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私が見て来た小平邦彦

先日の日誌に、故Serge Lang博士の"Complex Analysis"を入院先に持ち込んだ話を書きましたが、函数論は私の専攻分野(の中に含まれる)でしたから読むのに時間はかかりませんので、同時に持込んだのは、これまた名著と言われる、故David Bohm博士の"Quantum Theory"です。私が最初に量子力学を勉強したのは、故P.A.M Dirac博士の"The Principles of Quantum Mechanics"でしたが、読んだ人なら御存知の通り、物理実験の話は一切出て来ません。せいぜい、第一章の重ね合わせの原理のところで、光の偏光、すなわち光子の振舞いについて少し触れているだけです。それはそれで、私のような数学科の人間には助かるのです。と言いますのは、実験を長々と説明されても、そうかと思うだけで実感出来ないからです。実験器具なぞ、高校以来触ったこともなければ、見たこともない人間には苦痛以外の何物でもありません。喩え話として、熱があっても体温計を見たことも測ったこともない人に、熱があるのは約37度以上だと説明しても、おそらくは常に体温計を見ない限り、何度くらいで熱があるのかすぐに忘れるでしょう。ですから、前期量子論の話はいつも黒体の中の輻射実験から始まるのですが、私から言わせると苦痛なのです。ですが、もういいかげんな歳になり、前期量子論を知らずに人生を終えてもいいのか自問したら、まだ気力がある時点で勉強しておきたいと思って、David Bohm博士の本を持ち込みました。前期量子論を詳しく記述した和書では、故朝永振一郎博士の"量子力学Ⅰ"が名著ですが、ここまで本格的にやるのは、ベッドに寝転がって読むのに腕力もいるので敬遠しました。以上を纏めると、私は物理専攻の人にはDirac博士の本を勧めません。と言うより、物理専攻だからこそ先に読むべきではなく、Bohm博士又は朝永博士の本を先に読むべきだと思います。逆に言えば、物理専攻でない人(実験が好きで、実験的意味をすぐに把握出来る人を除く)、特に数学畑の人にはDirac博士の本を勧めます。因みに、Bohm博士の本を読むのに必要な予備知識としては、基礎的な数学(特に微積分)と教養課程の一般物理(高校物理でも可能かも。但し、ハミルトニアン等の若干の解析力学の知識を必要とします)を前提として、せいぜいフーリエ解析だけでしょう。
さて話が変わりますが、先日は佐武一郎博士による故小平邦彦博士の回想を紹介しましたが、同じ"Asian Journal of Mathematics"の2000年度第4巻の№1の巻頭の中で、故彌永昌吉博士による回想、"KUNIHIKO KODAIRA AS I HAVE SEEN HIM"(PDF)もありました。何故これを先にしなかったかと言えば、彌永博士の文章はどこかで日本語で読んだ記憶があり、それが記憶違いであっても、彌永博士は小平博士に関する文章をよくあちこちで書いていて、新事実なるものを見出せなかったからです。それと、もう一つ、こっちの方が重要なのですが、紹介するにも私個人の心が痛むからです。あの時代の日本人(人の生命及び人生に鈍感で無神経であり、かつ世界規模の視線を持たず、自分達の無知さを棚に上げて国を破滅に追いやった政府や軍部の馬鹿連中を除く)は今と違って、本当に強い精神力と忍耐力と心優しさを持っていて、(失礼ながら)一見ひ弱な小平博士でも、終戦前後の時、明日の日本(と御自分)がどうなるかも分からない中で、しかも発表する当てもない調和積分論に関する大論文を、病床の幼い御長男(最終的に病死されます)の傍らでお書きなったのは、終戦を見越してのことよりも、今を生きた証し(つまり、遺書)として残そうと思われたのではなかろうかと、私は考えていたからです。
ですが、私の親族の高校生(母親が私の従姉妹)が数学に多少の興味を持っていて、他の記事も読みたいと聞きました。勿論、彼は小平博士のことは一切合切知りませんし、増して彌永博士と小平博士が義理の兄弟であることも知りません。既にそういう時代になっているのです。戦時下での研究が如何に困難であるかも聞いていないだろうし、何よりも研究の前に食糧難があったはずですが、何でも食べられる飽食の時代に育った人が多勢を占める時代なのです。ですから、こういう時こそ伝記的回想録も必要だと考え、意欲ある高校生のためにも、私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月18日]
このペィジは2011年01月14日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

私が見て来た小平邦彦
1999年12月30日 彌永 昌吉

小平邦彦(1915-1997)の人生と業績に興味がある人にとって、彼が自伝[1]を、全集[2]と共に残していることは幸いである。全集は、1950年代初期小平のプリンストン大学での学生の一人である、シカゴ大学のW. L. Baily, Jr教授による素晴らしい序文と共に、その内容の完全で注意深い説明がある。更に小平は、いろいろな数学分野の教科書と数学と関係のないテーマの随筆を含む、多くの日本語の刊行物を残している。数学と関係のないテーマの随筆は、彼の本[3]に集められている。だから、私達は彼について直接の資料を事欠かない。
私が以下に述べるとことに沿って数えると、1935年に知り合って、60年間より以上生活を共にし、身近に彼に接して来た。上記の資料に大いに依存するけれども、彼について個人的な回顧を含んでいる、この記事が読者に興味を持たせるならば、私は幸いである。

暫く、私自身の経歴の話から始めることを許されたい。1926-29年の間、私は東京大学で学士課程を学び、一年半以上、高木貞治教授の指導の元で博士課程を勉強した。高木貞治教授は類体論の創始者であり、その分野で私は幾つかの研究を始められた。1931年に、私はヨーロッパで更に研究をするため日本を去った。最初、Artinと勉強するためハンブルクへ行った。Artinは類体論を完成する重要な結果を得ていた。そこで同時期にパリから来ていたClaude Chevalleyと知り合ったことは、本当に幸いだった。1932年、私はチューリヒでの国際数学者会議に参加したが、HilbertやHadamardのような数学者と共に副会長の一人として招待されていた高木教授と再会して私は幸せだった。私は2年以上ヨーロッパ、主にパリに滞在したが、Henri Cartan、Andre Weil、Jean Dieudonne等に会う機会を持った。彼等は、Bourbakiという合同筆名のもとで、数学全体の革新となる非常に知られている仕事を始めた(私の帰国の後、1936年から)。私は彼等から"数学の統一"、すなわち、数論、代数、幾何、解析等の異なる分野に関係なく、全数学が共通の土台を持つ、ことを他の事項ともに学んだ。1934年、私は東京に戻り、翌年東京大学の教官(助教授)として任命された。ついでながら、高木教授は1935年に60歳の定年を迎え、1935-1936年に数学科で最後の講義をすることになっていた。これらの講義の題名は、第一学年のための解析入門(微積分及び初等函数の複素解析の始め)で、私はこれらの講義の演習を担当する栄誉を持った。

この年、1935年に偶然にも小平が数学科に入学した。私は演習時間に、ちょうど一週間後教室で彼に会った。自然対数の底eが2次の無理数でないことを証明せよ(講義でeが無理数であることを証明した後で)という演習問題を与えたことを憶えている。小平は黒板に来て、一言も言わず、数行で彼の証明を書いた。これらの数行を他の学生と一緒に読むうちに、彼の完璧な証明に感嘆した。証明にはすべての言葉が的を得ていた! 私は後に、プリンストンや米国のその他のところでの彼の講義が聞くよりも見ることで楽しまれたと聞いた。つまり、彼は低い声で殆ど言葉を発しないのが常だったが、黒板には言わねばならぬことを明確な英語で書いた。

彼の自伝[1]には、小中等学校で惨めな生徒だったが、数学だけ出来て他の科目は良くなかったと、その題名の通りに彼は言っている。自伝にそんな題名を付ける程に彼は非常に謙虚だったと、私は推測する。私は、彼が中等学校では少なくとも英語は確かに出来て、第一高等学校では独語は出来たと信じる。ところで、彼は第一高等学校にトップクラスで入学したが、当時の学校で最高の高等学校だった。彼がどちらかと言えば身長が低く、喋るのが口篭る程に彼は内気だったことは事実である。
[1]によれば、彼は幼年期に数に興味を持ち、おはじきで遊んだ。中等学校の第三学年から、彼は東北大学の藤原教授による分厚い本"代数学"に取組み始めた。この本は大学生用に書かれていたから、彼にとって読むのが難しかったことは想像に難くない。しかし、小平は努力して理解し、楽しんだ。
第一高等学校で、彼は数学の教師が数学を楽しんでいるのを見て、そのような学校で数学の教師になりたいと思った。彼は特に荒又博士を指していたと私は思うが、荒又博士は、その時までに"ゼータ関数の分割性"について興味ある結果を得ていて、数学科の末綱教授のよき友達だった。小平は数学科に頻繁に出入りしていた。私は彼が数学科に入学する前から"飛抜けて頭のいい学生小平"を聞いたこともあった。

上で述べたように、1935-1936年の間、私は高木教授の講義の演習を担当した。このクラスで、後に皆著名な数学者となった小平邦彦、伊藤清、河田敬義、古屋茂のような学生に遭遇したことは本当に幸運だった。
高木教授の定年退官の後、末綱教授が数論と代数学の講座を引継いだ。長い間幾何学を担当していた中川教授は翌年に定年退官しなければならず、私が1937年の始めから幾何学の講義をすることになった。1936-1937年の間、私はJ. von Neumannに沿った現代解析学を講義した。ヒルベルト空間と群の概周期函数の理論についての彼の記事及び、量子力学の基礎についての彼の本に感銘を受けたのだ。これらの講義に小平は出席した。

[1]の中で、1937年末までに河田と共に末綱教授を訪ね、翌年の彼のセミナーに参加させてほしいと願い出たと、小平は言っている。末綱教授は彼等の願いを受入れたらしく、実のところ河田が許可された。だが、後に小平へ私のセミナーで幾何学を勉強した方がいいと手紙を書いた。彼はそれから末綱教授の手紙を持って私を訪ね、セミナーに参加させてほしいと述べた。完全に末綱教授の手紙を忘れてしまっているが、私は非常に喜んで彼を歓迎した。その時から、小平は良き友人の一人である古屋と一緒に我家を頻繁に訪問した。

小平は、小平権一と小平イチ、旧姓金井の長男として1915年3月16日に生まれた。両親は日本中部の長野県諏訪地方出身だった。小平権一は農林次官で、優秀な行政官であると同時に博学な人であった。小平の母方の家族も諏訪地方で有名だった。小平夫人は、いわゆるキリスト教の無教会無宗派に関係していた。従って、凡そ文化的興味を持ち、勤勉で知的な家庭に、小平は生まれた。彼の父はドイツ公的旅行からピアノ買って帰った。
小平は、中等学校第3学年の時から、東大生の一人と一緒にピアノを習い始めた。その東大生は優れたピアニストだったが、数年後大学を卒業して他の都市へ移住しなければならなかった。小平は、その学生の姉妹、中島多津子嬢[訳注: 日本語表記をこのようにしましたが、もし誤りがあれば申し訳ございません]と共に残された。中島多津子嬢は優れた音楽家でもあったが、ピアニストよりむしろバイオリニストだった。小平は才能あるピアニストで、特に楽譜をみてすぐに演奏するのが得意だった。
ところで、私にはピアノを弾く妹がおり、我家にもピアノがあった。一度小平が私達を訪れた時、私達はスペイン人作曲家アルベニスを弾いてほしいとお願いし、彼の感情を込めた演奏に魅惑された。中島嬢は何人か弟子を持っていて、彼等のために年1、2回のコンサートを催した。小平はよく彼等と伴奏することが多かった。弟子の中に、たまたま私の妹セイ子がいて、小平が伴奏するのが頻繁だった。いつごろそうなったのか、私は正確には憶えていないが、ともかくも小平とセイ子は1943年に結婚した。

小平が1938年に私のセミナーに参加したことは述べた。今、私は1938-1943年の5年間に何が起こったのか述べなければならない。私のセミナーで、小平は有名なアレキサンドロフ-ホップの本を安倍亮と一緒に読んだ。安倍亮はセミナーに翌年参加した。1939年に学士課程を終えると、小平は同じ学部の物理学科で理論物理を勉強したいと願い、1939-1942年に課程を履行した。卒業してすぐに、物理学科の講義を受持ち、一年後には東京文理科大学で数学科の講義を任命されたので、彼が結婚した時は生活に困らなかった。彼は数学科の学生の時1937年から数学論文を発表し始め、以降、定期的に発表続けていた。しかしながら、1941年12月第二次世界大戦に参戦したことは非常な不幸だった。そして、1943年には既に悪化していた!

小平は[1]の導入で次のように書いている。"私は数学と音楽を楽しみながら、いつも日本で生活すると思っていた。この思いは戦争によって完全に壊された"
もっと言えば、日本の状況は1944-1945年に向かってますます悪くなり、東京で生活を続けることは困難だった。政府は、官立大学で働く私達に学科を田舎へ避難させることを認め、奨励さえした。だが、他方で田舎の人達は大勢の東京民を受入れるのを嫌ったから、そう容易なことではなかった。東京大学の数学科と物理学科は、小平の父の影響力によって、これが可能だった。学生と、これらの学科の教員の一部(何人かの教員は東京に残ることを好んだので)は、諏訪地方に受入れられた。
私は、小平の父の質素な農家である生家を訪れた。私の家族、私の父の家族、安倍亮(私の別の妹タエ子と結婚した)の家族と共に小平の家族は皆、この地方に避難した。しかし、ここで以下の悲しい出来事を経験しなければならなかった。
東京文理科大学の数学科(ここで、小平は河田と安倍と共に働いていた)は長野県の別の場所茂野に避難した。安倍(頑強な体ではなかった)は茂野で重労働しなければならず、休息を取るために諏訪へタエ子と一緒になった。余りにも遅すぎて、彼がそこで1945年の初頭に亡くなったことは不幸だった。
邦彦とセイ子の結婚から、彼等はかわいい息子和彦を得たが、残念ながら腎不全を患っており、終戦の数ヶ月後の1946年に諏訪で亡くなった。
東京の私の家も同様に小平の家は、米国の爆撃によって完全に焼かれていた。8月の始めには、広島と長崎で起こったことを私達は聞いた。終戦を宣言する1945年8月15日の天皇陛下の放送と、鈴木首相の簡単な追加声明(戦争よりも他のことをするために我が国を発展させようと、私達に希望を与えたようだ)に私は深く安堵した。
[2]の序文に委ねるので、私は小平の数学的実績の詳しい説明をしないが、1944年からリーマン面の理論の一般化に彼が深く関心を持ったことをここに言及する。リーマン面の理論の一般化は、ヘルマン・ワイルの有名な本に書かれている一複素変数の代数函数の理論の多変数への一般化である。彼は、ホッジの証明は不完全だが、ワイルの"直交射影の方法"によって修復可能であろうことに気付いた。彼はまた、ホッジによって扱われていない場合でも同様の方法で扱い可能であることに気付いた。これらの考えを3つのノートに書下ろし、1944年に高木教授によって配布された日本学士院紀要に発表された。そうしている間にも、米国爆撃が更に激しくなり、日本での科学雑誌の刊行は不可能になった。しかし、結果のもっと詳しい説明を与える論文を書くよう、私は小平を励ました。(小平は[1]の中で、刊行が可能かどうかも分からないで、何故そんな長論文を書くのか理由が分からなかった、と言っている。しかし、私は、終戦直後の時代の雰囲気で彼を鼓舞したと思う。和彦の病床の側でさえも、彼はこの論文を書き続けた。話は変わるが、位相群に関する岩澤の論文があった。私が、その完成を鼓舞したのも、その当時だった) 諸外国と自由なコミュニケーションを許されていない時の異常な日本の状況と、この状況の中で私達を助ける角谷の親切な仲介を、私はここで思い出さなければならぬ。(角谷は今エール大学の名誉教授で、1943年に小平と共同研究した) 角谷は、戦争前にプリンストンの高等研究所に招待され、日本の戦争布告の後に、特別米国船で送還された。終戦後、彼は占領軍の中で多くの友人を得た。小平と岩澤の優れた論文を米国の雑誌に送りたいと私が角谷に話したので、角谷は、これらの論文をthe Annals of Mathematicsに送ってくれるよう友人の一人に頼んだ。これらの論文は受領され直ぐに刊行された。と言うより、これらの論文は、この有名な雑誌に登場し、小平の論文はヘルマン・ワイルの注意を引いた。従って、小平は1949年にヘルマン・ワイルから高等研究所への招待状(彼の家族を連れて行けなかったけれども)を得た。
彼の本[3]は、1949年8月から1950年9月までの時期のセイ子宛の手紙を含んでいる。手紙は、廃墟の中の日本から米国に着いた時に、彼が如何に戸惑ったかを見せている。ハーバード大学で開催された戦後初めての国際数学者会議に参加した時、私は彼と再会した。

1949年、小平は笑顔のヘルマン・ワイルに温かく歓迎されたが、ワイルは彼が殆ど英語を話さない一方で、彼の論文が綺麗な英語で書かれていることに、少し驚いたようだ。彼は自分のセミナーを後で開くと申し入れた。しかし、シーゲルとド・ラームによりセミナーはすぐに開かれ、小平は質問を受けるため出席した。こうして、ド・ラームと小平の友情は生まれた。プリンストン大学のスペンサー教授(ちょうど同じ年にスタンフォード大学から来たばかり)も彼にセミナーで話すように依頼した。そして、彼等の親密な友情は更に発展し、1950年代全部を通して、彼等の共同研究は非常な成功を修めた。
小平は最初一年間だけの滞米と考えていたが、W. L. Chowによるジョンズ・ホプキンス大学での申込み(他からの申込みも続いたが)を最初に受けた。彼の家族(セイ子と二人の娘、YasukoとMariko[訳注: 日本語表記が分からないので、原文のまま])は1950年に一緒になることが出来た。結局彼は18年間滞米し、数学の仕事(家族との音楽)に没頭した。1954年にはアムステルダムでの国際数学者会議で、彼はジャン=ピエール・セールと共にフイールズ賞の共同受賞者だった。ヘルマン・ワイル教授からメダルを受ける儀式に私は参加し、彼が心底から喜んでいることが想像出来た。彼は、ヨーロッパと北米以外の出身の最初のメダル受賞者だった。その後、多くの日本と国際的な賞を受けるが、ここでは列挙しない。

1967年帰国後の彼の人生をもう少し述べて、この記事を締めくくる。彼は1975年まで東京大学で、それから10年以上学習院大学で教えた。1972-1973年の間、東京大学理学部長に選ばれたが、特にその当時の学生運動のために彼は喜ばなかった。しかし、もっと基本的には、この種の役目に彼は自分を不適当だと評価していた。(だが、実は行政官としての父の能力を彼は受けているが、多くの業務に注意を必要とする管理的仕事を好まなかったのであろうと私は思う。彼はむしろ深い問題に専念することを好んだ。彼の本[3]の題名が意味する"怠け数学者の記"は、非常に勤勉な数学者によって書かれた本の題名としては驚きかも知れない。これは主として、彼の理学部長としての経験から来ていると私は思う。つまり、義務を充分うまく果たされなかったので、彼は自分を怠け者だと見なした) 東京大学では、飯高やその他、才能ある学生を持った。彼等は小平の仕事を継承し、発展させている。

彼の長女Yasukoは、山梨医科大学生理学教授の橋本敬太郎氏と結婚した。山梨は長野と東京の間の位置する県である。次女のMarikoは、東京都立大学幾何学教授の岡睦雄博士と結婚した。
1980年代終わりには、小平邦彦の健康は低下し始めた。彼は最初呼吸器疾患となり、そして聴力に支障を持った。難聴となり、音楽を聞く楽しみを失った彼を見るのは悲しかった。山梨県の病院に入院し、窓から富士山を見られる病室に彼は最後の日々を過ごした。1997年7月26日の彼の死後、セイ子は同じ東京の中落合の家(そこは小平邦彦が両親と暮らした同じ家)で岡の家族と一緒に生活を続けたが、2000年1月始めに彼女は急死した。それは私にとってもう一つの悲しみだった。

参考
[1] Kunihiko Kodaira, Autobiography, Nikkei Science, Tokyo, 1987 (Title in Japanese: Bokuwa sansu shika dekinakatta).
[2] Kunihiko Kodaira, Collected Works, Vol. I-III, Iwanami Shoten, Publishers, Tokyo and Princeton University Press, Princeton N. J., 1975.
[3] Kunihiko Kodaira, Notes of an idle mathematician, Iwanami Shoten, Publishers, Tokyo, 1986 (Title in Japanese: Namake sugakusha no ki).

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