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数学証明が社会協定である理由

かなり前に紹介した“ 証明支援系が一流数学へと飛躍する ” の前置きの中で御登場願った欧州某国の知人(非英語圏の方です)が来日を終えて無事に帰国したことを知らせてくれたので、その返信として月並みですが、 How did you like Japan ?と書き送ったところ、旅行記かと思う程詳細な感想を書き寄越してくれました。その最後のごく一部分をそのまま書けば以下の通りです。 Lastly, I was surprised that most Japanese people didn't understand English. I couldn't have enjoyed myself in Japan without you. I'm indebted to your help. If you're ever here, please feel free to contact me anytime. I'm looking forward to seeing you again. もっと補足すると、その欧州某国の知人(何回も言うようですが、非英語圏の方です)は日本で私と離れて行動する時に(私も24時間ずっと傍らにいることが不可能なので)、事ある毎に翻訳機等を日本人から顔に突き付けられるので、白けて I'm ok, thank you. と言って立ち去るしかなかったと言ってました。これに対する私の返信が以下です。 You aren't alone. Many other foreigners who've been to Japan often ask me why most Japanese people don't even understand English despite having had an English education for at least six years (nearly ten years, including the time spent in university or college). Only can I answer that they're gormless and haven't even studied other subje

爆撃されるユクレインの諸大学からの声

 位相空間𝙓が連結であるとは、𝘼≠∅, 𝘽≠∅, 𝘼⋂𝘽=∅となるような、どんな開集合𝘼と𝘽を持って来ても、𝙓≠𝘼∪𝘽が成り立つことです。これは位相の講座を履修したことのある人なら誰でも知っていることでしょう。ところが、前述のような𝘼と𝘽が閉集合であっても同じことが成り立ち、更にもっと簡略な言い方をすれば、開集合且つ閉集合であるような集合は𝙓と∅以外に存在しないことと言ってもいいことを何回説明しても理解出来ない学生がいると友人共の一人から聞きました。そこで、これに関して少しばかり解説しておきます。𝙓が連結でないなら、𝘼⋂𝘽=∅となるような空でない開集合𝘼と𝘽があって、𝙓=𝘼∪𝘽となります。これを、ここでは𝙓は空でない開集合𝘼と𝘽に 分離される と言うことにします(正式な言い方なのかどうかは知りません)。先ず最初に𝙓が開集合に分離されていると仮定すると定義により、開集合𝘼と𝘽があって、𝘼≠∅, 𝘽≠∅, 𝘼⋂𝘽=∅, 𝙓=𝘼∪𝘽となります。ここで𝘼と𝘽は各々開集合なので、(𝙓∖𝘼)と(𝙓∖𝘽)は各々閉集合です。ところが、(𝙓∖𝘼)=𝘽, (𝙓∖𝘽)=𝘼なので、𝙓=𝘼∪𝘽=(𝙓∖𝘽)∪(𝙓∖𝘼)。結局、開集合に分離されることは閉集合に分離されることになります。その逆、つまり閉集合に分離されるならば開集合に分離されることも、𝘼と𝘽が各々閉集合だと始めに仮定して、先程の説明の中の開集合と閉集合の役割を交換すれば同様に成立します。開集合に分離されることと閉集合に分離されることが同値なので、開集合に分離されないことと閉集合に分離されないことが同値ということになります。以上で、分離されないこと、すなわち連結の定義の中の開集合を閉集合で置換えても問題ないことが分かったでしょう。次に、先程の説明をよく見るならば、𝘼と𝘽が開集合且つ閉集合であり、それらは𝙓でも∅でもありません。𝘼と𝘽のような開集合且つ閉集合が存在するなら、開集合(又は閉集合)に分離される、すなわち連結でないことを意味します。逆に連結でないこと、すなわち開集合(又は閉集合)に分離されるならば、𝙓でも∅でもない𝘼と𝘽のような開集合且つ閉集合が存在することも先程の説明を見れば明らかでしょう。すなわち、

決して構築されることのなかった最も重要なマシーン

複素数体上の正方行列𝑨はJordan標準形𝑱と相似である、すなわち或る正則行列𝑷が存在して𝑷 -1 𝑨𝑷=𝑱となることは線型代数講座の最終目標でもあるから、講座を履修したことがある人なら誰でも御存知でしょう。ところが、私の友人共から言わせれば殆どすべての学生達はJordan標準形の証明を少なくとも講義時点で全く理解していないと言ってました。それが証拠に、Jordan標準形の講義終了後に具体的な正方行列のJordan標準形を求めよと言っても、殆どすべての学生達は出来ないでしょう。また日頃から知ったかぶりで線型代数を環上の加群の一理論に過ぎないと軽視して講義をおろそかにしている学生連中が蓋を開けてみれば全く出来なかったことも言ってました。Jordan標準形の証明は① 広義固有空間に基づくもの(冪零空間を扱っているものも同義)、② 有理標準形を経由するもの、③ 単因子標準形を経由するもの、等があります。どれも長くて決して簡単ではありませんが、分かりやすさの度合いでは①が最低最悪です。①が分かりにくい一つの理由として読者に若干の視覚的直観を強いるからだと私は思います。歴史的に言うと①を避けたくて②又は③が考案されたのでしょう。しかし、①を本当の意味で理解すれば、Jordan標準形の本質も理解したことになり、Jordan標準形の算出も簡単に出来るはずなんです。残念ながら②又は③は間接的なので、それらの証明を理解してもJordan標準形の存在証明を理解したに過ぎず、Jordan標準形の本質を理解したことにはなりません。①は多少の違いや書き方の差はあれど、あれ以上は実質的に簡単になりません。私もかって①の基本線に沿って分かりやすい(自己基準)と思った証明を書いたことがありましたが、友人共から言わせれば返って不透明になったとボロクソに言われました。その時以来、①を改良しようなどと考えたことがありません。要は冪零空間を扱っている限りどれも似たり寄ったりということです。従って、皆さんも講義時点では①を理解出来なくても心の中でいつも①を反芻しておれば、いつかは証明と親密になる時が来るはずです。その時がいつ来るのか個人差があり、そもそもそれではその時までJordan標準形をずっと使えないままになるので、Jordan標準形の算出方法(と言うか、大事なのはJordan標準形そのも

“数学問題は親密なものだ”

 実数の数列が収束する必要十分条件がCauchy列であることは教養課程で微積分を履修したことのある人なら誰でも知っていることでしょう。新入生達が入学したてのほやほやの春に講義の中で実数の連続性に関連して習う代物です。収束数列がCauchy列であることは、どんな落ちこぼれの学生達でも証明出来ますが、逆命題のCauchy列が収束することの証明は意外と出来ない学生達がいるようです。昔、私の友人共の一人が微積分の講座を受け持った時に以下の問題を中間考査や某都道府県の数学科教員採用試験で出題したことがあります。 (問題) Cauchy列が収束することを示せ。但し、 有界単調数列は収束する ことを前提とする。 せっかく前提条件まで示されているのだから、何をしなければならないか分かっておれば誰でも簡単に解答出来るはずです。ところが友人の話によれば驚くくらい出来が悪かったようです。はっきり言って、中間考査で解答出来なかったならば兎も角も(入学したてなので情状酌量が考慮されます)、最終学年で志願したはずの数学科教員採用試験で解答出来なったら、大学で何を勉強して来ましたかと詰問されても致し方が無いくらいに基本中の基本の問題です。以下に初学者のために証明の解答例を書きますが、その前に証明の流れを把握しないと解答例をただ単にぼけっと眺めても分かるはずが無いので少しばかり解説しておきます。 証明には以下の3つの要点があります。① Cauchy列は有界である。② Cauchy列から作られる単調数列の極限である上極限(又は下極限)の存在 ③ Cauchy列がその上極限(又は下極限)に収束する。つまり、数列が収束する時かつその時のみ上極限と下極限は一致する。 先ず①が無ければ②に進みようがありません。有界単調数列が収束することが前提条件なのはそのためです。上極限・下極限のイメィヂを把握出来ない人は、上極限を最大の集積値、下極限を最小の集積値だと思っても結構です。上極限が最大の集積値であることは大昔に紹介したことがある記事“ 証明の不滅 ”の前置きで私が証明を与えていますので、それを参照して下さい。下極限についても数列の各項の符号を反対にして考えればいいだけの話なので、上極限に関する証明を参考に御自身で考えたらいいでしょう。どんな極限値も集積値ですから③は集積値が一意に定まることを示しています。つま

何故、証明するのか?

 このところ、“ 証明支援系が一流数学へと飛躍する ”、“ 数学者達は‘大統一’理論におけるコンピュータ支援の証明を歓迎する ”と立て続けに証明支援系に関する記事を紹介して来ました。私の友人共や海外の知人達とも話し合った結果、現在の数学ヂャノゥの査読制は匿名を隠れ蓑にして客観性に問題があること(つまり、外的圧力から査読者を保護する為に匿名性が本来あるのにも拘わらず、これを逆に悪用して論文著者に便宜を図る査読者がいること、客観性が疑われる査読者がいること等々挙げればきりがありません。本来あるべき査読制について興味ある人は、世界の頂点である Annals of Mathematics 誌がどのようにしているか調べたらいいでしょう)、そして良識ある真面な査読者に大きな負荷がかかることを考慮して、査読の代わりに証明支援系を導入するようになればいいという結論に達したことが理由です。勿論、現行の証明支援系の技術では人的労力が余りにも大きいので現実的ではありませんが、単なる技術的問題に過ぎないので将来的には気軽に使用出来る日も近いことでしょう。そこで、更に第三弾として、Princeton University Pressに掲載されたJohn Stillwell博士の Why prove it? を紹介します。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2024年04月09日] いわゆる証明とは何かを議論している記事として、他にも“ 数学証明が社会協定である理由 ”があります。 何故、証明するのか? 2022年12月13日 John Stillwell 昔、数学入門クラースで一人の学生が私に質問した。“何故、貴方はすべてを証明するのですか、私達にただ話すだけにしないのですか?”。それ以来、私はその質問を熟考している。一つの歯切れよく賢明な答えは、 The Nature and Meaning of Numbers として英語に翻訳された、Richard Dedekindによる1872年の本の序文の中で以下のように与えられた: 科学において、証明出来ることを証明無しで認めるべきではない。証明が実際どのように 働く かを上手く説明している答えがJohn Aubrey著の愉快で一風変わった本 Brief Lives の中で17世紀の哲学者Thomas Hobbesの次のような逸話にある。

数学者達は‘大統一’理論におけるコンピュータ支援の証明を歓迎する

ペータ・ショルツェ博士が証明に対して実に真摯なことは、前に紹介した“ 証明支援系が一流数学へと飛躍する ”を読んだ人なら良く分かっただろうと思います。ブルバキの言葉を引用するまでも無く、古代Greeceの昔から数学とは即ち証明なんです。自らの証明に何らかの違和感を持つ場合は勿論のこと、他者から証明に疑念を持たれること自体が数学論文としては失格なんです。証明をないがしろにすることは数学をないがしろにすることと同義です。証明が自明であるという陳述だらけの論文をどこかで見たことがありますが、数学への冒涜以外の何ものでもありません。そういうものを好きな人は哲学又は宗教学をやればいいのではないでしょうか。 “ 証明支援系が一流数学へと飛躍する ”はどちらかと言えば、ショルツェ博士に焦点を当てた記事でした。もう少し他の関係者にも触れた記事として Nature 誌に掲載された Mathematicians welcome computer-assisted proof in ‘grand unification’ theory があります。私はこちらの方がいわゆる群像劇という意味合いで面白かったように思います。その記事の私訳を以下に載せておきます。 数学者達は‘大統一’理論におけるコンピュータ支援の証明を歓迎する 証明支援プロゥグラァムは抽象的な概念を処理して、数学でのソフッウェアのより大きな役割を明らかにしている。 2021年06月18日 Davide Castelvecchi ペータ・ショルツェは現代数学の大部分を再構築したいと思い、その基礎から始めている。彼の探究の心臓部に対する証明が正しいことを思わぬ情報源から受けている。すなわち、コンピュータである。 殆どの数学者達は彼等の専門職の創造面にいつでもすぐにコンピュータが取って代わるだろうことに懐疑的であるけれども、何人かの数学者達は彼等の研究において科学技術が益々重要な役割を持つことを認めている。そして、この特別な偉業が証明支援系を認めることへの転換点となるだろう。 数論学者ショルツェは独逸のボン大学(そこに彼は本拠を置いている)での一連の講義において大掛かりな計画(コゥペンヘィゲン大学のDustin Clausenとの共同研究)を述べた。その二人の研究者達はそれをcondensed mathematics[訳注: 凝縮数

切り詰めた草稿

2022年01月13日にグロタンディーク氏の Récoltes et Semailles (以降 R&S と略記します)がやっと仏蘭西でGallimard社から出版されたことは皆さんも御存知でしょう。これはグロタンディーク氏がお亡くなりになり、それと前後して同時代の有力数学者等の関係者も故人となっているので遅かれ早かれ出版されるであろうことは誰もが予想していたことでした。しかし、文芸出版の老舗であるGallimard社から出版されることは少なくとも私には予想外でした。Gallimard社は R&S をノンフィクシュンではなく、あくまで創作物と見なしているのかも知れません。だから、ひょっとして訴訟沙汰になるかも知れぬ作品の出版を決断したのでしょう。 そうは言っても、関係者全員が故人になったわけではなく、例えばグロタンディーク氏が執拗に攻撃した弟子筋ではドリーニュ博士等がご健在だし、気の毒にも全く的外れの攻撃対象になった日本の柏原正樹博士もいらっしゃるし、よく出版を決断出来たなぁと感心してたら、仏蘭西の知人がそれらの人達はグロタンディーク氏よりも年下だけど遥かに大人だよと書いて来ました。勿論Gallimard社はプロの出版社ですから、用意周到に何年も前から関係者各位に根回しをしたことは間違い無いでしょうが、確かに上記の人達が大人でなければ成立しません。 さて、今回紹介する記事は Inference に掲載されたPierre Schapira博士の A Truncated Manuscript です。これは出版された R&S を書評対象とするリヴューです。Schapira博士と言えば、佐藤幹夫博士を頭とする、いわゆる佐藤学派の擁護者としても有名であり、柏原正樹博士との共著 Sheaves on Manifolds を読んだ人も多いことでしょう。  Schapira博士は出版された R&S にはグロタンディーク氏の追記と脚注の最新のものが含まれていないことを疑問視しています。仏蘭西の知人ともe-mailで議論した結果、私はそれは止むを得ないのではないかと思います。 R&S はinternet上にいろいろな海賊版が出回っており、どれが正本なのか、科学捜査でもしなければ判定出来ないくらいです。また、追記と脚注がグロタンディーク氏本人のもの