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谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。
さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌Bulletin of the London Mathematical Societyに発表した"Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections"(PDF)です。これは最近まで(だと思います)有償だったのですが、無償公開となり、早速私も読みました。非常に感動しましたし、この記事は是非とも"The Map of My Life"と一緒に読むべきだと思いました。この記事の私訳を載せておきますが、予め断っておきたいことがあります。
以下は"The Map of My Life"の第4章、18節からの抜粋です。

Why did I write it? He was an unusually talented mathemati-
cian, but I did not write the article for the purpose of saying so.
There is a section titled Taniyama’s problems at the end, but I
added it merely to comply with the editor’s request. Ignoring that
part, the last paragraph of the text may be taken as my official an-
swer to the question of why I wrote it.
(私訳)
何故、私はそれを書いたのか? 彼は非凡な才能の数学者だったが、それを言うために記事を書いたのではなかった。
終わりに谷山の問題と題する節があるが、編集者の要求に応えてただ付け加えただけだ。その部分を無視して、最後の段落が、何故書いたのかの疑問に対する私の公式の回答と取ってよい。

つまり、以下の私訳では"谷山の問題"の部分は省きました。これは数学記号を入力するのが面倒なことと、非常に専門的だからです。

[追記: 2011年08月02日]
私の身辺より指摘があったので、追記します。"フェルマーの最終予想"とわざと書きました。つまり、証明しない限り、それは永遠に予想であって定理ではありませんし、フェルマーが証明出来ていたということは、おそらくあり得ないでしょう。そして、フェルマーが想定した形とは全く異なるような形(遥かに一般的且つ根本的)で証明されましたので、ここにフェルマーの名前があること自体がおかしいと私は思います。志村予想は、フェルマーのことを意識して提唱されたのではありません。もっと、数学的に根本の問題、すなわち楕円関数がモジュラ関数で一意化出来るためにはどうあるべきかから出発しています。フェルマーが考えたような数のお遊びではないのです。
ですから、フェルマーの最終定理とか呼ぶのは、おそらくは素人向けに受けんがためであって、全然実体とはかけ離れていると私は思います。
次いでながら、志村博士の"The Map of My Life"より以下を抜粋しておきます。

So much for the historical facts. It is my opinion that any-
body who wants to say something about this conjecture should
first understand the precise mathematical meaning of Taniyama’s
statement as I described above, and should also know what I did.
(私訳)
歴史的な事実はこれで終わりだ。この予想について何かを言いたい人は、私が上記で書いたように、谷山の主張の正確な数学的意味を最初に理解し、そして私がやったたことも知るべきである、が私の見解だ。

[追記: 2011年08月21日]
志村博士の"The Map of My Life"についてアマゾンでレヴュを書きましたので、参考になれば幸いです。

[追記: 2011年08月31日]
まだ"谷山"予想だと拘っている日本人が多いです。何と似非権威に弱いと言うか、真実を見ようとしないと言うか(いや、むしろ真実を見たくないとも言うべきでしょう)、結局元々日本人の特性なのか分かりませんが。権威を信じるのであれば、本当の権威、つまり志村博士の言うことを素直に受け止めればいいものを、それもしないのです。
本題の私訳は"谷山の問題"の部分を省きましたが、その中に谷山氏とヴェイユ博士の会話があります。以下がその部分の私訳です。

ヴェイユ:「君は、すべての楕円関数がモジュラ関数で一意化されると思うのか?」
谷山:「モジュラ関数だけでは十分ではないでしょう。他の特別なタイプの保型関数を必要とすると思う」

この会話の意味が分からない人は始めから志村予想云々を言う立場にありません。上の会話は結局、谷山氏は「予想」していなかったことを意味します。
志村博士の"The Map of My Life"より、以下の文を抜粋しておきます。

The reader may ask why there
were so many people who called the conjecture in various strange
ways. I cannot answer that question except to say that many of
them had no moral sense and most were incapable of having their
own opinions.
(私訳)
読者は、予想をいろいろ変な呼び方をする非常に多くの人がいた理由を問うかも知れない。彼等の多くがモラル意識が無く、大抵の人が自分自身の意見を持てなかったと言う以外に、私はその質問に答えられない。

[追記:2015年10月12日]
上述の故サージ・ラング博士の実証については"志村-谷山予想の或る由来"を参考して下さい。これを読めば、なぜ志村予想と呼ぶのが一番正確なのか分かると思います。

[追記: 2016年10月01日]
いろいろ考えることがあって、私訳の最下段に[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を追加しました。

[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2011年07月28日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年05月04日]
いわゆる"谷山の問題"を志村博士がどのようにとらえていたのかについては'志村五郎博士著"The Map of My Life"のAppendixより"あの予想"'を参照して下さい。
つい先ほど、志村博士が3日に米国で死去されたというニューズを知りました。
ここに謹んで哀悼の意を表します。

谷山豊と彼の生涯 個人的回想
1989年 志村五郎

谷山の生涯を書くには、先ず1950年代末の半ばの時だったことを強調しなければならない。その状況は、米国又は欧州の現在又は当時と比べるまでもなく、日本の現在と全く違っていた。その頃、公害は聞き慣れた言葉ではなく、天気が良ければ、東京の中心から70マイル西方の地平線に富士山が、朝には雪が覆った、夕方にはシルエットになった山頂とともに見られた。戦争時の破壊及び損失と、それに続く時代は過去のものとなったが、忘れ去られたのではなかった。私達はもう飢えてはいなかった。国全体が向上心に燃え、希望に満ちていたが、それでも非常に貧しかった。これは、集団的意味合いおいて、また個人的レベルにおいても、そうだった。谷山と彼の同僚も例外ではなく、どの国でもどの時代でも言われていることかも知れないが、人のキャリアの初めは通常野心的で且つ貧しい。
彼は人より特別に貧しいというわけではなく、非常な経済的困難はなかったと私は思うが、その当時の私達の大部分がそうだったから、彼の生活は決して快適とは言えなかった。少なくとも、その時代の普遍的貧困の公平な割当てを享受した。例えば、彼は、居間、流し台、ドアの陰の小さな土間の81平方フィートからなるワンルームアパートに住んでいた。水道、ガス、電気は各部屋に別れて設置されていたが、2階建ての各階に便所が一つだけあり、その階の12人前後の居住者によって共同利用された。彼の部屋はNo.20で、最後に近かったことを私は憶えている。だから、アパートよりは大学の寄宿舎にずっと似ていたが、おおよそ時代の典型だった。風呂に入るためには、アパートから数分の大衆浴場へ行かなければならなかった。アパートの建物は非常に見すぼらしい木造で、詩的に"静山荘"と名付けられたが、近くに小売店が並ぶ、狭いが活気ある通りに建っていて、しかも数分ごとに列車が近くを走ったので、全く静けさへの満たされない願望だった。セントラルヒーティングはなかった。つまり、そういう場所では、空調設備は想像出来なかった。しかし、東京の無数のコーヒ店の多くは、コーヒ一杯50円の値段で、際限のない数学的及び非数学的会話の場所のみならず、必要ならいつでも贅沢な冷房を提供した。1ドル360円で、東京大学の講師として彼の月給が15,000円より以下の時代だった。
家事について言えば、彼は怠惰な方で、滅多に料理せず、小さなレストランでよく外食した。いくつかの西洋風レストランで食べられた彼のお気に入りの料理の一つはタンシチュー250円の単品で、彼がたまに楽しめた控えめな贅沢項目の中のもう一つのものだった。夏を除いて、彼は殆どいつも異様な金属光沢を放つ青緑のスーツを着ていた(彼は専ら着ていたと、私は言いたくなる)。一度彼は私に、そのスーツをどうやって入手したか説明した。彼の父が行商人から生地を大変安く買った。しかし、その光沢のため、家族は誰も着る勇気がなく、彼はどのように見えるか余り気にしなかったので、結局彼のスーツに仕立てして貰うことを申し出た。彼の靴ひもはいつも緩んでいて、よく地面に引きずっていた。と言うのは、彼はいつもしっかりと靴ひもを結べなかったので、緩んだ時に結び直しをしまいと決心した。
それが、同世代と後世代にインスピレーションを与える不朽のソースを残して、突如この世を去った数学者だった。
谷山豊は、谷山サヘイとカク[訳注: ご両親のお名前を漢字でどう書くのか分かりませんでしたので、失礼が無いようにカタカナで表記しました]の3番目の息子、6番目の子供として1927年11月12日に生まれた。彼は3人の兄弟と4人の姉妹がいた。彼の両親ともに90歳過ぎまで生きた。彼の名前は漢字一字で記述され、"とよ"と発音出来、彼がかって私に話したことだが、(私の記憶が正しければ)それが元々の意図した発音だった。だが、成長するに連れて、大抵の人、特に家族以外の人は、その漢字を"ゆたか"と読んだ。彼はある時点で、それを受入れ、以降彼は谷山ゆたか、だった。少なくとも、彼の論文すべてが、その名前(逆順であっても)のもとで書かれた。私は彼の子供時代の情報も、大学入学前の期間についても知らない。旧制高等学校に通っている間に結核を患い、2年間休学しなければならなかったことくらいだ。私が憶えている限りでは、彼は毎10-15秒に咳をしていた。
彼の父は地域で知られた田舎の小児科医で、この種の専門職が通常求めるように一般医もしばしば行った。私は父親に一度だけ会った。彼は80歳始めで元気だったし、いわゆる叩き上げのタイプに見えた。出会いから間もなく、彼は東京大学での私の同僚の一人(同じ時に彼に会った)に手紙を書いた。どういうわけか、老人は若い学者が学問的にうまく行っていないという考えを持ち、頭脳をもっと活性化させるためにビタミンB(又はC又はカルシウム)を含む食べ物を取るようにとアドバイスした。これが豊の死後だったので、父親が同じアドバイスを息子にしたかどうか私はチェック出来なかった。
谷山は1953年3月に東京大学を卒業し、彼は私より年長者だったけれども、私は1952年に卒業した。つまり、その遅れは彼の病気に起因した。私は彼を1950年から知っていたが、私達の真剣な数学的接触は1954年の始めで、Mathematische Annalen, Vol. 124(虚数乗法の代数的理論に関するDeuringによる論文を含んでいた)のコピーを返却するよう彼に手紙を書いた時だった。谷山は数週間前に図書館からそれを借りていた。前年の12月、シカゴにいたアンドレ・ヴェイユに、私は代数多様体のモジュロpによる還元に関する原稿を送った。私は理論をアーベル多様体、特に楕円曲線に応用する意図だった。私への返書の中で、谷山は同じ意図を持っていて、礼儀正しく私の理論をいつか説明してくれないかと尋ねた。今から振り返ると、私は当時分からなかったけれども、彼は広い知識とより良い展望を持ち、私よりずっと数学的に成熟していたと思う。
1954年1月23日付の葉書をまだ私は持っている。30年以上経って、それは当然古びたが、はっきりと彼の手書きを見せている。彼の両親の家の住所が記されていて、彼は一時的に滞在していた。大学から北へ約30マイル、半田舎半都会の一つ、小さな目立たない騎西という町にあった。ついでながら、彼はそこで生まれ、成長した。神のみぞ知る、5年と半年後、町の寺裏にある墓地の彼の墓の前に私が立っているとは。
私達の文通の時、彼は"特別研究生"で、私が助手だったが、実質的違いは殆ど無かった。あったとしても、俸給の違いのようなものだったであろう。教授が3回生と4回生を教える数学科に彼はいたが、1回生と2回生対象の微積分を教える別の部門に私は所属し、教養学部と呼ばれる別のキャンパスにあった。この切り分けが、上記の文通の前に彼と殆ど接触が無かった主な理由だった。2番目の理由はお互いが内気だったからかも知れない。結局、私達の両方が教養学部の講師となった。彼が死んだ時は助教授だった。
何のポストに私達が就いていようが、1954-55年の私達の実際の状況は、現実的な意味合いにおいて、指導教官のいない大学院生だったが、教育の負荷を背負い、その負担は少なくとも私の場合、米国の大学での教養課程の2つに相当した。この考察は、私の世代の日本人数学者のほぼすべてに当てはまる。唯一の重要な点は、私達の大部分が助手でさえも教員在職権を持ったということだ! いずれにせよ、先任教授は学生を指導出来なかった。たとえそうでも、彼等の一部がおせっかいなアドバイスをたまに提案した。一度、私達の一人が偶然、当時50歳の教授と列車で出くわした。教授は若い人に何の研究に興味を持っているか訊いた。2次形式のジーゲルの理論を研究していると聞いて、教授は"おっ、2次形式。君のような若い人は知らないだろうが、それはミンコフスキーが問題にしたことだよ"と言った。後で、私の同僚はこれに対する不満を私に言った。教授のもったいぶった空気をからかって、彼は"勿論、私はミンコフスキーが問題にしたことを知っているが、彼はジーゲルの成果に何か加えたのかね?"と言った。私も同様な役に立たないアドバイス又はコメントを受けた。
それらの教授は彼等の先達、特に先達の中でも非常に崇められている人物[訳注: 故高木貞治博士を指します]を真似ようと頑張っているのかしらと思った。その人物は、多くのそのようなコメントをしたに違いなく、その大部分(だと、私は思いたい)が同様に無意味だった。又は、例えば谷山のような若い世代が既に教授連を飛び越えている(その根拠は以下で読者は分かるであろう)ことを認識せずに、教授連は彼等のスタイルで役立てようと努めているのかも知れなかった。谷山自身は決して自惚れたコメントをしなかったことを明記しなければならない。年少者への彼のアドバイスはいつも実践的で専門的だった。
ともかくも、私達はほとんど滑稽な言い草を無視したが、自分達自身以外には頼れないということを思い出させるものとして、それを受け取った。勿論、中間の世代に、既に傑出しているか又はそうなりつつある何人かの日本人数学者がいたが、彼等のすべてが外国にいるか又は短期的に日本を離れていた。例えば、小平と岩澤は米国にいて、すぐに井草と松阪が続いた。
1950年頃、ヒルベルトの第5問題が非常に話題となり、類体論の算術化又は、束論さえも話しの的になっていた。これらは魅力的ではなかったので、多くが代数幾何学を選んだ。その時、おそらくChevalleyのTheory of Lie groupsとヴェイユのFoundations of algebraic geometryが最も広く読まれた2冊だったが、前者は普通に最後まで読み、後者は最初の20ページかそこらで断念する場合が多かった。
学部生の時に谷山は両方を読み、ヴェイユによる代数曲線とアーベル多様体に関する2つの続編も読んだ。彼はかって菅原正夫(による代数のコースを谷山は取った)の影響で数論に導かれたと書いた。菅原は私の学科の先任教授で、虚数乗法に関する論文と高次元空間内の離散群に関する論文も書いた。しかし、私は菅原を好きだったし、人間として尊敬していたけれども、彼からインスピレーションを感じなかったので、彼の影響を谷山が認めたことについて私は分からない。私の考えでは、この時期と個人レベルにおいて、私と同世代の人、とりわけ谷山に専ら影響を受けたが、30歳以上の人にではない。これは谷山にも当てはまると思う。
実際、彼の訓練場所は学生自らが組織した多くのセミナーだった。彼はそんな活動の主導力であり、猛烈に出来る限り多くの数学的知識を会得していた。彼は、ディリクレ級数とモジュラ形式に関するハッセの論文No. 33, 35, 36, 38をある時点で、おそらくいくぶん後に勉強したに違いない。同じ学科にいる間、私が問題となっている論文誌の図書館コピーを入手出来なかった時に、このトピックについての彼のノートを親切にも貸してくれた。 彼の初めての初等的でない仕事は、"アーベル関数体のn分割について"と題されていて、シニア論文と見なしてよい(そんなものは要求されていないけれども)。彼の数学的業績の詳細な説明を、ここでの目的である私の個人的回想に混ぜるつもりはない。ただ、ハッセのアイデアとヴェイユの論文(Ann. of Math. 1951)を基礎にして、この論文がモーデル-ヴェイユの定理の証明を与えたということと、1953年において、彼が日本でこのトピックの研究知識を持つ唯一の人だったことだけを言わせてほしい。1954年の春、東京大学でChevalleyが持ったセミナーにおけるいくつかの講義の中で、谷山がこの仕事を紹介したことを生々しく憶えている。
始めに説明した通り、彼は長い間、アーベル多様体の虚数乗法に興味を持っていた。始めに超楕円曲線がヤコビ多様体の場合を調べ、最終的にはより一般的なアーベル多様体の場合を取り上げた。この分野において分かっていることが少なかったので、その作業は、困難に対する"困難な闘い"であり、試行錯誤の"辛い努力"だった。数学者の実質的仕事を述べるのに、それらの4つの言葉(厳密に言えば、4つの相当する漢字)を彼はよく用いた。他人は違うように思えるかも知れないけれども、"容易い"は少なくとも彼の数学観では異星人の言葉だった。そんな"闘いと努力"に大きな喜び見出したに違いない。1955年9月東京-日光で開かれた代数的整数論のシンポジウムで、彼は自分の結果を発表した。そこでヴェイユと会い、ヴェイユの或るアイデアを含ませて、後にアーベル多様体と或るヘッケL-関数についての改訂版理論、当時の最高の業績('L-functions of number fields and zeta functions of abelian varieties', [3])を刊行した。
この論文に含まれていない部分に関しては、私が自分でその問題に関して結果を得ていたので、私との共同研究が計画された。私達は気楽(おそらく気楽すぎるのだろう。競争の雰囲気がなかったし、それは1980年代の若い数学者から羨ましがられるかも知れない)に生活していたから、現在の基準から考えてのんびりしていると言われるかも知れない形で作業を始めた。私は秋月康夫に感謝しなければならない。彼が編集者となっている研究書シリーズの一巻を私達に書かせることによって、私達のプロジェクトを急がせたからだ。
この共同研究の間、場所が私の家よりも大学からかなり近かったので、私はよく問題を議論するために彼の"荘"を訪れた。彼はいつも夜遅くまで仕事した。1957年の私の日記が、4月4日の午後、正確に言えば午後2:20に訪問したら彼はまだ寝ていたことを物語っている。彼は午前6時に床に入ったと言った。別の時には、おそらく朝の遅い時であろう、ドアをノックしても返答が無かったので、彼の住いから30分列車に乗って学部事務室へ行った。彼がそこにいたから、"ここに来る前に君の所に立ち寄ったよ"と彼に言った。それに対して彼が言うには、"うむ、その時僕はそこにいたかい?"。彼は自分のへまが分かると、どぎまぎして自分の立場を擁護すべく以下のように言った。"だが、君も知っているように、その日のその時間は大抵眠っている"。
いろいろな面で私と異なっていることを発見した。一つは、私は早起きだったし、現在も早起きである。当時、彼が合理的で私が変わっていると思っていたが、間違っていたのかも知れない。私達に共通するものもあった。つまり、両者が大家族の末っ子だった。私は5番目で末っ子である。私はこれを、日本の家族における長子の自己中心性をよく憤慨したものだったという理由で言う。彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた。私はこのため彼を羨ましかった。彼を真似ようと虚しく努力したが、良い間違いを作ることは本当に難しいことだと分かった[訳注(2016年10月1日): 「彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども…良い間違いを作ることは本当に難しいことだと分かった」の部分を捉えて、例えばサイエンスライターのサイモン・シン氏の著書の和訳本からの影響もあってか、日本人(勿論、専門家を除いて。以降いちいち断りを入れませんので)は大げさに考えているようです。つまり、谷山豊氏は類稀なる才能を持っていると。志村博士の英文をよく読む賢明な読者なら、この部分を志村博士独特の皮肉を込めたジョークだと思うでしょう。何故なら、そもそも数学では良い方向であろうがなかろうが間違いは間違いだからです。また、この私訳の最下段に追加した[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を見て下さい。因みに言うと、サイモン・シン氏の本には嘘が書かれています(と言うか、志村博士に数学的な取材すらしていないと言った方がいいでしょう)。例えば、日光のシンポジウムの後、志村博士と谷山氏が共同してモジュラ形式を研究したというのは完全な嘘です。実際には、その共同研究は以下に出て来る近代的整数論に載っている内容であって、主にアーベル多様体の虚数乗法論に関してなんです。モジュラ形式に関してではありません。そのことは志村博士のThe Map of My Lifeの付録まできちんと読んだ人なら分かっているはずだと思います。そして、東西問わず馬鹿なサイエンスライターに対して、事あるごとに志村博士は谷山氏とモジュラ楕円曲線について話し合ったことがないと明言しなければならないのは、取材の前に行うべき事前調査(資料収集と精読)をしていないことが原因でしょう]。
私達の共同作業、日本語で題された近代的整数論が1957年7月に刊行された。私達の次の共同作業は勿論、出来るならいい形式で英語版を作ることだったが、どういうわけか私達は熱意を無くした。一番目の明白な理由は、日本語であっても少なくとも書き上げたという事実に私達は安堵したからであった。実際的な別の理由は、その年の秋に私はフランスへ旅出す予定だったので、それが私を落ち着かせなかった。しかし、もっと根本的な理由は、本の序文からの一節を引用することにより与えられる。
"私達は、理論が完全に満足出来る形で表現されていると主張することに無理があると分かっている。いずれにせよ、私達の道筋を振り返り、頂点を視野に入れるために、或る高さを登っている過程を許されていると言ってよい。"
もっと散文的に言えば、より良い体系付けと結果に磨きをかけるための探求が必要だった。その年、私達は既に理論全体のアデール化について考えていて、おそらくその方向に追求すべきだったが、しなかった。また、心理的反動の問題として、人は一度何かを証明すれば、古いものに磨きをかけるよりも新しい定理を得ることに興味を持つ。実際、私達の両方がいろいろなタイプのモジュラ形式に興味を持ち、その過程は面白くて堪らなかった。だから、東京とパリの文通はいつもその話題だった。彼が私に知らせてくれたように、1958年の春、東京はジーゲルとアイヒラーを迎えて連続講義を行った。ジーゲルは2次形式の還元理論を、アイヒラーは最近の結果、特にトレース式を講義した。他方パリでは、カルタンセミナーのトピックスはジーゲルのモジュラ形式を中心に据えた。
彼はこの時期私に2回だけ手紙を書いたが、私は彼よりもっと多くを書いた。1958年9月22日付の2回目の手紙(彼の実在する全手紙の中で最終のものだ)の中で、ヒルベルトのモジュラ形式と或るディリクレ級数の間のヘッケ型対応はGL(2)のアデール群で体系付け出来ることに言及している。しかし、手紙の調子が示すように、彼の熱狂はむしろ控えめだった。そんな体系付けの実現可能性では不十分で、本当のブレークスルーには至らないことを彼は知っていた。明らかにもっと作業が必要だった。いや実のところ、彼は以下のように書いた。"暑いため、僕は一ヶ月間その作業を脇に置いたが、間もなく考え始めるだろう"。専念する十分な時間があれば、彼は成功していただろうに、2ヶ月の間で死ぬことを運命づけられていたから、その作業は永久に未完のまま残り、手紙の送り主と受け取り主両者の離れたやり取りが、その点を想像出来た。
共同作業に関して、彼の死(後で書くつもりだ)によって完全に状況が変わった。一人取り残されたから、出来るだけ早く完成させるのが私の義務だと思った(私が持っていた体系付けに決して満足していなかったけれども)。最終的に、"Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theory"[訳注: この本は勿論英語です。余計なことかも知れませんが、念のため題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法と整数論への応用"となります。この本に関しては、この私訳の最下段に追加した[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を見て下さい]が1961年の春に刊行された。題名は彼の手紙の一つから示唆された。良い見通しに事柄を収められるのに私は10年以上かかり、更に理論をテータ関数によって体系化(彼が望んでいただろう)するために別の5年がかかったが、これらを喜んでくれたであろう人は、ああ! とうの昔にいなかった。
彼の生涯と晩年の日々のプライベートな面を書くには、1955年までの数年に戻らなければならない。長い間、彼と私は同じセミナーのメンバーだったけれども、その年の12月に私の学部に彼が所属してからは、その関係は親密となり、当然いろいろな類の同じ活動に私達は従事した。例えば、公式の義務として、各自5000枚以上の大学入学試験採点のため私達は学部事務室に束縛された。私達には幸運だが、受験者にとっては不幸にも、殆が白紙だった。
もっと楽しいことでは、私達は他の友人と共にコーヒ店でゆったりとした時間を楽しんだ。土曜日の午後は、町にある植物園又は郊外の公園で過ごした。夕方には、鯨肉(その頃は特別に珍味でなかったが、現在では考えられないだろう)に特化したレストランで食べるのが常だった。学校での仕事の一日が終わった後に、私達はよく長い散歩もした。神社を巡り歩き、そこで"神託"と印刷された小さな紙を楽しみのために買ったものだった。それらの紙は幸運を語るものだとされていた。
一緒に列車に乗っている間、彼は次の駅の名前を私に訊いた。それに対して、"次に止まるのは駅だろう。だから、次に止まるのは次の駅だろう"と答えた。これは、彼は始めて聞いたので、非常に楽しませた。その当時ラジオで流行ったコメディアンのセリフを私はただ真似しただけだと説明しなければならなかった。その後すぐに、彼はラジオ一式を買い、最終的にレコードプレーヤーと相当なレコードコレクションを手に入れた。上記で述べた彼の最後の手紙には、"最近、ベートーヴェンの第8番を繰返し聞いている"と書いていた。これらのことと映画を見に行くことが彼の唯一の楽しみだったと思う。彼が楽しんだ映画の一つは"王様と私"だった。彼は何らかの楽器を演奏したことはなかったと思う。彼は運動が得意でなかった。酒も煙草もしなかったし、何ら趣味を持っていなかった。彼は旅行が好きでなかった。いやむしろ、彼が行ける時はいつも避けているように私には思われた。おそらく彼のデリケートな健康のためだろう。彼の一生涯で京都が最も遠い所だった思う。教育された人間として、彼は標準的な古典文学を読んだはずに違いないが、日本又は外国の現代作家の小説の熱心な読者ではなかったと私は思いたい。数学史を除いて、歴史にも関心が無かった。
しかし、彼の全盛期を通して相当な時間とエネルギーを費やした一つの事がある。すなわち、学界問題についてジャーナリスト的に書くことだ。トピックスはいろいろだ。どのようにして研究者を訓練すべきか、数理科学の新しい研究所をいかにして組織すべきか、他人が書いた以前の記事の批評、ブックレビュー等。彼はこれらの記事をかなり急いで書き、それらを終えると殆ど修正しなかった。おそらく書きながら考えをまとめていたのだろう。彼は演説よりもずっと明確に表現出来るライターだった。次いでながら、彼は会話よりも手紙の中で楽しそうだった。本当のことを言えば、貴重な時間を浪費しているだけだと思ったから、この"趣味"は彼にとって残念なことだと私は見なした。私は彼に明瞭に言ったことはなかったけれども、各々のケースにおける動機が、彼の相当な奮闘を正当化するほどには重要ではなかった。或る時、無干渉政策に関する私の意見を聞いて数日後、発行物の第一稿を私に見せ、その中で私の喋り方を風刺漫画にしていた。当然私は抗議し、彼は私の部分を削除した。
彼はいつも同僚、特に年少者に親切で、心から彼等の厚生福祉に気を配った。しかし、今から振り返ると、皮肉のための批難を恐れずに言えば、動機は別にして、記事を書くことから大いなる喜びを引出したと推測出来る。それが本当なら、おそらく私が残念に思ったことはさほど意味が無かった。
彼の最後の月々を語ることによって、彼の生涯に関する、この非常にまとまりのない記述を締めくくりたい。その頃、私達は当然若い熱情と願望に満ちていた。これは、学問的であろうがなかろうが、すべてのことにおいて言える。学問的でない意味で今言えば、その当時に支配していた考え方を私は一センテンスで表現出来る。つまり、誰も(まぁ、ほぼ誰も)見合い結婚を信頼しなかった。冗談で、私達の一部が、学校機関はブルジョアのためにあり、我々プロレタリアはそれを悪魔の仕業であると批判すべきであると考えたかも知れないが、勿論それは誇張だ。いや実のところ、彼の死後数8ヶ月、1959年の夏の暑い或る日、友人達とともに私が彼の実家へお悔やみに行った時、彼の兄又は彼の父親だったかも知れないが、可能な連れ合いとして非常に有名な画家の娘をどうかと私に勧めた。困惑したので、パーティーでの女友達に、どう答えるべきかを尋ねた。作法礼儀の本は斯々然々と言いなさいとアドバイスしていると彼女は言った。私は勧められた言葉を機械的に繰返して笑いを誘った。そして、それで終わりだった。
その女性は豊の花嫁候補として元々から選ばれていたのかも知れないと私は考えていたものだった。もしそうなら(私の妻が後年私をよくからかったものだったが)、その理由のために、私はその女性と結婚すべきだった。彼の家族が持っていたかも知れない願いが何であれ、彼は自分で或る人を選び、最終的に両家の親の承諾を得た。彼女の名前は鈴木美佐子だ。彼は遺言状の中で彼女をM. S.と言及しており、私もそれに従う。だが、先ず背景事情だ。
私達周辺の非常に小さく緩やかに限定された社交サークルで彼は、友人の友人の友人として彼女に会ったと私は思う。1957年私がフランスへ出発する直前に、彼女の家で母親の助けを借りながらも、谷山、山崎圭次郎(大学での私の同僚の一人)、山崎の婚約者、そして私のために彼女が催した夕食パーティーを私は鮮明に憶えている。その集会(名目上は私のためのお別れ会だが)は、他の機会でのそれらと違ってかなり静かだった。実際、彼女が食事の間彼の無口をからかっていたのを憶えている。その同じ5人は、その年の4月に晩餐を共にしたが、それがおそらく二人の最初の出会いだったであろう。その頃、環境によってメンバーは変動しても、そのような夕べは多くあった。
美佐子は、どちらかと言えば、私のサークルの新参者だったので、私は彼女のことをあまり知らなかった。典型的な上流の中程の階級の出身の典型的に愛想のよい女性に見えた。そして、標準的な東京弁を自由に話した。彼女は一人っ子で、彼より5歳程若かった。彼等の婚約を知らされた時、私は漠然と彼女は彼のタイプでないと思っていたから、ちょっと驚いたが、心配を感じなかった。
彼等は新しい家庭のため見たところでは良いアパートを契約し、台所用品も買い、結婚式に備えていたと後で私は聞いた。すべてが彼等と彼等の友人達にとって順調だった。そして、悲劇的終末が彼等に降りかかった。1958年11月17日の月曜の朝、彼のアパート(始めに言及したもの)の管理人が、机の上に残されたノートと共に、部屋の中の彼の死を見た。彼が学校の仕事で使っているタイプのノートブックの3ページを使って書かれており、その最初の文節は以下のように読める。
"昨日まで、自殺しようと明確な意思があったわけではない。しかし私が精神的にも肉体的にも疲れてしまっていたことに気づいていた人が少なからず居たと思う。自殺の原因について、明確なことは自分でも良くわからないが、何かある特定の事件乃至事柄の結果ではない。ただ気分的に云えることは、将来に対する自信を失ったということ。私の自殺のために、ある程度迷惑を被る方々が居られるでしょう。私の自殺がそのような方々の将来に黒い影を落すことがないよう、心から望んで居ります。いずれにしても、私の行為がある種の裏切であることは否定できませんが、私の最後の我儘と捉えてください。私がこれまでの人生で行ってきたように。"[訳注: この遺書の箇所は志村博士の英語からの翻訳ではありません。実際の故谷山氏の遺書のオリジナルです。何故そうしたかは賢明なる人ならご理解いただけると信じます。]
彼は次に几帳面にも、彼の所持品の処分の仕方のお願い、どの本とレコードが図書館又は友人から借りたものか、等を記述していた。特に、"レコードとプレーヤーをM. S.に遺したい(それらを彼女に遺すことで動揺していなければ)"と彼は言っている。また、彼が教えていた微積分と線型代数の教養課程コースでどこまでやったかを説明し、彼の行為が引き起すであろう全ての迷惑に対して同僚への謝罪の記述で締めくくっている。
かくして、時代の最も輝いて先駆者魂を持つ人が自身の意志で生涯を終えた。たった5日前に31歳になったばかりだった。
避けられない混乱と、そして葬儀に続いて、彼を追悼する友人と同僚の集まりがあった。彼等は完全に当惑した。当然、彼等は何故彼が自殺しなければならなかったのか自問した。だが、確信出来る答えは不可能だった。彼の婚約者によれば、決定的な月曜日の朝の数日内に彼女と会うこととなっていた。それは、神があたかも彼を家庭人でなく修道的数学者に設計していたかのようだった。私は結局その考えに甘んじたが、それはずっと後だった。
ともかくも、数週間後人々は遅くてもショックと悲しみから、やや持ち直したらしく、事は正常に戻った。そして、12月初めの或る寒い日に美佐子が、彼等の新家庭のためだったアパートで自殺した。彼女はノートを残したが、公開されなかった。私は次のようなことを含む文節を聞いただけだ。"私達はどこへ行こうとも、決して離れないと互いに誓いました。今彼が去ったので、彼と結ばれるために私も行かなければなりません"。
これらの不幸が起こった時、私は高等研究所のメンバーとしてプリンストンにいた。だから、事件の詳細は、1959年春に東京へ戻ってから、久賀と山崎に聞いた。谷山自身は、その年の秋に研究所に来ることと想定されていたから、私は2年目もそこで過ごせたであろうが、去ることに決めた。
私が家に戻るまでに、桜の木は花が散り、深緑の葉っぱが光景を独占していた。陳腐な表現だけれども、春は足早に過ぎ去ろうとしていた。一年半の私の留守の後、東京の街はバイタリティと下品さと共に殆ど変わらなかった。だが、人々は変わった。私もそうだった。更なる変化の時期はまだ先だったが、その晩春の日々に私は単純な事実を虚しく熟考し続けざるを得なかった。つまり、たった2年前に私達が持ったパーティーの種類はもう不可能だと。騒乱の時代は過ぎ去った。
この記事を締めくくるため、いくぶん修辞的に問うてよい。すなわち、谷山豊は何者だったのか? これは数学史上での彼の大きさを問うているのではない。ここでの私の関心は、彼の存在が彼の世代と特に私にとって意味するものは何かだ。私が書いて来たことは勿論、その疑問に対する長い答えとして見なしてよいが、要約すれば、これまで書いて来たことが漠然とほのめかしている一つの点を私はもっと明確に述べるべきである。すなわち、彼は、彼に数学的接触をした多くの人(勿論、私も含めて)の精神的支えだったということだ。おそらく彼は自分が担っている役割を意識していなかっただろう。だが、この観点で、彼が生きていた時よりも今の方がずっと強く彼の高潔な寛大さを感じる。それなのに、彼が必死になって支えを必要とする時に、誰も彼を支えられなかった。これを考えると、私は深い悲しみに打ちのめされる。

謝辞
私に本質的な伝記的データを与えて下さったことに、私の心からの感謝を谷山清司博士と杉浦光夫教授に述べたい。また、第一稿の原稿を読み、価値ある提案をしてくれた数人の友人達に有難うと言いたい。提案は記事に含まれている。

谷山豊の参考文献
1. 'Jacobian varieties and number fields', Proceedings of the International Symposium on algebraic number
theory, Tokyo-Nikko 1955 (Science Council of Japan, Tokyo, 1956), pp. 31-45.
2. 'Jacobian varieties and number fields' (Japanese), Sugaku 7 (1956) 218-220.
3. 'L-functions of number fields and zeta functions of abelian varieties', J. Math. Soc. Japan 9 (1957)
330-366.
4. (With G. SHIMURA) Modern number theory (Japanese; Kyoritsu Publishing Co., 1957), 224 pages.
5. ' Distribution of positive O-cycles in absolute classes of an algebraic variety with finite constant field',
Sci. Papers Coll. Gen. Ed. Univ. Tokyo 8 (1958) 123-137.
6. (With G. SHIMURA) Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theory, Publ
Math. Soc. Japan 6 (Math. Soc. Japan, Tokyo 1961), 159 pages.
7. The complete works of Yutaka Taniyama. Publication by subscription, ed. by Seiji Taniyama et al., 1962.
This volume contains unpublished manuscripts, nonmathematical articles, letters, the last note, a chronological list of events in his life, as well as the above articles except Nos. 4 and 6.

[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]
志村博士が日本語で谷山氏と書いた近代的整数論に対して復刊リクエストが後を絶たないそうですが、出版社は著者の意向で復刊出来ない旨を回答したと聞きました。このことを友人共から教えられた時、こういうリクエストをする人達は志村博士の書いたものを全然読んでいないと私は思いました。つまり、そういう人達は志村博士の意思を完全に無視しているわけです。何故復刊リクエストに応えないのか、志村博士のThe Map of My Lifeを読んでいれば分かりそうなもんです。
The Map of My Life p. 119下段-p. 120中段より抜粋
As I said in the preface, there were
several unsatisfactory points in the book. One of them was the
proper definition of “the field of moduli,” which I discovered only
in October 1958 and which I told Weil immediately after my arrival
in Paris. Thus, the first thing I did after coming back to Tokyo in
the spring of 1959 was to write the whole theory in English in a
better form by using this new definition.
We had actually planned an English version, but nothing was
done except for a short section I wrote in English on differential
forms on abelian varieties. Sometime in 1957 I handed it to
Taniyama, who died in November 1958. It was returned to me
when I met one of his brothers. I eventually published the book
in English as a collaborative work with him in 1961, but actually
I wrote everything alone, and he was not responsible for the
exposition.
I had known that he was not a careful type, but after starting
this project in 1959 I realized that the problem was more serious
than I had thought. Indeed, I had to throw away many things
he wrote in that book in Japanese. In my article about his life
published in Bulletin of the London Mathematical Society (1989),
I wrote: “Though he was by no means a sloppy type, he was gifted
with the special capability of making many mistakes, mostly in the
right direction.” I also wrote in the preface of the 1961 book in
English: “The present volume is not a mere translation, however;
we have written afresh from beginning to end, revising at many
points, and adding new results such as §17 and several proofs of
propositions which were previously omitted.”
Thirty-five years later in 1996 I published a book, of which
I was the sole author, the first half of which was a revision of
this book, and the last half of which contained new results on
the periods of abelian integrals. Although this subject is related
in various ways to other topics I investigated later, I do not talk
about them here.
(私訳)
本[訳注: 近代的整数論のこと]の序文の中で述べた通り、本には多数の不満足な点があった。それらの内の一つが"モジュライ体"の正しい定義だった。それを私は1958年の10月に発見したばかりであり、パリに到着後すぐにヴェイユに話した。こうして、1959年の春に東京へ戻った後で私が最初にしたことは、この新しい定義を使用することにより理論全体をより良い形に英語で書くことだった。
私達[訳注: 志村博士と谷山氏]は英語版を計画していたが、アーベル多様体における微分形式について私が英語で書いた短いセクションを除いて何もなされなかった。1957年の或る時に、その短いセクションの原稿を谷山に渡したが、彼は1958年の11月に死去した。彼の兄弟の内の一人に会った時、その原稿が私に返された。私は結局1961年に彼との共著として英語で刊行したが、実際には私がすべてを一人で書き、彼はその解説書に対して責任がない。
私は彼が注意深いタイプでないことを分かってはいたが、このプロジェクトを1959年に始めた後で、私が考えていたよりも問題がずっと深刻であることを認識した。実際、あの本[訳注: 近代的整数論のこと]の中で彼が日本語で書いた多くの事柄を私は捨てなければならなかった。彼の人生についてBulletin of the London Mathematical Society (1989)に発表された私の記事[訳注: Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsのこと。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい]の中で以下のことを書いた。"彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた"。また私は1961年の本[訳注: 先に志村博士が説明している通り、形式的に谷山氏との共著としたComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと。因みに題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法とその整数論への応用"となります]の序文の中で以下のことを英語で書いた。"しかし、ただいまの本は単なる翻訳ではない。私達は始めから終わりまで再度新たに書いた。つまり、多くの箇所を訂正し、§17のような新しい結果と以前には省略されていた命題の多くの証明を追加した"。
35年後の1996年に私はある本[訳注: Abelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsのこと]を出版したが、私が単独の著者だった。その本の最初の半分はこの本[訳注: 前述の1961年の本Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと]の改訂であり、最後の半分はアーベル積分の周期に関する新しい結果を含んだ。この議題は後年私が調べた他のトッピクスに様々な意味で関係するけれども、それらをここでは語らない。

以上の通り、志村博士は明確に理由を書いています。つまり、中途半端で不完全な近代的整数論の代わりにComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryを出し、更にはAbelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsも出しているのに、何故旧著を復刊する必要があるのかということです。

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