スキップしてメイン コンテンツに移動

良い証明は我々を賢くする証明である―ユーリ・マニンへのインタビュー

デヴィッド・マンフォード博士とジョン・テイト博士が英国の科学雑誌Natureから依頼を受け、グロタンディーク氏の追悼記事を書いたのはいいが、記事に書かれている数学用語についてNature誌の少なくとも半数の読者層が出会ったことが無かろうという理由で編集者から却下されたそうです。その記事はマンフォード博士の個人ブログに"Can one explain schemes to biologists"と題して掲載されています。
私も早速読みました。最下辺にいる私ごときが感想を述べるのはおこがましいのですが、これは数学に興味のある読者しか読まないだろうと思いました。編集者が数学用語云々の理由で却下したのは苦し紛れの言い訳だと私は思います。それ以前に、先ず記事が面白くないのです。Nature誌の読者層は科学者と言えども、実験系の人が圧倒的に多いのです。ですから、編集者は故人をよく知っていた両博士に余人の知り得ない話を期待していたのではなかろうかと思います。実験系の人でも数学的事項については厳密には理解出来ないかも知れませんが、他の話が面白ければ読むはずなんです。
今更言うのもためらいがありますが、おそらく一般大衆及び普通の科学者からは数学が一番乖離しているのです。それではいけないと何十年も前から多くの人が警告して来ました。その中で、私の最も印象に残っているのが、御存知ユーリ・マニン博士の"Good Proofs are Proofs that make us Wiser"です。その私訳を以下に載せておきます。

[追記:2015年01月17日]
上述のマンフォード博士らのグロタンディーク追悼記は結局のところNature誌に掲載されました。マンフォード博士がブログに載せた時点での草稿を更に削られたものが掲載されたようです。では、何故却下されたとか書いたのか私には分かりません。マンフォード博士らはもっと数学的事項の多い別の草稿を用意していたのだけれども、編集者に削られたから今回の草稿も却下されるであろうと思ったのかも知れません。
いずれにせよ、数学的事項の貧弱さとおざなりな伝記的事項にもかかわらず、一応は目出度く掲載されたのですからNature誌も捨てたものではないということでしょう。

[追記:2015年01月22日]
Nature誌に最終的に掲載されたマンフォード博士らのグロタンディーク追悼記の感想を海外の友人達から求められました。自分の書いたものをわざわざ和訳するのも変だし、もっと重要なことは日本語の壁に隠れて批判めいたことを偉そうに書く昨今の卑怯者達の内に入りたくないので、英文そのまま、世界のどこからでも読めるように下記に曝け出しておきます。

To begin with, I'd like to make one thing clear. I have studied a subject relevant to modern algebraic geometry, among originators of which was Grothendieck in the 1960s, and  I'm not necessarily a layperson though never an expert on it. Note in passing that Grothendieck isn't the only one who originated modern algebraic geometry, and somebody else, such as Serr, say, participated in the construction of it, too. Bear the above things in mind, please.
Since few readers of Nature Magazine are familiar with mathematics, it's only natural that Professor Mumford and Professor Tate should rewrite their original manuscript so that the readers can skim the surface of Grothendieck's main achievements; that is, scheme. Such brings home to me the hate of the general public for mathematics more's the pity, and so be it, I reckon.
The published obit looks as if they had thrown the baby out with the bathwater; that is, the mathematical content is much worse, so that, may I say, even I feel it obscure. Consequently, I cannot in the least see what they wanted to emphasize really, and worse, Grothendieck's biography is remarkably perfunctory, by all appearances. This obit is never worth reading. The editor in charge of Nature is probably responsible for the fruitlessness of the content, but it's a pity that they both compromised with the editor. They both should have declined to publish their final manuscript.

[追記: 2019年03月22日]
このペィジは2014年12月20日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年05月22日]
ユーリ・マニン博士の記事については他にも"メタファとしての数学"、"我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶ: ユーリ・マニンへのインタビュー"があります。

良い証明は我々を賢くする証明である―ユーリ・マニンへのインタビュー
1998年6月

このインタビューはMartin AignerとVasco A. Schmidtによって行われた。

今年の国際会議は今世紀最後のICM[訳注:International Congress of Mathematicians 国際数学者会議]です。ヒルベルトのような数学者がまだ可能だと思いますか? ヒルベルトの問題に相当する現代的な問題がありますか?

今世紀の数学にヒルベルトのリストが大きな役割を担ったと実際思っていない。多くの数学者達にとって、もちろん心理的に重要だった。例えば、アーノルドが若き大学院生だった時、彼はヒルベルトの問題をノートに書き写し、それをいつも持っていた。だが、ゲルファントがそれを聞き知った時、そのことに関して彼は実際にアーノルドを嘲笑した。アーノルドは問題を解くことを数学の偉大な功績の本質的部分だと考えた。私にとって、それは違う。既存パターンの認知の一種として数学的創造のプロセスだと私は思う。最初に何か―トポロジー、確率論、数論、何であれ―を研究する時、広大な領域の一般的ビジョンを得てから、その一部分に的を絞る。後で、"何があるのか?"、"他の人達によって既に分かっていることは何か?"と認知しようと努める。だから、他の論文を読めて、最終的に他者が見ていない何かを見つけようと始める。

問題解決の重要視は、一種のロマンチックな見解、つまり山を征服した偉大なヒーローですか?

そう、何となく冗談な見解の一種だ。的外れだと私は言っていない。若い人達に、偉大な功績に対する社会的認知を得ようとさせる心理的なニンジンとして凄く重要だ。良い問題は偉大な数学的知性のヴィジョンの具体化である。それは、ある極致につながっている道は見えないだろうが、山があると認知出来た。だが、断じて数学を理解するものでもなく、一般大衆に数学を紹介する方法でもない。そして、本質ではない。特に、そんな問題がリストに載っている時、世界の大国の首都のリストのようなものだ。それは、全く最小限可能な情報しか伝えない。これが数学を系統立てる方法だとヒルベルトが考えたとは実際に私は思っていない。

次世紀の数学の有力なパターンを思い切って予想していただけますか?

これは非常に難しい。20世紀の数学は、問題ではなくプログラム周りで上手く示されていると私は考える。時には明晰に定式化され、時には徐々に流行の傾向として新興する。例えば、数理論理学と数学基礎論の発展だ。確かに、それ自体として理解されるプログラムの発展だった。カントールの発見の後、無限の考え方をもっと深く考慮しなければならないことが明らかだった。あるいは、ガロア群を理解するためのラングランズのプログラムがある。一つのプログラムがあり、それを携えて次世紀に私達は入る。このプログラムは、数学の量子化と考えられる。最近の20年間で、いかに多くの数学概念が変わったかを考える時、ある意味で新概念は旧概念の量子バージョン―それは驚く。例えば、量子群、量子コホモロジー、量子コンピューティングを見よ―であり、もっと多くが私達の前方にあると思う。一般的に数学を発展させるプログラムとして、そのようなものを誰も実際に想像しなかったのだから、これは非常に異様だ。物理学者達が素晴らしい直観で作り、数学者達から見て興味深いけれど幾分無頓着な方法で使用した数学的ツールを理解したいだけの願望だった。

歴史的観点から20世紀はどのように見られると思いますか? 重要な世紀だったでしょうか?

重要だったと思う。今世紀の数学は、おそらく以前には見られなかった規模で、種々異なった分野を調和させ統合することに成功した。この統合で最も傑出した役割は集合論によって果された。新しい数学の章"無限論"として最初にカントールによって考案された集合論は、徐々に地位を変え、普遍的数学言語に発展した。基礎的な術語と操作の非常に小さなリストで始まり、微積分、確率論、数論、トポロジー、微分幾何学等の開祖の直観を上手く平等に伝える言語学的構成を再帰的に生成出来ると理解された。このように数学コミュニティ全体が共通イディオムを得た。更に、一方で数学的構成の集合論的及び幾何学的内容と、他方で柔軟な言語学的記述(記号、式、計算)の両者の間を明確に区別して、個体としての数学者すべての右脳と左脳の間の相互作用を集合論は大いに簡潔にした。この集合論的言語の二重機能は、研究プログラムの体系化と同様に古い問題の解決のための新しいテクニカルなツールの開発に対する基礎となった。数学の多様性は先ず第一に外部の社会現象につながった。つまり、一般的に科学コミュニティの急な増大と物理学における画期的な発見。私見では、最近の百年の数学は、私達の世界観の変革という観点から見て量子力学または一般相対性理論に比較出来るようなものを作らなかった。しかし、数学言語が無ければ、物理学者達は何を理解しているのかさえも言えなかったと私は思う。物理学的発見と数学的思考方法、すなわち数学言語(この中でのみ、これらの発見が記述可能である)の両者間の相互関係は非常に素晴らしい。この意味で、確かに20世紀は偉大な大発見の世紀として考えられるだろう。

私達の世紀が実際にトップレベルだった特定のトピックスを思いつきますか?

18世紀と19世紀では、数学言語は私達が慣れているものよりもずっと曖昧だった。20世紀は基礎を再考することから始まったと思う。基礎が十分明確になった時、私達の幾何学的直観を他領域へ展開し拡張する強力なツールの作成につながった、信じられないほど強度さを持つテクニカルな手法の大がかりな探求があった。トポロジー、ホモロジー代数、代数幾何学を私は考えている。テクニカルな発展がなされると、すぐに多くの非常な難問の解決がここ30年の期間にあった。例えば、ドリーニュのヴェイユ予想の証明、ファルティングスのモーデル予想の証明、ワイルズのフェルマーの証明。数学が十分に発展していなかったのだから、前世紀でこれらの問題すべては解決されるはずがなかっただろう。

一部の人達―彼等の一部は数学者―が、部分的にコンピュータの全世界的な有用性を考慮して、証明の終焉を表明しています。これについて、どうコメントされますか?

証明なしの数学を言っているのなら、本質的に矛盾することを言っている。証明が死ぬはずがなく、数学とともにのみ存在する。だが、人類文化の一般に認められた部分としての数学は死ぬ可能性がある。私達の世代においては、私達が理解している数学を数学者達はまだやり続けると私は信じる。証明は思考の真実を知る唯一の方法だ。すなわち、私達が見て来たことを記述する唯一の方法だ。証明は仮想敵を納得させる単なる議論でない。全く違う。証明は数学的真実を知らせる方法である。他のすべて―直観の飛躍、突然の発見の喜び、根拠が無いけれども強い信念―は個人的事柄のまま依然として残る。コンピュータ計算を行う時、チェック済みの実例において事柄が見て来た通りであることを証明しているに過ぎない。

ごく最近、可能な戦略すべての完全サーチを実行することによってコンピュータがハーバート・ロビンズ予想を証明してしまったという記事が新聞でありました。

勿論、これは可能だ。そうでないことがあろうか? いかなる拡張サーチ、あるいはいかなる長い形式的計算を含む証明の良い戦略を創案し、後でこのサーチを実装するプログラムを書き終わったならば、完璧にオーケーだ。だが、コンピュータが証明を援助しなかったことと同様に、コンピュータが証明を援助したことは良くも悪くもなり得る。良い証明は私達を賢くする証明である。証明の心臓部が大部なサーチまたは身元の長い文字列ならば、おそらく悪い証明だ。何かが非常に孤立しているのでスクリーンまたはコンピュータ上に結果をパッと出現してもらうことで十分ならば、おそらくやる価値が無い。知恵は連結物に生きる。手計算でπの最初の20桁を計算しなければならないのならば、私が知っていたπに対する公式が20桁を算出するのに大変時間がかかることを分かっているので、確かに私は後でより賢くなっている。たぶん私の骨折りを最小にするアルゴリズムを工夫するだろう。だが、他の誰かのライブラリプログラムを使用してコンピュータからπの200万桁を得るならば、以前そうであったように私は非常な馬鹿のままだ。

もし貴方が美しい定理を持っていて、それには同等に美しい証明があるが、一千ケースの計算を必要とするならば、コンピュータにそれを任せることはいやでしょうか? これは誠実な証明でしょうか?

論文に書かれた証明に対して私が持つであろう同じためらいのある誠実な証明だ。プログラミングの中でミスはあり得る。計算の実装の中でミスはあり得る。最後には、すべてのケースの分類の方法等の解釈の中でミスはあり得る。それらの証明の実例を私達は知っている。四色問題と有限単純群の分類だ。両方のケースにおいて、膨大な数の組合せ的なものは部分的にコンピュータ計算によって処理された。従って、まだ疑いの余地があり、計算の再チェックの必要があるが、最も重要なことは新しい視点でものを見る方法を工夫することだ。

数学内部のことについて質問させて下さい。ここ数年、数学コミュニティは応用を重視しているようです。応用数学と比較して、純粋数学は問題があると思いますか? 将来、資金は応用分野のみに行くという印象を持ちますか?

純粋数学よりも応用はずっと資金を求め、獲得している。だが、限られたリソースの割り当ての観点から見れば、実際には資金の問題ではないと思う。数学者達は大金を必要としないし、使わない。価値観に対する大衆の受けと規模の問題だ。私達の社会で啓蒙時代の価値観からの乖離が増大していることを見ているし、大衆は数学、一般的にはおそらく大学に消費したくないだけだ。数学―生贄になるのであれば―は、資金が応用に行くという事実ではなくて、この一般的プロセスの犠牲になるだろう。だが、量的なリソースが応用に割り当てられるということ、若い人達に対するこの種の職の魅力という観点から見れば、確かに応用への連続的なシフトがあるだろうと思う。応用数学はコンピュータシミュレーション―大規模コンピュータ、データベースプログラム、等々とつながっている。私はかってドナルド・クヌースの講演をロシア語に翻訳したことがある。ウズベキスタンでアル・ホレズミを記念とした会合があった。クヌースは愉快な声明で講演を始めた。彼の意見によれば、数学コミュニティに対するコンピュータの最重要性は、数学に関心があるけれどもアルゴリズム的知性を持つ人達が数学を好きになったことだ。今や彼等はしたいことを出来た。以前には、このサブカルチャーは存在しなかった。この議論を私はかなり真剣に受取ったし、将来有望な数学者達のコミュニティの中で、定理を証明するためよりもコンピュータプログラムを書くことに秀でた知性のサブコミュニティが存在することを私は信じる。前世紀で彼等は定理を証明したであろうが、近頃では彼等はしない。例えば今日のオイラーは例えば月の位置の表の計算に時間を費やすだろうから、ソフトウェアを書くために時間を費やすであろうと私は感じる。ガウスも同様にスクリーンの前に座って時間を費やすだろう。

応用数学の質問に戻らせて下さい。数学はしばしば成功しているが、コンピュータ科学の人達が最も栄誉を受けているというのは事実でないのですか? 典型的な実例はコンピュータ断層撮影です。私が今まで話した誰もがコンピュータ断層撮影の核であるラドン変換を知りませんでした。教育を受けた人達でさえ、これはコンピュータ科学の仕事だと考えています。

役立つと言って人の関心事を正当化しようとすることに固有の弱さがあることがポイントだ。役立つというのはエンジニアリングの世界である。量子力学(または半導体チップ、または何であれ)のどんなことを知っていても、一編の論文における式を理解しているのに過ぎない。それについて役立つことは何も無い。物へ実装され、エンジニアリングになって、役立つのだ。

数学者達は攻勢に出るべきですか? 世界に出かけ、"我等ここに参上"と言うべきですか? あまりにためらいがちなので業績を宣伝出来ないですか?

私はかなり孤独を楽しむ人なので、自分の意見を大衆に強制することは嫌いだ。私達が文化価値のあるものを作ると仮定して、文化を売るという一般的な問題があるけれども、良いものは何であれ、ともかくも日の目を見るだろう。それに対して支払うか支払わないかは大衆次第だ。もちろん、おそらく私達の一部はそれらが重要だと証明しようとしなければならないが、困難だと私は思う。レンブラントは貧乏人として全く惨めに死につつあった事実に対して、どのように主張出来たであろう? どのように彼は主張出来るだろう? 私は数学にとって何が大事なのか本当は分かっていない。同様の理由から、文化についてもそうであり、レンブラントの絵画が何についてなのか、何故彼は人々の肖像―彼がしたように―老人と背景を描いたのか、私達は実際分からない。何故それが重要なのか? 私達は分からない。それが文化の問題だ。つまり、"何故"とは言えないのだ。

数学の文化的役割は何だと思いますか?

私見では、人間文化の基本は言語であり、数学は特別な種類の言語学的活動だ。自然言語は、生存のために要求される不可欠なものを伝えること、感情を述べ意志を執行すること、詩歌と信仰の仮想世界を作ること、誘惑と信念、のための極端に柔軟なツールである。しかし、自然言語は、私達の増大する自然理解(現代文明の最も特徴的な特性)を習得すること、系統立てること、保持すること、のためにはそれほど良くない。アリストテレスは間違い無く、言語のキャパシティをその限界まで広げた最後の偉大な知性だった。ガリレオ、ケプラー、ニュートンの出現があって、科学における自然言語は、一方は天体表、化学式、量子場理論の方程式、人類ゲノムのデータベース、の中に符号化された実際の科学知識と、他方は私達の脳、の両方の間の高レベルな仲介者の役に格下げられた。科学の研究と教育において自然言語を使うことにより、それと共に価値観と先入観、詩的イメージ、権力に対する感情、ペテン師のスキルを伝えるが、科学的講義の内容に対して実際には何も本質的なことを伝えない。多少上手く整理されたデータの長いリストまたは数学、のどちらかによって本質的なすべてが伝えられる。この理由のため、数学が文化の最も注目すべき功績の一つだと信じているし、研究者及び教師のキャパシティの中で私の生涯の数学への没頭がまだ毎日の研究の終わりまでには畏怖と崇拝を私に残している。しかし、科学と人類の価値観についての現代的公開討論の状況では、私がこの信念を人に納得させるように擁護出来ないと思っている。

貴方は何故そんなに悲観的なのですか?

ただ今の語法の中で"文化"がまことに自己参照的な言葉になったことを思い出すことで、私の悲観の説明を始めよう。すなわち、文化の任意の定義が既存の文化的背景(たとえ、明示されていなくても)によって定義されていることは当然だと思う。これは、文化の客観的説明と評価が無い可能性を意味する。更に、文化についての任意の(命令的になっている)声明が文化の公的イメージを変え、従って文化それ自体を変えている。最も重要なことは、文化に関する現代的講義が政治的講義に大部分従属している。40年前チャールズ・パーシー・スノーが"2つの文化"の議論を始めた時、私達はこれすべてをほぼ気づかなかった。要するに、スノーの環境において(ギリシア語とシェイクスピアとは反対に)科学的知識が文化人の教育の漸進的部分として考えられていなかった事実をスノーは心配した。更に、人は公然と自慢げに彼または彼女のイメージを文化人と認められた。文化の現実内容を何が構成するのかについて歪められた公的認識の結果だとスノーは考え、公開討論と教育改革がバランスを回復するのに役立つであろうと希望した。

2つの文化の論題はまだ存在意義がありますか?

この考察の存在意義は私達にとって、ホメーロスとバッハ、ガリレオとシェイクスピア、トルストイとアインシュタインを進んで受入れて、スノーの理想的な正真正銘の文化に同意する能力次第だ。この能力は大部分失われていると私は思う。もっとはっきり言えば、多文化主義の大衆向けの考えが、多くの平等に妥当な文化のイメージを作っている。ヨーロッパの起源 と/または 培養の壮大な文化が他の地方文化と同位に置かれ、文化帝国主義とヨーロッパ中心主義のような軽蔑的な暗意により高水準を低くしている。環境保護論者達は、破壊的用途を科学と技術のせいにして、科学と技術の文化的アピールを更に低くしている。皮肉にも、科学者達が彼等の職を正当化するために採用した同じ議論が今や彼等に刃向かっている。脱構築主義者とポストモダニズムの講演の傾向は、少なくともガリレオとベーコンに戻って科学的真理を認識するという基本基準に確信が無く、広く恣意的な知的構築で置換えようとしている。この様にして、影響力を持つ多くの思想家達は、たんに無視するばかりでなく、現代文化の科学的対応物を攻撃的に却下している。この状況を私は嘆かわしいと思っているのかも知れない(既に思っている)。

数学の将来に戻って、貴方が"十分長生きするなら、これは私が見たいものだ"と言うような定理を個人としてありますか?

次に述べる理由のため、これは分からない。私の科学的キャリアの間に、複数回研究分野を変えているが、他の何かよりもっと面白い何かを見つけたのだから、分野変えはそれほど多くない。要するに私はすべてを興味深く思うが、すべてを同時に行うことはあり得ない。次に良い戦略は、複数分野を順番に試しにマスターしてみることだ。私がいつも関心のあった2つの主なことは、一方が数論で他方が物理学だった。だから、両分野ではいつも両分野で培った直観を使おうとしたと思う。数論での問題を理解することは物理学での問題を理解することに役立った。逆もそうだった。私の価値観の個人リスト上に、ルネサンスの言葉"多様性"が栄誉の場所を占めている。"多様性"―人生と世界の豊かさは様々な経験と思考に調和され、私達がまねようとする偉大な知性によって達成される。


ユーリ・イヴァノヴィチ・マニンはボンのマックス・プランク数学研究所教授

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)...

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ...

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections ...

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追...

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ...