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フランクフルト数学セミナーの歴史について

世の中が非常にキナ臭くなりました。アンネの日記の件や無知で未熟な若者達がハーケンクロイツの紋様の描かれた何らかを掲げて訳の分からない集会に参加するのを見て、いつか来た道だなと思うのは私だけではないでしょう。
そのことで最近イズレィォゥの知人からメールで"Is the so-called anti-Semitism coming into fashion in Japan? If that's the case, then we'll have got to take it seriously, and that'll strain between your country and ours, or rather the world."と言って来ました。その懸念はもっともだと私は思いましたので"I hope that's not the case, but I worry that most Japanese, irrespective of men and women of all ages, nowadays, might be too childish. Indeed, they like to form circles of big fish in a small pond shamelessly, and as a result, most of them are too ignorant of the present international situation, more's the pity."と返信しました。
学問の世界でもナチスのやったことがどんな影響を及ぼしたか、かなり前に"ナチス支配下でのゲッチンゲンの数学"を紹介したことがありました。そして今回紹介するのは、更に警告の意を込めて、故カール・ルートヴィヒ・ジーゲル博士の"On the History of the Frankfurt Mathematics Seminar"を紹介します。
ジーゲル博士等の数学史セミナーは数学界にいる人なら誰でも知っているくらい有名で、私ごときがくどくど言わなくても御存知でしょう。ジーゲル博士の講演を読んで痛感したのは(ナチスの悪夢は別にして)、現在、特に日本の現在と比べて余りにも隔世の感を禁じ得ませんでした。大学で教鞭を取っている友人共の話では、学部中高学年では是非とも原書でセミナーの講座をしたいのだけれども、仏語、独語はおろか英語ですら無理だそうです。思い切って英語原書でセミナーをやった友人の話では、英文解釈または英文法の講座をやっているのか思うほど数学の話に踏み込めなくなって大失敗に終わったそうです。それが日本の現状です。何がこんな状態にさせたかは想像はつきますが、もう大学とは関係の無い私ですから何も申し上げません。
いずれにせよ、ジーゲル博士の講演の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2014年02月28日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年05月21日]
ナチ政権下でのドイツ数学界の崩壊については"第三帝国における数学出版: シュプリンガー出版社とドイツ数学者協会"もご参考に。

[追記: 2020年05月22日]
この記事で語られているマクス・デーンの内容を補う意味で"マクス・デーン、クルト・ゲーデルとサイビリヤン横断脱出ルート"を参照して下さい。

フランクフルト数学セミナーの歴史について
1964年6月13日
カール・ルートヴィヒ・ジーゲル
Kevin M. Lenzen 翻訳[訳注: これは独語から英語への翻訳を意味します。誤解が無いよう念のため]

これはヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学(フランクフルト大学)創立50周年において、フランクフルト大学の数学セミナーで1964年6月13日に行われた講演である。

皆さん。
直近50年間のほぼ三分の一、つまり1922年から1938年初めまでの期間、私はフランクフルト大学で数学教授だった。当時のここでの数学セミナーの活動の何かについて皆さんに話したい。当時の、そして多くの運命のねじれに苦しんだ後、現在は皆亡くなっている同僚達について専念しょうと思う。
先ず最初に、私の前任者Arthur Schoenfliesについて少し話したい。彼はゲッティンゲン大学とケーニヒスベルク大学で長年過ごした後の1914年にフランクフルトに来て、1922年の然るべき時に退職した。彼の友人フェリックス・クラインと同様に、彼は主に幾何学者だから、結晶構造に重要な研究を行った。その上、彼は集合論の最初の包括的な解説を刊行した。しかし、私がフランクフルトに来る時までに彼の活動的な時期は過ぎており、その理由のため、彼の多くの業績を述べるつもりはないが、一つ言及する。私が今日詳しく述べる他の数学者達と同様にSchoenfliesはユダヤ人だった。しかし、1933年以降に他の人達を襲った過酷な運命を彼は経験せずに済んだ。と言うのは、フランクフルトのコミュニティの誉れ高く尊敬されるメンバーとして彼は1928年に亡くなったからだ。
私は今、デーン、エプスタイン、ヘリンジャー、サースに集中する話の本体に来ている。
マックス・デーンは1878年にハンブルクで生まれた。彼はゲッティンゲンのヒルベルトの許で幾何学の基礎に関する学位論文により若い21歳で学位を取得した。彼の学問的キャリアは彼をフランクフルト(そこで彼は1935年の春まで講義した)に呼ばれるまでミュンスター、キール、ブレスラウと連れて行った。ここで私は、デーンの前任者が有名なルートヴィヒ・ビーベルバッハ(彼はフランクフルトで1914年から1920年まで教えたが、後でベルリンにおいて彼の実際の有益性を見せたに過ぎなかった)だったことを言わなければならぬ。
私の考えでは、彼の数学的業績は前世紀終り以降に為された最も重要なものの一つである。彼の深く独創的なアイデアは実質的に、3つの異なる数学分野、すなわち幾何学の基礎、トポロジー、群論に貢献した。彼の全研究の主要点の簡単な概要ですら時間が許さないので、言及した3つの分野の其々から彼の発見の一つのみを私は議論しよう。
先ず容積の研究、1901年の教授資格取得のトピックに言及したい。以下は彼の解決した問題を説明する助けとなろう。
私達は与えられた2つの三角形の面積が等しいことを、初等幾何学を使って、つまり積分または他の極限操作に訴えなくても証明出来ることを知っている。3次元図形に対しても同じことが可能かという問題が残った。特に四面体の体積が極限を取らずに厳密に定義され得るかどうか。これは、1900年パリでの国際数学者会議においてヒルベルトにより提出された有名な未解決問題の一つだった。デーンはヒルベルトの問題の一つを解決した最初だった。その問題の解答は否定的だった。と言うのは、初等幾何学だけの基礎で容積の理論が展開されるはずがないことをデーンが示したからだ。
デーンの活動分野の2つ目として私はトポロジーに言及した。当時まだ若い、この数学的分野においてデーンは系統だった定義を発展させ、基礎概念を明確化することによって価値のある貢献をした。同時に彼は多くの難しい3次元問題を解決した。トポロジーにおける彼の結果のうちで、今や有名な定理(クローバー葉のノットは、それに触れること無しで連続的に鏡映イメージに変形出来ない)のみに言及しよう。ノット理論(現在トポロジーにおいて特に重要である)は、この定理から発展した。
デーンは彼の3つ目の活動分野(群論)において、あるトポロジー的な問題に出くわした。彼はそれを後にデーン群図と呼ばれるものを導入することによって解決した。これは、生成元を用いて供述される群と定義関係を伴うワード問題の研究に繋がった。その問題は、関係の基礎の許で、生成元から生成される2つの表現が同じか異なるか決定することである。この問題に取組んでいる中で、他にもいろいろあるが、デーンはもっとも簡単だけれども、それでもまだ難しいケース(生成元の数は有限であり、たった一つの定義関係がある)を考えた。デーンは自身でそれを発表しなかったけれども、この問題の解決に、いわゆる自由理論が非常に重要だった。しかし、彼は証明を発見し、どのように行ったかを時折彼の友人達に語ったものだ。
デーンの講義はそれが含んでいた新しいアイデアのおかげで特に刺激的であり、彼の指導の許で、一連の価値ある学位論文が書かれた。デーン自身の分野の外側、知的生活のすべての側面に対する彼が見せた関心を書き留めることは面白かった。彼の関心はシラーの意味での哲学的意向があり、彼は反論を好んだから彼との会話はよく実りのある議論になった。デーンは古代と現代史に非常に詳しく、特に太古の基礎的見識の概念と展開に関心があった。彼はギリシア哲学と数学の間の関係の注目すべき多くのエッセイを発表した。
数学史に関するセミナー(デーンの庇護のもとで13年間続いた)は1922年に設立された。デーンはこの組織の実際の精神であり、それについて私は後でもっと述べよう。しかし先ず、その期間から同僚であり友人達の中の他の3人を紹介したい。

ポール・エプスタインは、ここフランクフルトで1871年に生まれ育った。彼の父はフランクフルトの博愛学院の教授だった。エプスタインはアーベル函数に関する論文でストラスブールから1895年に学位を取得し、専門学校の教師として、そして大学で客員講師として1918年までストラスブールにいた。アルザスが再びフランスになった時、彼は去ることを余儀無くされ、大学で在職権を持たない准教授としての契約で生まれた街に帰り、1935年の夏学期の終りまで講義した。彼の数学的研究は主に数論の分野であり、彼の名前を冠したゼーター函数によって次世代の人々の記憶に残るだろう。更に、彼は数学史と並んで教授法の問題に関心があり、セミナーでの彼の研究を非常に価値あるものした。数学のための才能と音楽のための才能は非常に関係があると広く信じられている。しかし、私は多くの非音楽的数学者達がいることをよく知っている。私自身がその一人だ。他方エプスタインはこの点で非常に天分があり、フランクフルトでの文化的生活に積極的に参加した。

エルンスト・ヘリンジャーはシレジア出身だった。彼はそこのストシェゴムで1883年に生まれ、ゲッティンゲンにおいてヒルベルトの許で研究をし、積分方程式に関する非常に重要な論文を書いて1907年に学位を取得した。数年間マールブルクで客員講師として務めた後、最初は特任教授として大学が設立された1914年にフランクフルトに来て、1920年以降は常任教授だった。デーンとエプスタインと同様に、彼は1935年までフランクフルトで講義した。ヘリンジャー自身の分野は函数論で、これに関連して私は特に、彼のスティルチェスのモーメント問題に関する重要な研究に言及しなければならない。彼の友人オットー・テプリッツと共に、積分方程式論に関する大百科事典論説に長年努力したが、後のジョン・フォン・ノイマンによる発展にもかかわらず、それは今でも重要な価値がある。
デーンが調子に乗った時、彼の講義はまあまあの才能の学生が付いて行くのが困難になることがあったが、ヘリンジャーは慎重な準備と明確に詳細なプレゼンテーションによって、最初は数学が殆ど対象にしていない人々にさえも興味を起こすことが出来た。彼の講義や研究グループの外側でさえも、彼はいつも学生達の福利を気にした。長年、彼は学生援助協会の委員会で名誉職を務め、それによって、ただ科学的なこと以外の分野においても、大学の成功に大きく貢献した。実際、ヘリンジャーはプロシアの古い学校の当局者だった。この定義が40年前と同様に今日しっかりと理解されないことを私は危惧するけれども。ここで私は、ヘリンジャーが職を去ることを強制される前の2年間(これまでよりも高いレベルの役人達が彼等の狂信的な影響力をますます学問的生活に及ぼしていた時期)でさえ、彼の無私な務めの奉仕に対して学生仲間の誰にも彼は人気があった。デーン、エプスタイン、ヘリンジャーに対して、当時の学生達は最後の時間まで文明人として期待される振舞いをした。私はこれを単についでに言っているのではない。と言うのは、1933年に他の多くの大学で、恥じるべき事件が発生したからだ。

私達のかってのグループのストーリーと私達の其々が後で気づいた状況のストーリーを続ける前に、これから言及しなければならない名前オットー・サースがまだ残っている。彼は1884年にハンガリーで生まれ、他にもいろいろな所で研究したなかで、一時ゲッティンゲンで研究をして1911年にブダペストで学位を取得した。フランクフルトに大学が設立された時、彼は教えに来て、1921年に在職権を持たない准教授になった。私が言及した他の人達と同様な成功を修めている、ほぼ20年間の講義の後で、彼の教授資格は1933年に取消された。彼は主に実解析、特にフーリエ級数に専念した。フーリエ級数において彼はいくつかの難しい問題を解決した。彼の業績は世界的な認知を獲得し、彼の分野で指導的専門家の一人と考えられた。私は彼をよく知っており、会話の中で理解するのが少し遅れることがしばしばである事実を彼は懸命に隠そうとするお茶目な癖を私は決して忘れない。ドイツで彼の学問的キャリアが阻まれることが分かった時、彼は米国へ行き、そこではシンシナティの大学で1936年から1952年まで教えた。彼は1952年にジュネーヴ湖で休暇を過ごしている間に67歳で亡くなった。彼の死後、彼の作品集がアメリカで刊行された。

デーンの教唆で1922年から1935年までの各学期に数学史に関するセミナーが催されたことを私は既に述べた。デーンとエプスタインに加えて、ヘリンジャーと私もこれらのセミナーで重要な役割を担ったが、傑出して多方面な学識によってデーンがある意味で私達の精神的リーダーであり、各学期のトピックスを選ぶ時に私達はいつも彼のアドバイスに従った。今振り返って見ると、それらのセミナーにおける共同の時間は私の人生の最も幸福なものである。当時でも、毎木曜日の午後4時から6時まで一緒に過ごす活動を私は楽しんだ。後で私達が地球上でばらばらになった時、尊大な位置から指示をただ出しているのではなく、個人的野心の考え無しで共に無私で働く学問的同僚を持つことが何と稀で幸運であることかを、どこかよそでの幻滅によって私はよく知った。
それらのセミナーにおいて、すべての時代のより重要な発見を原書で勉強することがルールだった。参加者全員があらかじめテキストを手に取って勉強済みであることと輪読の後で議論を引っ張ることを期待された。このようにして、私達は古代の数学者達を研究し、多くの学期のために、ユークリッドとアルキメデスの詳しい研究に専念した。もう一つ別の時には、中世から17世紀中頃までの代数と幾何学の発展について私達はいくらかの学期を費やしたが、その間に私達はレオナルド・フィボナッチ、ヴィエート、カルダーノ、デカルト、デザルグの研究に完全に精通することになった。そこから17世紀の無限小解析が発展したというアイデアの私達の共同研究も報われた。ここでは、他にもいろいろある中で、ケプラー、ホイヘンス、ステヴィン、フェルマー、グレゴリー、バローの発見を扱った。
数学ジャーナルでの複数の記事はフランクフルト数学史セミナーの活動の結果として生じたが、概して発表は私達の目標ではなかった。セミナーの本当の趣旨は全く違う方向、すなわち講義で示される結果に対する参加学生達の理解を増進することと、教師達に過去の時代の傑出した研究を詳細に調査する審美的満足を供給することにあった。特に古代ギリシア数学者達を原書で読むことの言語的困難が一種の参加者自然淘汰の結果となったので、学生の総数はいつも道理に適う範囲のままだった。オランダ語とイタリア語のテキストも同様の断念させる効果があった。私が憶えている限り、4人の教授達も含めて出席者の数は10人を下らなかった。
これは個別の講義自体での学生数の問題に私達を連れてきた。1928年には微積分のコースで最大数143人に到達した。私にとって、これは少なくとも始めは演習全体を正すことの困難さの一定総計を意味した。手助けする助手がいたけれども、当時数学講座全体で一人の助手しかおらず、今日では数人の秘書によって処理される管理機能全体についても助手の担当だった。数年前、1924年だと思うが、殆ど学生はおらず、高等数学コースの一つで2人しかいないことを私は憶えている。或る日、彼等両人が大学の経理部で遅くなったので教室に遅れた。彼等が到着した時、彼等が不在でも私が始めており、既に黒板の全欄を埋めていたのを見て彼等はショックを受けた。1928年に最大数に達した後で、その数は急激に減少した。
数学史に関するセミナーに加えてプロセミナーとセミナーがすべての学期であった。セミナー自体では、学生は15人を超えることはなかった。と言うのは、全講義が存在する小さな試験の結果によって、プロセミナーと同様にセミナーにも学生が入ることを私達が許可していたものだからだ。これは、まずまず出来る学生達がさらに続けてフランクフルトで勉強を修了することを保証する効果があった。私達が切捨てた学生達は、試験を受けて近くのある大学に行くか、または多分そこでも失敗するかのどちらかだった。この予備選抜の結果として、ここフランクフルトでの数学科候補生は滅多に失敗しなかった(才能ある数学者達でさえも物理の試験ではやや貧弱だった実例を私は思い出すけれども)。
今言ったことから、比較的少数の学生ゆえに、または多分それにもかかわらず、その一般レベルはかなり高かった(それらの年々の多くの傑出した学位論文がそれを示している)ことを理解出来るだろう。例えば1926年と1930年の間の5年間で、5人の数学科学生達が立派な学問的キャリアに進んだ。これらのうちの一人ヴィルヘルム・マグナスは今米国におり、もう一人Kurt Malflerはオーストラリアにいる。フランクフルト数学セミナーは正直にその影響が地球の裏側まで拡大していると言える。他の3人オットーハインリッヒ・ケラーはハレに、ヴィルヘルム・マイヤーはイェーナに、Ruth Moufangはフランクフルトアムマインにいる。数年後私達の学生の一人が非常に独創的な学位論文の中で、ヒルベルトによる1900年に提出されたもう一つの問題を解決したことを知って私達は喜んだ。これが今フライブルクで教授のテオドール・シュナイダーだった。彼が解決した問題はヒルベルト自身によって手が付けられないほど難しい問題だと見なされた。ヒルベルトでさえ、この問題はフェルマーの問題またはリーマン仮説の証明よりも難しいと考えた。
前の方で言及したように、ヘリンジャーは学生達の福利に特に関係した。私達の残りも学生達と仲がよかった。デーンは学部ハイキングや他の社交活動で教師と学生の間に直接的な個人関係を広げようと決心した。もちろん学生達は教師達自身が緊密な友情関係で結ばれていることを認識し、従ってフランクフルトの数学セミナーでは信頼と友好の雰囲気があった。私が残念ながら他大学では見つけられなかった雰囲気だった。実際には、丁度その反対を見た。私達の暢気な流儀において、私達は地位の恩典に懸命な強固な教授連中と全く異なっていた。彼等の一人(ボンで教えていた)は一度私達のことを"やつらは何の威厳もない"と言った。
私達と過ごした学期があたかも過去数十年存在しないかのように、それらの学期をいかに学生が懐かしく憶えているかと言う手紙を、その時期の元学生から私はまだ貰っている。そんな印象が30年、40年後に残っているなら、主として教師達の個性が学生達に与えている長く続く影響のためである。と言うのは、学科的事項はその間にしばしば完全に忘れ去られるからだ。ここに、今日の大学における人数超過状況で表現される危険性を見ることが出来る。当時に戻れば、教授達が特に初心者クラスに関心を持つのが当たり前であり、それに対して最終的に報われた。彼等を個人的に指導することで、いくつかの講義のみの後、提出された課題により、どの学生がより才能があるかを見ることが出来るし、教授達は状況に応じて注意を払える。これは、私が50年前学生だった時に始めてフロベニウスとプランクに接した流儀だった。人数超過の結果として未熟な助手達が演習指導と答案採点を義務付けられる時、確かに学生達のためにならない。私にはテープによる講義の方がまだ有害でないと思える。
20年代と30年代初めの間のフランクフルト数学セミナーの前向きで喜ばしい年々を語ってしまったので、1933年以降に私の同僚達の其々に起こったことの十分な説明に移りたい。サースの教育と研究への傑出した貢献にもかかわらず、彼の教授資格がドイツ国家社会主義政権によって即に取消されたことを既に話している。デーン、エプスタイン、ヘリンジャーもユダヤ人だが、彼等は全員少なくとも当分の間講義を続けられた。と言うのは、彼等全員が第一次世界大戦の間に数年軍務に就いていて、1918年の前に公務員になったからだ。ヒトラー政権の最初の数年は、まだ情状酌量が考慮されていた。そして総統と首相は1935年の秋にニュルンベルク党大会で新法律を宣言し、その時まで安全だったユダヤ人全員が職を去らなければならなかった。
ヘリンジャーはこうして途方に暮れた。数ヶ月前、1935年の夏にデーンは教育を諦めざるを得なかった。おそらくベルリンの影響力を持つ官僚の報復行為の結果だろう。この男は約30年前にかなり劣った数学テキストを刊行したが、それに対してデーンは不利な書評をした。エプスタインはニュルンベルク法が効力を発揮する前に自発的に教職を辞した。彼が私に説明したように、彼は1918年にフランス当局が彼にしたことをドイツ当局がするのを省きたかった。
デーン、エプスタイン、ヘリンジャーは1939年までフランクフルトに留まった。ドイツにおける増加する圧迫にもかかわらず、しばしば年長のユダヤ人達は移住を決心しなかった。過酷な新しい規制に従って、彼等には新しい生活を海外で始めるための僅か10マルクのみ残すだけで、蓄えを引渡さなければならなかったのであろう。1933年から数年の間に、大学で教育を受けた非常に大勢の移民がアメリカに行ってしまったので、老いた教授達がアメリカで新しい職を始めることは殆ど不可能であったのであろう。同時に、ヨーロッパ諸国は、移民が自立出来て膨大な財産を持って来た時のみ外国人居住を認めるであろう。
ドイツでの本当の恐怖は1938年の11月10日に本格的に始まり、政府は反ユダヤ人計画を組織した。ユダヤ教会堂は燃やされ、多くのユダヤ人商会は破壊され、その時の既存の強制収容所は、家から引きずられて来たユダヤ人で超満員だった。ヒトラーの子分達はデーン、エプスタイン、ヘリンジャーの所へ行って、彼等を乱暴に運んだ。しかし、囚人を閉じ込めておく部屋がフランクフルトにはもう無かったので、デーンは検挙の初期時点で警察により解放された。翌日同じことをされることを避けるため、デーンと彼の妻はバートホンブルクへ去り、そこで私達の友人であり同僚であるウィリー・ハルトナーに庇護を求めた。ハルトナー教授は2人の逃亡者を泊めることで立派な人間が期待されていることをしたに過ぎないと現在は言うだろうが、その頃この意味で立派と考えられていた人達は少数であって、ドイツ国家社会主義の暴君達に反抗する勇気が要った。
私は既に1938年初めでゲッティンゲン大学に転勤しており、そこではいくぶん隠居生活をした。この理由のため、そしてゲッティンゲンでは殆どユダヤ人がいなかったので、私は11月10日の事件を何も見なかった。2日後私はデーンの60歳誕生日の11月13日を祝うためフランクフルトへ旅立った。組織された群衆がやってしまったことを私が見たのは駅からデーン家までの途中だった。デーン家のドアベルを空しく鳴らした後、私はヘリンジャーの所へ行き、彼から何が起こったのか学んだ。彼自身はまだ逮捕されていなかった。と言うのは、囚人を収容出来るものすべてがいっぱいだったからだ。当局が彼の件でいかに正義と倫理の伝統的標準からかけ離れているかを留まって見たいからと説明して、彼は逃げることを拒否した。翌日、私がデーンと一緒にハルトナー家でデーンの誕生日に促されて彼等と過去60年間について話し合っていた間にヘリンジャーは逮捕された。その時までに私はフランクフルトに戻ったが、ヘリンジャーは既に連れ去られていた。最初は無垢な人達と共にフェストハレへ、次にダッハウの強制収容所だった。
アメリカにいる妹の助けで移住許可を受けるまで、彼は約6週間そこで拘束された。釈放の数日後、私はヘリンジャーに会った。彼は収容所での極端に不十分な食事制限のためやつれて見えたが、差し迫った移住の結果として生きる強い意思を維持した。彼は恐ろしい体験を話すことを拒否し、彼にやった辱めを決して忘れることは出来なかった。
ヘリンジャーは1939年2月末にドイツを去った。米国に到着後、エバンストンのノースウェスタン大学で職を得たが、それは1946年(その時彼は常任教授だった)まで毎年更新された。しかし、数年以上後に彼は定年に達し、彼の活動は終りに来た。そのような短い期間の間に働いた後に彼が得た年金は非常に慎ましい生活に対してさえも十分でなかったであろう。幸いヘリンジャーはシカゴのイリノイ工科研究所に2年間客員教授として招かれた。しかし、この期間の終り以前に癌を患い、手術不成功の後1950年の始めに亡くなった。私は死の8日前に彼を見舞い、この私達の最後の会話の中で、フランクフルトに戻らないかと訊かれたけれども、戻りたくないと彼は言った。ヘリンジャーはアメリカで教えている間に学生達と同僚達に非常に慕われたことを私は言わなければならぬ。だが、彼にとってそこでの生活は全く快適ではなかった。移住の前に彼は英語を習わなかったし、決して英語に満足ではなかった。そして、資金保障の不足は彼を始終心配させた要因だった。
エプスタインの運命を述べるため私は1938年11月の悲惨な事件に戻らなければならない。突撃隊の野郎共は彼の家にも押し入ったが、彼無しに去ることになった。彼は慢性の病気を持っており、彼の体調はそれらの数日間、身動き出来ない所まで悪化していた。従ってエプスタインは強制収容所へ引きずり入れられることを免れたが、彼は執行の簡単な延期であることを分かっていた。彼は既に68歳だったから、別の国で新しく始めることが現実には期待出来なかった。しかし、それは全くの必然ではなかったであろう。と言うのは、彼の姉妹の一人が早くに移住していて、彼をサポート出来ただろうからだ。しかし、逃亡の可能性にもかかわらず、彼は蔵書と生まれ故郷を残すことに躊躇した。
私は1939年8月にエプスタインを訪問し、私達は彼が当時住んでいたドルンブッシュの家の日当たりのいい庭に座った。お気に入りの猫が鳥を追いかけることを好み、近所を怒らせたかも知れないという理由だけで猫を安楽死させたと彼は私に語ったが、他の点で苦悩しているようには見えなかった。どのように彼が庭の木々と花々を指差して"ここでは素晴らしくないかな?"と言ったことを私はまだ憶えている。8日後、彼は秘密警察からの出頭命令を受けた後で致死量のベロナールで自殺した。誰もがゲシュタポからの出頭命令は拷問と死をしばしば意味し、そのことを考えてエプスタインは回復不能のプロセスを自らの手で始めたことを知った。彼の死後、ゲシュタポは彼に差し迫った移住の日の決定の声明にサインして欲しかっただけだと言われた。これより悪い何かで彼が脅されていたのか私は分からないが、彼が道の終りに達したという感触を確実に持ったので、彼はそこから結論を引き出した。わずか数週間先で戦争の勃発があり、移住は何れにせよおそらく不可能であっただろうし、ユダヤ人問題に対するヒトラーのいわゆる最終解決はそれからすぐ後だった。私は実際エプスタインが出来る限りの賢い行動をしたと考えている。
デーンの運命に関する私の話の中で、彼のバートホンブルクへの旅立ちとハルトナー家での滞在に到達していた。フランクフルトのユダヤ人全員を逮捕し、運搬するのに数日かかったけれども、そのプロセスは他の地域ではずっと早く完了し、必ずしも同じ残虐行為でなかった。この理由のため、デーンはハンブルクで当分の間潜伏する決心をした。ヒトラーの手先共がすべてを見張っている事実にもかかわらず、アルフレッド・マグナス教授の妻と息子の助けを借りて、彼はフランクフルト内の駅に着き、そこから列車に乗れた。ハンブルクで彼は妹と義弟の家に暫くの間隠れた。高齢のため彼等はまだ自由だった。後に彼等は強制収容所で終わった。北欧へ移住する可能性についてデーンと議論するためデンマーク人同僚とデーンの元学生がハンブルクへ来ることがアレンジされた。私自身がそれらの議論に参加するためハンブルグへ行ったが、古く立派なホテルにチェックインした後に、私はふさわしい(その頃名付けられたように)アーリア人ですと宣言している声明書に、どのようにサインをしなければならなかったかを私はまだ憶えている。
デーンと彼の妻は1939年1月にコペンハーゲンへ、後でノルウェーのトロンヘイムへ行ったが、そこの工科大学で休暇中の同僚の職を引継いだ。彼等が旅立つ前に、デーンの広範囲な蔵書と多くの高価な家具一式が悪賢いアーリア人商人達に途方もなく安価で買取られた。勿論多くのドイツ人達はユダヤ人達の苦境を利用した。古本ディーラー達は彼等の本に平均して10ペニヒを支払ったであろう。数学科学生達が当時にそのディーラーから合計して50から100回もヘリンジャーとデーンの元蔵書の本を買ったと私は聞いたことがある。デーンはいくらかの家具をロンドンへ発送出来た。彼はドイツからどこかよそで新生活を始めるために蓄えたもののいくらかを使えることを望んだ。しかし、彼が英国の保管料金を払えないことの結果として、それらは没収されオークションにかけられた時、これら最後の少しの所有物さえも失った。
デーンはトロンヘイムに到着後すぐに工科大学で講義を始め、1940年初めまで続けられた。彼はよく長期間ノルウェーにいたことがあって、科学アカデミーのメンバーでもあり、多くのノルウェー人の友達がいた。言語において完全に流暢だったから、彼が講義するのに殆どトラブルが無かった。私が1940年3月にそこへ彼を訪ねた時、彼は前年の悲しい出来事の後で希望を新たにしたらしく、再び講義することが楽しかった。或る日一緒に歩いている間に、私達は港でドイツ国旗を掲げている一見見捨てられた複数の商船に注目した。伝えられるところではエンジン故障のため、それらは既にかなり長い間、そこにあったとデーンは私に話した。いくぶん不気味な印象のため、それらは地元民から海賊船と呼ばれていた。アメリカに自発的亡命のために私は数日後去ったから、それらの不思議な船達の存在の理由を後で分かったに過ぎなかった。それらはドイツ兵達のの武器をいっぱい積んでいて、ノルウェー侵略の日にドイツ兵達は突如トロンヘイムを占領した。彼等はゲシュタポと国家社会主義ドイツ労働者党に率いられていた。
このようにデーンはフランクフルトよりももっと危険な状態にいることに気づいた。と言うのは、ノルウェーはドイツと戦闘状態にあり、その一方でヒトラーの最終解決が近づいていたからだ。デーンはドイツ占領の早い日に農家へ逃げたが、少なくとも始めのうちは乱暴または逮捕を超える行為が発生しなかった時、彼はトロンヘイムに戻った。次の数ヶ月の間に、ヘリンジャーとアメリカでの彼の少数の友人達がデーンの2回目の移住のための土台を用意していた。ドイツがパトロールするノルウェーとスウェーデンの国境を越えて、フィンランド、ロシア、日本を通り、そしてサンフランシスコまでの太平洋を渡る非常に不愉快な旅行の後にデーンと彼の妻は1941年始めに米国に辿り着くことが出来た。シベリアを渡る長い列車旅の間にデーンは肺炎の危険なケースを患った。彼の強固な体質のおかげと、おそらく彼がいつもの通りに医学手当ての召喚を拒否したので、生き延びた。
米国では、多くの期待はずれな企ての後に多少満足な職を見つけるまで、彼はかなり旅回り的生活をした。彼が米国に到着した時、通常の定年までわずか2年だったし、専門家達は彼の名声を良く知っていたけれども、その当時の研究施設に対する財政支援の不足は彼の能力に適した職を与えることを不可能にした。もっと有名な大学は彼に安い職を提供するのは不適当だと考え、彼の存在をただ単に無視することがベストだと思った。最初、デーンは年俸1200ドルでポカテッロにあるアイダホ州立大学で数学及び哲学教授として一年半を過ごした。アメリカのすべての州の内で、アイダホはジャガイモの最大生産地だ。そこでの知的生活はほぼ育まれもしていない。だが、入植地域の外側では損なわれていない広大な自然美がある。デーンはいつでも熱狂的なハイカー且つ登山者であり、アルプスとノルウェーの両方で多くの困難な登りを着手したことがあった。この点で、彼のアイダホ滞在は決して期待はずれではなかった。1941年の夏の間、私達4人(デーン、彼の妻、ヘリンジャー、私)はそこで会い、田舎を通って共に長い散歩をした。私達はタウヌス山地の丘を通ってよくやった散歩を悲しく思い出さずにはいられなかった。
翌年デーンはシカゴのイリノイ工科研究所で働いた。歳入の改善にもかかわらず、その職はかなりストレスを伴い、大都市の騒乱に彼は順応出来なかった。彼は一学期に同じ微積分の講義を2回しなければならなかった。一回は新入生用、もう一回は前学期からの何も理解しなかった学生用。この後者のグループは最初の講義の始めに"こんにちは先生、僕達馬鹿なんです"と挨拶したと彼は私に語った。今では、それは学生達の自覚をうまく言っているのかも知れないけれども、私はそれを聞くとまだ少しがっかりする。
デーンは翌年メリーランド州アナポリスのセントジョンズ大学で過ごした。そこで彼は特に不幸せだった。その時は戦時中であり、15歳から18歳までの非常に若い学生達が大学に出席した。しかし、学習計画は傑出した能力を持つ進んだ学生のみが首尾よく修了することを望めただろうようなものだった。それはシカゴの教育学的にうるさい哲学者によって開発され、いわゆる世界文学ベスト100冊を原書で読むことを要求した。一般的にアメリカの高校は今日でもドイツの高校に比べてずっと少ないことしか網羅していないことと、多くの15歳が英語ですら適切にマスターしていないことを皆さんは心に留めておく必要がある。だが、セントジョンズ大学の自惚れた学習計画は、これらの未成熟な若者にホメーロス、ダンテ、デカルト、ゲーテを原書で読ませるものだった。事柄全体がフランクフルトの数学史セミナーの目標の悪意あるパロディーに見えた。もちろんデーンはそんな請負は最初から愚行だと分かり、責任当局者達に彼の批判を表明した。その結果は完全な決裂であり、その後に彼が我慢しなければならなかった軋轢の長い期間が続いた。デーンにとって不正で偽善なこと、教育と研究の最高原理に反することをしなければならなかったから、彼は我を忘れて怒った。
だが、この期間さえも終って、1945年にデーンは彼の長い人生で最後の駅に到着した。これがノースカロライナ州のブラックマウンテン・カレッジだった。ブラックマウンテンも型にはまらない教育学的原理の集まりによって指針されていた。しかし、上述のそれらと違って、大半が理に適っていた。芸術が特に磨かれており、名高い画家や作曲家達がそこへ教えに来た。教職員の半分近くがヒトラーに追い出されたドイツ移民だった。学生達を含んで彼等のすべてがデーンを非常に尊敬し、前年の悲惨な経験の後で彼の気持ちが高揚した。ブラックマウンテンは、人が珍種の野生の花を見られる密林の丘で囲われた、絶好の位置にあることが助けになった。デーンのアイデアを発展させて発表するであろう何人かの輝ける才能を持つ学生達を見出して彼も幸運だった。残念ながら外部からの支援が無いため、ブラックマウンテンの財務基盤は健全ではなく、状況が改善されるまで教授達はしばらくの間、部屋と黒板の他に月5ドルしか小遣いを受取らなかった。
デーンは彼の人生の最後の7年間をそこで滞在したが、ウィスコンシン州マディソンの客員講師として短期間に出かけただけだ。彼は1952年の夏にブラックマウンテンを退職し、相談役に納まる決心をした。当時カレッジは資金を揚げるため森の大きな土地を売らざるを得ず、デーンは調査を監督する役目を自ら買って出た。ある焼け付くような夏の午後、デーンは土地の新しい所有者から派遣された材木商達が不法に学校所有のいくつかの壮大な木を切り倒しているのを注目した。73歳のデーンが険しい丘の頂上の近道を駆け上がって無法行為を止めた。その奮闘が致命的だと分かる塞栓リリースの要因となったに違いない。彼は翌年妻と一緒にフランクフルトの友人達を訪問し、フランツ教授の招待でここで講義のコースをする計画を組んでいた。
これが今日皆さんに私が語りたかったことである。要するに、フランクフルト数学セミナーのヒトラーの破壊は、それが影響した教師達全員の人生の中でベストで最も実りのある年々の終りを意味したと言える。その時から30年が経った。可能な限りダメージは部分的に修繕され、特に数学はフランクフルトで再びしっかり運営されている。狂信者達にかってここで秀でた高潔な人達に対してやらせたものが決して再び起きないことを希望しよう。

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