AMS(米国数学協会)の"NOTICES OF THE AMS"を暇な時に読んでいましたら、そのバックナンバーに志村五郎博士が"André Weil As I Knew Him"(PDF)という故アンドレ・ヴェイユ博士について回想録を書いていらっしゃるのに出くわしました。志村博士のことは、私が言うまでもなく、日本が誇る世界的数学者として長らくプリンストン大学で教鞭をとり、現在はそこの名誉教授です。故ヴェイユ博士のことも申し上げるまでもなく、20世紀を代表する大数学者であったことは皆さんも御存知でしょう。
故小平邦彦博士を始め何人かの数学者がヴェイユ博士のことを書いていて、かなり怖い先生(癇癪持ちだったそうです)という印象を私個人は持っていたのですが、志村博士の回想録を読むと何か若干印象が違うように思いました。ヴェイユ博士が1906年、小平博士が1915年、志村博士が1930年生まれで、世代が違い、出会った時も違うから当然受ける印象も違うでしょうが、ヴェイユ博士から見れば、小平博士の世代はまだ競争相手で、志村博士の世代はまるで自分の子供のように接したのかも知れません。いずれにせよ、志村博士のヴェイユ博士との出会いは、戦後の若々しい時代を反映してか偉大なる人物に接しても物怖じしない感じを与えます。
なお、次いでながら、ヴェイユ博士は第一次、第二次世界大戦を経験していて、特に第二次世界大戦においては死刑寸前まで窮地に追い込まれたことは有名な話ですし、志村博士は第二次世界大戦時には中学生(もちろん旧制中等学校)だったけれども、本土が制空権を失った後は無差別にグラマン戦闘機から機関銃で攻撃された体験を持っています(私の早くに亡くなった父母も幼児なのにもかかわらず、同じ体験をしています。子供だからこそ殺す価値があるんだそうで。つまり親世代の戦意を挫くためだそうです)。こういうことを考えると、修羅場をくぐり抜けた世代と今のふやけた世代とでは隔世の感があります。
その志村博士の回想録の私訳を以下に載せておきます。既に和訳があるのかどうか(特に紙ベースで)知りませんが、もしまだ無いなら、和訳されるのはずっと後になると思います。また、回想録のわりには長く、かなり専門的記述があり、特に脚注の節は私も圧倒されるほど詳細なものです。代数的整数論や代数幾何学などを専攻していなければ多分理解困難だと思いますが、それを気にせずに気楽に読んでいただければ幸いです。
[追記: 2011年04月26日]
この私訳を載せた後すぐに、私は志村五郎博士の簡潔ながらも力強い英文に魅了されて、博士の"The Map of My Life"を購入し貪るように読みました。蛇足ながら、欧文論文だけでは数学的内容を別にしても、その人がその言語に流暢かどうか判別出来ません。特に数学の場合、学術欧文の書き方に差は殆どありませんので、どれもだいたい同じで個性や誰が書いたのかも分かりませんが、エッセイを書かせれば流暢かどうか分かります。ここで名指ししませんが、英語に堪能であると思われている或る日本人数学者の英文エッセイを見れば、えっ、この人が…と思ったことがよくありました。そう意味では失礼ながら、志村博士の英文は本当に参考になります。
さて、その"The Map of My Life"の付録に"André Weil As I Knew Him"を全文載せており、さらに後日譚もあったことを知りました。特に志村博士のシルビ・ヴェイユ(ヴェィユ博士の長女)さんへの返書は、博士にとってアンドレ・ヴェイユ博士がいかにかけがえの無い人であったことが窺え、私は単純ながらも感動しました。その後日譚を追加しておきます。最後にシルビさんの誤解が解けることを私も希望します。
[追記: 2011年08月21日]
志村博士の"The Map of My Life"についてアマゾンでレヴュを書きましたので、参考になれば幸いです。
[追記: 2016年9月30日]
志村博士が英語で(日本語ではどうか私は知りませんし、どうでもいいです。世界に発信することが大事なんです。私はこれまでも何回も書いて来ましたが、日本語だと所詮は日本国内向けポーズでしかなく、世界に発信したことにならないんです)数学者の回想を書くのは、これが初めてではありません。それ以前に故谷山豊氏に関して有名な回想Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsを書いています。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい。
[追記: 2016年10月01日]
いろいろ考えることがあって、私訳の最下段に[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を追加しました。
[追記: 2018年02月03日]
少なくとも私が心配していた志村博士とシルヴィ・ヴェイユ女史の部外者にはよく分からない不和がどうやら氷解したようです(本当にそうなのかは確かめることが出来ませんが、私は楽観視しています)。この不和の一番の責任はNoticesの担当編集者にあったことは明白ですが、Noticesの2018年1月号に何とシルヴィ女史が寄稿しました。その私訳は"わが父アンドレ・ヴェイユ"を見て下さい。
[追記: 2019年03月18日]
このペィジは2011年04月18日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
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2011年04月26日追加 ("The Map of My Life" p.208中段-p.210より抜粋)
[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]
志村博士が日本語で谷山氏と書いた近代的整数論に対して復刊リクエストが後を絶たないそうですが、出版社は著者の意向で復刊出来ない旨を回答したと聞きました。このことを友人共から教えられた時、こういうリクエストをする人達は志村博士の書いたものを全然読んでいないと私は思いました。つまり、そういう人達は志村博士の意思を完全に無視しているわけです。何故復刊リクエストに応えないのか、志村博士のThe Map of My Lifeを読んでいれば分かりそうなもんです。
The Map of My Life p. 119下段-p. 120中段より抜粋
As I said in the preface, there were
several unsatisfactory points in the book. One of them was the
proper definition of “the field of moduli,” which I discovered only
in October 1958 and which I told Weil immediately after my arrival
in Paris. Thus, the first thing I did after coming back to Tokyo in
the spring of 1959 was to write the whole theory in English in a
better form by using this new definition.
We had actually planned an English version, but nothing was
done except for a short section I wrote in English on differential
forms on abelian varieties. Sometime in 1957 I handed it to
Taniyama, who died in November 1958. It was returned to me
when I met one of his brothers. I eventually published the book
in English as a collaborative work with him in 1961, but actually
I wrote everything alone, and he was not responsible for the
exposition.
I had known that he was not a careful type, but after starting
this project in 1959 I realized that the problem was more serious
than I had thought. Indeed, I had to throw away many things
he wrote in that book in Japanese. In my article about his life
published in Bulletin of the London Mathematical Society (1989),
I wrote: “Though he was by no means a sloppy type, he was gifted
with the special capability of making many mistakes, mostly in the
right direction.” I also wrote in the preface of the 1961 book in
English: “The present volume is not a mere translation, however;
we have written afresh from beginning to end, revising at many
points, and adding new results such as §17 and several proofs of
propositions which were previously omitted.”
Thirty-five years later in 1996 I published a book, of which
I was the sole author, the first half of which was a revision of
this book, and the last half of which contained new results on
the periods of abelian integrals. Although this subject is related
in various ways to other topics I investigated later, I do not talk
about them here.
(私訳)
本[訳注: 近代的整数論のこと]の序文の中で述べた通り、本には多数の不満足な点があった。それらの内の一つが"モジュライ体"の正しい定義だった。それを私は1958年の10月に発見したばかりであり、パリに到着後すぐにヴェイユに話した。こうして、1959年の春に東京へ戻った後で私が最初にしたことは、この新しい定義を使用することにより理論全体をより良い形に英語で書くことだった。
私達[訳注: 志村博士と谷山氏]は英語版を計画していたが、アーベル多様体における微分形式について私が英語で書いた短いセクションを除いて何もなされなかった。1957年の或る時に、その短いセクションの原稿を谷山に渡したが、彼は1958年の11月に死去した。彼の兄弟の内の一人に会った時、その原稿が私に返された。私は結局1961年に彼との共著として英語で刊行したが、実際には私がすべてを一人で書き、彼はその解説書に対して責任がない。
私は彼が注意深いタイプでないことを分かってはいたが、このプロジェクトを1959年に始めた後で、私が考えていたよりも問題がずっと深刻であることを認識した。実際、あの本[訳注: 近代的整数論のこと]の中で彼が日本語で書いた多くの事柄を私は捨てなければならなかった。彼の人生についてBulletin of the London Mathematical Society (1989)に発表された私の記事[訳注: Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsのこと。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい]の中で以下のことを書いた。"彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた"。また私は1961年の本[訳注: 先に志村博士が説明している通り、形式的に谷山氏との共著としたComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと。因みに題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法とその整数論への応用"となります]の序文の中で以下のことを英語で書いた。"しかし、ただいまの本は単なる翻訳ではない。私達は始めから終わりまで再度新たに書いた。つまり、多くの箇所を訂正し、§17のような新しい結果と以前には省略されていた命題の多くの証明を追加した"。
35年後の1996年に私はある本[訳注: Abelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsのこと]を出版したが、私が単独の著者だった。その本の最初の半分はこの本[訳注: 前述の1961年の本Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと]の改訂であり、最後の半分はアーベル積分の周期に関する新しい結果を含んだ。この議題は後年私が調べた他のトッピクスに様々な意味で関係するけれども、それらをここでは語らない。
以上の通り、志村博士は明確に理由を書いています。つまり、中途半端で不完全な近代的整数論の代わりにComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryを出し、更にはAbelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsも出しているのに、何故旧著を復刊する必要があるのかということです。
故小平邦彦博士を始め何人かの数学者がヴェイユ博士のことを書いていて、かなり怖い先生(癇癪持ちだったそうです)という印象を私個人は持っていたのですが、志村博士の回想録を読むと何か若干印象が違うように思いました。ヴェイユ博士が1906年、小平博士が1915年、志村博士が1930年生まれで、世代が違い、出会った時も違うから当然受ける印象も違うでしょうが、ヴェイユ博士から見れば、小平博士の世代はまだ競争相手で、志村博士の世代はまるで自分の子供のように接したのかも知れません。いずれにせよ、志村博士のヴェイユ博士との出会いは、戦後の若々しい時代を反映してか偉大なる人物に接しても物怖じしない感じを与えます。
なお、次いでながら、ヴェイユ博士は第一次、第二次世界大戦を経験していて、特に第二次世界大戦においては死刑寸前まで窮地に追い込まれたことは有名な話ですし、志村博士は第二次世界大戦時には中学生(もちろん旧制中等学校)だったけれども、本土が制空権を失った後は無差別にグラマン戦闘機から機関銃で攻撃された体験を持っています(私の早くに亡くなった父母も幼児なのにもかかわらず、同じ体験をしています。子供だからこそ殺す価値があるんだそうで。つまり親世代の戦意を挫くためだそうです)。こういうことを考えると、修羅場をくぐり抜けた世代と今のふやけた世代とでは隔世の感があります。
その志村博士の回想録の私訳を以下に載せておきます。既に和訳があるのかどうか(特に紙ベースで)知りませんが、もしまだ無いなら、和訳されるのはずっと後になると思います。また、回想録のわりには長く、かなり専門的記述があり、特に脚注の節は私も圧倒されるほど詳細なものです。代数的整数論や代数幾何学などを専攻していなければ多分理解困難だと思いますが、それを気にせずに気楽に読んでいただければ幸いです。
[追記: 2011年04月26日]
この私訳を載せた後すぐに、私は志村五郎博士の簡潔ながらも力強い英文に魅了されて、博士の"The Map of My Life"を購入し貪るように読みました。蛇足ながら、欧文論文だけでは数学的内容を別にしても、その人がその言語に流暢かどうか判別出来ません。特に数学の場合、学術欧文の書き方に差は殆どありませんので、どれもだいたい同じで個性や誰が書いたのかも分かりませんが、エッセイを書かせれば流暢かどうか分かります。ここで名指ししませんが、英語に堪能であると思われている或る日本人数学者の英文エッセイを見れば、えっ、この人が…と思ったことがよくありました。そう意味では失礼ながら、志村博士の英文は本当に参考になります。
さて、その"The Map of My Life"の付録に"André Weil As I Knew Him"を全文載せており、さらに後日譚もあったことを知りました。特に志村博士のシルビ・ヴェイユ(ヴェィユ博士の長女)さんへの返書は、博士にとってアンドレ・ヴェイユ博士がいかにかけがえの無い人であったことが窺え、私は単純ながらも感動しました。その後日譚を追加しておきます。最後にシルビさんの誤解が解けることを私も希望します。
[追記: 2011年08月21日]
志村博士の"The Map of My Life"についてアマゾンでレヴュを書きましたので、参考になれば幸いです。
[追記: 2016年9月30日]
志村博士が英語で(日本語ではどうか私は知りませんし、どうでもいいです。世界に発信することが大事なんです。私はこれまでも何回も書いて来ましたが、日本語だと所詮は日本国内向けポーズでしかなく、世界に発信したことにならないんです)数学者の回想を書くのは、これが初めてではありません。それ以前に故谷山豊氏に関して有名な回想Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsを書いています。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい。
[追記: 2016年10月01日]
いろいろ考えることがあって、私訳の最下段に[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を追加しました。
[追記: 2018年02月03日]
少なくとも私が心配していた志村博士とシルヴィ・ヴェイユ女史の部外者にはよく分からない不和がどうやら氷解したようです(本当にそうなのかは確かめることが出来ませんが、私は楽観視しています)。この不和の一番の責任はNoticesの担当編集者にあったことは明白ですが、Noticesの2018年1月号に何とシルヴィ女史が寄稿しました。その私訳は"わが父アンドレ・ヴェイユ"を見て下さい。
[追記: 2019年03月18日]
このペィジは2011年04月18日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
私が交流したアンドレ・ヴェイユ
1999年4月 志村五郎
晩夏の明るい光を浴びて私は高輪の閑静な通り(東京の南にあって、比較的華やかな地域だ)をプリンスホテル別館(アンドレ・ヴェイユが滞在していた)へと歩いていた。1955年の9月の始めの暑い日の午後だった。その月に東京と日光で開かれる代数的整数論の国際シンポジウムの外国招待者8人[訳注: 招待者の正確な人数なぞはどうでもいいことなのかも知れませんが、"NOTICES"に収録されている原文では8人なのですが、"The Map of My Life"の付録として収録されている原文では9人となっています。おそらく志村博士は8人が間違っているので、"The Map of My Life"に収録する際に9人に訂正されたと思われます]のなかに彼がいた。朝鮮戦争は2年前に終わり、米国ではアイゼンハワーの最初の任期が同年に始まった。5年後の1960年に、ほぼ暴徒化した労働組合と学生が街でデモをし、アイゼンハワーの日本訪問予定が阻まれるのだが、1950年代半ばの平和的雰囲気のなかでは誰も予知しなかった。私は歩きながら、何が起こるのか期待感と好奇心で静かに高揚していた。後に何度もヴェイユに会う予定の時はいつも、その期待感を抱いたものだった。
彼と知り合ったのは1953年に始まった。その時に、彼の意見を訊くため私はシカゴの彼に"基礎体の離散付値に関する代数多様体の還元"についての原稿を送った。その理論を最終的にアーベル多様体の虚数乗法に適用するつもりだと私は言った。1953年11月23日の日付が入っている彼の返事で、その仕事に大いに興味を持ったので、その方向を進めるようにと激励してくれた。また、彼はAmerican Journal of Mathematicsへ原稿を送るようアドバイスしたので、私はそのようにした。その時までには、私は彼の1959年の国際数学者会議での講演 [50b]1) と幾つかの論文とともに3部作 代数幾何学の基礎、代数曲線、アーベル多様体を読んでいた。私はまた、彼の他の論文の存在を知っているか、又はそれらについて漠然としたアイデアを持っていた。例えば、[28], [35b]2), [49b], [51a]。だが、1955年以前にそれらすべてを読んではいないと思う。記事 "数学の将来" [47a] とシュヴァレーの代数函数に関する本の書評 [51c] は、東京の若い数学者の間で話題となっていた。後の日本滞在中の間、いろいろな事に意見を求められた時に、彼は冗談ぽく、教授としてではなく預言者として扱われていると文句を言った。しかし、彼の来日以前ですら、ある程度まで神だった。
ともかく、東京-日光のカンファレンスへの招待を彼が了承した時、日本の私達若い数学者は一種の熱烈な予感とともに彼に期待した。8月18日東京大学数学科の部屋で、私は初めて彼と握手した。私がどこかで見たことのある写真よりも彼は穏やかに見えた。彼は当時49歳だった。私達の会合は短く、数学的な議論もそれほど無く、その日は彼の強い印象も私に与えなかった。おそらく数日後に、私の"虚数乗法について"と題された49ページの論文(これはオリジナルの形で発刊されなかった3))を含む、日本人出席者の謄写版仮原稿の束を与えられたと思う。
約2週間後に彼のメッセージが私に届けられた。すなわち、ヴェイユ教授はホテルで私に会いたいと。だから、私は約束の時間にホテルへ体を運んだ。彼はベージュ色のズボンでジャケットもネクタイも無しに、ロビーに現れた。彼はその時までに私の原稿を読んでおり、ホテルの中庭のテラス椅子に腰を掛けて、多くの質問をし、幾つかコメントをした。そして、アーベル多様体とクンマー多様体の極化について彼のアイデアを喋り始めた。彼はホテルの便箋にいろいろな式を書いたが、それを私はいまだに持っている。ある時点で、彼は椅子から離れ、中庭の端から端までいらいらしながら歩き、もどかしげに彼のアイデアを私の頭の中に浴びせた。まるで私が何でも知っている権威者であるかのように扱った。私は、その話題について彼の1954年のAnnalen論文を読んだことがあるので、勿論因子の意味することと線型的代数同値の概念さえも知っていたが、歴史的展望は言うまでもなく、その問題の真の意味の理解を欠いていた。従って、私は懸命に彼に付いて行こうとしたけれども、彼の言ったことを殆ど分からなかったと言った方が公平だ。最後に私達はお茶にし、彼は相当な大きさのケーキを食べたが、おそらく彼の詰問が食欲を減らしたのであろう、私は彼と同じものを断った。
カンファレンスの間と、その後の彼の東京滞在中に、私は何度も彼を見た。その度に、刺激的なことの最中でも、彼は非常に自然に振舞った。ホテルの出来事がまるで私を免疫する効果を持つかのようで、彼もおそらくそうだったのであろう。私は虚数乗法を持つアーベル多様体について第一種微分形式の周期の本質を彼に質問したことを憶えている。"それらは高度に超越的だ"と彼は言った。それは満足の行く答えではなかったが、その環境のもとでは何よりも優れていた。少なくともやっとのことで、そのような質問を私が出来る人を見つけたのだ。その数週間は本当に記憶に残り、面白くてたまらない時期だった。もっと盛り上がるために、私の同僚の一人はヴェイユの声とアクセントを真似て、"こんにちは、私はヴェイユだが、先日貴方が言ったことを理解出来なかったので、議論したいと思う…"[訳注:これは、ヴェイユのモノマネをしているのですから当然英語で悪戯をしているのですが、念のため和訳しました]と、他の人に電話をしたものだった。時には悪戯は上手く行った。彼が東京からシカゴへ帰る数日前、私とそのような腕白野郎3人は同じ地域の別のホテルにいる彼を訪ねた。谷山は来る約束だったが、おそらくいつものように寝過ごしたのであろう、来なかった。私達の会話の中で、彼は"ある時点で、アイデアが正しいか間違っているか分かるはずだ。その時、間違っているアイデアを放り投げる勇気を持たなければならない"と、間違ったアイデアに長く固執しないようにアドバイスした。
彼の論文集で言っていた通り、滞日は最も楽しく喜ばしい期間の一つだった。彼を恐れず、彼の数学を理解出来るのに十分な賢明さ、又は少なくとも理解しようと努力するのに十分な意志を持つ若人を彼は見つけた。その当時、彼は確かに米国で多くの出席者を得ていたが、違う種類の出席者らしかった。
1957年12月パリで私が彼を見るまでに2年以上が経過した。彼の示唆を受けて、アンリ・カルタンはCNRS(フランス国立科学研究センター)での研究アソシエーツを私に確保した。ヴェイユは一年間シカゴを休暇して、アンリ・ポアンカレ研究所でRoger Godementと部屋を共有したが、ほとんどの時間ヴェイユが独占した。その期間、彼は代数群についていろいろな問題を研究していた(その話題は、例えば [57c], [58d], [60b] から分かる)。エコール・ノルマルでそのような題材の講義をし、常にカルタン・セミナーに出席していた。遠く北方にサクレ・クールと西方にエッフェル塔の素晴らしい眺めとともに、彼はルクセンブルグ公園の南東の角にあるアパートで暮らした。お気に入りのレストランの一つがパンテオンを背景とするオヴューパリだった。私が到着して数日後、彼は私にそこへ昼食を招待した。彼がバター入りのラディッシュとラパンソテー(当時では普通だが、近頃ではいくぶん時代遅れだ)を食べたのを憶えている。ワインの選択を憶えていないが、おそらく大きいグラスに赤ワインが入っていたのだろう。実を言うと、セミナーの間、彼が居眠りしているのを見るのは珍しくない。彼のアパートから、研究所とパンテオンは徒歩で10分足らずで行けた。1950年代のパリは古き都市の伝説的魅力が残っており、彼の子供時代から左程には変わらなかった(かって私にそう話した)。1970年代に市が必然的に根本から変わったことを注意するのは残念だ。
私は彼とは違う話題を研究していたけれども、彼は私の進展に大変興味を持ったので、話すべき何かを持っている時はいつでも彼の部屋に立ち寄った。例えば、ある日、テータ函数の共通零点の数に関するポアンカレの定理を使った最近の結果を彼に見せた。彼は笑って、"おぉ、ポアンカレを使っているね。しかし、それは確かな証明はされていない"と言った。そして、違う方法又はもっと良い証明を見つけるようアドバイスした。後で、彼はアーベル多様体における因子に関係する最近証明された結果を語ったが、それによってポアンカレの定理と同様に、私の結果も救えた。
別の機会では、彼の部屋から叫び声を聞いた。彼に伝える短いメッセージを持っていたので、部屋をノックした。彼はドアを開け、私にFriederich Mautnerを紹介した。Mautnerはジョンズ・ホプキンス大の教授で、ヴェイユの叫び声の相手だった。一分かそこらで私は出た。私がドアを閉めるやいなや、彼等は再び叫び合った。図書館で30分使った後に廊下を歩いていた時、その叫び合いはまだ続いていた。いつ、どのように始まり終わったのかも、誰が勝ったのかも、私は知らなかった。
時々、彼は私を連れて市中を散歩した。散歩の間の会話の話題はいろいろだった。例えば、彼は宗教音楽を聞くために教会へ行きなさいと勧め、人が立ったり座ったりを真似ておればいいだけだと言った。彼の信仰について尋ねたら、"全然"と言った。仏語や外国語を勉強する一番いい方法の一つは、彼によれば、その言語で同じ映画を同じ映画館の同じ席で何度も何度も見ることだった。そのアドバイスに私はたぶん忠実に従った。ブリジット・バルドーとジジ・ジャンメールが絶頂期の時だった。彼が勧めた別の方法は新聞を読むことだったが、これは私があまり嬉しくなかった。おそらく私の仏語の進歩が遅いので、彼は堪りかねたのだろう、その点について宿題を私がやっているかと聞いた。昔の東洋人曰く"二兎を追う者は一兎を得ず"を引用して、その議論をかわした。たぶん、私は彼の食事が兎であるのを意識下で憶えていたのだろう。"君の兎は何だい? Heckeオペレータかい?"と彼は尋ねた。そして、既約多様体のフロベニウスをいかに上げられるか、方法と考え方を議論した。数日後、図書館で私を捕まえ、"君の兎は何だい?"と再び尋ねた。彼は非常に頭の切れる人で、私が何かを企んでいることを察知したが、それは事実だった。しかし、この記事では逃走中の兎を放すべきであり、後に彼が"君の兎はどうなっているの?"とよく尋ねたことだけを言っておこう。
1958年の秋から彼は高等研究所に常勤したので、私はその学年度の間、そこでメンバーだった。私は彼に従って、数カ月間一緒に日常研究をした。その当時を振り返ると、そのような特別な個人的計らいをしてくれたことに、私は彼に深く感謝している。また、その時の私の置かれた状況を深く認識せず、全盛期にいる非常に優れた人と一緒である幸運な特権を充分に活用しなかったことを後悔していることも記さなければならない。
1961年の春、彼はEveline夫人と一緒に数ヶ月日本にいた。間違いなく彼等は滞在を楽しみ、私は真に私を理解してくれる人が近くにいることに幸せを感じた(おそらく、その当時は唯一の人だろう)けれども、彼の存在感は先の訪日の淡い復活とはとても言えなかった5)と評しても許されるだろう。私に関しては、日本で3年過ごした後、1962年春にプリンストンへ戻ったが、その時が彼との関係の長く新しい序章の始まりだった。私の話を続行するために、この時期の彼の言葉と行動の面白い様相を、発生時の順序に関係なく披露しよう。
既に述べた通り、彼は散歩が好きで、部分的には運動のためだった。プリンストンでは毎日曜日、家からニューヨーク・タイムズ日曜版を買うために1マイル半を歩くのが常で、彼の娘達によれば、彼の宗派の礼拝は歩行だった。高等研究所では、時々メンバーの中から散歩相手を選んだ。しかし、彼はいい歩行者ではなかった。姿勢が綺麗できびきびと歩いたけれども、よく地面の何かに躓いてうつ伏せにこけた。私が彼と高等研究所の林の中で一緒にいた時、そういうことがたまたま起こったが、彼が介助されるのを嫌ったので私は何も見なかったように振舞った。その時は怪我が無かったけれども、別の時にはそんなに幸運ではなかった。そのような散歩の間、彼は私の質問に答えたり、又は話を語るのが常だった。ここにいくつか具体例がある。
彼が12か13歳だった時6)、読者に問題の解法を送るようにと問うている初等数学の雑誌があった。そして、一番良い解法を印刷した。雑誌に名前が載るのが嬉しく思ったので彼は多く応募したが、約2年後にそのレベルを卒業した。そして、"私の全作品集の中に、その解法を含めるべきだった。へっ! へっ! へっ!"と彼は言った。
ハーバーフォード大学にいた時前後に、彼はヘルマン・ワイルにいくらか金を借りたいと言った。"いくらだい?"とワイルは尋ねた。"まぁ、4,5百ドルかな"。それから、ワイルは小切手帳を取出し、暫し熟考の後、4百50ドルの小切手にサインをした。
彼がリーハイ大学で教えていた時、一人の学生が微積分を教えてほしいと尋ねた。何が問題なのか見つけるのに数時間費やした後に、その学生はついに"この記号xが何なのか分からない"7)と言った。彼はリーハイの日々を"過剰雇用"の時期と呼んだ。
あるフランス紳士の理想は3つの同時並行する恋愛を持つことだ。第一は現在お熱を上げている。第二は潜在的なもので、最終的に第一になるであろう彼女に目を向けている。第三は過去のもので、完全に関係を断ち切っている。そして紳士は述べた。"同じ意味で、数学者が数学的恋愛を持つのは理想だ"。
彼は、ボードレール、プルースト、ジッドの、特に彼等の同性愛的行為、ポール・クローデルの姉カミーユへの治療、ポール・クローデルとマドレーヌ・ジッドの手紙文通についてよく話題にした。彼は自己流の好みで各物語をおもしろおかしく、しばしば辛辣に脚色して自分で楽しんでいた。
何の理由なのか憶えていないが、私は彼に推理小説を読んだか尋ねた。"うん、風邪を引いている時のみだけどね"と答えて、続けた。"いいかい、風邪を引いている時は、推理小説を読むしかないのだよ"。弁解じみていたので、私は尋ねた。"どれくらい風邪を引くのか?"。"よく引くよ"が彼の答えだった。
フィールズ賞について、"一種のくじ引きだ。余りにも多くの優れた候補者がいるので、選考プロセス全体がチャンスの問題だ。従って、くじ引きと同じく、賞はそれらのどれかに与えられる"8)と彼は言った。
彼はかって良い数学者は2つの良いアイデアを持っていなければならないとよく言っていた。"一つの良いアイデアを持つことは誰にも可能だが、それはまぐれに過ぎない。2つ目の良いアイデアを持てば、良い数学者に進展するチャンスがある"。ただ一つのアイデアを持つ多作な数学者として知られている米国人に言及した。また、彼の原理に反する例としてモーデルを挙げた。
彼は容赦ないことを言うだろうが、稀だった。1970年の夏、ニース国際数学者会議の後、フランス人数学者について高等研究所のどこかで彼と話していた。パリの若い3人の数学者が華々しく活動を始めたので非常な期待があった。彼は3つの有名な名前を挙げ、言った。"彼等に何が起こったか? 彼等は何か大したことを全く造らなかった"。それは25年以上前だが、私達がその問題について再度話さなかったので、彼が意見を変えたかどうか言えない。1975年頃、一度ならず、フランス数学はしばらくの間衰退するという悲観的意見を述べた。だから、彼の批判をその状況で考えるべきであろう。
当たり前すぎるが、彼はリーマンとポアンカレに尊敬の念を持っていた。ヘッケも好んだ。私達の会話では、彼は滅多にヒルベルトについて話さなかった。驚きではないが、クラインを重要視しなかった。ピカールは彼にとって形式的で堅苦しいと思われた。彼の同時代では、ジーゲルを高く評価し、友好的な言葉でシュヴァレーを語ったが、ワイルについてはそうではなく、一種の両面感情の併存を持っていたようだ。アイヒラーの変わった才能を認めていた9)。アダマールは先生だったからヴェイユの自伝に彼等の関係はよく記録されている。ハッセがある時点でナチスの制服を着た10)ことを彼は憶えていたけれども、ハッセに敬意を払った。ハーディーについて多くの逸話を私に聞かせたが、嘲り笑う声音で各物語を話した。"数学は若い人のゲームだというハーディーの意見はナンセンスだ"と言った。
大部分の人が歳の進むにつれて円熟すると言うのは余りに楽観的かも知れない。少なくとも、多くはそうだが、そうではない人がいる。例えば、サンサーンスは、86歳の生涯を通して気難しい気質の人としていっそう評価されたと言われている。ヴェイユは円熟したが、70歳の後でさえ稀だが、以下のエピソードに見られるように子供っぽい短気さを持ち合わせていた。だが先ず、注記させてほしい。1976年又は1977年頃、彼は"私はもはや数学者ではない。数学史家だ"と宣言した。明らかに、若い世代よりうまく扱える分野はないと認識した。私の物語をしよう。私が10代だった時にどういうわけか上海版と呼ばれていた海賊版の、ロルフ・ネヴァンリンナ著一意的解析函数を入手した。本の最初の3分の1を楽しんで読んだが、残りはギブアップした。それでも、その本を読んだことは私の懐かしい思い出として残っている。1978年ヘルシンキ国際数学者会議において講義ホールでネヴァリンナを見た時、私は自己紹介し彼と握手したが、それは若い頃には想像だにしなかったことだ。ネヴァリンナはその時83歳だった。ヴェイユは会議で"数学の歴史、理由と方法"と題する講義を行った。
会議の後、私はパリで一週間を過ごした。その或る日、ヴェイユのアパートの近くのカフェで私達はコーヒーを飲んでいた。私はヘルシンキでの幸せな体験を話した。しかし、彼は私の話を喜ばなかった。彼はしかめっ面で、ネヴァリンナは私が尊敬するほどの良い数学者ではない等、なんやかんや言った。私は唖然とした。私は決してネヴァリンナを理想化していないし、ヴェイユの仕事を知る前にネヴァリンナの名前を知ったのはたまたま本が入手可能であったからである。それは彼にも分かっていたに違いない。それにしても、フィンランド警察による死刑執行から彼を救ったのは他ならぬネヴァリンナであり、その事実は数年前に私に語り、自伝で語られていた。その自伝は、1939年ネヴァリンナの別荘でヴェイユ夫婦が安心して滞在したことの一節を含んでいる。
しかし、彼の違う面も見られることを追加しなければならない。高等研究所での新しい任命の議論があった時、歴史の教授Morton Whiteが提案に対して猛反対し、学部会議で熱っぽく意見を述べた。その時、ヴェイユは隣に座っていたが、"落ち着け、どうか落ち着いてくれ"と言った。普段のヴェイユの気質から考えて、非常におかしいと思ったと後にWhiteは私に話した。
Eveline夫人が1986年5月齢75歳で去った後に、ヴェイユの娘Nicoletteは彼のために電子レンジを購入した。しかし、"ボタンを押す"なんて嫌いだと言って、彼は全く触らなかったので、その電子レンジはディーラーに返却された。ヴェイユは以前から私達の夕食の定期的客だったが、その時以来、当然彼一人と私達と頻繁に共にした。1986年11月のある時だった。ヴェイユ、Hervé Jacquet、Karl Rubin、Alice Silverberg、私の妻ちか子と私は中華レストランでディナーをし、私達の所へデザートが運ばれ、私がゲストに来世の野望を語るよう促した時、Jacquetはオペラ歌手になりたいと言ったが、それは彼の場合冗談ではなかった。実際、オペラを歌うことが彼の一番の好みであり、数学は二番目に過ぎない。次に、ヴェイユが"中国詩を研究する中国学者になりたい"と言った。2回の中国訪問の後、紅楼夢のような中国標準文学の英訳を読んでいた。"それは退屈な人生かも知れないし、貴方のような人が我慢出来ないと思う"と私は言った。"その時は、飼い猫になろう。飼い猫の人生は非常に快適だ"と私達の近所の白いメス猫(奴さんはいつもゲストだった)を挙げて、"彼女は私の母になるやも知れぬ"と彼は言った。その時、Rubinが"たぶん、中国猫が良い解法だ"と言った。どっと笑って、皆は納得した。それはクリスマスの1,2週間前だったが、ちか子は数日後ヴェイユにクリスマスプレゼントとしてぬいぐるみの猫を買って上げ、彼は非常に喜んだ。実を言うと、ヴェイユ家はかって猫を飼っていた。ヴェイユは一度、クリスマスツリーが家にあることを、猫が好むからと弁解したことがあった。
彼は、特に男やもめになってからは、老いを意識した。彼が言うことによれば、Eveline夫人は耄碌になるのを恐れた。だが、彼女は死ぬ時に全く耄碌していなかった。80を超えて生きた、ある有名なフランス人数学者は最後に2年間耄碌したが、彼はそれを自分で分かっていた。だから来客があった時、少なくとも読めることを見せるために新聞を持ったが、その紙面はしばしば逆さまだった。長生きした別の人はそうではなかった。それでも、ヴェイユが訪問した時に、授与された名誉学位を次から次へと取出して彼に見せた。
ヴェイユに関しては、私が憶えている限り、そのような兆候はなかった。1995年12月に、彼の部屋で30分かそこら話した。彼は頭が冴えていたので、問題(私が彼に会うのは、その問題に対してだ)についてまともな判断を下せた。1996年5月、90歳の誕生日のための昼食会がプリンストンの或るレストランであった。彼は多くを語らなかったが、非常にご機嫌だった。その前後、ちか子は高等研究所のカフェテリアで数回昼食をしたが、彼が殆どの場合一人で、時には娘と一緒に食べているのを見かけた。彼女は挨拶を言い、それに対して彼は"五郎がここにいるの?"と返答した。だから、彼女は私の関係者であることを憶えていたことに安堵した。
私が最後に彼を見たのは1996年11月だった。或る理由のため、前日私に電話してきた。彼は難聴だったので、高等研究所へ会いに来てほしいと言った。私は或る日を申し込んだが、彼は"いや、何故明日では駄目なのか。明日じゃなかったら私は憶えていないだろう"と言った。だから私はその日に彼と昼食を共にした。前夜からこぬか雨がずっと絶え間なく降っていた。研究所の一般部屋で会った時、彼は補聴器を持っておらず、それを取りに家までドライブしてくれと頼んだ。補聴器を付けて、大食堂に入った。彼はよく食べるのが常だが、私のほぼ倍だった。1980年頃、アンドレ、Eveline、ちか子と私は、ペンシルベニアはニューホープのレストランで共に食事した。それはバイキング形式の食事なので、彼は非常に元気だった。彼の食欲が他の3人を圧倒したことを憶えている。ついでながら、ワインについてはやかましく言わなかった。好きでないというわけではないが、Eveline夫人の方がずっとワインを好んでいたという印象を持っている。
彼が今回いかほどに食べるか私は興味を持った。驚くことではないが、16年前と比べて食べた量は控え目で、半分以下だった。彼は難聴だったので、私達の会話を滑らかに行うのは困難で、私はしばしば紙の端に言葉や文章を書かなければならなかった。41年前に会った時と違って、今回書いていたのは私だった。私はその時、新しいアイデアを持ってジーゲルの質量公式11)について研究していたが、それは彼の好きなトピックスの一つだった。だから、私はその話題の歴史について尋ねた。例えば、アイゼンシュタイン、ミンコフスキー、ハーディーの仕事について研究したか又はどのようにしたかを尋ねた。彼はアイゼンシュタインについては憶えていない12)が、ミンコフスキーの仕事は少しは研究したが、それほど多くはなく、ハーディーは全然研究しなかったと言った。大昔だから憶えていないと言い続け、それは本当に違いないが、彼の言うことを額面通りに受取るべきではない。実を言えば、その点を確かめるために、ミンコフスキーは信頼出来るかどうか尋ねた。"信頼出来ると思う"と彼は言った。その時点で私は彼の記憶が不完全だと認識した。なぜなら、ジーゲルが指摘したようにミンコフスキーは間違った式を与え、そのことはほとんどの専門家には知られていた。20歳又は30歳代に彼がやったことを質問しているなら、よく憶えていただろうが、その時私は彼が50歳代でジーゲルの式について研究したことを考慮に入れなかった。
私は歴史的トピックスの何かを書いているか尋ねた。"もう書けない"と言った。彼を元気づけるため、"ずっと前に、コンピュータを持ちなさいと言った理由がそれだ"と私は言った。彼はまた、半分見えていないと言った。食事の終わりごろ、"死ぬ前にリーマン予想の解決を見たいが、それは叶いそうにもない"と言った。
その言葉は、1970年代にボレルの所でのパーティを思い出させた。Wei-Liang Chowが主賓だった。私はチャーリー・チャップリンの自伝の中の一節について、Chowとボレルとで話していた。自伝の中で20歳代のチャップリンは、サンフランシスコで或る占い師と会ったのだが、その占い師はチャップリンがおそろしい程の幸運の持ち主で、何回も結婚して多くの子供を持ち、82歳で気管支炎で死ぬであろうと言った。これを聞いて、ヴェイユは"じゃ、私は自伝で、若い時に占い師からリーマン仮説を私が決して解けないと言われたと書くかも"と言った。
私達は大食堂を離れ駐車場へと歩いていた時、彼は"君は絶対失望しているが、私も失望している…"と言い、そして数秒後続けて"私自身に"。彼は私がジーゲルの仕事について何かを言ってほしいことを知っていた。彼は再び"もう書けないんだ"と言った。私は彼を車で送り、別れた。彼はゆっくり歩けたが、いい状態だとは私は言えなかった。それでも、酷い状態ではなかったので、私は安堵した。こぬか雨が降り続いている中を一人で家へと運転しながら、彼を再び見ることはないという可能性が大きいとは思わなかったけれども、1955年のホテルでの出会い、1957年の昼食を思い出さずにはいられなかった。
数学者としてのアンドレ・ヴェイユは彼の途方も無い業績により記憶され、3巻の論文集と多くの著作(特に始めに言及した3部作)を参照されるだろう。しかし、私個人は、2つの互いに関係する特徴を持つ人物としての彼が主に残るだろう。すなわち、第一に、彼は柔軟であり、人の新しいアイデアや方向の理解が早い。うまく確立されたフレームワーク内のみにしか活動できない最近の若い人とは全く違う。第二に、より重要で同じ傾向として、彼の数学への理解は深くて鋭い。いや、むしろ彼は飽きずにすべての基礎的数学現象の真の意味を理解して、それをより明快な形とより良い展望に表現しようと努力した。いつも新鮮で根本的な方法で各話題に新しい概念を与え、新しいフレームワークを構築した。言い換えれば、彼は単なる問題解決者ではなかった。明らかに、彼の死は時代の終焉を告げ、と同時に将来の長期間において埋められない大きな真空を残した。
脚注
1) 括弧内の数字は、彼の論文集での数字で割当てられた記事を意味する("19"は省略されている)。
2) [35b] は、多様体の座標環が適切な超平面を考慮して得られる部分環上の整元であるという事実に触れた最初の論文である(論文集第一巻p.89を見よ)。ザリスキーはそれをエミー・ネーターの業績とした。私の印象では、ネーターは一般超平面断面を考えたが、整元は考えていないと思う。ヴェイユはこれについては私に賛成で、"おそらく、ザリスキーは若い仲間の仕事として言及したくなかったのだろう。よくある心理現象さ"と言った。彼自身の引用のポリシーがあったに違いないけれども、他方で素直に私はそれを受入れなかった。下の9)を見よ。
3) 私の論文"代数多様体の還元など"に関して、彼は"志村は、応用もしくは応用のためにしたいと私に語った"(論文集第二巻p.542)と言った。これは間違いだ。私が一時ブラウアーのモジュラー表現に興味があったと彼に話した時、おそらく私を誤解したのだろう。ブラウアーもカンファレンスの参加者だった。
4) Mautnerはヴェイユに玉河のアイデアを紹介した功績があった。ヴェイユのコメント [59a] を見よ。
5) 論文集では、彼は二回目の訪問について言及はしているけれども、特別なことは何も言っていない。第二巻p.551を見よ。
6) これは彼が私に話したことだ。しかし、彼の自伝には物語はもっと早期に設定されている。それが真相かも知れない。
7) これも彼が私に話したことだ。自伝にはいくぶん違うバージョンが入っている。彼は苦闘の時代を"いくつものの雇用"の時代と言及した。
8) 大きな違いがある。くじ引きに勝つためには、くじを買わなければならないが、買うことによって、そのシステムに公平性の信任をしている。
9) 彼が代数群において強い近似に言及する時はいつでも、Kneserの定理に触れた。それは、例えば [65] でもそうだが、理解しがたい。だが、いつもそうなのは、[62b] の中で無限2次形式のスピノル種数は単一クラスから成るという事実に関連してアイヒラーに言及したけれども、1960年代の彼の講義ですらそうだった。しかし、奇妙に聞こえるだろうけれども、おそらく彼はアイヒラーの根本的アイデアと、単純多元環と直交群のための強い近似についての決定的結果を認識出来ず、スピノル種数についての結果だけを知っていた。論文集には、若い時の無知を率直に認めている。彼は広く知識を持っていたけれども、よく知られた或る事実に無知なのは後年にもあり、時々私を驚かした。論文で引用する程度まで彼はヘッケの論文を知っていた。しかし、彼がヘッケの論文の大部分を知っていたと見なすのは間違いであろう。他にも、論文集にあるコメントは多くの重要でない参照を含んでいる。これらの理由のため、それらのコメントの読者は不完全性とえこ贔屓に注意した方がいい。
10) ヴェイユによれば、そんな制服を着たハッセが一度ジュリアを訪問した。ジュリアは提携者と見られまいかと心配した。
11) [65] の中で、彼は"ジーゲルの4つの2次形式に関する仕事と [12] (ジーゲルの1952年Annalenに発表した論文)の終わりにある命題によって示された全結果は、次に述べる例外を除いて、いくぶん一般的な形で解決された。先ず第一に…"と言っている(論文集第三巻p.154を見よ)。例外のリストが非斉次形式(ジーゲルが研究した)を含んでいないので、これは紛らわしいと思う。一般的には、非斉次形式のためのジーゲル積公式が"ジーゲルの公式"から(ヴェイユの一般形式では、アイゼンシュタイン級数のフーリエ係数の自明でない計算と組み合わせて)得られるのが事実であり、人はそれは左程重要ではないと言うかも知れない。それでも、非斉次の場合は玉河数の単なる問題ではなく、直交する場合においてすら誰も一般的にそのような明示的な計算をしていないことを少なくとも言及すべきである。1980年代半ば、私はこの点についてヴェイユに尋ねたが、"憶えていない"とだけ言った。
12) [76c] の中で、彼はアイゼンシュタインの全仕事をレビューしている。また、[76a] の題名はアイゼンシュタインとクロネッカーによる楕円函数である。しかし、彼は気付いていたに違いないけれど、アイゼンシュタインの2次形式に関する論文を詳細には研究しなかったことはあり得る。
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2011年04月26日追加 ("The Map of My Life" p.208中段-p.210より抜粋)
上掲の記事には興味ある後日譚がある。1998年の始め、Noticesの担当編集者が私の原稿をアンドレの長女シルビ・ヴェイユに見せ、彼女は是認した。だが、その後、彼女が不快と思う何かがあった。Noticesのヴェイユ特集号の中に現れた写真の選択に関係することだと私は思うが、はっきりしたことは分からない。いずれにせよ、1998年12月19日付の手紙で彼女は、彼女の父と私の最後の昼食における父の弱った健康状態の記述に立腹したと私に書いて来た。"私への好意として、その記述を縮めるか、全く含めないようにしてくれたら私は大変嬉しい"と彼女は言った。そして、私は以下のように返書した。
ヴェイユ様。
貴女の亡父上と最後に持った昼食についての私の記述に御立腹されたと聞いて正直全く驚いた。その箇所を再度読み、何ら変なことは見当たらなかった。結局、ボレル、Tony Knappと彼の妻Susanが読んだが、何ら不穏なことはなかった。万全を期するため、私の同僚の一人であるHale Trotterと彼の妻Kayに、その箇所について意見を求めた。彼等は好意的だった。
勿論、貴女が違う立場にあり、貴女の感情は分かる。しかし、この記事は一般的な数学徒に的を絞ったものであることを強調したい。父上の人生をいろいろな角度から表現すること、特に私が関係するなら出来るだけ生々しく正確に表現することは私の務めだと考えた。残念ながら、貴女は父上が弱った瞬間の記述のみを見た。上述の人々はそれをポジティブに考えたということが少なくとも貴女の感情を変えさせると私は希望する。貴女が分かっていないだろう多くの点があることをもっと具体的に説明したい。
何よりも先ず、その部分は記事全体の文脈の中で読まなければならない。又は少なくとも、最初の数ページまたは年寄りのフランス人数学者について私が書いた(実際には父上が言った)ことと対照的に読まなければならない。次に、もっと重要なのは、父上の存在が私にとって意味するものを語っていることだ。晩年においても父上は数学に関心を持ち、私の役に立とうと頑張った。様々な理由から、父上は悲しかった。それは私も同様だった。"悲しい"又は"悲しみ"という言葉を使うことは避けたけれども、私が伝えたかったのはその悲しい感情だ。語り手の立場に立てば、おそらく貴女はよく分かるだろう。 リーマン仮説に関する意味深な一節もあり、私達の昼食の会話での文脈の中で表現することがベストである。私は後世の人々のために書いた。
明らかに父上はもっとうまく出来たならばと思ったが、90歳だけれども、ある意味では父上はその日をうまくやった。80歳後でさえ尊大で自惚れた有名人を私は知っていた。だが、アンドレ・ヴェイユは違った。彼は己に正直だった。何も偽らなかった。"君は絶対失望しているが、私も失望している…私自身に"という文については、いったい他の誰がそういう誠実な言葉を発言出来たであろうか? 低能な人はそのような流儀で話せない。結局父上は威厳を保ちつつ振舞い、私達皆が彼を誇りに思うべきだ。問題は読者が同じように思うかだが、私の友人の反応は大丈夫だろうと思わせる。
この手紙だけでは貴女の不快を直ぐには抑えられないだろうと思うが、最終的には鎮まることを希望する。少なくとも、読者は誰もその箇所をネガティブにとらえないだろうことを私は貴女を安心させたい。
1998年12月28日 志村五郎
彼女が記事を見せられた時に何も不満を言わなかったのだから、記事を不快には思っていないだろう。彼女の私への要望は、私に責任があると思った何かに対する怒りの彼女流のはけ口だったと思う。 1998年の或る時、フランス数学協会が発行する数学者新聞がヴェイユ特集を計画し、上記の私の記事を送ってくれないかと言ったので送った。数週間後の1998年3月、私は校正刷りを受取り、それを直して送り返した。そして、1999年3月29日付の手紙には、編集長のDaniel Barskyがヴェイユの健康状態を記述している36行がフランス人数学者の多数に苦痛を与えると言って、それらの削除を要求した。面白いことに、それらの36行には記事の最後にあるNo.12の脚注が含まれていた。編集長は削除しないと発行しないと言った。シルビ・ヴェイユが彼に圧力を加えたことは明らかだった。もっと言えば、私はパリにいるフランス人の友人に意見を求めたが、誰も削除には賛成しなかった。私はそれらの文節の削除を拒否し、その雑誌には私の記事は載らなかった。
[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]
志村博士が日本語で谷山氏と書いた近代的整数論に対して復刊リクエストが後を絶たないそうですが、出版社は著者の意向で復刊出来ない旨を回答したと聞きました。このことを友人共から教えられた時、こういうリクエストをする人達は志村博士の書いたものを全然読んでいないと私は思いました。つまり、そういう人達は志村博士の意思を完全に無視しているわけです。何故復刊リクエストに応えないのか、志村博士のThe Map of My Lifeを読んでいれば分かりそうなもんです。
The Map of My Life p. 119下段-p. 120中段より抜粋
As I said in the preface, there were
several unsatisfactory points in the book. One of them was the
proper definition of “the field of moduli,” which I discovered only
in October 1958 and which I told Weil immediately after my arrival
in Paris. Thus, the first thing I did after coming back to Tokyo in
the spring of 1959 was to write the whole theory in English in a
better form by using this new definition.
We had actually planned an English version, but nothing was
done except for a short section I wrote in English on differential
forms on abelian varieties. Sometime in 1957 I handed it to
Taniyama, who died in November 1958. It was returned to me
when I met one of his brothers. I eventually published the book
in English as a collaborative work with him in 1961, but actually
I wrote everything alone, and he was not responsible for the
exposition.
I had known that he was not a careful type, but after starting
this project in 1959 I realized that the problem was more serious
than I had thought. Indeed, I had to throw away many things
he wrote in that book in Japanese. In my article about his life
published in Bulletin of the London Mathematical Society (1989),
I wrote: “Though he was by no means a sloppy type, he was gifted
with the special capability of making many mistakes, mostly in the
right direction.” I also wrote in the preface of the 1961 book in
English: “The present volume is not a mere translation, however;
we have written afresh from beginning to end, revising at many
points, and adding new results such as §17 and several proofs of
propositions which were previously omitted.”
Thirty-five years later in 1996 I published a book, of which
I was the sole author, the first half of which was a revision of
this book, and the last half of which contained new results on
the periods of abelian integrals. Although this subject is related
in various ways to other topics I investigated later, I do not talk
about them here.
(私訳)
本[訳注: 近代的整数論のこと]の序文の中で述べた通り、本には多数の不満足な点があった。それらの内の一つが"モジュライ体"の正しい定義だった。それを私は1958年の10月に発見したばかりであり、パリに到着後すぐにヴェイユに話した。こうして、1959年の春に東京へ戻った後で私が最初にしたことは、この新しい定義を使用することにより理論全体をより良い形に英語で書くことだった。
私達[訳注: 志村博士と谷山氏]は英語版を計画していたが、アーベル多様体における微分形式について私が英語で書いた短いセクションを除いて何もなされなかった。1957年の或る時に、その短いセクションの原稿を谷山に渡したが、彼は1958年の11月に死去した。彼の兄弟の内の一人に会った時、その原稿が私に返された。私は結局1961年に彼との共著として英語で刊行したが、実際には私がすべてを一人で書き、彼はその解説書に対して責任がない。
私は彼が注意深いタイプでないことを分かってはいたが、このプロジェクトを1959年に始めた後で、私が考えていたよりも問題がずっと深刻であることを認識した。実際、あの本[訳注: 近代的整数論のこと]の中で彼が日本語で書いた多くの事柄を私は捨てなければならなかった。彼の人生についてBulletin of the London Mathematical Society (1989)に発表された私の記事[訳注: Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsのこと。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい]の中で以下のことを書いた。"彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた"。また私は1961年の本[訳注: 先に志村博士が説明している通り、形式的に谷山氏との共著としたComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと。因みに題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法とその整数論への応用"となります]の序文の中で以下のことを英語で書いた。"しかし、ただいまの本は単なる翻訳ではない。私達は始めから終わりまで再度新たに書いた。つまり、多くの箇所を訂正し、§17のような新しい結果と以前には省略されていた命題の多くの証明を追加した"。
35年後の1996年に私はある本[訳注: Abelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsのこと]を出版したが、私が単独の著者だった。その本の最初の半分はこの本[訳注: 前述の1961年の本Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと]の改訂であり、最後の半分はアーベル積分の周期に関する新しい結果を含んだ。この議題は後年私が調べた他のトッピクスに様々な意味で関係するけれども、それらをここでは語らない。
以上の通り、志村博士は明確に理由を書いています。つまり、中途半端で不完全な近代的整数論の代わりにComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryを出し、更にはAbelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsも出しているのに、何故旧著を復刊する必要があるのかということです。
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