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アンリ・ポアンカレ。科学の貢献での伝記

20世紀を代表する数学者は誰かと言えば、友人共も私もヒルベルトを挙げますし、おそらく多くの人がそう思っているでしょう。これはヒルベルトの数学的業績が他者を圧倒したからではなく、20世紀数学の方向性を特徴付けたことにあります。ブルバキ第三世代にいたPierre Cartier博士の言葉を借りれば「ヒルベルトは時代精神を反映した」からです。数学的感覚の鋭さや数学的業績の広さ及び深みから言えば、同時代のポアンカレの方が遥かに優っているのですが、1912年に亡くなっているので(現代の私達から見れば、享年58歳ですから早死と言ってもいいかと思います)20世紀を殆ど生きなかったこともあり、意外にポピュラーではありません。しかし、20世紀に活躍した数学者でも20世紀数学がヒルベルトの数学だったということに反感を持っている人が少なからずいます。日本では、明らかに故岡潔博士はリーマン、ポアンカレの方を高く評価しており、志村五郎博士も自伝"The Map of My Life"でヒルベルトの数学的センスを貶しています。
下辺な私如きが偉そうに論評したくはないのですが、常日頃思っていることを素直に書けば、リーマンやポアンカレの数学は「そこに数学的自然が見えている」人の数学なんだと感じます。岡潔博士が数学を箱庭に喩えた話を随筆に書かれたと聞いたことがありますが、まさにそういうことを指すのだと思います。
他にもポアンカレと同時代のグールサも本当に数学が見えていた人だと思います。ブルバキの面々がグールサの"Cours d'analyse mathématique"[数学解析教程]を不当(私から言わせれば)に貶し、新しい教程を書くんだということで数学原論が始まったのは有名な話です。もっと詳しく言えば、ストークスの定理をどう教えるべきかという問題を抱えていた故アンリ・カルタン博士が故アンドレ・ヴェイユ博士に相談した結果がブルバキ結成の一つの動機だったわけです。ですが、現在教えられている一般ストークスの定理が∫∂D ω = ∫D dωという形に書けることを最初に指摘したのは他ならぬグールサその人だったのです。しかしながら、その厳密な証明は(微分)多様体論の発展を待たねばならず、ずっと後の1931年に故ド・ラーム博士の論文で一般的解決を見たのでした。そして、ド・ラーム博士は1955年に秀抜な解説書"variétés différentiables"[微分多様体]を書いて、いわゆるド・ラーム理論を普及させました。そういう状況のなかで、私の考えではブルバキにはストークスの定理の理路整然とした解説を書くという目的がかなり早い時点で完全に失われたのじゃないのかと思います。だから、何の目的で書かれたのかよくわからない、しかも解説とは程遠い、全く陳腐な数学公式集とも揶揄される"多様体要約"の巻で申し訳程度に一般ストークスの定理を突っ込むしかなかったのだと私は考えます。
また一変数函数論においては、正則性に導函数の連続性を含めるのがコーシー以来の長い伝統で誰も疑問を持たなかった時代に、導函数の連続性を仮定せずに多角形上でコーシーの積分定理が成立することを証明したのもグールサでした。その証明もこれ以上簡単にはならないくらい簡潔で美しいです。こういうものを思いつく人は「そこに数学的自然が見えている」からだと思います。
友人共の話によれば、今の学部学生は(少なくとも私達の学生の時よりは)欧文文献を読まないそうです。ただ聞きかじりのブルバキ結成の動機の一つ、グールサは古いという評価を鵜呑みして"Cours d'analyse mathématique"を読んだことがない学生が殆どだと思います。そのくせ、日本では名著とされる故高木貞治博士の"解析概論"を読む学生は少なからずいます。"解析概論"が本当の意味で名著ならば、初版以来欧文訳の話が出なかったのは何故なのか(版権の問題は別にして)、皆さんは疑問に思ったことが無いでしょうか。この理由は数学界にいた人なら誰でも内心思っていることなんだろうと推測しますが、要はある意味でグールサからのパクリだからです(パクリという言葉が不適切ならば翻案と言い換えてもいいです)。もっと正確に言えば、全体の大凡はグールサから拝借し、証明等の細かなところには時々ピカールもしくはジョルダンから拝借しているように私は思いました(人によっては、ピカールからのパクリじゃないかと感じる方もいます)。ですから、"高木流"もしくは"高木色"というものが殆ど無いと言っても過言ではありません。もし、かってあれをそのまま日本が誇る名著として欧文訳を出していたならば、少なくともフランスでは笑い者にされていただろうと思います。私の想像では、おそらく高木博士も内心忸怩たる思いがあったから、少しでも独自色を出そうとして増訂2版でルベーグ積分を追加したのだろうと思います。しかし、これもご自分のルベーグ積分勉強のために書いたとしか思えない中途半端さです。また"解析概論"という題名も内容に即していませんし、完全に的外れです。つまり、グールサ等の解析教程に倣うのであれば何故微分方程式等にまともに触れないのか不思議です。ですから一番適切な題名は、私が付けるとすれば"微積分から初等函数論までの入門"だと思います。ここで誤解の無いようお断りしますが、下辺な私が偉そうに批判しているのではありません。私が言いたいのは高木博士は本質的に代数の人であって、解析関係の本を書くのは人選ミスだったということです。岡博士も高木博士に奨学金援助等のお世話になっていながら、グールサやピカールを読みなさいとは言っても"解析概論"を読みなさいとは言わなかったと大先生から聞いたことがあります。
さて、話をポアンカレに戻します。数学科の学部学生がポアンカレの名前に接するのは(多変数の微積分で微分形式を教えていなければ)、おそらく多様体論の講義でポアンカレの補題(つまり、星状定義域でdω = 0ならばωは完全形である)が最初だろうと思います。ヒルベルトの名前が割と早い段階で(例えば代数でのヒルベルトの基底定理や零定理)接するのとは対照的です。私が高校生の時に読んだ「科学と仮説」等を今の若い人が読むのかどうか知りませんが、それも読んでいなければ「ポアンカレって誰?」となるのも無理からぬところがあります。そして、ポアンカレがアインシュタインよりも早く相対性理論を発見していたかも知れない事実も知らないでしょう。そこで、ポアンカレとは何ぞやに簡単に答える記事はないものかと探しましたら、またしてもAMS Noticesにある"Henri Poincaré. A Life in the Service of Science"(PDF)を見つけ、私の知らなかった伝記的記述もあって面白く読みました。その記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月20日]
このペィジは2012年12月01日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

アンリ・ポアンカレ。科学の貢献での伝記
2005年9月 Jean Mawhin

以下は、ブリュッセルで2004年10月8日から9日に行われたポアンカレシンポジウムでの講演のテキストである。

1954年に科学コミュニティはアンリ・ポアンカレ生誕100年を祝った。当時、ポアンカレの名声は数学者の中で最高点ではなく、ヒルベルト精神が大部分の数学者の心で支配的だった。その頃物理学は量子論に関心が集まっていたから、ポアンカレの名声は物理学者においても最高点ではなかった。
それでも、ポアンカレの存在または名前が重要だった多くの所で祝典は大切だった。この祝典の報告は記念本として刊行され、ポアンカレの科学論文集の最後の巻に再作成された。
今年ポアンカレ生誕150年を祝うように、ポアンカレの人気は科学界で、素人衆においてでさえも新しい頂上に達した。ケイオス理論と特殊相対性の起源がポアンカレの名前と写真を最も人気のある科学ジャーナルにもたらした。だが、今年いろいろなアインシュタインに関する新しい本が既に多い文献表の中に加わったけれども、私達はポアンカレの詳細な伝記をなおも待ち望んでいる。ここでの講演は印象だけに基づく、人間ポアンカレと科学者ポアンカレへの入門である。

家族、子供時代、学習
ポアンカレは1854年4月29日にナンシーの大邸宅マルティニホテルで誕生した。マルティニホテルはドラッグストアに変わってしまったが、大通りとギーズ通りの端にまだ存在する。ポアンカレの家族はロレーヌで有名だった。父方の祖父Jacques-Nicolasは薬剤師で、父Léonは神経学者で医学部教授だった。そして、おじAntoni(フランス共和国の将来の大統領Raymondの父)はエコールポリテクニックの卒業生で道路と橋の監察官だった。ポアンカレの母、旧名Eugénie Launoisはアランシーの豪農の家族から嫁いだ。ポアンカレの妹Alineは有名哲学者Emile Boutrouxと結婚し、彼女等の息子Pierreは有能な数学者であり哲学者だった。
5歳の時の危険なジフテリアの闘病を除いて、ポアンカレの子供時代は時代遅れの本に書かれている話と類似する。妹及びいとこと一緒にポアンカレが作ったゲームは彼の果てしない想像力を示し、賢明な家庭教師は彼の素晴らしい記憶力を育んだ。ナンシーでの高校(未来のアンリ・ポアンカレ校)で、ポアンカレはすぐに最高級の生徒として注目され、上級学年の時には"数学の怪物"となった。文学と科学でバカロレア資格を得た後、"グランゼコール"入学試験のため数学でポアンカレが費やした2年の間に彼は有名になった。
エコールノルマルシュペリウールには第5番目の優秀生徒、エコールポリテクニックには第1番目の優秀生徒として認められたので、ポアンカレはエコールポリテクニックに通い、クラスの第2番目として卒業した。それから鉱山学校へ行ったが、そこでは結晶学がポアンカレの数学的好みに合い、群論への彼の変わらぬ関心を高めたのかも知れない。ソルボンヌでの講義出席を許可されなかった後、1876年8月にポアンカレはパリの科学学部から数学の学位授与証を受けた。
鉱山学校での最後の2年の間に、ポアンカレは数学で博士論文を準備した。1879年8月1日にボンネ、ブーケ、ダルブーを審査委員とする科学学部において、ポアンカレは論評した。博士論文は、常微分方程式に関するブリオとブーケによる古典的結果を偏微分方程式にまで拡張している。ダルブーのレポートは、結果と手法について非常に賛同的だが、書き方の明晰さについては冷淡だった。

キャリアと個性
ポアンカレは1879年4月にヴズールで採鉱技師として働き始めた。そこでの数ヶ月の間、危険なマニー抗を訪問した。マニー抗では坑内爆発性ガスの爆発が16人の労働者を犠牲にしていた。ポアンカレは鉱業部隊のメンバーとして一生休職中の身分(また昇格もした)のままだった。
ポアンカレの学問的キャリアはカンの科学学部で始まった。そこで1879年に解析学を教え始めた。2年後、パリの科学学部へ解析学講師として移った。引き続いて1885年に力学と実験物理の講師を、1886年に物理数学と確率論の教授を、1896年に数理天文学と天体力学の教授を任命された。また、エコールポリテクニックで天文学を、郵政電信学校で理論電気学を教えた。ポアンカレは経度局のメンバーだった。
ポアンカレの元学生達は、彼を華々しい教師としてよりも忠実な教師として描いていた。Robert d’Adhémarによれば:

最初から黒板は数式で覆われており、学生は異常なパワーの感触を持った。言葉は早く躊躇いが無かった。講義は非常に厳しかった。

Maurice d’Ocagneによれば:

ポアンカレは素晴らしい教師だとは言えなかった。秀抜な授業をするために必要な雄弁の才を彼は持っていなかった。

Léon Brillouinによれば:

彼がノートを置き去りにし、別の方法をやってみようと言って我々の前で黒板に改善しているのを何回も見たことがある。

Louis Bourgoinによれば:

1910年と1911年にポアンカレは平凡なパリ群衆を聴講に引き寄せる流行科学者だった。最初の講義の間、教室は満員以上だったが、急激に幸いにも群衆はすぐ減った。3回目の講義以降、ほんの少しの学生と少数の信奉者が残った。ポアンカレはいつも簡単な数式で終わり、想像に満ちた言葉に翻訳したが、それを私達は理解しなければならなかった。

Toulouseによる詳細な分析が43歳の人間ポアンカレに関する面白い情報を与えている:

ポアンカレは身長1m65cm、体重70キロ、腰が曲がり、太鼓腹である。顔は血色が良く、鼻は大きく、赤い。髪は栗色で、口髭はブロンドである。
彼は喫煙しないし、したこともない。
彼は人よりも風邪に臆病でもないし、神経質でもない。それでも、よく風邪を引く。彼は窓を開けっ放しで寝ない。
彼の身体所見で主要なことはいつも注意散漫であることだ。人が話しかける時に、彼は問題について答えている、または考えているけれども、人が言ったことに彼がついて行かない、または理解していない感触を持つ。
彼は自分が静かで親切に満ち、穏健な性格だと信じている。だが、彼は行動において、研究においてさえも忍耐強くない。
彼は自分の感情にもアイデアにも熱狂的ではなく、社交的でも信頼のおける人でもない。
実生活において彼は規律正しい。几帳面ではないが、その価値を分かっている。
彼は正確に話すが、幾分はにかみであることを知っている。従って、準備無しで公に話すことを避けている(科学的なミーティングを除いて)。スピーチをする前に、いくつかのセンテンスを準備するが、暗記しない。
彼はチェスをしないし、いいプレイヤーであるはずがないと信じている。狩猟をしない。

人気の雑誌L’Illustrationは1912年にこのイメージを堅固にした:

彼の首から上は、非常に素朴、穏やかで、上の空のように見え、芸術家はともかくも少なくともパリ人に見える新興学派の数学者と、気難しく自分の方程式に夢中な古典的数学者との間の通常でないバランスに位置している印象を彼は与えた。

驚愕の年
カンでの滞在は確かにポアンカレの驚愕の2年だった。1879年8月と1881年10月の間、ポアンカレはLouise Poullain d’Andecyと結婚した(彼等は3人の娘Jeanne、Yvonne、Henriette、続いて一人息子Léonを持った)のみならず、パリ科学アカデミー報告に3つの全く異なるトピックス(形式の算術、微分方程式の定性理論、保型函数)を扱っている20冊を超えるノートを送った。
2次及び3次形式の研究はシャルル·エルミートの研究によって意欲を掻き立てられた。エルミートは当時フランス数学界に君臨していた。エコールポリテクニックでポアンカレに解析学を教えたが、エルミートの評判はとりわけ数eの超越性の証明に負っている。3次形式の研究の中でポアンカレの非ユークリッド幾何学の導入は古き解析学者(エルミートはいつも幾何学を憎んでいた)をうんざりとさせたけれども、エルミートはポアンカレの研究に非常な反応を示した。エルミートはポアンカレにクロネッカーの作品("何事も省略せずに")を読むように勧め、書き方を改めるよう提案した(ポアンカレは無視したが)。
ポアンカレ自身はいかに保型函数を発見したか物語っており、私は乗合自動車の有名な話を呼び戻す積もりはない。保型函数(周期三角函数と2重周期楕円函数を拡張する)は、相同置換の離散群の作用の下でその値を回復する。楕円函数に対する長方形によって作られる、複素平面の対応する平面充填は、ポアンカレがロバチェフスキー幾何学の新モデルの中で"直線"と同一視した曲線により境界付けられた曲線図形に置換わる。著しい実例はエッシャーのいくつかの絵画に見られる。ゲッチンゲンでは、フェリックス・クラインがポアンカレのペースに追いつこうとしたが、結局ノイローゼになって研究者としてのキャリアを駄目にした。ポアンカレが新しく発見したいくつかの函数を"フックシアン"と命名したことに対して、クラインがフックスの論文に見られる啓示を認めるように叱責した時、フランス人数学者(ポアンカレ)は幾分皮肉的に次に発見した関数のクラスをクライニアンと呼ぼうと応じた!
この分野におけるポアンカレのモチベーションは、1880年の科学アカデミーの数学グランプリのためにエルミートによって提示された問題から来ている。すなわち、ある重要な方法で線型常微分方程式を改良せよ。
ポアンカレのこの問題に対する解答は、彼の考え方の性急な進化に従って、論文の提出、論文の撤回、補足論文の乱雑の連続だった。この滅茶苦茶な計画は厳かなアカデミーをかき乱し、注意深く書かれているが画期的ではない論文に対してグランプリはGeorges Halphenに授与され、ポアンカレには名誉ある記載のみだった。非ユークリッド幾何学の他にも、ポアンカレの研究の最初の流れのもう一つの構成要素はクロネッカーのインデックスだった。クロネッカーのインデックスは、微分方程式、3体問題の周期解、回転のスピードが増す時の回転流れの均衡形の分岐の特異点とリミットサイクルの研究において位相的ツールの使用の道を切り開いた。

エルミートの3人のスターとオスカー王賞
ポアンカレの他にも、2人の期待の新星が家庭志向の数学的理由として記述出来る事柄のためにエルミートの周りを回転した。最初の星はポール・アッペルで、エルミートの義理の兄弟ヨセフ・ベルトランの姪と結婚した。ベルトランは数学界で最も影響力のある一人だった。2番目の星はエミール・ピカールで、1879年の整函数に関する定理で既に有名であり、エルミートの義理の息子だった。憐れなエルミートは彼の奥方と権威ある義理の兄弟から圧力を受けた。奥方はピカールを、義理の兄弟はアッペルを支援した。エルミートはミッタク=レフラー(ヴァイエルシュトラスの元学生であり、フィンランドの"煙草王"の金持ち娘の旦那だった)に"エルミート夫人に聞かれると怖いので、小さな声で内緒に話すが、3人の数学スターのうち、ポアンカレが最も素晴らしい数学者だと私には思える。更に彼は私と同じくロレーヌ出身の感じのいい若者だし、私の家族をよく知っている"と手紙で書いた。
ソルボンヌでの空き地位の任命を巧みに画策して、エルミートは殆ど同時にアッペルには力学、ピカールには微積分、ポアンカレには数理物理と確率論の講座を任命することに成功した。同様のゲームは、科学アカデミーへの選出に対し数年後に発生した。ポアンカレは1887年、ピカールは1889年、アッペルは1892年に選出された。
1885年、ミッタク=レフラーの提案に従って、スェーデンのオスカー王2世は60歳誕生日を数学解析での重要な発見に最高級の賞を授けることで祝うことを決定した。それに倣う君主は残念ながら殆ど無かった。賞は金メダルと2,500金王冠だった。提出される論文は以下のトピックスの一つを選ばなければならなかった。

 1. 天体力学でのn体問題
 2. 超楕円函数のフックス一般化
 3. 1階微分方程式で定義される函数
 4. 共通群を持っている2つのフックシアン函数間の代数的関係

競争は完全にポアンカレの数学的好みに合っており、一番目の問題を研究することを決心した。"3体問題と運動方程式について"という題名のついた160ページの論文を1888年5月に送った。その研究は完全には問題に答えていなかったけれども、ヴァイエルシュトラス、エルミート、ミッタク=レフラーから成る委員会はポアンカレに賞を与え、"世紀の偉大なる数学者の一人である数学的天才の深淵で独創的な研究である。天体システムの安定性のような最も重要で難しい問題が、天体力学に新しい時代を開く手法を使って扱われている"と付け加えた。フランスの新聞はイベントを広くコメントし、ポアンカレはレジオンドヌールのナイトに選ばれた。
1889年の7月から11月までポアンカレの論文の印刷の間に、ミッタク=レフラーの若い協同研究者Phragmén(編集作業の責任者)が数学的に不明瞭ないくつかの部分を見つけた。ポアンカレの最初の説明は、9つの追加ノートで具体化された後、長い沈黙を守った。1889年12月1日の引越し通知の手紙の中で、ポアンカレは重要な結果を持っているエラーを認めた。すなわち、太陽系の安定性に関する結論は実のところ正しくない! その手紙がストックホルムに着いた時、楽観的なミッタク=レフラーは論文を含んでいるActa Mathematica発行物を既に配布してしまっていて、彼は発行物をスェーデンから回収するためにすべての駆け引きの手腕と影響力を駆使しなければならなかった。手書きの"すべての冊子は処分された"に反して、一冊が20世紀最後の10年間にストックホルムで再発見された。
ポアンカレは終に1890年に新しいバージョンの270ページ長の論文を送り、そのための印刷代を払わなければならなかった。それは2,500金王冠の値段よりも高かった! だが、災いの種は消えなかった。オスカー王のメダル自体が数年前ポアンカレの孫のアパートから盗まれた!
間違いを訂正する際に、ポアンカレはケイオス理論への道を開く、数学と科学のための金鉱を発見した。彼自身の言葉の中で:

これら2つのカーブで形成される図形と無数の交点(その各々が2重漸近解に対応する)を描こうとする時、これらの交点はネット、またはウェブ、または緊密な網目みたいなものを形成する。私が描こうとさえもしない、この図形の複雑さに行き当る。

後にポアンカレのもっと人気のある書物の中で、この発見の可能な結果を予言的に説明した:

初期条件の少しの違いが最終の現象の中で大きなものを作るかも知れない。

バタフライ効果が誕生したが、このバタフライを捕獲することはポアンカレにとって非常に痛い経験だった!

数理物理学
オスカー王賞に関連した研究の異常で荒れ狂った期間は、ポアンカレが数理物理学の教授職を全うすることの妨げとはならなかった。偉大なる講義者ではなくとも、彼は大変真面目な人だった。各学期毎に新しいトピックを選び、最優秀な学生に書かせたノートに序文を書き、編集した。すべてが刊行され、12巻よりも多く、古典物理学のすべて(流体力学、弾性、ポテンシャル論、毛細管現象、熱力学、熱理論、光学、電磁気)と確率論(ここでは発明の才と名人芸を披露した)をカバーした。
とりわけ、電磁波の伝播と無線電信の起源に関するヘルツの実験を入念に議論した。マクスウェル理論に関するポアンカレの本は特殊相対性の根源を含んでいて、彼はローレンツ変換を分析、矯正、ネーミングするようになった。ポアンカレは1905年に電子力学に関するノート(続いて長論文)を刊行したが、特殊相対性のすべての数学を含んでいた。科学史家はまだアインシュタインとポアンカレのプライオリティを熱心に議論しているが、最近のいくつかの発行物を追うならば、エルキュール・ポアロ[訳注: 余計なお世話かも知れませんが、この人物名を知らない人が身辺にいましたので念のために注意しておきます。アガサ・クリスティの推理小説に登場する主人公の名前です]が全ストーリーを暴く唯一の人かも知れぬと結論するかも知れない。不思議なことに、数学者ポアンカレはマクスウェルの電磁気理論を通して相対論的運動学にたどり着いたが、一方物理学者アインシュタインは公理的手法を使った。だが、ポアンカレがいわゆるミンコフスキー時空を予言したことは間違いない。
また1890年と1895年の間、ポアンカレは3つの長編論文を古典的数理物理学の偏微分方程式にあてた。ディリクレ問題を解くための抜本的方法を編み出して、この問題に対する無限に多い固有値の存在を初めて証明し、今なお偏微分方程式の現代的理論の基礎になっている、いくつかの不等式を導入した。
ポアンカレが出席した最後の科学会議の一つが、1911年10月30日から11月3日までブリュッセルのメトロポールホテルで開催された第一回ソルベ会議だった。ローレンツ、ポアンカレ、プランク、マリー・キューリー、アインシュタイン、ペラン、ランジュバン、ラザフォード、その他が量子論の最近の展開を議論した。この会議の間、ポアンカレは当時の物理学の主要課題、すなわち理路整然とした量子論の構築を主張した:

只今の議論の中で私の注意を引いたことは、同じ理論が時には古典力学に依存し、時にはその否定の新仮説に依存するのを見ることだ。証明の中で2つの矛盾する言明を用いれば、直ちにどんな命題でも証明出来ることを忘れるべきでない。

パリに戻り、1912年1月に、この最新のトピックに関する彼の最後の論文の一つを発表した。この論文は実験データの解釈で量子跳躍の必要性を示している。
1901年と1912年の間の49の提議で、ポアンカレは物理学でノーベル賞に最も多くノミネートされた科学者である。
実験物理学者に与えられるプライオリティ、スェーデン科学アカデミーでのミッタク=レフラーの敵対者、そしてポアンカレの早い死が彼の驚くべき受賞歴にノーベル賞が加わることを妨げた。

天体力学とトポロジー
1896年のティスランドの突然の死去の後、ポアンカレは上司ダルブーの求めで理論天文学と天体力学の講座を了承した。学界的関心事の中で、ポアンカレはプリマドンナのような行動を決してせず、組織の利益のためを考えた。再び、彼の講義は刊行された。回転流動体の均衡の形状についての1巻、摂動法を展開する天体力学、月理論、フレドホルム積分方程式に基づく潮流の研究に関する3巻セット、宇宙進化論の仮説に関する最終巻。だが、この分野で最も有名な彼の発行物は、1892年と1899年の間に刊行され、オスカー王賞によって認められた論文の拡大版である、不滅のMéthodes nouvelles de la mécanique céleste[訳注: 天体力学の新しい方法]だ。
世紀が変わっても、Analysis situs、すなわち代数的トポロジー(任意次元の幾何学的概念が付随する代数的構造の概念から推測される)に関する6つの長編論文のシリーズが発行された。そのモチベーションは非線型微分方程式と3体問題の研究から来たが、代数幾何学への応用と共に、それ自身のために理論は発展した。1892年と1901年の間に、ポアンカレは殆ど何もないところから代数的トポロジーの基本的ツールを作った。すなわち、基本群、単体ホモロジー、オイラー-ポアンカレ式、双対原理。ド・ラームコホモロジーすら概略を述べた。

任意の2次元コンパクト単連結多様体は通常の球面と同相である。

を証明した後に、ポアンカレは有名な予想を述べた:

任意の3次元コンパクト単連結多様体は3-球面と同相である。

これは今日、クレイ数学研究所の有名な7つのミリオンダラー問題の一つであり、ごく最近ロシアの数学者ペレリマンによって証明されたかも知れない。別方面では、ポアンカレは次元に関する現代理論を始めた。彼の死の年のお別れ論文の中で、2つの境界を反対方向に回す連続な面積保存写像に対する不動点定理を述べた。彼は証明が完全ではないことを分かっていたが、それを修正するための時間がないことを怖れた。1913年にGeorge D. Birkhoffにより修正され、一般ポアンカレ-バーコフ理論は最近ではハミルトン力学とシンプレクティク幾何学において活発な分野だ。

科学哲学とフランスアカデミー
技術的な研究の他にも、ポアンカレは大衆的な科学と哲学の雑誌に定期的に論文を発表した。数学におけるロジックの役割、集合論の誕生、数論の基礎、幾何学と力学、物理学の最近の発展を論じた。1902年に編集者フラマリオンは、有名なシリーズ、科学哲学ライブラリのために、この題材を集め編集せよとポアンカレを説得した。最初の巻、La Science et l’Hypothèse[訳注: 科学と仮説]が1902年に、続いてLa Valeur de la Science[訳注: 科学の価値]が1905年に、Science et Méthode[訳注: 科学と方法]が1908年に刊行された。死去の後の巻、Dernières Pensées[訳注: 晩年の思想]が1913年に出現し、中止された5巻目は2002年に刊行された。
4つのオレンジ色の表紙の本はよく再刊され、多くの言語に翻訳されて来た。機知に富んだスタイルで書かれており、それらの本は(鋭い皮肉と、パラドックスに対して断固とした好みを頻繁に示すことによって)通常の哲学的言葉で書かれている本とは異なる。多くの哲学者は、永遠に変化し続け且つ自己批判的な考えの方法(それは世界を一つのアイデアに閉じ込めることを拒否する)の本を理解するのは困難だと心の中で抱いて来た。科学主義は、"便宜"モデルのアイデアを擁護する一流の科学者(訳注: ポアンカレのこと)により批判されるが、彼の科学的業績をよく知る読者だけが理解出来るだろう。
それらの人気本はポアンカレに不必要な名声を与えた。フランスでは、初等学校と中等学校の世俗化が旧教派と急進派の間に緊張を発生させた。力学の運動の相対性を論じる間に、ポアンカレは以下を書いた:

絶対空間、言い換えれば、本当に動いているのか知るため地球が参照しなければならないであろう時点は実体を持たない。2つの命題、"地球は丸く回る"と"地球が丸く回ると仮定することがより便利である"は同じ意味を持つ。一方が他方よりいいとかは無い。

カトリック界では、これを協会によるガリレオ有罪判決を正当化したと考えた! 言うまでもないが、そのような意図を含む解釈を拒否することにポアンカレは時間とエネルギーを費やした。
長い伝統に従って、フランスアカデミーは科学的発見に称号を付けて来た少数の科学者を選出する。これらの科学者は、学術会議が発行する辞書のための科学用語の定義を書く事に協力的だ。ダランベール、コンドルセ、ラプラス、フーリエ、ベルトラン、ポアンカレ、ピカールはアカデミーのメンバーだった。1941年のピカールの死去以降、数学者はこの栄誉を受けていない。コミュニティはもっと称号に注意すべきことを示している。
アンリ・ポアンカレは1908年にシートナンバー24に選ばれたが、元々シュリー·プリュドムが占めていた。伝統に従い、1909年1月のアカデミーへの就任でポアンカレは、詩人(シュリー·プリュドム)に賞賛を表明しなければならなかった。その物語はAndré Beaunierの年代記の中で愉快に語られている:

名作家のように、脚本家のように彼は聴衆を惹きつけた。代数学はこの冬新しい流行になるかも知れない。現代一流の数学者は彼のスピーチを悪く取らなかった。時々、彼は何か他のことを考えている印象を与えたが、彼の今の冒険を思い出す時、明晰でもっとくだけた口調を取った。ページを読んだ時、非常に幸せのように見え、すぐに喜びを隠した。スピーチの終わりで、彼は非常に満足気にパイルの上に腰掛けた。

シュリー·プリュドムへの賞賛は、素晴らしいがよく知られていない小さな巻Savants et écrivains[訳注: 学者と作家]に再作製されている。その序文は科学者の活動に関するポアンカレのアイデアの最高の記述のままだ。シュリー·プリュドムは1839年にパリで生まれた。最初科学に魅了されたが、眼病のためエコールポリテクニックに入学出来ず、文学の学士を受けた。ルクレティウスを翻訳した後、詩と科学の統合化を夢見て、長い哲学的詩を書き、それが1901年に文学で初めてのノーベル賞を彼にもたらした。ポアンカレ自身が述べたように、ある意味でポアンカレは幸運だった:

数学の哲学に関してシュリー·プリュドムが長い原稿を残したことを聞いて人は吃驚するだろう。彼は最初から私のここでの出席を出来るだけ正当化しようとしていたかのように思える。

この予期しない助けを利用する代わりに、ポアンカレは入念にシュリー·プリュドムの詩と哲学を分析し、ある意味で彼自身の哲学概念を強調する結論を下した:

だが、私は中止しなければならない。と言うのは、哲学的語彙の中で"iste"で終わる言葉が余りにも多く、この無限さが私を怯えさせるからだ。本物の哲学者の心は戦場だ。これは、主人だけに部屋がある平和的君主政治ではない。

ポアンカレと大衆的関心事
有名なドレフュス事件はポアンカレが象牙の塔から出る、もう一つの機会を与えた。1894年フランス情報部は、パリにいるドイツ大使館付き陸軍武官へ送られた、秘密情報の送付を告げるメモを見つけた。手書きの明らかな類似性は、ユダヤ人のフランス将校アルフレッド·ドレフュスの逮捕となった。1895年にドレフュスは軍法会議で有罪と断言され、ギアナのディアブル島へ追放された。フランスはすぐにドレフュスの支援者と敵対者に分かれた。長く懸命な闘いの後、新たな公判が1899年にレンヌで行われた。有名な警察専門家Bertillonは、メモの筆跡学的分析の中で似非科学的技法と確率論を使った。彼は自身の証言を以下のように結論づけた:

私のデモンストレーションを形成する観察記録と合意書のコレクションの中で、疑いの余地は無い。そして、これは理論的のみならず事件解決の鍵となる確信であり、そのような絶対的確信から成立する信頼性の感触を得て、率直に言って、1894年のように今日私は誓って、このメモは被告の仕業と断言する。

そんな申し立ては持論としてポアンカレには耐えられなかった。Painlevéの求めで書かれ、法廷で読まれた手紙の中で、Bertillonの結論における確率論の使用に対してポアンカレは強く反発した:

そこには科学的特徴は何も無い。被告に刑が宣告されるのか私は知らないが、もし彼なら、他の証拠に基づくべきである。しっかりした科学的教育を受けて来た、偏見のない人々にとって、そんな議論が何らかの印象を与えることは不可能だ。

だが、再び軍法会議はドレフュスを有罪だと断言し、今回は環境を緩和した。ドレフュスは大統領による恩赦を得たが、彼の支援者は再度1904年に控訴を得た。ポアンカレはアッペルとダルブーと一緒に長いレポートを書き、以下のように締めくくった:

それらのシステムすべてが絶対的に科学的価値を奪われている。すなわち、
1. それらの疑問への確率論の応用は合理的でないため
2. メモの再構築が偽りであるため
3. 確率論のルールが正しく応用されていないため
一言で言えば、著者が偽りのドキュメントを基にして議論して来たためである。

このレポートの結論は、法廷の判決を例証としている21の理由をページいっぱいに抜き出して、ドレフュスの無実を断言し、彼の名誉と権利を回復した。
他の同時代の科学者(例えばパンルヴェ、アダマール、ボレル、ペリン、またはランジュバンのように)と対照的に、ポアンカレは必ず何らかの政治的関係または務めを拒否した。1904年に、Revue bleueの質問に答えて、ポアンカレは政治について感情を例のごとく皮肉なスタイルで述べた:

最近、政治は人を完全に消耗する職業である。政治に打ち込みたい科学者は職を辞するべきである。科学者が国に役立ちたいと本当に思うのであれば、共和国の政務に時間の半分を割くべきだ。科学者が自分の議席を保ちたいなら、選挙人の関心事にもう半分の時間を割くべきだ。科学者にとって何も残らないだろう。従って、すべての科学者が議会を狙うのであれば、その時には科学者はもういないだろうから、不適当だろう。随時、私達の中の(大衆または集会でもっと理解されている)一人の犠牲を諦めて受け入れられるか、または国と科学自体のためと喜ぶことさえ出来る。結局、科学はその利益を擁護する誰かを必要とする。

しかし、ポアンカレは科学の運営と組織での関係または務めを決して拒否しなかった。この点における彼の義務のリストは長い2ページを網羅する。天文学者J. Levyは、それらの活動(特にポアンカレの最後の10年)によって失われた時間について遺憾を述べた:

今から人は、彼が誠実に受け入れる、ますます重い義務が彼の研究に磨きをかける時間を与えないことを後悔するはずだ。彼は、承諾するよう懇請して来た、いろいろなアカデミー、協会、評議会、委員会にベストを尽くしている。彼は自分の尺度に合わない仕事で消耗している。例えば、キトでの子午線改訂の編成のための委員会の会長として、1900年から1905年まで彼は自身で相当するレポートすべてを書いている。1900年には雌ラバを買って出来る節約高、1902年にはインド人による測地線シグナルの破壊の矯正に取られるべき測量、1905年には探検隊によって発見される昆虫のカラー図鑑の再製を論じている。

彼の信望と非常に大きな魅力は、彼にいつも魅了されて来た大衆の需要に対して、報道物の部数を足りなくさせる。異常に雨の多かった1910年がメディア内で彗星の通過と関連付けられた時、ポアンカレは、よいワイン(水ではなく)の生産に繋げる伝統に言及し、ユーモアで以て彗星の存在に答えた!

ポアンカレと科学
浅はかな読者の何人かは、科学についてのポアンカレのアイデア、つまり彼の言うところの規約主義と、科学についての懐疑主義を混同している。彼の活動について、これまで言って来たことのすべてが、そんな言明を否定し、科学的活動についてフランス人数学者(訳注: ポアンカレのこと)の深い感触と完全投入を証明している。エミール·ボレルが1954年に書いたように:

何人かはポアンカレを懐疑論者と考える一方で、その他は彼を公理的手法の先駆者と考えて来た。だが、何らかの学派に置かれることを彼は拒否していたであろう(たとえ、その学派が彼の考えに倣っていても)。彼にとって、科学者のモラルは通常の倫理が禁じることだけに集約されるだろう。目的が手段を正当化するのだ。目的は宇宙の知識であり、公式から導き出される数値結果と、観察記録の中で物理学者と天文学者によって書かれる数値の一致である。数学者にとって手段とは、数学者自身の便宜で作る権利を持つ公式と言葉だ。

ポアンカレは科学の自由について強い感情を述べた。1909年、ブリュッセル自由大学の75周年で名誉博士号に称された時、彼は言った:

科学者にとって自由は、動物にとって空気と同じ関係である。この自由が奪われると、酸欠の鳥のように、窒息で死ぬ。そして、この自由は制限があってはならない。もし制限を課したいのなら、半端な科学だけを得るが、半端な科学はもはや科学ではないからであり、必ず偽科学になるからである。考えは、何らかの教理、政党、激情、利益、先入観、実際には考え自体による事実を除いて、何物にも従属されてはならない、と言うのは、科学にとって従属されることは死ぬことを意味するからだ。

最後の文節はブリュッセル大学の主要建物の壁に再製されている。
ポアンカレは科学活動の美的モチベーションをよく主張した:

科学者は、自然が役立つから研究するのではない。自然を喜ぶから研究するのであり、そして自然が美しいから研究するのだ。自然がもし美しくなければ、知る価値が無いであろうし、自然がもし知る価値が無いのであれば、人生は生きている価値が無い。当然、五感に突き当たる美しさ、質と外見の美しさをここで私は語らない。だからと言って、そんな美しさをとんでもないからと軽視したりはしないが、科学とは関係が無い。私が言いたいのは、美しさは部分部分の調和的順序から来て、純粋な知性が掴むことが出来るのである。

ポアンカレの数学的考えのいくつかは、現代芸術のいろいろな流行にヒントを与えて来た。
科学の応用に非常な貢献をしたポリテクニックの卒業生であるポアンカレは明確に基礎的研究の本格的長期投資を主張した:

科学者は実用的な目的の実現をいい加減に考えてはならない。科学者はおそらく実現するだろうが、更に実現すべきだ。研究している特殊な対象は、この大きな完全体(これが活動の唯一の動機であるべき)の一部分に過ぎないことを忘れるべきでない。科学は驚く応用を持つが、応用だけを念頭に持つ科学はもう科学ではなく、料理法だ。

それらの言葉は、今まで以上に重要になっている。公的権威の度重なる辞職の犠牲者、科学はますます短期収益による支配的経済力に自由を脅かされ、基礎的研究は意思決定者と予算局の心の中で発展と同一視されている。

結末
1912年7月17日、手術後の塞栓症でポアンカレが急死した時、科学界は彼の遺産からの恩恵に備えるどころではなかった。偉大なフランス人数学者ジャン・ルレィによると:

殆どの人は彼について行けなかった。彼は弟子を持たなかった。1世紀の数学研究の後、私達は彼の考えをより簡単に理解出来、それらをもっと馴染みのある方法で語れる。だが、それらに近づけば近づくほど、ますます感心し尊敬する。

もう別の偉大なフランス人数学者アンドレ・ヴェイユはポアンカレの研究の現代的側面を主張する:

多くの他のことと同様に、この点において、ポアンカレの研究が我々の科学史に属するのみならず、今日の最も鮮明な数学にも属していることを私は示したと願いたい。

私は最後の言葉を有名な数理物理学者ダヴィッド・ルエールに任せる:

限界が知られているツールを用いて、数理物理学は未知の複雑性の世界を理解しようする。これは大胆さと謙虚さを要求する。明らかにアンリ・ポアンカレはこれら2つの性質のどちらも持たなかった。

謝辞
(省略)[訳注: 面白くもなんともないので]

参考文献
(省略)[訳注: 誰も見ないと思いますので]

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