先ずいきなりですが、John L. Kelleyの有名な本General Topologyの序文の一番先頭の段落を以下に抜粋します。
"This book is a systematic exposition of the part of general topology which has proven useful in several branches of mathematics. It is especially intended as background for modern analysis, and I have, with difficulty, been prevented by my friends from labeling it: What Every Young Analyst Should Know."
私は学生時代にこのGeneral Topologyを熟読して位相空間を学んだものでした。私のみならず友人共も皆そうでした。英文も非常に易しく(と言うか、数学書の欧文はどれも一般的に易しいのです。しかし、数学エッセイとなると話は別です)、数学的内容はともかくも、はっきり言えば中学生でも読めます(とは言っても数学書でよく出て来る"so that"と"such that"の違いやiffくらいは教えてあげないと駄目でしょうが)。しかし、この本すら和訳本がかってあったと友人共の一人から聞いて非常に驚きました。そして、その友人はその和訳本を持って来て私に「初っ端の序文の最初の段落で誤訳がある有名な本だ」と言って笑いながら私に見せてくれました。その和訳本の序文の最初の段落(上記の英文に対応します)を以下に抜粋します。
「本書は、数学の幾多の分野において重要性を認められた位相空間論の系統的な記述である。特に近代解析学への背景となるべく意図されたものである。私の友人達も解析学の若い研究者の誰もが知るべきことを示そうという私の意図を妨げ得なかった。」
英文と和訳を見比べておかしいと思わなかった人ははっきり言って英語力零と言っても過言じゃありません。英文で言えば2番目の文章の2番目の文節が和訳と正反対の内容だと気が付きませんか? 先ず"with difficulty"という副詞句の意味を取り違えています。更に、英文ではコロンの後、わざわざ強調の意味で挿入された"What Every Young Analyst Should Know."を和訳では完全に無視しています。Kelleyが本のタイトルを"What Every Young Analyst Should Know"にしたかった思いを全く和訳は読めていませんし、何故単語の先頭を大文字にしているのかを全然理解していません。
もし私がこの部分を訳せば以下のようになるでしょう。
「私が本を"すべての若い解析学者が知るべきこと"と名付けることから友人達によりやっとのことで妨げられている。」
この和訳本は1968年が初版で、訳者は東京教育大学、そしてその後身の筑波大学まで長年教鞭を取られたK教授です。ここで私はK教授と書きました。名前をきちんと書けば日本の数学研究者なら誰もが「あぁ、あの」と思うくらい有名な人です。しかし、私はK教授が翻訳したとは思ってません。おそらくK教授の学部学生達(院生達でないことを祈ります。学部学生達はどうでもいいのですが、もし院生達だったら、既に1960年代後半から日本の基礎科学の能力低下が始まっていることになり重大事だと思います)が分担して無責任に翻訳し(おそらく辞書も英和辞典しか使用せず、語彙が記載されてなかったら適当に誤魔化してます。英々辞典を使用していないことは明らかに分かります。そもそも大学生にもなって英和辞典なんか使う方がどうかしていると思います)、K教授は言わば監訳の立場だったので学生達がどういう姿勢で翻訳に取組んだのか知らなかったと思います。と言うのはK教授の世代を考えるとおそらく旧制高等学校出身のはずで、戦中はともかくも戦前まで(軍部が社会を支配する時代まで)は旧制中等学校や旧制高等学校で何らかの学科の外国人教師から外国語の教科書を用いて外国語で授業を受けた可能性が高く、戦後の新制大学のように甘やかされた環境ではなく、外国語能力は比較にならないほど高かったはずだからです。
この和訳本を見せくれた友人の話によるとたまたま古本屋で見つけ、昔馴染んだKelleyのGeneral Topologyの和訳本だと知り、序文からぱらぱらと読んだところ初っ端から違和感を感じたので購入し自宅で原書と見比べたとのことでした。
初っ端の序文の初っ端の段落から誤訳があるくらいですから本文にも幾多の誤訳があるだろうことは皆さんも想像出来るでしょう。だから翻訳本なんて読む人が馬鹿なんです。文学や、数学でもエッセイの類は数学書よりも遥かに表現の幅が広くなるのでずっと難しくなりますが、数式と証明がメインの数学書なら英語であろうが仏語であろうが独語であろうが読めて当たり前なのにもかかわらず、あえて翻訳本を求める人を馬鹿と呼ぶしかありません。
さて、話は変わります。前に"1966年フィールズ賞、2004年アーベル賞のマイケル・アティーヤ卿へのインタヴュー"を紹介しました。このインタヴュー記事がアティーヤ卿の最後のインタヴューだろうと思ったのですが、まだ最近のものがありました。それがLast Interview with Sir Michael Atiyah(PDF)です。これは今年のEMS Newsletterの3月号に掲載されたものですが、実際のインタヴューが行われたのは昨年、つまり2018年12月1日です。アティーヤ卿が亡くなられたのは今年の1月11日ですから直近だと言っていいでしょう。前の"1966年フィールズ賞、2004年アーベル賞のマイケル・アティーヤ卿へのインタヴュー"と比べて非常に短いインタヴュー記事ですが、この私訳を以下に載せておきます。
マイケル・アティーヤ卿への最近のインタヴュー
2019年3月 John Alexander Cruz Morales
昨年11月にマイケル・アティーヤ卿の招きのおかげで数理物理学、特に彼の最近のプロジェクトとアイディアを議論するため私はエディンバラを一週間訪問した。その天候、つまり寒くて雨の多いのは決して私の好みではなかったが、数学議論に参加するために私の寄宿Glendale Guest Houseからマイケル卿のアパートまたはエディンバラ大学数学部にある彼のオフィスまで市街周辺を歩くのが実に楽しかった。素晴らしい一週間だった。私達は朝に話をして、それから午後にマイケル卿から直前の会話のまとめと次回の準備の電子メイルを受取った。私の訪問の間、私達は一日も欠かさず会ったが、マイケル卿が示したエナジと情熱は私の一番良い数学的メモリの一つに必ずなるだろう。マイケル卿の提案のおかげで私はまた数学部における討論会で講演をしたが、私のプレズンテイシュンに関するコメントの形で再び彼のするどく深い考察をきちんと認識出来た。私の訪問の最後の日は12月1日だったが、マイケル卿は私達の最後の会話をインタヴューとして記録することに賛同した。その会話はここに私が再作成しているものである。形式ばらず、温かいお喋りだった。このインタヴューは私への彼の最後の言葉を含み、それを私は読者と共有している。その後、彼の死という悲しいニューズを受ける前に私は彼から2通の電子メイルを受け、そしてこの小さなインタヴューがもっと重要になった。私は既にその数学者を尊敬していたが、今私の訪問のおかげで、その人柄をも尊敬する。すなわち、非常に寛大で親切であり、謙虚な人。
JACM(John Alexander Cruz Morales): 私達は数学において発明と発見の両方に2分割されます。それで、貴方はこれについて何を考えますか? 私達は数学を発見するのか、それとも数学を発明するのか?
MA(マイケル・アティーヤ): 数学的真実は私達の世界にある。私達の発明はすべての可能な数学的真実から本当に興味深いものを選択することだ。さて、どのように、どういう理由でそれが興味深いと分かるのか? それが美しく、素晴らしい構造を持ち、人間的感情を引起すからだ。マシーンは私達に美を理解することを教えない。ヌーツン[訳注: 普通のカタカナ表記ではニュートン]は彼が浜に行き小石を拾う人のようだと言った。浜には百万個の小石があるが、どれを拾うのか? 素晴らしく輝き美しいものを拾えば、あの小石を発見し、発明することになる。数学的真実を発見する時、それを発明している。それを見つけ、他のものよりも美しいものを選んでいるからだ。だから、発明は選択なのだ。私の心に訴えるものを私は選ぶ。私は芸術家だ。書くことの出来る可能な音楽ノートすべてを持っているとする。私がそれらのいくつかを書くべき理由は何なのか? 音楽ノートの可能性が百万ある。いくつかを取上げることは作曲、すなわち発明だ。私達はこれを発明だと見なす。可能性すべてがそこにある。交響曲を発明することは人間の創造だ。それで、美しい楽曲を造ることと美しい数学定理を造ることの違いは何なのか? それは同じだと私は考える。
貴方が数学を考える時、どのように問題を選ぶのですか? 数学的問題を選ぶための貴方の基準は何ですか?
まぁ、誰もが自身の基準を持っている。数学者各々が自身の好みを持っている。しかし、もちろん、多くの数学者達が同じ見解を持っている。良い数学者達は彼等が違う好みを持っていても互いの良さを分かる傾向を持つ。私達の心に訴える特徴を持つなら、それは興味深いを思う問題を選ぶ。それは難しいに違いない。それから出現する美と形式を芸術家のように分かるだろう。それは深刻なのに違いない。多くの形容詞を置けるだろうが、結局記述するのが困難だ。それが個々の芸術家または数学者の決定であり、個性だ。出来ることは見ているものの中に美をみていると言うことだけだ。だが、どのように美を定義するのか? 一つの素晴らしい数学を定義する方法は? 実例によってそれが出来る。ポアンカレ双対性は美しい一つの数学だ。それを実例で説明しなければならない。
だから貴方にとって美が重要な基準であることが明らかです。
まったくその通り! だが、私達皆が異なる種類の美を持つ。
貴方の研究に影響を与えた数学者は誰ですか? 貴方の数学ヒァロウは誰ですか?
それは簡単だ。過去からアルキメデスとヌーツン。もっと最近の時代ではヘルマン・ワイルが私のヒァロウだった。彼は数学のすべてのことに関心を持っていた。美を知っていた。ヘルマン・ワイルは私が最も共鳴して来ている数学者だ。もちろん他にもいる。ポアンカレを私は非常に好きだし、非常に早死にしたアーベル。だが、ヘルマン・ワイルは私に最も影響を与えた最も近い人だ。
ヘルマン・ワイルは貴方と同様に物理学と数学の相互作用に興味を持っていました。それで、貴方にとってその相互作用が何故とても重要なのですか?
19世紀まで誰も違いを作らなかった。ヌーツンは数学者なのか、または物理学者だったのか? それを言うことはほぼ不可能だ。ヌーツンは偉大な数学者であり、偉大な物理学者だった、何の問題もない。彼等は区別しなかった。後になって数学は専門的になった。知識が増大し、数学と物理学はかなり異なるように見えたが、それは事実ではない。物理学において実験結果を理解することに関係する部分があり、それは重要な科学だ。科学は実験側と理論側の両方を持つ。理論側は数学に似ており、実験側は異なるが、数学全体が実験に関する事柄を取上げ、美しい理論を展開することでそれらのより良い理解を作ることによって巻き込まれている。例えばマクスウェル方程式等がそうだ。それらは物理学において力強さを示した美しい数学部分だ。物理学の全体が実験ディタすべてを調べることによって進化して来ており、そしてそれを系統立てるための簡単な方法を探し、その系統立てる簡単な方法が数学である。数学と物理学を分けることは馬鹿げているし、一つの知識を他のものから分けることも馬鹿げている。例えば物理学と化学を分けること、または物理学と生物学を分けること。
多くの場所で貴方は夢の重要性を指摘して来ています。数学において夢の役割は何ですか?
えーっと、私にとって数学の主要部分は証明を書き終える時、すなわち最終部分ではない。主要部分は発展させたい初期アイディアだ。それらは夢だ。それらは夢見ている夜に、または昼間に来るかも知れない。それらはヴィジュンだ。その景色を眺め、何が行われているのか分からない美しい構造を見る。これのいくつかを捉えようと努力する時に夢を見ており、それから計画を持つ。定理の証明は始まりではなく、最終目的だ。だから夢から始めて、証明で終わる。それが自然なプロゥセスだ。夢は非常に重要だ。リオでフィールズ賞を受賞したビーカーが講演で私がかって彼に夢を持たない数学者は数学者でないと語ったと言った。これは鼓舞していると私は思う。
もっとはっきり言えば、リオでのICM講演で貴方は研究プログラムとして数論物理学を語りました。このプログラムに関して貴方のヴィジュンを要約していただけますか?
はい。数学と物理学を調べるならば、それらは異なる分野で部分的に重なっている。時には幾何学で、時には代数学で、時には数論で。例えば、一つの非常に具体的な場合が数論で発生したモデュラ形式と呼ばれる事柄だ。他方、モデュラ形式は分割函数として物理学に登場する。それらが同じものであることが頻繁にあり、何故か不思議だ。私の狙いはこれ全体を説明する自然なフレイムワークを見つけることだ。数論、幾何学、代数学、物理学すべてが関係する自然な方法があるはずだ。
この会話のために貴方の時間を私に下さったことに大変感謝します。最後の質問をさせて下さい。若い数学者に何をアドヴァイスしますか?
若い数学者に対する私の最初のアドヴァイスは熱烈にならなければならないことだ。いくらかのお金または職を得ると考えているので数学をやっているならば、数学を忘れなさい! それをするのにもっと簡単な方法がある。そして、数学をやることは非常に大変な仕事だ。すなわち、苦闘して長時間欲求不満となる。成功する唯一の方法は熱烈になれるかだ。熱烈になれるなら、長い道のりを行くだろう。2つ目のアドヴァイスは年長者達の忠告を聞くことだ。彼等の経験を取上げよ、だが、自分自身の人になれ。そのようにして成功するならば自身の本能に従いなさい、ユニークになるだろう。先生達の言うことに従うだけなら、彼等がやったことを繰り返すだけになるだろう。先生達の言うことを聞き、講義に行き、本を読みなさい。その知識を持って、自分は今何をしたいのか問いなさい。必要なことは情熱、しつこさ、美に対する探究のために物事を賭けること。それをするなら、成功するチャンスを持つ。そして、自分の心を開くことを恐れずに、人々に話しなさい。他の人々との相互作用でアイディアを得る。情熱と家族の間のバランスが必要だ。つまり、バランスの取れた生活を必要とする。
"This book is a systematic exposition of the part of general topology which has proven useful in several branches of mathematics. It is especially intended as background for modern analysis, and I have, with difficulty, been prevented by my friends from labeling it: What Every Young Analyst Should Know."
私は学生時代にこのGeneral Topologyを熟読して位相空間を学んだものでした。私のみならず友人共も皆そうでした。英文も非常に易しく(と言うか、数学書の欧文はどれも一般的に易しいのです。しかし、数学エッセイとなると話は別です)、数学的内容はともかくも、はっきり言えば中学生でも読めます(とは言っても数学書でよく出て来る"so that"と"such that"の違いやiffくらいは教えてあげないと駄目でしょうが)。しかし、この本すら和訳本がかってあったと友人共の一人から聞いて非常に驚きました。そして、その友人はその和訳本を持って来て私に「初っ端の序文の最初の段落で誤訳がある有名な本だ」と言って笑いながら私に見せてくれました。その和訳本の序文の最初の段落(上記の英文に対応します)を以下に抜粋します。
「本書は、数学の幾多の分野において重要性を認められた位相空間論の系統的な記述である。特に近代解析学への背景となるべく意図されたものである。私の友人達も解析学の若い研究者の誰もが知るべきことを示そうという私の意図を妨げ得なかった。」
英文と和訳を見比べておかしいと思わなかった人ははっきり言って英語力零と言っても過言じゃありません。英文で言えば2番目の文章の2番目の文節が和訳と正反対の内容だと気が付きませんか? 先ず"with difficulty"という副詞句の意味を取り違えています。更に、英文ではコロンの後、わざわざ強調の意味で挿入された"What Every Young Analyst Should Know."を和訳では完全に無視しています。Kelleyが本のタイトルを"What Every Young Analyst Should Know"にしたかった思いを全く和訳は読めていませんし、何故単語の先頭を大文字にしているのかを全然理解していません。
もし私がこの部分を訳せば以下のようになるでしょう。
「私が本を"すべての若い解析学者が知るべきこと"と名付けることから友人達によりやっとのことで妨げられている。」
この和訳本は1968年が初版で、訳者は東京教育大学、そしてその後身の筑波大学まで長年教鞭を取られたK教授です。ここで私はK教授と書きました。名前をきちんと書けば日本の数学研究者なら誰もが「あぁ、あの」と思うくらい有名な人です。しかし、私はK教授が翻訳したとは思ってません。おそらくK教授の学部学生達(院生達でないことを祈ります。学部学生達はどうでもいいのですが、もし院生達だったら、既に1960年代後半から日本の基礎科学の能力低下が始まっていることになり重大事だと思います)が分担して無責任に翻訳し(おそらく辞書も英和辞典しか使用せず、語彙が記載されてなかったら適当に誤魔化してます。英々辞典を使用していないことは明らかに分かります。そもそも大学生にもなって英和辞典なんか使う方がどうかしていると思います)、K教授は言わば監訳の立場だったので学生達がどういう姿勢で翻訳に取組んだのか知らなかったと思います。と言うのはK教授の世代を考えるとおそらく旧制高等学校出身のはずで、戦中はともかくも戦前まで(軍部が社会を支配する時代まで)は旧制中等学校や旧制高等学校で何らかの学科の外国人教師から外国語の教科書を用いて外国語で授業を受けた可能性が高く、戦後の新制大学のように甘やかされた環境ではなく、外国語能力は比較にならないほど高かったはずだからです。
この和訳本を見せくれた友人の話によるとたまたま古本屋で見つけ、昔馴染んだKelleyのGeneral Topologyの和訳本だと知り、序文からぱらぱらと読んだところ初っ端から違和感を感じたので購入し自宅で原書と見比べたとのことでした。
初っ端の序文の初っ端の段落から誤訳があるくらいですから本文にも幾多の誤訳があるだろうことは皆さんも想像出来るでしょう。だから翻訳本なんて読む人が馬鹿なんです。文学や、数学でもエッセイの類は数学書よりも遥かに表現の幅が広くなるのでずっと難しくなりますが、数式と証明がメインの数学書なら英語であろうが仏語であろうが独語であろうが読めて当たり前なのにもかかわらず、あえて翻訳本を求める人を馬鹿と呼ぶしかありません。
さて、話は変わります。前に"1966年フィールズ賞、2004年アーベル賞のマイケル・アティーヤ卿へのインタヴュー"を紹介しました。このインタヴュー記事がアティーヤ卿の最後のインタヴューだろうと思ったのですが、まだ最近のものがありました。それがLast Interview with Sir Michael Atiyah(PDF)です。これは今年のEMS Newsletterの3月号に掲載されたものですが、実際のインタヴューが行われたのは昨年、つまり2018年12月1日です。アティーヤ卿が亡くなられたのは今年の1月11日ですから直近だと言っていいでしょう。前の"1966年フィールズ賞、2004年アーベル賞のマイケル・アティーヤ卿へのインタヴュー"と比べて非常に短いインタヴュー記事ですが、この私訳を以下に載せておきます。
マイケル・アティーヤ卿への最近のインタヴュー
2019年3月 John Alexander Cruz Morales
昨年11月にマイケル・アティーヤ卿の招きのおかげで数理物理学、特に彼の最近のプロジェクトとアイディアを議論するため私はエディンバラを一週間訪問した。その天候、つまり寒くて雨の多いのは決して私の好みではなかったが、数学議論に参加するために私の寄宿Glendale Guest Houseからマイケル卿のアパートまたはエディンバラ大学数学部にある彼のオフィスまで市街周辺を歩くのが実に楽しかった。素晴らしい一週間だった。私達は朝に話をして、それから午後にマイケル卿から直前の会話のまとめと次回の準備の電子メイルを受取った。私の訪問の間、私達は一日も欠かさず会ったが、マイケル卿が示したエナジと情熱は私の一番良い数学的メモリの一つに必ずなるだろう。マイケル卿の提案のおかげで私はまた数学部における討論会で講演をしたが、私のプレズンテイシュンに関するコメントの形で再び彼のするどく深い考察をきちんと認識出来た。私の訪問の最後の日は12月1日だったが、マイケル卿は私達の最後の会話をインタヴューとして記録することに賛同した。その会話はここに私が再作成しているものである。形式ばらず、温かいお喋りだった。このインタヴューは私への彼の最後の言葉を含み、それを私は読者と共有している。その後、彼の死という悲しいニューズを受ける前に私は彼から2通の電子メイルを受け、そしてこの小さなインタヴューがもっと重要になった。私は既にその数学者を尊敬していたが、今私の訪問のおかげで、その人柄をも尊敬する。すなわち、非常に寛大で親切であり、謙虚な人。
JACM(John Alexander Cruz Morales): 私達は数学において発明と発見の両方に2分割されます。それで、貴方はこれについて何を考えますか? 私達は数学を発見するのか、それとも数学を発明するのか?
MA(マイケル・アティーヤ): 数学的真実は私達の世界にある。私達の発明はすべての可能な数学的真実から本当に興味深いものを選択することだ。さて、どのように、どういう理由でそれが興味深いと分かるのか? それが美しく、素晴らしい構造を持ち、人間的感情を引起すからだ。マシーンは私達に美を理解することを教えない。ヌーツン[訳注: 普通のカタカナ表記ではニュートン]は彼が浜に行き小石を拾う人のようだと言った。浜には百万個の小石があるが、どれを拾うのか? 素晴らしく輝き美しいものを拾えば、あの小石を発見し、発明することになる。数学的真実を発見する時、それを発明している。それを見つけ、他のものよりも美しいものを選んでいるからだ。だから、発明は選択なのだ。私の心に訴えるものを私は選ぶ。私は芸術家だ。書くことの出来る可能な音楽ノートすべてを持っているとする。私がそれらのいくつかを書くべき理由は何なのか? 音楽ノートの可能性が百万ある。いくつかを取上げることは作曲、すなわち発明だ。私達はこれを発明だと見なす。可能性すべてがそこにある。交響曲を発明することは人間の創造だ。それで、美しい楽曲を造ることと美しい数学定理を造ることの違いは何なのか? それは同じだと私は考える。
貴方が数学を考える時、どのように問題を選ぶのですか? 数学的問題を選ぶための貴方の基準は何ですか?
まぁ、誰もが自身の基準を持っている。数学者各々が自身の好みを持っている。しかし、もちろん、多くの数学者達が同じ見解を持っている。良い数学者達は彼等が違う好みを持っていても互いの良さを分かる傾向を持つ。私達の心に訴える特徴を持つなら、それは興味深いを思う問題を選ぶ。それは難しいに違いない。それから出現する美と形式を芸術家のように分かるだろう。それは深刻なのに違いない。多くの形容詞を置けるだろうが、結局記述するのが困難だ。それが個々の芸術家または数学者の決定であり、個性だ。出来ることは見ているものの中に美をみていると言うことだけだ。だが、どのように美を定義するのか? 一つの素晴らしい数学を定義する方法は? 実例によってそれが出来る。ポアンカレ双対性は美しい一つの数学だ。それを実例で説明しなければならない。
だから貴方にとって美が重要な基準であることが明らかです。
まったくその通り! だが、私達皆が異なる種類の美を持つ。
貴方の研究に影響を与えた数学者は誰ですか? 貴方の数学ヒァロウは誰ですか?
それは簡単だ。過去からアルキメデスとヌーツン。もっと最近の時代ではヘルマン・ワイルが私のヒァロウだった。彼は数学のすべてのことに関心を持っていた。美を知っていた。ヘルマン・ワイルは私が最も共鳴して来ている数学者だ。もちろん他にもいる。ポアンカレを私は非常に好きだし、非常に早死にしたアーベル。だが、ヘルマン・ワイルは私に最も影響を与えた最も近い人だ。
ヘルマン・ワイルは貴方と同様に物理学と数学の相互作用に興味を持っていました。それで、貴方にとってその相互作用が何故とても重要なのですか?
19世紀まで誰も違いを作らなかった。ヌーツンは数学者なのか、または物理学者だったのか? それを言うことはほぼ不可能だ。ヌーツンは偉大な数学者であり、偉大な物理学者だった、何の問題もない。彼等は区別しなかった。後になって数学は専門的になった。知識が増大し、数学と物理学はかなり異なるように見えたが、それは事実ではない。物理学において実験結果を理解することに関係する部分があり、それは重要な科学だ。科学は実験側と理論側の両方を持つ。理論側は数学に似ており、実験側は異なるが、数学全体が実験に関する事柄を取上げ、美しい理論を展開することでそれらのより良い理解を作ることによって巻き込まれている。例えばマクスウェル方程式等がそうだ。それらは物理学において力強さを示した美しい数学部分だ。物理学の全体が実験ディタすべてを調べることによって進化して来ており、そしてそれを系統立てるための簡単な方法を探し、その系統立てる簡単な方法が数学である。数学と物理学を分けることは馬鹿げているし、一つの知識を他のものから分けることも馬鹿げている。例えば物理学と化学を分けること、または物理学と生物学を分けること。
多くの場所で貴方は夢の重要性を指摘して来ています。数学において夢の役割は何ですか?
えーっと、私にとって数学の主要部分は証明を書き終える時、すなわち最終部分ではない。主要部分は発展させたい初期アイディアだ。それらは夢だ。それらは夢見ている夜に、または昼間に来るかも知れない。それらはヴィジュンだ。その景色を眺め、何が行われているのか分からない美しい構造を見る。これのいくつかを捉えようと努力する時に夢を見ており、それから計画を持つ。定理の証明は始まりではなく、最終目的だ。だから夢から始めて、証明で終わる。それが自然なプロゥセスだ。夢は非常に重要だ。リオでフィールズ賞を受賞したビーカーが講演で私がかって彼に夢を持たない数学者は数学者でないと語ったと言った。これは鼓舞していると私は思う。
もっとはっきり言えば、リオでのICM講演で貴方は研究プログラムとして数論物理学を語りました。このプログラムに関して貴方のヴィジュンを要約していただけますか?
はい。数学と物理学を調べるならば、それらは異なる分野で部分的に重なっている。時には幾何学で、時には代数学で、時には数論で。例えば、一つの非常に具体的な場合が数論で発生したモデュラ形式と呼ばれる事柄だ。他方、モデュラ形式は分割函数として物理学に登場する。それらが同じものであることが頻繁にあり、何故か不思議だ。私の狙いはこれ全体を説明する自然なフレイムワークを見つけることだ。数論、幾何学、代数学、物理学すべてが関係する自然な方法があるはずだ。
この会話のために貴方の時間を私に下さったことに大変感謝します。最後の質問をさせて下さい。若い数学者に何をアドヴァイスしますか?
若い数学者に対する私の最初のアドヴァイスは熱烈にならなければならないことだ。いくらかのお金または職を得ると考えているので数学をやっているならば、数学を忘れなさい! それをするのにもっと簡単な方法がある。そして、数学をやることは非常に大変な仕事だ。すなわち、苦闘して長時間欲求不満となる。成功する唯一の方法は熱烈になれるかだ。熱烈になれるなら、長い道のりを行くだろう。2つ目のアドヴァイスは年長者達の忠告を聞くことだ。彼等の経験を取上げよ、だが、自分自身の人になれ。そのようにして成功するならば自身の本能に従いなさい、ユニークになるだろう。先生達の言うことに従うだけなら、彼等がやったことを繰り返すだけになるだろう。先生達の言うことを聞き、講義に行き、本を読みなさい。その知識を持って、自分は今何をしたいのか問いなさい。必要なことは情熱、しつこさ、美に対する探究のために物事を賭けること。それをするなら、成功するチャンスを持つ。そして、自分の心を開くことを恐れずに、人々に話しなさい。他の人々との相互作用でアイディアを得る。情熱と家族の間のバランスが必要だ。つまり、バランスの取れた生活を必要とする。
コメント