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ブルバキの沈黙は続く―Pierre Cartierへのインタビュー

数学を勉強した人なら多少なりともブルバキを御存知でしょう。でも、ブルバキのどれかの巻を通しで読んだ人は多くないと思います。私も例外を除いて読んだこともなく、読みたいとも思いません。例外というのは、"Algèbre commutative"を持っており、いやいやながら必要箇所のみ見るだけです。仏語の数学論文を読むと、"Algèbre commutative"からの引用もしくは参考文献として挙げていることが多いのです。ですから、一応チェックのために見るだけであって、読むために購入したのではありません。
私から言わせれば、世の中には数学書に限らずいろいろな本がありますが、ブルバキほど読む気にさせない本も珍しいのではないかと思います。ブルバキの全盛時代に、故岡潔博士が"数学の冬の時代"と批判したとか。これには私ごとき下辺な人間でも頷けるものがあります。ちょっと目を通すだけでも、余りの冷たさに涙が出そうになります。
ところが、不思議なことにブルバキの個々のメンバーが個人的に書いた本は、名著もしくは良書が多く、お勧め出来ます。例えば、クロード・シュヴァレーの"Theory of Lie Groups"はまっ先に挙げられます。難解と言われた、アンドレ・ヴェイユの"Foundations of Algebraic Geometry"は、グロタンディークの代数幾何学における大改革の後に、一挙に古典になってしまったとか言われますが、今でもイタリア学派の研究を知るのには一番いいと思います(勿論、伊語が出来る人は原論文を読めばいいのですが)。ローラン・シュワルツの"Cours d'analyse"もいいですね。シュワルツという人は教え方が非常に上手い先生ではないかと思いました。先に言及したグロタンディークも有名な"Éléments de géométrie algébrique"があり、大部で全部読むなんてことは不可能に近いのですが、読む気にさせます。それなのにもかかわらず、メンバーが集まったブルバキでは何故あんなに醜悪なのか不思議です。
さて、以前に故Serge Lang博士が一時的にもブルバキにいたことを示す資料を御存知なら教えて下さいと書いたことがありました。全く情報提供がありませんでしたが、自分でとうとう見つけました。ブルバキ第3世代にいたPierre Cartier博士のインタビュー記事です。私の想像ですが、このインタビューはおそらくフランス語で行われて、後に英語に直したのだと思います。以下に、その私訳を載せておきます。

[追記: 2013年10月22日]
Pierre Cartier博士と同時期にブルバキにいたアルマン・ボレル博士による回想録"ニコラ・ブルバキと共に25年間 1949年–1973年"もあります。

[追記: 2016年10月24日]
ブルバキに関しては他にも"ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"、"ブルバキと代数トポロジー"で採り上げています。

[追記: 2018年05月29日]
ブルバキの中の人の観点ではなく、編集者の観点から見たブルバキについては"存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ"があります。

[追記: 2019年03月19日]
このペィジは2011年09月09日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。

ブルバキの沈黙は続く―Pierre Cartierへのインタビュー
1997年6月18日 Marjorie Senechal

ニコラ・ブルバキ 1935-????
貴方が現在活動している数学者なら、少なくともスタイルと精神において、おそらく認識している以上に相当な程度にまで、ブルバキにほぼ確実に影響されている。しかし、貴方が学生なら、彼(彼等)のことを聞いたことがないかも知れない。ブルバキとは、何(又は、何者)なのか(又は、だったのか)?

当てはまるものの多くをチェックしょう。ブルバキは事情に応じて以下のようである(又は、だった)。
・数学的構造の発見者(又は、お好みなら発明者)
・20世紀の大きな抽象化運動の一つ
・少数だが、非常に大きな影響を持つ数学者のコミュニティ
・15年間、公開されなかった集団

その答えは上記全部である。それらは、思想史の中で密接に織り成す4つの重要な章だ。その章を書くべき時なのか? ブルバキの歴史は終わりに来ているのか?

エコール・ノルマル・シュペリウールで数学者の少数グループが彼等が教えているコースに不満を持ち、再編しょうとした時、ブルバキは1935年にパリで誕生した。大抵の数学者はその経験を一度やそこら持っているが、ブルバキの不満の範囲は急速に大きくなり限りがなかった。1939年までにニコラ・ブルバキの筆名のもとで匿名集団として書き、数学自体の理論と実際を変化させる意図の本のシリーズを刊行し始めた。最初から、ブルバキは数学の一貫性と統一性において熱烈な信奉者であり、数学のすべてを統一的に書き直すことにより、一貫性と統一性を示すことに自己を捧げた。その最終目標は、全定式化と完全厳正である。戦後の数年で、ブルバキは反逆者から権威と変わった。

ブルバキ自身の改革のため明確なルールを与えた。随時、若い数学者が入会し、老数学者は50歳"強制"辞任した。今、ブルバキ自身はメンバーの誰よりも20歳近く年長だ。長く続くブルバキ・セミナーはパリで尚も活動的であり生存しているが、ブルバキ自身の声(本を通して述べるのだが)は15年間静かである。再び喋るのか? 喋れるのか?

Pierre Cartierは、1955年から1983年までブルバキのメンバーだった。1932年フランスのスダンに生まれ、パリにあるエコール・ノルマル・シュペリウール(そこで、アンリ・カルタンのもとで勉強した)を卒業した。彼の学位論文(1958年)は代数幾何学についてだった。その時以来、数論、群論、確率論、数理物理学を含む多くの数学分野に貢献して来た。Cartier教授は1961年の始めストラスブールで10年間教え、そこからCNRS(フランス国立科学研究センター)に移った。1971年より、ビュール=シュリヴェットにあるIHES(フランス高等科学研究所)の教授であり、エコール・ポリテクニークとエコール・ノルマルで教えたが、いろいろあるうちでも認識論に関するセミナーを起こしている。1979年には、フランス科学アカデミのアンペール賞を授与された。

Cartier教授は、チリ、ベトナム、インドを含む発展途上国の国内科学発展を支援するいろいろなプログラムに参加して来た。彼は芸術と数学の著者でもある。ブルバキの沈黙を議論する資格を持つ人は殆どいない。私達はThe Mathematical Intelligencerの読者と共に、議論に賛同してくれた彼に感謝する。

インタビュー
Senechal: 先ず貴方のブルバキとの関係を話して下さい。

Cartier: 記憶している限り、私がブルバキを知ったのは1951年の6月だった。私はエコール・ノルマルの一年生で、アンリ・カルタンが私の数学教授だった。彼の求めで、ブルバキは私をアルプスのペルヴォでの会合に招待した。私達はいろいろなこと、特にリー群の基礎に関するローラン・シュワルツによるテキストを議論したことを憶えている。リー群に関する有名なブルバキシリーズの第一稿の一つだった。シュワルツの超関数の発明(これは彼を有名にした)から間もない時だった。エコール・ノルマルで数学学生全員がアンリ・カルタンとローラン・シュワルツ(彼は1952年にナンシーを離れパリに行った)両者の学生だったことを理解しなければならない。私達は彼等のセミナーとコースに出席し、あちらこちらで彼等の新しいツールを使おうと頑張った。Francois Bruhatと私は、リー群論と表現での超関数の重要性について始めて理解した中にいた。Bruhatは学位論文をこれらのトピックスにあてたが、私はずっと後に寄稿を発表しただけだ。

私にとって、内部からの露出は重要だった。私が遠くから知っていた、これらの偉大な人達を見ることは驚きだった。私は全く素直に受入れられた。私がメンバーとして正式に受入れられるまでに3,4年以上かかった。50年代と60年代には、ブルバキ内部のコアから外側へと、絶え間ないスペクトルがあった。本の中で印刷された研究は、セミナーで報告されたものであり、学生の研究は密接にリンクされた。それが、当時のフランス数学の偉大な成功の一つの理由だと私は思う。勿論、当時は全く異なった。規模がずっと小さかった。その頃、フランスの数学では一年に約10の博士号があった(現在の300と比較せよ)。

最初の会合で私は彼等の言うモルモットだった。私は非常に熱心だった。先ず第一に、現代数学で私が見た最初のことだった。私は小さな町の出身で、戦争のため困難な状況から来た。すごい田舎の、非常に時代遅れな高校の生徒だった。私の先生の何人かは非常に良かったが、彼等は勿論現代科学に疎かった。洗練されてなく本物でない方法で教えられた数学は古典的幾何学だった。私は幸いにも物理学で斬新な教師を持った。だから、最初は物理学者になりたかった。私はエコール・ノルマルに入る前は、パリのリセ・サン=ルイの学生で、非常に風変わりな教師Pierre Aigrain(海軍アカデミーを卒業し、1950年には物理学助教授だった。最終的にジスカールデスタン大統領のもとで科学相になった)から物理学の個人授業を取った。通常、優秀な学生は2年間で課程を終えるが、私は1年で終えられた。だが、当時私が教えられた物理学と数学の両方は全く旧式だった。ソルボンヌでの一般物理と呼ばれたコースで教授が厳かな宣言をしたことを憶えている。すなわち、"諸君(教授は女性に言及しなかったが、女子学生は殆どいなかった)、私のクラスでは、何人かが言うところの'原子仮説'は存在しない"と言った。それは広島の5年後の1950年だった! そこで私はAigrainのところへ行き、"私は何をすべきでしょうか"と言った。"そうね、勿論君は学位を取らなければならないが、君にきちんと物理学を教えましょう"と彼は言った。これは、当時のフランスの大学が何であったかを示す。ブルバキの影響を理解するためには、そのことを理解しなければならない。ブルバキは真空の所に入って来た。多くの人がこの理由を議論して来た。ここで再度議論すべきでないと私は思う。だが、明らかに50年代、科学の教育はお粗末だった。全システムを覆すためにブルバキは約5年又は6年かかった。1957年又は1958年までにはパリにおいて全転覆は完了した。

Senechal: しかし、ブルバキは30年代に始まったのでは...

Cartier: 最初の本は1939年に刊行されたが、戦争があり、事を遅らせ、またアンドレ・ヴェイユは米国、クロード・シュヴァレーは米国にいたし、ローラン・シュワルツはユダヤ人だから戦争中隠れていなければならなかった。ブルバキは戦争中、アンリ・カルタンとジャン・デュドネだけで生き残った。だが、30年代に為された研究は50年代に開花した。私達若い数学者が新刊を買うため書店に行くことにどれほど熱心だったか憶えている。その時は、毎年少なくとも1,2巻を刊行した。

1955年に私が正式メンバーになった時、すべての人が50歳で離れるルールに従わなければならなかった。だから、私はほぼ51歳の1983年に離れた。私の人生のほぼ30年間、そして私の研究の少なくとも3分の1をブルバキに捧げた。ブルバキの研究慣習は、本が刊行される前に、多くの予備草稿を必要とした。当時、私達は年に3回会合、秋に1週間、春に1週間、夏に2週間を持ったが、それは毎日10乃至12時間の一ヶ月のハードワークだった。刊行された本は約1万ページを含むが、それは毎年約1000から2000ページの報告と草稿が書かれたことを意味する。ブルバキと一緒だった期間に私は毎年約200ページを書いたと見積もっている。

Senechal: 当時は何人が所属していたのですか。

Cartier: 約12人だ。いつも少なく、非常に限定されたグループだった。セミナーは異なり、非常にオープンだった。しかし、それでも1950年代のセミナー本の目次を見れば、論文の約半数がブルバキのメンバーによって書かれた。その頃、セミナーとグループの相互関係は非常に強かった。今はもうそうではない。セミナー本はまだ優れたシリーズだが、ブルバキ機関とは何の関係も無い人によって通常書かれている。だが当時は、人々は彼等の発見の一部又は、後に本で明らかになるブルバキのアイデアの予備解説をセミナーシリーズで発表した。

私は典型的に第3世代のメンバーだった。4つの世代があったと言ってよい。第1世代は開祖だった。アンドレ・ヴェイユ、アンリ・カルタン、クロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、ジャン・デュドネは30年代にグループを創設した人々だった。他に最初は加わったが、すぐに抜けた人もいた。そして、第2世代、戦中又は戦後すぐに招待された人々がいた。ローラン・シュワルツ、ジャン・ピエール・セール、ピエール・サムエル、Jean-Louis Koszul、Jacques Dixmier、Roger Godement、サミー・アイレンバーグ。第3世代は、Armand Borel、アレクサンダー・グロタンディーク、Francois Bruhat、私、サージ・ラング、John Tateだった。

Senechal: これらの世代に心構え又は考え方に違いがあったのですか。

Cartier: 彼等は全然違った。ますます実際的になり、ますます教理的でなくなったと思う。

Senechal: そのことはブルバキの研究にどのように現れていますか。

Cartier: 最初から、ブルバキの研究書は2つの部分から成るとして計画されていた。第1部は基礎に関してで、集合論、代数、一般トポロジー、初等微積分、位相線型空間、(ルベーグ)積分論に関する6つの本から成る。これらの本の最後の4つは解析学の基礎を与える(関数解析への強い偏りを持つブルバキによって、そう了解されていた)。第2部は、もっと野心的なプロジェクトには達しなかったが、リー群と可換代数に関する2つの成功したシリーズから成る。第2、第3世代のブルバキメンバーのリストを振り返って見ると、その時代の世界的指導者の幾人かがそこにいたことと、ブルバキの研究の第2部の広さと深さに対する説明を実感する。

古い世代は古い形で数学を学んだ。

彼等は数学を改造するための人々だった。第2世代は既に新しい教えを受けていた。私の世代、第3世代は基本的に新しい方法で教えられているので、新しい方法が古いものよりいいことを証明する必要が無かった。私は高校では古い方法で教えられていたから、ちょうどボーダーラインにいたと思うが、パリに行った時に新しい考え方を学んだ。だから、私達は何も証明する必要が無いので、ますます教理的でなくなった。フランス数学のコアはブルバキに投降した。知的観点のみならず、学界方面でもブルバキは力を握った。組織的観点から、ブルバキが勝利したことは明らかだった。

リー群に関する数巻を見れば、新しい巻にはブルバキとは思えぬ数章が入っていることが分かるだろう。それは、ますます露骨になった。つまり、表と図がある。これは基本的に一人の人物、Armand Borelの影響だったと思う。彼はジョージ・バーナード・ショーの"綺麗な御婦人さん、スイスの国民性ですよ"を引用するのが好みで、議論の最中にも、よく"私はスイスの田舎者だ"と言ったものだ。

当時は勿論、微分幾何学が花盛りで、ブルバキにとっていつも大きな挑戦だった。アンリ・カルタンの父が幾何学者エリ・カルタンだったことを憶えていなければならない。ブルバキは、ただ一人エリ・カルタンをゴッドファーザーに認めていて、30年代の他のフランス数学者を非常に嫌った。ブルバキは、ポアンカレすら長い苦心の後に受入れた。私が50年代にグループに参加した時、ポアンカレを全く評価しなかった。ポアンカレは時代遅れだった。勿論、ポアンカレに関する見方は全く変わった。だが、ポアンカレのスタイルとブルバキのスタイルは全く違っていることは明らかだ。

第4世代は大雑把に言って、グロタンディークの学生のグループだった。しかし、その時既にグロタンディークはブルバキを離れていた。彼は10年間ブルバキに所属したが、怒って出て行った。当時、その個性は非常に強烈だった。よく衝突があったことを憶えている。どの家庭にもあるように、世代間対立も普通にあった。そんな小さなグループは、多かれ少なかれ一家族の心理的特徴を再現したと思う。だから、私達は世代間衝突、兄弟間衝突等をした。たとえ衝突が時に冷酷であっても、ブルバキの主要な目標を錯乱しなかった。少なくとも目標は明快だった。この心理的スタイルの重さに耐えかねた人々がいた。例えば、グロタンディークは去り、ラングは途中で脱落した。

"ブルバキの最初の数冊を数学の百科事典として考えてよいが、教科書として考えるならば、それは大失敗である"

Senechal: 目標はいつも人々の心の中ではっきりしていたのですか、それとも変わっていたのですか。

Cartier: 変わっていた。第1世代は無からプロジェクトを造った。彼等は方法を案出しなければならなかった。そして40年代には、方法が出現し、ブルバキはどこへ行くべきか知ったと言える。目標は数学の基礎を与えることだった。数学全部をヒルベルトのスキームに服従させなければならなかった。代数に対してファンデルベルデンがしたことを残りの数学に対してもしなければならなかったのだろう。含めるべきことは大体明白だった。ブルバキの最初の6巻は、現代の大学院生の基礎的知識を含む。

誤解は、多くの人が本に書かれた通りに教えられるべきだと考えたことだ。必要な情報すべてを含んでいるから、ブルバキの最初の数冊を数学の百科事典として考えてよい。それは素晴らしい解説だ。だが、教科書として考えるならば、大失敗だ。

Senechal: 貴方がブルバキのメンバーだった時、そのことに気づいていたのですか。ブルバキの人々はこれが教科書でないと分かっていたのですか。

Cartier: 大雑把にはね。しかし、今ほどはっきりしていない。私達は教科書を持っていなかったと思うので、それについていくつか誤解があった。私が代数とトポロジーをどのようにして学んだか、非常によく憶えている。私が学生だった時、ブルバキの新刊の時はいつも買うか、又は図書館から借りるかして勉強したものだ。私にとって、私の世代の人にとって、それは教科書だった。しかし、誤解は、すべての人にとって教科書であるべきことだ。それは大いなる失敗だった。

とにかく、その時までに計画の範囲は大体明白だった。だが、その後、ブルバキは何をすべきなのか? 第2世代は既存する方法を持っており、明確に記述された境界を持つ計画を展開すればよかった。第3世代は、それを超え、開かれた世界(当時は一般的に幾何学、すなわち代数幾何学、微分幾何学、多変数関数論、リー群、モジュライ空間等を意味した)に入らざるを得なかった。ブルバキは結晶群の幾何学に特別な章を割くべきというアイデアについて私に責任があると思う。その理由は、リー群のシリーズの導入の中に明確に述べられている。コクセターは、結晶群に対するリー群の関係とその分類を最初に理解した。確かに、リー群について研究していた人は元々、他の人よりも、もっと幾何学的でもっと実際的だった。だが、結晶群に優位を与えるべきことをブルバキの同僚に納得させるため大変な困難と闘わなければならなかったことを憶えている。

Senechal: ブルバキのコクセターについての意見は何だったのでしょうか。

Cartier: 60年代までに彼の研究の重要性について人々は理解したと思う。Borelは多くの同じアイデアを持っていたし、Jacques Titsも役割を果たした。Titsの数学的方法は、ブルバキよりも精神的にずっとコクセターに近かった。彼はブルバキの正式メンバーでなかったが、私達と長く協力した。匿名性のルールを破らない彼の協力に対して、私達は本の中で彼に感謝出来た。Titsは非常に親切だった。彼は多くの問題を私達に提供したし、多くの彼の結果は始めてブルバキ本で発表された。だが、勿論彼は数学を考えるのに非常に異なる方法を持っていた。

第2世代と第3世代で、2つの主要なシリーズは、一方は可換代数(裏方に代数幾何学を付けて)、他方はリー群だった。ブルバキは実際には集団で、すべての人が多かれ少なかれ全巻に寄与した事実にもかかわらず、スタイルと強調に明確な違いがある。セールは両方の達人だった。最初はリー群の専門家でなかったが、専門家になった。第1世代のヴェイユのように、セールは数学に対して博学的アプローチを持つ唯一の人だったから、第2世代の当然のリーダーだった。だが、彼等のどちらも解析学者でなかった。確かに、ブルバキの内容は解析学よりもずっと代数、代数幾何学に関して量が多い。

第4世代までに、目標は不明瞭となった。ブルバキの外で、グロタンディークは彼自身の計画を展開していたので、ブルバキに対するニーズははっきりしなかった。そして、数学に対する広い理解の不足もあった。メンバーの興味は更に特殊化された。

新しい計画に焦点を当てるためグループ内でいろいろな試みがあった。例えば、しばらく、多変数関数論を展開すべきだというアイデアがあって、多くの草稿が書かれた。しかし、部分的にはあまりにも遅すぎた(と私は思う)ので、成熟しなかった。70年代にグラウエルトやその他の人による、多変数関数論について多くの良い教科書が既にあった。70年代の終わりまでに、ブルバキの方法はとてもよく理解され、すべての人がこの精神で書く方法を知った。すべての世代の教科書と本があり、これはブルバキの影響だった。ブルバキは、やることが残されていないのでエネルギーの一部を、いわゆる"新版"に本を改訂することに捧げた。改訂はほぼ完了した。これらは徹底的な改訂だった。

Senechal: 改訂はスタイルの変更を含むのですか。

Cartier: いや、含まない。しかし、例えば、距離空間のトポロジーに関する節はもっと発展して深まり、証明は改良された。確率論と、ブルバキが示したルベーグ積分の方法のギャップを橋渡しする小さな巻がある。それは、ブルバキの明らかに間違った見解の一つを正す試みだった。

Senechal: 放って置かれたと貴方が思う数学の分野は何でしょうか。

Cartier: 初等微積分の良い巻(ジャン・デルサルトの影響だった)があるけれども、何よりも解析学だ。本質的に、基礎を超えた解析学が無い。組合せ数学、代数トポロジー、有形幾何学についても無い。ブルバキは真剣にはロジックを考えなかった。デュドネ自身がロジックに大反対した。

数理物理学に関連するものは完全にブルバキ本からは欠落している。ブルバキセミナーで、私は数理物理の問題を強調する長い論文を寄稿した。しかし、一度だけであり、私の寄稿は喧嘩無しに受入れられるとは限らなかった。

だが、ブルバキに考慮されなかった数学の分野でも、最近30年を振り返って見れば、その発展はブルバキ精神に非常に影響されて来たことは明らかだ。

Senechal: 物理学に対して偏見があったのですか、もしくはブルバキはただ考えなかっただけですか。

Cartier: まぁ、殆どの人に偏見があった。最初、ブルバキグループの中で私はちょっと異端だったと思う。私は長年数理物理学に興味を持っていた。数年前、アンドレ・ヴェイユとの議論の中で、ちょうど彼が自身の自伝を刊行した後だったが、"1926年、ゲッティンゲンにいたと貴方は言った。1926年にはゲッティンゲンであることが起こった"と私は言った。そして、ヴェイユは"ゲッティンゲンで何があったんだい?"と聞いた。"えっ、量子力学ですよ!"と私は言った。"それが何か知らない"とヴェイユは言った。彼は1926年にヒルベルトの学生だった。ヒルベルト自身が量子力学に興味を持ち、マックス・ボルンやハイゼンベルグ、その他の人がそこにいたが、明らかにアンドレ・ヴェイユはそれに何の注意も払わなかった。私は最近、ヘルマン・ワイルの空間の哲学について一般講義をする機会があって、彼に関する文献を注意深く読んだ。シュヴァレーとヴェイユによって書かれたヘルマン・ワイルの死亡記事がある。もっともな理由で彼等は褒めているが、物理学での彼の研究について言及が無く、一般相対性理論の彼の研究さえも無い。誰に聞いても、ワイルの本のベストな2冊は、一般相対性理論に関するものと量子力学に関するものだ!

Senechal: ブルバキの最新の刊行は1983年でした。何故、今何も刊行しないのですか。

Cartier: それにはいくつかの理由がある。先ず、印税と翻訳権に関するブルバキと出版社の衝突があり、長くて不愉快な法的プロセスになった。問題が1980年に解決した時、ブルバキは新しい出版社と取引することを許された。古い巻の改訂に向けて70年代に為された拡張研究を使って、新版の形で再刊行出来た。更にもう2,3巻で既存のシリーズを完成させたが、それからは...沈黙だ。

簡単に決まった"最終版"という目標以上に、ブルバキは新しい方向を体系化するため70年代と80年代に苦しんだ。多変数関数論の失敗プロジェクトについては既に述べた。ホモトピー理論、オペレーターのスペクトル理論、指標理論、シンプレクティック幾何学の試みがあった。だが、これらの試みはどれも予備段階を超えなかった。数学の教理的見解(確かなフレームワークの中では、全てが集合であるべき)を持っていたから、ブルバキは新しい捌け口を見つけられなかった。一般トポロジーと一般代数に対しては、その教理的見解は全く妥当だったし、それらの分野は1950年くらいには既に固まっていた。少なくとも、数学の統一性の存在を信じるならば、数学に対して一般的な基礎が必要であることは殆どの人が今や賛成している。しかし、私は今、この統一性は漸進的であるべきだと信じるが、ブルバキは構造的観点を主張した。

Hubertの見解に従うと、集合論は非常に強制的な一般フレームワークを与えるためとブルバキに思われている。ロジックの基礎を欲しいならば、集合論よりもカテゴリの方がもっと柔軟だ。その要点は、一般の哲学的基礎(すなわち百科事典的又は分類法的)な部分と、数学的立場で使用するための効率的な数学ツールの両方をカテゴリは提供することだ。対照的に、ブルバキ集合論の最終章を読めば、カテゴリを持たないでカテゴリを体系化する恐ろしいまでの努力とともに、集合論と構造はより強固なことが分かるだろう。

カテゴリ論が多少なりともブルバキの発案だったことは驚きだ。その2人の創始者はアイレンバーグとマクレーンだった。マクレーンはブルバキのメンバーではなかったが、アイレンバーグはメンバーだったし、マクレーンは精神的に近かった。ホモロジー代数の最初の本はカルタンとアイレンバーグだったが、両人がブルバキで活動的だった時に刊行された。グロタンディークにも触れよう。彼はカテゴリを非常に広大な範囲にまで発展させた。私は自分の研究の多くで、カテゴリを意識的又は無意識的な方法で使って来たが、ブルバキの殆どの人がそうだった。だが、思考方法が非常に教理的、又は少なくとも本にある表現は非常に教理的だったから、いったん刊行プロセスが始まれば、ブルバキは重視点の変更を受入れられなかった。

80年代が自然な限界だったと思う。アンドレ・ヴェイユのプレッシャーのもと、すべてのメンバーは50歳で引退すべきとブルバキは主張した。80年代に私はジョークとして、ブルバキ自身が50歳になる時に引退すべきと言ったことを憶えている。

Senechal: これは多少偶然だったように思います。

Cartier: そうだね、すべての既存数学に基礎を与えるという目標は達成されたことが主要な理由の一つだと思う。だがまた、そんな固い様式では新しい発展を含めることは非常に難しい。重視点を変えるならば、まだ可能だ。しかし、50年後、重視点は変わってしまった。

Senechal: それについてもう少し話していただけますか。

Cartier: アンドレ・ヴェイユは時代精神を語るのが好きだった。ブルバキが30年代の始めから80年代まで続き、一方ソビエトシステムが1917年から1989年まで続いたことは偶然ではない。アンドレ・ヴェイユはこの比較を好まない。"私は共産党員だったことはない!"と、いつも言う。20世紀はサラエボ1914年からサラエボ1989年まで続いたというジョークがある。1917年から1989年までの20世紀はイデオロギーの世紀、イデオロギーな時代だ。

Senechal: そのイデオロギーは、全目的かつ永劫的にサービス出来る青写真の概念を意味しているのですか。

Cartier: 最終解決を意味する。その言葉を嫌うもっともな理由があるが、心の中で私達は最終解決に辿り着けられると思った。ハーバート・ジョージ・ウェルズに"近代のユートピア"という本(ぜひ再刊すべきだ)がある。たまたま、ソビエトシステムの崩壊の時に私はそれを読んでいた。ご存知の通り、ウェルズは1917年の10月革命に非常に好意的で、一般的に認められているように、彼はソビエトの友人だった。だが、彼は鋭い頭脳の持ち主で、展開を予想出来るという鋭い歴史観を持っていた。たとえ彼が新しい時代に興奮したとしても、最終解決は存在しないし、今後社会は永久に留まるという社会歴史的均衡に辿り着けられると考えるのは間違いだと、彼は分かっていた。ウェルズはこの考え方に非常に反対した。彼の本を読めば、強迫観念の一つとして、それが分かるだろう。

ヒルベルトは時代精神を反映したと思う。彼の声の録音がある。ヒルベルトに関するコスタンス・リードの本には、そのフロッピーディスクがあり、30年代ドイツでヒルベルトが行ったいくつかのスピーチの録音だ。非常にイデオロギー的だ。当時ヒルベルトは年老いていても見解は揺らいでいなかった。

その時代の言明とともにシュールレアリストの言明とブルバキの導入部を並べるならば、それらは非常に似ている。私の娘は最近、映画撮影技法に関する本を翻訳している。イタリア未来派に関する章の中に、非常に似ている言明がある。科学、芸術、文学、政治、経済、社会的関心事に、同じ精神があった。ブルバキの目標は新しい数学を造ることだった。ブルバキは他の数学書を引用しなかった。ブルバキは自給自足だ。勿論当時、ソ連の共産党員は同じ事を言っていた。私達は今や、それが嘘であり、その時代のリーダーは自分達が嘘を言っていることを知っていたことが分かる。確かにブルバキは嘘を言っていないが、それでも同じ精神だった。それがイデオロギーの時代だった。ブルバキは新しいユークリッドだったし、次の2000年の間に書くだろう。

"彼にとって、問題を全体として見ること、証明の必要性を見ること、その広大な影響を見ることは重要だった。厳正さについては、ブルバキの全メンバーはそれに注意した。ドイツ数学(すなわち、ヒルベルト主義)と比べてフランス数学に厳正さが足りないことから、ブルバキ運動が本質的に始まった。厳正さは余計な詳細の増大を取り除くことから成った。逆に言えば、厳正さの不足は、成功するために沼の中を歩いて汚物の類を取り除くような証明の印象を私の父に与えた。いったん汚物を取り除けば、数学的オブジェクト、本質が構造である結晶化された本体の類を得られた。構造が構築された時、父は、彼に興味を持たせるオブジェクトであり、見る価値があるもの、崇拝すべきもの、おそらく向きを変えて見ても変更すべきものがないものだとよく言っていた。彼にとって、数学における厳正さは、以後変わらず存続する新しいオブジェクトを造ることから成っていた。
父が研究した方法は、もっとも大事なもの、この不滅なオブジェクトの制作だったように思う。オブジェクトはもう改造又は変更されることはなかった。と言っても、これにはネガティブな言外の意味があったのではない。だが、父は美学的理由でオブジェクトを殺すための一方法として数学を考えた、おそらく唯一のブルバキメンバーだったことを付け加えなければならない。"
Nicolas Bourbaki: Faits et legendes (1988) 収録の"Claude Chevalley described by his daughter"より

Senechal: 何故ブルバキの大部分にビジュアルな絵の類が不足しているのでしょうか。

Cartier: その一番いい答えは、シュヴァレーの娘が書いた記述[訳注:上の囲み記事]だろうと思う。ブルバキはピューリタンで、ピューリタンは彼等の信仰の真理の絵的表現を強く嫌っている。ブルバキグループ内の新教徒とユダヤ教徒の数は圧倒的だった。フランス新教徒は特に精神的にユダヤ教徒に近いことは御存知だろう。私はいくらかユダヤ人家族歴があり、ユグノーとして育った。私達は旧約聖書の人であり、フランスの多くのユグノーは新約より旧約聖書にずっと惹かれている。私達は時にイエスよりもヤハウェを崇めている。

さて、その理由は何だったのか? 確かに一般的な哲学はカントによって発展した。ブルバキはドイツ哲学のアイデアだ。ドイツ哲学の見解を科学に広めるためブルバキは造られた。アンドレ・ヴェイユはいつもドイツ科学を好み、ガウスをいつも引用していた。好みと自身の個人的見解を持つ、これらの人々すべてがドイツ哲学の支持者だった。

芸術と科学は正反対という考えがあった。感情、視覚的意味、記述されない類推に訴えるから、芸術は脆く、死を免れない。

だが、それもユークリッド信者の伝統だと思う。ユークリッドにはいくらかの図があるが、それらの大部分がユークリッドの死後、後の版に加えられたことはよく知られている。オリジナルにある図の大部分は抽象的な図だった。いくつかの命題について理由付けを作り、線を引くが、それらは幾何学的な線を意図したものではなく、ただ抽象的概念の表現に過ぎない。また、ラグランジュは力学の本の中で、"私の本には図が見つからないだろう!"と誇らしげに言った。解析的精神は、フランスとドイツの伝統の一部だった。そして、バートランド・ラッセルのような人々の影響のためでもあると思う。ラッセルはすべてを形式的に証明出来る、すなわち、いわゆる幾何学的直感は証明の中では信頼出来ないと主張した。

ブルバキの抽象性と視覚への軽蔑は、当時の音楽と絵画において抽象的傾向で書かれたように大流行の一部となった。

Senechal: ブルバキのメンバーは抽象音楽と抽象芸術の価値が分かったのですか。

Cartier: 抽象音楽又は芸術にさほど好みはしなかったと思う。概して、彼等は標準的なブルジョア感覚を持っていたと言えるだろう。教育されたブルジョア、つまり無教養なガサツ者ではない。例えば、カルタンとデュドネは音楽の愛好者であり、実演者だったが、非常にクラシックだった。新教徒教育の中で、カルタンは確かにバッハを非常に好んだ。デュドネはかなりの腕前のピアノ演奏者で、アマチュアレベルではかなりものだったし、彼は素晴らしい記憶力の持ち主だった。彼は何百もののスコアを諳んじ、すべての音譜に付いて行けた。彼と一緒に何回かコンサートホールへ行ったことを憶えている。彼が手に持っているスコアを見て、オーケストラが音譜を抜かすと"おや!"とよく叫んだものだったが、それは非常に面白かった。彼は人生の最期の6ヶ月を割いて、すなわち数学人生が終わったと決心した時、最後の本を書き、レコードを聞き、スコアと音符に付いていくために家へ引き篭もった。

数学の革命家が他の事では革命家でなかったことを知るのは面白い。ブルバキグループの中で、ブルバキのイデオロギーと他のイデオロギーの関係に気づいていた唯一の人はシュヴァレーだったと思う。彼は、政治と芸術において、いろいろな前衛派グループの一員だった。シュヴァレーの作品集の編集者として、私は数学の他の作品についても特別な巻を含めると決心し、彼の娘に催促した。彼は様々なパンフレットとノートを書いていた。キャザリン・シュヴァレーはこれらの物を集めるのに大変な仕事をしなければならないだろうし、私達は彼の作品集の一部として、それらを刊行するだろう。

シュヴァレーは、ブルバキとその他の関係を理解した唯一の人だった。そして、それが70年代に他者よりも批判的だった理由かも知れない。70年代に、賢明な人は既に長い歴史的傾向の終りを見抜くことが出来、彼はこれに非常に敏感だったと私は考える。数学は彼の人生の最も重要な部分だが、数学とその他の事に線引きをしなかった。彼の父親が大使だったからかも知れないが、彼はいろいろな人と接触を持った。

Senechal: ブルバキ衰退の主な理由を話していただけますか。

Cartier: 既に言った通り、長い法廷バトルの他に、80年代は定まった目標が無かった。法廷バトルは、世紀の好例の一つだったと思う。ピカソと藤田の相続人のために闘った有名弁護士を雇った。私達は不自然に生き延びた。すなわち、私達はこのバトルに勝たねばならなかった。だが、過大な犠牲を払って勝った。法廷バトルでは普通の通り、両派が損し、弁護士が富を得た。有名となり、ポケットが潤った。

ある意味でブルバキは、頭が尻尾から遠く離れている恐竜に似ている。デュドネが長い間ブルバキの筆記者だった時、全ての印字された言葉は彼のペンから来た。勿論、多くの草稿と予備バージョンがあったが、印刷されたバージョンはいつもデュドネのペンからだった。彼の素晴らしい記憶力で、全ての言葉を知っていた。ジョークだが、"デュドネ、これこれに関するこの結果は何だい?"と言えば、彼は書棚に行って本を取出し、正しいページを開いたであろう。デュドネの後(間に、サムエルとDixmierがいて)、私がブルバキの秘書で、殆どの校正が私の義務だった。5千から1万ページを校正したと思う。私は良い視覚的記憶力の持ち主だ。デュドネと比べるつもりはないが、ブルバキ内で、印刷された資料の殆どを私が知っていた時があった。だが、私の後、これを出来る人はいなかった。だから、ブルバキは彼自身の本体、つまり40巻の印刷物の認識を失った。

そして、前にも言った通り、ブルバキは多少一家族に似ていた。どの家族内又はどの社交グループ内でも、第2世代、又は第3世代、又は第4世代は一定の社会学的パターンに従う。私自身の家族が典型的だった。私の祖父は成り上がり者で、非常に成功したビジネスマンだった。私の父と叔父はビジネスに行ったが、それ程闘志満々ではなかった。そして、私の世代の人々だが、まぁ、私はそれに引き込まれないように決心した思う。実際、ファミリービジネスに行った同世代の人達は、何のために闘うかを分かっていなかったので、それ程うまくいかなかった。

だが、これらは内向きの動きだ。勿論外の世界も影響を持つ。外の数学世界が変わって来たことは明らかだ。スターリンが彼の軍隊を持って来ても世界征服を達成出来なかったこと、ソ連の崩壊が数学に成し遂げて来たことを私達は知っている。ロシア数学者は西側に異なるスタイル、異なる問題の見方、新しい血を持って来た。

異なる価値観の異なる時代だ。私に後悔はない。20世紀は生きる価値があったと思っている。だが、終わった。

Senechal: ブルバキとの旅をどのように描きますか。

Cartier: 私がブルバキから通常の引退に達した時1986年のバークレーで開催された国際数学者会議で、Vladimir Drinfel'dの代理で講演を行ってほしいと頼まれた(Drinfel'dは政治的な理由のため来ることを阻まれた)ことは非常な幸運だったので、個人的には幸せである。大きな挑戦だったし、私にとって非常な名誉だった。彼の論文は紀要の中で最も重要な一つだった。一夜にして、私の数学人生を変えた。"これは私が今すべきことだ"と私は言った。勿論、私は基礎的資料を知っていたが、見通しが新しかった。講演を準備しなければならない数時間内で、本当にそれをマスター出来たとは言えないが、人々に"これは新しく、重要だ"と説明するほどには十分に理解した。私が数学を始めた時、数学者の主な仕事は、トーマス・クーンが言うところの通常科学を造るため、順序を持込み、既存の資料の総合を造ることだった。40年代と50年代の数学は、クーンが言うところの凝縮化の時代を経験していた。与えられた科学の中で、既存の資料すべてを理解し、統一化された術語、統一化された標準を造り、統一化されたスタイルで人を訓練しなければならない時代がある。50年代と60年代の数学の目的は、通常科学の新しい時代を造ることだった。今、私達は再び新革命の始まりにいる。数学は大きな変更を経験している。どこに行くのか正確には分からない。これらの事の総合を造る時ではまだない。すなわち、20年又は30年の間に、新ブルバキの時が来るかも知れない。私は、2つの人生、通常科学の人生と科学革命の人生を持てたことは非常な幸運だと考えている。

参考文献
1. Nicolas Bourbaki, Faits etiegendes, by Michele Chouchan, Editions du Choix, Argenteuil, 1995.
2. "Nicholas Bourbaki, Collective Mathematician: an interview with Claude Chevalley," by Denis Guedj, translated by Jeremy Gray, The Mathematical Intelligencer, vol. 7, no. 2, 18–22, 1985.
3. Les Mathematiques et l'Art, by Pierre Cartier, Institut des Hautes Etudes Scientlfiques preprint IHES/M/93/33.
4. "The Continuing Silence of a Poet," by A. B. Yehoshua, in The Continuing Silence of a Poet: collected stories, Penguin Books, 1991.

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