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アンドレ・ヴェイユ: 長い友情の思い出

一年ほど前、故アンリ・カルタン博士と故アンドレ・ヴェイユ博士の文通書簡集"Correspondance entre Henri Cartan et André Weil (1928–1991)"を購入したのですが、全部読み終えるのに半年以上かかりました。正直言って、特にヴェイユ博士の仏文の格調の高さには骨が折れました。これは初めから覚悟していたのですが、仏語の数学書や論文を主に読んで来た者から言えば、手紙文と言えども語彙の幅が数学的な文章(はっきり言えば単純で語彙も限られます)よりも遥かに広いと痛感しました。更にヴェイユ博士の場合、仏文のみならず、英文でも非英語圏出身の数学者とは思えないほど格調が高いです。例えば、"Foundations of Algebraic Geometry"を読んだことがある人なら、あの序論の格調の高さにちょっと驚いたはずだと私は思います。
この一流数学者二人の書簡集に関して、下辺な私が偉そうに論評する立場にありませんが、海外のプロフェショナルな数学者の書評がいくつかあるので、いずれ機会があれば紹介したいと思います。
両博士の友情は今更言うまでも無く、有名なので皆さんもご存知だろうと思いますが、ヴェイユ博士が亡くなった直後、カルタン博士が素直に思い出を語った"André Weil: Memories of a Long Friendship"(PDF)の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2015年11月25日]
晩年のヴェイユ博士のことについては、志村五郎博士による"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"があります。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2013年06月05日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

アンドレ・ヴェイユ: 長い友情の思い出
1999年4月 アンリ・カルタン

私が1923年11月にエコール・ノルマルに入学した時、初めてアンドレ・ヴェイユに出会った。彼は16歳(エコールの校長Gustave Lansonは当時彼が短パンを穿いていたことを咎めた)で1年早く入学していたので、その時"carré"[原注: エコール・ノルマルの用語では、"carré"は2年生の学生]だった。アンドレ・ヴェイユと同じクラスで注目すべき人物はジャン・デルサルトだ。デルサルトはナンシーで科学部長となり、そこでフランスの最も良い数学のセンターの一つを作り、ブルバキのコアにおいて重要な役割も担うこととなった。イヴ·ロカールもいた。ロカールは戦後、エコール・ノルマルで物理部門を作り、発展させることとなった。デルサルトとロカールはアンドレ・ヴェイユが交際した連中の中にいた。私はヴェイユが非常に例外的な人だと考えられていることを知ったが、彼が1年生の間にリーマンを読み、すべての試験を終えたことを知らなかった。1925年に私より1年早くエコール・ノルマルを終えたから、兵役をするには余りにも若いので、ローマで一年を過ごす奨学金を得た。ローマではヴィト・ヴォルテラが彼の指導教官だった。ヴォルテラが彼のために取得したロックフェラー奨学金を使って、彼は翌年ドイツで過ごしたが、時の偉大な数学者達と友達になった(彼等よりも若いのにもかかわらず)。
パリに戻る際に、彼は代数幾何学において学位論文を書いた。彼のSouvenirs d'Apprentissage[原注: A. Weil, Souvenirs d'Apprentissage, Birkhäuser, Basel, 1991; Jennifer Gageによる英訳、The Apprenticeship of a Mathematician, Birkhäuser, Basel, 1992. 訳注: 仏語タイトルを素直に和訳すれば、"修行時代の思い出"くらいでいいと思いますが、英訳タイトルはもっと踏み込んで"一数学者の修行時代"となっています。なお、この本の和訳本のタイトルは"アンドレ・ヴェイユ自伝―ある数学者の修業時代"です。ですから、和訳本は仏語原書のみならず、英訳本も或る程度参照されているのではないかと私は推測しています]で、この学位論文に対する評価を書くべき人を彼がどのように見つけたかを語っている。その学位論文の分野は当時フランス人数学者達の関心事にとって異質だった。彼は1928年に学位論文の正しさを論証した。これに対して、私はポール·モンテルの指導の下で正規族に関する学位論文を準備し、1928年の12月に学位論文の論証をした。その時私は1928年10月からカーン学校で教えていた。この時期で大学で教える職は殆ど無く、任命はその年の随時に行われた。従って、ストラスブール大科学部の"講義"職は1929年の4月の間に宣告され、ヴェイユと私は各々志願する考えを持った。私達はかくして競い合いにいた。個人的価値のためではなく、ストラスブール大教授のGeorges Valironがアンドレ・ヴェイユの研究よりも一複素変数の函数にずっと関心を持っていたので、私は先験的に有利だった。
まさに偶然だった。ヴェイユは嫌がらず、インドへ出かけることを考えた(彼は予備クラス[原注: エコール・ポリテクニックとエコール・ノルマルの科学部門での入試に備えるためのクラス]の時にサンスクリット語を習い始めていて、Sylvain Leviが彼にインドでの職を受けるように奨励した)。もっと正確に言えば、彼がアリーガルへ旅立ったのは1930年だった。アリーガルで彼は数学教育を徹底的に再構築する責任を痛感した。大雑把な作業に私宛の手紙の中で命を吹き込んだ。
1932年にフランスへ戻った時、マルセイユ大の講義職を受けることとなった。私に関しては、リール大科学部での2年間の小休止の後に、1931年の末にストラスブールへ戻っていた。1929年にストラスブールで過ごした数週間の喜ばしい思い出があったので、私はヴェイユにストラスブールへ来るように勧めた。1933年に彼が戻り、結果として私は学部の最年少メンバーではなくなった。パスツール像の背後の大学の中庭の大きな建物で私達は共に教えた。だが、それは2ヶ月しか続かなかった。1月の始め私は腸チフスに罹り、クレマンソー大通りに面した病院に収容されたからだ。腸チフスのやっかいさは学年末まで私が教壇に立つことを阻んだ。だが、ヴェイユの励ましの見舞いを私は忘れないだろう。
1934年の始めに私は講義を再開した。微積分のコースの担当になり、グールサの古典的学術書には私を納得させる解説を見つからなかったので、コースの或る章の説明について多くの疑問を抱えた。ヴェイユと私が数学教室で会う度に、私は彼に質問し、意見を訊いた。或る晴れた日、彼は私に"もう十分だ。これらの問題を他の人達と議論する会合を持とう。質問を終わりにしよう。そして、それらを再び語る必要は無くなるだろう"と言った。かくしてブルバキは生まれたが、勿論未だ、この名前は無かった。私達(1922年から1928年入学のノルマル人のすべて)の中で8人または9人が"解析教程"の計画を練るため2週間ごとにパリで会合することをヴェイユは決めた。デルサルトによって丁寧に保管されていた、これらの会合の報告を所持している私は幸運だ。実際、Szolem Mandelbrojt(彼は我々より少し年長だが、フランス入国以降、非常に同化した)を除いて、皆がノルマル人だった。ブルバキ事業におけるヴェイユの果す役割はいつも決定的だった。誰もがいかなる章も編集出来るべきこと、匿名性を重視すべきことを決定したのは彼だ。新世代が自分たちの番だと責任感を持てるために50歳での脱退を強要したのも彼である。そして、戦争まで継続した。
そうする内に、ヴェイユは1937年の10月に結婚し、彼の友人達は結婚が彼の生活をどのように変えるか観察出来た。彼自身が"1986年5月24日、私の妻であり伴侶であるエベリーネの死亡で"人生は実質的に終わったと書いた。
戦争前のこれらの数年の間、私はパリとストラスブール間の列車旅行をアンドレ・ヴェイユとする機会を時々持った。そして、勿論数学を議論した。一般的に言えば、その時の私の問題の部分に彼を引きずり込んだのは私であり、よく彼は私が間違った道にいると主張した。問題をもっと深く追究するよう私を鼓舞するために、そのやり方で行うと彼はある日私に説明した。1930年少し前、カラテオドリーの円領域に関する研究を私に示して、多変数解析函数の研究に私を導いたのは彼だ。私がアンドレ・ヴェイユに負っていることを誰も過大評価出来ない。
1939年の夏が来た。Souvenirs d'Apprentissageで、戦争の際にフランスを去ることを決心した理由をヴェイユは説明している。1922年入学のすべての元ノルマル人と同様に、彼は予備将校だった。1939年中に彼が私に書いた手紙を最近見つけた。細君を伴って北ヨーロッパへ彼は旅立った。英国のケンブリッジ、オスロ、コペンハーゲン、スゥエーデン、ラプランドまで。フィンランドからの彼の最初の手紙は9月12日付けだ。彼と細君はヘルシンキ郊外のアールフォルス家に招待された。フランス検閲のため彼は"アールフォルス"と名前を署名した。その当時の手紙は配達されるのに2週間を要した。彼は"動員された私達のすべての仲間"のニューズを執拗に訊いた。10月にはボーモントにいた私宛に手紙を書いた。ボーモントはクレルモンフェラン近郊で、ストラスブール大学は疎開していた。この時期に彼の細君はフランスに戻った。11月21日に彼は私に詳しく書いた。彼はまだ名前を"アールフォルス"と署名した。と言うのは、フィンランドがソ連と戦争になり、フィンランド人検閲官が本気になり始めていたからだ。彼はブルバキの仕事に夢中になって、この題目について詳説した。
そして、沈黙があった。彼は11月の末に逮捕されていた。北フィンランドのハパランダ、そしてノルウェイ、スゥエーデン、再びノルウェイ、スコットランドとロンドン、遂にはルアーブルに上陸した、彼の苦難の遍歴を人々は知る。ルアーブルでは、ルーアン刑務所に移送される前に1940年2月半ばまで軍刑務所に拘置された。1月末まで、彼の妹シモーヌからの手紙によって私は情報を知っていた。2月22日にヴェイユは私宛に長い手書きの手紙を書いた(彼はもうタイプライターを持っていなかった)。2月29日から5月2日までの間に彼は私に15本の手紙を書き、それらの手紙の殆どが長かった。彼がブルバキのために積分論に関する長い報告書を書いたのもルーアン刑務所にいた時期だ。それがアンドレ・ヴェイユの数学テキストで唯一の手書きだと私は思う。今日、パリ科学アカデミーに保管されている。
彼の裁判は5月3日に行われた。彼の有利になるよう、私の父は証言するためにルーアンに行った。判決に従って、ヴェイユは一兵卒として軍隊に入隊するため刑務所を去った。だが、フランスはすぐに侵略され、ヴェイユ自身は英国と北アフリカを通って1940年10月にマルセイユに至るまで長い旅を始めたけれども、彼の家族(彼の両親と妹シモーヌ)はビシー、それからトゥールーズに避難した。マルセイユで彼は除隊し、両親を見つけた。この間中、私はヴェイユと彼の家族の間の仲介者として務めていた。10月10日、彼はクレルモンフェランの駅に着き、私は彼を待っていた。
ヴェイユは少し後に妻エベリーネ(彼女は占領地域に留まっていた)と再会した。エベリーネの息子アラインを連れて、彼等は一緒に米国へ去った。1944年末に、私達は再び文通を始められた。サンパウロ大学の教授職に任命されたので、彼は米国を去りブラジルへ向かった。戦後最初のブルバキ会議に彼が出席した時、1945年の夏に私はアンドレに会った。彼が50歳に達した時にブルバキを退会するまで、私達は互いにそんな感じで夏ごとに会った。
1948年1月にヴェイユは私をシカゴ大学に招待した。彼はシカゴ大学で1947年から教えていた。シカゴ大学でヴェイユを任命したのは数学部門再編成の責任者マーシャル・ストーンだった。私の始めての米国への旅行であり、単に言葉のみならず、多くの学ぶべきことがあった。ヴェイユは大きな助けだった。
私達の間でしきたりが確立されていた。すなわち、毎年5月の終わりに向けて、ヴェイユのフランス到着と同じ晩に彼は私に電話をして"私はここにいる"と話した。私達は会って、午後いっぱいを私の家で過ごして来たものだった。シテ・ユニヴェルシテールの公園をよく散歩した。非常に狭いので、会話の話題には事欠かなかった。私の家に戻って、私達の配偶者達と合流した。そして、私達は一緒に食事をし、オーギュスト・コント通りに面したアパートにヴェイユ夫婦が帰るまで晩は続いたものだった。1986年エベリーネの死去の後、アンドレは彼の訪問のしきたりを続けた。フランスの夏の間、孤独により彼は少し身を持て余し、ドロームのディー(そこで私の家族は夏期別荘で休暇を取っていた)に2週間を過ごし来たのは1987年だと思う。彼はその時散歩を好み、この美しい田舎を知るようになったが、それは彼には新しいことだった。続く数年、パリの私の家で午後を過ごすことを続けたが、もう歩きたがらなかった。彼は自分の視力、聴力、脚力について愚痴をこぼした。彼が来た最後の時は1996年だった。彼の体力は終わっているように思えたが、知的鋭さは保っていた。彼はもうパリに来ず、私が得られる彼の稀なニューズはArmand Borelまたは彼の娘達、シルヴィーとニコレットによって知らされた。
アンドレ・ヴェイユの思い出を、彼の妹、熱烈な哲学者シモーヌの思い出無しで呼び起こすことは不可能だ。なるほど彼等は互いに非常に異なり、同じ大望を持たなかった。しかし、彼等の思考は時に一緒に来て、彼等は互いに深い愛情を心底で感じた。アンドレは、1943年8月24日に妹が極度の衰弱により英国のアシュフォードで今亡くなったことを電報でニューヨークの彼に知らされた時の絶望を語った。彼は後にシモーヌ・ヴェイユ全集の刊行に熱中した。彼等の各々が順番に人類遺産の豊穣に貢献して来ている。

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