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エルゼヴィアに対するボイコットが速度を速める

前回紹介した"ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー"の前置きの中でガゥワーズ卿のエルゼヴィアに対するボイコット、いわゆる"知識の代償"と呼ばれる運動にほんの少しだけ言及しました。あまり詳しく書かなかったのは、この運動が有名で、おそらく日本でもかなりの人が知っていると思っていたからです。私の友人共は研究者なのだから当然知っていますが、知り合いと言うだけであまり交流のない人の中にはこの運動のことを全く知らない人がいて、逆にニューズになってましたかと訊かれました。この人は年齢もかなり若いけれども、全くサイエンスに興味が無く、つまり文系出身なのですが、ニューズは日本のミーディア経由でないと何も知らないようでした。一昔前にガラパゴス携帯がどうのこうのと世間では揶揄されてましたが、人までガラパゴス化しているようでは話になりません。携帯がガラパゴスであろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいことであって、知的財産をめぐる運動は理系文系を問わず何人も関心を持っているのが当たり前だと思うのですが、日本の現状はそうではないようです。
"知識の代償"運動は知的財産をめぐる運動の流れの中の一つだと考えていいでしょう。この運動の言いだしっぺであるガゥワーズ卿がリーダでよかったと私は思います。ガゥワーズ卿は数学の業績が立派すぎるだけではなく、いわゆるオーガナイザとしても優れた人だと思います。それが証拠にThe Princeton Companion to Mathematics(PCM)を所持している人は執筆者一覧を見て下さい。ほぼ全員が世界的に著名な数学者ばかりです。こういうことは編集者であるガゥワーズ卿が卓越した人でなければ出来ないことなんです。これに引き換え、日本で出版されている各数学辞典の執筆陣はほぼ日本国内限定の著名さしか持ち合わせていません。これは下辺な私ごとき者でさえ分かる事実です。それは仕方がないことなんです。何故ならばほぼ日本人限定向けの辞典だからです。仮に世界的に著名な外国人数学者に原稿依頼出来たとしても誰かが日本語に翻訳する必要があり、編集陣に負担を強いることになりかねません。もっと言えば、そもそも編集陣がそんな依頼を出来るほど実力と人脈を持っているとは考えにくいです。
さて前置きはこれくらいにしておきます。今回紹介するのは上述した若い人達を考慮し、NATURE誌に載っていたドキュメンタリ風のニューズ記事"Elsevier boycott gathers pace"です。この私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2019年02月20日に某サイトに載せたものです。

エルゼヴィアに対するボイコットが速度を速める
2012年2月9日 John Whitfield

科学界の反対者達は商業出版社から自由になる方法を熟慮している
ティモシ・ガゥワーズは何百人の数学者と他の研究者達が、アムステルダムを拠点とする学術出版の大手であるエルゼヴィアと関係を持たないとする公開誓約にガゥワーズともに参加することに驚き、喜んでいる。
しかし、彼はエルゼヴィアから重大な回答を期待していない。"ボイコットの目標はエルゼヴィアにそのやり方を変えさせることではなく、むしろ数学コミュニティにおいて私達の行動方法を変えることであり、そのようにして主要な商業出版社から自由になることだ"と彼は言う。
これは突然に発生するのではない。"私達が土台を築き、いくつかの難しい移植を差し込んでいる間に、事が少し静かになることが必須なのかも知れない"。
前例がある。すなわち、以前のそんなボイコットと抵抗のうちで最も継続している遺産は、既存出版社の大荒野ではなく、むしろ出版するための新しい場所と方法の創始である。
英国ケィンブリッジ大学の数学者であり、数学の最高の栄誉であるフィールズ賞の受賞者のガゥワーズは1月21日のブログポストでボイコットを宣言した。彼は以下をあげた: エルゼヴィアの高い価格。ジャーナルを束にしている商い慣習(それを一部の人達は彼等が既に購読しているジャーナルの購読への欲しくない強制ライブラリと考えている)。そしてResearch Works Act(RWA)[訳注: こういう法律を意気揚々と提出する政治家の頭の中を訳者は疑いたくなります。知的財産というものは人類すべてが平等に共有してこそ意義があるのであって、企業等が制限や禁止することを可能にすることは知的財産の意義を半減させることにつながるのは子供でも分かることであり、よほど企業等からの団体献金の旨味を忘れられないのでしょう。もちろんクレディトは大事です。発明発見した人達を何らかの形で報いることと企業の利益は本来無関係であるはずなんです]のような米国法律に対する支持。RWAは政府機関が予算をつけた研究成果を公開リポジトリに置くことの条件を禁止するだろう。エルゼヴィアはそんな商い慣習を犯している唯一の出版社ではないが、最も質の悪い違反者だとガゥワーズは言う。

拡がる支持
抵抗が始まった以降、4,800人を超えるすべての分野からの研究者達が合流している。約20%が数学者達だ。活動の最初の突発の後、嘆願書は毎日約200の新しい署名者を引き付けている。2月8日、ガゥワーズと国際数学連合の総裁イングリッド・ドブシーを含む33人の数学者達はエルゼヴィアの商い慣習に対する彼等の異議の詳細を述べている続報の声明を発表した。
エルゼヴィア忌避は数学者達にとってやっかいではないだろう。"エルゼヴィアは数学においてあまり有力なジャーナルを持っていない"とキャリフォーニャ[訳注: 普通のカタカナ表記では呆れてものも言えないカリフォルニアです]大学バークリィ校のトポロジストであるRob Kirbyは言う。だが、エルゼヴィアの生物学と医学のジャーナルはCellThe Lancetのような大物を含み、それらの分野におけるボイコットはエルゼヴィアにとっては大きな打撃であり、署名者達にとっては大きな犠牲となるであろう。現時点で、約900人の生物学または医学にいると宣言している人達が誓約に署名している。
ガゥワーズの不平は"事実として間違っている"とエルゼヴィアのユーニヴァーサルアクセス部長のAlicia Wiseは言う。彼女は英国オクスフォードを拠点としている。エルゼヴィアの記事のダウンロゥド価格は10年前の5分の1だと彼女は言う。そしてジャーナルの束は決して強制ではなく、アクセスを拡大している。つまり、"大きな束が取られている時に、利用のほぼ40%が以前には購読されていなかった表題を見つける"とWiseは言う。
"私達のRWAに対する支持は、不必要で潜在的に有害な政府法律が査読付き出版システムの安定性を密かに害する可能性があることの懸念により影響を受けた"。彼女は付け加えて"そうは言っても、この争点周辺の法律と議員への圧力かけの変わらぬ循環を縮小することが私達の心からの願いだ"と言う。

非営利出版
2000年から2001年に、論文をオゥプンリポジトリに置くことを拒否した出版社との関係を断つと誓う類似の嘆願書が30,000人の署名者を引き付けた。何人の署名者がその誓約を守ったのかについて正確な数字は無いが、殆どが守らなかったとキャリフォーニャ大学バークリィ校の遺伝学者であり、その運動のリーダの一人であるマイケル・エイセンは言う。
それは期待外れだが理解出来たとエイセンは言う。"基本的にどの出版社も回答しなかった。だから著者達に選ぶべきオプションの制限付きパレットがもたされた。私達の数人が固執したが、殆どが本当にやり遂げることが可能ではないと思う立場にいた"。
運動はエイセンと他の人達にPublic Library of Science[訳注: いわゆるPLOSのこと]、すなわち購読予約のジャーナルに対する代わりの手段であるオゥプンアクセスを与えるためにキャリフォーニャ州サンフランシスコゥを拠点とする出版ヴェンチャの設立を促した。
数学においては類似の前例がある。1997年にKirbyは価格の高さを抗議するオゥプンレターをエルゼヴィアに書いた。彼が受けた支持は彼と数人の同僚達を彼等自身のジャーナル、すなわちGeometry and Topologyを始めるよう奮起させた。"コミュニティからの多くの支持のおかげで、その分野でトップ10のジャーナルの一つになっている"と彼は言う。
そのヴェンチャはバークリィを拠点とする非営利会社Mathematical Sciences Publishersを生んだ。Mathematical Sciences Publishersは今や7つの低価格なジャーナルを発行している。Kirbyは他の研究者達も良質な非営利ジャーナルを創ることに注意を集中すべきだと考える。
ガゥワーズは、例えばarXivプレプリントサーヴァに投稿された論文へのリンクだけから成るジャーナルを創るような更に過激なアイディアを持っている。出版はもはや論文のタイプセットまたは配布を必要としないと彼は言う。主な目立つ問題はジャーナルが審査作業と評価授与の中で果たしている役割を複製または置換える方法だ。
"そのアイディアが行き過ぎているだろうと思うかなり多くの数学者達がおそらくいる"と彼は言う。この段階で、ボイコットの一貫性と非排他性を維持することは将来のポリシーを固めることよりももっと重要だとガゥワーズは信じている。

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