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“数学問題は親密なものだ”

 実数の数列が収束する必要十分条件がCauchy列であることは教養課程で微積分を履修したことのある人なら誰でも知っていることでしょう。新入生達が入学したてのほやほやの春に講義の中で実数の連続性に関連して習う代物です。収束数列がCauchy列であることは、どんな落ちこぼれの学生達でも証明出来ますが、逆命題のCauchy列が収束することの証明は意外と出来ない学生達がいるようです。昔、私の友人共の一人が微積分の講座を受け持った時に以下の問題を中間考査や某都道府県の数学科教員採用試験で出題したことがあります。

(問題) Cauchy列が収束することを示せ。但し、有界単調数列は収束することを前提とする。

せっかく前提条件まで示されているのだから、何をしなければならないか分かっておれば誰でも簡単に解答出来るはずです。ところが友人の話によれば驚くくらい出来が悪かったようです。はっきり言って、中間考査で解答出来なかったならば兎も角も(入学したてなので情状酌量が考慮されます)、最終学年で志願したはずの数学科教員採用試験で解答出来なったら、大学で何を勉強して来ましたかと詰問されても致し方が無いくらいに基本中の基本の問題です。以下に初学者のために証明の解答例を書きますが、その前に証明の流れを把握しないと解答例をただ単にぼけっと眺めても分かるはずが無いので少しばかり解説しておきます。

証明には以下の3つの要点があります。① Cauchy列は有界である。② Cauchy列から作られる単調数列の極限である上極限(又は下極限)の存在 ③ Cauchy列がその上極限(又は下極限)に収束する。つまり、数列が収束する時かつその時のみ上極限と下極限は一致する。

先ず①が無ければ②に進みようがありません。有界単調数列が収束することが前提条件なのはそのためです。上極限・下極限のイメィヂを把握出来ない人は、上極限を最大の集積値、下極限を最小の集積値だと思っても結構です。上極限が最大の集積値であることは大昔に紹介したことがある記事“証明の不滅”の前置きで私が証明を与えていますので、それを参照して下さい。下極限についても数列の各項の符号を反対にして考えればいいだけの話なので、上極限に関する証明を参考に御自身で考えたらいいでしょう。どんな極限値も集積値ですから③は集積値が一意に定まることを示しています。つまり、集積値が一つしか無いこと、すなわち収束なんです。解答例として(解答例1)と(解答例2)の2つを載せておきますが、初学者には(解答例1)の方が分かりやすいかも知れませんが、(解答例2)は上極限・下極限の意味を前面に出しており、私の好みです。もし、どちらの解答例も理解出来なかったら、理工系学部から文系学部へ転部することをお勧めします。

(解答例1) Cauchy列を{a𝑖}とする。Cauchy列の定義により、或る自然数𝑁が存在して𝑛≧𝑁ならば、|a𝑛-a𝑁|<1と出来る。すなわち、|a𝑛|<|a𝑁|+1。max{|a1|, |a2|, …, |a𝑁-1|, |a𝑁|+1}を𝛢とする。|a1|, |a2|, …, |a𝑁-1|, |a𝑁|のうちで、どれかが有界でないなら、それら高々有限個の項を始めに数列から除去しても数列の収束には何ら影響しないので、結局𝛢を有限と考えて良い。よって、すべての自然数𝑖について|a𝑖|<𝛢。つまり、{a𝑖}は(上にも下にも)有界である。{a𝑖}から𝛼𝑖=sup{a𝑖, a𝑖+1,…}を作れば{𝛼𝑖}が有界単調非増加数列であることは明らか。よって、有界単調数列が収束するという前提により{𝛼𝑖}はその最大下界に収束し、その値を𝛼(上極限と呼ぶ)とする。ここでついでに、下極限についても余談として言及しておきます。{a𝑖}から𝛽𝑖=inf{a𝑖, a𝑖+1,…}を作れば{𝛽𝑖}は有界単調非減少数列であり、前提条件により最小上界に収束する。その値を𝛽(下極限と呼ぶ)とする。次に𝛽≦𝛼であることを証明しよう。𝑖, 𝑗を任意の自然数とする。先ず𝛽𝑖≦a𝑖≦𝛼𝑖だから𝛽𝑖≦𝛼𝑖が成り立つ。𝑖<𝑗なら𝛽𝑖≦𝛽𝑗≦𝛼𝑗だから𝛽𝑖≦𝛼𝑗が成り立つ。𝑖>𝑗なら𝛽𝑖≦𝛼𝑖≦𝛼𝑗だから𝛽𝑖≦𝛼𝑗が成り立つ。つまり、すべての𝑖, 𝑗に関して互いの大小に関係無く𝛽𝑖≦𝛼𝑗が成り立つ。この右辺を一時的に止めて、𝑖を大きくすれば𝛽𝑖→𝛽だから𝛽≦𝛼𝑗が成り立ち、ここで𝑗を大きくすれば𝛼𝑗→𝛼だから𝛽≦𝛼が成り立つ。なお、念のために言えば、𝛼=𝛽ならば{a𝑖}は収束する。何故なら、任意の𝑖について𝛽𝑖≦a𝑖≦𝛼𝑖が成り立つからである。

さて、話を元に戻します。任意の正の実数𝜀に対して、或る自然数𝑁が存在して𝑛≧𝑁ならば、a𝑁-(𝜀/2)<a𝑛<a𝑁+(𝜀/2)だからa𝑁-(𝜀/2)は{a𝑛, a𝑛+1,…}に対する下界の一つであり、a𝑁+(𝜀/2)は{a𝑛, a𝑛+1,…}に対する上界の一つであり、更にa𝑁-(𝜀/2)が{𝛼𝑛, 𝛼𝑛+1,…}に対する下界の一つでもあるので、𝑛≧𝑁ならばa𝑁-(𝜀/2)≦𝛼≦𝛼𝑛≦a𝑁+(𝜀/2)が成り立つ。よって、𝑛≧𝑁ならば、|a𝑛-𝛼|=|a𝑛-a𝑁+a𝑁-𝛼|≦|a𝑛-a𝑁|+|a𝑁-𝛼|<(𝜀/2)+(𝜀/2)=𝜀。つまり、|a𝑛-𝛼|<𝜀であり、これはCauchy列が𝛼に収束することを示している。以上で議題は証明されたが、初学者のために下極限を使う証明も次に書いておきます。

任意の正の実数𝜀に対して、或る自然数𝑁が存在して𝑛≧𝑁ならば、a𝑁-(𝜀/2)<a𝑛<a𝑁+(𝜀/2)だからa𝑁-(𝜀/2)は{a𝑛, a𝑛+1,…}に対する下界の一つであり、a𝑁+(𝜀/2)は{a𝑛, a𝑛+1,…}に対する上界の一つであり、更にa𝑁+(𝜀/2)が{𝛽𝑛, 𝛽𝑛+1,…}に対する上界の一つでもあるので、𝑛≧𝑁ならばa𝑁-(𝜀/2)≦𝛽𝑛≦𝛽≦a𝑁+(𝜀/2)が成り立つ。よって、𝑛≧𝑁ならば、|a𝑛-𝛽|=|a𝑛-a𝑁+a𝑁-𝛽|≦|a𝑛-a𝑁|+|a𝑁-𝛽|<(𝜀/2)+(𝜀/2)=𝜀。つまり、|a𝑛-𝛽|<𝜀であり、これはCauchy列が𝛽に収束することを示している。結局、収束するなら𝛼=𝛽。以上で議題は証明された。(完)

(解答例2) Cauchy列{a𝑖}が有界であること、及び上極限𝛼と下極限𝛽の存在は(解答例1)にある通りで既知とする。任意の正の実数𝜀に対して、𝛼-𝜀<a𝑛≦𝛼𝑛となるようなa𝑛は無数に存在する。もしそうでないとすると、つまり𝛼-𝜀<a𝑛≦𝛼𝑛となるようなa𝑛が高々有限個しか存在しないことになり、或る自然数𝘔が存在して𝘮≧𝘔ならば、すべての𝘮についてa𝘮≦𝛼-𝜀が成り立つ。これは𝛼𝘮≦𝛼-𝜀を意味し、{𝛼𝑖}が𝛼に収束することに反する。下極限𝛽に関しても同様だが、念のために書いておく。任意の正の実数𝜀に対して、𝛽𝑛≦a𝑛<𝛽+𝜀となるようなa𝑛は無数に存在する。もしそうでないとすると、つまり𝛽𝑛≦a𝑛<𝛽+𝜀となるようなa𝑛が高々有限個しか存在しないことになり、或る自然数𝘛が存在して𝘵≧𝘛ならば、すべての𝘵について𝛽+𝜀≦a𝘵が成り立つ。これは𝛽+𝜀≦𝛽𝘵を意味し、{𝛽𝑖}が𝛽に収束することに反する。以上で、𝛼-𝜀<a𝑛≦𝛼𝑛, 𝛽𝑛≦a𝑛<𝛽+𝜀となるようなa𝑛が無数に存在することが分かった。さて、ここで𝛼>𝛽ならば、𝜀=(𝛼-𝛽)/3とする。この𝜀に対して、或る自然数𝑁が存在して𝑖, 𝑗≧𝑁ならば𝛼-a𝑖<𝜀, a𝑗-𝛽<𝜀, -𝜀<a𝑖-a𝑗<𝜀だから、𝛼-𝛽=(𝛼-a𝑖)+(a𝑖-a𝑗)+(a𝑗-𝛽)<𝜀+𝜀+𝜀=3𝜀=𝛼-𝛽となり、矛盾する。よって𝛼=𝛽でなければならない。すなわち、Cauchy列{a𝑖}は収束する。以上で議題は証明された。(完)

上述の解答例を見て、何としてでも単調数列を作り、その極限として上極限(下極限)が存在することの意味を初学者には噛みしめて欲しいと思います。私は数学史に詳しくないのですが、上極限(下極限)の存在に初めて気づいたのはCauchyだと思います。Cauchy列(又は基本列とも呼ばれます)の収束性を吟味している間に気づいたのでしょう。Cauchy列が収束することは実数の完備性とも呼ばれており、定理としてではなく、公理として採用されることもあります。完備性は距離的概念であり、位相的概念ではないことにも注意すべきです。当たり前のことですが、完備性は距離函数を持たない位相空間では無意味であり、また同値な距離(つまり、二つの距離函数が同じ開集合を定める)を持つ距離空間においてさえも一方の距離に関して完備であるが、もう一方の距離に関して完備ではないこともあり得るのです。従って、或る意味で実数体は非常に特殊な数学構造だと言ってもいいでしょう。そして、完備性の重要性は極限値を知ることなく、収束を判断出来るところにあることは言うまでもありません。

さて、今回紹介する記事はまたまたMaryna Viazovska博士へのインタヴュー記事“A maths problem is an intimate thing”です。何故、これを選んだかと言うと題名が気に入ったからです。研究途中にも拘わらず、ペラペラと軽薄にも世間に喋り倒す輩が多い中で、Viazovska博士は数学問題は彼女にとって親密なもの、私の解釈では私的なものだと言っているように思うからです。難しかろうが簡単であろうが、小中高又は大学学部レヴォゥであろうが、どんな数学問題でも問題と親密にならなければ決して自力で解けません。ともかくも、その私訳を以下に載せておきます。なおViazovska博士については他にも“欠乏、そして戦争と平和の時代に一人のユクレイニヤンが数学に魔力を見つける”、“IMU Fields賞 2022 Maryna Viazovska インタヴュー”があります。

数学問題は親密なものだ

2022年、Maryna ViazovskaはFields賞、すなわち数学で最も賞賛される賞を授与された。EPFL[訳注: École polytechnique fédérale de Lausanne (瑞西)連邦工科大学ロゥザァン]の教授である若きユクレイニヤン人は彼女の研究、科学に関する展望、瑞西国会議員達との会合について語る。

2023年03月02日 Daniel Saraga

Fields賞を授与された時、どのように感じましたか?

勿論、大きな喜びだった。この賞を受賞する少数の人達の内の一人になることは光栄である。しかし、私は次のように矛盾した状態に気付いた。賞は私達の研究を報いてはいるが、私達に多くの簡略化を強く求めている。簡略化において、研究を価値あるものにしている技術的側面に私達は取組んでいない。

貴女が好む簡略化とは?

私は一人で数学をやることに少しばかり苦労している。しかし、私の専門について何も知らない人達に話すことは、私にとって完全に新しいことなので、非常に楽しい体験でもある。科学は不思議でなければならない、ですよね?だから私は次のように自問する。何故、これらの人達が私に訊きに来るのか?彼等は数学について何を知っているのか?彼等は何に興味を持っているのか?

2022年09月、貴女は他の瑞西人である2022年度Fields賞受賞者のHugo Duminil-Copinと共に連邦議会に招待されました。会合の貴女の印象は何だったのですか?

私が世間知らずなのかも知れないが、前向きな力強さと心からの興味を感じた。私の研究が中立で政治に関与しないからかも知れない。私達は国際的な共同研究と基礎研究の重要性、科学者達が政治家達に言える要望も議論した。私は未来の有用性に関して基礎研究を正当化したくない。基礎研究が私達を少しばかりのんびりさせ、私達が今していること、私達が欲しいものについて考えさせるという事実が私は好きだ。私にとって、多くの問題が存続しているのは、私達の展望を実現するための道具を欠いているからではなく、私達が間違った展望を持っているからだ。

貴女の専門は球充填問題です。それは1998年に3次元において解決されただけでした。何故そんなに難しいのですか?

それは無限数の自由度を持つ最適化問題だからだ。その上、解法は一意ではない。3次元において最善の研究法は6角形の階層の積み上げだが、それを配列を壊さずに無数の方法に移行出来る。1950年代から以降、有限数のパラァミタ(それでも巨大な数であることが分かっている)を持つ問題を別の言い方で表現するためにいろいろな方法が発見された。

問題を解く方法を知っているなら、実のところ問題は既に解決されている

いつ8次元球の問題に取組んだのですか?

2014年。その時はBerlinのHumboldt Universityで私の博士課程修了後の課程だった。数学において成功するかどうかを決して知ることはないのだから、一種の賭け事だった。問題を解く方法を知っているなら、実のところ問題は既に解決されている。

貴女は24次元においても問題を解決しています。何故8と24なんですか?

これらの次元は特別な対称性を持つからだ。2001年、Harvard Universityの数学者Cohn とElkiesは8次元と24次元における球充填の密度を非常に正確にコンピュータで見積もったが、彼等が使っていた補助函数に対する明確な形式を与えられなかった。私の貢献はこの函数を見つけることだった。私は‘モデュラ形式’と呼ばれものを使ったが、それを私のPhD期間中に研究していた。幸運が働いた。

幸運?専門家達は貴女の研究法が非常に簡潔、非常に独創的であると書いています。

私の仕事は黄金掘りに似ている。いくつかの道具を得て、Alaskaに行き、採掘を始める。大量の粉末があり、運が良ければ、いくつかの小さな金塊を見つける。すなわち、公式、結果、いくつかの定理だ。数学において、私達はアィディヤ相手に研究するが、それらの殆どが死ぬ。正に採掘に似る。

私の研究法は少し無邪気だと思う。私が理解するのに十分に簡潔だが、私にとって根本的だと思える疑問を起こさせる問題を私は取組む。そして、私の持つ道具すべてと共に問題と格闘し、私が不足しているどんなものでも開発する。試してみることと問題点に関する大局的展望を得ることが必要だ。私は理論家と言うよりも問題解決者だ。

間近の計画について多くを言うのは好きではない、不運になる

何らか間近の計画はありますか?

私は幾何学的最適化を続けるだろう。無数の問題を持つ魅力的な分野だ。だが、間近の計画について多くを言うのは好きではない、不運になる。

それは迷信ですか?もしくは、競争相手が貴女の議題を盗むのではないかと不安なのですか?

少しばかり両方だと思う。数学問題は私自身の胸に秘めておきたい親密なものでもある。だが、高次元空間における球充填を研究するだろうことは言える。密度が0になる傾向があること、又は言い換えれば、次元が無限に近い時、球の間にますます空虚が増えることを私達は知っているが、この減少の速度が分からない。そして、最適な配列はおそらく無作為であり、低次元空間でのように構造的ではない。主要な未解決問題は以下だ。高次元空間において、無作為性が構造に勝るのか?

これが実用的使用になる可能性がありますか?

はい、情報理論に直結する。私達の送る伝言をどのようにして最も上手く密度を上げられるか、そして電送誤りの場合、どのようにして伝言を訂正出来るか?Claude Shannonの研究は各伝言に含まれているbit数は出来るだけ大きくなければならないことを示している。つまり、これは球の寸法に相当する。

過去について多くを訊く時、思い出が現実なのか、又は再構成されているのか知ることは困難だ

貴女は64人の中でFields賞を受賞した二番目の女性です。世間がこれに関して話をしている事実を貴女は好みますか?

いつか、この質問を訊かれないことを希望する。私自身のためではなく、数学のために!科学者達は必ず彼等の個性を研究に連れて来るから、多様性は重要である。30人の中で7人の女性教授がいるから、私の研究機関では状況はそれ程悪くはない。

貴女は旧ソ連のKievで育ちました。当時の貴女の思い出は何ですか?

大して無い。ソ連が崩壊した時、私は6歳だった…過去について多くを訊く時、思い出が現実なのか、又は再構成されているのか知ることは困難だ。

ユクレインでの戦争に貴女はどのように対処してますか?

私の妹達と彼女達の子供達は侵攻の始めにKievを去り、私達は彼女達を数ヶ月泊めた。今、彼女達は自身の家を持っている。私の祖父母はユクレインを離れたくないので、私達が彼等を助けられるであろうこと(暖房を含めて)すべてをやっている。

ユクレイニヤン研究組織と仕事しますか?

はい、今年の夏にKievにある私の母校Taras Shevchenko Universityを訪問した。母校で私は3年間オンラインコースを教えて来ている。

貴女の世界的名声が学生達を奮起させますか?

そこにいる人達にとって、私がどの程度お手本になっているのか分からない。私は彼等のような状況を経験してない。ともかくも、そこで教えている科学者達は人を非常に奮い立たせる人達だ。だが、外部からの支援を痛切に感じることが重要だと私は思う。数学が少しの間でも彼等に日常生活を忘れさせることを希望する。

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