スキップしてメイン コンテンツに移動

グロタンディークとは何者か?

グロタンディーク氏については、以前に"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇"で紹介したことがありました。これには当然後編があるわけです。気が向けば紹介すると言っておきながら、未だに約束を果たしていないのには理由があります。先ず、私にとってグロタンディーク氏が数学をドロップアウトしてからの話が面白くないのです。念のために言っておきますが、これは記事を書かれたAllyn Jackson女史の文章が面白くないのではありません。日本人の私が言うのもおかしいですが、女史の英文は名文です。ちゃんと英語を理解出来る人であれば、そのことはすぐ分かると思います。ですから、題材となっている伝記的事実が面白くないのです。後編を読んでいて、あくびが出るようでは、和訳というアホらしい苦行には耐えられません。
では、何故面白くないのか? 私のごとき下辺な者が偉そうに言える立場ではありませんので、志村五郎博士が自伝"The Map of My Life"で書かれたことを紹介します。その前に、自己弁明を書きます。
私はよく志村博士の言葉を引用したりしますが、それは私が信奉者とか、そういう理由ではありません。志村博士は世界に向けて、世界の人が分かる言葉で(現代においては英語でしょう)、博士の信念や(言いにくい)批判を正々堂々と誰もが入手可能な本という形で提示しているからです。他の日本人数学者がここまで正々堂々と言っているのを見たことがありません。Twitter等のSNSで、ぼそぼそと日本語で書いているようでは世界の人の殆どが理解出来ないし、何よりも日本語という言語の壁に隠れて陰口を叩いているとしか言いようがないのです。つまり、卑怯者ということです。所詮日本国内向けのポーズでしかないのです。従って、他の日本人数学者の言葉を引用したくても、実質無いのに等しいのだから引用出来ないのです。
話の続きを前に戻します。志村博士はグロタンディーク氏について以下のように書いています。

I also remember him as a man with a completely shaved head, who looked very much like the actor Yul Brynner.
According to some French mathematicians at that time, he got the idea of shaving his head from the actor, but I am not certain. I saw
him again at the International Summer School held in Antwerp in
1972, where he was playing an anti-NATO game; it was so childish
and silly that I will not write about it.
(私訳)
私はまた彼を完全に頭を剃った男として憶えている。彼は俳優ユル・ブリンナーにとても似ていた。当時の何人かのフランス人数学者達によれば、彼が頭を剃るアイデアを、その俳優から得たが、私は納得していない。1972年のアントワープで催された国際夏期学校で、私は再び彼を見た。そこで、彼は反NATOゲームに興じていた。とても子供じみて馬鹿げていたので、それについて私は書かない。

たったこれだけですが、私の思いを代弁しています。数学をやめてからのグロタンディーク氏のすべての行動(隠遁も含めて)は概して"子供じみて馬鹿げている"ように私は思いましたので、Allyn Jackson女史には申し訳ないですが、前編だけで打ち切ります。
とは言え、Allyn Jackson女史の記事でも触れられていますが、Winfried Scharlau博士の収集したいろいろな伝記的事実は偉業だと誰もが認めていると思います。と言うよりも、Jackson女史はScharlau博士の収集した情報に基づいて、あの傑作大作を書いているのです。そして、年月が経ち世界の人はちゃんとグロタンディーク氏の現時点で正確な生い立ち等を認識するようになりました(実際、私が交流している諸外国の方々には常識になっています)。しかし、残念ながら日本人の多くが未だにグロタンディーク氏の父君が有名なアナーキストだったとか(これはグロタンディーク氏の曖昧な思わせ振りとそれに基づいたピエール・カルティエ博士の有名な記事の影響もあるのでしょうが、いったい何年経っているでしょうか)、その他諸々の偽情報を信じているのは、滑稽を通り越して馬鹿としか言いようがありません。そこで、Allyn Jackson女史の傑作大作の後編を失礼する罪滅ぼし(?)として、Winfried Scharlau博士が書かれた記事"Who Is Alexander Grothendieck?"の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2013年08月16日]
Winfried Scharlau博士が記事のタイトルと同じ題名で、グロタンディーク氏の伝記を書いています。その伝記は4巻からなり、当然この記事よりも遥かに詳しいはずです。幸いにして1巻目はアマゾンからでも注文出来るようになりました。私も僭越ながらレビューを書きましたので、ご参考までに。

[追記:2014年2月1日]
"ピエール・ドリーニュへのインタビュー"でドリーニュ博士がグロタンディーク氏についても若干触れていますので、そちらの方もご参考までにどうぞ。

[追記:2014年12月10日]
Winfried Scharlau博士の労作"Wer Ist Alexander Grothendieck? Anarchie, Mathematik, Spiritualität - Eine Biographie"については、"アレクサンドル・グロタンディーク―名前でのみ知られる田園"の前置き及び追記の中で触れていますので、ご参考までに。

[追記:2015年6月1日]
元高弟のリュック・イリュージー博士達による、もっと数学的に踏込んだ座談会の記事"グロタンディークとその学派の思い出"も、ご参考までに。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2013年08月16日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。

[追記: 2023年01月15日]
グロタンディーク氏のRécoltes et Semaillesを書評対象とするPierre Schapira博士によるリヴュー“切り詰めた草稿”もあります。

グロタンディークとは何者か?
2008年8月 Winfried Scharlau

この記事は"Wer ist Alexander Grothendieck?"の翻訳である[訳注: これは独語から英語への翻訳を意味します。誤解の無いよう念のため]。その記事は、ドイツのオーバーヴォルファッハ数学研究所の2006年度年報に独語で載った(copyright © Mathematisches Forschungsinstitut Oberwolfach 2007)。これは2006年にWinfried Scharlauが行ったオーバーヴォルファッハ講義に基づく。著者と研究所の許可を得て、Ludwig-Maximilians-Universität MünchenのD. Kotschickにより、Notices副編集長Allyn Jacksonの助力を得て英語へ翻訳された(translation copyright © D. Kotschick 2008)。
Scharlauは3巻から成る伝記Wer ist Alexander Grothendieck?を書いている。すなわち、Anarchie、Mathematik、Spiritualität[訳注: 現在は4巻に拡張され、4巻目はEinsamkeitです]。主にグロタンディークの両親の人生を取り扱う第1巻は自費出版として刊行されており、ウェブhttp://www.scharlau-online.de/ag_1.html上で入手可能である[訳注: 自費出版ですから、或る程度の受注数を達成しない限り刊行したくても出来ません。幸いにして、第1巻は好評だったので、現在は完全な自費出版から少し規模を大きくして、いわゆる注文出版の形態を取っており、アマゾンからも取り寄せることが出来ます]。

一数学者にとって、この講義のタイトルで示された質問に答えることは難しくない。すなわち、グロタンディークは20世紀後半の最も重要な数学者であり、私達は特に代数幾何学の完全再構築を彼に負っている。この系統だった再構築は深遠な数論的問題、とりわけドリーニュによるヴェイユ予想の証明における最終ステップ、ファルティングスによるモーデル予想の証明、ワイルズによるフェルマー最終問題の解決を認めた。しかし、この講義はグロタンディークの数学に関してではなく、人間社会の片隅における彼の異常な人生についてである。特に、一方ではグロタンディークが42歳でフランス高等科学研究所(IHÉS)の教授職を先ず辞職し、そして数学から完全に撤退し、終には彼自身の家族だけでなく、同僚達、弟子達、知人達、友人達とのすべての関係を断ち切り、知らない所で世捨て人として生きていることがある。他方、数学から撤退の後、この絶え間ない創造的精神を占めていたものは何であるのか人は知りたい。たとえ十分な満足のいく解答は不可能であるとしても、私は両方の質問を探求しようと努めたいと思う。

グロタンディークの両親
グロタンディークの両親の人生を知るならば、人は彼の人生を理解だけは出来る(完全に理解出来るならば)。私は彼の父親について簡単に述べる。
父親はユダヤ人家系の出身で、(おそらく)Alexander Schapiroと呼ばれた。ロシア、白ロシア、ウクライナの国境地域のNovozybkovで1890年に生まれた。15歳で専制君主政権と闘っていたアナーキスト集団に採用された。1905年ロシアは大騒ぎだった。過酷な闘いの2年後、彼と彼の同士達すべてが囚人として捕らえられた。全員が死刑を宣告され、Schapiroを除く全員が処刑された。彼の若さのため特赦されて刑務所での無期懲役(彼は次の10年間をそこで過ごした)を宣告される前に、3週間の毎日、彼は処刑場に連れて行かれた。10月革命と第一次世界大戦の混乱の中で、彼は脱獄してすぐにMachnoウクライナ将軍の小作農のアナーキスト軍隊に合流した。彼はRachilというユダヤ人女性と結婚し、Dodekという息子をもうけたが、絶え間ない不倫を繰返した。再び、過酷な闘いの後、彼はボリシェヴィキ[訳注: レーニンによって率いられた党派。ソ連共産党の前身]の捕虜となり、死刑を宣告された。おそらく脱獄の企ての間に(または、暗殺の企てにおいて?)、彼は左腕を失くした。いろいろな女性達と軍隊の同志達の助けによって、彼はやっとのことで西ヨーロッパに逃亡した。最初ベルリンに隠れ、そのうちにパリに隠れた。この時以降、彼はAlexander Tanaroffの名前で偽造証書を使って生活した。長年、街頭カメラマンをして生活費を稼いだ。1924年頃ベルリンに戻り、彼はHanka Grothendieckと出会った。彼はHankaの夫Alf Raddatzに"私は貴方の細君を盗むつもりだ"と言って自己紹介した。
そして、それが発生した。1928年3月に、Alexander TanaroffとHanka Grothendieckの息子アレクサンドル・グロタンディークが生まれた。5年間、これら3人とHankaの結婚からの娘Maidi(Frode Raddatz)からなる"家族"はベルリンの、いわゆる"納屋地区"で生活した。そこで、かなりの間彼等は写真館を営んだ。ナチスが権力になった後、ドイツにおける状況はユダヤ人Tanaroffにとって非常に危険となり、彼はパリに出戻った。Hanka Grothendieckは出来るだけ早く伴侶に付いていくと決心した。1933年から1934年の年初の頃に、彼女は5歳の息子をハンブルグの牧師Wilhelm Heydorn(グロタンディークに近いすべての人々と同様に、Heydornは非常に注目すべき人柄だった。彼について450ページの伝記[原注: Wilhelm Heydorn, Nur Mensch Sein!: Lebenserrinerungen, I. Groschek and R. Hering, editors, Dölling und Galitz Verlag, Hamburg, 1999.]が刊行された)の家族と住む養育施設に置いた。そのうちにHankaもパリに行った。彼女とTanaroffの両者がスペイン内戦に、主体的な戦闘でないが支援活動として役割を担った。共和党員達の敗北の後、両者はフランスへ戻った。第二次世界大戦が始まって、確実にフランスにおいてもTanaroffは危険な状態にあった(スペイン戦争の元参戦者として、ユダヤ人として、違法外国人として)。彼は悪名高きLe Vernet収容所に収監され、1942年にドイツへ送還、そしてアウシュヴィッツへ送られた。ホロコーストの犠牲者のリストに彼はAlexander Tanaroffの名前で登場する。彼の危険な人生を通じて、一つの目標のみを知っていた。すなわち、自由のための闘いと万人の自己確立。
Hanka Grothendieckの人生も同様にドラマティック(そのドラマは外面的よりも内面的だが)である。彼女の大きな目標は書くことだった。彼女は注目すべき才能があったけれども、結局失敗した。彼女も社会の片隅で人生を過ごした。余白と時間のため、この講義で私は詳しく触れない。
私は今アレクサンドル・グロタンディーク彼自身にたどり着く。最初に彼の伝記のアウトラインを述べたい。もっと詳細な情報については、Allyn Jacksonによる非常に詳しい記事[原注: Allyn Jackson, “Comme appelé du néant—As if summoned from the void: The life of Alexandre Grothendieck”, Notices, October 2004 and November 2004. 訳注: Allyn Jackson女史による記事は、前編だけですが、私が"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇"と題して和訳しました。参考になれば幸いです]を参照する。

子供から数学者、さらに世捨て人まで
前に述べたように、アレクサンドル・グロタンディークは、Alexander Raddatzとして1928年3月28日にベルリンで生まれ、両親と異父姉Maidiと人生の最初の6年間を一緒に生活した。彼は1934年の初めから1939年の4月末まで、ハンブルクブランケネーゼのWilhelm HeydornとDagmar Heydornの家に他の里子達と一緒に過ごした。そこで、彼は最初小学校に通い、そしてギムナジウムに通った。IHÉSでの期間を除いて、これは人生で彼が"普通のカリキュラム"で生きた唯一の時期だったのかも知れない。1939年の初め、とりわけ彼の里親達(WilhelmとDagmar)がナチス政権に敵対し、里子達が連れ去られる可能性と闘わなければならなかったので、ドイツにおけるアレクサンドルの状況は非常に危険になった。そんな状況で、彼がユダヤ人の血を継いでいることは明らかだったであろう。従って、1939年4月末に彼はフランスにいる両親のもとへ送られた。次の数ヶ月、彼がどこで過ごしたのか知られていない。おそらく、ニームで母と一緒にいたのだろう。戦争開始後、敵国の市民としてHankaは息子と共にマンドゥ近郊のリュクロ収容所に収監された。アレクサンドルはそこで学校に通学出来て、時にはプライベートな教えを受けた。1942年頃、どういうわけかアレクサンドルはル・シャンボン・シュール・リニョンに着いた。中央高地にある、この小さな町はナチスに敵対するレジスタンスのセンターだった。数千の避難民がそこに隠れ、偽造証明書と食料引換券を与えられ、スイス国境周辺に密出国させられた。数千人がドイツの死の収容所への送還から救われた。この集団レジスタンスにおける主要人物がプロテスタント聖職者André Trocméだった。彼は系統立ててフランスの収容所を旅行し、取り分け出来る限り多くの子供達を脱出させた。おそらく、こんなふうにグロタンディークはル・シャンボンに来たのだろう(ル・シャンボンの偉大なる物語は多くのドキュメンタリ、小説、映画[原注: 例えば、Philip P. Hallie, Lest Innocent Blood Be Shed: The Story of the Village of Le Chambon and How Goodness Happened Thereを参照。この本はHarper & Row, New Yorkにより複数のバージョンが刊行されたことがある]の主題だったことがある)。ル・シャンボンで、グロタンディークはセヴァンヌ学校(Trocméによって創立された国際的私立学校。最初から学校は非暴力とすべての人々の団結に捧げられた。戦争時は特別な考え方ではなかった)に通学出来た。1945年、アレクサンドルはそこでかなり混沌とした学校教育を終え、バカロレア資格を得た。
戦後、グロタンディークが結局モンペリエにいたのはおそらく偶然である。多分彼の母がそこで職を見つけたのだろう。彼は慎ましい奨学金を得て、数学の勉強を始めた。大学が彼に多くのことを提供しないことがすぐに分り、大部分独学に頼る必要があった。高校にいた時から、彼は長さや容積のような概念が意味することを見つけようと計画していて、彼自身の詳述によれば、基本的にルベーグ積分の理論を開発した。1948年の秋、彼は一年間パリに行った。パリで、その時代の最も重要なフランス人数学者達、彼と同年代の若い世代のジャン=ピエール・セール、ピエール・カルティエ、François Bruhat、アルマン・ボレルのみならず、アンリ・カルタン、アンドレ・ヴェイユ、Jean Leray、ローラン・シュワルツのミドル世代にも会った。元来グロタンディークは"ルベーグ積分"に関する研究に対して直ちに学位を取得出来ると希望した。勿論、彼は知られていることの殆ど大部分を簡単に再発見したことが分かった。それにもかかわらず、彼はこの主題を続けたがり、カルタンとヴェイユのアドバイスに従って、1949年6月20日にジャン・デュドネに手紙を書いた。デュドネはシュワルツと同様にナンシーで教えていた。この時以降、グロタンディークは数学的メインストリームに入って来て、次の20年間に彼がしたこと達成したことが一般的に知られる。私の説明を短くするために、詳細についてはJacksonとそこに挙げられている文献を参照する。
先ず最初に、シュワルツがデュドネと共同で書いたばかりの論文を読むようにとグロタンディークに与えた。その論文は14個の未解決問題のリストで終わっていた。数ヶ月後、グロタンディークはそれらのすべてを解いてしまっていた。この状況を想像してみよう。すなわち、一方において、フィールズ賞を受賞したばかりの、科学的経歴の頂点にいたシュワルツ。他方において、かなり不適切で異常な教育を受けた、田舎出身の無名の学生。グロタンディークは位相ベクトル空間に関する研究で学位を授与され、しばらくの間、その分野を続けた。彼は2年間ブラジルに行き、それからカンザスに行った。主にセールの影響の下に、1954年の始めに代数幾何学へ転向した。その分野で最も目を見張らせる新しい結果はリーマン-ロッホ-ヒルツェブルフの定理だった。グロタンディークの代数幾何学における興味の目覚めの2年間の内に、彼は広範囲にわたる一般化と完全に新しい証明を見つけた。それは、依然として数学における彼のおそらく最も重要で単一の業績である。
グロタンディークの科学的研究の次の15年間は代数幾何学の再構築に捧げられた。1958年彼はIHÉSに任命された。IHÉSは実業家Léon Motchaneによって創立されたばかりだった。グロタンディークの元先生で、今はIHÉSで同僚であるデュドネと一緒に、彼はEléments de Géométrie Algébrique(EGA)に関する仕事を始め、伝説的なSéminaire de Géométrie Algébrique(SGA)を開催した。その当時彼に近かった多くの数学者達は、数学をする彼の方法が全く特異だったと強調する。すなわち、難問または有名な問題、特に"力ずくで"やらなければならないなら、彼は興味を持たなかった。しかし、そんな問題の解法が"それ自身で"結果となるほどに、根底にある構造の深遠で完全な把握をすることが彼の目標だった。
IHÉSでの12年間、グロタンディークは外見的にブルジョアな生活をした。彼はMireille Dufourと結婚し、彼女との間に1959年、1961年、1965年生まれの3人の子供達をもうけた。もっと早くに、前の女性との間に息子がいたことがあった。しかし、彼の子供達の教育は型にはまらなかった。少なくとも一時的に、子供達は公立学校に通わなかった。形式的な教育よりも自分自身の方法を見つけることがもっと重要だとグロタンディークは考えた。彼の家は歓待的で、彼は時には一度に何週間の必要で人々を泊めた。
IHÉSのセミナーで、彼は傑出した学生達に囲まれた。彼等に追究すべきアイデアを親切に与えた。同時に、ますます研究所の創立者で監督者のMotchaneとの対立が発展した。同僚ルネ・トムとの関係は複雑でないでもなかった。1966年の国際数学者会議でグロタンディークはフィールズ賞を授与された。彼は名声の頂点にいた。1968年5月にパリで学生改革が勃発した。グロタンディークに深い印象を及ぼし、彼の人生を決定的に変える。後でこれに立ち戻るつもりだ。
1970年に、グロタンディークが後でよく"大きな転機"と呼ぶことになる事件が起きた。彼はIHÉSを辞職し、数年以上の間にコレージュ・ド・フランスとパリ第11大学で職を得たけれども、数学から顔を背け始めた。彼は環境保護とエコロジーの問題に向かい、反原発運動を支持し、軍備増強(特に核兵器)と軍産複合体に対して闘った。これらの目標を活発に追求するため、彼と何人かの同志達はグループ"生き残り"を創立した。"生き残り"は後に"生き残りと生活"としても知られた。約3年間、彼はこの運動に全エネルギーを捧げた。
同時に、彼の家庭生活は消滅した。"生き残り"のための米国中の"宣伝旅行"で、彼はJustine Skalbaと出会った。彼女とはフランスで彼が設立した生活共同体で暮らし、彼女との間に息子をもうけた。しばらくの間、最初の結婚からの彼の子供達も、この生活共同体で暮らした。1973年に、もう一つの決定的な変化があった。すなわち、彼はパリを去って、モンペリエの北西約60キロにある、セヴェンヌ山脈の南側稜線上のVillecunという小さな村に移った。その時から、グロタンディークは小さな村または教会のない小村だけに住んで来ている。ますます彼は元同僚達、学生達、知人達、友人達、彼自身の家族と接触を絶った。Justine Skalbaとの関係も2年後に終わった。
Villecunへ移って間も無く、不規則にしか教えなかったけれども、モンペリエ大学で教授職を持った。何百または何千ページにもなる数学的"瞑想録"を書き始める前、何ヶ月または何年も続けて、彼は全く数学をすることを止めた。定年退職の1988年前の最後の数年間に、散発的にしか研究しなかったが、CNRS (Centre National de la Recherche Scientifique)での研究職を再度得た。
1974年から彼は仏教に向かった。複数回、日本山妙法寺からの修行僧の訪問を受けた。日本山妙法寺は絶対非暴力を説き、世界中に平和の塔を樹立している。だが、彼の仏教への愛着は続かなかった。1980年頃から、グロタンディークはキリスト教の不可思議で難解なアイデアに引き寄せられた。ますます頻繁に深刻な精神的問題の時期があった。おそらく、いつも内面にあったことがグロタンディークに表面化していたのだろう。しばらくの間、彼は汚名を着せられたカトリック修行尼Marthe Robinに入れ込んだ(Marthe Robinは聖体[訳注: パンとぶどう酒]だけで30年間暮らしたと主張した)。一種のエンジェル(エンジェルの神的側面または悪魔的側面のどちらを強調したいかに依存して、彼はフローラまたはルシフェラと呼ぶ)が彼の考えの中で重要な役割を担っている。夜ぶっ通しで、彼はコラールをピアノで演奏し、どんどん歌った。とうとう1988年に行き過ぎた断食の時期が彼に命の代償を払わせた。外見上、彼は神に姿を現させたかった。彼は故意に死の瞬間を体験し、イエスの40日間断食に打勝ちたかった。1999年、最後の審判が差し迫り、その後は黄金時代が始まるだろうと彼は予言した。後に、これらの妄想は、例えば宇宙論の質問を含む、非宗教的分野まで拡張した。少なくとも1980年代の終わりから、長期間彼の人生は妄想に支配され、緊急の医学的精神病理学的救済を必要としたことは間違いない。
1991年の夏、グロタンディークは突如、Les Aumettesの住居を去り、長い間知られていないままの場所に引っ込んだ。彼は殆どすべての接触を拒絶し、瞑想録を書き下すことに毎日が占められているらしい。

大きな転機
確かに、1970年の"大きな転機"に寄与したいくつものの理由がある。それらは補完的であり矛盾している。いくつかは明らかと思えるが、他はグロタンディークの存在と彼の過去のどん底に埋葬され、殆ど解明出来ない。多く(もっとはっきり言えば大量)が謎のままだ。彼の急進的な行動を理解または理解出来るという印象を誰も持っていない。グロタンディークの同僚達、弟子達、友人達は皆、この段階の要因が何だったのであろうかと自問したに違いない。以下の説明での試みが私の個人的見解に基づくことを私は強調したい。別の人は近くの諸事実を別の方法で解釈するかも知れない。
グロタンディークがIHÉSと絶交した決定的な理由は、IHÉSの予算の一部分(約5%)がフランス国防省から来たという事実だと頻繁に言われて来ている。この事実は、グロタンディークの平和主義者、アナーキスト、急進左派人の政治的信念と相容れないだろう。グロタンディーク彼自身がこのバージョンに頻繁に裏付けて来ている。しかし、この説明が全真相で、しかも特別に筋が通っていると私は考えない。国防省による財政的支援がグロタンディークには容認出来なかったことは間違い無く正しい。だが、IHÉSの指導部と教員達の間で、このトピックの多くの議論があった。これらの議論で、常任教授達の殆どがグロタンディークを支持した。良い意欲があれば、問題は解決されたであろう。もっとはっきり言えば、創立者であり監督者であるMotchaneとグロタンディークの間の関係は、この時既に完全にうまくいってなかった。IHÉSとの決裂、とりわけMotchaneとの決裂に導いた理由はDavid Aubinの学位論文の中で分析されて来ている。この対立の詳細についてはAubinの調査を参照する[原注: David Aubin, “A cultural history of catastrophes and chaos: Around the Institut des Hautes Etudes Scientifiques, France, 1958–1980”, Ph.D. thesis, Princeton University, 1998.]。この対立の中で、原因と結果が逆だったということが最も筋が通っているように思える。すなわち、予算をめぐる論争はMotchaneにグロタンディークを(最終的に)排除する可能性を与えた。Motchaneはグロタンディークをパラノイアな問題人だと見なした。おそらくMotchaneは選択の余地が無かった。と言うのは、もしグロタンディークがとどまったならば、おそらく他の常任教授達のうち2人、トムとLouis Michelが去っていただろうから。
IHÉS予算をめぐる対立がグロタンディークの決別の理由として不十分であることは、彼が数学と数学コミュニティからそっぽを向いた理由を説明していないという事実からも成り立つ。世界中で、彼のモラルと政治的信念に調和して、働くべき場所を彼は見つけられたであろう。どこでも歓迎されたであろう。研究を続行出来たであろうし、彼の学生達の多くが彼に付いて行ったであろう。
瞑想録Récoltes et Semaillesに関するコメントの中で、ジャン=ピエール・セールは決定的なことを語っている。グロタンディークは、おそらく全世界が彼に期待したこと、すなわち、この瞑想録の1,600ページの中で理路整然とした説明を与えることをしなかったと言う。セール曰く:

だが、最も明らかな質問、全読者が期待するものに君は答えていない。すなわち、なぜ君自身が当の研究を捨てたのか?

数行後に、セールは彼自身の質問に答えようと試みている:

君のよく知られているエネルギーにもかかわらず、君は引き受けて来たいろいろな研究にただ単に疲れたという印象を僕は持つ。

手紙と会話の中によって、セールはこの見解を後で裏付けた。それを考えると、一同僚が言った通り、一日12時間、一週間に7日、一年に12ヶ月、グロタンディークは20年間数学をして来たことに人は全く賛成出来る。しかし、質問は依然として残る。多くの学者達(または芸術家達)は、創造性と力強さが消滅するという理由で、彼等が始めたプロジェクトを諦める。だが、彼等は依然としてコミュニティの尊敬されるメンバーである。
セールはただ"疲労"と言う。同様の見解は、他者(しかし、"失望"を含む、より深い理由を考えている)によっても述べられたことがある。Helmut Kochからの口頭の会話によれば、Eléments de Géométrie Algébriqueに関する作業を始めるというグロタンディークの決心は悲惨だとIgor Shafarevichは考えた。グロタンディークは彼の創造性を、巨大理論の完全構築にではなく、"偉大な問題"に使うべきだった。この方向でのコメントは、IHÉSでのグロタンディークの一同僚である物理学者ダヴィッド・ルエールによってもされたことがある。すなわち、超人間的努力の後で、グロタンディークは彼が始めた全作品を完結出来ないだろうことを認めざるを得なかった。あたかも大聖堂を彼自身の手によって構築することを決心したかのようだ。壁が2メートル高かった時、彼は中止せざるを得なかった。
3人全員(セール、Shafarevich、ルエール)が重要点を突いているが、決定的なことを見逃していると私には思える。彼等はグロタンディークが数学を止めた理由を説明しているかも知れないが、彼が全人生を変えた理由、彼が人間社会から撤退した理由ではない。彼の個性に根差している、この出来事は間違いなく、職業を辞めること又は科学的研究からの撤退よりも、ずっと根深く感情的である。再び、原因と結果が逆転されていたかも知れないと考えるのが当然だと思える。どんな理由であれ、グロタンディークはもう(1950年から1970年まで彼が住んでいた)社会には住めなかったのだから、彼は数学も去らなければならなかった。
グロタンディークの古い友人で同僚のカルティエは、グロタンディークの決心のより表面的でない説明を試みたことがある[原注: Pierre Cartier, “A mad day’s work: From Grothendieck to Connes and Kontsevich”, Bulletin of the AMS (N.S.) 38 (2001), 389–408.]。カルティエはIHÉSの資金調達の重要性を軽視せず、グロタンディークの数学的研究における危機と考えるが、彼はグロタンディークの人生の破裂はもっと深い理由があったとも考える:

42歳で驚くべき創造力に富んだキャリアの突然の終結に対する分析の試みをしたい。その理由は、国防省が研究所に補助金を出していたことを彼が発見したことだった・・・グロタンディークの反応の激しさを理解するためには、彼の過去と当時の政治的状況を人は考慮すべきだ。彼は全人生を革命に捧げた戦闘的アナーキストの息子だ。これが、彼の直接にあまりよく知らなかった父だった。主に彼の母の賛美を通して、彼は父を知った。子供時代のすべてを通して、彼はのけ者として過ごし、長年"追放された人"だった・・・彼はいつも"より良い"場所に行くことに不安を感じ、貧しさの中で、貧困にあえいでいてさえ安らぎをより感じていた。のけ者達の団結は彼の中に深い思いやりを作った。彼は彼の原則通りに生活し、彼の家はいつも広く"迷い猫達"に開放的だった。結局、彼はビュール[訳注: IHÉSの所在地ビュール=シュル=イヴェットのこと]を実生活から彼を遠ざける、飾り立てた監獄だと考えるようになった。この理由のため、彼は気後れて科学的活動の価値について疑いを追加した。1957年のブルバキ会議で始めて、彼は私に彼の疑いを打ち明け、数学以外の活動を考えていると言った[原注: 彼の人生のスピリチュアルな出来事に関する短い注意の中で、1957年に対し"使命と不誠実"と言及している(Winfried Scharlauの注意)]。人はおそらく有名な"ノーベル症候群"を追加するはずだ。[1966年にフィールズ賞受賞の後]、ヴェイユ予想の証明の最終(決定的)段階に努力し、彼が彼自身のために設定したプログラムを1974年にドリーニュが完成するだろうことをおそらく認識し始め、数学的創造性が消滅する歳として40歳を設定する非常に有害な見解におそらく屈していた時、彼がピークを過ぎて、それ以降より効力の無いことを繰返すしか出来ないと信じたのかも知れない。
時代のムードも強い影響を及ぼした。1963年から1974年までの第二次ヴェトナム戦争の悲劇は多くの善悪感を目覚めさせた。

上記で予算をめぐる論争が本当の重要点でないと言われた時、政治的またはより正確に社会政治的な理由は何の役割も果たしていないことを意味しなかった。それと反対に、それらの理由はグロタンディークにとって非常に重要だった。これを説明するために、彼の政治的活動を思い出さなければならぬ。
これらの活動を、彼自身の人生と彼の両親の人生の背景に対して見る必要がある。グロタンディークがいつも両親の例を意識したとカルティエが強調する時、なるほどカルティエは正しい。グロタンディークの父が自由と自己確立のために命がけで、この世界の権力と闘った。グロタンディークの共感はいつも貧乏人達、迫害される人達、弾圧される人達、陰の人達にあって、いつも左派な政治的信念を、リベラルな政治的信念を、おそらくアナーキストな政治的信念さえも支持した。だが、長い間、これらの信念は政治的活動の中で記述されなかった。1950年代の終り頃と1960年代の始め頃に、アルジェリアにおけるフランスの戦争に彼はもちろん反対したが、シュワルツ、シュヴァレー、サムエル、またはカルティエのような彼に最も近い人達の多くと対照的に、彼は公的な抗議に参加しなかった。少なくとも彼は米国へ移民することを真剣に検討した。
グロタンディークの政治的参加は1966年の夏に公然と明らかになった。その時、彼は国際数学者会議でフィールズ賞を受けるためモスクワに旅行することを拒否した。これは、ロシア人作家Yuri DanielとAndrei Siniavskyへの迫害と投獄に対する抗議だった。この行動は多くの注目を引いた。数年後、学生運動に大きな役割を果した正統的共産主義者と社会主義者によりグロタンディークに反して大いに支持された。
彼の次の政治的行動は、彼の発議において作られた、ヴェトナム戦争真っ最中の1967年11月の最終3週間のハノイと北ヴェトナムへの旅行だった。1967年12月20日にパリで、後には他の所でも、彼はこの旅行について連続講義を行った。科学的個人的接触及び彼の行った講義に関する報告に加えて、戦争が及ぼした破壊、爆撃、必需品欠乏、ヴェトナム人彼等自身の未来への信頼について述べた。彼は慎重に弁証法的唯物論の洗脳と大衆生活の行き過ぎた厳しい統制を批判したけれども、彼のすべてのセンテンスが、厳しい環境の下で新しい社会を構築し、公的教育と学問を支援するヴェトナム人達の苦闘に対する彼の深い共感を物語った。
彼の衝動から出たヴェトナムへの旅行は、それが"個人主義的"行動という点で、おそらく彼特有だった。ジャン=ポール・サルトルのような有名人物を含む、多くのフランス知識人達はずっとインドシナに関心を持っていた。多くの数学者達もこの運動に真剣だったが、グロタンディークの指導教官、シュワルツほどでなかった。シュワルツは自伝の中で、ヴェトナム独立のための闘い、その国と住民に対する彼の愛情について語った[原注: Laurent Schwartz, Un Mathématicien aux Prises avec le Siècle, Odile Jacob, Paris, 1997; English translation, A Mathematician Grappling with His Century, Birkhäuser, Basel, 2001.]。彼は多くの影響力を持つ政治家達、とりわけヴェトナム首相Phan Van Dongとホー・チ・ミン彼自身と協議した。
シュワルツも1967年にストックホルムとロスキレで開催されたラッセル法廷の発起人の一人だった。彼は戦友として多くのフランス有名人と他の数学者達に、とりわけJean-Pierre Kahane、Bernard Malgrange、ピエール・カルティエ、André Martineau、スティーヴン・スメイルに言及しているが、グロタンディークの名前はついでに言及されているに過ぎない。その頃、グロタンディークは他の人達と一緒に組織化された行動に関心が無かった。彼は参加しなかった。おそらく冷淡ですらあった。彼の政治的行動を観察したすべての人達は彼の良い意志と真剣で正直な意図を保証したが、同時に彼を信じられないほど世間知らずで無知ですらあるとした(当時グロタンディークがNATOが実際何であるか知らなかったという報告を私は殆ど信じられない)。
1968年の5月に学生改革(それはすぐに全西側世界を覆った)がパリで発生した。ストライキーとデモがあり、時には暴動へ拡張した。大学カリキュラムの急進的変化に対する要求、試験の廃止に対する要求、自己決定学習に対する要求、教員、スタッフ、学生の平等な代表に対する要求があった。極端なケースでは、軍事研究を行っていると疑われている計算センターと学部の破壊に対する要求さえあった。それは本当の"文化改革"(現在では、既に消えてしまっている遠い過去のように思える)だった。後の時代に書かれるグロタンディークの瞑想録のいろいろな所で、これらの事件が彼に与えた深い印象を言及している。彼は若人達の改革の深刻さを確信し、西側文明と資本主義は深刻な危機に向かうと確信した。彼は彼自身の学問的職種が正しい道なのかどうか疑問を展開し、そんな活動に携わることが無責任かどうかさえも思った。これは、当時の、とりわけフランスの多くの大学教員、知識人に起こった。それが"時代精神"(これが他のすべてのことより最も強い)だった。だが、グロタンディークはこれに対して、彼の特徴的な強引さ、厳正さ、無鉄砲さで、他者と彼自身に反して反応したが、おそらく頑迷さ、一種の使命(彼が周辺の人達よりも予知能力があったかも知れないが)もあっただろう。
この背景を考えれば、フランス国防省から予算の一部を受取るIHÉSの問題にグロタンディークが妥協出来ないことは疑い無いだろう。瞑想録(とりわけRécoltes et Semailles)の中で、この問題がIHÉSとの決裂とならざるを得ず、セールとドリーニュのような彼と最も近い同僚達がこの問題がいかに決定的だったか裏付けていると繰り返し言って来ている。それにもかかわらず、私が上記で述べたことが起こっていたはずである。すなわち、Motchaneはグロタンディークを取り除こうと努める多くの理由を持ち、グロタンディークは既に内面的に大きな転機に達していた(たとえ彼がまだそれを意識していなくても)。
"大きな転機"がどのように起こったか理解しようと努める中で、グロタンディークの精神的状況を考慮する必要がある。その時までに、不安定で、おそらく時には暴走したはずだ。たとえカルティエがヒントしていても、これは同僚達や学生達との付き合いには出現しなかったであろう。しかし、もっと近い付き合いでは、深い人格不調が明らかだ。ここは、この主題にさらに進む場所ではない。
今、"大きな転機"の2つ目の側面、数学からの決別にたどり着く。このプロセスは"ネガティブ"な側面と"ポジティブ"な側面を持つと私は思う。"ネガティブ"は既に言及されている。すなわち、セール、Shafarevich、ルエール、カルティエによって理解され、記述されたように、疲労と失望である。"ポジティブ"な側面は、グロタンディークが数学よりももっと重要だと彼にとって思える職種を見つけ、それに対して次の2、3年間、以前には数学に使って来たようなエネルギーと積極さで没頭したということだ。この職種は、広い言葉の意味で環境保護、勢いが急上昇であるエコロジー運動("エコロジー"という言葉は、生物学の分科としてのみ当時に存在した)、原子核エネルギーへの抗議、軍国主義と軍備拡張競争に反対する闘争、新しい社会と新しい"文化改革"に対するサポートだった。全体から見て、1968年の世代の多くの理想に倣った運動だった。外見上、この運動、新しい目標、新しい理想はグロタンディークを非常に感銘させたので、彼は真剣な信奉者になった。この時、彼はまだ意識して数学を捨てたのではなかった。後で彼が頻繁に言うように、彼にとって数学が"不毛の土地を通しての旅行"とはまだ言わなかった。だが、少なくとも暫くの間、彼にとって数学よりも重要なものを見つけた。
これらの目標に関するグロタンディークの主要活動は、最初"生き残り"と呼ばれ、後に"生き残りと生活"と呼ばれるグループの設立だった:

生き残り
人類の生き残りのため、職種を超えた国際的運動

この運動の目標は、1970年第1回会報にまとめられた(上記のスローガンと同じく、引用は会報の英語版からである):

軍事衝突と軍事衝突の脅威によるだけでなく、現代工業社会によって作られた生態上の不均衡(公害、浪費、自然資源の荒廃)によっても人類、もっと一般的に言えば命が絶滅の危機に瀕しているので、その生き残りのために闘うこと。

すべてを考慮すると、この運動へのグロタンディークの参加は、数学における彼の研究と全く対照的に、効果が持続せず、失敗に終わってしまっていると思える。そんなふうに彼には思えたであろうが、おそらく、その見解はあまりにも表面的である。すなわち、"生き残りと生活"の時期の間、グロタンディークは何人かの若人達に深く感銘を与え、彼等の人生を完全に変えたことは間違いない。そして、グループは"緑"の運動の設立に寄与したのかも知れない。"緑"の運動はヨーロッパの社会と政治にしっかり根付いて来ている。
1970年6月26日付けの辞職の公式レターの直後、グロタンディークはパリ第11大学で何百の聴衆を相手に講義を行った。その講義の中で、彼にとって重要になったすべてのことを語った。すなわち、核兵器の拡散、軍備競争、技術進歩によって提起された人類への脅威。この技術的進歩の一部分であるから、数学研究は危険であると言うほどまで彼は踏み込んだ。この講義の内容は後に、"現代世界における科学者の責任: 科学者と軍部"というようなタイトルの下で、いろいろな非公式原稿で出回った。
グループ"生き残り"の設立は、1970年7月と8月のモントリオールでの代数幾何学に関する夏期学校の期間中に来た。グロタンディークは結晶コホモロジーに関する講義をするために、この会合に招待されていた。彼は3つの条件の下で行くことに同意した。すなわち、数学的講義に加えて、彼は環境保護の目標に関して同等の時間の講義をしたかった。この講義は科学的講義と同じように宣伝され、刊行されるものだった。会合の組織者はこれらの条件を受け入れ、出席者達は会合の始めに受け取った教材の中に、パリ第11大学での早期の講義に基づいたテキストを見つけた。外見上、グロタンディークのカリスマ的個性は、殆ど若い数学者達の全グループに非常な感銘を与えたので、"生き残り"はグループによって自発的に設立された。最も活動的なメンバーの一人がGordon Edwardsだった。Edwardsは、グロタンディークの学生時代からの友人Paulo Ribenboimの下で博士課程の学生だった。彼は後にカナダにおいて反核運動のリーダーとなった。
グループの第1会報は25人に達するメンバーのリストを含んでいて、そのうちの18人が数学者である。彼等の大部分がグロタンディークによって"リクルート"されたと推測する必要がある。彼の息子Serge(その時17歳だった)と同様に、彼の姑Julienne Dufourがリストの中にあった。グロタンディークはやがて他の傑出した数学者達、とりわけいつも左派運動の一部だった人達を引き入れることに成功した。会報の第2号にとって、クロード・シュヴァレーは編集者で編集委員のメンバーだった。約1年後、Pierre Samuelがフランス人編集委員に加わった。
私の知る限り、運動の会報は全19号、総計して約700ページが1970年と1975年の間に発刊された。初期には、編集作業の責務がグロタンディークにあったことは間違いない。彼は確かに無署名の記事の多くを書いた。1973年に彼がVillecunに引越した後は、仮にあるとしても、殆ど参加しなかったに違いない。そんなグループにはよくあることだが、ほんの短い時間の後に崩壊の傾向が始まった。例えば、Samuelは1973年にグループを去った。
環境保護、反軍部活動の時期の始めにおいて、グロタンディークが意識的に学者としての彼の名声から得をしようと努めたことに注意するのは重要だ。彼は"生き残りと生活"の目標の真実に深く入り込んでいたし、適切な啓発と情報を提示された時に誰もが同じ結論にたどり着くはずだろうと間違い無く彼は考えた。分別があり賢明な人はグループ"生き残り"の見解に賛同するのに違いないだろうと彼は思ったので、他の数学者達を最初に確信させようと努めたのは彼にとって当然だった。そして、始め頃は、努力は実を結ぶだろうと信じた。
モントリオールでは、初期的な熱狂の勢いを通してのみ彼は何人かの出席者を確信させた。いつも左翼的活動家だった人達、例えばシュヴァレーまたはSamuelを個人的会話に引き入れることはおそらく難しくなかった。セールまたはドリーニュのような他者はもっと用心深かったに違いない。しかし、彼が大衆的活動を通して新しい改宗者を募ろうと努めた時、真実の瞬間が来た。例えば、1970年のニースにおける国際数学者会議において、彼はインフォメーションブースを設置し、数学者達が群れを成してグループ"生き残り"に参加するだろうという期待の下に、派手な行動を通して注意を引いた。彼自身が総括したように、この試みは全くの失敗に終り、数学者達のコミュニティから彼を疎遠することに寄与した。数年の骨折り損の後、数学者達と科学者達は人間社会を脅かす危険を理解しないし、合理的に考えも行動もしないという結論に彼は達したに違いない。だから、ますます数学のみならず、数学者達のコミュニティからも撤退した。
この時点で、私は"大きな転機"となったであろう理由の議論に結論を出したい。しかし、まだ決定的要点に触れらていないように私には思える。すなわち、何故、人間社会そのものからグロタンディークは撤退して来ているのか? 彼の個人的生活の全体を考えると、どんな理由であれ、誰かとの個人的関係を長期間維持するのは彼にとって不可能であるという印象を持つ。そんな関係が単純な外的要因で終結しなかった時はいつでも、必ず深刻な対立となり、グロタンディーク側で通常酷い非難をし、時には悪態すらつくことになった。彼は人間社会に現状のまま長期間生活出来なかった。従って、彼も数学とそれに関する活動を止めざるを得なかった。
間違い無く、これはユニークな科学者である人間の人生にとって負の勘定だ。

グロタンディークの瞑想録
社会からの撤退の後、グロタンディークがやったことに今戻る。そんな活発で創造性に富んだ精神が休んだままであるはずがないことは言うまでもない。彼の主な関心は明らかに"瞑想録"を書き下すことだった(かつ、まだ現在形"である")。知られている限り、"瞑想録"は伝記的テーマ、宗教的テーマ、秘伝的テーマ、哲学的テーマをカバーする。私はここでグロタンディーク自身の言葉"瞑想録"("黙想録"とも言う)を、彼が頻繁に言うように、書いていることのみならず、"瞑想すること"も意味するとして使用する。1960年代(その時彼はタイプライターで日々の多くの時間を使った)から、彼は考えを書き下すことに慣れていた(それは1980年代以降から強い衝動になったと予想するのは自然だ)。
先ず始めに、終生彼がライターになる使命を感じていたということと、彼が間違い無く表現の達人だということに注目する必要がある。彼の言語的能力、文体的能力、とりわけ言葉を生み出す創造性はライターの信頼度を高めるだろう。彼は勿論"遺伝的素質"を持っている。彼の母はライターになる野望を持ち、重要な文学作品、自伝的小説Eine Frau[訳注: 或る女]を遺した。彼の父も、アナーキスト運動に対する生涯の苦闘がライター業を追求することを阻んだけれども、現実の職業として文学を理解した。グロタンディーク自身が、リーマン-ロッホ定理の証明の後、初めて詩人に転向するアイデアを楽しんだ。彼はかなりの量の時節的韻文を(独語、仏語、英語で)書き、また詩的テキストを独語から仏語へ翻訳したことがある。1979年に最初の真剣な詩人的試みをした。その時に彼はEloge[訳注: 称賛]を書き下した。それについては後で触れることにしよう。彼はその時に詳しく計画を練った。
概観を作るため、グロタンディークの有名な"瞑想録"に関する年代順の概要を与え、それらの内容についてコメントを付けている。

1979: L'Eloge de l'Inceste[訳注: 近親相姦の称賛の中で]
(1979年1月から7月。おそらく紛失)
1981: La Longue Marche à Travers la Théorie de Galois[訳注: ガロア理論を通しての長い展開]
(1981年1月から6月。約1,600ページ+大体同じ長さのコメントと付録教材。未刊だが、2004年から一部分がインターネットで入手可能)
1983: A la Poursuite des Champs[訳注: 野を追跡する]
(約650ページ。D. Quillenへの"手紙"として始まる。未刊)
これにRonnie Brown、Tim Porterとの詳細な文通が付いている。
1984: Esquisse d'un Programme[訳注: プログラムの概略]
(1984年1月)
1983–1985: Récoltes et Semailles: Réflexions et Témoignage sur un Passé de Mathématicien[訳注: 収穫と種蒔き: ある数学者の過去に関する追憶と証言]
(1,252ページ+約200ページの導入、コメント、まとめ。写真コピーとして作成。インターネットで入手可能)
1987: La Clef des Songes[訳注: 夢の鍵]
(315ページ、未刊)
1987–88: Notes pour la Clef des Songes[訳注: 夢の鍵に関するノート]
(691ページ、未刊)
独立作品Les Mutants[訳注: 突然変異体]を含む。
1990: Développements sur la Lettre de la Bonne Nouvelle[訳注: いいニュースの手紙に関する展開]
(82+2ページ、未刊。1990年2月18日から3月15日に書かれた)
1990: Les Dérivateurs[訳注: シャント]
(約2000ページ、未刊だが、一部分がインターネットで入手可能)

確かに、この相当な量の原稿は、その頃の間にグロタンディークが書いたすべてのものではない。或る日(おそらく1990年か1991年の初め)、彼が多くの原稿と他のドキュメント(例えば文通書簡)を古い石油樽の中で燃やしたことがいろいろな目撃証言がレポートしている。彼の唯一のフィクション作品L'Eloge de l'Incesteはおそらく、この行為のいけにえになった。コピーがどこかで存続する可能性もある。
より広い状況で分析と解釈が望ましいことを示すだけのため、これらの"瞑想録"のいくつかに今コメントする。
間違い無く、彼の"瞑想録"のうち最も有名なのはRécoltes et Semaillesである。これは、とりわけ数学と数学コミュニティに関する彼の認識を含んでいる。おもに多くの同僚達と元弟子達への彼の攻撃(それはどちらかと言えば不公平に見える)のため、このテキストはある悪評判を取って来ている。彼が"クレージ"で"パラノイア"という広く行き渡っている考えは主に、このテキストに基づいている。今までに、この作品について詳しい"非公式"文献(インターネットでリサーチするのは容易だ)があるので、ここで更なるコメントはしない。この作品が実際何であるのか言うことは難しい。すなわち、自伝ではない、フィクション作品ではない、しかし、科学的作品でもない。ドイツ人友人達への手紙の中で、グロタンディークは一度"数学的走馬灯"と呼んだ。
グロタンディークはL'Eloge de l'Incesteについて、一方で彼の最初の哲学的性質を持つ黙想であり、他方フィクション作品(彼は"歌"と呼んでいる)だと言ったことがある。彼はたまに他の瞑想録の中でそれに言及し、いくぶんけばけばしいタイトルを謝罪している。ドイツ人友人達との文通の中で、グロタンディークは1979年8月17日に初めてElogeに何回か言及している:

6月の初めから、Vaucluseの独居草庵に引っ込んでいる。そこでは誰も私を知らない。私は静かに"寝る"ため、しばらくここにいるだろう。7月の終りに、初めての歌"L'Eloge de l'Inceste"の第1版を終えた。9月の始めに、私はそれを友人と一緒に見直しをして、ゆっくりとタイプして綺麗なバージョンを仕上げたい。つまり、他にもやるべきことを持って、一日に数ページ、おそらく2ヶ月または3ヶ月を要するだろう。・・・だから、11月または12月には、私はそれを写真コピーするだろうが、大学ではしない・・・始めに200コピー。全部で170ページになるだろう。・・・その歌を刊行するか私はまだ100パーセント決心していない。おそらく、刊行するだろう。それは絶対に私が今までやって来た最も意義深いことだ。だが、数学を除いて量が多くない。いずれにせよ、初めての歌の出版を承認する前に、少なくとも春まで待とう。その時までに、次の2つの歌の内容が熟してはっきりしていると思う。それらの形が、少なくても概略が出現すると思う。

Esquisse d'un Programme(EP)はある意味でLa Longue Marche à Travers la Théorie de Galois(LM)の要約だから、LMとEPを一緒に議論するのが最もいい。EPによって、グロタンディークはCNRSの職を申請した。1970年代初期からの彼の数学的考えをテキストは含んでいる。それは今英訳と共に出版されて来ている[原注: 次のカンファレンス報告はLMとEP周辺のアイデア(特にファルティングスへの手紙とEPのテキスト)の仲間に関係がある: The Grothendieck Theory of Dessins d'Enfants, Leila Schneps, editor, London Mathematical Society Lecture Notes 200 (1994); Geometric Galois Actions 1 and 2, Leila Schneps and Pierre Lochak, editors, London Mathematical Society Lecture Notes 242 and 243 (1997).]。その調査の中心的オブジェクトは、n個の印点を持つ種数gのコンパクトリーマン面のモジュライ空間M(g, n)(もっと早期にドリーニュとマンフォードによって研究されて来た)である。グロタンディークは、数論的オブジェクト、特に有理数体Qの絶対ガロア群に対する関係を作る。これらの問題の初等幾何と組合わせ論的側面に取り組むため、"子供のお絵描き"という彼の理論を設計している。彼はまた"遠アーベル幾何"についていろいろと考えている。グロタンディークの数学的"瞑想録"すべてのうちで、これらは確かに最も反響があった。これらの問題に関する多くの論文があり、1990年代には、これらのトピック周辺で複数のワークショップが組織された。

La Clef des Songes
私達は今、瞑想録La Clef des Songesにたどり着く。これはまだ大部分が知られていない。他のものと同様に、それが何であるかを言うよりも、それが何でないかを言う方がずっとやさしい。明確に定義された主題を持たず、学問的方法に従う配慮を持たないのだから、学問的作品ではない。グロタンディークが時折彼の人生からエピソードを語っているけれども、自伝ではない。そして、何らかの形式のフィクションでは絶対にない。と言うのは、物語が無く、筋を進行させる会話が無く、筋を実行出来たであろう登場人物が無いからだ。しかし、多くの点でグロタンディークは詩的言語を使い、その大部分を人々が詩を理解(または吸収)するようにしか理解出来ない。すなわち、理性的にではなく、情緒的に(一例: 神のみが沈黙。そして、彼が語る時、誰も理解しないような低い声で)。そして、例えば夢の現象の系統だった分析ではない。と言うのは、具体的な夢に関してではないからだ。おそらく告解場のようなものである。だが、何を彼は懺悔するのであろうか? グロタンディークに彼自身で喋らすことが最もいい。すなわち、"それは長い瞑想の記録だ。意図を持たない瞑想、その中で考えは主にそれら自身に任される"。
グロタンディークを知る多くの人々は彼が"いつも"夢に大いなる関心があったと報告している。しかし、夢が中心的テーマになったのは1970年の"大きい転機"の後に過ぎない。例えばフロイドのTraumdeutung[訳注: 夢の解釈]を通して彼は徹底的に研究し、他の関連文献も読んだらしい[原注: これは、例えばグロタンディーク所有のフロイドの一冊、Die Traumdeutung, Fischer Studienausgabe, Band IIの中の余白ノートから明らか]。他方、彼にとって非常に重要性を持つ夢の一つすら書いてなく、彼がどのように分析したか何も言っていない。
La Clef des Songesの内容の概要または表を作る代わりに、少数の主要アイデアに言及するだけに留めておこう。"夢見る人"である外部者がいて、外部者は人々を知っており、人々が彼等自身を認識するように外部者は人々に夢を送るという説明でグロタンディークは始めている。これらの夢のうちでも、特別に重要なメッセージを運ぶ夢がある。遅鈍と変化への懸念のため、多くの人々がこれらのメッセージを理解しない。夢は人々の心理的プロセスの結果ではない。むしろ、夢は外部から来る。次に、グロタンディークは"夢見る人"の性質を分析して、神は存在し、神が夢見る人であるという結論にたどり着く。それから、彼は自身がどのように神を信仰するに至ったかの問題を議論している。彼の両親の伝記に関する、かなり詳しい記述がある。両親は確信に満ちた無神論者でありアナーキストだった。そして、彼は青少年時代のことを少し語っている。なるほど彼の経歴を考えれば、"神への道"を見つけたということは決して明白でないが、これは外部から(すなわち、神自身から)の衝撃を要したということを彼は説明しようと努めている。
人々各々が"使命"を持っており、この使命の重要部は、自己を見つけること、自身の自己を認識することから成っているとグロタンディークは確信している。この探求を通してのみ、人の創造力は解き放たれる。と言うのは、創造力は通常、社会の制約と内なる遅鈍(それらは創造力の発展を妨げる)を通していろいろな方法で抑圧されるからだ。彼は、決定的創造力として"エロス"の重要な役割を議論している。更に、彼は3つのレベルを議論している。一人の人間が一般及び創造力に関して、それら3つのレベルで発達する。すなわち、肉体レベル、精神的知性レベル、スピリチュアルレベル。スピリチュアリティは、La Clef des Songesの中のみならず、グロタンディークの考えの中で主要な概念である。彼はどれくらいの距離でスピリチュアル生活にたどり着くかに従って、人々すべてを測っている。彼の数学研究のスピリチュアル面についても議論している。最後に彼は人間の多くの変形について語る。変形は、スピリチュアリティ及び明白な彼等自身の損失(例えば、生命のいろいろな領域における美しさに対する感覚の損失)と相携えて進行する。
個人的に私はNotes pour la Clef des Songesが、これまで知られているグロタンディークの瞑想録のうちで最も興味深いと思う。元々それは実際にLa Clef des Songesについての所見を意味された。だが、やがてLes Mutantsという独立したテキストが発展した。ちょっと奇妙なタイトル"突然変異体"(仏語においても科学的フィクションの語彙から来ている言葉)はスピリチュアル風に"単なる人間"と異なる人々を指している。特に、彼等は時代より進んでいる。そのテキストの一ヵ所でグロタンディークは、この概念の説明を以下のように与えている(翻訳で若干縮小されている):

今世紀(過去の世紀と同じく)において、一定数の孤高な人達がいたことがある。彼等は"新人間"(私の目にはそう思える)、すなわち"突然変異体"のように見えて、現在何らかの方法で既に目下具体化されて"明日の人間"を予示している。最大限の意味で人間だが、来るべき世代に間違い無く出現し、"凡人一掃"の時代の過程で出現するだろう。その時代の夜明けは非常に近く、"新人間"はそれを暗示的に告げている。

グロタンディークは、計18人の突然変異体の人生と仕事を数百ページで記述、議論している。これらの突然変異体と彼自身との個人的つながりを彼が考えていることが明らかになる。例えば、彼はたまに彼自身を彼等の継承者と呼ぶか、または彼等を彼の年長者と呼んでいる。彼が彼自身で突然変異体を集めたように、私達は今これらの突然変異体のリストを載せる。間違い無く、彼等の選考はかなり勝手である。グロタンディークの考えの中の中心的(さほどオリジナルでない)テーマは、人間のスピリチュアリティの低下である。必ず偽者が次に出現して、その後にやがて"新時代"が続き、その時代は自由と自己確立の時代であり、自分自身の"魂"と調和のとれた生命の時代が来るということだ。突然変異体は、この新しい時代を告げ、予見する人達だ。これが基準で、この基準によって彼は人を選考した。リストは以下の人達から成り、すべて男だ。仕事に関する所見はグロタンディークから取られている:

C. F. S. Hahnemann: ドイツ人医師、学者。彼の時代の医学を更新した。
C. Darwin: イングランド人自然科学者。
B. Riemann: ドイツ人数学者。
Râmakrishna: インド人(ヒンズー教)牧師、教師。
R. M. Bucke: アメリカ人精神科医、学者。先駆者。
P. A. Kropotkine: ロシア人地理学者。アナーキスト革命。
E. Carpenter: 聖職者、農民、イングランド人思想家、作家、教師。
S. Freud: オーストリア人精神科医、学者。精神分析の創始者、新しい科学的人間主義の主要人物。
R. Steiner: ドイツ人哲学者、作家、雄弁家、教育者・・・。先見の明のある教師、人智学の創始者。
M. K. Gandhi: インド人法律家、政治家、教師。非暴力の拡大のために働いた。
P. Teilhard de Chardin: フランス人(イエズス会士)聖職者、古生物学者、キリスト教エキュメニカル思想家。神秘的な先見の明のある人、宗教と科学の和解へ働いた。
A. S. Neill: イングランド人教師。教育において自由のために闘う教育者。
N. Fujii (Fujii Guruji[訳注: 藤井日達上人]と呼ばれる): 仏教僧、教師。
J. Krishnamurti: 雄弁家。インド人宗教思想家、作家、教師。
M. Legaut: 大学教授、農民、フランス人キリスト教思想家、作家。ナザレのイエスの弟子。キリスト教のスピリチュアル回復のために働いた。
F. Carrasquer: スペイン人小学校教師、教育者。"自己確立"学校と社会のための過激的アナーキスト。
Slovik: アメリカ人労働者、外見上定職を持たない下層従業員。

ここでは、これらの人の名前を挙げて、これらの人が議論されている様相をリストするしか出来ない。それらの様相は、性、戦争、自覚、宗教(それが何を意味するのか―確かに、組織としての教会ではなく典礼でもない―詳しい説明が続く)、科学、文化、終末論、社会的正義、教育、スピリチュアリティ。
おそらく、この小さな少量の情報が、この瞑想録にとって何が重要なのか、漠然とした印象を与える。
全体の状況を完成させるため私は、Felix Carrasquerと彼の妻Matilde Escuderがグロタンディーク家の近い友人(元々、グロタンディークの妻Mireille Dufourの知り合いだった)だったこと、Les Mutantsを含めてNotes pour la Clef des Songesを書くことはグロタンディークがM. Legautの本を読んだことによって呼び起こされたことを言及したい。もっと詳しい議論は別の機会に任されなければならぬ。
これらのテキストのうちで、哲学的(そして、ある意味で数学的でもある)なものは、すべて共通する提示方法に従っている。グロタンディークは、あたかも日記の中のように節ごとに考えを書き込んだ。後で、あるとしても、少ししか編集しなかった。節の一つにもっと言うべきことがあった時、通常彼は脚注または補遺を通して行った。それは時に、新しい節そのものになった。たまたま、彼が書かれたテキストの側で瞑想するのが常だったことでもあった。これは、いろいろな脚注のみならず、所見についての所見、またその所見に関する所見・・・を生成した。確かに、この提示方法は読みにくくするが、私の見解では、もっと重要な批判は、これらの長い原稿の多くが明確な意図を持っていないことだ。Récoltes et SemaillesLa Clef des Songesの両方において、執筆が既に始まってしまった後で、新しい見解が出現したことは明白である。テキストが明確な意図を持っていないらしいので、明確な構造もない。テキストは、ループの中で真っ直ぐに流れず、捌け口もなく、曲がりくねっている。あたかも原始の流れの谷間のように、広い帯状域の風景を通して方向を変えている。著者は意図への意志を持たず、さまよっている。彼の数学に関する早期の書き物と全く異なっている。すなわち、EGAとSGAの両方とも膨大で詳細だが、代数幾何学の"正しい"展開、または代数幾何学における"正しい"コホモロジー理論という非常に明確な意図がある。
失踪後、グロタンディークは瞑想録に関して何万ページを書き下して来ている。完全に印刷されれば、数十巻になるだろう。重要だとしても、これの全部または、その大部分でさえも殆ど不可能だろう。完全な知的かつ人間的な孤独の中で、本当に重要な書き物が出現出来るということを人は信じられない。
だが、グロタンディークが言語の真の達人であること、彼が型にはまらないアイデアと考えを確かに持っていること、彼が世界を変わった、いやむしろ特異な感じで見ていることを人は憶えておくべきだ。従って、彼の無数の原稿の中に、完結したテキストが頻繁にあるかも知れないと想像出来る。すなわち、詩、彼の人生と彼に近い人達の人生からの伝記的エピソード、彼が読んだ本のコメント、おそらく詩を超えた叙情的テキスト、哲学的考え、黙示録的な展望。未来の世代のために、グロタンディークの数学を超えて重要かも知れない彼のライフワークのそれらの部分を保存するには手遅れとなる前に、始める必要があるようだ。

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)...

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ...

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections ...

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追...

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ...