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ロシアにおける数学の悲劇

皆さんはルージン事件というものを聞いたことがあるでしょうか。数学に何らかの関係を持つ人なら名前だけは聞いたことがあるかも知れません。かく言う私もスターリン時代の気の毒な事件くらいにしか考えていませんでした。ところが、昨年の夏にたまたま或る空港で友人共の一人に出会い、ちょっと喫茶店でよもやま話をしました。その最中にルージン事件という言葉が友人から出て来たので、私はスターリン時代の気の毒な事件だろう、昔君等が騒いでいたから知っているだけで詳細については何も知らないと答えました。呆れ顔の友人はとにかくこれだけは最低読めと言って教えてくれたのが、S. S. Kutateladze博士の"The Tragedy of Mathematics in Russia"でした。一読して正直驚きました。詳細は以下を読んでいただければ分かる通り、登場人物がアレクサンドロフ、コルモゴロフ、ポントリャーギン等、20世紀を代表した数学者達が関与していた事実に私の気持ちは一時かなり落ち込んだことを白状します。ともかくも、この記事の私訳を載せておきます。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2013年03月06日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

ロシアにおける数学の悲劇
2011年5月30日 S. S. Kutateladze

概要
これは、いわゆる"ルージン事件"における数学者たちの役割の概観であり、並びに事件の数学的、人道的原因の分析である。

ニコライ・ニコラエヴィチ・ルージン (1883–1950)はモスクワ数学学派の開祖の一人だった。そのリストは、P. S. アレクサンドロフ (1896–1982)、A. N. コルモゴロフ (1903–1987)、M. A. Lavrentiev (1900–1980)、P. S. Novikov (1901–1975)のアカデミー正会員、L. A. Lyusternik (1899–1981)、A. A. Lyapunov (1911–1973)、D. E. Menshov (1892–1988)、A. Ya. ヒンチン (1894–1959)、L. G. シュニレルマン (1905–1938)の準会員、そして多くの数学者を含む。
シベリアでの数学の発展の顕著な役割は、コルモゴロフの弟子のアカデミー正会員A. I. Maltsev (1909–1967)とA. A. Borovkovと同様に、ルージンの直弟子のLavrentievとLyapunovによって実施された。

ルージンに対する事例
アカデミー正会員ルージンの事例に関する、悪名高きソ連科学アカデミー緊急委員会の短い完全議事録[1]の公開後の1999年にロシア数学コミュニティは津波に襲われた。すぐに、ソ連での当時の数学的現実に関するG. G. Lorentz教授 (1910–2006)の個人的証言を暴露した記事[2]が米国で出現した1。1936年7月3日の新聞プラウダの記事"ソビエト市民の顔を持つ敵"が発表された後に、ソ連科学アカデミー幹部会によって"正会員ルージンの事例に関する聴聞"委員会が行われた。
ルージンは、科学における理論的に可能な限りの不義の実例で訴えられ、"モラルの無節操性と深く隠された敵意を持つ科学的不誠実とソビエト実生活すべてに嫌悪されている"というレッテルを貼られた敵対者として描写された。彼は"科学的なつもりの論文"を発表し、"弟子達の発見を自身の業績として宣言することに羞恥を感じない"、"黒百人組"[訳注: 極右集団]、正統派、"少しばかり現代的なファシスト型"の君主政治のイデオロギーにほぼ近いと称された。風刺文の終わりは以下のように読める:

ソビエト科学コミュニティは、お前から誠実な科学者という仮面を剥がして素っ裸のままにし、"純粋科学"のために戦うふりをしているけれども、元々のボス達(現ボスはファシスト科学)をなだめるために科学の利益を売買し、科学を裏切る卑劣人として、お前は世界の面前に出頭する。敵が武器を捨てず、もっと巧みに偽装し、擬態の手法がもっと変化し、全ボルシェヴィキ[訳注: レーニンが率いた党派]と全ソビエト市民の要求特性は依然として要警戒のままだという、もう一つの教訓としてソビエトコミュニティはアカデミー正会員ルージンの話を了解するだろう。

年配層のロシア科学者全員がプラウダ紙の社説と"ルージン主義"の残酷な死を知った。ルージンの信用を落とすためのキャンペーン開始がソ連の党と弾圧組織の混成によって実行されたことは明らかだった。キャンペーンの舞台裏には、スターリン主義時代の親衛隊の典型であるE. N. Kolman (1892–1979)とL. Z. メフリス (1889–1953)の不気味な人影があった。前者は共産主義者連合党(ボルシェヴィキ)のモスクワ委員会の科学部門長、後者はプラウダ紙の主任編集者だった。
ルージン事件は長い間スターリン全体主義の一般的悪事の状況内のみで考えられていた。新しく公開されたファイルは新しい状況を一般市民に知らせて来ている。すなわち、ルージンの一部の弟子達は彼等の先生に対する政治的攻撃の活動的な参加者だった。彼等の内でも主要な役割は、モスクワのトポロジー学派を率いたP. S. アレクサンドロフによって実施された。
S. P. Novikov2は回想記の中で以下のように書いた(cp. [3, p. 45]):

その当時、調査は私の父によって始められた(どうやらLyusternikとLavrentievと一緒に。後者は党内事情に詳しかった)。彼等はP. アレクサンドロフから影響力を持つ或る男、名前だけはKhvorostinへの手紙があることを知った3。この手紙はルージンの不快な行為を語った。Khvorostinはサラトフに住んでいて、党中央委員会内部に強い関係を持っていた。アレクサンドロフはルージンを憎んだが、それは誰もが知っていた。父達が推測した通り、党中央委員会に資料を提出し、記事を開始したのはKhvorostinだった。アレクサンドロフはビリヤードの達人だった!

ルージンはP. S. アレクサンドロフの激しい非難(それは解析的集合論へのルージンの貢献の変化を狙った)に困惑した(cp. [4])。現在、解析的集合を実数のボレル部分集合の連続像と俗に呼んでいる。これらの集合はアレクサンドロフとススリンの名前に関連付けられて、A-集合またはススリン集合と呼ばれる。P. S. アレクサンドロフは1936年7月6日の聴聞委員会で以下のようにコメントしたことに注意しよう(cp. [1, p. 90]):

ススリンがそれをA-集合と呼んだ。だが、彼は私に敬意を表して、そう呼んだと言わなかった。

1979年のアレクサンドロフの回想記では、全く反対のことを主張した(cp. [6, p. 235]):

私が構築した集合論的演算をA-演算(演算の閉集合への適用から結果する集合をA-集合をと呼んでいる一方で)と呼ぶことをススリンが提案したのは正にその時だった。やがて、彼は、その頃B-集合と習慣的に呼ばれていたボレル集合との類似から私に敬意を表して、この用語を提案したと強調した。

A. P. Yushkevich (1906–1993)が死の直前に語った、A-集合の発見に関する不思議な関連エピソードがあった(cp. [5]):

1970年代後半の私達の頻繁な打合せの間、私は何度もアレクサンドロフにA-集合の発見の歴史について訊ねた。或る日彼は私に電話をかけ、彼が一人でいるであろう時間にアパートへ来るよう指示した。私は呼び鈴を鳴らさずに待合室に入らなければならず、アレクサンドロフはドアと正反対の椅子に腰掛けていたようだ。すべてが計画通りに発生した。彼の話は長たらしかった。私はそれを筆記した。翌日、私は筆記をタイプライターで打ったテキストを持ち込み、語ったことと完全に一致するとアレクサンドロフは言ったが、彼が生きている間に記録は公表しない条件を規定した。1982年にアレクサンドロフが死んだ時、コルモゴロフにアドバイスを貰おうと決心した。テキストを聞いた後で、公表することはまだ早いとコルモゴロフは言った。今やアレクサンドロフもコルモゴロフもいないし、アドバイスを貰うべき誰か他者もいない。私はアレクサンドロフの語りを封筒へ密封し、献呈の辞(A. P. Yushkevichより寄贈。彼の死から10年後の時のみ開封のこと)を付けてアレクサンドロフ基金の寄託のため、それをソ連科学アカデミーアーカイブに置いた4

聴聞委員会で非常に活発だったのが、A. N. コルモゴロフ、L. A. Lyusternik、A. Ya. ヒンチン、L. G. シュニレルマンだった。ルージンへの政治的攻撃は委員会のメンバーS. L. Sobolev (1907–1989)とO. Yu. Schmidt (1891–1956)に力強く支持された。A. N. Krylov (1863–1945)とS. N. ベルンシュテイン (1880–1968)はルージンに対する力強い擁護に勇気を見せた。聴聞委員会の公式回答の最後の節は以下のように読める(cp. [1, p. 296]):

科学アカデミー所有のおびただしい資料的証拠を合算して、上述のすべてがプラウダ紙でのルージンの特性を認識する。

私達が議論する1936年の事件の参加者全員がこの世を去った。委員会のファイルがすべて無事でそのままということを彼等はどうやら知らなかった。現在、私達は聴聞委員会で何が起こったか、事件の全貌周辺を詳細に知っている。数学コミュニティは苦しみながら事件を再認識し、ルージンの政治的処刑における弟子達の役割を再考する。

ルージンの弟子達の役割
P. S. NovikovとM. A. Lavrentievはルージンに対する公開迫害の参加者でなかった(聴聞委員会で両人はルージンから搾取された人達の中にいると言及されたにもかかわらず)。ルージン生誕90年記念の際のロシア数学概観において、M. A. Lavrentievが記念記事[7]の単独著者である理由が判明する。彼はこの記事を科学と生活の一般問題に関する彼の論文集[8]にも含めた。M. A. Lavrentievはルージンの死後、生誕70年記念の際にソ連科学アカデミーの決定により出版されたルージン選集編纂委員会議長だった。P. S. アレクサンドロフとA. N. コルモゴロフは編纂委員会にはいなかった。
P. S. アレクサンドロフとA. N. コルモゴロフが言った、ルージンとの関係に関するコメントは事実上同じである。彼等の声明は彼等のいろいろな弟子達によって或る程度まで共有されている。ルージンは彼の弟子達が迫害したほどの偉大な数学者ではなかったと強調するのが慣わしとなっている。或るモラルのおちどはM. Ya. ススリン (1894–1919)の発疹チフスによる早すぎる死を永続的にルージンを罪に陥れる。少なくとも部分的にはルージンの災難はしばしば自らの責任だとされる。わざとらしさ、他人の成功へのねたみ、偽善、剽窃、興味の傾向のような性格の特性を彼は持つとされる5。彼はすべての罰を受けるのに値する、すべてではないにしても、それはスターリン主義と時代の呪いであって弟子達の責任でないと言われる。これらの議論は年配層のみならず若年層の心の中にある。これらの議論のうちでも、もっとも秀でた意見はルージン事件を参加者全員の相互の悲劇だと考えることだ。
しかし、私達はモスクワ学派の悲劇と国の数学コミュニティの悲劇からルージン個人の悲劇を区別するべきだ。先生迫害に参加した弟子達は彼等自身の運命を悲劇と考えなかった。
P. S. アレクサンドロフは回想記で以下のように書いた(cp. [6, p. 90]):

ルージンが若く創造的な時に彼を知り、私は本当に素晴らしい先生であり、科学によってって科学の名においてのみに生きている学者と知り合いになった。卑劣な亡霊または精神には禁じられる、崇高な人類の宝物の圏内に住む人に出会った。一人の人間がこの圏を去る時(そしてルージンは一度この圏を去った)、その人間は以下のようにゲーテによって描かれた力に降伏する運命にある。
貴方は我々を活気に導く。
そして、活気のない者を有罪にし、苦しみの中に彼を見捨てる。
この世の恩義のあだを討つために6
ルージンは末期にゲーテによって描かれた報復の不毛な器の底を見た。

ルージンに敵意を持つA. Ya. ヒンチンは、ルージンがM. Ya. ススリンを死へ導いたことについて以下のようにコメントしたことを述べる価値がある(cp. [5, p. 391]):

ススリンはN. N. ルージンによって駄目にされた弟子と呼ばれる。もちろん、一人の人間が発疹チフスで死ぬ時、これは大変大げさな表現である。いやそれどころか、ススリンはおそらくイヴァノヴォで発疹チフスに罹った可能性があった。更に共通意見では、ススリンをイヴァノヴォから追放しようとしたのはルージンだった。しかし、その頃ルージンに敵意を抱いていないススリンを贔屓して、モスクワからイヴァノヴォへの転勤だと私は思う。

P. S. アレクサンドロフの思い出を語りながら、A. N. コルモゴロフは1982年に以下のように語った(cp. [11, p. 10]):

私の全人生はほぼ幸福に満ちていた。

彼もアレクサンドロフもルージン迫害の他の参加者もルージン事件をルージンと共通の悲劇だと考えなかった。この判断では彼等は正しかったが、彼等の言ったことと全く異なる理由においてだ。
仮にルージンが有罪なら、彼のおちどは先生と弟子の間の個人的な数学関係の圏内に属するであろう。ルージンの盗用の確固たる証拠は全く提出されなかった。彼がH. ルベーグ (1875–1941)のものとしたこと、またはススリンの結果を握ったままだったという疑いの訴えは全く口実であり根拠がない。ルージンの科学的不義を証明するために、ルージンの篩い法をルベーグの作とすることにより、彼がH. ルベーグにおもね、おべっかを使ったと称された。他方、H. ルベーグは解析的集合に関するルージンの本に以下のような序文を書いた(cp. [12]):

私が偶然篩い法を考案し、解析的集合を構築した最初の人だということをルージンの本から分かって誰もが驚くだろう。しかし、誰も私よりは驚かないであろう。ルージン氏は彼の発見を他の誰かのものとする時のみに幸福を感じる。

弟子は"ローマ法王よりもカトリック"だった7
いずれにせよ、明らかに世代衝突、すなわちルージンと最も成功する弟子達の間に不和と誤解の断崖があったと認めざるを得ない。数学的困難を征服することにルージンの本物または架空の弱点と同じく、弟子達を一例と述べることでルージンの本物または架空の不公正と先入観を決めてかかることは簡単だ。アカデミー正会員空席の選挙で、A. N. コルモゴロフ宛の個人的書簡でルージンがP. S. アレクサンドロフを支持したにもかかわらず、P. S. アレクサンドロフに反対票を投じたルージンの決定の中に偽善を見ることに私達は賛同してよい。ところで、ルージンの行いに学問的マナーの非典型または異常は何も無いではないか。それがルージン事件の本当の理由なのか。
ルージン事件においてソ連科学アカデミー委員会の聴聞会で"あからさまな黒百人組"と決めつけられた有名ポーランド人数学者W. シェルピンスキの以下の証言が入手可能である(cp. [13, p. 124]):

1935年6月7日付け(それは一年前だった)の書簡の中で、ルージン氏は"ススリンに権利は無いとした結果に関して彼への帰属に反対する非常に困難な自己防衛に今立ち返ると、この自己防衛は深刻で絶対的に差し迫った危険によって引き起こされたと私は言わなければならない。アレクサンドロフ氏は私を辞めさせることによってアカデミー正会員として科学アカデミーに入ることを夢見ている。この目的のため、私のアイデアすべてがススリンからの盗用であるので私がアカデミーメンバーの権利を持たないと主張することによって、私の貢献を見直しすることを彼は要求している。この見直しは非常に簡単で実行可能である"と書いた。私が1935年9月にモスクワにいた時、アレクサンドロフ氏は私にルージンの懸念は全く空想であること、元先生であるルージンを尊敬していることを請合った。私の面前でアレクサンドロフはルージンと握手し、ルージンの変わらぬ友人だと言った。

W. シェルピンスキによって書かれ、後にP. S. アレクサンドロフによって反駁されたP. S. アレクサンドロフとルージンの見せびらかしの和解と、アカデミー正会員としてのP. S. アレクサンドロフの選挙を支持することに対するルージンの拒否は決して同様ではない。この拒否は、A. N. コルモゴロフが公式には1946年にルージンの顔を平手打ちする理由だった、というのが一般的な意見だ8。L. S. ポントリャーギン (1908–1988)は1946年12月24日に以下のように書いた(cp. [16, Letter No. 49, pp. 89–91]):

声の調子はすべてを適切に描くことに本質的であるので、なるほど書かれるよりも語られることを、これは必要とする。夏に、コルモゴロフはアレクサンドロフの選挙に関する唯一の心配が選挙の4ヶ月前に明らかな候補者になったことにあると私に語った。Pusiks9はアカデミー正会員達といろいろな協定に入ったと言う意味で入念な準備を行った。例えば、ヴィノグラードフがアレクサンドロフを支持するならばコルモゴロフはLavrentievを支持するという約束があった。全体から見て全員がアレクサンドロフに投票するだろうと思われた。私は真実のために言わなければならない。例えば、ベルンシュテインはステクロフ数学研究所の会合でChebotarëvと同様にアレクサンドロフをノミネートした。コルモゴロフはアカデミーのボス達と彼が幹部委員会のメンバーになることで一致した10。最初の困った知らせは彼が幹部に任命されなかったことだが、これは既に本質的なことではないと彼は望みをつないだ。幹部委員会のセッションの後、候補者達を議論する全正会員の非公開会合があって、その段階でやっとコルモゴロフは幹部委員会のメンバーの誰もがアレクサンドロフを支持しなかったことに気付いた。対照的に、ベルンシュテインはアレクサンドロフの研究分野が有害であると主張して、力強く彼に反対した。ベルンシュテインの行為は私にとって非常に非論理的だと思う。おそらくPusiksと口論したのだろう。残りすべては非常に理解し易い。Lavrentievは何故か申し分の無い候補者を追い出し、おまけに彼は幹部メンバーでないコルモゴロフを支持する必要が無かった。従って、ヴィノグラードフはコルモゴロフとPusikに用は無かった。SobolevとKhristianovichに関しては、前者はステクロフ数学研究所の管理職からSobolevを追放したことでPusiksを憎んだが、後者はSobolevの悪友で連れだ。これらの状況で、成功の望みは無かった。残っている唯一の可能性は数学者の中で或る正会員がアレクサンドロフを支持することだった。と言うのは、物理学者達は彼を支持したかったが、なるほど数学者達すべてと対立出来なかったからだ。ルージンがPusiksの望みとなった。彼はKomarovkaへ招待され、支持を約束した。だが、最終非公開会合で彼はアレクサンドロフに反対と言った。この会合を去って、コルモゴロフは明らかに立腹し刺々した。彼はルージンのところへ来て、ずっとルージンとは関係が無いだろうと言った。ルージンは彼が何を言っているのか分からない振りをして、以下のことを話し始めた: "どうか落着いてくれ。気にするな。君は病気だ。リラックスしよう"。これは記述で語らなければならないことだ。それからコルモゴロフはルージンに答えた: "では私は貴方に何をするでしょうか。貴方の顔に唾を吐くか、それとも面を平手打ちするか?"。暫く考えて、コルモゴロフは後者を思い切って後者をした11

V. M. Tikhomirovは、P. S. アレクサンドロフ選挙直前のルージンとA. N. コルモゴロフの文通を公開した。1945年秋に、ルージンはA. N. コルモゴロフへ以下のことを書いた(cp. [11, p. 80]):

さて、もう一つの問題について。アカデミー選挙の時が近づいている。仮にアレクサンドロフが選ばれないとすれば、非常な不公正となるであろう。彼の研究、その反応は世界の文献のいたる所で出会う。彼の見事な熟成(円熟と英知と完全な魅力を持つ人としての彼自身の完成)の年々。これらすべてがくどくなる程の候補者(その活気がアカデミーにとってきわめて貴重だ)であると私達に理解させた。

選挙(ルージンは然るべき時に果した)に対する候補者としてP. S. アレクサンドロフを支持する以上のことを書いていないルージンの姿勢をA. N. コルモゴロフは過大評価した。
1945年10月7日の返信でA. N. コルモゴロフは以下のように述べた(cp. [11, p. 82]):

長年私はアレクサンドロフの選挙(私の考えでは大変重要な出来事である)を阻む恣意的で些細な環境を防ぐことに夢中になっているから、成功に必要な行動すべてを本当に望まれる時に進んでサポートする貴方の姿勢を私は非常に高く評価する。

明らかに、P. S. アレクサンドロフの候補指名より以上の選挙をルージンが支持するだろうと理由も無しにA. N. コルモゴロフは決定している。科学アカデミーや他の類似の研究所に対する候補指名と選挙が完全に独立した手続きであることは長年の伝統だ。
通常、A. N. コルモゴロフは激情に流されない穏やかな人と考えられた。従って、ルージンの顔を平手打ちすることに対して、コルモゴロフはどうやらルージンから特別な挑発を必要とした。それが1946年選挙におけるルージンの破廉恥な所見に関する、出所の疑わしい文書となった12。類似のバージョンは、個人的文通の中でV. I. Arnold (1937–2010)により言及された。topolozhstvo13に関して入手可能なヒントが"ルージン事件"の扇動者の復権のためにゴシップの中で書かれた1950年代の制作物だという可能性がある。だが、A. N. コルモゴロフの弟子達は彼の全く未知な個性の特性を表明した。V. M. Tikhomirovは以下のことを書いた(cp. [11, p. 83]):

…非常に不快な気難しさがあったことは注目されるべきだ。時々、彼は我を失った。

V. I. Arnoldは以下を証言した(cp [17, p. 50]):

A. N. コルモゴロフはそれほど人格者ではなかったし、Yaroslavl駅で警官と衝突したことも恥をしのんで話さなかった。

ルージンはA. N. コルモゴロフより20歳年長だった。ルージンはA. N. コルモゴロフの先生であり、ルージンに課せられた政治的告発(P. S. アレクサンドロフとA. N. コルモゴロフも参加した)の重荷を背負った。ルージンは"哀れみ"を与えられ、選挙前にKomarovkaのA. N. コルモゴロフとP. S. アレクサンドロフの別荘で受諾した14。会合に参加した誰もがルージンは生け贄にされ、高貴な勝利者に降参しなければならなかったという最も重要な問題を憶えていた。今や明るみに出ている。学問内部の問題、例えばルージンの不義及び盗用さえも、ソビエト実生活に反する破壊活動に関する告発と比べられるのか? これらは重要で苛出させる問題だ…
1936年7月13日に閉会するにあたって、アカデミー正会員で委員会議長であるG. M. Krzhyzhanovskiĭ(1872–1959)は特に以下のことを語った(cp. [1, p. 196]):

それから私達は次の問題を熟考しなければならない。今秋、選挙が行われるが、30の正会員、60の準会員の新しい空席があるだろうと示唆されている。アカデミー本体をリフレッシュすることになっており、9月の集まりまでに準会員と正会員に選ばれるべく推薦する人を各自が熟慮し決定しなければならぬ。これが当委員会の仕事の最良の結果となるであろう。

アカデミーへの選挙は1936年には行われなかった。大幅な選挙が1939年1月29日に行われたのみだった(cp. [23, No. 241, No. 242])。次の数学者達がアカデミーの数学及び自然科学部門に選ばれた。A. N. コルモゴロフとS. L. Sobolevは正会員となったが、A. O. Gelfond、L. S. ポントリャーギン、A. Ya. ヒンチンは準会員となった。

ルージンの同時代人の反応
ルージンに対するモラル告発すべてが非常に説得不足である。証明として提出されたものは委員会の時代ですら、P. L. カピッツァ (1894–1984)にとっても、V. I. ベルナツキー (1863–1945)にとっても、A. ダンジョア (1884–1974)にとっても、H. ルベーグにとっても、その他多くの人にとっても不十分だった。
カピッツァの異議は7月6日付けのV. M. モロトフ(ソ連人民会議議長)宛ての書簡で述べられた。V. I. ベルナツキーは彼の日記では翌日に知った(cp. [18, p. 92]):

ルージン、Chaplygin、フェルスマンへルージンに関する手紙。大衆は中傷と仄めかしが実証されたと思っている。ルージンは国内でなく外国にいる必要があるかも知れない。この全く不快な記事が彼に多大な影響を与えるだろうことを懸念する。多くの会話と多くの感想。

同日にベルナツキーはアカデミー正会員であり委員会のメンバーのA. E. フェルスマン (1883–1945)へ手紙を書いた。V. I. ベルナツキーは以下のことを書いた(cp. [18, p. 94]):

仮にルージンのアカデミーからの除名または同様な行為になるのであれば、そのようなエピソードは結局アカデミーにとって危険となるであろう。私達は滑りやすい斜面をころげ落ちるだろう。

そして、7月11日にS. A. Chaplygin (1869–1942)はV. I. ベルナツキーへ以下を書いた(cp. [19, p. 106–107]):

ルージンに関する記事は全く乱暴だ。仮に彼が学位またはタイトルの志願者を誤審したとしよう。だが、それからサボタージュの結論へどうやって飛躍出来るのか?! …記事から離れて、ファシズムとルージンがモスクワ反動的数学学派を囲っているという告発に関して言えば、私はこれらを全く理解出来ない。ルージンの業績に関して批判的な評価がある。だが、これに関して、著者達の無能(それはルージンの研究に関して乏しい皮相的な知識と正しい評価の意図的歪曲を証明している)さを公開しているのに過ぎないと私は言わなければならない。ルージンの権威は敵対するヒンチンのそれとは比べ物にならない。しかし、何を正しくなされるべきか? 私達はどのようにルージンを助けられるか? 私はまだ一つしかしなかった。私はルージンに電報を送った。そのコピーを添付する。"全く下らない新聞が貴殿を攻撃することに仰天唖然とさせられた。貴殿の高い世界的な科学的権威は揺らぐはずがない。貴殿の業績に関する信用出来ない批判に冷静に立ち向かう内なる力を貴殿が見つけるだろうことを私は強く希望する"。その他の類の全く根拠の無い告発についての言及は止めておく。

1936年8月5日のルベーグの書簡が無事である。H. ルベーグが傑出した数学的貢献のため1929年にソ連科学アカデミーに選出されたことを私は思い出す。現代数学に無くてはならない"ルベーグ積分"の作者、偉大なるルベーグは憤慨の極度にいた。彼は以下を書いた(cp. [13, p. 127]):

貴方はルージンへの攻撃がルージンを首にし、アレクサンドロフに空席を設けるために始まった時がつい最近ではなかったことを分かるだろう。そこでは"私の"科学(ブルジョアで役に立たない)とanalysis situs[トポロジー](プロレタリアで役立つ科学)を対比することで私が既に巻き込まれたことを分かるだろう。前者がルージンの科学だった一方で、後者がアレクサンドロフの科学だったから。おかしいことに、アレクサンドロフはウリゾーンの論文を受継いで第一歩を踏んでいるが、それは私のものと同じ立脚点である。ウリゾーンは私を引用したが、アレクサンドロフは一切私を引用して来ていない(ルージンに反対する闘争で私を悪く言わなければならないから!)の違いだけだ。

W. シェルピンスキのもう一つの証言は以下である(cp. [13, p. 125]):

元先生を卑怯な方法で敵対し中傷的に告発したアレクサンドロフ、ヒンチン、コルモゴロフ、シュニレルマンの態度は、立派な人が集まるどのような会合でも耐え難い、という意見を私とポーランド人数学者達は持つ。

政治的仄めかしと中傷の手法はプラウダ記事のずっと前に、年配モスクワ市民教授職に対して使用された。L. A. Lyusternik、L. G. シュニレルマン、A. O. Gelfond、L. S. ポントリャーギンから成るモスクワ数学協会の"主導グループ"とK. P. Nekrasovは以下を主張した(cp. [10] and [20]):

ソ連の厳しい階級闘争は右翼的教授会を反革命収容所に押し込めて来た。反動的教授会は、最近明らかになって来ている組織妨害と反革命派を率いた。OGPU15の賞賛に値する活躍のおかげで、巧妙に様々な口実(ソビエト権力へのよそよそしい忠誠から、ソビエト権力への大いなる影響力誇示まで)の出来る、全分野の科学的坊主の犯罪の漏洩がある。数学者のコミュニティにおいても、いくつかの反革命的行為が明らかになった。モスクワ数学学派の誰もが認めるリーダー、モスクワ数学協会の議長、数学研究所の元所長、科学アカデミーのモスクワ数学の候補者である、エゴロフ教授が反革命的組織への参加のために逮捕されている。まさしくそのエゴロフは学問的伝統の救済者であり、それに反対してプロレタリア学生本体が長い間格闘して来たが、その守りは事実上モスクワ数学者コミュニティの満場一致だった。

D. F. エゴロフ (1869–1931)はルージンの先生だった。D. F. エゴロフが逮捕される直前に、ルージンは大学を辞することが賢明だと決心した(後で、この辞職も弟子達に告発された)。
1970年代後半に記された人生記で、L. S. ポントリャーギンは以下を言った(cp. [21, p. 91]):

ルージンに関して1936年、選挙に関して1939年の2つの公的出来事は公的人間としての私が昇級する重要な段階だった。私の考えでは、どちらも正しい目的のための奮闘だった。

これはルージンの立場と全く矛盾する。ルージンは1934年にL. V. カントロヴィチ (1912–1986)宛ての書簡において、A. O. Gelfondによって署名された見っともない宣言の後で、来るアカデミー準会員選挙に対するモスクワのルージンの選択は"最近天才の価値ある発見をして来ているGelfondになるだろう"(cp. [22])と書いていた。
そして、1939年にルージンはV. I. ベルナツキーへ以下を書いた(cp. [19, p. 105]):

ウラジミール・イヴァノヴィチ[訳注: ベルナツキー]、数学での候補者はSobolevとコルモゴロフがいい。私は彼等に投票する。

ルージンと"ルージン主義"に反対する大がかりなキャンペーンは1936年にこの国中で拡大した(cp. [24, p. 757–767])。幸いにルージンは抑圧もアカデミー除名もされなかった。一部の歴史家はI. V. スターリンの口頭命令があったと意見する16。しかし、ソビエト市民の顔を持つ敵という烙印はルージンが死ぬまでの14年間、彼に突き刺さっていた。ルージンにのしかかった怪物は、絶対的にモラル不義の容疑告発とは比べ物にならない。

ルージン事件の数学的原因
ロシアの1930年代の数学の非劇の背景にある人間の感情と愚かさは明らかだ。愛と憎しみ、妬みと賛美、虚栄心と謙虚、高潔と出世主義、等。だが、数学的背景はあったのだろうか? いくつかの原因が見える。私達は単一性という議論の余地の無い概念を持つ極楽な世界を与えられている。真実の孤立は単一性の究極的証明として私達の先達によって認識された。この議論がユークリッドの第5公準を証明しようとする絶え間無い試みの背景にあった。何らかの人類的問題に関する単一最良解の一般的探究に対しても同じ理由だ。
数学は実験作業の範囲から開放されて来ていない。私達がまだ"明らか"と言って証明を完了するという単純な事実が理由ではない。自然科学に対するツールキットとして、数学的考え方は活動的で人気がある。これらのスタンスはスローガン"数学は実験的理論物理である"と表現されるだろう。双対的な主張"理論物理は実験的数学である"も劣らず人気がある。この短い道草は数学と自然科学における思想の密接な繋がりを指摘するために意図している。
宗教の教義と神学の原理もかなり数学理論の歴史に反映されていることを述べるのは意味がある。普遍的美と創造行為の調和という宗教的考えに基づいて、変分法は力学原理のより良い理解の探求の中で考案された。
20世紀は数学の内容に重要なゆがみを残した。数学的アイデアは人道的領域、特に政治学、社会学、経済学に流れた。社会的事件は原理的に変わりやすく、高度な不確定性を持つ。経済的プロセスは生産、組織、経営の広い範囲の許容手段を利用する。経済において非単一性が発生する。人類の本物の利益は矛盾にならないはずがない。唯一の解は、自明でない、どんな経済問題においても少数の仲介者間の商品流通に適用される自己撞着である。社会科学と人道的心理の実例が、生産と消費の最良組織、最も正当で公平な社会構造、合理的行動とモラル行動の規範、等のいろいろな仮設を偶然にも行使することはない。
20世紀は自由性の時代となった。多様性と単一性は集団主義と個人主義として対立した。生活と文化のいろいろな特別現象がそれらの違いを反映している。君主制と圧制の終結は議会制度と民主主義の高まりにより付随して起きた。量子力学とハイゼンベルクの不確定性は物理学に多様性を採り入れた。詩と芸術性におけるモダニズムの波も挙げられるべきだ。人類は居住と理想のすべての谷間を変えて来た。
数学において、多様性の探求は単一性と範疇性の圧倒的圧力の放棄に繋がった。後者のアイデアは事実上少なくとも古代ギリシアにはなく、絶対主義とキリスト教の時代に発生した。G. カントール (1845–1918)は"数学の本質はその自由性にある"と主張して、大変革の先駆けだった。皮肉にも、自由性の復活は数学者達をカントールの楽園から追放した。
今日では、私達は多くの問題の非可解性と決定不能に慣れている。非標準モデルと様相論理の理解に少しの困難を見るだけだ。ツェルメロ-フレンケル集合論の範囲内で連続体の問題が決定不能だということは私達を苦しませない。今日ではどのように簡単でも、これらの考えのスタンスはルージンの時代に日和見的で物議を呼んだようだ。ルージンの偉大な弟子達の成功する大成果はルージンの数学的アイデアの拒絶に基づいた。これがルージン事件の心理学的、部分的にはフロイド的理由である。才能豊かな弟子達は記述及びルージンの妥当で極楽な理想(これは数学の自由性に味方して決定不能だと証明された)から解放の必要性を感づいた。弟子達は間違った方向に惑わされ、知ってか知らずか自由性に対する高貴な願望を粗野な憎悪と残虐に変換した。この変換は時代を超えて人間のお馴染みの定着と十八番である。
数学における罪(ルージンに殆ど罪は無かった)をルージンに全く原因があるとする世間一般の馬鹿な愉しみ(本物の罪、自称個人的罪、個人的罪を報復するという密かな意図を持ちながら)は恐ろしく、耐え難い。私達は、唯一の本物で究極の基礎の探求の中で20世紀折り返し時点で範疇性の幻想から数学を解放することを経由して、記述、有限主義、直観主義、同様の勇ましい試みのアイデアがやむを得なかったことを理解しようとしなければならない。永続の単一性と絶対主義の挫折は、20世紀の最初の20年の数学的アイデアの勝利と悲劇だった。弟子達の創造的アイデアの開花は部分的には記述におけるルージンの幻想から発生した。
ルージンに反対する争闘は、当時では抽出し解明することが不可能だった数学的原因を持っていた。私達は今明らかに、唯一究極の基礎というアイデアが永久に駄目になった時に確率論、函数解析、超函数、トポロジーの時代が始まったことが分かる。K. ゲーデル (1906–1978)はその現象の背後の思想について説明したが、ずば抜けて優秀な数学者は生来の直観と心の挑発でそれを感じた。
今日のモスクワ学派のビジョンが始まったのはルージンからだった。ルージンは基礎に関心を持ち、彼にとって記述は数学全体を理解する方法だった。可測性の理論が活発になったように、記述は死んではいない。帰納解析及び計算可能性とチャーチのテーゼに関連する他のアイデア内で生きている。楕円、双曲線幾何学に関して絶対幾何学が役割を果すように、有限主義と直観主義に関して記述は同じ役割を果す。記述の手続きとイデオロギーは計算可能性とアルゴリズムのアイデアの先駆けだ。アルゴリズム理論、計算可能性、複雑性へのA. N. コルモゴロフの創造的貢献は記述から生じるコンポーネントを含む。確率論、乱流、解析学は、記述の拒絶に根差したコンポーネントを形成する。数学は有限主義にも、直観主義にも、記述にも縮小しない。数学は範疇的ではない、すなわち自由である。20世紀において数学の自由性は、ルージンの一弟子であり、ロシアの新世代の数学者達の先生であるA. N. コルモゴロフによって最も上手に実証された。A. N. コルモゴロフは数学内にもっと多くの自由性をかくまい、そのことが彼を偉大なる数学者にした。自由性に対する高貴な努力がトルケマダ[訳注: 魔女狩りをしたスペイン異端審問裁判長]の司祭平服に化けた科学的怪物の政治的怪異を発進したことは、ロシアにおける数学の悲劇である。

いくつかの教訓
歴史と故人達は裁きから外れる。科学者達と普通の人々は事実を直視し収集しなければならない。死んだ人を責めてはならないが、冷静に素直に何が真実なのか指摘しよう。モラル告発と政治的仄めかしの違いを若年層に説明しよう。過ちの修復と悔悟の困難性と必要性を示そう。自己を許し他者を責めるのはいかに簡単であるか見せよう。
私達は過去と反対の見解を理解し、次世代に伝えなければならない。その栄光と悲劇をだ。愛と猜疑、私達の不運な運命と客観性の敬意を理解して。最初に私達が告発と修復することになっているのは個人的おちどと不履行である。古代ローマでさえ死人に関して何も言わないか良い事を言うべきだと知っていた。事実は決して死ななかった。ルージンは科学アカデミーと同様にモスクワ数学者のコミュニティによって告発された。
スターリン主義の擁護はしばしば、スターリン主義の醜い悪行と犯罪はスターリン、ベリヤ、Mekhlis、Kolman、そして彼等のクローンとレプリカ群の過ちであるが、一方で実際にはスターリン主義は大衆によって作られたという言明から成り立つ。科学でのスターリン主義は科学者達自身からによって隆盛した。ルージンの弟子達がスターリン主義から先生と科学を守ったと偽るのは見苦しい。ルージンは社会的村八分の犠牲者であり、彼の死亡までの14年間一ソビエート市民の顔を持つ敵という汚名と恥辱を抱えて生きた。彼はスターリン主義のための立派な除け者、すなわち捕らえられないままで敵となった。ルージンの同僚と弟子達は彼を格下げ無視し、ついには彼の顔を平手打ちし、彼の墓石を割ることになった。ルージンは死んだが、サボタージュと追従での偽告発はまだ有効である。
私達はルージンの言葉を忘れられない(cp. [1, p. 73]):

プラウダ紙の記事の最後の節(ファシスト科学の現主人の奴隷ということで私に対する恐ろしい告発がなされた)について、世界的名声を持つ一科学者でありソ連の一市民である者の政治的責任をよく考えた上で、プラウダ紙の編集委員会はわざとこれに関して通報した人達による欺きへ導かれたと私は述べる。一科学者と一人間として、私の全人生と活動はこれを拒否する。

過去の反モラルの中にモラルを知ろうとするどんな試みも危険である。現在及び将来における反モラルの納得いく条件を作ることによって、その試みは反モラルを供給するからだ。科学者のスタミナは私の考えで不連続函数だ。科学はモラルに予防をしない。悪魔と天才が随時両立する。
歴史は科学の一部門であるが、科学は道徳心と手を握り合って進む。だから歴史は単なる科学分野ではなく、現代の責任性の問題でもある。誰も歴史を変えられないが、私達人類は過去について無関心な傍観者ではない。歴史は人間がいなければ何ら存在しない。過去は現在の過去であり、それ故現代の責任の部分である。死者よりも生きている者が過去に何があったかについて責任を負う。実生活を変えることで未来を作るのは私達なのだ。歴史は私達に道徳心を求め、クラースの遺灰がティル・オイレンシュピーゲル[訳注: 伝説上のトリックスター]の中でしたように私達の心臓を一撃する。

謝辞
このエッセイは、2007年2月2日-4日にモスクワ大学で開かれた凸解析に関するミニシンポジュームの非公式なロビー対話での筆者の見解をまとめている。筆者は特にミニシンポジューム議長のV. M. Tikhomirov教授に忍耐、友好、もてなしを感謝する。
この記事は筆者の記事"Roots of Luzin's case"17の拡張修正版である。多くの新しいドキュメンタリソースと回想の教示と同様に、記事を改善するための批判とアドバイスを伴った多くのコメントと回答を筆者は受けている。筆者は読者と回答者すべてに感謝する。

参考文献
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[22] Reshetnyak Yu. G. and Kutateladze S. S. “A Letter of N. N. Luzin to L. V. Kantorovich.” Vestnik Ross. Akad. Nauk, 72:8 (2002), 740–742.
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[24] Kolchinskiĭ È. I. “Science and Consolidation of the Soviet System in the Prewar Years.” In: Science and Crises. Historico-Comparative Essays. St. Petersburg: “Dmitriĭ Bulavin,” 2003.

注釈
1この記事の草稿で[2]への参照を抜かす不注意を注意したW. A. J. Luxemburg教授に大いに感謝する。
2Sergeĭ Petrovich Novikovはフィールズ賞受賞者であり、ルージンの弟子だったL. V. KeldyshとP. S. Novikovの息子である。
3G. K. Khvorostin (1900–1938)は教育された数学者であり、1935–1937にサラトフ州立大学の学長だった。
4J.-M. Kantorは彼の試みと、S. S. Demidovによる試みもロシア科学アカデミーのアーカイブの中に、この封筒は見つけられなかったことを私に教えてくれた。
5これらの性格的欠陥を持つ人は誰も"ルシタニア"(世界の科学史上で最も成功する数学学派)の開祖になれるはずがなかろう。従って、"2人のルージン"という理論が存在し得る。すなわち、一人はルシタニアの時代、もう一人はルージン事件の時代だ[訳注: ここの個所は分かりにくいと思いますので補足します。ルシタニア(Lusitania)は古代ローマの州で、その当時の最高の文化を誇ったという伝説があります。一方ルージンが率いた学派をルジタニア(Luzitania)と俗称されており、"ルシタニア"と"ルジタニア"をもじっているのです。西洋人にはLusitaniaとLuzitaniaは殆ど同音、つまり無声音か有声音の違いに過ぎず、上記の原著者の説明もすぐに理解出来るのです]。
6P. S. アレクサンドロフはゲーテによる1795年作の詩Harfenspielerを引用し、大雑把なロシア語訳を付けた。ここでの英語の行はVernon Watkins (1906–1967)のものである[訳注: 原文の該当個所に添えられた英訳のことを指してます]。
71936年7月13日の聴聞委員会の詳細の抜粋は以下である[1, p. 196–197]:

アレクサンドロフ: 追従について言えば、ルベーグの本物の口頭を述べることを提案したい。(フランス語を読んでいる)。この問題に関して、必要な限り徹底的に私が詳述出来る説明を持っている。問題の"奇妙な愛好家"は深く計画されたアイデアだと私は言いたい。彼に帰属するものをルベーグに貢いだが、彼はまぬけな方法でそれをした。賢い人間はルベーグの帰属にしないだろう。そうすることで、自身のアイデアを他の誰かのものにしている人達のうちでも彼は評判を作っているというのが実際だ。だが、問題が彼自身の弟子達に関係する時、彼はこのかばい立てに隠れている間に弟子達の帰属を搾取した。

Lyusternik: これの弁明をステクロフ数学研究所の会合で聞いた。以下は彼から正確に示唆されたものだ。つまり、ルベーグ自身がルージンに関してこれらの言葉を書いているなら、どうしてルージンが他者の帰属を握れようか?

アレクサンドロフ: 自身の結果を他者に帰属することは学界において伝統的でないから、これが追従システムなのである。従って、一方で彼はルベーグにへつらい、他方で彼にそれを許すかばい立ての取り決めがあることを私達はここで分かる。

8このエピソードについて、L. GrahamとJ.-M. Kantorの最近の本[14, p. 186]並びにS. M. Nikolskiĭ[15, p. 155]とS. P. Novikov[3, p. 22]の回想を見よ。
9文字uはsoonでのooと同様な発音をされ、PusiksはP. S. アレクサンドロフとA. N. コルモゴロフの両義の意味を持つ曖昧な集団ニックネームだった。単数のPusikはP. S. アレクサンドロフのみに適用する。英語耳でPusiksという言葉は卑猥な含蓄を持つが、この効果はロシア語では全く無い。
10これは選挙時に招集され、全候補者を議論し、選挙対象となる人を選ぶ暫定委員会である。推薦された候補者の名前は選挙会報のトップに載り、候補者を知らない人達の採択を促す。
111946年のソ連科学アカデミー選挙は11月30日に行われた。物理及び数学部門の正式会員で数学の空席を埋めたのはM. A. LavrentievとI. G. Petrovskiĭ (1901–1973)だった。A. D. Alexandrov (1912–1999)、 N. N. Bogolyubov (1909–1992)、 L. A. Lyusternik、V. V. Stepanov (1889–1950)はアカデミーの準会員になった。
12例えば、[14, p. 186]と[3, p. 22]を見よ。
13これは"topology"と"pederasty"[訳注: 少年愛]のロシア語の合成であり、英語で"topologasty"というようなものである。
14V. M. TikhomirovはKomarovkaでの打合せに関して"L. S. ポントリャーギンと彼の弟子で友人のI. I. Gordonの文通が、ルージンは受諾して食事を振舞われたと暴露した"と書いた。Cp. [11, p. 83]
15これは、統合国家政治局または合同国家政治保安部と呼ばれる、その当時の警察政治のロシア語の略語である。
16V. M. モロトフへのP. L. カピッツァの上述の手紙が共産主義者連合党(ボルシェヴィキ)の警察官僚のために16部コピーされ、他の手紙と共にルージンのサポートを議論されたことが最近公になった。
17J. Appl. Indust. Math., 1: 3, 261–267 (2007).

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