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I. M. ゲルファント教授―自身の興味と直感を理解した学生かつ教師―との対話

以前紹介した"アンリ・ポアンカレ。科学の貢献での伝記"の前置きで、ヒルベルトが20世紀数学を代表すると私は書きました。それはヒルベルトが良くも悪くも20世紀数学を特徴づけたからであって、ヒルベルトその人が20世紀の人とは言っていません。むしろ、19世紀の人です。では、20世紀最高の数学者は誰かと聞かれれば、私も私の周辺も迷うことなく故ゲルファント博士を挙げるでしょう。理由として専門的な説明をするほど世間知らずではありませんから、止めておきますが、19世紀のポアンカレ、ヒルベルトに匹敵するほどの研究分野の多さを言えば十分でしょう。20世紀、特に後半期に入ると専門分野が細分され、ちょっと隣の分野さえも互いに全く分かっていない状況のもとで、ゲルファント博士は数学のみならず、数理物理学、細胞生物学、遺伝子学等、はたまた地震学でさえも研究しているのです。1,2つの分野の研究しかしない(いや、出来ない?)20世紀以降の数学者が多い中で例外的な人と言ってもいいでしょう。
しかし、残念ながら、特に日本においてゲルファント博士の名前も業績も一般受けするとは言い難いです。通俗的読み物に毒され無知な若人達や学部学生達、代数幾何学しか数学ではないと思っている傲慢な人達はおそらく、悲劇の英雄伝説好みの日本人的センチメンタル体質もあって、グロタンディーク氏を挙げる人がかなり多いと思います。そこで、今回紹介するのは旧ソ連の高校生達を念頭に16歳前後の自分を語ったゲルファント博士のエッセイ"A talk with professor I. M. Gelfand"(PDF)を紹介します。その私訳を以下に載せておきます。
なお、少し補足しておきたいことがあります。ゲルファント博士は正規な大学教育を受けていません。エッセイを読むと、両親の経済力に問題があるかのように誤解を受けやすいので、ちょっと説明しておきます。博士の父親は製粉工場のマネージャだったのですが、旧ソ連時代にはよくあったように"ブルジョア分子"という汚名を着せられ、田舎の化学専門学校に通っていた15歳の博士さえも学校から追放されました。ですから、ソ連社会が親の経済力も博士の教育権利をも奪ったのです。その背景には、私の推測ですが博士の家系がユダヤ系だったことがあると思います。
以下の私訳で一ヵ所だけTeX風記述がありますが、見る人が見れば分かると思います。

[追記: 2014年05月09日]
ゲルファント博士に少しは関心を持ったなら、例えば博士の"Lectures on Linear Algebra"を手始めに読んでみてはどうでしょうか。私も僭越ながらアマゾンでレヴュを書きましたのでご参考までにどうぞ。

[追記: 2016年09月27日]
かの有名なゲルファントセミナーについては"イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントと彼のセミナー―1つの存在"をご覧下さい。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2014年05月09日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

I. M. ゲルファント教授―自身の興味と直感を理解した学生かつ教師―との対話
1991年1月
V. S. Retakh、A. B. Sosinsky 筆記

イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントは生存する最高の数学者の一人だ。約500作品―数学自体のみならず、数理物理学、細胞生物学と神経生物学、医学での応用、地震学や他の分野も―の著者である。ゲルファントはソ連科学アカデミー、米国科学アカデミー、アメリカ芸術科学アカデミー、英国王立協会、フランス科学アカデミー、スウェーデン王立科学アカデミーや他の多くの外国アカデミーの会員だ。オックスフォード、パリ、ハーバードや他の多くの大学から名誉博士号を受けている。彼はまた、京都賞、ウルフ賞、ウィグナー・メダルのような著名な賞を受賞している。
今40年もの間に、新入学生達や有名学者達がモスクワ大学で月曜日の夕方にゲルファントの有名な数学セミナーに集まって来た。素晴らしい数学者達の多くの世代が、このセミナーによって育まれて来た。
ゲルファントは数学通信学校(ソ連のいたる所の学生を集めている)を設立し、運営委員会の代表である。この学校の主要目標は、実質的に数学文献と学者達との接触を奪われた学生達に手を差し伸べ助けることである。これらは一般的に、モスクワ、レニングラードやその他の大都市(そこでは良い本と良い数学者達へのアクセスがある)の外側に住む学生達だ。25年前に造られた、この通信学校はソ連において、そんな学校の最初であり、後に続く他の通信学校の見本となった。
我々の姉妹紙Kvantからのインタビューは、このゲルファント教授との対話はいつも通りの方法(すなわち、ゲルファントとKvantの学生読者達両方に興味があるであろう質問を提供することによって)で計画された。ゲルファントは質問のリストを一瞥して、それらは大変面白いが、回答するに十分な能力があるとは考えていないと言った。
"いいかね。私は自分の意見を読者達に強制する権利を持たないと考えている。彼等の年齢(13歳から17歳まで)で私が数学的にしていたことをただ語るだけならいいだろう。当時私が取組んでいた問題すべてを今思い出せるか確信はないが、私が語ろうとする問題は非常によく憶えている"と彼は言った。
さて、ゲルファントの物語だ。

グレアム・グリーンの小説の一つはThe Loser Takes All[訳注:敗者はすべてを取る]と言う。私の数学的経験はそんな素晴らしく幸せなものだった。長年のグリーンのタイトルの現実化のように思えた。何故私が大変幸運だったか? 簡単に言う。先ず、私は大学(または、もっとはっきり言えば高等教育の機関)で勉強しなかった。次に、私の家族の生活における困難のため、両親のいないモスクワで、そして16歳半の年齢で無職であることを自覚した。
もう別の英語作家サマセット・モームを利用して、"the loser takes all"という表現の意味を説明しよう。物語のヒーロー、寺院の事務員は不幸に遭っている。寺院職員の保証期間に、彼が読み書きの出来ないことが明らかとなって、解雇になる。彼はタバコを売ることを始め、そしてタバコ店を買い、そして他の多くのものを買い、商売で輝かしいキャリアを作ることになる。彼は街で最も裕福な人になる。市長となる。誰かが彼にインタビューに来て(ちょうど、貴方が今しているように)、そのジャーナリストに彼は読み書きが出来ないと説明する。呆然としているジャーナリストは"読み書きが出来ていたなら、どれくらい達成出来たことでしょう!"と叫ぶ。間髪を置かず、市長は"寺院の事務員になったであろう"と答える。
さて、1930年の2月、16歳半で私は遠い親戚と暮らすためモスクワに来て、しばしば無職だった。臨時の多くの仕事をやったが、私はもっぱらレーニン図書館に行き、学校と私が修了しなかった技術的訓練で学ばなかった全知識の"立て直し"をした。図書館で私は大学生達と出会い、セミナーに行き始めた。18歳で私は既に教えていて、19歳で大学院にいる自分に気づいた。私の数学的キャリアの残りは全く通常に進み、数学者達の通常の道をたどった。
だが、私が話したいのは、人生のこの部分ではない。貴方達読者にもっと初期について話したい。私がこうしたいのは2つの理由のためだ。先ず、将来のプロフェッショナルな数学者達の殆どにおいて、数学的才能はその頃(13歳から16歳まで)に出現すると私は確信している(勿論、例外はある。素晴らしい数学者達の中で、ある人は若くして発展し、ある人はもっと遅く、20歳から30歳まで、40歳まですらもある)。次に、この初期時代が私の数学スタイルを形成した。私の研究分野は勿論いろいろあるが、この頃に根差した数学の風情の形は、現在まで私を惹き続ける問題の選択において好みの基礎となった。このモティベーションを理解しなければ、私の研究における研究方法とテーマ選択の見かけ上の非論理性を表裏だと理解することは不可能だと思う。しかし、このモティベーションの力を考慮すると、それらは実際に連続して論理的に来ている。
私が憶えている最初のことは12歳頃に起こった。代数的に解けない問題が幾何にあることを当時私は理解した。私は5度ずつ増やして弦の長さと弧の長さの比の表を作成した。ずっと後でしか、三角(代数的でない!)函数のようなものがあって、本質的に私が三角表を作成していたことを知った。
この頃に、私は初等代数の問題集を通じて勉強していた。参考書を持たず、理論を知らなかったが、私が当時知らなかった公式を使って、非常に難しい問題を解かなければならなかった。ある問題の解法を見つけられなかった時、答えをよく見たものだったが、それらが組立てられた方法と与えられた解答から問題解決の手法を再構築する方法を私は学んだ。特に、問題を解くことによって科目をマスター出来て、私達は何らかの問題を研究している一方で答えに関して仮説を必ず持っているのであるから、答えを見ることは何ら間違いでないことを当時理解し、私の残りの人生の間に憶えた。数学において研究することは、答えに関して何かが分かっている問題を解くことと似ている。これが数学の研究と大学入試のための訓練(勿論、必要でもある)の違いである。
12歳または13歳で、辺が3、4、5を持つ、更には辺が5、12、13でさえも持つ直角三角形が存在する幾何問題に私は注意を向けた。私は整数辺を持つ直角三角形をすべて見つけたかったので、それらの辺に対する一般公式を導いた。すなわち、私は全くピタゴラス数を見つけたのだ(勿論、当時その用語を知らなかった)。残念ながら、どのように導いたのか憶えていない。
私は病気の時、休暇の時に数学の勉強をした。病気のために家にいる時に素晴らしい学生達がどれほどやっているのか、今でも私は気づかざる得ない。だから、私自身の息子達が快癒した後でも数日家に引き止めたものだった。
私達が使用した幾何の教科書では、いくつかの定理が問題として与えられた。私はノートブックを入手して(その頃は容易いことではなかった)、各ページに定理の声明を書下ろした。夏の間に、殆どすべてのページを証明で埋めた。そのようにして私は数学研究を書下すことを学んだ。
ここで一気に飛ばす。代数に関するDavydovによる本のみを言及する。その本の中で、初等的テクニック(すなわち、微分法無しで)を使って、極大・極小問題を解く方法を見つけられる。例えば、a + bが与えられた時、abの極大値を見つけよ。与えられたパラメーターに対して極大領域を持つ三角形を見つけよ。和a1 + a2 + … + anを与えられた時、非負数の積a1a2…anの極大値を見つけよ。与えられた辺を持つ正方形から小さな正方形が切出され、箱は残りから作られる―箱の体積を極大にするためには、小さな正方形は何のサイズでなければならないか?
組合せ論とニュートンの2項定理は私に大きな感銘を与え、それらを長い間考えた。
私は一つの学校のみがある小さな街に住んでいた。私の数学教師はTitarenkoという名前の優しいが厳めしい顔付きの男だった。彼は大きなコサック髭を持っていた。彼がしたこと、彼が知っていたことよりも私は知ったけれども、彼より良い教師に出会ったことがない。彼は私を非常に可愛がり、すべての面で激励した。勇気を与えることが教師の最も重要な仕事だよね?
数学の本が決定的に不足していた。私は高等数学に関する本の広告を見て、高等数学は非常に面白いはずだと思った。私の両親はこれらの本を注文出来なかった。彼等にはお金が無かった。だが、再度私は幸運だった。15歳で虫垂切除するためにオデッサに連れて行かれた。私は両親に高等数学に関する本を買ってくれるまで入院しないと言った。両親は賛成し、技術研究所での使用のためBelyayevによりウクライナ語で書かれた高等数学に関するテキストを買ってくれた。だが、彼等は第一巻を買うお金しか持っていなかった。その第一部は微分法と平面での解析幾何に関してであった。
大学の立派なコースから始めなかったことで私は幸運だった。これは非常に初歩的な本だった。導入部によりBelyayevの本のレベルを判断出来る―特に、3種類の函数があると言う。すなわち、式で定義されている解析的、表で定義される経験的、そして相関的。ずっと後に確率論を研究していた学生から聞くまで、私は相関函数について分からなかった。9日(その当時、虫垂切除の後12日間入院しなければならなかった)の間に、手術後3日のまでに私はその本を取って読み、エミール・ゾラによる小説がそれに取って代られた。Belyayevの本を読了するのに十分な時間だった。
この本から私は2つの注目すべきアイデアを取上げた。先ず、平面と空間での幾何学的問題は式として書ける(もっと初期には私はこれを疑った)。いくつかの注目すべき図形―例えば楕円―の存在も学んだ。
2つ目のアイデアは私の世界観を引っ繰り返した。このアイデアはサインを計算するための式が存在する事実である。すなわち、sin x = x - x3/3! + x5/5! + … 。これ以前に、私は代数的と幾何的の2つのタイプの数学があると考えていて、幾何的数学は基本的に代数的数学に対して"超越的"だと思っていた。すなわち、幾何において式で記述されるはずがない概念が存在する。例えば円周(幾何的数πを含む。または、例えばサイン)に対する式を考えてみよ。完全に幾何的方法で定義されている。
私はサインが級数として代数的に記述出来ることを見つけた時、障壁は崩れ落ち、数学は一つになった。今日まで私は数学のいろいろな分野(数理物理学も一緒に)は全体として統一だと考える。
勿論、極値問題は自動的(すなわち、正確なアルゴリズムを使用して)に解かれると確信するようになった。極値問題は魅力を失ったけれども、それらを解くためのパワフルなツール(微積分)を手に入れている。
微分法を勉強して、積分法(これは面積と体積に関係する)があることも知った。しかし、それが何なのか私は分からなかった―私はBelyayevのテキストの第二巻を持っていなかった!
今、私が思い出す別の問題に言及するいい時だ。翌秋、学校で回転体の体積を習った。私のクラスメートの一人、D. P. Milman(後に有名な数学者になった)の次の問題が私の注意を惹いた。接線に関して円の回転によって形成される回転体の体積を求めよ。それを解くために、私は円を帯状にばらした。それから、回転によって得られる相当するシリンダーの体積との差を計算した。最後に、これらの差の合計を求めた。これは以下の和を求める必要をもたらした。

cos φ + cos 2φ + cos 3φ + … + cos nφ                 (1)

残りはいつものように創意と愚鈍の混合だった。
私は以下の式を使って、通常の三角函数に基づく初等的解法を省いた。

e = cos φ + i sin φ
(この式はオイラーの公式と呼ばれるが、私は知らなかった)

私はこの式をsin x、cos x、exに対する冪級数から得たが、これは私に深い印象を残した。幾何的数列の和eφ + e + …を求めることが残って、それから和(1)を求めた。
この問題は私が解決した後でも、問題に関する考え方の習性となった。そして他のことを思いついた。線から円を引き離すと、その回転は私の友人の痔疾な祖父が座るためによく使ったゴムクッションに似る形を生成すると分かった。円の半径rと円の中心から線までの距離dを知れば、回転体の体積2π2r2dを決定するために私は上述の手法を使った。私はこの式の簡単さに驚いた。私はπr2・2πdの形に書き直したが、ゴムクッションを切断して円の中心が形成する軌跡の長さのシリンダーに伸ばすならば、シリンダーの体積がπr2・2πdだろうことを知った。曲面の面積に対しても同様の事実が成り立ち、私は偶然ではないと理解した。円の替わりに他の図形―例えば三角形を回転させるならば、何が発生するか?
この場合、回転体の体積は、底面が三角形で三角形の中線の交点が形成する軌跡の長さに等しい高さの角柱の体積に一致する。物理本から私は交点が三角形の重心だと知った。断面が回転される時何が発生するかを見て、私は円の中心が重心でもあることを理解した。
物体の強さに関する、ある本(どこで手に入れたか分からない)の中で私は重心の一般的定義を見つけた。私はすぐに様々な図形の回転を始めたのみならず、図形を様々な曲線に沿って動かし、その結果得られる物体の体積とその表面積をよく計算したものだ。
そして再び私は幸運だった。非常に教育された人物(その時私は思った)が街に来た。彼は物理学と数学でオデッサ師範大学を卒業していた。彼が持ってきた本のうちで、KaganのTheory of Determinants[訳注:行列式論]とHvolsonのCourse in Physics[訳注:物理学教程]があった。Kaganの本は有益で詳しかった。無限次元の行列式に関する章を含んだ。
Filippenko(有名な遺伝学者N. K. Koltsov学派出身の有名な生物学者)による生物学テキストにも言及すべきだ。これは素晴らしい本で、約15年乃至20年後の私の生物学における研究に当然影響を与えた。
だが、数学に戻ろう。私はまだ面積と体積の問題に関心があった。放物線の2点の間の線分の許での面積の計算を始めた。この問題は和12 + 22 + ・・・ + n2の計算に帰着するが、私は簡単だった。
そして、y = xp、p = 2、3、4、・・・の許での面積を求めたかった。すなわち、任意の自然数pに対してS0 = 1p + 2p + ・・・ + npを求めることだ。以下の公式、
12 + 22 + ・・・ + n2 = n(n + 1)(2n + 1)/6
の類推から、私はS0がnに関して次数p+1の多項式だと決めた。曲線の許での面積を求めるためには、多項式S0の最初の係数だけを知れば十分ということに気がつかず、多項式全体の研究を始めた。これは非常に面白かった。何よりも先ず、問題を一般化した。xpの替わりにf(x)を考え、
S0 = f(1) + f(2) + ・・・ + f(n)
を調べ始めた。
F(x)をF'(x) = f(x)となるような函数としょう。テーラーの公式から
F(2) - F(1) = f(1) + f'(1)/2! + f''(1)/3! + ・・・、
F(3) - F(2) = f(2) + f'(2)/2! + f''(2)/3! + ・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
F(n+1) - F(n) = f(n) + f'(n)/2! + f''(n)/3! + ・・・ .
私はこれらの等式を加えて、以下を得た。
F(n+1) - F(n) = S0 + S1/2! + S2/3! + ・・・、
ここで、S0は私が関心があったものであり、
S1 = f'(1) + f'(2) + ・・・ + f'(n)、
S2 = f''(1) + f''(2) + ・・・ + f''(n)、・・・ .
である。そして、私は以下の系列を書いた。
F(n+1) - F(1) = S0 + S1/2! + S2/3! + S3/4! + ・・・ 、
f(n+1) - f(1) = S1 + S2/2! + S3/3! + ・・・ 、
f'(n+1) - f'(1) = S2 + S3/2! + ・・・ 、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これは無限個の未知数S0、S1、S2、・・・ を持つ無限系列である。先に述べたようにKaganの本は無次元の行列式に触れていたので、私はS0を求めるためにクラメルの定理を使えた。
\documentclass{jarticle}
\begin{document}
S_0 = \frac{\det \left[
               \begin{array}{cccc}
                  F(n+1) - F(n) & 1/2!       & 1/3!     & 1/4!   \cdots \\
                  f(n+1)  - f(n) & 1           & 1/2!      & 1/3!   \cdots \\
                  f'(n+1) - f'(n) & 0          & 1          & 1/2!   \cdots \\
                  \vdots           & \vdots   & \vdots  & \vdots
\end{array}
\right]}{1}
\end{document}
私はこの"分数"の分子の行列式を第一列と相当する小行列式で展開し、

S0 = B0(F(n+1) - F(1)) + B1(f(n+1) - f(1)) + B2(f'(n+1) - f'(1)) + ・・・、(2)

を得た。ここでB0 = 1、B1、B2、・・・は無限次元の数値行列式である。私が得た式はオイラー-マクローリンの式と呼ばれるが、勿論私は知らなかった。この式を計算するために係数B0、B1、B2、・・・を知る必要があった。
これをするために、私は今で言うところの"関手"の議論を使った。係数B0、B1、・・・がfに依存しない事実を使って、系列の左辺部が幾何数列(それを合計する方法を私は知っていた)を生成するような函数fを取上げた。函数f(x) = eαxがこの目的に適う。それを(2)に代入すれば(貴方達で解決するために私は途中のステップを任せる!)、
B0 + αB1 + αB2 + ・・・ = α/(eα - 1).
すなわち、私が欲しかった数に対する冪級数を得た(これらの数B0、B1、B2、・・・はベルヌイ数と呼ばれ、f(x) = epに対する多項式S0をベルヌイ多項式と呼ばれる)。
この時期から他の2つの問題を憶えている。一つ目は代数の問題集の問題から生じた。根x1とx2を持つ2次方程式の係数でx12 + x22とx13 + x23を記述せよ。この問題の当然の一般化はもう一つ別のものにつながる。x1、・・・、xnを根とするxn + a1xn-1 + ・・・ + an = 0の係数で和x12 + ・・・ + xn2と和x13 + ・・・ + xn3を記述せよ。ここでBezoutの定理(Davydovの本から知った)が私を助けた。私は更に進み、もっと一般的な問題を自分で持ち出した。n次代数方程式の根のk次の和を、この方程式の係数で記述せよ。私はどうにか問題を解けた(解法はニュートンの公式として知られている)。
その時に私が解いた2つ目の問題は、
cos ix = 1 + x2/2! + x3/3! + ・・・ .
なので、数cos ixが実数だと見つけた時に生じた。 私はこの予期せぬ事実を熟慮し、次の一般的な定理を思いついた。すべての実数値偶函数は虚軸において実数を取る。 これを証明するために、私は"函数"の概念を改めなければならなかった。函数と呼ぶには何が大事かを考え、次の定義に行き着いた。函数は収束冪級数の和である。この後、証明は殆ど自明だ。
この問題はおそらく、モスクワに来る前に考えた最後の問題だった。1929年の夏に解決した。次の6ヶ月は私の家族と私にとって非常に困難だった。数学は私の心から遠くにいた。
モスクワでの私の研究の次の時期はもはや"純粋実験作業"ではなかった。モスクワで私は多くの完全に異なる影響を受け、私の発達はもはやそれ自体のコースを漂泊しなかった。この時、先に述べたように、私は独自にレーニン図書館で勉強し、奇妙な仕事の臨時収入で生活した。少しの間、実際にレーニン図書館の受付で働いた。大学からの数学科学生達と出会った。彼等の一人が形式f(n+1) - f(n)の表現(それは私を非常に興味を持たせた)は有限差分理論と言う科学の一部だと私に語った。彼は、このトピックに関するNörlundの本Differenzenkalkül[訳注:微分法]を読むべきだと言った。それはドイツ語で書かれていたが、私は辞書の助けでそれをマスターした。
私は大学のセミナーに行き始め、そこで強烈な心理的ストレスにいる自分に気づいた。私の数学のやり方が何もよくないと分かった。数学に新しい風が吹いていた―厳密な証明に対する要求、実変数の函数理論における関心(今日では、このレベルの厳密及び、この特殊な理論は時代遅れであり廃れていると見なされている。だが、当時は・・・・・・)。
そして、函数は連続である必要が無いこと、連続函数が微分可能である必要が無いこと、微分可能函数が2回微分可能である必要が無いこと等が重要であると私は認識した。函数が任意階の導函数を持つならば、この函数に対するテーラー級数は必ずしも収束するとは限らないこと。もし収束するなら、その和は必ずしも函数の値と一致するとは限らないことさえも! もし一致するなら、函数は解析的と呼ばれ、この函数のクラスは非常に狭いので主流数学からはずれている(と、実変数函数論の熱愛者は主張した)。そして、これらは私が調べて来た唯一の函数だった!
この見解のプレッシャーの許で、私は解析に関するVallee Poussinの"モダンで厳密な"テキストを読んだ。それはモスクワ大学で数学及び工科の学生達によって現在使用されているテキストと似ているが、もっといい。だから、一年の検定("厳密な基礎"という攻撃による一種の試練)の後でのみ、数学解析の美しさの体験を許される一年生学生達に私は同情する。
だが、ここでも私は幸運だった。複素函数論に関するI. I. Privalovの注目すべき本を私は読み始めた。この本を読んでいる間に、函数f(x) = 1/(x2+1)に対して、たとえグラフが連続であってもテーラー級数がx = 1で発散(実際、相当する複素函数はx = iに対して特異点を持つ)する理由を私は理解した。最初の100ページの後、私は爽やかな風を感じた。複素函数が第一階導函数を持つならば、任意階の導函数を持ち、そしてテーラー級数はある領域で、この函数の値で収束する。すべてが上手く行き、調和は回復された。
複素函数論に関するフルヴィッツとクーラントの本を私は急いで読んだ。フルヴィッツによって書かれた楕円函数に関する章に感銘を受けた。そして、再び流行は私を笑いものにした。この数学分野は廃れていると考えられていた。楕円函数理論は"かろうじて三角函数を拡張する"として下に見られた。この分野が再び数学者達の注意の中心になる前に、長い年月が過ぎ去るだろう。
私は大学セミナーから多くを掴んだ。すべてのタイプの数学者達と会って、私のロマンティックで旧式(すなわち、流行遅れ)な数学観を当時実際に発生していたことと比べることが出来た。私は多くの注目すべき数学者達に学んだが、こういう風に学ぼうと努め続けている。
少し後に、クーラントとヒルベルトによるMethods of Mathematical Physics[訳注:数理物理学の方法]という注目すべき本を読んだ(実際には、非常に深く研究した)。当時私は基礎的研究を読む必要を理解した。ここで理論のただ基本だけを考える時間を費やすことに後悔しないことが重要だ。古典群の表現に関するヘルマン・ワイル(1925)の研究がそのカテゴリに入る。だが、残念ながら"ヒルベルト前時代"のCayley、Schur等の著者による、なお古い基本的研究へのアクセスを私達は持っていなかった。
L. G. Shnirelman、M. A. Lavrentiev、L. A. Lusternick、I. G. Petrovsky、A. I. Plesnerから私は多くを学び、そして、もっとアンドレイ・ニコラエヴィッチ・コルモゴロフから学んだ。特に、近頃の本当の数学者は自然哲学者でなければならないことを彼から学んだ。
だが、私の話は普通の科学的伝記に変わってしまっている。このジャンルは通常非常に誤解を招きやすい。本当の科学的伝記はただ科学者の研究の集まりである。自分の研究に関する自分自身の印象が意味を為さないのは他の読者の印象と同じだ。だから、話を終える時だ。

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前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ