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グロタンディークとその学派の思い出

前に紹介した"良い証明は我々を賢くする証明である―ユーリ・マニンへのインタビュー"の前置き及び追記で、デヴィッド・マンフォード博士とジョン・テイト博士によるグロタンディーク氏の追悼記事に触れました。特に、海外の友人達に感想を求められ、はっきりと本音を曝け出しました。
では、どういうものを私が読みたいと思うかという話になります。グロタンディーク氏関連で私が最も感銘を受けた記事が"Reminiscences of Grothendieck and His School"(PDF)です。これは、ドリーニュ博士と同様にグロタンディーク氏の元高弟だったリュック・イリュージー博士及びシカゴ大学の数学者達の座談会を元にした記事です。もちろん、追悼記事を座談会形式の記事と比べることはナンセンスなのですが、マンフォード、テイト両博士には、この座談会に語られている以上の、余人の知り得ないことを書いて欲しかったと思いました。この座談会記事は、座談会そのものは2007年に実施され、掲載されたのが2010年9月のNotices of the AMS誌です。EGAやSGAに関心を持っている人、もしくは既に読んでいる人にとって、当時は正真正銘の数学者であったグロタンディーク氏が何を考えていたのかイリュージー博士は詳細に語っていて、非常に参考になるだろうと思います。この記事の数学的事項を本当に理解することはちょっと難しい(その方面の専門家でなければしんどいでしょう)と思いますが、それでも面白く読めるはずです。
この座談会記事の私訳を以下に載せておきます。なお、注釈を省略しましたが、注釈へのインデックスはそのままです。但し、原文で注釈を読むことは決して無駄ではなく、本文と同等の有益な情報が入っていることをお忘れなく。

[追記: 2019年03月22日]
このペィジは2015年05月22日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。

[追記: 2023年01月15日]
グロタンディーク氏のRécoltes et Semaillesを書評対象とするPierre Schapira博士によるリヴュー“切り詰めた草稿”もあります。

グロタンディークとその学派の思い出
2007年1月30日 リュック・イリュージー、Alexander Beilinson、Spencer Bloch、Vladimir Drinfeld、及びその他の人々

パリ第11大学名誉教授リュック・イリュージーはアレクサンドル・グロタンディークの学生の一人だった。2007年1月30日火曜日の午後、イリュージーはシカゴ大学の数学者達Alexander Beilinson、Spencer Bloch、Vladimir Drinfeld、並びに数人のゲストとシカゴにあるBeilinsonの家で会った。暖炉の傍でイリュージーはグロタンディークと一緒だった時代を語った。以下は、Thanos Papaïoannou、Keerthi Madapusi Sampath、Vadim Vologodskyによって準備された筆記録の訂正及び編集版である。

IHÉSで
イリュージー: SGA 5(1964-1965年)1の第一部の間の1964年にIHÉSでグロタンディークのセミナーに私は出席し始めた。第2部は1965-1966年にあった。セミナーは火曜日だった。2:15に始まって一時間半続いた。その後、お茶をした。トークの殆どをグロタンディークがした。通常、彼は夏または以前に渡って準備された予備的ノートを持っており、それらを有望なスピーカー達に渡したものだった。多くの学生達に彼は解説を配布し、学生達にノートを書下ろしてくれと頼んだ。彼に会った最初、私はビクビクした。それは1964年だった。カルタンを通して私は彼を紹介されていた。カルタンは"君のやっていることのためには、グロタンディークに会うべきだ"と言った。私は実際に相対的条件下におけるアティヤ-シンガーの指数公式を探していた。相対的条件はもちろんグロタンディークのスタイルの中にあるのだから、カルタンは即座に要点が分かった。私はヒルベルトバンドルを持つもの、有限コホモロジーを持つヒルベルトバンドルの複合体をやっており、カルタンは"グロタンディークによってなされているものを思い出させる。君はすぐにそれについてグロタンディークと議論すべきだ"と言った。私は中国人数学者Shih Weishuによってグロタンディークに紹介された。Shih Weishuはアティヤ-シンガーの指数公式に関するカルタン-シュヴァルツのセミナーの時にプリンストンにいた。Palaisによって運営された並行するセミナーもあった。私達は共同して特性類について調べた。そして、彼はIHÉSを訪問した。彼はグロタンディークと親しくなり、私を紹介すると申し入れた。
そうして、私は或る日の2時にIHÉSはグロタンディークのオフィス(それは今、秘書達のオフィスになっていると思う)で会いに行った。会合は彼のオフィスの隣にあった居間だった。私は自分のやっていることを懸命に説明した。そして、グロタンディークは不意に簡単な可換ダイアグラムを私に示し、"それはどこも最有力でない。私が持っているアイデアを説明させてほしい"と言った。それから、導来カテゴリーにおける有限性条件について彼は長いスピーチを行った。私は導来カテゴリーについて何も知らなかった! "それは君が考えているはずのヒルベルトバンドルの複合体ではない。その代わり、君は環付空間と有限tor次元の擬連接複合体を考えるべきだ"...(笑い)...それは非常に複雑に思えた。しかし、彼が私に説明したことは結局私が欲したものを定義するのに便利だと証明した。私はノートを取ったが十分には理解出来なかった。
私は当時代数幾何学を全く知らなかった。それにもかかわらず、彼は"秋にセミナー、SGA 42の続きを始めるつもりだ"と言った。SGA 4は"SGA 4"と呼ばれず、"SGAA"、つまり"Séminaire de géométrie algébrique avec Artin"[訳注: アルティンと共同の代数幾何学セミナー。ここでのアルティンはエミール・アルティンではなく、その息子のマイケル・アルティン]だった。"局所双対性に関するものになるだろう。来年、l-進コホモロジー、トレース公式、L-函数に到達する"と彼は言った。私は"まぁ出席しますが、付いて行けるかどうか分からない"と言った。彼は"だが、それどころか、君に最初の解説のノートを書下ろして貰いたい"と言った。しかし、彼は私に何の予備ノートも渡さなかった。私は最初のトークに行った。
彼は黒板で非常なエネルギーで喋ったが、必要な材料を思い起こさせるように注意深かった。彼は非常に緻密だった。そのプレゼンテーションは非常にきちんとしていたから、トピックについて何も知らない私でさえノートを取ることが出来た。彼は大局双対性、f!とf!のフォーマリズムを簡単に思い出させることから始めた。その時までに、私は導来カテゴリーの言葉を少し学習していたから、有名なトライアングルやそのようなものを左程恐れなかった。そして、彼はもっと難しい、複合体の双対化に移った。一ヵ月後、私はノートを書下ろした。それらを彼に渡した時、私は非常に不安だった。それらは約50ページだった。グロタンディークにとって、妥当な長さだった。エコール・ノルマルで私の教育助手だったことがあった、Houzelはかってセミナーの終わりでグロタンディークに"貴方に渡したいものを書上げている"と言った。それは、約10ページの複素解析幾何に関するものだった。グロタンディークは"50ページを書上げてしまった時に、おいでなさい"と言った...(笑い)...とにかく、長さは妥当だったが、それでも私は非常に不安だった。一方で、ヒルベルトバンドルの複合体に関する私のアイデアについてノートを書上げてしまっていたことが一つの理由だ。私にとって良いように思える最終版を持っていた。グロタンディークは"ちょっと見てみよう"と言った。だから私はそれらを彼に渡した。その後すぐに、グロタンディークは私に近づいて、"君のテキストにいくつかコメントがある。私の家に来れるなら、君に説明しよう"と言った。

グロタンディークの家で
驚いたことに彼に会った時、私のテキストは鉛筆書きの注釈で真っ黒だった。私は最終形と思ったが、すべてを変えなければならなかった。いやそれどころか、フランス語の問題に対してさえも、彼はいつも正しかった。スタイル、構成、すべてのことについて彼は修正を提案した。だから、局所双対性に関する私の解説に対しても私は非常に恐れた。一月かそこら後に、彼は"君のノートを読んだよ。それらはオーケーだが、私はいくつかコメントがあるので、再度私の家に来てくれるかい?"と言った。それが、彼の家への訪問の連続の始まりだった。当時、彼はビュール=シュル=イヴェットのムロン通りにある一階建ての小さな白い館に住んでいた。家での彼のオフィスは質素で冬の間は寒かった。鉛筆で書かれた彼の父親の肖像画があり、テーブルには彼の母親のデスマスクがあった。机の後に書類整理用キャビネットがあった。ドキュメントが欲しい時、彼は後を向いて即座にそれを見つけたものだった。彼は非常に几帳面だった。私達は一緒に座り、私の校訂に関する彼の注意を議論した。2時から始め、多分4時まで続けたが、彼は"休憩しよう"と言った。私達は時には散歩し、時にはお茶をした。その後で私達は戻り、再び作業をした。そして、私達は7時くらいに彼の細君及び娘と2人の息子と一緒に夕食を取った。夕食は長くなかった。後で彼のオフィスで私達は再び会ったが、彼は私に数学を説明することを好んだ。或る日、彼は様々な観点、つまり位相的アプローチ、スキーム理論的アプローチ(SGA 3の拡大基本群付き)、トポス理論的アプローチからの基本群の理論のコースを私にしたことを憶えている。私は追付こうとしたが、難しかった。
彼は即座に速くエレガントに手書きした。書かずに思考出来ないと彼は言った。私自身は先ず目をつぶり考える、または横になることがいいと思っていたものだったが、彼はこんな風では思考出来ず、紙の束を取らなければならず、そして書き始めた。いいかい、彼はX→Sと書いて、文字と矢印が非常に太くなるまで何回もペンでそれをなぞった。彼はどういうわけか、これらのオブジェクトの光景を楽しんだ。私達は通常11時半に終り、彼は私を駅まで歩いて送った。私はパリ行き最終列車に乗った。彼の家での午後は大抵そんな感じだった。

森での散歩
セミナーに来る人々の内でも、ベルテロ、カルティエ、シュヴァレー、ドマジュール、デュドネ、ジロー、Jouanolou、ネロン、ポワトゥー、レイノーと彼の妻ミシェル、サムエル、セール、ベルディエを私は憶えている。もちろん外国からの訪問者もあり、一部の人は長期間だった(Tits、ドリーニュ―彼は1965年からセミナーに参加した―、テイト、そして後にクレイマン、カッツ、キレン...)。当時、私達は4時にIHÉSの客間でお茶をした。それは会合と議論をするための場所だった。もう一つ別の場所はIHÉSでのランチだったが、しばらく後で来ることに私は決めていた。そこでは、グロタンディーク、セール、テイトが私の理解出来ないほど難解なモチーフや他のトピックスを議論しているのを見つけるであろう。SGA 63、リーマン-ロッホに関するセミナーは1966年に始まった。少し前に、グロタンディークはベルテロと私に"君達はトークしなければならない"と言った。彼は導来カテゴリーにおける有限性条件に関する予備ノートとK-群に関する予備ノートを私に渡した。だから、ベルテロと私はいくつかトークをし、ノートを書き下ろした。今回、私達は通常ランチの間に会い、ランチの後で(それは非常に素晴らしかった)、グロタンディークは私達を連れてIHÉSの森へ散歩し、全く何気なく彼が考えていたこと、彼が読んでいたことを私達に説明したものだった。かって彼が"私はマニンの形式群4に関する論文を読んでいるが、彼がしていることを理解したように思う。勾配の概念とニュートン多角形を導入すべきだと思う"と言ったことを私は憶えている。そして、限定化でニュートン多角形が起こるはずだというアイデアを私達に説明し、初めて彼はクリスタルの概念を思い描いた。それから、同時期に、または少し遅くかも知れぬが、彼は有名な手紙をテイトに書いた:"クリスタルは2つの特徴的な概念を持つ:厳密性と適切な近傍で増殖する能力。すべての種類の実体のクリスタルがある:ナトリウム、イオウ、モジュール、環、相対スキーム等々"

Künneth
Bloch: 貴方についてはどうなんですか? 貴方のやった部分についてはどうなんですか? 学位論文について考えていたはずです。
イリュージー: そんなに上手く行ってなかったと言わなければならない。勿論、グロタンディークはいくつかの問題を私に提案していた。彼は"EGA Ⅲ5の第2部は実に酷い。ファイバー積のコホモロジーと境を接する一ダースのスペクトル列がある。それは滅茶苦茶な状態だから、どうか、導来カテゴリーの導入によって、これを綺麗にし、Künnethの式を導来カテゴリーの一般的フレームワークで書いて欲しい"と言った。私はそれについて考え、急激に行き詰った。勿論、何らかの式を書けたが、tor-独立の状況下のみだった。今でさえ、非tor-独立の状況下6で素晴らしい一般的な式が文献にあるのか私は知らない。これに対してはホモトピー代数が必要だ。
2つの環があって、その環の導来テンソル積を取らなければならない。得るものは、単体的環の導来カテゴリー内のオブジェクト、または標数0の場合における次数微分の代数としてそれを見なせるが、道具はその当時可能ではなかった。tor-独立の場合、通常のテンソル積は良好だ。一般的な場合に、私は行き詰った。

SGA 6
だから、私はSGA 6でグロタンディークとベルテロと一緒に仕事をするのが嬉しかった。当時、3年間で学位論文を終える必要が無かった。学位論文の完了は7、8年だった。それで、プレッシャーはそれほど大きくなかった。セミナーSGA 6は順調で、私達は結局リーマン-ロッホを非常に一般的な状況で証明し、ベルテロと私は大変幸福だった。私達がグロタンディークのスタイルを真似ようとしたことを私は憶えている。グロタンディークが導来カテゴリーにおける有限性条件に関するノートを私に渡した時、私は"これは点上に過ぎない。私達はトポス上のファイバーカテゴリーにおいて、それをしなければならない..."と言った(笑い)。それはちょっと単純だが、ともかくも正しい一般化であることを証明した。
Drinfeld: SGA 6の最終版に書かれているものですか? それが、この一般化の中に?
イリュージー: そう、勿論。
Drinfeld: 従って、貴方の発案であって、グロタンディークのものではない。
イリュージー: そうだよ。
Drinfeld: 彼はそれを是認したのですか?
イリュージー: 勿論、彼はそれを好んだ。ベルテロについて言えば、彼はK-理論部分で独創的な貢献をした。グロタンディークは射影バンドルのK0を計算していた。当時私達はそれを"K0"とは呼ばなかった。ベクトルバンドルで作られたKと連接層で作られたKがあったが、それらは今はK00と書かれている。グロタンディークはX上の射影バンドルPK0P(1)のクラスによってK0(X)上で生成されることを証明していた。だが、彼はそれを喜ばなかった。彼は"時には準射影的状況でない。連接層に対する大局的解決が無い。その時に、完全複合体を使って定義されるK-群で研究するのが良い"と言った。しかし、この他のK-群に対する類似の結果を証明する方法を彼は分からなかった。ベルテロはその問題を考え、モジュールに対するEGA Ⅱの中で作成されたProjの構築を複合体に適合させて解決した。彼はそれをグロタンディークに見せ、そしてグロタンディークは私に"ベルテロは私よりもずっと関手化されているよ!"と言った...(笑い)。グロタンディークは私達にラムダ作用素に関する詳細なノート(彼が1960年以前に書いてしまっていたもの)を渡した。ベルテロは彼の解説でそれらを議論し、グロタンディークがその時考えていなかった多くの問題を解決した。
Bloch: 貴方は何故このトピックを選んだのですか? リーマン-ロッホに関するグロタンディークのアイデアに基づくボレルとセールの早期の論文がありました。彼はそれを喜ばなかったと私は確信しています!
イリュージー: グロタンディークは一般ベース上及び相当に一般的な射(局所完全交叉射)に対しての、相対式を欲しかった。また、彼はサイクルを動かしたくなかった。K-群を使って交叉理論をする方を好んだ。
Bloch: しかし、彼はヴェイユ予想を解決しようとする自身のプログラムを怠らなかったですね?

SGA 7
イリュージー: 怠らなかったが、彼は今すぐにしなければならない仕事が多かった。1967-1968年と1968-1969年には、もう一つ別のセミナー(モノドロミー、消滅サイクル、RΨとRΦファンクター、サイクルクラス、レフシェッツのペンシルに関する)SGA 78があった。確かに彼は数年前にサイクル近辺のフォーマリズムについて既に考えていた。また、超平面の特異点に関するミルナーの本を読んでいた。ミルナーはいくつかの計算をして、これらに対して孤立特異点の(私達が今呼ぶところの)ミルナーファイバーのコホモロジーのモノドロミーのすべての固有値が1の根であると述べていた。それが必ず真であること、作用が準べき単であることをミルナーは予想した。そして、グロタンディークは"我々の自由なツールは何か? 広中の解消だ。しかし、その時には孤立特異点の世界を去り、ミルナーファイバーをもはや取れない。適切な大局オブジェクトが必要だ"と言った。その時、彼が定義していた消滅サイクルの複体は彼が欲しかったものであることを認識した。彼は特異点解消を使い、準半安定還元(重複と共に)の場合に消滅サイクルを計算した。そして標数0で解決が極めて簡単に出現した。また彼は一般の場合に数論的証明を得た。つまり、局所体の剰余体がそれ程大きくない(そのどの有限拡大も、位数がlのべきの1の根のすべてを含まないという意味で)時、l-進表現が準べき単であるということを示す驚くべき主張を発見した。彼はそれに関するセミナーを作ることを決心し、それがこの壮大なセミナー、SGA 7だった。ドリーニュがピカール-レフシェッツ式(グロタンディークの求めに応じて。彼はレフシェッツの議論を理解出来なかった)に関する素晴らしい解説を与え、カッツがレフシェッツのペンシルに関する素晴らしい講義をしたのがSGA 7の中でだった。

余接複体と変形
しかし、私の学位論文はまだ空であり、SGA 7にただ参加しただけで、何のノートも書かなかった。Künnethの式に関する問題はずっと前に諦めていた。私は有限群作用とチャーン数に関する小さな論文をTopologyに発表していたが、それは十分ではなかった。或る日、グロタンディークが私のところに来て、"君のために変形に関する問題がいくつかある"と言った。それで、私達は或る午後に会い、彼はよく似た答えを持つ変形に関する複数の問題を提案した。つまり、モジュール、群、スキーム、スキームの射、等々の変形。いつも必ず答えは、彼が最近構築したオブジェクト、余接複体を含んだ。EGA IVのデュドネとの共同研究の中で、非完全のモジュールと呼ばれる、射の微分不変式が登場する。グロタンディークはΩ1と非完全のモジュールが実のところ導来カテゴリーの細不変式のコホモロジーオブジェクト、長さの複体(それを彼は余接複体と呼んだ)であることを認識した。彼はこれを講義録Catégories cofibrées additives et complexe cotangent relatif[訳注: 加法コファイバーカテゴリーと相対余接複体](SLN 79)に書上げた。合成射が余接複体に対して際立って良いトライアングルにならないから、障害(H2群を伴う)に辿り着くためには理論はおそらく不十分だとグロタンディークは主張した。同時期にキレンが独立的にホモトピー代数を研究していて、少し後でアフィンの場合において無限長のチェーン複体(グロタンディークの複体を打切りとして持ち、合成射に関して上手くいく)を構築していたことが起きている。独立的にMichel Andréも類似の不変式を定義していた。私は彼等の研究に興味を持ち、Andréの構築において、ホワイトヘッドの古典的補題(主要な役割を果たしていた)が容易に層化出来るだろうと分かった。数ヶ月で私は、群スキームの変形(可換なものはもっと研究を必要とするから、ずっと後に出来た)を除いて、学位論文の主要な結果を得た。

1968年5月以後
1968年5月にグロタンディークは左翼思想に魅了された。彼は毛思想と文化大革命を崇めた。また彼は他のトピックスを考え始めた。すなわち、物理学(彼はファインマンの本を読んでいると私に語った)、そして生物学(特に発生学)。彼はまだ活動的だった(例えばSGA 7の第2部が1968–1969年にあった)けれども、その時から数学は彼の主要な関心の焦点からゆっくりと離れて行ったという印象を私は持つ。その後、彼はアーベルスキームに関するセミナーを熟考したが、水晶コホモロジーに関する彼の研究の続きにおける、p-分割群に対するデュドネ理論を研究することを決心した。
水晶コホモロジーに関する彼の講義(1966年)はコーツとJussilaにより書上げられており、彼はベルテロに成熟した理論を展開させた。彼がアーベルスキームに関するセミナーをしなかったことを人は悔やむだろう。私達が文献で見られる散発している参照よりもずっと良い統一された理論のプレゼンテーションを作ったであろうと私は確信する。1970年に彼はIHÉSを去り、環境保護グループSurvivre(後にSurvivre et Vivre[訳注: 生き残りと生活]に改名された)を創始した。ニースの国際数学者会議で、彼はそのための宣伝をやり、小さな段ボールのスーツケースから取出された文書を渡していた。人類の生残りの緊急問題の観点から、彼は徐々に数学を研究するに値しないと考えて行った。彼はぞんざいに周辺の多くの文書(論文、個人的ノート、等々)を片付けた。それでも、1970–1971年に彼はコレージュ・ド・フランスでバーソッティ-テイト群に関するコース(セミナーと共に)を行い、後にはモントリオールで同じトピックに関する講義をした。

グロタンディークと共に研究すること
多くの人々はグロタンディークと議論することを恐れたが、いや実はそんなに困難ではなかった。例えば、昼前でなければ(彼はその時間に起きるだろうから)、私はいつでも彼を呼べた。彼は夜中に遅くまで研究した。私は何らかの質問を彼に出来て、彼は非常に親切にその問題に関して知っていることを私に説明してくれたものだった。時には後から彼が思いついたことがあった。彼はそれらをいくつか補足を付けて私に手紙を書いたものだった。彼は私に非常に親切だった。しかし、いくらかの学生達はそれほど幸福ではなかった。私はLucile Bégueri-Poitouを憶えている。彼女は学位論文のためのトピックをグロタンディークに頼んだ。それは私のKünnethの式の場合とちょっと似ていた。彼は彼女にトポスに対する連接射の理論、トポスにおける有限性条件を書下すことを提案したと私は思う。それは困難で割に合わなく、事は上手く行かず、彼女は彼と研究することを止める決心をした。数年後、彼女は彼のものとは全く違う問題を解決する学位論文9を書いた。彼はレイノー夫人とはもっと上手く行き、夫人は素晴らしい学位論文10を書いた。
彼にいくつかのノートを渡した時、彼はそれらを十分に訂正し、多くの修正を提案したものだったと私は言った。彼の注意がいつも必ずかなり的を射ていたから、私はそれが好きだったし、私の書き物を改良することが嬉しかった。しかし、一部の人達はそれを好まず、彼等が書いたことが良く、改良する必要が無いと考えた。
グロタンディークはIHÉSでモチーフに関する講義のシリーズをした。一部は標準予想についてだった。彼はジョン・コーツにノートを書下ろすように頼んだ。コーツはそれをやったが、同じことが発生した。つまり、それらのノートは多くの修正と共に彼に帰って来た。コーツは気落ちして止めた。結局、Dix exposés sur la cohomologie des schémas11[訳注: スキームのコホモロジーについての10解説]の中でノートを書下ろしたのはクレイマンだった。
Drinfeld: しかし、トポスの連接射についての問題を与えるのは、多くの人達にとってさほどいいことではない。
イリュージー: グロタンディーク自身にとって良いトピックスなんだと思う。
Drinfeld: そうです、確かに。
イリュージー: しかし、学生達にとってではない。同様にMonique HakimのRelative schemes over toposes[訳注: トポス上の相対スキーム]もそうだ。この本12はさほど成功でないと思う。
知らない人: しかし、論理学者はそれを非常に好んでいます。
イリュージー: ドリーニュから私はいくつかの部分で問題がある13と聞いた。ともかく、彼女はこのトピックにさほど幸せでなく、後に全く違う数学をやった。レイノーもグロタンディークが彼に与えたトピックを好まなかったと思う。しかし、彼は自分でもう一つ別のものを見つけた14。それは、レイノーがネロンのモデルのネロンの構築を理解出来たという事実と共に、グロタンディークを感銘させた。もちろんグロタンディークは、SGA 7における解説の中でネロンのモデルの普遍的概念をを大変素晴らしく使用したことがあったが、彼はネロンの構築を理解出来なかった。

ヴェルディエ
ヴェルディエに対しては違う話だ。私はグロタンディークがヴェルディエに非常に感心したことを憶えている。彼は私達が今呼ぶところのレフシェッツ-ヴェルディエのトレース式と最初に形式的随伴としてf!を定義して後でそれを計算するヴェルディエのアイデアに感心した。
Bloch: それはドリーニュのアイデアだったかもと思っていました。
イリュージー: いや、ヴェルディエのものだった。しかし、ドリーニュは連接層の状況でこのアイデアを後に使用した。ドリーニュは300ページのハーツホーンのセミナーをどうにか18ページに圧殺して喜んだ(笑い)。
Drinfeld: どのページを言っているのですか?
イリュージー: ハーツホーンのセミナーResidues and Duality15[訳注: 留数と双対]の付録の中を言っている。私は"ハーツホーンのセミナー"と言っているが、実のところグロタンディークのセミナーだった。予備的ノートがグロタンディークによって書上げられていた。ハーツホーンはこれらからセミナーをした。
ヴェルディエに戻ると、彼は三角及び導来カテゴリーに関する素晴らしい"結果の要約"16を書いてしまっていたが、人は彼が完全な報告を書くことに乗り出さなかった理由を問うだろう。1960年代末と1970年代初めにヴェルディエは他のこと、複素解析幾何学、微分方程式、等々に興味を持った。ヴェルディエが1989年に亡くなった時、彼を記念する式典で私は彼の研究についてトークしたが、次の問題を理解しなければならなかった。すなわち、何故彼は学位論文を発表しなかったのか? 彼は概要を書いていたが、完全なテキストではない。おそらく主な理由の一つは単純に、彼の草稿の校訂の中でまだ導来ファンクターを扱っていなかったということだ。彼は三角カテゴリー、導来カテゴリーのフォーマリズム、局所化のフォーマリズムを議論していたが、まだ導来ファンクター17ではない。その当時、既に彼は他のことで忙しかった。そして、多分彼は導来ファンクターのない導来カテゴリーに関する本を発刊したくなかった。それは確かに残念なことだ18
Drinfeld: アスタリスク巻はどの程度に相当しますか?
イリュージー: 導来ファンクターに至るまで彼の書いたものに相当する19。この巻はかなり便利だと私は思うが、導来ファンクターに対しては他の個所20を見なければならない。

フィルター付き導来カテゴリー
Drinfeld: ヴェルディエの研究で次数微分の概念が登場したことがありましたか? 導来カテゴリーに関して潜在的なもう一つの不満の源は錐が同型射までしか定義されていなかったことです。ヴェルディエによって定義されているような導来カテゴリーでは自然に働かない、多くの自然な構築があります。その時、次数微分カテゴリーを必要とするか、または"安定カテゴリー"に行くかですが、これらは表向き最近に発展して来ています。後から振り返ると、次数微分カテゴリーのアイデアは大変自然に見えます。導来カテゴリーの議論の中で貴方はこのアイデアを持ったのですか?
イリュージー: キレンは、次数微分代数が単体代数によって定義される導来カテゴリーに似ているけれど一般的には非同等なカテゴリーを与えることを発見したが、これは1960年代末または1970年代初めに為されており、グロタンディークとの議論には登場しなかった。しかし、私はフィルター付き導来カテゴリーに関する物語を知っている。完全複体のトライアングルの自己同型射を持てば、中央部のトレースは右手側と左手側のトレースの合計になるはずだとグロタンディークは考えた。SGA 5で彼がトレースを議論した時、それを黒板上で説明した。セミナーの出席者の一人がDaniel Ferrandだった。その当時、だれもそれに関する問題を分からなかったのは全く当然だった。しかし、その時グロタンディークは完全複体の行列式の構成を書く仕事をFerrandに与えた。これはトレースよりも高度な不変式だ。Ferrandは一ヵ所で行き詰った。彼が弱いバージョンを見た時、中央部のトレースが両端の合計であることを示せないと理解し、簡単な反例を構築した。問題はこうだ:どのようにそれを修復出来るか? その時に上手く行かないもの何でも修理出来る人はドリーニュだった。だから私達はドリーニュに聞いた。複体と部分複体の組から局所化の或るプロセスによって得られる、通常のトライアングルよりも細かい真トライアングルの構築をドリーニュは考えついた。学位論文で私はアティヤ拡大を使用してチャーン類を定義したかった。チャーン類の或る加法性を必要とし、従ってトレースの加法性と代数的補足。私はまたテンソル積を必要とした。テンソル積はフィルター付けの長さを増大させる。そこで私は考えた。何故、ただフィルター付きオブジェクトを取って、随伴次数オブジェクトにおける擬同型射を誘発する射に関する局所化をしないのか? それは非常に自然だった。だから私はそれを学位論文に書上げ、皆が幸福になった。その時に、有限フィルター付けのみが考慮された。
Drinfeld: それでは、余接複体と変形に関する貴方のSpringer Lecture Notesの巻にそれが書かれているのですか?
イリュージー: そうだよ、SLN 239の第Ⅴ章に。真トライアングルのドリーニュのカテゴリーは単にDF[0, 1]、長さ1のフィルター付けを持つフィルター付き導来カテゴリーだった。それが理論の始まりだった。しかし、グロタンディークは"三角カテゴリーには八面体公理があり、フィルター付き導来カテゴリーでは何がそれを置き換えるのか?"と言った。多分状況は現在まだ十分に理解されていない。かってグロタンディークは私に、1969年だったに違いないが、以下のことを言った:"我々はベクトルバンドルで定義されるK-群を持っているが、長さ1のフィルター付けを持つベクトルバンドル(商ベクトルバンドルを持つ)、長さ2のフィルター付けを持つベクトルバンドル...長さnのフィルター付けを持つベクトルバンドル(随伴次数ベクトルバンドルを持つ)を作れる。そうすると、フィルター付けの1ステップを怠ること、または1ステップで商を取ることのような操作を持つ。こういう風に研究する価値のある単体的構造を得て、興味深いホモトピー不変式を生成出来るであろう"。
独自にキレンはQ-構成(それはフィルター付けアプローチの代用だ)を考え出した。だが、グロタンディークがそれを考えるための時間をもっと持っていたなら、彼は高度なK-群を定義したであろうと私は思う。
Drinfeld: しかし、このアプローチはヴァルトハウゼンのものにずっと似ています。
イリュージー: そうだね、もちろん。
Drinfeld: ずっと後に出現したものに。
イリュージー: そう。

カルティエ、キレン
Drinfeld: SGA 6セミナーの間、λ-オペレーションがヴィット環に関係することが知られていたのですか?
イリュージー: はい。いやそれどころか、曲面に関するマンフォードの本21へのG. M. Bergmanの付録が既にちょうどその時に入手可能だったと思う。
Drinfeld: λ-オペレーションがこの付録にあるのですか?
イリュージー: そうではないが、私はビュール[訳注: IHÉSのあるビュール=シュル=イヴェットのこと]で普遍ヴィット環とλ-オペレーションに関するトークをした。ボンでのArbeitstagung[訳注: 故フリードリッヒ・ヒルツェブルフ博士によって運営されたワークショップのこと。ドイツ語でワークショップを意味しますが、数学界では余りにも有名なので固有名詞化しています。なお、ヒルツェブルフ博士は2012年5月27日にお亡くなりになりました。早いもので、もう満3年です]に行こうとしていたのを憶えている。夜行列車に乗り損なったので、私は早朝の列車に載った。驚くことに、セールと私は同じ車両だった。私は準備しなければならなかったトークについて彼に話をし、彼は親切に手助けしてくれた。すべての旅程の間、彼は私に多くの美しい式(アルティン-ハッセ指数やヴィットベクトルの他の奇跡を伴って)を説明しながら、素晴らしい方法で改善した。これは1967年6月のSGA 6セミナーの終わり頃議論された。その時には既にカルティエの理論が存在していたに違いないと私は思う。Tapis de Cartier[訳注: カルティエのじゅうたん](と私は思う)があった。
DrinfeldTapis de Cartierとは何ですか?
イリュージーTapis de Cartierはグロタンディークがカルティエの形式群の理論をそのように呼んだところのものだった。Tapisはブルバキのメンバーによって(ちょっと軽蔑的に)使用される表現で、理論を提唱する人をじゅうたん商人に喩えた。
Bloch: それでも振り返って見れば、カルティエは多大な貢献をしました。
イリュージー: はい、カルティエの理論はパワフルであり、後で強いインパクトがあった。しかし、グロタンディークは余り重んじなかったと思う。他方、その時にグロタンディークはキレンに感心した。キレンは多くのトピックスで新しく素晴らしいアイデアを持っていた。余接複体について私は今は余り憶えていないが、余接複体と或るサイト(これは水晶サイトに似ていたが、逆の矢印を持った)の構造層としてののExtiを計算する方法をキレンは持っていた。それがグロタンディークを驚かせた。
知らない人: 見たところ、このアイデアは後でゲイツゴリにより再発見されました22
Bloch: 余接複体に関するキレンのノートの中で、導来テンソル積上の導来テンソル積を私が見た最初だった。
イリュージー: そう、(導来)自己交叉複体と余接複体の間の関係において。
Bloch: それはB \otimes ^L_{B \otimes ^L_A B} B[訳注: このTEX風記述を分からない人は原文を参照して下さい]のようなものだったと思う。数日間勉強し、それが何を意味したのか謎だったと記憶している。
イリュージー: だが、Künnethの式を出来なかったと私が言った時、そんなオブジェクトがその時存在しなかったことが一つの理由だった。
Drinfeld: 今でさえも文献に存在しないと思います(誰かの頭の中にあるのかも知れないけれども)。数年前、私がDGカテゴリーに関する論文に取組んでいた時、環上の代数の導来テンソル積を必要だった。文献で、この概念を見つけることもキチンとそれが定義されていることも出来なかった。だから、非常に醜くものを書かざるを得なかった。

グロタンディークの好み
イリュージー: 私がグロタンディークの好みについて十分に言わなかったことを認識している。例えば、彼が最も好きであろう音楽を知ってるかい?
Bloch: そもそも彼が音楽を好んだのですか?
イリュージー: グロタンディークは音楽に対して非常に強いフィーリングを持っていた。彼はバッハが好きで、彼の最も愛する曲はベートーヴェンによる最後のカルテット[訳注: 弦楽四重奏曲第16番のこと]だった。
また、彼のお気に入りの木は何か知ってるかい? 彼は自然を愛し、他よりも好んだ一つの木があった。それはオリーブの木だった。地味な木だが、長い寿命があり、非常に逞しい。太陽と生命に満ちている。彼はオリーブの木を非常に好んだ。
もっとはっきり言えば、モンペリエに行くずっと前、彼は南をいつも好んだ。彼はブルバキのメンバーだったことがあったので、ラ・メッシュギエールを訪れたことがあった(そこではいくつかブルバキ会議が開かれた)。
彼は私にその場所へ行ってもらおうとしたが、上手く行かなかった。それはカンヌより高地にある素晴らしい土地だ。グラースを少し上がり、そしてカブリと呼ばれる小さな村を更に少し上がって、そこにユーカリの木、オリーブの木、松の木、そして壮大な眺めを持つ土地がある。彼はそれを非常に好んだ。彼はこの種の光景に好みがあった。
Drinfeld: グロタンディークのお気に入りの本が何だったか知っていますか? 貴方は彼のお気に入りの音楽について言いましたが...。
イリュージー: 憶えていない。彼はそんなに読まなかったと思う。一日に24時間しか無いのだから...。

保型形式、安定ホモトピー、遠アーベル幾何学
イリュージー: 今から思えば、表現論と保型形式論が1960年代に非常に進歩していたが、どういう訳かビュール=シュル=イヴェットでは無視されたことを奇妙だと私は思う。グロタンディークは代数群を非常によく知っていた。
Bloch: まぁ、貴方が言ったように、一日に24時間しか無いのです。
イリュージー: そうだが、ドリーニュがやったように、グロタンディークがモジュラー形式に関連付けられるl進-表現を構築していたかも知れないが、彼はやらなかった。彼は本当に数論に非常な興味があったが、その計算的側面が彼にアピールしなかったのかも知れない。分からない。
彼は数学の異なるピース(幾何学、解析学、トポロジー、等々)を一緒に置くことを好んだ。だから、保型形式は彼にアピールしたはずだ。しかし、何らかの理由で、彼はその時興味を持たなかった。グロタンディークとラングランズの間の交差点は1972年のアントワープでのみ実現した思う。セールが1967–1968年にヴェイユの定理に関する講義をした。だが、1968年以後グロタンディークは他に関心があった。そして、1967年以前は事が熟していなかった。よく分からない。
Beilinson: 安定ホモトピーはどうですか?
イリュージー: 勿論グロタンディークはループ空間、反復ループ空間に興味があった。n-カテゴリー、n-スタックは彼の心の片隅にあったが、その時にはそれに取組まなかった。
Beilinson: いつ頃、実際に現れたのですか? ピカールカテゴリーは多分1966年頃です。
イリュージー: はい、余接複体について彼がやったことに関係した。彼はその時ピカールカテゴリーの概念を思いつき、そしてドリーニュがそれをピカールスタックの中に層化した。
Beilinson: そして高次スタック...?
イリュージー: 彼はその問題を考えてはいたが、彼が草稿Pursuing stacks[訳注: 野を追跡する]を書いたのはずっと後だ。また、π1(P1-{0, 1, ∞})はいつも彼の心の片隅にあった。彼はガロア作用に夢中だった。かってガロア作用とフェルマーの問題の可能な関係を彼が考えたことを私は憶えている。1960年代には既に彼は遠アーベル幾何学についていくつかのアイデアを持っていた。

モチーフ
イリュージー: ブルバキセミナーで彼がモチーフについて語ることを許されなかったことを私は残念に思う。彼は6または7つの解説を求めたが、運営者達は多すぎると考えた。
Bloch: それはその当時ではちょっと珍しいです。他の誰もが彼等自身の研究について講義しなかった。
イリュージー: そうだが、いいかい、FGA (Fondements de la Géométrie Algébrique[訳注: 代数幾何学の基礎])は7つの解説から成っている。彼は、ピカールスキーム、ヒルベルトスキーム、等々に対してやったことをモチーフに対してもやろうと考えていた。
重要で役立つ、ブラウア群に関する3つの解説もあるが、モチーフに関する7つの解説はもっと興味深かったであろう。しかし、それらが今日まで解決されていない事柄を含んでいたであろうとは思わない。

ヴェイユとグロタンディーク
Bloch: かって私はヴェイユに19世紀の数論とそこにまだ解明されていないアイデアがあると彼が考えているかどうか聞きました。彼は"無い"と言いました(笑い)。
イリュージー: ヴェイユとグロタンディークの各々の長所が何であるかセールが思うことを彼と私は議論した。セールはヴェイユをより高く見なす。だが、ヴェイユの貢献は素晴らしいけれども、私自身はグロタンディークの研究はさらに偉大だと考えている。
Drinfeld: しかし、モジュラー形式の理論を有名な論文23で復活させたのはヴェイユですよ。おそらくグロタンディークはそれを出来なかったでしょう。
イリュージー: はい、これは確かに偉大な貢献だ。ヴェイユの本に関して言えば、Foundations of Algebraic Geometry[訳注: 代数幾何学の基礎]は読むのが難しい。先日セールは私にヴェイユがアファイン多様体に対する定理Aを彼の言葉で証明出来なかったと語った。そして、ケーラー多様体に関するヴェイユの本24ですら、私はちょっと難しいと感じる。
Bloch: 特にあの本は非常に影響力がありました。

グロタンディークのスタイル
イリュージー: はい、しかし、私はヴェイユのスタイルを余り好きでない。グロタンディークのスタイルはいくらか欠陥もあった。一つは始めは感知されなかったが、後に顕著になったものが後知恵と脚注の彼の習性だ。Récoltes et Semailles[訳注: 収穫と種蒔き]は、この点で怖ろしい。とても多く、とても長い脚注! ド・ラームコホモロジーに関するアティヤへの彼の美しい手紙に既に多くの脚注があり、それらは最も重要な事柄のいくつかを含んでいる。
Bloch: おお、私はコピーを見たことを憶えています。コピー機がさほど上手く動かなかった時に、初期のコピーを。彼は手紙をタイプし、その後で判読出来ない手書きのコメントを追加したものでした。
イリュージー: まあ、私は彼の手書きに慣れていたから、理解出来た。
Bloch: 私達はそこらへんに座って、頭を悩ましたものでした...。
イリュージー: 彼にとって、命題がベストなものは無かった。彼はいつももっと良い、もっと一般的またはもっとフレキシブルなものを探せた。問題に取組みながら、彼はしばらくの間それと一緒に寝なければならぬと言った。それらの中にオイルを持つメカニズムを彼は好んだ。このためには、規模を計り、練習(ピアニストのように)し、特殊ケース、函手性を考えなければならなかった。最後には、dévissage[訳注: この言葉は現代代数幾何学で頻繁に使われている用語なのですが、未だに正式な訳語も日本語表記も定まっていないようですので、そのままにします]に従うフォーマリズムが得られた。
1958年のシュヴァレーセミナーでのセールのトークの後で、エタール局所化が正しいHiを与えるだろうことをグロタンディークが確信した一つの理由は、いったん曲線の正しいコホモロジーを得たなら、曲線におけるファイブレーションとdévissageによって高次Hiにも届くはずということだと思う。
彼が写像を左から右への代わりに垂直に書いた最初の人だった思う25
DrinfeldSの上にXを書いたのは彼でした。それ以前は、Xは左、Sは右でした。
イリュージー: そう。彼はベースの上で考えていた。ベースはスキーム、トポスや任意のものであり得る。ベースは特殊な概念を持たなかった。重要だったのは相対的な状況だった。彼がネータリアンの仮定を取除きたかった理由がそれだ。
Bloch: そして、初期にスキーム、射は分離されていたことを憶えていますが、それからは擬似的分離になりました。

可換代数
イリュージー: ヴェイユの全盛期に、体、賦値、それから賦値環、正規環を見た。環は通常正規だと仮定された。最初からそんな系統だった制限をするのは馬鹿げているとグロタンディークは考えた。Spec Aを定義する時、Aは任意の可換環であるべきだ。
Drinfeld: すみません、しかし、環が正規だと仮定されているなら、人々は節曲線をどのように扱ったのですか? 非正規多様体が出現する...
イリュージー: もちろん、しかし、彼等はよく正規性を調べた。グロタンディークは正規性の重要さに気づいていて、正規性のセール基準が彼の深さ理論と局所コホモロジーに対するモティベーションの一つだったと思う。
Bloch: 現在そんな数学のスタイルが存在するのかと思います。
イリュージー: ヴォエヴォドスキーの研究はかなり一般的だ。多くの人がグロタンディークを真似ようとしたが、彼等がやったことはグロタンディークに大事な、あの"油のような"特徴に達しなかったのではないかと心配する。
しかし、グロタンディークが贅沢な構造を持つオブジェクトを研究して不幸だったとは言っていない。EGA IVに関して言えば、それはもちろん局所代数(彼がもっとも強かった分野)の傑作である。現在、余接複体を使用して何らかの書直しが可能かも知れないけれども、私達は多くをEGA IVに負っている。

相対的命題
イリュージー: 確かに今私達は或る問題を相対的形式に翻訳することに余りにも慣れているので、その時にそれが如何に画期的であったか忘れている。リーマン-ロッホのヒルツェブルフの証明は非常に複雑な一方で、相対バージョンの証明、すなわちグロタンディーク-リーマン-ロッホは、問題をはめ込みの場合にシフトさせて、非常にやさしい。これは素晴らしかった26
グロタンディークは確かにK-理論の父だった。しかし、Xを調べることはセールのアイデアだった。古き日々の人達は曲線に対するリーマン-ロッホの正しい一般化のアイデアが無かったと思う。曲面に対しては、式の両辺は非常に複雑だった。オイラー-ポアンカレ特性、つまりHi(O)またはHi(E)の次元の交代和は不変であることを調べるべきと認識したのはセールだった。それは1950年代の初めだった。そしてグロタンディークは普遍XK-群にあると分かった...。

テーゼデター[訳注: 学位論文制度のことですが、フランスは国家によって審査されて博士号が与えられます。日本のように大学単位の審査のような生易しいものではありません。それは少し前のSTAP騒動に関連してW大学のお粗末さを見れば理解出来ると思います]
Drinfeld: それで、グロタンディークが学生達のために問題を選んだ時、問題が解けることに余り注意を払いませんでした。
イリュージー: もちろん、彼は問題に注意を払い、それを解く方法を彼が知らなかった時、学生達に任せた。テーゼデターとはそのようなものだった...。
Drinfeld: 学位論文を書くのに何年掛かったのですか? 例えば、貴方は何年掛かったのですか? テーマを一回か二回変えねばならず、その間にSGAについて仕事をし、それは学位論文とは関係ありませんでした。それは人類にとって助かったことであり、貴方にとって良い訓練だったでしょうが、貴方の学位論文とは何ら関係ありませんでした。それで何年掛かったのですか?
イリュージー: 私が余接複対に関する研究を始めたのは1967年の終りだった。どうにかして、2年間で全部が終わった。
Drinfeld: しかし、これ以前に、問題の性質のためあまり成功しなかった試みがありました。いつ学位論文について研究を始めたのですか? 私が理解する限り、今でさえ米国の標準的累計時間は5年です。
イリュージー: もっとはっきり言えば、本質的に2年間学位論文をやった。1968年に、私がやったことをスケッチする手紙をキレンに送った。彼は"良い"と言った。そして、非常に急いで学位論文を書上げた。
Drinfeld: 貴方はそれ以前(グロタンディークのセミナーに参加し始めた時以前)大学院学生だったのですか?
イリュージー: CNRS [Centre National de la Recherche Scientifique][訳注: 国立科学研究センター]にいた。
Drinfeld: おお、貴方は既に...
イリュージー: そう、楽園のようだった。エコール・ノルマルに入って...
Drinfeld: はい、たしかに、私は分かります。
イリュージー: そしてまずまずの研究をし、カルタンが注目して"えっと、この学生はCNRSに行くべきだ"と言った。一旦CNRSに入れば、余生をそこで過ごすであろう。それは事実でない。当時のCNRSでの職は"役人"の一つではなかった。しかし、私は一所懸命だったから、私の契約は毎年更新された。
勿論、私達はエコール・ノルマルで数学をやっている15人だったかも知れないが、CNRSで多くの職は無かった。他の人は"助手"として職を得られたが、それはCNRSほど良くはないけれども、それでも妥当だった。
Drinfeld: そして、誰かがその都度、学位論文を終える時でないかと言いましたか?
イリュージー: まぁ、7年後なら問題になるであろう。私は1963年にCNRSで始まり、1970年までに学位論文を終えたのでセーフだった。
Drinfeld: そして、貴方が7年掛かった事実が将来の雇用に対する機会を減らさなかった?
イリュージー: はい。1963年から1969年まで研究助手、そして1969年から1973年まで責任研究員、それから1973年に主任研究者(今日の副ディレクター級と同等)に昇進した。近頃では、学生が5年後に学位論文を物にしないなら問題だ。
Drinfeld: 何が変わってしまったのでしょう...?
イリュージー: テーゼデターが禁止され、米国モデルに倣って普通の学位論文に置換えられた。
Drinfeld: 分かります。
イリュージー: 典型的には、学生は学位論文を終えるための3年間がある。3年後、フエローシップが終り、パーマネント職またはテンポラリー職(ATER = attaché d’enseignement et de recherche[訳注: 教育及び研究助手]またはポストドクに似ている)か職をどこかで見つけなければならない。
数年間、テーゼデターに従って、現在の学位論文制度に似た新制度を持つ過渡期システムがあった。今やテーゼデターは教授資格取得に置き換えられた。それは同じ種類のものではない。審査会でプレゼンするのは論文の集まりである。教授職に応募するために教授資格取得が必要なのだ。

グロタンディークの現在
知らない人: かも知れぬと貴方は言うでしょうが、グロタンディークは今どこにいるのですか? 誰も知らない?
イリュージー: 何人かの人は知っているかも。私自身は知らない[訳注: これはおそらくカムフラージュでしょう]。
Bloch: Googleに行って"Grothendieck"とタイプすれば...
イリュージー: グロタンディークのサイトを見つけるだろう。
Bloch: そう、そのウエブサイトです。彼はウエブのトポスを持っている...27
知らない人: 彼の息子に何があったのですか? 数学者になったのでしょうか?
イリュージー: 彼には4人の息子がいる。末の息子がハーバードで勉強したと聞いた。

EGA
Bloch: 今は学生にEGAに行って代数幾何学を勉強せよとは言えない...
イリュージー: 実は学生達はEGAを読みたがっている。特定の問題のためにEGAに行かなければならないこと、満足出来る答えを見つけられる唯一の場所であることを彼等は分かっている。そこに入るためのキーを、基本言語を彼等に教えなければならない。それから彼等は他の解説本よりもEGAを好む。もちろん、EGAまたはSGAは何から何まで読めるだろう本よりも辞書に似ている。
Bloch: 私がEGAについて馬鹿げているなぁと思った一つは、行き過ぎた後方参照だった。私が言いたいのは、一つのセンテンスがあって、そして7桁の数がある...
イリュージー: いや、貴方は大げさだ。
Bloch: ベールに包まれたカーテンの背後に後方の違う巻を探して見つけなければならない非常に興味深い事柄があるのかどうか、または実のところ全く当たり前で探す必要が無かった事柄への参照かどうか、分からなかった...
イリュージー: それがグロタンディークの一つの原則だった。つまり、すべての所説が参照または証明によって正当であるべきだ。"トリビアル"なものでさえも。"それは明白だ"、"容易にチェックされる"のようなフレーズを彼は憎んだ。いいかい、彼がEGAを書いていた時、彼は未知の領域にいた。明確な設計図を持っていたけれども、逸脱することは簡単だった。それが部分的に、彼がすべての事柄に正当化を欲した理由だ。彼はデュドネにも理解して欲しかった!
Drinfeld: EGAへのデュドネの貢献は何だったのですか?
イリュージー: 彼は書直し、詳細の穴埋め、補足の追加、証明の洗練をした。しかし、グロタンディークの最初の草稿(状態 000)―私もその一部を見たことがある―は非常に凝っていた。近頃ではそんな有能なTEXシステムがあって、原稿は見栄えがいい。グロタンディークの全盛期には、プレゼンテーションはそれほど美しくなかったかも知れぬが、デュドネ-グロタンディークの原稿はそれでも素晴らしかった。
デュドネの最も重要な貢献は、完全局所環(優秀環において基本である)を持つ、正標数における微分を扱っているEGA IVの部分だったと思う。
また、グロタンディークは倹約しなかった。彼は、いくつかの補足(たとえすぐに役立たなくても)が後で重要になり得るので削除されるべきでないと考えた。彼は理論の全貌を見て欲しかった。
知らない人: グロタンディークがEGAに取組み始めた時に、後で出現するであろうもの(例えばエタールコホモロジー)のビジョンを持っていたのですか? いくつかの応用を心の中に持っていたのですか?
イリュージー: 1960年のEGA Iの初版の中でEGAに対して彼が与えるプランが彼の当時持っていたビジョンを十分に示している。

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今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

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