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ニコラ・ブルバキ、数学者集団―クロード・シュヴァレーのインタビュー

ブルバキが最もブルバキらしかったのは創設期の頃だと私は思います。何をブルバキらしいと思うのかは個人差がありますが、数学的なことを別にして、既製に対する反抗、もっと言えば反逆者だったことがブルバキの特徴だったのではないでしょうか。よく哲学や人文系の人達は構造主義を特徴に挙げる人が多いですが、数学出身の私はそうは考えていません。ブルバキの出現前に、既にファン・デル・ヴェルデンの"Moderne Algebra"があって、構造概念の青写真が出来ていたと言っても過言じゃないからです。それを深化させ、さらに位相や解析方面にも構造を持ち込んだのがブルバキですが、方法や手法はヒルベルトを中心とするゲッティンゲンに種があったのです。ですから、構造が特徴だと言われると変な気持ちになります。ブルバキのオリジナルな数学上の貢献だと思うのは(本当にオリジナルかどうか別にして)、強いて上げれば各自捉え方がバラバラだった写像の概念をきちんと整理して定着させたことにあると思います。
さて、ブルバキの中でも最もブルバキストらしいと私が思うのが故クロード・シュヴァレー博士です。ブルバキの内規によってヴェイユとともに50年代にグループから抜けた後、60年代後半から70年代にかけて突如シュヴァレー博士はブルバキを批判し、当時のブルバキ第3世代とはほぼ絶縁状態になりました。
フランス思想とかフランス政治とか全く無知の私ですが、最近どういうわけかシュヴァレー博士が批判的になった理由を気になりました。数学的業績以外の作品も全集に入るはずなのですが、まだ編纂中ですので目にすることが出来ません。で、非常に断片的ですが、少しでも事情を察せられる博士のインタビュー記事"Nicholas Bourbaki, Collective Mathematician An Interview with Claude Chevalley"(PDF)を読みまして、是非とも全集が刊行されたら購入し、他の思想的エッセイも読みたいという思いを強くしました。インタビュー記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2018年5月29日]
ブルバキの中の人の観点ではなく、編集者の観点から見たブルバキについては"存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ"があります。

[追記: 2019年03月19日]
このペィジは 2012年01月08日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

ニコラ・ブルバキ、数学者集団―クロード・シュヴァレーのインタビュー
Denis Guedj
Jeremy Gray(仏語からの英訳)

編集者の注意: クロード・シュヴァレーは1984年6月28日にパリで死んだ。彼は並外れた数学者であると同時に、数学と一般世間について変わった見解を持つ並外れた人だった。数学コミュニティはシュヴァレーと彼の見解両方を無くして寂しく思うだろう。
以下は、Denis Guedjによる記事とインタビューの翻訳である。それは元々、Denis Guedj編集による短期間で終わった雑誌Dédalesの1981年11月号に載った。この翻訳を公開することを許可したDédalesに感謝する。

当初ブルバキを囲んでいたミステリーはずっと前に払拭された。ニコラ・ブルバキは、7人の若いフランス人数学者(アンリ・カルタン、クロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、ジャン・デュドネ、シュレーム・マンデルブロー、ルネ・ド・ポッセル、アンドレ・ヴェイユ)の閉鎖的な愛情から1935年に誕生した。これらの7人だけがグループの開祖と考えられ、彼等を団結させた友情の絆はプロジェクトの成功に対して重要だった。1930年代、ライン川の反対側では、数学において厳密は厳密だった…ドイツ学派は高く評価された(特にフランスで実施されていた手法をもう受入れない、それらの数学者により)。彼等は、不鮮明、概算、かなりな数の研究にはびこっているお粗末(又は、単に間違っている)な証明を終わらせようと決心した。
グルサーによる専門書、不足だらけの"Calcul différentiel"が火薬を燃やした。彼等はそれを書き直そうと決心した。すなわち、使われるオブジェクトを定義すること、証明を完全にすること、それらが嘆かわしいほど不足している時は、それらを確立すること―簡単に言えば、"本当の"数学テキストを書くこと。これは予期していたよりも、ずっと時間がかかった。この期間にブルバキグループは生まれた。最初の会議は1935年の7月にオーヴェルニュで開かれ、出席者だけがブルバキの栄誉メンバーだった。少しずつプロジェクトはより正確になった。大きく成長したが、そのユーモアといたずらっぽさを失わなかった。

完全厳密な地平線
数学の統一性への絶対的な信頼に元気づけられ、"普遍的数学者"にならんという願望によって、彼等は単一の出発点から数学的世界の全体を導くことに乗り出した。数学的世界の体系を築くためには堅固な基礎を必要とした。彼等はそれを集合論に見つけた。数学的論法の厳密な実践に必要なロジックの原理をそれに加え、そして、"公理的方法に従って準備し、一種の地平線として全形式化の可能性を維持し、我々の専門書は完全厳密を目標にする"(ブルバキ集合論の導入部より引用)。

そんなプロジェクトを持ったのは彼等が初めてではなかったが、それまでにその実現を前進させた唯一のものだった。それを実行するために、彼等は2つの強力な武器、公理化と数学構造の一般的概念を選んだ。第一のものはユークリッド、ヒルベルト等から引抜いたが、第二のものは彼等が発明しなければならず、20世紀数学の最も美しい宝石の一つとして重要である。

同等な人々の共同研究
次の公理が必ず編集作業にあった。"可能な方法すべてのうちで、各数学的問題に対して最もいい方法、最適な方法がある"。この最適条件に対する探求はブルバキ会議でのメニューの大部分を構成した(且つ、なおも構成している)―草稿が出席者の満場一致で認められなければならないのだから、なおさらである。一つの会議で承認されたテキストは、その間に新しい概念が定義されているなら翌年に問題に出来た。そして、これらのシシュフォスのような数学者達は再度作業を始めなかればならず、絶え間のない作業を宣告した神をおそらく罵った。
年齢制限は定まっていた。50歳以上で人はグループを卒業しなければならなかった。一人ずつ開祖は去り、ブルバキは自身を取替えはじめた(だが、女性は誰もブルバキ栄誉を冠しなかった)。
"モルモット"は会議に招待されたブルバキストでない数学者に与えられた名前だった。新しいメンバーが選ばれたのはこのグループからだった。選ばれた人は個性及び数学的優秀性によって、満場一致を得た人々だった。その時から、様々なモルモットがグループに入った。ブルバキストの命名法ではこうだ。最初に"開祖"、そして"中祖"、ブルバキ第三世代は"若者"、最後に"現代のブルバキ"。
メンバーのリストはいつも秘密(公然の秘密)とされて来た。ここで勿体ぶらずに言って、現在のブルバキの構成は(幾分おおよそだが)、Atiyah、Boutet  de  Monvel、Cartier、Demazure、Douady、Malgrange、Verdier…。我々は物語が始まる時を知っている…が、どれほど多くの世代をブルバキが楽しませるのか誰が知ろうか。

反逆から栄光へ
集合論、構造のアイデア、その他ブルバキに負うものは、殆どの現代数学者の原材料と兵器庫を形成している。だが、ブルバキストの見解は、その他の中の一つに満足するかわりに、多くの場所でフィルターとなって来ている―それ無くては救済がないような必然の言葉である。30年代の主流数学に対する反逆から始まって、おそらく開祖が思い描かなかった又は歓迎しなかった他の道にブルバキは着実に方向転換して来た。ブルバキスト彼等自身が有名数学者となり、彼等が30年前に糾弾したメダルや栄誉を受けて来た。必然的に、彼等はブルバキを権力となる道へ導いて来た。

ブルバキの開祖の一人、クロード・シュヴァレーのインタビュー
Dédales: 貴方はブルバキ開祖の7人の一人であり、間違いなく最も顕著な一人です。グループの誕生からほぼ50年、どういう見地ですか。

シュヴァレー: どのように始まったか? 私にとって、最初は当時の数学研究の理解不能への絶望によってだった。他方、いわば矛盾し間違っていると分かった、これらの研究を私(と同世代の他の数学者)が詳しく解説する必要性は耐えられない状況を作った。ヴェイユとの出会いは決定的だった。その時まで、私は数学で正しく理路整然と論じるのは不可能だと信じることが可能だった。だが、彼の中に、数学を理路整然と論じるのは良いことであり、実際に全く可能であることを示す実例を見た。私がその時に非常に進歩したとすれば、私が無意味なことを喋っていることをヴェイユが私に隠さなかったからだった(私がやったことが正しいと私に知らせることも彼は時間をかけなかった)。Freymanが仲裁したのはこの時だった。彼はある効率的な才能があった。彼は素晴らしい交渉人、素晴らしい仲裁人であり、その時から友人となっている。彼はヴェイユと私に私達が事柄を始める印象を与えた。それは明らかに私達がいつでも開始出来ることを示した。

Dédales: それは何の事柄だったのですか。

シュヴァレー: その事柄かい? その時のプロジェクトは非常に単純だった。微分法を教えるための基礎はグルサーの教程だったが、いろいろな点で非常に不十分だった。アイデアはそれを置換える別のものを書くことだった。これは一年もしくは二年の問題だろうと私達は思った。5年後私達はまだ何も刊行しなかった。プロジェクトは1933年に生まれた。私は24歳で、他の人も24歳から30歳の間だった。その時は誰も有名ではなかった。

Dédales: いつブルバキが生まれたのですか。

シュヴァレー: プロジェクトより前。ヴェイユがインドで2年間過ごし、教え子の一人の学位論文のために、彼が文献のどこにも見つけられなかった結果を必要とした。彼はその正しさを確信したが、怠けて証明を詳しく書かなかった。しかし、彼の教え子はページの下に"ニコラ・ブルバキ、ポルダヴィア王立学術院"と言及したノートを書いて満足した。私達が集団名で飾りたてる必要があった時、ヴェイユがこの大げさな話を復活させてはどうかと提案した。初期の間、ブルバキは遊び半分で秘密結社たらんとした。勿論私達は秘密のままに出来なかったのだから、それは全く滑稽だった。皆が分かっていたが、メンバーのリスト、ブルバキという言葉の起源、又は私達のプロジェクトについての質問に答えることを私達は拒否さえした。
シャンセの私の両親の家で2つの会議があった。ブルバキの面々がアンボワーズの駅に到着した。既にそこにいた人達はぎょっとする遠吠えを発声した。ブルバキ! ブルバキ! 皆が私達を狂人の集まりだと思っただろう。そこではそれがブルバキのスタイルだった!(逸話: 或る時私達は定義の選択に合意しなかった―私達は私の娘、非常に幼かったキャサリンに選んでくれと頼んだ)
私達の間には強い友情の絆があり、新しいメンバーを募る問題が発生した時、数学的優秀性と同様に集団での態度も重要視することに合意した。これは研究を満場一致のルールに従わせることを可能にした。誰もが拒否権を有した。原則として、引続きの7又は8草稿の終わりにテキストについて満場一致が起こった。草稿が却下された時、改善のために予想された手続きがあった。"連中"という、会議のレポートが議題に関する議論と判定に関係した。新しい草稿が進まなければならない一般的方針は新しい著者が何をしなければならないか知るように示唆された。著者はいつも次の草稿を義務付けられる誰か他の人だった。最初の草稿が受領された実際例は無かった。
判定は障害ではなかった。ブルバキ会議では一人が草稿を朗読した。各行で提案があり、変更の申入れは黒板に書かれた。このように新しい版はテキストの単純な拒否から生まれず、むしろ共同で提案された十分に重要な改善の連続から生まれた。
ブルバキは大きな利点があった。つまり、人はいつも意見の急な変更の可能性を受入れた。これは数理論理の容認に関する最終的合意で非常にはっきりした。最初、人は反対した。彼等は論理は面白く無いと思った。私は論理を押し付け、論理に関する本の第一版を書いた一人だった。ブルバキは見地を変えられた。論理の拒否(確かに多くのメンバーの考え方の一部であったが)は結局減った。ブルバキの誰もが壁と話している感じを持たなかった。この意味でコラボレーションの大変注目すべき出来事だった。

Dédales: 絶え間無く増大し、未実現なプロジェクトに乗り出せると最初は思ったのですか。

シュヴァレー: 最初の分冊、集合論の成果に関するものを出版するのに約4年かかった。集合論の完全なテキストを書くことは先送りされた。ブルバキによって常に採用された理論のアイデアを読者が理解するように最初の分冊が出版された。最初は、私達の野心はとても慎みやかだった。2回目の会議中にだけ、私達はプロジェクトの大きさを意識するようになった。私達が採用した原則、一般から特殊へ進むことに従って、応用に行く前に最初に一般論を作ることが目的だった。

Dédales: プロジェクトの巨大さを分かった時、貴方は誇らしいと感じたのですか。

シュヴァレー: 勿論だ。世界(分かっているだろうが、数学界だ)に灯りを点した印象を確実に私は持った。他の数学者に対する私達の優越性の絶対的確信と共に進んだ。当時の他の数学よりもハイレベルなものを私達が所持したという確信だ。例えば、一般的に広まった(なおも広まりつつある)ブルバキ的にという言葉がある。これは、入組んでいると人が感じるテキストを取り、それをアレンジ、改善することを意味する。それはただ改善することより以上のことだ。ブルバキが数学に入れたかった規範(本質的には集合論と構造の概念)に従って取扱うことなのだ。本当にブルバキ的なのは構造の概念である。しかし、ものすごく大きい仕事を完成するという考えについて、私達は達成するのは不可能だろうという確信に至った。

Dédales: 一種のバイブルを書いていると感じたのですか。

シュヴァレー: 誰もブルバキを読むことを強制されていないことは明らかだったろう。私達に成功が訪れるなら、テキストの真実の価値のおかげであり、今日のような"義務"ではないと信じていた。だが、数学のバイブルは他の分野のバイブルと似ていない。数学のバイブルは美しく並んでいる墓標のある整然とした墓地だ。そのことは宗教的な意味合いでバイブルの圧倒的な意味を持たない。私達全員に反撃することがあった。つまり、私達の書いたすべてが教育には無益であろうと。私達の内で、これを今まで議論した記憶が無い。当時の数学はとても脆弱だったので数学的権威と結果的に起こる権力を私達は滑稽のように思った。従って、これは議論のネタにならなかったし、権力がある日ブルバキ的になるだろうなんて絶対に思わなかった。

Dédales: そこに来る前に、ブルバキ内部での闘争は何だったのですか。

シュヴァレー: 真に迫る不和があったことは確かだ。例えば積分論について、8巻からなる科目だが、数年間ヴェイユとド・ポッセルの間に恐ろしい闘いがあった。私は少しド・ポッセルの側に気持ちがあった。ヴェイユの意味合いで結論づけられたが、彼はそうは思っていない(彼のアイデアは幾分去勢されていると彼は今軽く考えているので)。

Dédales: ややアナキストな貴方自身にとって、今から振り返って結局権力となる仕事に参加したことをどのように感じますか。

シュヴァレー: この堕落を起こした或る他メンバーに対する大いなる怒りがある。この堕落は不可避だったと言うだろう。私はそう思わない。例えばSamuelは決してそのように転向しなかった(実は、彼が草稿に拒否権を使用した唯一のメンバーだった)。Samuelの存在は、この権力への堕落が不可避なものではなかったという証明だ。

Dédales: やむを得ず権力のツール、支配的イデオロギーのツールに変換されないで、そんな仕事に命を与えられると考えているのですか。参加する人を"支配者"に変換させる、このタイプのプロジェクト固有のロジックは無いのですか。例えば、貴方は逸脱に反対しようとはしなかったのですか。

シュヴァレー: それが起こるだろうと確信していたなら、聡明さを持っていたなら、問題を自分に問わないほど私が弱くなければ、出来ただろうと思うが....

Dédales: しかし、公平に言えば人は先のことを知らない....

シュヴァレー: 将来について私は疑問を持たなかった。誕生した時と同様に続くだろうと信じた。しかし、分かっていたとしても、それに対抗して闘えなかっただろうと思う。権力にならない方向を示そうとしなかったことに自責の念を持っている。だが、努力しなかった。

Dédales: ブルバキでは政治的な人だったのですか。

シュヴァレー: エコール入試を準備していた時にアナキストを読んだ。ブルバキの頃は、"新秩序の自由主義"と自称したアナキストグループにいた。

Dédales: 政治はブルバキから排除されたと思います。外での政治参加とブルバキでの完全没頭の2分割を、特にドイツでナチスが気持よく謳歌し始めた時、貴方はどのように生きたのですか。

シュヴァレー: 何を言うべきか分からない。誤解だ。私が政治分野で書いたことは完全には満足しなかった。書いて満足したのはブルバキの中だけだ。ブルバキで満足出来たのは、世界で起きていることに関係のない活動だったからだと思う。殆どすべての人が私の"新秩序"への参加を嘲笑った。彼等にとって真剣な精神に値しない活動らしかった。そのことは非常に私を傷つけた。アンドレ・ヴェイユは"新秩序"を水に浮かぶ理性と呼んだ。その時に誰かが私に疑問を問いただしたら答えたであろうことを今考えようとしている。答えたであろうことは、私の政治的願望はすべての人に可能なベストな生活をさせることだったが、それは私にとって可能なことだったし、反対しようとは思わなかった。今もそのように答えるだろう。

Dédales: その後、ブルバキグループはどのように進化したのですか。

シュヴァレー: 私達は最初自分達のポケットから会議の費用を払った。そして、相当な著作権料があった。それらをブルバキの共同支出のために使い始めた。共同活動の意味からは確かにかけ離れていた。堕落の一つの要因だった。他にもあった。最初の会議の期間中戦争まで、大学のキャリアに関する問題について言わないことが暗黙の了解だった。簡単なことではなかった。誰かが始めたら、彼を止めて他のことを話した。残念ながら、戦後その問題は面白くなった。これはおそらく、私達が若い人達を呼入れ始めた時に彼等のキャリアに関心を持ったためだろう。私達はしんどい作業に陥った。少しずつ、すべての人のキャリアを話した。それは完全な堕落だった。
戦争前、数学界は毎年一人のフランス人数学者に賞を与えようと決心した。ブルバキは熱心に参加し、メダルに宣戦布告した。メダルは造られなかった。どのメンバーもアカデミーに引き合わされまいと私達の間で合意した(その議題に関する会話を私は完全に思い出す)。今や彼等の殆がアカデミーにいる。私自身が誰も私の意見を聞かずに同等メンバーにノミネートされた。そのようなものに入るのをいつも私は拒否して来ている。

Dédales: 貴方はきっぱりとブルバキから離れました。これはどのように起こったのですか。

シュヴァレー: 私のブルバキとの別れは段階的だった。最後の原因は1968年にデュドネが取った地位だった。その時私が受けまいと判断した地位に彼は座った。彼は大学を片付けて、真の大学を作ること等々に本命とした。私は世間知らずだが、ブルバキのメンバーがそんな地位を手に入れようとは想像しなかった。

Dédales: そして、数学の分野では?

シュヴァレー: 私はまだブルバキストの本質を強く支持している。誰かが言っているように、差し引きは非常に肯定的だ。フランスに公理化を導入したのはブルバキだったことを人は忘れてならない。私は他のことも主張したい。数学のすべての事実は説明を持つはずだという原理だ。これは因果関係とは関係が無い。例えば、完全に微積分の結果だったものがいい証明だと私達は考えなかった。

Dédales: いい証明? それは意味につながることなのですか。人はよく意味に対するフォーマリズムを反対するので、私は質問しています。

シュヴァレー: 意味が実在の反映として理解されているなら、反対するのは正しい。だが、私の言っていることの意味は<b>一つ</b>の意味であり、個人によって会得され、それはもう一人の個人とは全くことなるだろう。

Dédales: それでは一つのフォーマリズムの主観的意味合いは何ですか。

シュヴァレー: 言うのは非常に難しい。ヴェイユは次の格言を言った。"困難がある時、グループを探せ"(数学的!)。それは私を吹き飛ばした。私はこれを米国人の優れた確率論者に話したが、意味が無いと言った。私がもはやどうしても賛成しないことは説明の方法だ。例えば初心者にとっては無意味だ。
数理論理のレベルで私が彼等と完全に別れている点がある。奇妙にも、私の主唱に負う大部分の形式化のテーマのアイデアに関係する。それがブルバキ内で地平線と呼んだものである。形式的ルールを書くが、余りにも多い空間を取り上げるのだから系統だって形式的ルールを適用出来るはずがない。しかし、厳密性の立場から、これらのルールは少なくとも理論的に"地平線"、完全なテキストを描ける。今や私の意見では、それは可能ではない。この不可能性を理解したのはカストリアディスを読んでいるうちだった。例えば、異なる場所で異なる時代に書かれているけれども"同じ"というシンボルの概念はそれ自身を意味する概念では全くない。だが、人がこの数学概念をもっと理論的に持つなら、それ自身を意味しなければならない。この考えは実現可能でないばかりでなく、その内容も馬鹿げている。意味のオーラを持たなければ、シンボルが"同じ"であることは出来ない。そこに、完璧な"地平線"の考えを否定する人間的な何かにアピールがある。

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