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岩澤健吉博士

大学に残って教育に従事している友人の話によれば、今は大学院生でも、故岩澤健吉博士の"代数函数論"を読まないらしいです。「賦値理論が下らんからかい?」と聞くと(なお念の為に言いますが、私のような下辺な人間が大学者の理論にケチをつけているのではありません。一般的に言われていることを言ったまでです)、「そんな高尚なことじゃなくて、要は旧字体を読めないだけ」だそうで。暫く前に、この本が絶版になっていたところ復刻されたのですが、余りにも売れないからかどうか知りませんが、またも絶版になったらしく、友人の話を聞いて成程と思いました。私達の世代は当然旧字体を習っていませんが、それでも日本人なので何となく読めました。これから専門家になろうとする者が、たかが旧字体だけの理由で読まないとすれば余程の学力低下か、もしくは日本人ではないのでしょう。名著だと持ち上げられる一方で、駄作だともこき下ろされる本ですが、この方面でまとまった日本語の本は、これ以外には無いと私は思います。但し、第1章の賦値理論、それを引き摺った第2章は確かに論議を呼ぶところですが、第3章以降は古典的で読んで損はないと思います。しかし、これはあくまで日本語の本に限ればの話であって(因みに"代数函数論"は1993年に日本人によって英訳され米国で出版されましたが、その理由が私には分かりません。つまり、そこまでして海外に紹介しなければならない本なのか疑問を持っています)、海外のものでは、古いけれどもGilbert Ames Blissの"Algebraic Functions"やChevalleyの"Introduction to the Theory of Algebraic Functions of One Variable"の方が断然いいと思います。
岩澤博士は"代数函数論"の執筆と並行して講義もしたようです。その講義に学生だった志村五郎博士も出席したらしく、非常に辛辣に批判しています。以下は長くなりますが、志村博士の自伝"The Map of My Life"からの抜粋です。

 I will now describe what Kenkichi Iwasawa taught, though it
was one of the better courses. He was well known for the theory
named after him. Four years earlier in 1945, Artin and Whaples
had jointly published a paper, and Iwasawa’s main objective was
to explain the contents of that paper. He began with an intro-
duction to valuation theory, and then turned to the paper; the
whole term was expended for that purpose. The part concerning
valuation theory roughly corresponded to the portion of his book,
in Japanese, on algebraic functions of one variable, which he was
then preparing. The lectures were clear, and not perfunctory, but
there was much to be desired.
 He had no intention of explaining the basic ideas to the be-
ginners. There were no examples: just definitions, theorems, and
proofs. In other words, he was lecturing for himself, not for the
students.
 Putting that point aside, the larger problem was that the orig-
inal paper of Artin and Whaples was insignificant. It was similar
to Hilbert’s foundation of geometry. Without going into details,
suffice it to say that if we start with a set of axioms, then we can
show that the objects satisfying the axioms are exactly what we
already know, and nothing else.
 Thirty-two at that time, Iwasawa was searching for new ideas,
perhaps through the process of trial and error. His mathematical
knowledge was not very broad, but at least broader than all of
his colleagues, as he was familiar with Lie groups in addition to
algebraic number theory. His book on algebraic functions just
mentioned was a good introductory book at that time. However,
he had not yet found any idea that could really be called his own,
and he did so more than five years later.
 Actually, there was an excellent topic he could have chosen
instead of that paper by Artin and Whaples. He presented a short
paper at the International Congress of Mathematicians in 1950
held at Chicago. He showed in it that the analytic properties of
the Hecke L-functions can be derived by using adeles and ideles,
as it is ordinarily done today. Therefore after valuation theory, he
could have explained his ideas on this subject. Of course it would
have been too much to develop the theory rigorously, but I think it
was quite feasible for him to explain the basic ideas, which would
have made an extremely interesting and inspiring course. But alas,
he was more interested in learning the contents of someone else’s
paper, than in guiding students in the right direction.
 The insignificance of the Artin–Whaples paper became self-
evident no more than a few years later, possibly even at the time
of its publication. Nobody in my generation paid any serious at-
tention to that work. Artin visited Japan in 1955, but we younger
people were not interested in what he said, as we knew that he
was a has-been and had no interesting new ideas; he was being
surrounded only by “old people those days in Japan.”
(私訳)
良いコースの一つだったけれども、岩澤健吉が教えたことを書こう。彼は彼の名前を冠した理論で有名だった。4年早い1945年にアルティンとWhaplesが共同で論文を発表したが、岩澤の主要な目的がその論文の内容を説明することだった。彼は賦値理論への入門から始め、そして論文に戻った。つまり、学期全部がその目的のために費やされた。賦値理論に関係する部分はおおよそ、一変数の代数函数についての彼の本の部分に相当した。その本を、その時に準備していた。講義は明確で、お座なりではなかったが、望まれることが多くあった。
彼は初学者に基本的なアイデアを説明する気持ちが無かった。実例は無かった。すなわち、ただ定義、定理、証明だけだった。言い換えれば、彼は学生のためではなく、彼自身のために講義していた。
その点を別にして、もっと大きな問題は、アルティンとWhaplesの元論文がくだらなかったことだ。それは、ヒルベルトの幾何学基礎論と類似していた。詳細を述べるまでもなく、公理の集まりから始めるならば、公理を満足する対象は、まさに私達が既に知っていることであり、それ以外の何物でもないことを示せると言えば十分だろう。
当時32歳だった岩澤は、おそらく試行錯誤の過程中で新しいアイデアを探し求めていたのだろう。彼の数学的知識は非常に広いとは言えなかったが、代数的整数論に加えてリー群に馴染んでいたから、すべての同僚よりは少なくとも広かった。たった今言及した、彼の代数函数についての本は当時良い入門書だった。しかし、本当の彼自身のものと呼ばれるアイデアをまだ見つけていなかった。彼がそれを見つけたのは5年以上後だった。
実際、アルティンとWhaplesによる論文の代わりに、彼が選べたであろう素晴らしいトピックがあった。1950年シカゴで催された国際数学者会議で彼は短い論文を発表した。彼はその中で、今日普通に為される通り、ヘッケL-関数の解析的概念がアデールとイデールを使って導出出来ることを示した。従って、賦値理論の後、彼はこの題材についてアイデアを説明出来たであろう。勿論、理論を確実に展開するためにはもっと多くのことがあったであろうが、基礎的アイデアを説明することは全く可能であったと私は思う。それが、コースを非常に興味深く刺激的なものにしたであろう。しかし、残念ながら、学生を正しい方向に導くことよりも、彼は誰か他の人の論文を学ぶことに興味を持っていた。
アルティン-Whaples論文の無意味さは、わずか数年後に自明となった。おそらく発表された時にも明らかだっただろう。私達の世代の誰もが、その研究に真面目に注意を払わなかった。アルティンは1955年に日本を訪れたが、彼が過去の人であり面白いアイデアを持っていないことを知っていたので、私達若人は彼が言っていることに興味は無かった。つまり、彼は"日本のその頃の老人"だけに囲まれていた。

ところで、岩澤博士のことは私がくどくどと申し上げるまでもなく、皆さん御存知だと思いますが、故小平邦彦博士とともに戦後数学界をリードした巨匠でした。志村予想の解決にも岩澤理論が駆使されました。教養課程の学生や向上心のある高校生を念頭にして、博士の簡潔でまとまった伝記的資料がインターネット上にないか探したのですが、平凡で面白くもないものしかなく、実質的にすべて金太郎飴みたいな感じでしたが、ここは手堅くお馴染みのMacTutor History of Mathematics archiveのKenkichi Iwasawaの私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2011年08月21日]
志村博士の"The Map of My Life"についてアマゾンでレヴュを書きましたので、参考になれば幸いです。

[追記: 2019年03月19日]
このペィジは2011年08月04日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

岩澤健吉博士
生誕: 1917年09月11日 日本国群馬県(桐生市近郊)新宿村
死亡: 1998年10月26日 日本国東京都

John J. O'Connor, Edmund F. Robertson

岩澤健吉は生まれた町の小学校に通ったが、武蔵高等学校での勉強のため東京に行った。1937年東京大学に入学し、彌永昌吉と末綱恕一に学んだ。この当時、東京大学は、高木貞治の著しい貢献の結果として、代数的整数論研究の中心となっていた。高木は、岩澤が勉強を始めた前年の1936年に定年退官したが、高木の学生、彌永と末綱は、彼等が学生の時にヨーロッパの一流学者とともに発展させた多くのアイデアを大学に持ち込んでいた。
岩澤は1940年に卒業し、大学院での勉強のため東京大学に残った。彼はまた数学科助手として雇われた。東京での数論の偉大なる伝統は興味を惹いたが、彼の初期の研究は群論だった。第二次世界大戦は日本の生活を混乱させ、実質的に末綱の研究キャリアを終わらせた。彌永は左程いい方向に上手くいかなかった。彌永は以下のように書いた。

....終戦まで。東京と他の日本の都市はよく爆撃され、私達は田舎に疎開先を探さなければならなかった。すべての人が戦争中何らかの方法で動員された。

明らかに岩澤は博士号の研究を完成させることは最も困難な時期だと分かっていた。その困難にもかかわらず、華麗に成功し、1945年に自然科学の博士号を授与された。しかし、その犠牲は高くついた。と言うのは、博士号取得の後、彼は肋膜炎で重体となり、1947年4月まで東京大学に戻ることを阻んだ。
岩澤がこの時代にやっていた研究を少し見ると、On some types of topological groups("ある種類の位相群について")があり、それは1949年Annals of Mathematicsに発表された。岩澤の結果は、任意の局所ユークリッド位相群は必ずリー群であるかを問うヒルベルト第5問題に関係した。1949年の彼の論文は、実半単純リー群の"岩澤分解"として今日知られているものを与えた。特に、NとG/Nがリー群となるような閉じた正規部分群NをGが持つならGはリー群であることを証明して、リー群に関する多くの結果を与えた。
1950年、岩澤は、マサチューセッツ州ケンブリッジでの国際数学者会議で講演をするため招待された。彼はその時にプリンストン高等研究所の招待を受け、1950年から1952年までの2年間を過ごした。岩澤のそこでの2年間にアルティンが高等研究所にいて、岩澤の研究の方向を代数的整数論に変える主要因の一つとなった。1952年に日本語の代数函数論を刊行した。その本は、解析学的、代数幾何学的、代数整数論的観点から代数函数論の歴史的概要から始めている。そして、岩澤は賦値理論、素因子の定義を与える代数函数の体、イデール、賦値ベクトル、種数を研究している。リーマン-ロッホの定理の証明が与えられ、リーマン面とその位相が研究されている。
高等研究所への訪問の後、1952年に日本へ帰国する積りだったが、マサチューセッツ工科大学の助教授のポストを提供され受諾した。[2]の中でCoatesは、岩澤が導入し、20世紀後半の数学の発展に基礎的なインパクトを持ったアイデアを書いている。

岩澤は今日岩澤理論として知られている、数論的代数幾何学での一般的手法を導入した。その中心的目標は、有限体上の多様体へハッセ、ヴェイユ、B Dwork、グロタンディーク、ドリーニュやその他の人によって見事に適用された、数体上の代数多様体のための手法の類似物を探すことである。....数論における彼の研究の最も重要なテーマは、Qの有限拡大Fについて深く理解困難な情報は、Fの上にある数体の無限ガロアタワーの数論に関する粗い問題を研究することによって得られる、という革命的アイデアである。

1956年のワシントン州シアトルでの米国数学会の会合で、岩澤は彼の革命的アイデアを講義した。そのアイデアに大きな可能性を感じたセールはすぐに取上げ、パリでのブルバキセミナーで岩澤理論について講義した。岩澤自身は、1960年代を通じてアイデアをもっと押し進めた深い論文の連作を書いた。1967年に岩澤の学生となったR Greenbergは以下のことを書いた。

私が岩澤教授の学生になるまでに、教授は彼のアイデアをかなり発展させていた。その理論は濃くなり、同時に不可思議になった。その当時、数人の数学者だけが理論を徹底的に研究したのに、理論は有望であるという一般的な受け止めがあった。最近30年間に起こった発展を振り返った時、その有望さは期待さえも超えている。

プリンストン大学の数学教授職、Henry Burchard Fine Chairを提供された時、1967年に岩澤はMITを去り、Greenbergを研究生として採用したのは岩澤が就任後間もなくであった。岩澤がどのように学生を指導したか、Greenbergの記述を見れば、岩澤について多くのことが分かる。

ファインホールで毎日午後にお茶をするのがプリンストンの伝統だった。これは、大学院生にとって非公式に教授と数学を議論する絶好の機会であった。岩澤教授は通常午後のお茶に来た。私が考えるべき問題を提案するのは、その時だった。数週間毎に、これらの問題の幾つかについて進捗があったかどうか私に彼はよく尋ねたものだった。これらの問題は全く難しく思われたが、時には実際の進捗を報告出来たので、私がやったことを聞くため私達は彼のオフィスへ行ったことを思い出す。彼は私のアイデアを前進させる手伝いをしたが、私自身で出来てほしいと思っているのは明らかだった。彼が特定の問題について知っていることのすべてを故意に明らかにしていない感触を持った。

1960年代末に岩澤は、ヴェイユが発見した、ゼータ函数と代数函数体の因子類群両方の関係の(ある意味での)類似物である、代数的整数体に対する予想を造った。この予想は"円分体に関する主予想"として知られるようになり、1984年にMazurとWilesがモジュラ曲線を使って解決するまで、代数的整数論の最も注目すべき予想の一つとして残った。
1986年に退職するまでプリンストンの数学Henry Burchard Fine教授として岩澤はとどまっていた。そして東京へ戻り、余生を過ごした。退職した年に、彼は局所類体論を刊行し、その中で以下を書いた。

この入念に書かれた研究書は、局所類体論への現代的な形式群論的アプローチの自己完結で簡潔な説明を述べている。

岩澤は彼の業績に対して多くの栄誉を贈られた。1959年朝日賞、1962年学士院賞、1962年米国数学会よりCole賞、1979年藤原賞を授与された。
彼の研究の重要性は、[2]の中でCoatesによりまとめられている。

....今日、楕円曲線に関するB BirchとH Swinnerton-Dyerの予想、数体の整数環のK-群の次数に関するB Birch, J Tate, S Lichtenbaumの予想のような問題、そして、楕円曲線のモジュラリティとフェルマーの最終定理に関するA Wilesの研究において、多くの現代数論的代数幾何学の最も優れた業績の中でも、岩澤のアイデアは中枢的役割を担ったと言って過言ではない。

文献
[2] J Coates, Kenkichi Iwasawa (1917-1998), Notices Amer. Math. Soc. 46 (10) (1999), 1221-1225.  

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