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Don Blasiusによる志村五郎の思い出

志村五郎博士が2019年05月03日にお亡くなりになって早二年を迎えようとしています。私が志村博士の逝去を聞いたのは' 志村五郎博士著"The Map of My Life"のAppendixより"あの予想" 'を載せた直後ですが、日米の時間差を考慮するとほぼ同時間だったようです。その奇遇さには驚きました。 そして約一年後に Notices of the AMS が2020年05月に追悼記事 Memories of Goro Shimura (PDF)を掲載しました。これはDon Blasius博士を始めとする7人の数学者達が寄稿したものです。読まれた方もいらっしゃるかと思います。今回紹介するのはどれにしょうかと正直迷いました。7人の数学者達の寄稿すべてを紹介すると分量が多いので、ここは思い切って、志村博士の直弟子であり、7人の寄稿の中で一番長く、しかもいろいろな逸話も書いているDon Blasius博士の寄稿を選びました。この記事の中で私が部外者ながらも強く同意したのは、志村博士は書き方においてミニマリストだということです。つまり、余計なものを足さないし、かと言って余計には引かないことです。これは簡単なようで難しいことです。私が志村博士の英文を好むのはこれだったんだと納得しました。 いずれにせよ、その私訳を以下に載せておきます。なお、参考文献欄は例のごとく省いています。 [追記: 2021年04月01日] Memories of Goro Shimura (PDF)については他にも肥田晴三博士による追悼記事も追加しました。" Haruzo Hidaによる志村五郎の思い出 "を参照して下さい。 志村五郎の思い出 20世紀の後半の数論に大きな影響を与えた数学者、志村五郎は1930年02月23日に日本で誕生した。60年に及ぶ経歴に渡って、彼は新しい方針の研究を活気づけ、その分野の発展に中心的役割を果たす変革的発見を何度もした。志村は東京大学で学位を受け、東京大学と大阪大学で職位を占めた。彼は1964年から1999年に退職するまでプリンストン大学で教授だった。数多くの本と論文を著わし、1970年にGuggenheim Fellowship、1977年にCole Prize in Number Th

ツォルンの補題の使い方

私の友人共の一人が代数構造の講義を受け持った時に学生から訊ねられたことがある愚かな質問の一つが単位イデアルが素イデアルからも極大イデアルからも除外されている理由でした。そんなことはちょっと考えれば分かりそうなもんだがなぁと友人は嘆いてました。そこで、これに関して少しばかり解説しておきます。 可換環 R の単位イデアルと言うのは R そのもののことです。念のため素イデアルの定義を述べると、 R のイデアル I (≠ R )は、任意のa、b∊ R に対してab∊ I なら、a∊ I またはb∊ I が成立する時、素イデアルです。もし、 I ≠ R の条件を無視するなら R も確かに素イデアルです。ですが、そもそも可換環 R の話をしているのだから、前述の素イデアルの定義にそのまま当てはめると"任意のa、b∊ R に対してab∊ R なら、a∊ R またはb∊ R が成立する"は当たり前の話であり、何も言ってないようなものです。それでも R を素イデアルと見なすことに問題はなく、せいぜい素イデアルに関するいろいろな命題を述べる時にいちいち"単位イデアル R を除く"とかの但し書きが増えるだけでしょう。感染症対策みたいに最初の水際で遮断するか、後で症例が見つかるたびに隔離するかの違いだけです(どちらが面倒なのかは明らかで、水際で遮断出来るのがいいに決まってます)。 極大イデアルに関しても同様ですが、もっと深刻です。単位イデアルを極大イデアルと見なすと、いわゆる零環を体として認めるのかという話になります。単位要素を持つ可換環 R のイデアル I を法とする剰余環 R / I が体になる必要十分条件は I が極大イデアルであることは皆さんも御存知でしょう。ここで I = R なら R / R ={ R }となり、{ R }は零環{0}と同型なので、体の一般的定義の条件のうちの一つ、"体は零要素と異なる要素を持つ"ことに反します。そもそも、この条件は零環を体として認めたくないから体の定義に入っているのです。 以上で単位イデアルが素イデアルからも極大イデアルからも除外されている理由が分かったでしょう。二度とこんな下らない質問をしないことです。 さて話は変わって、今回紹介する記事はウィリヤム・ティモシ・ガゥワーズ卿のwe