スキップしてメイン コンテンツに移動

ハンス グラウエルト: 純粋数学者

私が大学から大学院まで最も多くの数の論文、著作を読んだのは故ハンス グラウエルト博士のものでした。ですから今でも好きな数学者と言えばグラウエルト博士を挙げます。私の大先生の話によれば、故岡潔博士が後世の数学者で唯一認めたのはグラウエルト博士だったということです。
グラウエルト博士の論文、著書は殆どが独逸語で書かれています。私は大学で独語を第二外国語として履修しておらず(第二外国語は仏語でした)、しかも多変数解析函数論(今では複素解析幾何または多複素変数という名称になっていますが、私はこれらの名称が大嫌いなので旧い名称をいつも使用します)に興味を持っていることを懇意にして下さっていた当時の指導教官にお話したのは3年生の時でした。この分野を専攻するなら独語は不可欠だと仰り、一緒に勉強しましょうと言って貸してくださったのがグラウエルト博士共著の"Einführung in die Funktionentheorie mehrerer Veränderlicher"[多変数函数論入門]でしたが、当時の私の数学的知識では内容を十分理解することは難しいので、それよりも独語に慣れることに重きを置きなさいと言われました。そして、放課後にわざわざ時間を割いて独逸語を手ほどきして下さいました。以降私も甘えてばかりでは申し訳ないと、幸いにも図書館に英訳があったので、それを参考に最後まで独語原書を読み続けました。この体験が私ごとき凡才でももう少し勉強しようと思わせたのでした。今から考えると本当に素晴らしい教官でした。現在ではおそらく考えられないでしょう。いい時代のいい教育を受けたことに幸運を感じます。しかし、もっとずっと古い先輩方の話によれば、その昔駒場では英独仏は当たり前に履修もしくは独学していて、問題は露語だったそうです。その当時東西冷戦の最中でしたから、外国語として露語を専門に教えるコースも教官も無く(皆無じゃないが特殊だったそうです)教材も少なく、理系の教官で露語を出来る方を校内外に探し出し有志で課外レッスンをお願いしたそうです。それだけ学生が熱心だった表われでしょう。今大学の教壇に立っている友人共がこの話を聞けば、ため息をつくに違いありません。
大学4年生から大学院にかけて本格的にグラウエルト博士の著書や論文を読み漁り、更にはいろいろな参考書、たとえばHörmander、Gunning-Rossi、Krantz、Range等で大体の基礎を習得した後に、岡論文を読むとその難解さに驚かされました(内容もさることながら、その仏文が読み易いとはお世辞でも言えないことにもあります。失礼を承知で言えば、表現がこなれていない、もしくは日本人的仏文なのでかえって読みにくいのです。私ごとき下辺な者がえらそうに言っているのではありません。実際、グラウエルト博士の盟友Reinhold Remmert博士はある記事でわざわざ"in Japanese French"[日本人的仏語]と明記していました。私のような数学的天分があるとはとても言えない者が最初に岡論文に挑戦していたならおそらく全く歯が立たず、早々と挫折していたことでしょう。カルタン博士やベンケ博士等が岡論文の真意を真っ先に理解出来たことは凡人から見れば信じ難いレベルと言っても過言ではありません。大先生(岡博士の弟子筋にあたります)の言葉を借りれば「オカも偉ければカルタンも偉い」ということなんでしょう。
ところで岡博士とグラウエルト博士を並べてみて気がつくことは、岡博士の場合真偽はともかくもいろいろなエピソードが残っていますが、グラウエルト博士の場合少なくとも私はエピソードを聞いたことがないのです。つまり、人間グラウエルトというものが浮かんで来ないのです。勿論岡博士のエピソードも真偽を確かめることは私には不可能だし(私が数学を勉強した頃にはとうの昔にお亡くなりなっていました)、それらのエピソードを面白おかしく語る人は所詮身内の人でも弟子筋の人でもないのですから無責任なものです(しかし、今の日本人にはこの種のワイドショー的無責任軽薄短小人間が多いことに驚愕します)。そこで、グラウエルト博士身辺の人の文章でエピソードを語っているものはないかと調べてみたのですが、残念ながら私の知る限り皆無でした。このことを私は次のように解釈しました。数学者は数学でのみで語られるべきであって、その他のことはどうでもいいことであり、そして身辺の人も博士の考えに沿っているのではなかろうかと。つまり、グラウエルト博士は日常生活においても非常に洗練化されていたということです。調べの途中、グラウエルト、Remmert両博士共著"Theorie der Steinschen Räume"[シュタイン空間論]の英訳者であるAlan Huckleberry博士の記事"Hans Grauert: Mathematiker Pur"(PDF)のタイトルを見て、Mathematiker Pur[純粋数学者]だと? 当たり前じゃないかと浅はかにも思ったのですが、よく考えれば洗練化された日常生活をも含めての"純粋"数学者だったと考えれば、この一見陳腐なタイトルも非常に練られたものだと思えました。以下に、この記事の私訳を載せておきます。
最後になりましたが、グラウエルト博士が昨年9月にお亡くなりになって早くも一年が経ちました。遅まきながらご冥福をお祈りいたします。

[追記: 2012年10月18日]
どうでもいいことなんですが、身辺の人から言われたので補足しておきます。
大先生というのは直接の私の先生だった人ではありません。直接私を指導した教官、つまり先生のお供で大先生にお目にかかり、時々四方山話をお聞かせ下さいました。その大先生もお亡くなりになりました。大先生が故岡潔博士の弟子なのか、はたまた孫弟子なのか、そんなことは私が知る必要も無いし関心も無く、どうでもいいことなので"弟子筋"と書きました。

[追記: 2019年03月20日]
このペィジは2012年10月14日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

ハンス グラウエルト: 純粋数学者
2009年1月 Alan Huckleberry

2008年4月25日ボンでのガウス講義において、ハンス グラウエルトはDMV(ドイツ数学協会)の名誉会員を贈呈された。私はこの最も著名な仲間の功績を非常に表面的に書く機会を与えられ、DMVの最新号にこの記事を書かないかと問われ非常に喜んだ。その記事が公開されてたった数ヶ月後の2008年9月15日にグラウエルトは、DMVの年次総会(エルラゲンで開催された)で権威あるカントールメダルを授与された。DMV設立100周年の時にカントールメダルが制定されKarl Stein(グラウエルトと同様に科学的人生の殆どを多複素変数の分野にあてた)に与えられた。メダルはその時から定期的に、J. Moser (1992), E. Heinz (1994), J. Tits (1996), V. Strassen (1999), Y. Manin (2002), F. Hirzebruch (2004), H. Föllmer (2006)に授与された。
ハンス グラウエルトについて賞賛を書くことすら凡人にはおこがましい。彼の人生と業績と栄誉の重要点を目に見えるようにし、それらを時系列に並べることは容易い。私は実際にこの記事に大雑把なアウトラインを集めたが、私が大変重要だと考える話の小さな一部分でしかない。
ハンス グラウエルトは1930年にHaren-Emsで生まれた。ゲッティンゲンでの彼の退官記念講義において、教師が彼に具体的な数字を扱う必要はなく、抽象的に考えることだと言って聞かされるまでは学校生徒として数学に苦労したと回想した。15年足らず後に、彼は点のない空間(まさに、構造だ!)を導入していた。
1949年の夏学期にMainzで研究を始めた後にMünsterへ移り、1949–50の冬学期を開始した。そこで彼は、すべての年齢と経験を持つ友人及び教官と一緒になって面白く精力的な数学的雰囲気に溶け込んだ。中でも終生の友人であり主要な協同研究者となるReinhold Remmertがいた。数学の指導者はKarl Steinだった。Heinrich Behnkeは外の数学界、特にH. HopfとH. Cartanと良い付き合いがあり、複素解析での重要な方向性に素晴らしい感性を持っていた。
Zürichでの短い滞在の後、グラウエルトは1954年にMünsteで理学博士を受けた。学位論文でグラウエルトは彼が始めた時は揺籃状態だった(10年足らず後には洗練され信じられないくらい高レベルになった)数学の分野の心臓部にある根本的結果に貢献した。彼が研究を始めた時代を振り返って考えてみよう!
確かに深遠で、おそらく神秘的な岡のアイデアが提出されていた。Steinは彼の方法でこれらを理解し、たとえば複素解析、特に非コンパクト空間に対してのトポロジーの役割を把握しようと努めた。Hirzebruchは学位を1950年にMünsterで受け、基礎的著書Neue Topologische Methoden in der Algebraischen Geometrie[訳注: 代数幾何学の新しい位相的方法]の執筆中であった。カルタン-セール理論発展のパワーは過小評価出来ない。しかし、今日言うところの多複素変数の基礎は単純にはそこに無い!
カルタンとセールのインプットと相俟って(Münster-パリ間のいい影響は良く文書化されている)、グラウエルトとRemmertの研究がこれらの基礎なのである。Komplexe Räume[訳注: 複素空間]とBilder und Urbilder analytischer Garben[訳注: 解析的層の像と前像]は、彼らの幾多の実りある協同研究のうちの2つの例であり、これが我々の分野の基礎だ。
またおそらく彼らが協同で2つの基礎的著書、Stein Theory[訳注: シュタイン理論]とCoherent Analytic Sheaves[訳注: 連接解析的層]を書いてしまっているので、人は彼らの見解の相違を見過ごしがちになっているだろう。この最初の段階で、Remmertは解析的集合、それらの接続、正則函数と有理型函数に関する概念に関心を持っていることが分かるだろう。
グラウエルトはこれらの集まりにおける複素解析的オブジェクトを伴う問題に影響を受けているようである。彼のOka Principle[訳注: 岡の原理](この研究の深遠さをはっきりと隠している項の中で、シュタイン空間における正則ベクトルバンドルのカテゴリは位相的バンドルと同じカテゴリだと述べている)は完璧な実例である。レヴィ問題についての彼の解法(フレシェの意味でのフレドホルム定理を用いて、ある障害空間の有限次元性を証明することにより領域の境界に与えられた極を持つ正則函数を構築している)も同様である。定理Bの最適バージョンにおける彼の証明と、シュタイン多様体の弱い擬凸状領域に対するレヴィ問題の彼(とDocquier)の解法は、ルンゲ型の近似定理に対する深い理解を示している。
被覆削減と、制限作用素を伴う微妙な概念の理解はグラウエルトの重要な手法のトップに位置することが分かる。そのような議論が現れる彼の結果の中で最も複雑で、おそらく最も有名なものは彼の順像定理である。ここで人は複素空間同士の通常の正則函数F:X → Y(像F(X)がYの解析的部分集合(Remmertの定理)だと分かっているとする)から始める。グラウエルトは、ある意味で別世界にある一つの定理を証明することでXにおける連接層の順像はYにおいても連接であることを示す。この結果の有用性無くして大局的な複素幾何での働きを考えられない! この研究の重要性の大きさとその他の興味ある情報を得るためにRemmertの記事 ([R]) を推薦する。
上述した研究の最後は1960年に現れたが、グラウエルトがこれらの定理を証明した時に私は全然分からなかった。ある時点で彼はすべてを理解しているように思え、ただ論文を書く時間とエネルギーを見つけることが問題だった。いずれにせよ教授資格取得として彼はOka Principleを選び、若い世代の優れたドイツ人数学者に世界は窓を開けた戦後の慣習が続いていたので、教授資格取得満了の時あたりでグラウエルトはMünsterを去りプリンストン高等研究所へと向かい、そこで1957–58の冬学期を過ごした。当時そこにいた人との直接対話から私は彼の(公私両方で発言した)アイデアの豊富さ、深み、幅広さがびっくりさせたことが分かる。
1959年グラウエルトはゲッティンゲン教授となり、1996年に名誉職になるまで、この地位にいた。2週間以上ゲッティンゲンから離れたくないと彼はかって私に話した。ところが実のところ彼は広く旅行した。例えば、たぶんWilhelm Stollとの関係のため、グラウエルト、Remmert、Steinは期間を延長してNotre Dameを訪問した。私はこれが学部教員そして勿論私個人にとってもいかに重要だったことを知っている!
グラウエルトも著名な外国客人、中でもAldo Andreottiを招待した。1968–69の冬学期スタンフォードにおいて、私はAndreottiの講義の中でグラウエルトの研究へ組み込まれた。友人及び協同研究者の結果(今から思えば複素幾何学のうちでも最も美しい数々)を議論している最も素晴らしい講義者達から成っているコースのうちの唯一の学生であることを想像してほしい! 彼らの協同研究は確かにハイライトの一つだった。すなわち、q-擬凸状多様体に対するコホモロジーの有限性と消滅に関するAndreotti-グラウエルト定理、それらの結晶"Algebraische Körper von automorphen Funktionen"[訳注: 保型函数の代数的体]だ。その論文中で、彼らは保型形式の空間の有限性を証明するため擬凸状を使う方法を示している。しかし、私が最も憶えていることは、レヴィ問題のグラウエルトのエレガントな解法と小平消滅及び埋め込み定理への応用をAndreottiが説明していることである。
これら最後に言及した結果はある意味でまさにグラウエルトの注目すべき論文"Über Modifikationen und exzeptionelle analytische Mengen"[訳注: 変更と除外解析的集合について]の断片である。その論文では、"いつ多様体を縮小出来るか?"というような根本問題に答えが与えられている。多重劣調和性、バンドル曲率、交差形式の符号のような概念が共に出て来る。射影埋め込みに対する新しく重要な基準が証明される。この研究を読んだ後、これが数学のあるべき道だと私は確信した。
グラウエルトの研究時系列において、今1963年あたりにたどり着いた。勿論まだ続く! 彼は複素解析オブジェクトのパラメータ空間(変形理論)について考えた時期があった。ここで彼の2つの基礎的な創案論文に触れなければならぬ("Über die Deformation isolierter Singularitäten analytischer Mengen"[訳注: 解析的集合の孤立特異点の変形について] (1972)と"Der Satz von Kuranishi für kompakte komplexe Räume"[訳注: コンパクト複素空間に対する倉西集合] (1974))。彼がベクトルバンドルに専念していた当時(例えばMulichと共著の論文"Vektorbündel vom Rang 2 über dem n-dimensionalen komplex projektiven Raum"[訳注: 複素射影空間上の階数2のベクトルバンドル] (1975)を見よ)、私は若い数学者が彼に最近の数学の研究で最も重要な方向は何かという一般的な質問をしたことを憶えている。グラウエルトがいかに的を絞るかの典型は"ℙ3のベクトルバンドル"!
もっと解析的方面では1960年代後期の彼の学生Ramirezとの、そしてLiebとの積分核表示についての重要な研究がある。グラウエルト-Riemenschneider定理("Verschwindungssätze für analytische Kohomologiegruppen auf komplexen Räumen"[訳注: 複素空間上の解析的コホモロジーの消滅定理] (1970))も複素解析の領域だと見なされる。
もっと最近ではグラウエルトは彼の古い関心、つまり正則と有理型の同等関係に立ち返った。Steinが亡くなる数年前、彼とSteinが情熱的にこれらのトピックスを議論していたことを私は憶えている。その方面での彼の最も最近の研究は1987年に現れた。最後に、双曲型性が長年のバックグランドにあり続けたことを忘れるべきではない。これはReckziegelとの1965年の研究、Ulrike Peternell(旧姓Grauert[訳注: つまり、グラウエルト博士の娘さんです])との1985年の論文、そして数学研究に捧げられた最後の論文"Jet Metriken und hyperbolische Geometrie"[訳注: ジェット距離と双曲線幾何] (1989)に見られる。
この時点で私はグラウエルトの研究の詳細についてもっと詳しく始められたであろう。しかし、上述したものが関心のある第三者にとって十分であることを希望する。食欲旺盛な人には、グラウエルトが最後の言葉を持っているはずである。すなわち、彼の全集 ([G]) を見なさいと。
ご存知のとおり研究が学問生活でもっとも重要だが、強調されるべき別の面がある。ここドイツでは学問教育の古典的考えがあり、教授がすべきすべてのことを含む。この頃では新しい解釈があり広まっている。奨励金、研究集団、エリート大学等は流行語である。しかし、グラウエルトの貢献を記述するのに新しい言葉を必要としない。これについて詳しく述べさせて欲しい。
彼の科学運営の仕事は賞賛されるべきであり、特にドイツ科学財団への参加と編集委員での役割(例えばMathematische Annalenをその歴史的高水準に再び引き上げたこと)である。それにもかかわらず、私がグラウエルトを思う時、彼は科学を超えず科学の内にいると考える。これは彼の講義を含む。講義はドライで最小限のようであり、時には形式的ですらあるが、注意深く聞かなければならない。連なっているはずの深いアイデアが必ずある! 彼の函数論コースの学部学生から個人的対話でアドバイスされている研究者まで、すべての聴講者はすべての言葉を真剣に取るべきである。彼の膨大な書き物もそうだ。読者はすべてのセンテンスを何を意味するか理解する時間を取るべきだ! 彼のテキスト本がそうであるように、研究書についても全く成り立つ。ストークスの定理についてグラウエルトの証明を読んでいる間、彼が真剣にそれを考えていたことを心に留めておくべきだ! これらのテキスト本は、FischerとLiebとの共著の基礎解析シリーズからグラウエルト-Fritzscheの新版(複素解析の新しいアイデアさえも導入されている)まで広がっている。
グラウエルトを最小限に語るならば、私は一つの逸話を語らざるを得ない。彼が講義する時は必ず講義の概念を3-by-5カード[訳注: いわゆるインデックスカード]に書いて持ち運ぶ。黒板には殆どXを複素空間とせよ・・・と書いて始めるだろう。そして神経質に3-by-5カードをチェックして間違っていないと安堵する。彼とRemmertがもともと複素空間の概念を定義したのであるから、これは美しい光景だ! 多複素変数についての通算2学期コースをしている時、彼は小さな論文を決して変更しなかったが、実を言えば第2学期にはその論文のページをめくった! とゴシップは言う。
多くの学生(Diplom, Staatsexam, Promotion)がどのようにグラウエルトと一緒に研究して来たのか私は知らない。いずれにせよ、それは大変な数だ! 彼らの研究に近い分野にいる私達は師匠の強力でいい意味での影響が分かる。そしてグラウエルトを彼等皆が誇っていることを私は知っている。
高品質の研究者、新しく適切で根本的なアイデアをすべてバックグランドに持つ教師、すべての言葉が意味を持つ著者、学界での重要な参加者にしてリーダー、Humboldtの意味での文化知識人、そして非常に親切なドイツ紳士、グラウエルトはアカデミック教師の象徴である。

参考文献
[G] H. Grauert, Selected Papers I. and II., Springer-
Verlag, 1994.
[R] R. Remmert, Mathematical Intelligencer 17(2) (1995),
4–11.

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ