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数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。
私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。
仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。
Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。
ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモロジーと言えば、トポロジーです。つまり、トポロジーにおける横断性の概念を代数の言葉に翻訳したものと考えられます。この横断性を表現しているのがファンクタです。先に、数学を専攻しなかった人が本当に理解出来るのか疑問視したのは、以上の理由からです。つまり、代数に降りた時点で、元々の動機や背景が浄化され、全く無味乾燥な概念へと変わっているので理解しにくいだろうと思うのです。しかしながら、必要不可欠な概念とまでは言えないようです。実際、"Algebra"の第4章ホモロジーの終わりの練習問題に面白い文章がありますので、以下に原文を簡単に紹介します。

Take any book on homological algebra, and prove all the theorems without looking at the proofs given in that book.
Homological algebra was invented by Eilenberg-MacLane. General category theory (i.e. the theory of arrow-theoretic results) is generally known as abstract nonsense (the terminology is due to Steenrod).
(私訳)
ホモロジー代数に関する本を取って、その本で与えられている証明を見ないで、定理全部を証明せよ。
ホモロジー代数はEilenbergとMacLaneにより考案された。一般カテゴリ論(すなわち、理論的矢線の理論)は一般的に抽象ナンセンス(その用語はSteenrodによる)として知られている。

Steenrod氏は、あの故Norman Steenrod博士のことです。トポロジーをやっている人なら知らない方は先ずいないでしょう。上記の引用を読めば、Lang博士が小馬鹿にしているように私は思います。つまり、ブルバキの人でも抽象ナンセンスを嫌悪していたのですね。
この文章で私が連想したのは、故V.I. Arnold博士の"On teaching mathematics"という文章でした。皆さんはArnold博士を御存知でしょうか。ヒルベルト第13問題を解決したことでも有名ですし、日本では著書"古典力学の数学的方法"や"常微分方程式"で馴染みがあるかも知れません。
このArnold博士の文章は反ブルバキに徹しています。私は或る程度の抽象化は止むを得なく思っていますが(対象物が抽象化されるが故に数学が誕生したのだと思っています)、物理学等の他の自然科学との乖離はよくないという説には大賛成です。
もう一つ、Arnold博士の文章を思い出した動機があります。親族の高校生の話によれば、今は高校で微分方程式(しょせん求積法の範囲を超えないとしても)を教えないそうです。これには腹が立ちました。高校の数学と物理の完全分離は昔からですが、それでも微分方程式を知ってから物理の公式の意味が理解出来た人も多いと思います。微分方程式がないなら、何故微積分を高校で教えるのか理解に苦しみます。
今春から教壇に立つ人もいらっしゃるでしょうから、お願いしたいことがあります。指導要領に縛られて勝手なことを出来ないことは私も知っています。ですが、融通を利かして少しでも数学と物理の関係にヒントを与えるようにしてほしいと思います。
前置きが非常に長くなりました。V.I. Arnold博士の文章の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2011年04月07日]
私の前置きの文章を読んで誤解している人も見受けられたので補足します。
Lang博士(勿論、私も)はホモロジー代数を否定してません。私が卒業研究で専攻した多変数解析函数論でもホモロジー代数は使われおります。抽象ナンセンスと言って否定的なのは一般カテゴリ論です。ただし、その概念を駆使して偉大なる理論を構築出来る人を除きます。例えば、偉大なるグロタンディーク氏はまさしく、そういう方です。
グロタンディーク氏ほどの大天才でもない、二三流の数学者が真似をするのは滑稽を通り越して阿呆に見えます。
まして、数学者でもなく、数学科でもなく、もしくはそれ相応の訓練も受けていない人がカテゴリ、カテゴリと大騒ぎする(これも一種の阿呆のなせるわざでしょう)ほどのものではないということを言いたかったのです。

[追記: 2019年03月18日]
このペィジは2011年04月05日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

数学教育について
1997年3月7日 V.I. Arnold

数学は物理学の一分野である。物理学は実験科学で、自然科学の一分野である。数学は実験の手間がかからない物理分野だ。

ヤコビの恒等式(三角形の重さを一点に交わらせる)は、地球が丸いこと(すなわち、ボールと位相同相である)と同様な方法の実験的事実である。だが、より手間がかからないだろう。

20世紀の半ば、物理学と数学の分割が行われた。その結果は破滅的であると分かった。全ての世代の数学者が彼等の分野の片割れを、当然他の自然科学を少しも知らないで育った。彼等は最初に醜悪な学校似非数学を学生に、そして生徒に教え始めた(ハーディーの警告、醜悪な数学は太陽の元で根付かない、を忘れて)。

物理学から切離された学校数学は、教えるのにも、他の自然科学の応用にも適していないので、可哀想な生徒(ところで、彼等の何人かは大臣になった)とユーザの一部において、全世界的な憎しみが数学者に集まった。

劣等感で疲れ果て、物理学を理解出来ない未教育な数学者による醜悪な構築物は、奇数の厳格な公理的理論を思い出させる。確かに、そのような理論を造り、その完璧性と最終の構造(例えば、その中で奇数の項目の和と、任意の因子の積が定義されている)の一貫性を生徒に感心させることは可能であろう。このセクト主義的観点から、偶数は異端と宣告されるか、又は時間の経過とともに、いくつかの"理想的"オブジェクトで補完された理論の中に導入される(物理学と現実世界の必要性に応じるために)かの、どちらかだろう。

不幸にも、数十年間に数学教育で支配したのは、上記のような数学の醜悪且つ歪んだ構築物だった。フランスに始まり、この変態性は、最初に大学生、そしてすべての段階の学校生徒の数学基礎教育に広まる(最初はフランス、そしてロシアを含む他国で)。

"2 + 3は何ですか"の問題に対して、或るフランス小学校生徒は"足し算は可換だから、3 + 2"と答えた。彼は合計が何なのか知らなかったし、質問されたことすら分かっていないに違いない!

別のフランス生徒(私見では非常に分別がある)は、数学を次のように定義した。"一つの正方形があるが、まだ証明されていない"。

私がフランスで教えた経験によれば、大学生の数学の理解(エコール・ノルマル・シュペリウールで数学を教育された人達さえも。知性を持っているが、歪んだ子供達を私は不憫に思う)は、この生徒の理解と同様に貧弱だ。

例えば、これらの学生は放物面を見たことがなく、xy = z^2の方程式で表現される表面の形についての質問は、ENS(エコール・ノルマル・シュペリウール)で学んでいる数学を呆然自失させる。パラメトリック方程式(x = t^3 - 3t, y = t^4 - 2t^2のような)で与えられる曲線を平面に描くことは、学生には全く不可能な問題だ(そして、おそらくフランス人数学教授の大部分さえも)。

ロピタルの最初の解析テキスト("曲線を理解するための解析")に始まって、大雑把に言ってグルサーのテキストまで、そんな問題を解く能力(掛け算の九九ともに)は、すべての数学者の必要技術だと考えられていた。

"抽象数学"の内面的に歪んだ熱狂者は、すべての幾何(それを通して物理学と関係を持ち、数学の現実味の大部分を占める)を教育から追放した。グルサー、エルミート、ピカールによる解析テキストは最近、ジュシュー(Jussieu)のパリ第6、第7大学の図書館から旧式化している(従って有害)として棄てられた(が、私の仲介によって免れた)。

微分幾何学と代数幾何学(尊敬される数学者が専攻する)のコースを取ったことがあるENSの学生は、楕円曲線y^2 = x^3 + ax + bのリーマン面を知らないし、もっと言えば、曲面の位相的分類(第一種楕円積分と曲線の群論的概念、すなわち、オイラー・アーベルの加法定理であることは言うまでもない)も知らないことが分かった。彼等はホッジ構造とヤコビ多様体を教えられただけだ!

如何にしてこのことが、世界のラグランジュとラプラス、コーシーとポアンカレ、ルレイとトムを生んだフランスで発生したのか。I.G. Petrovskii(私は1966年に習った)よる説明が理にかなっていたと私には思える。すなわち、本物の数学者は群れないが、偽物は生き延びるために群れる。彼等はいろいろな分野で分かれて行動(それは、超抽象化となり、アンチ・セミティズム又は"応用と産業"問題となるであろう)出来るが、その本質は必ず社会問題(より進んだ知識環境で生き延びるための条件)の解決である。

ついでながら、ルイ・パスツールの警告を思い出させよう。すなわち、"応用科学"は存在しなかったし、これからも存在しない。あるのは科学の応用(実に有益な言葉!)だ。

その当時、私はPetrovskiiの言葉に懐疑を持っていたが、今はますます彼が正しかったと確信している。超抽象化の一部概念は、発見者から恥知らずにも発見を横取りする産業にも来ている。そして、発見者を組織的に模倣者扱いしている。同様な事実は、アメリカはコロンブスの名前を載せないし、数学的発見は発見者の名前で呼ばれることは決してない。

誤った引用を避けるため、私の先生(Kolmogorov、Petrovskii、Pontryagin、Rokhlin)と私の弟子の両者に必ず起こっていたけれども、私自身の業績は、未知の理由によって没収されなかったことを明記しなければならない。M. Berry博士はかって以下の2つの原理を定式化した。

Arnoldの原理 概念が個人の名前を持つならば、この名前は発見者の名前ではない。

Berryの原理 Arnoldの原理はそれ自体に応用できる。

だが、フランスでの数学教育に戻ろう。

私がモスクワ大学の力学・数学部の一年生だった時、解析の講義は、集合論的位相幾何学者L.A. Tumarkinが持っていた。彼は、グルサー版のフランス流旧式解析教程を誠実に書き直した。彼は私達に、代数曲線に沿う有理函数の積分は、相当するリーマン面が球面ならば可能で、一般的には種数が高ければ積分不可能であり、その球面のために、与えられた次元の曲線上に充分に多くの二つの点を持つ(それは、一筆書き出来る曲線を強要する。つまり、一筆で射影平面上に実数点を書ける)ことを語った。

これらの事実は、大いにイマジネーションを占めるので、ブルバキの全巻よりも現代数学のより良く正しいアイデアを与える(たとえ証明が無くても)。実際私達はここで、完全に異なるように思える事柄に驚くべき関係が存在することが分かる。つまり、一方は積分と相当するリーマン面の位相に対する明示的な記述であるが、他方は2つの点の数と相当するリーマン面の種数(これはそれ自体で、一筆書き出来る実数領域を示している)の間の関係である。

数学の最も魅力的な概念として、ヤコビは、4つの平方の合計値としての全数字の表示と振り子の実運動を管理する函数が同じで一つであることを上げた。

これら異種な数学対象の間の関係の発見は、物理学における電気と磁気の間の関係、又は地質学におけるアメリカの東海岸とアフリカの西海岸の類似性の発見と匹敵出来る。

そのような発見の情緒的意味を教えることは決して過大評価とはならない。それらは私達に宇宙調和の素晴らしい現象を探し、見出すことを教える。

数学教育の脱幾何と物理学との決別は完全に繋がっている。例えば、学生のみならず現代代数幾何学者も概して、以下に述べるヤコビの事実を知らない。つまり、第一種楕円積分は、相当するハミルトニアン系において楕円相曲線に沿う運動の時間を記述する。

電子と原子のよく知られた言葉で言い換えれば、多項式環のイデアルと同じく内サイクロイドは無尽蔵であると言えるだろう。だが、内サイクロイドを見たことがない学生にイデアルを教えることは、ケーキ又はリンゴを二等分に切ったことがない(少なくとも想像上において)生徒に分数の足し算を教えることと同様の困難がある。子供が分子と分子、分母と分母を足すことを好むであろうことは驚きではない。

フランス人の友人から、超抽象的一般化への傾向は伝統的な国民特質だと私は聞いた。これが劣性遺伝の問題かも知れないことに完全には反対しないが、私がケーキとリンゴの例をポアンカレから借りたことを明記したい。

数学理論の構築のスキームは他の自然科学と全く同じである。最初に私達はあるオブジェクトを考え、特殊な場合の観測をする。そして、オブジェクトの限界を試し見出し、より広い事象へ観測を拡げるのに障害となる反例を探す(例えば、連続する奇数1、3、5、7、9の被加数な奇数への分割数は列1、2、4、8、16となるが、次に29が来る)。

結果として、作った経験主義的発見(例えば、フェルマー予想、ポアンカレ予想)を出来るだけ明確に定式化する。この後に、予想が如何に正しいかチェックする難しい時期が来る。

この時点で、数学では特別なテクニックが開発されて来た。実世界に適用される時、このテクニックは便利だが、時には自己欺瞞に落入る。このテクニックはモデリングと呼ばれる。モデルを構築する時に、以下の理想化が行われる。つまり、ある程度の確率又はある程度の確からしさで知られている、ある事実は"絶対的に"正しいと考えられ、"公理"として認められる。この"絶対性"の意味は正確には、形式論理のルールによって、これらの"事実"を使うことを私達自らに許し、それらから導き出されるすべてを"定理"として宣告するプロセスにある。

そのような推論に全面的な信頼を置くことは、実生活活動において不可能なことは明白だ。少なくとも、その理由は、研究されている現象のパラメータが決して正確に知られておらず、パラメータの小さな変化(例えば、プロセスの初期条件)は結果を完全に変えられるからである。この理由のため、例えば、信頼出来る天気長期予報は不可能であり、どんなに素晴らしいコンピュータと初期条件を記録する装置を開発しても、不可能だろう。

全く同様に公理の小さな変化(それらを私達は完全には確信出来ない)は、一般的に言って、受入れられた公理から推論された定理から得られるものと全く異なる結論になりかねない。推論のチェーン("証明")が長くて技巧的であれば、それだけ最終結果の信頼性は落ちる。

複雑なモデルは滅多に役に立たない(博士論文を書いているのでなければ)。

モデリングの数学的テクニックは、このトラブルを無視し、推論モデルがあたかも現実に一致しているかのように言っている。実際には、この方向は自然科学の観点から見て正しくないが、しばしば物理学で言われる"自然科学における数学の信じられない有効性"(又は"ウィグナーの原理")となる。

ここで、I.M. Gelfandによる注意を追加出来る。すなわち、ウィグナーが言った、物理学における数学の信じられない有効性に関して、また別の現象が存在する。つまり、生物学における数学の信じられない無能性だ。

物理学者に対する"数学教育の微妙な毒"(F. Kleinの言葉)の意味は、絶対化されたモデルは現実離れし、もはや現実と比べられないことにある。ここに簡単な例がある。数学は、マルサス方程式dx/dt = xの解が初期条件(すなわち、(t,x)-平面上の相当する積分曲線が互いに交わらない)によって一意に決まることを教える。この数学的モデルの結論は現実とは全く関係がない。コンピュータ実験は、これらの積分曲線すべてが負t-半軸上で交わることを示している。実際に例えば、初期条件x(0) = 0 と x(0) = 1を持つ曲線はt = -10 と t = -100で交わり、疑う余地がない。そのような小さい距離の空間の概念は、ユークリッド幾何で完全には記述されない。この状況での一意性定理の応用は、明らかにモデルの正確性を超えている。モデルの現実的な応用を考慮すべきであって、そうでなければ深刻なトラブルに直面するであろう。

しかし、同じ一意性定理は、波止場に船を繋ぐ行程を手動で何故完結するのかも説明していることを指摘したい。舵を取る時に、波止場へ接近する速度が距離の函数であり滑らか且つ線型であったならば、停泊させる過程は無限に長い時間を要しただろう。その替りが波止場(理想完全伸縮性を持たないもので覆っておく)への衝突だ。ついでながら、この問題は、月と火星に着陸する装置を最初に打ち上げた時や、宇宙船のドッキングの時にも問題となったはずだ。ここに、一意性定理が私達に対抗して作用している。

残念ながら、そのような具体例や過度に定理を信じる危険性の議論も、現代数学のテキストでは、良書においても見当たらない。学校数学者(物理学を殆ど知らない)が、自然科学で共通であり実験によって推論の結果が必ず左右するモデリングと公理的数学の原理的相違を信じているように私は思う。

初期公理の相対的特徴に言及するまでもなく、長い議論における論理的誤り(例えば、宇宙線又は量子的振動によって起因するコンピュータの故障のような形で)の必然性を忘れることは出来ない。活躍している数学者のすべてが、(例えば何よりも)自身を抑制しなければ、数十ページ後には公式の符号の半分を間違い、2つは分母から分子へ移っていることを知っている。

そのような誤りと格闘する技術は、実験による外部的管理又は、実験科学における観測(小学校の始めから教わっているはずだ)である。

"純粋"推論公理的数学を作る試みは、物理学で使用されるスキーム(観測ーモデルーモデルの調査ー結論ー観測によるテスト)を拒絶し、その替りが定義ー定理ー証明のスキームだ。動機のない定義を理解するのは不可能だが、犯罪的代数学者-公理論学者を止めない。例えば、彼等は長い乗法ルールを使用して自然数の積を簡単に定義するのが常だった。この乗法可換性の使用は証明を難しくするが、公理から定理を推論するのはまだ可能だ。そして、可哀想な学生に定理と証明の学習を強制する(科学とそれを教える人の名声を高める目的で)ことも可能だ。そんな定義と証明は教育と実践活用には全く害悪に過ぎないであろう。

ランクとファイル[訳注: チェス用語。行と列に相当します]によって駒を数えたり数え直したり、又は多角形の領域を2通りに計算することによって乗法可換性を理解することは全く可能だ。物理学と現実からの介在無しで済ます、数学への試みはセクト主義と孤立主義(これが有益な人類活動としての数学の印象を悪くしている)であると、賢明な人には映る。

私がそのような秘けつのいくらかを開けよう(可哀想な学生のために)。

行列の行列式は、その列が平行六面体の辺である(向きのついた)体積である。学生がこの秘けつ(洗浄された代数学教育では入念に隠されている)を教われば、行列式のすべての理論は、多重線型形式論の明快な一章となる。行列式がそうではなく違う定義であれば、賢明な人は行列式、ヤコビアン、陰函数定理のすべてを永久に憎むだろう。

とは何か? 代数学者はおそらく、簡単に忘れられやすい多くの公理を満足する2つの演算を持つ集合だと教えるだろう。この定義は当然な抗議を引き起す。つまり、賢明な人が何故そのような演算の対を必要とするのか? "まあ、これは数学だ"と学生(彼は将来、文部科学大臣になるやも知れぬ)は結論を下す。

群から出発しないで、歴史的にそうであったように変換(ある集合からそれ自身の上への一対一写像)から出発すれば、全く異なる状況となる。集合の変換の集まりは、2つの変換が連続して適用出来て、すべての変換について逆変換出来るならば、群と言う。

これがすべてなのだ。いわゆる"公理"は実のところ(明らかに)変換の集団の概念に過ぎない。公理論学者が"抽象群"と呼ぶものは、同型写像(演算を保持する一対一写像)を考慮した、いろいろな集合の変換に過ぎない。ケイリーが証明したように、"もっと抽象的"な群は世に存在しない。それなのに、何故代数学者は抽象的定義で学生を苦しめ続けるのか?

ついでながら、1960年代、私はモスクワの学校生徒に群論を教えた。公理すべてを避け、出来る限り物理学との接近を保って、半年後には、一般的な5次方程式の根の非可解性についてのアーベルの定理まで辿り着いた(途中では、生徒に複素数、リーマン面、代数函数の基本群とモノドロミー群を教えた)。この講習は後に参加者の一人、V. Alekseevにより本The Abel theorem in problemsとして出版された。

滑らかな多様体とは何か? 私が読んだ最近の米国の本では、ポアンカレはこの概念(彼によって導入された)を分かっておらず、"現代的"定義は1920年代後半にベブレンによって与えられたと書いていた。つまり、多様体は非常に多くの公理を満たす位相空間だと。

何のバチ当たりのために、学生がこれらの紆余曲折に沿って、その方法を理解しようと頑張らなければならないのか? 実際、ポアンカレのAnalysis Situsの中には、滑らかな多様体について、"抽象的"なものよりは遥かに便利で明快な定義がある。

ユークリッド空間 R^Nの滑らかなk次元部分多様体は、すべての点の近傍においてR^k から R^(N - k) (ここで、R^k と R^(N - k)は座標部分空間である)の中への滑らかな写像のグラフである部分集合だ。これは、平面上の最も共通する滑らかな曲線(例えば、円周x^2 + y^2 = 1)、又は3次元空間内の曲線と曲面の素直な一般化である。

滑らかな曲線と滑らかな写像の間が普通に定義されている。微分同相写像は、その逆写像とともに滑らかな写像である。

"抽象的"滑らかな多様体は、微分同相写像まで考慮に入れたユークリッド空間の滑らかな部分多様体である。"もっと抽象的"な有限次元の滑らかな多様体は世に存在しない(ホイットニーの定理)。何故、学生を抽象的定義で苦しめ続けるのか? 閉じた2次元多様体(曲線)の明確な分類について、それらを証明する方がいいのではないのか?

現代数学が何であるかの正しい印象を与えているのは、この素晴らしい定理(例えば、有向コンパクト連結曲面はハンドルを持つ球面であると述べている)であり、実際には何も新しいものを与えない、ユークリッド空間の純部分多様体の超抽象的一般化ではない。ただただ公理論学者の業績として存在する。

曲面の分類定理は、アメリカの発見もしくはエックス線の発見と比較出来る第一級の数学的発見だ。これは数学的自然科学の発見であり、事実そのものが物理学か又は数学に帰属するのか言うのは難しい。その重要性は、正しい世界観の応用と発展の両方に対して、フェルマーの最終定理の証明又は、充分に大きいすべての数は3つの素数の和として表現出来るという事実の証明のような数学"業績"を遥かに越えている。

宣伝のために、時々現代数学者は彼等の科学の決定版として、そのような見せびらかしの業績を示す。当然、これは社会の数学に対する理解に寄与しないのみならず、逆に、誰も必要とせず望まない珍奇な問題の(岩登り型)練習にエネルギーを浪費する必要性について健全な懐疑を引き起す。

曲面の分類定理は(おそらく、証明抜きで)高校数学に含まれるべきだったが、ある理由のために大学数学課程(ついでながら、フランスでは幾何学全体が最近数十年に渡って追放された)にも含まれていない。

すべてのレベルの数学教育が、学校的おしゃべりから自然科学の重要な領域を表現するものへ帰還することは、フランスに対して特に熱い問題である。順序だった問題の取組み方法において、ベストで最も重要な数学本がここの学生に殆ど知られていない(更に、フランス語に翻訳されていないと思う)ことに私は驚愕した。これらの中には、RademacherとTöplitzによるNumbers and figures、HilbertとCohn-VossenによるGeometry and the imagination、CourantとRobbinsによるWhat is mathematics?、PolyaによるMathematics and plausible reasoning、F. KleinによるDevelopment of mathematics in the 19th centuryがある。

私は、エルミートによる解析教程(ロシア語翻訳があるのだ!)が学生時代の私にいかに強い印象を与えたか、よく憶えている。

初めての講義(勿論、解析学全体が複雑だったし、そうであるべき)の一つに、リーマン面がその中に出て来たと思う。分岐点の運動(近頃では、これをピカール-レフシェッツ理論と呼んでいたものだった。ついでながら、ピカールはエルミートの義理の息子だ。数学的能力はしばしば義理の息子として伝わる。例えば、アダマール王朝 - P. Levy - L. Schwarz - U. Frischはパリ科学アカデミーにおけるもう一つの例だ)のもとでリーマン面上のパス変位を使用して積分の漸近が調べられた。

100年前のエルミートによる"旧式の"教程(おそらく今は、フランスの学生図書館からは廃棄されている)は、学生を近頃苦しめている最も退屈な解析テキストよりもずっと現代的だった。

数学者が正気にならなければ、役に立たない公理的おしゃべりに対する免疫性(良識のある人の特徴)とともに(いい意味合いの)現代的な数学理論の必要性を維持して来た使用者は、学校と大学の両方で未教育な学者のサービスを最終的に拒否するだろう。

数学の教師で、ランダウとリフシッツによる物理学教程の少なくともいずれかの巻に取り組んでいない人は、開集合と閉集合の違いすら分かっていない、近頃の若者のように残存生物種となるだろう。

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前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追