スキップしてメイン コンテンツに移動

志村-谷山予想の或る由来

ずっと前に紹介した"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"の前置き及び追記の中で、何故志村予想なのかを数学的議論抜きで大雑把に説明しました。ここで再度、明記しますが、世界で最初に"有理数体上の楕円曲線はモジュラである"と提唱したのは志村五郎博士ただ一人です。ですが、非専門家の人達、特に多いのが素人衆がいろいろ勝手な憶測、つまり殆どガセ同様のことを書いているのをネット等で見ると、やっぱりSTAP騒動で世界に醜態を晒した国だなと思いました。つまり、幼稚なんです。
ところで最近、周辺の人達から教えられたのですが、サイモン・シン氏にはFermat's Enigma: The Epic Quest to Solve the World's Greatest Mathematical Problemという著書があり、日本語訳も出て今や文庫本すらあります。文庫本は「フェルマーの最終定理」とタイトルされているそうです(ちょっと原書のタイトルとかけ離れ過ぎだと思います)。私は日頃、日本語の本には関心が無く、特に科学ノンフィクションのジャンルの日本語本は胡散臭く思っていましたから全く知りませんでした。でも、これで、日本の素人衆の情報源がこの本にあったんだと納得しました。
先日私も原書の方を周辺の人から借りて読みましたが、アミール・D・アクゼル氏の書くものよりも数段まともです。アクゼル氏は不正確な(と言うよりも、私の感触では洗脳しようとしているとしか思えないです)ことを書いて批判されると、"科学ノンフィクションはエンターテインメントだ"と居直る人ですから、どうしょうもないです。
シン氏の本を読んで思ったのですが、あの予想の呼称はともかくも、最重要文献である故サージ・ラング博士の調査報告書を文献表に載せていないことが非常に残念で、おそらくシン氏も読んでなかったと断言出来ます。また、シン氏は保型形式とモジュラ形式の違いも理解していないでしょう(また他にも、そんな専門的事柄でなくても、例えば代数幾何学と微分幾何学という2つの分野の混同等々。基本的にシン氏の数学的素養はかなり乏しいと言わざるを得ません)。それだからこそ、本の第5章は谷山氏と志村博士の麗しき友情物語になっており、志村博士が谷山氏の良い方向に間違える才能を羨望しているかのように描かれています。私が捻くれているのかも知れませんが、志村博士はあれを皮肉のつもりで言ったと解釈していますし、そもそも良い方向の間違いであっても、数学では間違いは間違いなんです。
さて、サージ・ラング博士の調査報告書とは"Some History of the Shimura-Taniyama Conjecture"(PDF)です。私の周辺の人は大抵読んでいます(その分野の専門家でなくても数学の研究者が多いのだから、当たり前だと言えば当たり前ですが)。その私訳を以下に載せておきます。
これを最低でも読んでから、志村予想をどうたらこうたら議論することを願いたいです。また、これを読んでも志村予想という呼称に疑問を持つ人はちょっとおかしいと思います。

[追記: 2015年12月12日]
エドワード・フレンケル博士のLove and Math: The Heart of Hidden Realityや最近テレビで放送された数学ミステリー白熱教室を見る限り、フレンケル博士は"あの"予想を志村-谷山-ヴェイユ予想と呼んでいるようです。これはどうやらラングランズ・プログラムでの呼称に忠実に則ったものと思います。いずれにせよ、谷山氏の名前は追悼の意味合いもあるので兎も角として(しかし、実際にはモジュラであると予想していません。このことが特に日本人には理解されていません)、少なくともヴェイユの名前は外すべきでしょう。
"あの"予想の呼称に関して、日本人に多い誤解(もちろん殆どが素人衆)は、志村博士が谷山氏の遺志を継いで"谷山の問題"から出発しているという、お涙頂戴の甘ったるいものでしょう。実際には全然違っていて、"谷山の問題"とは全く関係が無く志村博士はアイヒラーの結果を徹底的に研究しました。これは志村博士の初期からの論文を時系列に少しでも目を通していれば分かることです。そして研究の積重ねにより、志村博士はモジュラで十分であると確信しました。そもそも、"谷山の問題"から出発したくても、(ある意味で)意味不明なのですから足がかりすらなりません。

[追記: 2015年12月23日]
私は日本語のバリアに隠れて偉そうに物を言う最近のネット等で見られる卑怯者の仲間には入りたくないので、エドワード・フレンケル博士に以下のことを申し上げました。
I'm just a Japanese reader who read your book, Love and Math.
What I feel frustrated with, however, is the name of the Shimura-Taniyama-Weil conjecture. It is not too much to say that notwithstanding reference to Serge Lang's article in the notes of the book, you put the kibosh on his intention: Lang's intention is that at least Weil's name should be excluded from the conjecture because Weil was irrelevant to it.
In fact, only Shimura should be given credit for the conjecture.

[追記: 2016年01月01日]
エドワード・フレンケル博士のLove and Math: The Heart of Hidden Realityについて、アマゾンでリヴューを書きましたので参考までにどうぞ。

[追記: 2016年10月02日]
サイモン・シン氏の本を読んで呆れたことの一つは、第5章の内容がほぼ志村博士の"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"からのの盗用で(言い換えると、自分の都合のいいところだけをつまみ食いしているんです)何も独自取材していないことが明白です。しかも、その私訳では省きましたが、いわゆる"谷山の問題"をサイモン・シン氏は正確に理解しないまま筆を進めているのです(と言うか、おそらく難しそうだなと思って読んでないでしょう)。もっと驚くべきことに、日光のシンポジウムの後、志村博士と谷山氏が共同してモジュラ形式を研究したという嘘まで書いてます。実際には、その共同研究はかって出版された近代的整数論に載っている内容であって、主にアーベル多様体の虚数乗法論に関してなんです。モジュラ形式に関してではありません。おそらくサイモン・シン氏はドキュメンタリ映画の撮影のために志村博士に会ったのみで、数学的な取材は一切していないはずです。もし実際に取材していれば、サイモン・シン氏はご自分の余りの勉強不足に志村博士から小言を受けていたでしょう。東西問わず、こういうレベルのサイエンスライターが偉そうに書いているのが現状なんです(日本でも、志村博士の論文を一つも読んでいないことが明白な数学科出身のサイエンスライターがいます)。
そんないい加減な本が和訳されて、日本人(勿論、専門家を除きます。以降いちいち断りを入れません)は喜んで読み、彼等の大半に誤解と嘘を巻き散らかしています。これを考えると、一番の責任は著者にあるけれども、和訳本の訳者にも責任の一端があります。おそらく、訳者は注意書き等をしていないでしょう。数学の素人のサイエンスライターが書いて、それをまた数学の素人である訳者が和訳するのですから、当然こういうことになるのは明白です。そして、嘘情報に洗脳される日本人、更に言えば、その程度の英文の本を和訳しなければ読まない、もしくは読めない日本人の知的レベルを憂いたくなるのも無理からぬところがあります。

[追記: 2019年02月23日]
皆さんに謝りたいことがあります。
上述の前置きの中で、日本語版の文庫本の題名が「フェルマーの最終定理」になっていることに、私は"ちょっと原書のタイトルとかけ離れ過ぎだと思います"と難癖をつけました。私が読んだ原書のタイトルがFermat's Enigma: The Epic Quest to Solve the World's Greatest Mathematical Problemなので、そう思ったのですが、このタイトルは1998年に出版された米国版のものでした。もともとはその前年、つまり1997年に出版された英国版のタイトルがFermat's Last Theoremなので、日本語版の題名「フェルマーの最終定理」は何らおかしくありません。
ここに私の不明をお詫びいたします。

[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2015年10月11日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年05月04日]
いわゆる"谷山の問題"を志村博士がどのようにとらえていたのかについては'志村五郎博士著"The Map of My Life"のAppendixより"あの予想"'を参照して下さい。
つい先ほど、志村博士が3日に米国で死去されたというニューズを知りました。
ここに謹んで哀悼の意を表します。

志村-谷山予想の或る由来
1995年11月 サージ・ラング

私はQ(有理数体)上のすべての楕円曲線はモジュラであると主張する予想の由来を詳細に論じる。言換えれば、予想はモジュラ曲線X0(N)、または同等にそのヤコビ多様体J0(N)の有理イメージであると言っている。この予想は世紀の最も重要なものの一つだ。この予想とフェルマー問題との関連性はアンドリュー・ワイルズの論文(Ann. of Math. May 1995)の序論に説明されているから、ここでは関連性には戻らない。しかしながら、最近30年に渡って、この予想の間違った帰属と間違った由来の陳述が存在しており、予想の由来は多くの重要な機会において不完全または不適切な説明を受けて来ている。10年間、私は"谷山-志村ファイル"として分配して来たドキュメントを系統立てて集めて来た。Ribetが[Ri 95]で、このファイルとその有用性に言及している。従って、もっと正しい由来を文書化するために、最も最近の項目と同様に、このファイルから関連する項目の要約を発表することが適切だ。明確になるだろう特別な理由のため、私は予想を志村-谷山予想と呼ぶ。

セールのブルバキセミナー
先ず始めに私は、1995年のセールのブルバキセミナーを引用する。その時、彼は以下を書いた:

予想1'が正しいQ上の楕円曲線は長らく"ヴェイユ"曲線として知られて来ている。今や"モジュラ"楕円曲線と呼ばれている。"ヴェイユ予想"という用語は1.1のすべての予想n0を指すために最初使用された。他のヴェイユ予想と混同するリスクがあるので、若干不適切だった。そこから"谷山-ヴェイユ"に行った。これがこの中で使われる用語だ。更に最近では、"志村-谷山-ヴェイユ予想"、または"谷山-志村予想"さえある。志村の名前は、J0(N)の商についての彼の研究に対する敬意で加わった。読者が選びなさい。同じことを言っていると分かっていることが本質だ。

"志村の名前がJ0(N)の商についての彼の研究に対する敬意で加わった"というセールの陳述は間違いだ。セールは、志村の名前を予想に関係付ける他の人達の理由、すなわち予想は主として志村によるものだということを間違って述べている。Notices(1994年1月号)の"正誤表"は、前の2つの記事(1993年7月/8月号と1993年10月号)における表現"谷山予想"という以前の使い方を訂正し、これらの記事が標準的な名称"谷山-志村予想"を使うべきだったと結論した。1993年12月4日の電子メッセージでワイルズは予想を谷山-志村予想と呼んだ。Darmon、Diamond、Taylorによる記事[DDT 95]の中で、予想は志村-谷山予想と呼ばれている。ゲルト・ファルティングスは、Notices(1995年7月号)におけるワイルズの証明の解説の中で"谷山-ヴェイユの予想(それは本質的に志村による)"と言及している。このようにファルティングスは人々の予想の呼び方に矛盾があることを指摘している。 では、そんな矛盾に導く何があったのか?

§0. 予備: ハッセ予想
約1940–1941年までの1920年代と1930年代において、ゼータ函数とL-函数はいろいろな観点からアルティン、ハッセ、ヘッケによって大がかりに研究されて来た。ここでは、この予備的歴史に大がかりに深入りする必要は無いが、以降の状況を理解するため、30年代にハッセが多様体のゼータ函数の素イデアルすべてに渡る積を被約モジュロである素数と見なすことによって、数体上の多様体のゼータ函数を定義したことを思い起こすことは価値がある。彼は、この積が全平面に渡って有理接続と函数方程式を持つと予想した。1950年の国際会議において、ヴェイユは影響力のある講演と論文の中で数学コミュニティにその予想へ注意させた。彼は、この"非常に興味深い予想"をハッセに帰属させた([We 1950b], cf. Collected Papers Vol. I, p. 451)。ヴェイユは次のようにコメントした: "少数の簡単な場合において、この函数[以前ハッセにより定義された]は実際に計算出来る。例えば、曲線Y2X3-1に対して、体k(\sqrt[3]{1})のヘッケのL-函数に基づいて記述可能である。この実例は、そんな函数が無限に多くの極を持つことも示しており、皆が彼等の研究の中で期待するかも知れない相当な困難さの明らかな兆候である"。私の知る限り、ハッセは1950年に予想を発表しなかったが、1954年に発表した。[Ha 54]の最初のページでの彼のコメントを見よ。

§1. 1955年の状況
谷山の問題
数学の第二次世界大戦後の時期、モジュラ曲線への新たな関心が谷山と志村の研究の結果として50年代に発生した。1955年の東京-日光での数論に関するコンファレンスで谷山は、様々なゼータ函数とある種の保型形式のメリン変換としてのL-級数を得ることに興味を抱いた。この線に沿り、彼はコンファレンスにおいて英語で配られた36個の問題の集まりの中に4つの問題―問題10、11、12、13―を定式化した。コンファレンスにはセールとヴェイユが参加した。これらの問題は谷山全集の中に日本語で発表されたけれども、残念ながら英語で発表されなかった。しかし、セールを含む多くの人達がコピーを持っていた。谷山の問題10はデデキント-ゼータ函数とヘッケ-L-級数に関係した。問題10は次の通りだ(オリジナルにある通り間違っている英語がここ及び続きで再製されている[訳注: 私が英語から日本語に翻訳しているのですから、間違っている英語の痕跡は勿論消えています。念のため])。

10. kを完全実数体、F(τ)を体kに対するヒルベルト-モジュラ形式とする。その時F(τ)を適切に選べば、"量指標"λを持つヘッケ-L-級数が得られる。メリン変換のプロセスによって、それはF(τ)に一体一に対応している。これは、ヒルベルト-モジュラ函数に対するヘッケの作用素Tの理論の一般化により証明出来る(cf. Herrmann)。 問題は、この理論をkが一般(必ずしも完全実数でない)数体の場合に一般化することである。すなわち、"量指標"λを持つヘッケ-L-級数が得られるだろう多変数の保型形式を見つけることと、そしてヘッケの作用素Tの理論をこの保型形式に一般化すること。 この問題の目的の一つは、kの"量又はクラス指標"でL-級数を特徴付けることである。特に、この方法でkのデデキント-ゼータ函数を特徴付けること。それはkが完全実数の時でさえ未だなされていない。

問題11は虚数乗法を持つ楕円曲線に移っているが、ここで議論されている問題とは関係が無い。そして谷山は、楕円曲線を或る保型形式のメリン変換と同一視するプロセスを始める2つの問題を定式化している。すなわち問題12と13であるが、全部引用する。

12. Cを代数的数体k上で定義されている楕円曲線とし、LC(s)がk上のCL-函数を示すとする。すなわち、 ζC(s)=ζk(sk(s-1)/LC(s) は、k上のCのゼータ函数である。ζC(s)に対してハッセ予想が真ならば、逆メリン変換によってLC(s)から得られるフーリエ級数は、或る特殊なタイプの、次元-2の保型形式でなければならない(cf. Hecke)。そうであれば、この形式が、その保型函数の体の楕円微分であることが非常にあり得る。問題は、この考えに立ち返り、LC(s)が得られる適切な保型形式を見つけることによって、Cに対するハッセ予想を証明可能かである。

13. 上記の問題について、我々の新しい問題は、"レベル"Nの楕円モジュラ函数の体を特徴付けることである。特にこの函数体のヤコビ多様体Jを同種特性の意味で簡単な因子に分解することだ。 Nqが素数で、q=3 (mod 4)を満たすなら、Jが虚数乗法を持つ楕円曲線を含むことはよく知られている。これが一般のNに対して真か?

志村が指摘して来ているように、問題12における谷山の定式化には疑問な面があった。第一に、単純メリン変換の手順は有理数上で定義された楕円曲線に対してのみに意味を為すであろう。数体上での状況はずっと複雑で、今日厳密に理解されていないし、推測的でさえもそうだ。第二に、谷山は今日呼ばれているところの"モジュラ形式"(モジュラ曲線X0(N)に属している)よりもずっと一般的な保型形式を目論んでいた1

Q上の"不可思議な"楕円曲線
いずれにせよ、当時問題は謎だった。1986年8月13日付の私への手紙の中で志村は、1955年9月12日午後7:30–9:30に催された非公式議論セッションの谷山筆記のノートに私の注意を向けさせた。これらのノートは日本語で数学、1956年5月、pp. 227–231に発表されて、谷山とヴェイユの次の対話があった(志村の翻訳[訳注: 勿論日本語から英語への翻訳です。念のため]):

ヴェイユが谷山に聞く: 君はすべての楕円函数がモジュラ函数で一意化されると考えるのか?
谷山: モジュラ函数だけでは不十分でしょう。他の特別なタイプの保型函数が必要だと思います。
ヴェイユ: 勿論、それらのいくつかはそのように取り扱えるが、一般的な場合、完全に異なり、不可思議に見える。だが、現在のところ、ヘッケ作用素を使うのは効果的に思える。アイヒラーはヘッケ理論を採用し、虚数乗法を持たない或る楕円曲線が含まれている(彼の結果の中に)。無限に多くのそんな楕円曲線...
ドイリング: いや、そんな曲線の有限個のみが知られている。

この1986年8月13日の手紙の中で、志村も私に以下を書いた:

(数学の)同じ発刊号に谷山の問題№12(p. 269)も含んでおり、その中で彼は、楕円曲線のゼータ函数のメリン変換は特別なタイプの、重み2の保型形式でなければならぬと言っている(cf. Hecke)。彼はモジュラ形式を言っていない。肝心な所で他の保型函数を言った理由をそれは説明している。彼がヘッケの論文№33(1936年)を考えていたと私は確信している。ヘッケの論文は必ずしもSL2(Z)と通約可能でないフックス群を含む。勿論1955年において、議題に関する私達の理解は不十分であり、モジュラ函数が十分であると推測するほど彼は大胆ではなかった。
ヴェイユに関して言えば、彼は予想と全く関係が無かった(厳密に言えば、彼は予想を作ったことがないらしい。以下の項目4を見よ)。実際1955年8月または9月のいつかの東京大学での"より大きくより良いゼータ函数の養育について"とタイトルされた彼の講義の中で、アイヒラーの結果に言及し、そして付け加えて言っている: "しかし、既に次の場合、すなわち、アイヒラー風にモジュラ函数と接続出来ない楕円曲線の場合、そのゼータ函数の特性は全く不可思議だ..."(loc. cit. p. 199)。

§2. 60年代
志村予想
志村自身は50年代後半と60年代にアイヒラーの結果を拡張し、モジュラである楕円曲線が解析接続を持つゼータ函数であることを証明した(Cf. 3つの論文[Sh 58]、[Sh 61]、[Sh 67])。しかし、志村を除いて、有理数上の大部分の楕円曲線はモジュラでないと60年代初期に広く受止められていた。Freydoon Shahidiへの手紙の中で(1986年9月16日)、志村はこの趣旨の証言を以下に与えた:

1962–64年に高等研究所のメンバーによって持たれたパーティーで、セールが私のところに来て、モジュラ曲線に関する私の結果(以下を見よ)がQ上の任意の楕円曲線に適用しないから、さほど良くないと言った。そんな曲線は必ずモジュラ曲線のヤコビアンの商に違いないと私は応答した。そこにいなかったヴェイユにセールはこれを述べた。数日後、ヴェイユは本当に私がそんなことを言ったのかどうか聞いた。私は次のことを言った: "はい、言いました。もっともらしいと思いませんか?"。

この時点で、ヴェイユは応答した: "これらの集合の一方と他方が可算だから、この仮説に反対する理由は無いが、支持する理由も無い"(この会話の確証のため、ヴェイユによるもの。以下を見よ)2
60年代半ばに、志村はモジュラ形式の数論的理論について講義をしていた。特に彼はモジュラ楕円曲線によって満たされる函数方程式のバージョンを与えた。彼はそれを1964–65年にヴェイユに伝えた。このバージョンは、彼の本Introduction to the Arithmetic Theory of Automorphic Functions[訳注: 保型函数の数論入門]の定理7.14と定理7.15において高次元因子に拡張された。

ヴェイユの1967年論文には予想に対する志村への帰属が無い
志村から話された予想について考えた後、ヴェイユは1967年の論文"Über die Bestimmung Dirichletscher Reihen durch Funktionalgleichungen"[We 1967a][訳注: 函数方程式によるディリクレ級数の決定について]を発表したが、その中で楕円曲線のゼータ函数と十分多くの"ねじり"が函数方程式を持つなら、モジュラ形式のメリン変換であることを証明した。しかし、この論文のどこにも予想における谷山または志村の役割にヴェイユは言及していない。Shahidiへの手紙の中で、志村も"多分1965年"にモジュラ楕円曲線がどのように解析接続を持つかをヴェイユに説明したと述べた。ヴェイユの1967年論文の終わりに、これを認めている("志村五郎からの告知による...")。だが、志村は付け加えて次のことを言った:
当時私は彼[ヴェイユ]に、そこで言及されている曲線C´のゼータ函数が問題中の尖点形式のメリン変換であることさえも話したが、彼はその命題を割愛した。結局、私の本の中(定理7.14と定理7.15)と同様に、私の論文J. Math. Soc. Japan 25 (1973)の中でもっと一般的な結果を発表した。
この議題に勿論ヴェイユは彼なりに貢献したが、モジュラ楕円曲線のゼータ函数に関する結果に対しても、そんな曲線はQ上のすべての楕円曲線を使い果たすだろうという基本的アイデアに対しても関係が無い。

ヴェイユはモジュラ性を"まだ疑わしい"と見なす
実際、独語で書かれた1967年論文の最終でヴェイユは次のことを締めくくっている: "事柄が必ず成立する、すなわちQ上で定義された各曲線に対して、そのように振舞うかは現時点でまだ疑わしく、興味ある読者は練習問題として勧められるかも知れぬ"。ヴェイユの"そのように振舞う"は、Q上のすべての楕円曲線がモジュラかどうかを意味し、そしてその時でさえも素直に予想を立てなかった。彼は"現時点でまだ疑わしい"と見なし、"興味ある読者への練習問題"として放って置いた!

志村との会話のヴェイユの1979年の説明
10年後、ヴェイユはその議題に関する以前の研究の解説を与え、志村が彼に予想を説明した時に答えた応答を仏語に翻訳した。私はここでWeil's Collected Papers Vol. III (1979), p. 450[訳注: ヴェイユ論文集]から歴史的コメントを再製する。

...他方、アイヒラーが1954年に、そして志村が1958年にもっと一般的な場合において、モジュラ群の合同部分群によって定義される曲線のゼータ函数を決定しなければならなかった。群Γ0(11)によって定義されるフリッケの有名な曲線が典型的な実例だった。 アイヒラーと志村によって取扱われた場合において、曲線のゼータ函数がモジュラ形式のメリン変換であることを私達はあらかじめ分かった。既に1955年の東京-日光のシンポジウムで谷山は、代数的数上で定義されるすべての楕円曲線のゼータ函数が適切なタイプの保型形式のメリン変換だと示すことを提案していた。それが既に引用した問題集(v. [1959a]*)の問題12の内容である。数年後プリンストンで志村は、Q上の任意の楕円曲線がモジュラ群の合同部分群によって定義される曲線のヤコビアンに含まれることがもっともと思うかと私に訊ねた。これらの集合の一方と他方が可算だから、この仮説に反対する理由は無いが、支持する理由も無いと答えたと思う。

私が最初に"集合の一方と他方が可算"あたりのヴェイユの答えを読んだ時、それを"馬鹿"として特徴付けた。以降私はそれを愚かと見なして来ている。しかし、実際ヴェイユの答えは彼自身で予想を考えなかったことのさらに進んだ証拠を与えている。実際には、セールとヴェイユとの志村の会話の結果として、Q上の楕円曲線に関する広く行き渡った心理状態を変えたことは直接的に志村のおかげだった。上で引用したヴェイユ論文集の中にある志村との会話のヴェイユの説明は、会話に関する志村の報告の公式記録としての性質を強固にしている。
かくのごとく、予想の30年間の報じられた方における混同と矛盾の主な原因は、上記の歴史的コメントが[We 1967a]の序論の中は言うまでもなく、その論文の中でもなされなかった事実にあるが、1979年のヴェイユ論文集の中でやっとなされた。

§3. 70年代: ヴェイユは予想というものを痛烈に非難する
70年代初期、谷山の問題の広範囲な流通の結果として、"ヴェイユ曲線"という用語は"モジュラ曲線"に変わり、有理数上のすべての楕円曲線はモジュラであるという予想は"ヴェイユ予想"ではなく、むしろ"谷山-ヴェイユ予想"となった。60年代と70年代を通じて、志村の役割に関して不完全な知識がまだあった。これは部分的に彼自身が予想に関して出版されたものを持っていなかったためである。志村の説明については、以下の§4を見よ。しかし、他人が谷山と志村の役割を持ち出す時、ヴェイユは一般に予想というものを痛烈に非難し始め、特に1974年と1979年に2つの実例があった。最初は彼の"数論に関する2つの講義、過去と現代"[We 74]の中でやり、その時以下のことを書いた:

例えば、ディオファントス方程式に関する、いわゆる"モーデル予想"[何故"いわゆる"なのか? サージ・ラング]は、有理数係数の少なくとも種数2の曲線がせいぜい有限に多くの有理点を持つことを言っている。そうであれば結構なことであり、私は反対よりも賛成に賭けるだろう。だが、賛成のためのわずかな証拠が無いし、また反対も無いから、それは希望的観測に過ぎない。

ヴェイユは予想に反対する同じ題目を[We 1967a], Collected Papers Vol. III, p. 453に関する1979年のコメントの中で取上げた。その時、彼はとりわけ1967年の論文[We 1967a]に関する結果を講義した時に予想の言及を避けたやり方について書いた:

しかし、1965年6月にミュンヘン、1966年2月にバークレーで結果と共に作った陳述の中で、そして[1967a]の中で、私は"予想"に関して言うことを避けた。これは、非常によく使われ誤用されて来ている、この言葉に関する私のフィーリングを述べる機会を与える...

ヴェイユは進めて、最初バーンサイド予想に言及したが、それが間違いであると分かり、そしてモーデル予想を痛烈に非難した(更に下でドキュメントされているように)。かくのごとくヴェイユは1950年にハッセ予想を数学コミュニティに注目させた時に持っていた姿勢と全く異なる姿勢を持った。このように書くに際に、ヴェイユは都合良く(意識的か否か関わらず)、志村-谷山予想をそういうものとして言及することを避けるための自己正当の場面をセットした。論文集のVol. IIIの454ページにあるように予想を作るという考えに反対するヴェイユについて、志村はShahidiへの手紙の中で次のことを書いた: "この理由のため、私が予想を述べたような素直なやり方で言うことを彼は避けたと思う"。
1979年のヴェイユの危険な立場の程度は1974年よりも勝り、次の一節によって示される:

"モーデル予想"は進んでいない。これは数論学者がほとんど提起出来る問題である。実際、肯定または否定の深刻な理由が見当たらない。

第一に、"モーデル予想"が"数論学者がほとんど提起出来る問題"であるというヴェイユの陳述について、私はいつかと聞くだろう。モーデルがしたように1921年に、または数十年後に問題を提起することとは全く違う話だ。実際、学位論文[We 28](Collected Papers Vol. I, p. 45も見よ)の中で、ヴェイユは全く違って書いた(私の翻訳[訳注: これは仏語論文をラング博士が英語に翻訳したという意味です。念のため]):

この予想は、既にモーデルによって述べられている((loc. cit. note4)が、最近証明された重要な結果によって、立場を強固にしたようである。その重要な結果を著者の寛大な許諾のおかげで、ここに引用出来ることは私の幸運である: "種数p>0のすべての曲線において、そして有理数の任意の数体kに対して、座標がkの整数であるような有限個の点のみが存在出来る"。

勿論、上の重要な結果は整数点の有限性に関するジーゲルの定理だ。ヴェイユは[We 36] (Collected Papers Vol. I, p. 126)の中でモーデルへの言及無しに同様の評価をした。

他方、種数>1の曲線に対してジーゲルの定理は次の命題の方向における第一歩に過ぎない:
種数>1のすべての曲線において、有限的に多くの有理点のみが存在する。

これはすごくもっともらしく思えるが、間違い無く私達はまだ証明から程遠い。おそらく、関連する代数多様体ではなく、曲線に対して直接的に無限降下の手法をここで用いなければならないだろう。しかし、先ず第一に、アーベル函数論を代数函数体の非アーベル拡大へ拡張することが必要だろう。私が望む通り、そんな拡張は実際可能である。いずれにせよ、私達はここで重要で困難な問題の連続に向合っており、その解決はおそらく一世代より多くの努力が必要だろう。

加えて1979年にヴェイユは、彼の論文[1927c]と[1928](これは彼の学位論文[We 28]である)に関して論文集のVol. Iの525ページでコメントしたが、[1932c](予想を作るに当たってモーデルが持っていた影響力を明らかに示している3)に関して同様のコメントをしている。 第二に、モーデル予想には"わずかな証拠"または"深刻な理由"が無いという1974年と1979年の陳述は初期の数十年(1928年、1936年)でのヴェイユ自身の評価との単なる反対ではなかったが、マニンが1963年に函数体類似を証明した[Man 63]後で陳述はなされていた。更にグラウエルトが1965年に別の証明した[Gr 65]後で、もっと更にParshinが1968年に別の証明をした[Par 68]後で。一方モーデル予想はシャファレヴィッチ予想(これはシャファレヴィッチ自身が種数1の曲線に対して証明していた)から成立することが示唆されていた。同時期にアラケロフ理論が開発されていて、Zarhinがそれらの方向で予想の計略に関して活発に研究していた。そして4年以内にファルティングスのモーデル予想の証明があった。それに加えて、Parshinが[Pa 68]中で次のことを書いた: "結局g>1の時、いろいろな実例がモーデル予想に対して基礎を与える..."。その時の通り、一部の数学者達はモーデル予想には実験的根拠があると考えていた。従って、私が1985年12月7日付けの手紙(谷山-志村ファイルの中に再製されている)の中で述べたように、ヴェイユがモーデル予想に対して"賛成または反対の理由が見当たらない"と書いた時、彼が1979年で全く時代遅れということを示したのがすべてだった。

§4. 間違った帰属の拡散
ヴェイユの1967年論文は相当な注目を惹いた。その時、定理7.14と7.15を含む志村の本はまだ入手可能ではなかった。楕円曲線において第一種微分がレベルNのモジュラ形式に相当する時、このレベルも楕円曲線の導手である、すなわち、判別式を割るが、通常ずっと小さなベキへ割る素数によって割切れる、先天的に定義出来る或る整数であることを明確にしたという理由でヴェイユの定式化は志村のものを越えていた。この導手との連結は、その分野の研究者達に明確な計算を示しており、これらの計算(予想された函数方程式で与えられる、もっと構造的な証拠に加えて)が今度は研究者達に予想を信じさせた。Q上のモジュラ楕円曲線はその時"ヴェイユ曲線"と呼ばれた。Q上上のすべての楕円曲線はモジュラであるというアイデアは一般的にヴェイユに帰属された。例えば、テイトはそれを[Ta 74]の中で"ヴェイユの驚異的なアイデア"と称した。もっと情報を学習する前に私自身は10年間、用語"ヴェイユ曲線"と"谷山-ヴェイユ予想"を使っていた。
例えばバリー・メイザーは、60年代初期の学会トークにおいて口頭で(準備無しに)ヴェイユは志村にクレジットを与えていると聞いたと1986年に私に語った。しかし、1986年に私がこれらの事柄をセールと(バークレーでのパーティにおいて公式的に他者の面前で)議論した時、彼はヴェイユが志村との会話を以下の通りに報告したと主張した:

ヴェイユ: 何故、谷山はすべての楕円曲線がモジュラだと考えたのか?
志村: 貴方がそれを彼に話したのであって、貴方は忘れてしまっている。

ここで私はやり取りの要旨を報告している。ヴェイユは"何故、谷山は予想を作ったのか?"と訊ねたのかも知れない。私はすぐ志村とヴェイユの両者に、彼等がそんな会話をしたのかどうか質問するためと、セールが彼等のせいにしたことを検証するために手紙を書いた。§1で既に引用された1986年8月13日の私への手紙の中で志村は断定的に答えた:

そんな会話はなされるはずがない...
1. それは合致しないし、それどころか矛盾している。ヴェイユと私自身の実際の会話はこうだ: "すべてのQ-有理数の楕円曲線はモジュラだと言ったのか?"、"はい、言いました。もっともらしいと思いませんか?"等々。

2. 谷山が予想を立てた理由を聞いたなんてヴェイユは馬鹿だったであろう。一度陳述がなされると、それは意味を為すのであるから、ヴェイユがそんな質問をすることは起こるはずがない。実際、セールは私の陳述の背後の理由を質問しなかった。
...

4. 上記の一節と谷山の問題を分かって、私自身のやり方で予想を述べてしまったのであるから、予想の起源をヴェイユに帰属することを私は出来なかったであろうし、しなかったであろう。更に、ほぼすべての人が忘れてしまっている要点がある。ヴェイユの論文[1967a]の中で、彼は命題を疑問視している。言い換えれば、彼は完全には賛成しなかったのだから、私に帰属する必要が無かった。従って、貴方が彼を煩わせることの出来るものは何も無い。ともかく、これらの理由のため、私は首尾一貫として意識的にヴェイユ予想について語ることを避けて来ている。例えば、私の名古屋論文(vol. 43, 1971)の中で、虚数乗法を持つすべての楕円曲線に対して予想が真であることを証明した。同じ問題を扱う他の著者達はすごく自然にヴェイユに言及したであろう。だが、私はしなかった。また、私の本(Introduction to the Arithmetic Theory[of automorphic functions])の読者が予想が言及されなかった理由を不思議がるだろうといつも思っていた。実を言えば、私自身を含めてすべての人に心地良いやり方でトピックの提示をすることを私は出来なかった。もっと正確に言うと頑張ってトライしなかった。

私はそれからセールとヴェイユの両者に志村の返事についてのコメントを求めるために手紙を書いた。谷山-志村ファイルが展開した通りに私は勿論それも彼等に送った。セールは私に2つの手紙を返書した。1986年8月16日付の第一通は彼が私に語ったことを検証する私の試みを批判した。従って、副次的なやり取りが発生した(このやり取りの中でも例えば、私は彼に志村とヴェイユの間の会話の彼の嘘の報告を正すことと、嘘の話を拡散するのを止めることを求めた)。1986年9月11日付けのセールの私への返書は、手短に全部で"手紙と志村のコピーを有難う。非常にためになった"と述べただけだった。

§5. ヴェイユの手紙
多少遅れて1986年12月3日に、ファイルの中の他の(上の§2と§3で言及されたような)項目も含む長い手紙をヴェイユは返書した。

ラング様

貴殿の8月9日の手紙がいつどこで最初に私に届いたのか覚えていない。届いた時、真剣に考えるどころではなかった(今もそうだ)。
谷山と志村によるべきクレジットを私がいつも低減しようと努めたという暗示に私は強く憤慨せずにはいられない。貴殿が彼等を尊重するのを見て喜ばしい。私も彼等を尊重する。
ずっと昔に行われた会話の報告は誤解を受け易い。貴殿はそれらを"歴史"として見なしている。そうではない。せいぜいエピソードだ。貴殿が持ち上げるのに相応しいと感じている論議に関して、志村の手紙がきっぱりとそれに終止符を打つと私には思われる。
概念、定理、または予想(?)に名前を付けることに関して、私は次のことを良く言って来ている: (a) 相応しい名前が(例えば)概念に付けられる時、これを問題の著者が概念と何らかの関係があるという標識と取るべきでない。大抵、反対が事実だ。ピタゴラスは"彼の"定理と関係が無かったし、フックスがフックス函数と関係が無いのもオーギュスト・コントがオーギュスト・コント通りと関係が無いのと同じである。(b) きわめて当然のことながら、相応しい名前がもっと適切なものに置き換えられる傾向がある。ルレー-コシュル系列は今やスペクトル系列だ(そして、ジーゲルがエルデスにかって言った通り、abelianは今や小文字aで書かれる[訳注: 数学者アーベルに因んでいるのですから、Abelianを使えという主張もあるのです。ですが、Abelの使用頻度が他者を圧倒しているし、しかも普遍的概念に使用されていますので、もう小文字でいいでしょうというのが数学界の見識です])。貴殿が喜んで言うように、何故私は時々"馬鹿な"所見を言うべきでなかったのか? しかし、実の所、1979年にモーデル予想に猜疑を述べた時、私は"時代遅れ"だった。当時、私はロシア人達(Parshin等)のその方向での研究に全く無知だったからだ。一つ弁解するなら、1972年に私はシャファレヴィッチと長い会話をしたが、彼はその研究のどれも言及しなかった。

敬具
A. ヴェイユ

追伸
この手紙をゼロックスの機械に通したければ、遠慮なくしなさい。ゼロックス社は貴殿や貴殿のような人無しに何をするのか不思議だ。

新たに。
セールのブルバキセミナーのトークに彼の過去の手紙(志村と私の手紙が"ためになった"と彼が分かったというもの)に関する説明が無かった理由が分からない。ヴェイユのCollected Papers Vol. III, p. 450の中のヴェイユ自身の歴史的コメントに関して、またはヴェイユの明確な陳述: "貴殿が持ち上げるのに相応しいと感じている論議に関して、志村の手紙がきっぱりとそれに終止符を打つと私には思われる"と同様に、ヴェイユの"相応しい名前が(例えば)概念に付けられる時"あたりの警告に関してセールのブルバキセミナーのトークに説明が無かった理由が分からない。

注釈[訳注: 原文にはこういう段落はありません。原文の注釈は各ページに分散されており、面倒なので、ここにまとめておきました。通常私は注釈を省くのですが、ここでの注釈は非常に重要ですので省きませんでした]

1事をはっきりさせるため私の要求に応じて、志村は1986年9月22日に次のことを私に書いた:

谷山が問題№12を述べた時、余り注意深くなかったと思う。彼はヘッケを参照しており、そして私が書いたように、彼は次元1の保型函数体に関するヘッケの論文№33(1936年)を考えていた。そこで扱われている函数方程式はΓ(s)だけを含むから、曲線がQ上で定義されていないなら、問題は意味を為さない。しかも、彼は特に重み2の形式と函数体の楕円微分について語っている。これらは、以下の理由のため1次元の場合のみに意味を為す。
先ず第一に、1955年にヘッケ、Maass、Hermannだけが関係することを思い出さなければならぬ。Maass理論は函数体も楕円微分も生み出さないから、除去されてよい。ヒルベルト-モジュラの場合において、楕円微分が正則1-形式を意味するなら、その重みは(2, 0,...,0)、(0, 2, 0,...,0)、(0,...,0, 2)でなければならないが、そんな形式を重み2の形式とは呼べない。もっとはっきり言えば、そんな非消滅形式は存在しない。それが重み(2,...,2)の形式なら、高次微分形式を定義するから、それを楕円微分とは呼べない。
これらの理由のため、彼は余り注意深くなかったと私は思うし、誰かがこれを指摘していたなら、問題は適切に改訂されなければならないことを彼は賛同していたであろう。

2志村予想に対する論理的根拠は、適切に訂正された谷山の問題№12の中で表明されていた線に沿って、予想されている函数方程式(ハッセ)だった。志村の大胆な洞察は、SL2(Z)の合同部分群に対する通常モジュラ函数が有理数上で定義された楕円曲線を一意化するためには十分であることだった。

3私は以下のページから引用する:

p. 525: 私の大望は、種数>1の曲線において有理点が有限であることを証明することでもあった。それが"モーデル予想"である。私はアダマールに話した。"まだ先を研究しなさい。中途半端な結果を発表する必要はない"と彼は私に言った。数回の試みの後で、私は彼のアドバイスに従わないと決心した。

pp. 528–529: いつか"モーデル予想"を示すと私はまだ諦めていなかった。慎重な分析と学位論文に入れられた手段を深めることにより、私は(まだ遠い)目的地へ近づく力を絶望した...
もちろん、私の密かな望みは特性がモーデル予想へ進むのを可能にすることだった。私がこれまで知っている通り、そうではない。

文献
(省略) 

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)...

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ...

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections ...

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追...

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ...