
文化的かつ地理的孤立が望月を不利にして来ていることはあり得る。望月は完璧に英語が流暢だが、京都を出たがらない。出来ることを解決するため作業は継続中である。大きな効果は無いけれども、複数のコンフレンスが最近に望月のIUT論文とそれらの先駆けに専念している。出席者達はあまりに大量の題材があまりに短い時間に詰め込まれており、エクスパート達によるちょっとの間の質問のための融通性が無いと言っている。何人かの数学者達は解説をしようと企てて来ている。数論幾何学者Taylor Dupuyは背景の題材を扱うため2015年に映像ブログを始めた10。6か月の間に彼は問題の核心にあまり到着することなしに約36本のヴィディオゥを作った。Dupuyは最近再び動き出し、異論のある系3.12からの不等式に的を絞っている11。望月の不等式の意義は標準的な数論的用語を使って一時間の長さのヴィディオゥを要した。背景の前提についてはもう一時間要した。
二人の達人に役立つこと
数学的解説は、それが効果的ならば、難解なアイディアの直感的構図とそれらの意義の詳細な技術的記述の両方を与えるはずである。ベストな作家達は縫い目なくこれをする。望月の論文は非常に技術的で非常に多くのアナロジ、喚起させる比喩的表現、隠喩も含む。標準の数学用語が新語に屈する時代がある。彼は"従来のスキーム理論の2つの互いに異星人なコピーは一緒にのり付けされる"12と書いている。彼は彼のテクニークを"環の2つの基礎を成す組合せ次元を分解する[強調はオリジナル]"13と表現する。数学者にとってさえ、これらは啓発的な表現ではない。
そんな面白くもない隠喩は疎遠感を蔓延させることにつながる。
ショルツも数学の中に新しいオブジェクトと構造を導入して来ている。最も有名で影響力のあるものはパーフィクトイド空間14だった。これらは長年の未解決問題を解くため、複雑な証明を簡略化するため、重要な定理の範囲を拡大するためにすぐに数学者達に使用された。パーフィクトイド空間は世界中のセミナで研究された。2018年の終わりまでに、MathSciNetは広い範囲の一流ジャーナルに掲載された語"パーフィクトイド"を使っている47本の論文をリストした。これを書いている時点でMathSciNetはFrobenioidsに言及している3本の掲載された論文をリストしている。すべてが望月によるものだ15。
"私が最も気をつけていることは定義に関してだ"16とショルツは書いた。完璧かつ連想させる名前、そしてそれが表す概念の正しい定義にたどり着くことは芸術である。正しい学術用語と表記が生じる時、驚くほど生産的になる得る。望月とショルツはどちらも新しい定義と概念を導入して来ている。各々がある意味でグロタンディークの勧告に倣っている。つまり、硬い数学的木の実を金槌で砕くよりも、それを皮がむけるほど十分柔らかくなるまで水の中に浸しておく。望月の研究が望まれる効果を持つかどうかはまだ分からない。もし彼が成功するなら、Frobenioidとホッジ劇場の理論はそれまでよりももっと詳しく分析され、検討されるだろう。しかし、山下剛が指摘して来ているように、IUT論文の最初の3つでの構築は単一のアルゴリズムを形成している。すなわち、定理3.1117の多輻的アルゴリズムである。定理3.11が直接に系3.12につながり、系3.12が問題の核心だから、abc予想全体を除いて何の結果が達成され得るのか未だ明らかではない。
形式的オブジェクトとして証明は正しいかそうでないかのどちらかである。しかし、殆どの数学者達は形式的証明18を扱わない。プロフェショナルなレベルでの形式的証明は特殊化されたコンピュータ言語とソフトウェアを使って生み出されている。望月論文のリリースの後、何人かの数学者達は彼の結果の形式的コンピュータ証明が展開され得るだろうかと思った19。いつでもすぐにというわけではない。もっとも明らかな理由のためだ。形式的コンピュータ証明は最初に望月の研究を理解するために数学者達を必要とする20。Kevin Buzzardに指揮された数学者達とコンピュータ科学者達のティームはパーフィクトイド空間のショルツの定義を形式化する企てをしている。まだアディク空間理論の部分を構築する必要がある事業だ。数十年に渡って展開された概念と定義を含む研究である21。ホッジ劇場の望月の定義の形式化はもっと気力をくじくような仕事だ。
命題が5ペィジ以上に達するIUTの定理を形式化することは至難だ。
形式的証明が無いから、ショルツとスティクスによって述べられた躊躇いは非専門家達にしっかり捕まえておくべき何かを与えた。"世界のかなり離れた地域で私が知る人達から頼んでもない電子メィルを受けた"とコンラドは言った。そして"彼等の各々が彼等自身でIUT論文を研究し、彼等が非常に難解だと思った特定の証明の所までは大体理解出来たと私に言った"22。その特定の証明はもちろん系3.12のそれであった。
それにもかかわらず、望月の研究を熱心に研究して来ている少数の数学者達がおり、かなり断固としてそれが正しいと断言する23。望月自身がそれを書いている。
IUTchは2012年8月のIUTchに関するプレプリントのリリースから、この研究を専門とする数学者達の集まり(私自身を含まない)によって何度も何度もチェクされ、確認され、読まれては再読され、セミナにおいて全部引用して詳しく口頭で述べられて来ている[強調はオリジナル]24。
誰も繰り返されるクルト・ヒーグナのストーリを見たいと思わない。ドイツの学校教師ヒーグナは1952年に数論における類体問題を解決した主張する論文を発表した25。彼の証明は致命的に誤りだと見なされた。"議論は完全性に、本質にさえも相当な疑いを残すほど非常に曖昧に書かれていた"26とアルフレッド・ファン・デル・ポールテンは言った。後で判明した通り、ヒーグナは正しかった。彼の本当の貢献は"今日まで非常に認められている"とファン・デル・ポールテンは付け加えて言う。痛切な疑問が残る。"彼の貢献が彼の生涯で認められなかったことが恥じるべき不祥事だったのか?"27 ファン・デル・ポールテンはそうではないと考える。
驚くべき主張が正当な審議を受けようとするなら、まともな数学者は大多数の言語(他の数学者達に期待される言語)で明快な議論を書く方が最もいい。それは不公平ではない。それが私達の確率の考慮なのだ28。
証明が正しいことと理解されることは全く別ものである。1976年にケネス・アペルとヴォルフガング・ハーケンは四色定理の証明を発表した。彼等の証明は本質的に巨大場合分け計算だった。チェキングをするためにコンピュータに頼った29。彼等の証明は定理が正しい理由を説明しなかった。当時は誰も知らないし、今も誰も知らない。それがまさにそうだ。続いて起こった論争に関して書いている間に、ウィリヤム・サーストンは1994年に論争が"定理の真実性または証明の正確性に関して人々が持った疑いに殆ど関係が無い"と書いた。アペルとハーケンが満足を与えられなかったことは"定理が真であるという知識に加えて、人間が証明を理解していることに対して続いている願望[強調はオリジナル]"30だった。現在の場合、望月の証明を理解し、それが正しいと信じると言う人々が殆どいないので私達は人間が理解しているということを伝えられそうもないという点で2重に不利な立場にいる。
構造的思考
3月会合に対する望月の反応を含むリポートにおいて、ショルツとスティクスがきちんと認識出来なかったらしい幾つかのポイントを望月は議論した31。リポートは一世紀以上の間に軌道に乗って来ている数学の傾向を望月がある程度拒絶していることを証明しているので興味深い読み物になっている。ダフィト・ヒルベルトはかってユークリド幾何学のオブジェクトを本質的なものではないとして取り合わなかった。"いつでも人は'点、直線、平面'を'台、椅子、大カプ'で置き換えられるはずだ"32とヒルベルトは言った。これらの所見は数学的伝説の一部になっている。ヒルベルトは自身で幾何学のための公理的システム、つまり定義、仮定、共通概念のユークリドのシステムにおける微妙な欠陥を埋めるシステムを構成した。ユークリドは或るオペレィシュンを正当化するために実世界の直感に頼った。ヒルベルトはすべてものが公理によって識別されることを願った。公理が与えられ、それらが支配するオブジェクトの詳細な識別は無関係だ。この種の構造的思考は19世紀の終わりに勃興した。初期で有名な例は1888年にさかのぼり、リヒャルト・デーデキントがWas sind und was sollen die Zahlen?(数は何であり、何であるべきか?)を刊行した時である。大体同じ時のジュゼペ・ペアノと同様にデーデキントは自然数の公理的定義を提案した。彼は無限集合と任意の写像の注意深い説明を与え、そして彼が呼ぶところの"単純無限システム"を定義した。自然数が次に続いた。
変換φによって順序付けられた単純無限システムNを考慮して要素の特別な特徴を全く無視し、要素の識別性を単純に保持し、順序付け変換φによって位置付けされている要素間の互いの関係性だけを考えれば、これらの要素は自然数と呼ばれる[強調はオリジナル]33。
要素の詳細な識別は重要ではない。重要なのはNが自然数に要求された概念を満たすことだ。これは自明な問題ではない。デーデキントの公理を満たす任意のペア(N φ)は本質的にユニークだ。公理を満たす2つのペア(N1 φ1)、(N2 φ2)が与えられた時、φ1とφ2に互換な写像N1→N2は正確に一つだけ存在し、これは一対一かつ上への写像である。任意の自然数オブジェクトはユニークな同型写像までユニークだ。
アンリ・ポアンカレは1908年の国際数学者会議の講演で要点を上手く指摘した。すなわち"数学は異なる事柄に同じ名前を与える芸術である。...これらの事柄が、物質においては異なるけれども、形式において類似であれば十分だ"34。
類似の結果は実数に対しても真である。すなわち、体のユニークな同型写像まで唯一のデーデキント完備順序体が存在する。この厳密性を持たない数構成があり、結果として人がどの構成を使用しているのか特定する時に注意深くなければならない。体Fの代数的閉包はこの意味でユニークではない。代数的閉包の選択に依存する証明は選択が選ばれる時を示さなければならない。
キャテグリ理論
そんな構造を厳密にする現代的方法がキャテグリ理論だ35。キャテグリCはそれが含むオブジェクトとCでのオブジェクトのペアをつなぐ射によって定まる。射はそれら自体で2項結合オペレィシュンによって構成されていてもいい。そして、Cでの任意のXに対して恒等射X→Xが存在する。すべてではないが面白い多くの場合、キャテグリのオブジェクトが余分の構造を備えた集合であり、射はその構造に互換な写像である36。
キャテグリは同型なオブジェクト間を識別しないし出来ない。キャテグリの言語と構造のみを使用して、与えられたオブジェクトに関して指定出来ることは任意の他の同型オブジェクトにも当てはまる。このアイディアはとてもパワフルだが、但し条件付きだ。一つのオブジェクトXからもう一つのオブジェクトYへ情報を移すためには同型写像を選ばなければならない。その後Yに添付された情報はその選択に依存し得る。YがXそのものであることもあり得るが、この場合でさえ、同型写像によって移された情報が必ずしも元々のXに添付された情報と同等であるとは限らない。
キャテグリはそれらの間のオブジェクトと射から主に成っているのだから、Xに添付された情報は指定された射を通して殆どいつも他のオブジェクトとの関係から成っている。代数的閉包F━[訳注: 本当はFの真上にバーがある記号なんですが、F━で代用します]が体の指定された射F→F━により体Fに関して有効である。体の同型写像a:F━→Kが与えられた時、射F→F━→Kを通してKはFの代数的閉包であることが成立する。異なる同型写像b:F━→Kは一般的にKをFの代数的閉包と見なす違う方法を与える。
XとYが或るキャテグリのオブジェクトで{φi: X→Y}がXからYへの同型写像の集合とする抽象的な場合を考える。そんな集合は望月によって多重射と呼ばれている。XとYを同じと見なし得る方法の集まりという意味で私達はそれをYに添付された情報として見なすことが出来る。ある参照同型写像c:X→Yが与えられてcのもとでYをXで置換えると{c-1φi: X→X}となり、Xとそれ自身の同型写像の集まりである。cのみから成る始集合である特別な場合において終集合は単に{idX: X→X}となるだろう。ここでidXは恒等射である。しかし、そうでなければ結果は高度に非自明である。
この制限された代用性は構造的思考によって意味されていることであるが、考えるべき更に多くの微妙な点がある。よくあることであるが、非公式に解釈されて数学オブジェクトが忘却ファンクタによって関連付けられた様々な異なるキャテグリにおけるオブジェクトを引き起こす。キャテグリCのオブジェクトが或る加法的構造を持つ集合であり、射が構造互換な写像ならば忘却ファンクタU:C→Setが存在し、オブジェクトをその基礎集合へ、射を集合間で結果する写像へ送る。多くの他の例も様々なキャテグリ間で可能だ。体の場合に対しては、体Fと集合の同型写像U(F)→Sが与えられた時、唯一の体が存在し、その基礎集合がSであり、与えられた写像を通して体としてFと同型である。
例えば体F1、F2が与えられた時、体の間の射F1→F2から写像U(F1)→U(F2)が生じる必要が無いということに注目することは重要だ。一つの直接な邪魔は体の間の射は必ず一対一であることだ。集合U(F1)が集合U(F2)よりも大きいなら、体の射F1→F2は存在しない。
構造集合と関連する忘却ファンクタのキャテグリのこの仕組みは、十分に豊かな構造ではいろいろな段階で壊れ得る。与えられた忘却ファンクタC→Setがいろいろな忘却ファンクタに対する合成C→D1→D2→...→Setかも知れない。時には一部のオブジェクトの基礎集合のみならず、チェインの中のキャテグリの一つに対して基礎Dn-構造も考慮したい。望月の研究において考慮された典型的な場合が体に添付された純乗法的構造だ。これがモノイドと呼ばれるものの例だ。それでファンクタのチェインField→Monoid→Setがあり、そこでは一番目が加法的構造を忘却し、二番目が基礎集合を除いてすべてを忘却する。
キャテグリそれら自体は数学オブジェクトの例であり、キャテグリのオブジェクトを形成するために集められ得る。同等なキャテグリがサイズにおいて著しく異なり得る。厳密に言えば、デーデキント完備順序体のキャテグリは任意の集合内部で丁度いいものよりももっとオブジェクトを持つが、一つのオブジェクト(任意の特別な完備順序体)しか持たないキャテグリと同等である。完備順序体は厳密だから、これをするためには実際一つしか方法が無い。しかし、他のキャテグリに対しては、拵えるのに多くの選択があり、その選択は互換な方法で作られなければならない。時にはそんな選択を拵えることを避けることが最善であるが、望めば拵えることは可能だ。結局、同等なキャテグリのペアはキャテグリの概念のみを使って、それら自身の間を区別出来ない。従って、それがそんな同等性を確立する深い定理であり得るが、非常に非自明だ。
この思考方法は或る数学分野で、特にキャテグリ論が大規模に使われて来ている分野において益々堅固になっている。代数幾何学がそんな分野の一つだ。時にはあたかも同型オブジェクトが同じかのように気を付けて研究出来る。望月が記述する同型オブジェクトは何が何でも区別すべきであり、それらを区別するためにラベル付けすべきだと彼が主張する時、ボクサに自分の握りこぶしの使用を禁じるような感じを受ける。
ショルツとスティクスが彼等の懸念を述べている10ペィジの覚書は(予備知識があれば)詳細な審査リポート37のように読める。彼等の批判の中で、問題の核心を得ていると思える"ある過激な簡略化"に彼等は訴えているが、"そんな簡略化は望月の証明の中核を形成する興味深い数学全体を剝奪しているかも知れない"38ことも彼等は知っている。彼等は議論を簡略化するための目的で同型オブジェクトを同一視することを認めて来ている。異なるが同型な2つの数学オブジェクトを望月が与えている所では、ショルツとスティクスはそれらが同型であるという理由で一つだけを見ている。望月が禁じ手だと強く咎めているのはこれであり、彼自身の立証の中で幾つかの実例を与えている。その実例はそのように扱えば不正な結果になると彼が主張しているものだ39。しかし、望月は自己弁明の中でキャテグリ論における常識的な解釈に対して再び個人特有の定義を使う一方で、まだ標準の用語を使っている。
望月の不満のすべてが構造的性質に関しているわけではない。キャテグリ論は、
それ自体でトポロジまたは代数学における難しい問題を解かない。それは錯綜する多数の個々に自明な問題を一掃する。難しい問題をはっきり際立たせ、それらの解決を可能にする40。
それでも従事している遠アーベル幾何学(望月がエクスパートと認められいる分野)の微妙な側面がある。ショルツとスティクスによって入念に工作された過激な簡略化が忘却ファンクタの塔の或る段階の後のみで同型なオブジェクトを同一したことは全く可能なままだが、それらが考慮されるべきだった早い段階ではない。様々な必須互換性条件が破られて、オブジェクトのシステムがオブジェクトの更に簡単で異なるシステムと同一視されたのかも知れない。たとえショルツとスティクスの分析に欠陥があり、望月のキャテグリ的な変な癖が無害であるとしても、彼の論文がまだ破れ目、つまり検査されていない無害な思い込み、正当化出来ない存在命題(定理3.11または系3.1241に深く潜むabc型の大きさの破れ目)を持つかも知れない。これは注意深い研究と理想的には望月論文をもっと標準的な言語で書直すことによってのみ見つかるだろう。または、ヒーグナのように、望月はその他の私達が構文解析出来ない方法で証明を書いていたのに過ぎないかも知れず、時間が彼を正しいと証明するだろう。
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