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グロタンディークに関する青春の思い出

前回マイケル・アティヤ卿の"私が知った時のグロタンディーク"を紹介しました。この追悼記事を私が読んだ時の印象を書くと、アティヤ卿はあくまで数学者グロタンディーク氏を話題にしたいのであって、それ以外の、例えば個人的生活等には触れたくもないという感触を受けました。アティヤ卿は"ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"の中で、グロタンディーク氏の学問的に等身大の伝記は"彼を個人的に知っていた数学者により書かれることが望ましい"と書いているのですが、アティヤ卿の冷徹な追悼記事を読んで、これでもう卿がグロタンディーク氏の伝記を書くことは(年齢的にも無理でしょうが)無いと確信しました。そして、アティヤ卿はグロタンディーク氏が数学を止めた以降のことにも非常に冷淡です。そのことはセール博士もアティヤ卿と同様に冷淡ですが、まぁセール博士にすればCorrespondance Grothendieck-Serreを出したことだし、もういいだろうと言うかも知れません。
さて、今回紹介するのは同じくAMS Noticesの2016年3月号からピエール・カルティエ博士のSome Youth Recollections about Grothendieckです。これを読めば、どういう理由でグロタンディーク氏がブルバキを辞めたのか分かるはずです。巷では、特に日本においてはブルバキのÉléments de mathématiqueをキャテゴリー論に基づいて書直すべきというグロタンディーク氏の提議が拒絶されたからという説を馬鹿な輩(アミール・D. アクゼル氏の和訳本や、数学に関して明らかに素人だと思われるサイエンスライターが面白おかしく書いた本等の影響?)がまことしやかに言っているようですが、全く出鱈目であることが分かります。
要はグロタンディーク氏がアンドレ・ヴェイユ博士の強烈な個性についていけなかったことが原因だったのです。ヴェイユ博士が何人に対しても辛辣で、いつも何かしら怒鳴っていた(ご自分の娘さん達に対してさえも)し、癇癪持ちであったことは有名な話であって、身近の人々は怒鳴られても聞き流していました。グロタンディーク氏はそのことを知らずにブルバキに入ったのかどうか知りませんが、たとえ知らなかったとしても子供じゃあるまいし、何故聞き流せなかったのか不思議です。それほどうぶだったと言わざるを得ません。
その私訳を以下に載せておきます。なお原文は"Alexandre Grothendieck 1928–2014, Part 1"(PDF)の中にあります。原文にある注釈を省いていますが、インデックスはそのままです。

[追記: 2018年01月27日]
上記で述べたグロタンディーク氏とセール博士の文通書簡集Correspondance Grothendieck-Serreについて、その書評をジョン・テイト博士も書いています。それについては"書評 グロタンディークとセールの文通書簡"を見て下さい。

[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2018年01月17日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。

[追記: 2023年01月15日]
グロタンディーク氏のRécoltes et Semaillesを書評対象とするPierre Schapira博士によるリヴュー“切り詰めた草稿”もあります。

グロタンディークに関する青春の思い出
2016年3月 ピエール・カルティエ

グロタンディークの科学的誕生は1948年10月で20歳だった。モンペリエ大学から学士(バチェラーと同等)を受けた後、彼はパリで博士課程の奨学金を得た。この年は有名なカルタンセミナーの始まりだった。グロタンディークはそれに出席したが、あまり面白くなかった。それからナンシーへ移り、彼の有名な博士論文につながる、函数解析における研究を始めた。
私の科学的誕生は1950年10月であり、その時はエコール・ノルマル・シュペリウールで学生として受け入れられた。私は本当にすべてのことを学びたく、代数トポロジーとホモロジー代数に終生興味を持ったので、アンリ・カルタンとサミュエル・アイレンベルグに終生の友情を持った。
この期間、グロタンディークの名声はナンシーで急速に発展し、パリ(!!)においてさえ、私達は注目した。彼と私が最初に会った時を正確には憶えていないが、多分1953年くらいで或るブルバキセミナー2の機会だった。彼の研究を初めて私が知ったのはローラン・シュヴァルツを通じてだった。シュヴァルツがパリに向けてナンシーを出発した時、私達はもう別の数学的父を持った(最初はH. カルタンだ)。彼は"超函数"の発明で非常に有名であり、熱狂的な支持者達(ジャック=ルイ・リオン、ベナード・マルグランジュ、アンドレ・マルティノ、フランソワ・ブリュア、私)に函数解析を教えた。パリでの彼の最初のセミナーはグロタンディークの博士論文に費やされ、私は活発に参加し、"カーネルの理論"[訳注: もちろんカーネルには核という訳語があることを承知していますが、"核の理論"なんて洒落にもなりませんので、あえて片仮名表記にしました]とキュネット定理の位相バージョンに特に興味を覚えた。2つのかなり思いがけない展開はグロタンディークの博士論文から来た。最初、フランスにおいては複素解析函数のコホモロジー理論に最後の仕上げをするため難解な解析的手法を使うH. カルタン、ジャン=ピエール・セール、L. シュヴァルツの実りあるコラボレーションがあった。その次に、その時はソ連のゲルファントが確率論(ミンロスの定理とランダム分布)と数理物理学(量子場理論)への応用のために位相テンソル積と核型空間を使った。函数解析から代数幾何学へのグロタンディークの研究の変化をトレースすることは興味深いだろう。私はこれをいつか展開することを計画しているが、ここは相応しいところではない。
私達が親密だった時期はほぼ1955年から1961年までであり、そこではブルバキが大きな役割を果たしている。私達の最初の出会いの一つを私は鮮明に憶えており、アンリ・ポアンカレ研究所だった。グロタンディークが凸状不等式に関する特別講義をした後のブルバキセミナーで1955年の3月だった。彼は私に"もう間もなく私達の両方がブルバキに合流するだろう"と言った。私は1955年6月に規則正しくブルバキ会議に出席し始めた。グロタンディークは間もなく合流し、1956年から1960年まで積極的に出席した。1955年6月、会議の期間に読んだ最も面白い作品の一つが彼の有名なTôhoku論文[訳注: 東北大学が発刊するTôhoku Mathematical Journalに掲載された"Sur quelques points d’algèbre homologique"("ホモロジー代数のいくつかのポイントについて")のこと。何故この雑誌に発表されたのか、その経緯を知りたい人はCorrespondance Grothendieck-Serreを参照して下さい]の第一草稿だったが、彼はそこでホモロジー代数の新しい誕生を与えている。その時の、特に1955年のセールの論文"Faisceaux algébriques cohérents"[訳注: "代数的連接層"]出現の後で、主要な課題の一つは最も一般的な位相空間(特に、ハウスドルフでなく局所コンパクトでない)に対して妥当な層コホモロジーの理論を発明することだった。要求されたことは単射的分解の構築だが、誰も層に対して、それを作る方法を知らなかった3。後にグロタンディークのお気に入りの手法となったものの内で、彼は上記からの問題を解いた: 単射的分解を許すためキャテゴリーに必要な近似概念を探し、最も一般的な位相空間において層のキャテゴリーがこれらの概念を満足するか確認すること。
ブルバキに戻ろう。ターニングポイント、すなわち世代交代があった。(6シリーズの中の)いわゆる第一部は、集合論に関するすべての事柄と同型写像と構造の広く浸透した概念に基づいて、基礎にささげられた。当時第一部の刊行はかなり進行したが4、その後に何が来るべきか? 他の多くのプロジェクトの中で、幾何学―エリ・カルタン5の遺産である微分幾何学と代数幾何学の両方(シュヴァレー、ラング、サミュエル[訳注: アイレンベルグのこと]、セール、ヴェイユにとって大事だった)が要だと思われた。私達はすべての種類の多様体の統合された解説を与えたかったが、3つの競合する提案があった。すなわち、環つき空間(カルタン、セール)、"チャート"の局所キャテゴリー(アイレンベルグ)、微分学の更なる代数バージョン(ヴェイユ、ゴデメン、グロタンディーク)。最終的に受け入れられたものは無かったが、グロタンディークはそれらをすべて彼のスキーム理論に使用した。
2、3の個人的思い出を加えさせてほしい。これらブルバキの夏季会議すべてがアルプス内で行われた。最初はディー6に近いÉtablissement Thermo-résineux de Salières-les-Bains(一種の手の込んだサウナ施設)内で。それからペルヴー・ル・ポエの山の中の静かなホテル内で。私はディーでグロタンディークの遅い到着を憶えている。彼は車で一緒に向かいたいというセールとの約束を見落とし、夜行列車で向かうという私達との別の約束も見落としたが、そして間違っている列車に乗り、挙句の果てにヴァランスからディーへヒッチハイクすることとなった! セールはそれほど面白がってはいなかった。別の時に、彼は私に読むようにとドキュメントを渡したが、そのページの間に不幸なブラジル人ガールフレンドからのドイツ語で書かれた手紙があった。
私はさほど珍奇ではない出来事を憶えている。ディーの近郊、山奥にマルセル・レゴが住んでおり、彼はH. カルタンとA. ヴェイユの古い友人だった。ヴェイユの自伝はレゴを"敬けんの研究"の著者と呼び、1970年代にグロタンディークはそれらの本に繰返し言及した。レゴは数学を止めて羊を畜産したが、一種のファランステール、やがてヒッピーコミューンの波となるもののグルになった。H. カルタンの適切な説明書を持って、グロタンディークと私はグルを訪問するため長い道のりを一緒に歩いた。道中で、数学は99パーセントの労力と1パーセントの興奮であり、数学を止めて小説と詩を書きたいと彼は私に告白した(それを最後には彼はやった!)。これは彼の母の死の時あたりで、彼の母は作家7になりたかったことは知られている。私達の会合の一つに彼は母を連れて来たが、彼女はシャイなままだった。
1960年の夏のブルバキ会議の間に、ヴェイユとグロタンディークの間で衝突があった。微分学に関するグロタンディークのレポートを私達が読んでいる間にかなり突然に始まった。ヴェイユは誰も真剣には取らない(グロタンディークを除いて)、彼のよく知られている嫌味な注意の一つを発したが、グロタンディークは部屋を去り、数日間戻らなかった。両者は我慢出来ない性格だったし、私達は何が特に問題なのか分からなかった。S. ラングとJ. テイトの交渉手腕のある努力にもかかわらず、グロタンディークはブルバキからの自らに課した追放を再考しなかった。
1970年代におけるグロタンディークの政治的活動の長い話を私が述べるにはもっと余白を必要とするだろう。彼は反体制派の活動家達の中でもいつも異論者だった(ヴェトナム戦争を考えてみよ)。たとえ貴方の政治的ラインが彼自身のものにかなり近くても、彼は如何なる妥協も拒否したかったから、彼の側に立つことはしばしば苦痛な体験となった。そして、これは彼がいつも人生を生きるやり方だった。彼はいつも反逆者だった。

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