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イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントと彼のセミナー―1つの存在

ベクトル空間とそれに対する双対空間を考える時、それぞれの空間の要素を反変ベクトル、共変ベクトルと呼ぶことは大学教養程度の数学を学んだことのある人なら誰でも知っていることでしょう。そして、他の分野、例えば物理の相対論ではこれらの用語を当たり前のように使用しています。では、何故そのように呼ぶのか、先日近所の顔見知りの大学生達から訊かれました。私は訊かれた時に最初誤解して、訳語の不適切さを問うているのだと思い、共変がcovariantの、反変がcontravariantの和訳になってしまったので、不満はあれど歴史的に今更和訳を変えるなど無理で、諦めるしかないと慰めました。しかし、よくよく聞いてみると彼等は和訳の不適切云々を言っているのではなく、そもそものcovariantcontravariantという用語が何故充てられたのか、その経緯もしくは意味を理解していないことに気づきました。正直言って驚きました。当然何らかの講義で教官が何らかの言及をしているはずだと思ったし、たとえ聞いてなくても大学図書館にある何らかのテキスト類を隈なく調べれば分かるだろうと思ったからです。
ベクトル空間の基底を変換した時、成分表示は基底変換とは逆向きに変換することは初等事項だから皆さんもご存じでしょう。つまり、成分変換は基底変換とは反対に変化するから、(成分をベクトルと同一視する時)ベクトル空間の要素を反変ベクトルと呼ぶのでした。一方双対空間の場合、元のベクトル空間の基底変換と同じ向きに双対成分が変換することは簡単な計算でわかります。つまり、基底変換と共に変化するから、双対空間の要素を共変ベクトルと呼ぶのです。
以上の説明をしながら、仮に教官の説明がない場合やテキストに載っていない事項でも、そして教養程度の科目であっても何故学生達が仲間で議論やセミナー、もしくは共同して(欧文も含めて)文献を片っ端から当たること等をしないのか私は非常に不満に思いました。そして、自分達の教官に訊かず、顔見知りだとは言え、とうの昔に(別の大学ですが)象牙の塔を去った私に訊いて事足れりと思っている現代の学生気質を理解出来ませんでした。知識の有無を非難しているのではなく、今の学生達に何かしら違和感を覚えました。彼等と関係の無い大学で教えている友人共の一人は私の不満を聞いて、年長者(もしくは経験者)にまだ訊くだけ上等な部類だと言ってましたが。
以下、皆さんが余程の大天才でないことを前提(人類の殆どがそうだと思いますが)に書きます。数学に限らず、どんな学問でも本当に勉強したいなら、大学、大学院でしっかりと基礎訓練を受けなければなりません。よくテキスト本を独習して勉強した気になっている阿呆な輩がいますが、そんなことは誰にでも出来ることです。重要なのは本に載っていない情報、つまり耳学問が必要なんです。それだからこそ、講義やセミナーに出席することに意味があるのです。いろいろな概念に対する自分の思い違い、他者の違う視点、センスを感じさせる人の独特な感覚、時には叱責や激論など、これらは出席して初めて知ることが出来るんです。つまり、当たり前のことですが、他者との交流が無くては学問は成り立ちません。
ところで、現代数学史上最も有名なセミナーは、故イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファント博士の主催したセミナーでしょう。ロシア出身の超一流、一流数学者でゲルファントセミナーと無関係な人を私は聞いたことがないくらいです。このセミナーについてはいろいろな人が言及しているのですが、比較的最近のものではアレクサンドル・ベイリンソン博士のI. M. Gelfand and His Seminar—A Presence(PDF)があります。ベイリンソン博士の直接の指導官はユーリ・マニン博士なのですが、マニン博士自身がかってゲルファントセミナーの参加者だったのですから、師弟共々セミナー出身ということになります。非常に長い歴史を持つゲルファントセミナーの後期にベイリンソン博士は参加したのに過ぎませんが、セミナーの雰囲気とゲルファント博士の人柄を現代に伝えていて、私はよく書けていると思いました。この記事の私訳を以下に載せておきます。なお、原文の先頭に国仙和尚が死去の一年前に良寛に贈った印可の偈の有名な漢詩の英訳の一部のみを引用しているのですが、お世辞にも上手い英訳とは言いがたく、この英訳の一部のみだけを和訳したのでは意味不明だと思いましたので、元々の漢詩のすべてを書入れました。そして、訳注に読下し文も付加えました。余談ながら、漢詩を現代日本語に訳することさえ馬鹿げているのに、増して外国語に翻訳することは漢詩のみならず漢籍そのものに対する冒涜だと私は思います。漢籍を読みたいと思うのであれば、母国語が何であれ、漢文そのものを勉強せよと言いたいです。現代日本においても、かって(少なくとも戦前までは)知識階級の家庭で当たり前に行われていた子供時代からの漢籍の素読の慣習が完全に無くなり(戦後における新制高校での漢文の授業でははっきり言って何の効果もありませんし、絶対的に時間が不足しています。もっと言えば、かっての旧制高校は今の大学以上のレベルですから、新旧の知的レベルに絶対的な差があります)、常識的な漢文さえも読める人が非常に少ないことを残念に思います。

[追記: 2016年09月17日]
ゲルファント博士については他にも"I. M. ゲルファント教授―自身の興味と直感を理解した学生かつ教師―との対話"が参考になるでしょう。

[追記: 2016年09月27日]
上記の前置きで、私が今の学生達は自分達で調べようという気持ちが無いのではなかろうかと指摘したことに対して、質問をして来た大学生達の一人から、では何の文献に載っているのか示さなければ私の指摘は無意味だと難癖を言って来ました。
彼等はおそらく日本の安直本(つまり、よくわかる何とかとか、やさしい何とか入門とかの類の低レベルの本です)しか見てないのでしょう。私もすべての文献を知っている訳ではありませんが(実際、そんなことは不可能です)、私の書棚にある本では少なくともヘルマン・ヴァイルのRaum · Zeit · Materie[空間・時間・物質]の第1章に載っています。また他にも微分幾何学やテンソル解析関連の本を見れば載っているはずです。と言うか、そもそも用語の意味が分からなければ、先ず最初に岩波などの数学辞典を調べようとしないのか本当に不思議です。

[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2016年09月15日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントと彼のセミナー―1つの存在
2016年3月 アレクサンドル・ベイリンソン

良也如愚道転寛 騰々任運得誰看 為附山形爛藤杖 到処壁間午睡閑
1790年、大忍国仙が弟子の良寛大愚に贈った漢詩より。
[訳注: 読み下し文は以下の通り。

良也愚の如く道転た寛し
騰々任運誰か看るを得ん
為に附す山形爛藤の杖
到る処壁間午睡の閑

意味は大体以下の通りでいいでしょう(上でも述べたように現代日本語に訳すことさえも馬鹿げた行為だと思いますが)。
お前は一見愚かなように見えるが、決してそうではない。実にその悟道の境地は深く、かつ広くゆったりとしている。お前に印可の印として、山から切ってきたばかりの杖を一本与える。この杖を大切にして座禅の間はもちろんのこと、昼寝をしている時にも忘れるな]

イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントの数学セミナーは毎年9月の始めに開始し、春に終了したが、その時にIM[訳注: イズライル・モイセーエヴィチ、すなわちゲルファントの名前]は"(雪解けの)小流が流れ始めている"と言ったものだった。セッションは毎月曜日にモスクワ大学の主要ビルディングの14階にある大講堂で行われ、2つのパートから成っていた。すなわち、6時に始まるプレセミナーと、本セミナー。本セミナーはIMが7時頃到着して始まり、清掃婦が退出を告げるために部屋に入る10時(その時間に階はロックされ、夜を家で過ごしたい人々は急いで降りなければならなかった)に終わった。プレセミナーの間、多くの人々が講堂の入り口付近に集まって会話し、本やあらゆる種類のテキストを交換した1。概してセミナーはIMが逸話や数学ニューズを語って始まり、その後で招待されたスピーカーによるトークが来たものだった2。しばしば終わるための時間が十分でなく、トークは続き物として継続し、その都度一から始まって先週の材料の大半をカバーし、スピーカーは徐々に消えていき、トークが何だったのか、もしくは何のはずだったのかIMによって指名された学生に置換わった。議題を理解していない、もしくは上手く説明していない(または板書が非常に小さく、声が明瞭でなければ)スピーカーはひどく叱られた3
セミナーは1943年に始まった。私はその後年を見たが、ソ連の後期に一致した。スターリンの死後、国家の構築物は縮小し、自由空間が活気に満ちた。イデオロギーはその支点を失い、デモクラシーの見せかけは簡単(候補者は同等に受け容れ難い二人ではなく、投票すべきなのは一人)であり、新聞は大概トイレットペーパーとして使用された。残るタブーは個人的商売4と起業家であり、党の場所の外側での政治活動だった。多くの人達はプーシキンの詩"ピンデモンテより"5の心構えを共有し、すべての政治的問題をともかく興味なしとした。現代的な意味での市場、この必要でない物事の絶え間ない強制栄養は存在しなかった。人は森の中に自分自身の小道を見つけるために滑走路を抜け出せた。その小道がたまたま数学であれば、IMのセミナーに必ず出会うであろう。
異質な内的音楽6があった。その雰囲気は薄く透明だった。人の息遣いの音、粉雪が降る音、窓ガラスを装飾する白霜の接触の音を聞こえたであろう。モスクワ川上流の小片に面している古代墓地を隔てた人気のない教会、深い渓谷に囲まれた木造の家々、サヨナキドリが鳴く広大なリンゴ園がある素晴らしいデャコヴォのような古い村がモスクワ境界内にまだ存在した7。詩歌は社会的評価よりはるかに現実的だった。すなわち、詩は手書きで再生され、暗記された8
1972年の秋に私はAlesha Parshinによりセミナーに連れて来られ、IMに紹介された。その時私は第二数学学校(IMは数年前そこで教えた)の最終学年だった。阿呆でいる貴重なフィーリングとそれにもかかわらず、いやむしろ、そのおかげで生活収支との均衡に関する不安定は、川の砕けた氷の上を走ることと同類で、最近までに戻っている。
モスクワ大学の数学部門の入試を失敗した後9、私は素晴らしい教育専門学校にいることに気付いた。これは一つの祝福だった。すなわち、学校に行くことまたは朝に学校を無断欠席すること、数学セミナーに行くことまたは森の中を散歩するために日中遅くに列車に乗ること10。そして、素晴らしい友人達がいた。しばらくして私は何とか大学に転入出来た。そこでのムードはいっそう陰気だったが、好成績を望まなければ、数学をやるのにとても必要な怠惰と自由の尺度を保つためにイデオロギーのクラスをすべて省略出来た11
発表されるべき私の最初の結果がたまたま同じ時(1977年の終わり)にIMがOsya Bernstein、Serezha Gelfandと共同で発見されたものに近かった。IMは私が同様の定理を得ていることを言及して彼の研究をトークした。トークの後、私はIMに近づいたが、彼は私に直ちにユーリ・イヴァノヴィチ・マニン(マニンは私の指導教授だった)のもとを去り、彼の学生になりなさいと命じた。その束縛は狂暴的だった。私は断った。私がその賞賛をユーリに話した時、彼はこれが多くの場合に発生していたことだと言った。例えば、彼自身とシャファレヴィッチに対しても。その後私はIMの影響力の外側の軌道にいたが、私達の関係はとても良かった。
卒業後、モスクワ心臓病センターの数学研究所に私は職を得た。その目的のため、高貴なVladimir Mikhailovich Alexeev(彼は研究所長だった)は大きな癌手術を受けた直ぐ後に職業委員会に来た。VM[訳注: Vladimir Mikhailovich Alexeevのこと]は1980年の12月に死んだ。問題をほっぽり出すことを良しとしない新しい所長は私を除外することに熱心だった。IMはその状況を知った後で、センターの生物学部門長に話をした。私はそこに転任させられ、私の好きなようにさせた。その閑職は大学院よりも良かった。
1970年代初めに冷戦12の強風がソ連のユダヤ人に対して他国へ移住する許可をもたらし、今から回顧すれば、我々にとってより良い場所となるはずがそうではない13というグリボエードフの警句の普遍性の証明になったものに多くの人が届け出した。友人達との別れは永久だと思われた(当時ソ連の差迫った終焉が予想されていなかったことは米国の現在がそうでないことと同じである)。Dima Kazhdan、Ilya Iosifovich Piatetski-Shapiro、そしてOsya Bernstein(モスクワにおける彼の最後の半年の間、私達は彼と楽しく数学をやっていた)が去った人達の中にいた。セミナーにおいて誰も彼等の代わりを出来なかった。
IMは人々と一緒に遊ぶことを好んだ(彼と一緒のいたずらは途方もないものでは決してなかった)14。誰かと交戦する共通の方法は相手の尊大な感覚を探求することだった。IMは滅多にゲームを負けなかった。たまたま負けたなら(相手がIM彼自身よりも意外性があることを意味した)、彼はひどく怒ったが、勝者は彼の敬意を受け、ことによると愛情さえも受けた。例えば、IMは貴方に対して待機し、そして長期間消えてくれと頼むかも知れない15。質の悪い勝利は一時間後には消えるものだった。名人の動作は異なるであろう。伝説によれば、IMはMisha Tsetlinがどのようにやっているのか見るために数時間後オフィスに戻った時、Mishaがソファでぐっすり眠っているのを見た16
IMは生命を重視した17。IMは非常に社交的な人だったけれども、内的幸福の不足によって生じる問題に対して彼は外向きの注意を払わなかった(結果として、しばしば彼は粗野だと受取られた)18。彼はそれ自体のために興味を持たせたものをやり、何らかの壮大なプロジェクトの一部としてではなかった19。セミナー(数学及び生物学20, 21のもの、そして1986年から始まるインフォマティクスに関するもの)を運営することがいつも面白かった。
そして医者達との研究があり、医師が心臓病をどのように診断するかを調べる長期間の試みだった。その試み自体が失敗22に終わった一方で、IM周辺の人々の著しい人生をもたらした多くのトップ級の医者達を含んでいた。当時私は3人の本当の名医(施しに対する謝礼を受け取れないと彼等は感じていた)を知るようになった23。私はそんな心構えが全く当然であり、一人の医師が異なる何らかをするはずがないことを学んだ24
IMは慎みの重要性を強調した25。私見ではIMの人生には2つの中心的実現があり、爆弾に関する研究の後で軍部とのつながりを断ち切ったこと(1950年代末期)26と、絶対採食主義者となったこと(1990年代半ば)27だった。両方が通常呼ばれているところの客観的思考の習慣を克服することと関係がある。つまり、他者に向かう弊害に対して注意を払わないことだ28。最初の決心が無ければ、おそらくIM周辺の世界はずっと多彩でなく、セミナーは全く違っていたであろう。菜食主義者になることはたぶん本質的である。人の心に固く結ばれた結び目を緩め、多くの事柄を明晰かつ簡単と見なす能力を復活させるかも知れない。
IMのセミナーと他の偉大な数学セミナーの一つの違いは、その開放性だった。トークは何らかの特有な議題を説明することを狙っていないし、それらがIMの現在の研究と関係もないが、むしろこれらは未来からの訪問を含むかも知れないストーリーだった。これは次のフィーリングに合っていた。すなわち、私達は科学の成果を根本的だと考えることに慣れている。時が経つにつれて不思議な状況は移り変わり、実のところ私達は世界について殆ど何も知らず、科学はたんに広大な開放性を隠す試みをしていると認識する。しかし、私達は新事実を不思議に思い吸収出来る。そして私は私達を通り抜ける風のおかげであると感謝の気持ちを感じる。
しばしばIMは彼自身を賢いと思わないと言った29。愚者が物事を見る方法は、周辺の見解が中央の見解と異なるみたいに賢者が物事を見る方法とは異なる。どの瞬間でも見方と選択の可能な方向は無限にある。愚者はそれに気づいたままだ。賢者はうまく1つまたは2つの方向に移る一方で、残る無数の次元を完全に忘れる。新しい理解または新鮮な詩は未知の次元の中へごく小さい動きから始める。それは愚者が真似出来ない行為だ。
現代数学は概念思考のユニークな推進力である。いったん正しい概念(数学的構造)とそれを扱う言語が見つかれば、まるごとの新しい世界が展開する30。だから数学者にとって、非数学的な分野、例えば生物学を理解するためのキーとして適切な言語を探す誘惑が強い。この見解はIMにとって大事だった31。それが実現しなかった一つの理由は以下のことかも知れない:
科学はいつも真実性を、あたかも外側からオブザーバーとは明らかに別個の研究対象として考えている。だが、数学的構造は内部のみから観られる本当の真実性の一部分であり、研究対象が私達の頭脳の活動と不可分だ。適切な言語がこのタイプの視力にとって特異であるかも知れない。例えば、最も皮相的なレベルを除き、動物が世界とやり取りする方法に関して科学は白紙である。動物の視力が人間のそれとは驚くほど異なるはずなので、それを知ることが真実性とは何であるかに関する私達の理解を抜本的に変えるかも知れない。適切な言語が引き起こされるのはそんな探求の中にある。私達自身を他の生物から切り離し、それらの頭上(すなわち、地球、生物、樹木が私達の所有物となり得ると想像する程度まで)に配置することを固執している限りにおいて、それは全く馬鹿げた夢である。ついでながら、この同じ欺瞞が地球破壊の運動力(私が最後にIMを見た以降、ずっと加速している)の基礎になっている。
私がこれらの行を書いている時、過去が途方もなく将来と分離しているとは思えない季節の春である。偉大なるセミナーは本質的に妖精の馬の何かを有している。バヤールはアルデンヌの森の中心に逃亡して以降、どこかでまだ生きていると言われている。
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多くの散歩、Jesse Ball、Spencer Bloch、Irene(!)[訳注: 原文に掲載されている写真を見た人なら分かるように、ベイリンソン博士は雌の猿を飼っていて、Ireneと名付けて非常に可愛がっています]とNicodemus Beilinson、Volodya Drinfeld、Dennis Gaitsgory、AnyutaとVolodya Gelfand、Senya Gindikin、Dima Kazhdan、Dima Leshchiner、Yuri Manin、Oleg Ogievetsky、Eric Shuttとの議論、書下ろせと言うSlava Gerovitchの要望、Allyn Jacksonの関心と協力が無ければ、このエッセイは存在しないだろう。彼等に深く感謝します。

注釈
1Senya Gindikin: "IMはこれらのプレセミナーの議論を非常に重要だと考えた。しかし、彼は病的に計画性が無く、たとえ彼がしたくても(例えば、重要な人々との会合のため)どこでも時間通りに到着出来ないであろう"。伝説によれば、かって彼は科学アカデミー総裁との会合に向かう階上の途中で掃除婦と冗談を交わした。彼は決して目的の場所に着かなかった。

2Misha Shubinの講義録についてはwww.mccme.ru/gelfand/notes/を見よ。

3ときおり、このシーンは南泉と猫に関する公案に似ている。en.wikipedia.org/wiki/Nanquan_Puyuanを見よ(見たところ趙州は載っていない)。

4一つの例外がモスクワでの鳥の市場だった。そこでは週末にすべての種類の動物が売られた。かって私がドン・ザギエと一緒にそこを訪れた時、羊の毛皮のオーバーを着た顎髭の男がドンに純白のグースを売ろうとした。その男はドンが本当の紳士だと分かると言った―そうでなければ、男はドンに美しさを申し入れないであろう。純白のグースはドンのベストフレンドとなり、どこでも彼と一緒に行き、風呂も一緒にするだろうと言った。その会話のやり取りはフランス語だった。

5Nabokovの翻訳についてはhttps://ireaddeadpeople.wordpress.com/2014/11/06/alexander-pushkin-to-strollin-ones-own-wake/を見よ。

6もう一つの鎖国―江戸時代後期の日本のそれとはおそらく似ていない。モーレスも全く異なる。例えば、チェルノブイリの余波を処理した原子力の主任科学者は、おそらく原子力工業に参加したことの謝罪として自殺した(彼の上司は福島の時期に倫理を実践した)。

7デャコヴォは1980年代に除去された。最初共同墓地にある墓が掘り出され、暫くして家々は解体され燃やされた。一年以上の間一つだけが生き延びた。

8私の友人達のうち二人がマンデリシュタームの詩を暗唱した。Cf. Nabokovによる"An evening of Russian poetry"、www.sapov.ru/novoe/n00-39.htm.

9モスクワの数学施設の統治者はユダヤ人の何らかを立ち入らせないようにした。

10一年間私は殆ど毎日森を見ていた。

11正式には試験に合格するためにコースの全内容を知らなければならなかった。コムソモール[訳注: 共産党の青年組織]のリーダーの協力もあって、教師達は試験前夜に各学生に彼または彼女が質問される問題を漏らした。

12その唯一の要因は金権政治と独裁政治の不調和だった(である)。米国/ソ連の不和の残りは赤ニシン[訳注: つまり、見せかけ、偽を意味します](または、読者が好むなら、しばしばIMに引用されたKozma Proutkoffの寓話の忘れな草。英訳についてはwww.math.uchicago.edu/∼mitya/langlands/nezabudki.htmlを見よ)。

13これらの出発、夢のシミュレーションはソ連国境(どの方向にも)を越境する自由意志よる探求について殆ど共通性が無く、NabokovのGloryにあるように、またはSlava Kurilovにより指摘されたように、対外的目的が無かった。Slava Kurilovの本Alone in the Oceanrozamira.org/lib/names/k/kurilov_s/kurilov.html(露語)。

14Spencer Bloch: "彼がパリに来てセールに会うことになった時の私のゲルファント物語を君に確かに話した。彼はオルマイユに滞在していて、IHESの人達は彼をパリにエスコートする誰かを必要だった。私が選ばれた。私達はいやと言うほど長時間列車に乗るのだから偉大なるセールに迷惑をかけないだろうと私は提案した。勿論、私は責任の微妙な思考過程を十分に把握していなかった。セールに迷惑をかけないことはゲルファントの優先権のトーテムポールがかなり低いとだけ言っておこう。私は彼のアパートに着くと、彼は茶をたてるロシア流のテクニックについて私を指導すると宣言した。だから、勿論私達は列車に乗り損ねた。しかし、20分先頃にもう一つの列車があるだろうから問題ないと私は言った。しかし、そうではなかった。茶をたてる間にエラーが起きていたとゲルファントは言い、彼のアパートに戻り、さらに茶をたてること以外に何も起きなかった。だから、勿論私達は次の列車を乗り損ねた。そして、最初にはっきりと述べたように、偉大なるセールは偉大なるゲルファントを待たねばならなかった"。

15Senya Gindikin: "もっと複雑だったと思う。IMは何ら義務を感じないし、いつもその瞬間にしたいことだけをやった。彼は故意に何かをやっていないし、暫く取り乱すはずがないと私は思う。私はここに大きな人間経験を持っている"。

16Misha Tsetlinは1966年に亡くなったが、彼のIMに対する関係はおそらく趙州の南泉に対する関係と同じだった。彼等の生理学における研究について、M. Latashの本Synergy, Oxford University Press, 2008, books.google.ru/books?id=Z45Oj8yCQMIC&pg=PA53のセクション3.1を見よ。またTsetlinに関するV. V. Ivanovの記事historyofcomputing.tripod.com/essays/CETLINM.HTM(露語)を見よ。

17そして多分、彼は醜い人間行為でさえ視力の清澄を汚さない点までその美に感心した。生命の喜びにそれほどまでにあずかれる人間を野生動物は怖がらないと私は信じる。

18他方IMは問題がリアルな時に注意を払った。例えば、酷い事故の後、Sasha ZamolodchikovとTolya Kushnirenkoの息子の命を救うための彼の協力は重要だった。

19しばしばIMはそのテーマが非常にポピュラーになった時はいつでも研究を放棄すると言った。

20Volodya Gelfand: "IMは生物学を知らなかったが、話すべき本当の専門家を必ず特定出来たし、これらの議論はしばしば生物学者達にも非常に有益だった"。

21IMは生物学に魅せられた。と言うのは、不思議をどう考えるのでさえ知らないことがそこでは非常に明らかだ。

22おそらく最初IMは医学を芸術として認識しなかった(彼にとって、数学者が定理を証明するようなやり方で解明する非数学者のプロジェクトはお笑い種であろう)。髄膜炎の診断の簡単な問題に関する研究は成功した。

23病院勤務の後で彼等を患者の家に連れて来るタクシー代を含んだ。

24与えられた人間社会がそのコアで死んでいないことの簡単な基準はその中でそんな医者の存在である。

25Dima Leshchiner: "彼のお気に入りの言い種'人は短所を持っていないが、特性だけを持つ'を思い出す。これは彼の理解の中で'慎み'の意味したことに関係すると私は思う。つまり、'慎み'は行動の品質であり、人の品質でないことだ"。

26かってIMは当時を振り返って彼の選択肢の内の研究所(例えば軍事プロジェクト扱う応用数学研究所)の所長を申し込まれ断ったと私に語った。Senya Gindikin: "彼が軍事活動を止めた経緯と理由を誰かが知っているかどうか私は知らない。その程度まで、これは彼自身によって始められた。彼は非常に慎重だった。彼は1960年頃秘密のレーニン賞を受けた"。

27VITAに対するIMのインタビューisraelmgelfand.com/talks/vita.htmlを見よ。早期にIMは猫を用いる陰惨な実験に基づく神経生理学に関する研究のシリーズを共著した。

28現在の世界の悲嘆の要因は工業技術の発展が私達のモラルの発展を超過してしまっていることであると言う陳腐な嘆きは的を射ていない。と言うのは、モラルの発展が存在しないからだ。今の共通する慎みは何千年前と同じであり、適応すれば(そして、適応する人々が殺されなければ)上手く行く。例えば、それを宗教原理として持ち(https://en.wikepedia.ag/wiki/Jainism#Doctrineを見よ)、ジャイナ教は妥当な(つまり、破壊のない)社会(存在する唯一のものかも知れない)を建造した。彼等の西洋における従兄弟達であるGood People(敵からはカタリ、"catlovers"と称される)は今日呼ばれているところの"国際化"の功績の中で抹殺された。

29医者と話す方法に関してIMが"貴女は私が馬鹿であると私に説明すべきでない。私はこれを自分自身で知っている"とOleg Ogievetskyの母を指導した時、彼は"誰も生まれつきの馬鹿である権利を廃止出来ない"と主張した。

30関連する事実は、他と違い数学において間違っている概念は次々と簡単に死ぬことだ。理解のための私達のキャパシティーは真っ先に間違いの概念を追い払う能力が無いことにより妨げられている。

31彼の京都講演israelmgelfand.com/talks/kyoto.htmlと誕生日会のトークwww.math.harvard.edu/conferences/unityofmath_2003/talks/xgelfand-royaltalk.htmlを見よ。

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前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ