11月13日に元数学者グロタンディーク氏がお亡くなりなったことは皆さんもご存知でしょう。ここに哀悼の意を心から表します。
さて、私及び私の周辺もグロタンディーク氏の逝去を聞いて特に何らかの反応はありません。これは数学界にいる人なら皆同様だと思います。つまり、数学者グロタンディーク氏は1970年までに終わっているからです。逝去の報に接して、グロタンディーク素数がどうのこうの下らないことを言っている人はド素人だと断言出来ます。因みに、私の知る限り、グロタンディーク素数のエピソードを裏付ける資料はありません。おそらく、他の数学者が面白おかしくエピソードをジョークとして捏造したのではないかと思います。と言うのは、グロタンディーク氏が具体的な数字を持ち出すことはあり得ないからです。例えば、広中平祐博士は「グロタンディーク、彼は凄い人だ! 彼は方程式を見ない。最初から大局的にすべてを見るだけだ。」("広中平祐博士へのインタビュー"より)と言っているのです。また、グロタンディーク氏を個人的にも良く知っていたマイケル・アティヤ卿は「彼は弱点を持っていた。彼は成層圏では他に誰も出来ない操縦を出来たが、地球上の彼の立場に自信が無かった。つまり、具体例に彼は乏しく、同僚に供給して貰わなければならなかった。」("ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"より)と言っています。つまりは、グロタンディーク氏が、どういう場面か分かりませんけど、自ら具体的な数字を持ち出すはずがないのです。また、具体的な数字に縛られるような理論をグロタンディーク氏が作るはずもなく、具体的な数字を上げなければ理解出来ない聴衆がグロタンディーク氏の講義に参加出来るはずもありません。仮にそういう低レベルな聴衆がいたなら、グロタンディーク氏から公衆の面前で罵倒されていたでしょう。これは私の大先生や大先輩方から聞いた茶飲み話です。
ところで、グロタンディーク氏は病院で亡くなったそうですが、そこらへんの詳しいいきさつの情報がないかとフランスの地元メディアをいろいろ調べてみてもありませんでした。私は数学者グロタンディーク氏ではなくても、一般人グロタンディーク氏の最後が日本のように独居老人のミイラや白骨死体であってはならないと以前から懸念を持っていましたから、氏の周辺を限られた人達が目を光らせていたことに安堵を覚えています。
前置きが長くなりました。今日紹介するのは、グロタンディーク氏とブルバキで親しかったピエール・カルティエ博士の"Alexander Grothendieck―A Country Known Only by Name"です。これは正確な日付がわかりませんが、発表されたのがグロタンディーク氏の逝去の少し前だと思います。従って、偶然と言うよりも、カルティエ博士はグロタンディーク氏の直近の健康状態を部外者よりは知っていたと私は思います。
紹介する記事に関して補足したいことがあります。タイトルから容易に想像出来るように、記事は博士の以前の論文'A country of which nothing is known but the name Grothendieck and "motives"'(PDF)を下敷きにしていることは明らかです。大きな違いは、元論文の誤った伝記的事項が大幅に削除されています。例えば、グロタンディーク氏の父君がJohn Reedの有名な本"Ten Days that Shook the World"[世界を震撼させた10日間]に載るほどの有名(?)アナキストだったという間違いは削除されています。これは同じ名前を持つ別人物でした。これが原因で長らく父君が有名アナキストだと多くの人が思い込んでいました(特に日本では今でも多いです)。念のために言っておきますが、これはカルティエ博士のミスと言うよりも、グロタンディーク氏の思わせ振りが原因です。後にグロタンディーク氏の伝記を書くことになるWinfried Scharlau博士との手紙のやり取りの中で、グロタンディーク氏は自分の軽率を謝罪(?)しています。つまり、グロタンディーク氏と言えども、人並みに虚栄心や見栄があったということなんでしょう。なお、詳しいことはScharlau博士の本"Wer Ist Alexander Grothendieck? Anarchie, Mathematik, Spiritualität - Eine Biographie"[アレクサンンドル グロタンディークとは何者か? アナキズム、数学、霊性 - 伝記]をご覧ください。
それでも、まだ間違いがあります。グロタンディーク氏には4歳年上の異父姉がいますが、その姉をグロタンディーク氏が良く知らないようにカルティエ博士は書いています。確かにグロタンディーク氏が赤ん坊の時代は姉が同居していても分からないし、この姉は母方の実家に預けられていることが多かったことも事実です。しかし、両親がパリに行って、グロタンディーク氏が里親の保育所に預けられていた時代でも、身勝手な両親と冷たい母方の実家とは反対に、弟思いの姉は奉仕期間(当時のドイツで初等教育を終えた若い女性は何らかの奉仕をすることが義務だったらしいです。現在の日本の教育制度で言えば、中学校卒業の年齢に相当します)に(弟がその保育所にいた時期とは異なるけれども)保育所で働き、子供達の世話をしているのです。そして、後に互いが長じて、数学者になった若きグロタンディーク氏は母と姉と3人で一時的には暮らしていたのです。ですから、知らないどころではなく、良く知っていたのです。このことも前述のScharlau博士の本には詳しく書かれています。
いずれにせよ、カルティエ博士の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、注釈部を省きましたが、注釈へのインデックスはそのままです。
[追記:2014年12月02日]
この記事に記述されている伝記的事項は余りにも少ないし、おざなりなので、是非とも上述のWinfried Scharlau博士の労作をお勧めしますが、この本の日本語版が刊行されることは先ずありません。と言うのは、グロタンディーク氏の数々の瞑想録は勿論のこと、いろいろな写真(例えば、異父姉Maidiさんの若き日の笑顔の素敵な写真)も含んでおり、はたまた母親のハンカさんの自伝的遺稿さえもふんだんに引用されているからです。Scharlau博士の執念がこれらの資料を入手可能にしたとは思うのですが、生前のグロタンディーク氏の許可を得ることは不可能だったのでドイツでの出版社による刊行は諦めたようです(詳しくは、"Translation of Grothendieck Biography"での私の質疑に対する、Scharlau博士の同僚であるLeila Schneps氏の回答を参照のこと)。Scharlau博士とその助力者は自費出版または注文出版という形で独語版と英語版を自らの責任において刊行したのです。海外の出版社でも困難なのに、腰抜け日本の出版社のどこがリスクを負ってまで和訳を引き受けると思いますか? とどのつまり、Scharlau博士はリスクを負ってでも労作を世に出すべきだと決断したのです。
グロタンディーク氏のRécoltes et Semailles[収穫と種蒔き]等のいくつかは一度は刊行されて、和訳も刊行されました。しかし、後にグロタンディーク氏は認可を取消しました。私の想像では出版したことを後悔したのではないでしょうか。ですから、和訳の復刊を望む声が多いと聞きましたが、マーケット以前に認可の問題があったのです。従って、グロタンディーク氏の逝去の後、著作権が切れるまで先ず復刊はありません。どうしても読みたいなら、ネット上に原文の海賊版がいくつもありますので、それを読めばいいでしょう。但し、私も読んだことがありますが、非常に難解な仏文です。
伝記的事項については、とりあえず"グロタンディークとは何者か?"や"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇"も参考になるかと思います。
[追記: 2019年03月22日]
このペィジは2014年11月30日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。
アレクサンドル・グロタンディーク―名前でのみ知られる田園
2014年 ピエール・カルティエ
数学者達にアレクサンドル・グロタンディークを紹介する必要はない。つまり、20世紀最高の科学者達の中の一人である。彼の個性を様々なゴシップ(つまり、たとえ彼の業績が一流の仲間や弟子達に熱狂的に受入れられて発展させられても、彼は故意に自身の業績を破壊した、または少なくとも彼自身の学派を意図的に破壊した、社会の末端の一人の男)の評判で混同すべきでない。
グロタンディークの人生? ナチズムとその犯罪によって滅茶苦茶にされた少年時代、幼児期に不在で、そして動乱の中に消えて行った父親、彼を手元に置き長らく女性達との関係に邪魔をした母親。これに対して彼は数学的抽象に精神的疾患になるまで没頭することで補い、没頭の間中人を寄せ付けず、熱中の余り病的な苦痛に陥った。
グロタンディークを分類するのは困難だ。カール・フリードリヒ・ガウス、ベルンハルト・リーマンや他の多くの数学者達と同様に、彼は空間の概念ばかりを考えた。だが、彼の独創性は幾何学的な幾何学的な点1の概念を深く掘下げたことにあった。そんな研究は自明だと思われるかも知れないが、その抽象的利害は非常に大きい。それが生じさせている哲学的問題は未だ解決にはほど遠い。究極的にグロタンディークが最も誇りとする研究は、モチーフの概念または、与えられたオブジェクトを、その化身の様々なつかの間の仮面を通して照らし出している標識として見なされるパターンに循環した。しかし、この概念も彼の未完の研究が虚空に面した点を象徴している。グロタンディークの特異的傾向が、この欠陥を容認することに促進した。フランソワ・ジャコブ[訳注: 1965年度ノーベル生理学医学賞受賞の病理学者]が言うように、殆どの科学者はいくぶん砂から彼等の足跡を消し、彼等の空想と夢を語らず、彫像内に彼等自身を捧げたいと熱望する。
1990年以降グロタンディークは自身に課している孤立の深さから、我々に膨大で内省的な作品を送って来ている。すなわち、Récoltes et Semailles2[訳注: 収穫と種蒔き]。もし、その存在がとりわけ不健全な好奇心を引起してしまっているのなら、それにもかかわらず私は、本自体がまさしく例外的な人物の注目すべき企みを明らかにすることを容認する以前に、出来るだけ合理的かつ正直な評価を与えたいと思う。
伝記的要素
追放された人々の家庭
3人の人格があった。つまり、父、母、そして息子。各々がユニークで注目すべきだ。更に幻。つまり、グロタンディークが余りよく知らない母方の姉。彼女は最近米国で死んだ。私の知る限り、父親の名前はSchapiroで、ユダヤ人のハシディズム[訳注: ユダヤ教の敬虔主義運動]に根を持つことを示している。家系の伝統を壊し、Schapiroはロシア革命のユダヤ人サークルに引き付けられ、17歳の時に帝政に反抗し、失敗の1905年革命に参加した。この活動のため刑務所で10年以上の罰を受け、1917年革命の間にやっと解放された。これは終りなき革命の放浪の始まりと投獄の連続の最初を示した。スペインでのフランコの勝利の後、ついにフランスで難民だった妻ハンカと息子アレクサンドルに再会した。その時までに彼は衰弱した男だったと息子が証言する。彼はしばらくぼんやりと漂泊の人生を送った。そして、他の多くの反ファシズムの難民と同様に、ヴィシー政権当局は彼をナチスに引渡すまで、1939年の初頭にヴェルネ収容所へ収監し、アウシュヴィッツ3内で消息不明となった。
ハンカ・グロタンディーク(アレクサンドルは母親の姓を名乗った)は北ドイツ人だった。1920年代の間、彼女は様々な極左グループで活躍して執筆を試みた。彼女はSchapiroに出会った時に既に一人娘を持っていた。アレクサンドルは1928年3月4にベルリンで誕生した。ヒトラーが権力を握った時、彼女はフランスに移住し、ドイツ人移民サークルにおいて貧弱な生活を辛うじて立てた。ハンカと息子は1939年にマンドゥで収監され、1940年6月の大敗北の後に猶予を見たに過ぎないだろう。
アレクサンドル(Alexander、彼はこのスペルをずっとしつこく強調した)は両親がドイツを去る時捨てられた。1938年(彼は10歳だった)まで、北ドイツのファームに匿われていて、自然に帰れという信念を持つフレネ学校の教師によって育てられた。彼は1942年から1944年まで、(平常時において)素晴らしいリゾート地のシャンボン=シュール=リニョンで過ごした。その地は殆どの場合プロテスタントにとって人気だった。私立高校コレージュ・セヴァンヌを収容していた。コレージュ・セヴァンヌは1939年まで主に、馬鹿だが富めるプロテスタントの若者のためのディプロマミル[訳注: 早い話が、実際に勉強しなくても金さえ出せば種々の資格を与える学校機関のこと]だった。だが、戦争の間、牧師Trocméの活動的な影響の許で、コレージュ・セヴァンヌはナチズムに対する精神的抵抗の中心となり、ユダヤ人の子供達の救済に捧げられた。グロタンディークはホワイエ・スイスの寮生であり、コレージュ・セヴァンヌの生徒だった。彼は強い印象を残したので、1950年代の終り頃でさえも、私は目撃者から彼に関する話を聞けた。
形成期
彼の幼年期は終りに来た。コレージュ・セヴァンヌを卒業し、1945年にモンペリエの学生になった。そして、彼の科学的訓練の時期が始まった。
彼が学部学生だった時に最初の明確な数学的エピソードが発生した。その時に受けていた教育に非常に不満だったと彼は表現した。彼の教授はルベーグという人が数学におけるすべて(!)の問題を解決してしまったが、それを教えるのは非常に難しいであろうと言った。たった一人で、殆ど何のガイダンスも無しでグロタンディークはルベーグ積分の非常に一般的なバージョンを再構築した。Récoltes et Semaillesの中で、孤立している状態で達成した、この最初の数学的研究の発生を彼は詳しく記述している。彼は率直に自分を世界で唯一の数学者だと思った5。
1948年学士を得てパリに到着した時、彼の公式な時期が始まった。モンペリエの教授が元先生であるエリ・カルタンに彼を推薦した。その教授はカルタンが今や高齢で衰弱していること、カルタンに息子アンリ・カルタンがいて、父と同様に有名であり、数学的意味において今後パリ人、従ってフランス人にとって有力になるであろうことを知らなかった。
偉大でプロテスタントな大学教授アンリ・カルタンと若き独学の反抗者の間には少しも愛情が損なわれなかった。従って、アンドレ・ヴェイユはグロタンディークをナンシーに送ることを提案した。ナンシーでは、ブルバキ集団の創始者の一人であるジャン・デルサルトが、ブルバキを出来るだけ浸透させながらブルバキを出来るだけ浸透させながら学部長の地位に器用に上りつめていた6。ジャン・デュドネとローラン・シュワルツはグロタンディークを彼が背伸びすることを妨げて訓練する方法を、そして彼が極端な一般化を異常に好むことを抑制する方法を分かっていた。また両者は彼にルベーグ積分のような問題を与える方法を分かっていた。急速に訓練は師匠達に追いついた。一人で誰の助けを求めず、意図的に孤立して彼は函数解析の分野で有力となった。
同時に、ナンシーにおける女性家主との密通は息子セルジュの誕生となった。数年後グロタンディークが自分でセルジュを養育しようと努めた時、殆ど成功の見込みが無かった親権に関する民事訴訟に乗り出した。だが、これは彼の無秩序な家庭生活の始まりに過ぎなかった。結局、彼は3人の婦人に対する5人の子供を持ち、彼自身の父親がそうだったように5人の子供達にとって彼は不在な父親であろう。
IHÉSでの黄金時代
ナンシーでの彼の数学的研究は彼の名声を確立してしまったから、その勢いでどんどん進めて行くのがもっともであったであろう。だが、住まないつもりの家の建築者であると彼が言った時、自身を上手に表現した。彼は研究者の伝統的なキャリアを開始し、CNRS(Centre National de la Recherche Scientifique)[訳注: フランス国立科学研究センター]に即採用されて昇進し、学位論文を書いた後に数年海外で過ごした。サンパウロから戻った時、彼は函数解析に関する章を終えた。それは彼が主人公である時期1958年から1970年までの始まりであり、その時期はブルバキ集団の全盛時と一致した。この驚くべき研究を彼に可能にさせた足がかりは、ビュール=シュル=イヴェットにあるIHÉS(Institut des Hautes Études Scientifiques)[訳注: フランス高等科学研究所]の設立に打ち込んだ華々しい実業家レオン・モチャーンにより彼に与えられた。モチャーンは、形式群の理論を完成させたばかりのデュドネに将来の研究所の数学での最初の席を申し入れた。デュドネはグロタンディークも雇うことを条件に了承した。それから、二人組はジャン=ピエール・セールをリクルートした。セールは数学の統一性に関して鋭敏な感覚、高度な科学的教養、迅速な頭脳、テクニカル的に非凡な腕前を持っており、彼等の気を引き締めるだろう。ヴェイユとグロタンディークがもはや直接コミュニケーションを望まなかった時、セールは両者の間の仲介者として行動し、ヴェイユ予想の明晰化に大いに貢献した。セールは、グロタンディークの網の中へ獲物を怯えさせて入らせたから、数学的な雉の完璧な勢子(私は仲人と呼ぶことにしていた)だった。網の中でも同様に強烈で、獲物は辛うじてもがくだけだった。
そして、グロタンディークは世界が今まで見たことのある最も世評の高い数学セミナーの一つを作ることに移った。若い才能に囲まれ、彼は情熱的に数学的発見に没頭した。セッションは10時間から12時間まで継続した7! 彼は数論、代数幾何学、トポロジーを融合する意図の手強いプログラムを体系づけた。彼自身の寓話の中で述べたように、大聖堂の建築者である彼は研究をチームメイトに分配した。毎日彼は、果てしの無い、字が読みにくい数学的続き物(feuilletons)をデュドネに送った。デュドネは毎朝5時から8時まで仕事台に座り、その走り書きをデュドネとグロタンディーク共著の堂々たる巻の集まりに変化させた。そして、IHÉS数学出版(IHÉS' Publications Mathématiques)の中で刊行された。デュドネは個人的大望を捨て、彼がブルバキの許で示した同じ自己抑制で、このサービスに自身を捧げた。それにもかかわらず、数年間彼はIHÉSにとどまった。ニース大学創立において、彼は最初の科学部長になった。だが、それはグロタンディークとのコラボレーションの終りではなく、1970年のニースにおける国際数学者会議を組織するために精力的でさえあった8。
IHÉSチームの成功はすぐに反響した。早くも1962年、セールは代数幾何学とスキーム理論は同等であると宣言した9。その分野に関する直接的及び間接的刊行物は何千ページにもなった。グロタンディークの数学からの撤退の後、ピエール・ドリーニュ、リュック・イリュージーが代数幾何学セミナーシリーズの刊行を完結することに骨折ったが、それに対してグロタンディークは良しとしなかった。グロタンディーク学派がそれ自体を包囲した。学派にあった寛容の精神は消えた。風のそよぎが鎮圧された。だが、その時ブルバキの事業もそうだった10。
上流社会からの脱走
グロタンディークの科学的名声は1968年に絶頂に至った。彼はこの上ない栄誉、フィールズ賞をモスクワでの国際数学者会議で受けることとなった11。ソビエト当局は彼にしぶしぶビザを与えた(彼の父親は1917年革命の後"人民の敵"となっていた)が、憎みに満ちた冷戦において数学者達を利用すると思った(モスクワでスメールが小さなデモを組織した。それでも、数学者達を煽ることが如何に困難であるか明らかだった)。グロタンディークは姿を見せなかった。
従って、社会不和の始まり(1965年のバークレーの熱狂がフランスにおける1968年の3月を引起した)と同様に、このイベントの背景において、グロタンディークの欠点の限界が破裂した。もっと正確に言えば、彼の深い傷が再び開いた。この傷はロシアのユダヤ人であり、反ユダヤ人主義が復古していた国で覚えられていた父親の傷だった。フィールズ賞は未完成の構想に授与し、彼の科学的大望のゴールに到達しないのではないかという彼の疑いがあったので、"ノーベル症候群"と相俟っていた12。これと並行して、環境の社会不和が彼に自身の矛盾を露にした。自身をアウトローでありアナキストだと見ていた彼は、自身が実のところ国際的な科学世界の官吏であって、理想と人民に権力をふるう者であると突如見出した。すべての権力が競い合った時期に、彼はこの2重人格性に不安になった。彼の当面の反応は、生き残り(Survivre)、そして後に生き残りと生活(Survivre et vivre)と呼ばれる小さなグループを設立して、ニューズレターの中でそれ自身を語ることだった。この運動は、1970年代に発生した環境保護セクトに似ており、核戦争の危険(当時は現実味があった)が公害と人口過密の強迫観念とともに綯い交ぜになっていた。彼はおそらく社会的議論も数学的証明のテクニックを使用して形成されるであろうと信じていた。結局のところ、彼は彼の支持者を敵に回したに過ぎなかった。
放浪の数年が続いた。すなわち、彼は1970年の9月に比較的マイナーな口実13でIHÉSを辞職、海外を旅行し、コレージュ・ド・フランスで一時的地位を得て、最終的に、彼の若き日の、控えめな尊重14しか持っていないモンペリエ大学の教授に就いた。
奥地亡命
モンペリエでの長い年月の間、特に一つの事件が画期的だった。つまり、彼の裁判。グロタンディークはいつも家に辺境の人々を歓迎していた。1970年代には、多くのヒッピー集団がロゼールとラルザックの地域に付属するようになった。外から見れば、グロタンディークの家はファランステール[訳注: フーリエ主義に基づく共同体住居]のまさに具体化であって、彼がリーダーの一人だった。真実か誇張か、いくつかの出来事によれば、地方警察がグロタンディークの家を家宅捜査した。警察が彼に被せた唯一の罪状は日本人仏僧を泊めたことだった。その日本人仏僧はボンベイにあるタタ研究所の元学生で、全く人畜無害の人柄だったが、フランスでの滞在期間を超えていた。予期せぬ結果が6ヵ月後のモンペリエの裁判所への出頭命令だった。その時までに日本人仏僧はもちろん地球の反対側へいなくなっていた。そして、10分で迅速に処理されるべきはずだったことが大きな事件となった。グロタンディークはパリのブルバキセミナーに姿を現し、彼の仲間達、すなわちローラン・シュワルツ、アラン・ラスクー、私に注意を促した。公判の日までに裁判官は被告に味方する200通の手紙を受け、チャーターされた飛行機は学部長の礼服を纏ったサポーター達(デュドネが彼等のヘッド)、裕福な社会主義者集団の教会非主流派、法曹界の重鎮達の寄集めを吐き出した。形式上の譲歩を裁判で失うリスクを好んで、グロタンディークは彼自身の弁護士として行動した。彼は防衛のため壮大なスピーチをした。ああ~、グロタンディークが予測していた通り、臆病な裁判官は彼に6ヶ月の執行猶予判決を宣告した。その判決は上訴で是認されたが、その時までにメディアの興奮は消え去ってしまっていた。
グロタンディークは1988年に定年退職し、アリエージュ(フランス南西部のミディ=ピレネー地域の県)の小さな村に以降奥地亡命して暮らしている。彼は家族全員との繋がりを破棄していたようだ。嘆かわしいほど悪名高いが、とりわけ彼の子供時代に付随するヴェルネ収容所のとても近くに彼が住んでいることは重要ではない。彼は電話も知られている郵便住所も持っておらず、ごく限られた数人のみが口外しないと約束した上で、彼の隠遁の正確な場所を知っている。隣人達に"少々風変わりな、退職した数学教授"と了解されて、彼は一人で住んでいる。彼は自分の霊性を仏教用語に翻訳したり、正統派のユダヤ先祖から離れて食事タブーを重視したりしている。つまり、彼は最も極端な菜食主義を実践していて、その結果、健康を危うくしたらしい。
数学的研究の出生
グロタンディークの科学的研究を数ページで素人に説明することは難題だ。それをするために私は、長らくグロタンディークの最も近いパートナーであるデュドネによって提供された分析を利用する。その分析は、グロタンディークの生誕60年の機会に作成された記念論文集(Festschrift)15の序論にある。
函数解析
ゲオルク・カントールの集合論は20世紀の後継者達に函数解析を作ることを許した。これは微分積分(ライプニッツとニュートンによって作られた)の拡張である。函数解析においては、特定の函数(例えば指数函数または三角函数のような)のみならず、あるタイプのすべての函数上で実行され得る作用素と変換を考える。20世紀の始めにエミール・ボレルと、とりわけアンリ・ルベーグによって作られた新しい積分論、ステファン・バナハ、モーリス・フレシェ、ノーバート・ウィーナーによるノルム付空間の発明は数学の構築と証明のための新しいツールを与えた。函数解析は、その一般性、簡潔性、調和性において魅力的な理論であり、難しい問題をエレガントに解決出来る。だが、函数解析は数学的オブジェクトの存在を証明するために、よく非構成的手法を使う(ハーン-バナハ定理、ベールの定理とその帰結)。その構成に対して、いつも効果的な手法を与えられるとは限らない。(abが有理数となるような2つの無理数a、bが存在するか? 明らかな証明が存在を示すが、それらの数を特定出来ない)。初心者のグロタンディークがモンペリエのいくらか時代遅れの教授から函数解析について教わり、大喜びして習った理論に熱狂的に反応することは驚きではない。
1948年グロタンディークが20歳でパリ数学界に着いた時、彼はルベーグ積分の非常に一般的なバージョンを再構築した膨大な原稿を既に書いてしまっていた。ナンシーではジャン・デュドネ、ジャン・デルサルト、ロジェ・ゴドメン、ローラン・シュワルツ(全員、ブルバキ集団の活動的なメンバー)が函数解析におけるバナハの研究を超えようと努力していた。グロタンディークはナンシーで好ましい環境を一旦確立すると、彼は函数解析に大変革をもたらした。ある意味では、その分野を絶滅させた。1953年に書かれ、1955年に刊行された彼の学位論文の中で、バナハ空間とその一般化に対するテンソル積の理論をゼロから作り、函数作用素に関するローラン・シュワルツの重要な核定理を説明するために核空間の概念を発明した。イズライル・ゲルファントに影響を受けたロシアの数学者達は核空間を本質的に使用し、確率論からのテクニックを数理物理学の問題(統計力学、"構成的"量子場理論)に適用することの鍵の一つになったものだった。グロタンディークは距離不等式に関する難解で深遠な論文を書いた後、函数解析を断念した。距離不等式は40年間、学派(ジル・ピジェとその仲間)全体に燃料を供給した。彼は自分のアイデアの結果について殆ど注意を払わず、広島全滅の罪深い学問ということで、理論物理学に対して無関心、敵意さえも持っていた。
ホモロジー代数
そしてグロタンディークは27歳で2番目の数学的キャリアを始めた。ブルバキの数学者達が、アンリ・カルタン、ローラン・シュワルツ、ジャン=ピエール・セールのリーダーシップの元で幾何学、群論、トポロジーの最も困難な問題に取組んだ時はフランス数学の黄金時代である1955年だった。新しいツールが出現した。つまり、層理論とホモロジー代数(層理論はジャン・ルレーによって発明され、ホモロジー代数はアンリ・カルタンとサミュエル・アイレンベルグによって発明され、彼等の解説書Homological Algebraが1956年に刊行された)。それらの一般性と融通性は称賛に値した。ヘスペリデスの園のリンゴは、1949年にアンドレ・ヴェイユによって述べられた有名な予想だった。これらは、たとえ多くの重要な特殊ケースが既に知られていたとしても、圧倒されるほどの一般性の組合せ問題(ガロア体で変数を持つ方程式の解の数を数えること)だと思われた。
この新しい分野でのグロタンディークの最初の進出の試みは雷鳴だった。それは"Sur quelques points d'algèbre homologique"16[訳注: ホモロジー代数のいくつかの諸点について]という控えめなタイトルで1957年に日本のTōhoku Mathematical Journalで出現したので、"東北"というニックネームで知られた。特殊ケース全部をを超える一般的ツールとして意図されたホモロジー代数は既に、知られた手法と結果の広大な統合だった。だが、層はこのフレームワークに入っていない。ジャン・ルレーはエリ・カルタン(アンリ・カルタンの父)の幾何学的手法を模倣して層とそのホモロジーを特別に構築した。1950年の秋、パリで一年を過ごしていたアイレンベルグはアンリ・カルタンと一緒に層ホモロジーの公理的特徴づけを始めたが、まだ構築はその特別な特徴を残した。1953年セールが代数幾何学に層を導入した時、ザリスキー位相の外見上病的な性質が彼にいくつかの不自然な構築を余儀無くさせた。グロタンディークの天分は、彼がよく使用したもの、つまり上から問題を解くことにあった。モジュールの文脈の中でホモロジー代数の成功を分析して、彼はアーベル圏及び、とりわけ彼が呼ぶところのAB5*条件の概念を掘り起こした(同時にデヴィッド・ブックスバウムによっても発明された)。この条件はいわゆる単射オブジェクトの存在を保証した。モジュールに対して根本的である単射解消の手法である、AB5*条件を満たす層は何の策略の必要も無く一般的に層へ拡張する。層ホモロジーの構築に健全な基礎を与えるばかりでなく、モジュールと層に対する絶対的並行展開を与える。それは層にExtとTorファンクターを引き入れている。再びすべてが自然である。
代数幾何学と数論幾何学
この始まり(1955–1958)の後、グロタンディークは自身のプログラムを発表した。すなわち、トポロジーで使用され、既にアンリ・カルタン、アイレンベルグ、セールによってテストされた新しいツールを借り、一般性を最大限に求めながら代数幾何学の(新しい)再編を通して数論幾何学を作ること。その当時の登場人物(クロード・シュヴァレー、サージ・ラング、永田雅宣、ジャン=ピエール・セール、私)の誰もが思い切ってしなかった統合にグロタンディークは、性来のエネルギーと熱狂で以って自身を真っ逆さまに研究に投げ出して思いっきり立ち向かった。グロタンディークの事業は予期されなかった相互作用のおかげで繁栄した。統合及び研究に対する、筆記者の地位に推進したデュドネの巨大なキャパシティー。セールの厳密で合理的かつ物事に精通している気概。オスカー・ザリスキの学生達の幾何学と代数学における実践的ノウハウ。グロタンディークの偉大な弟子ピエール・ドリーニュの若い新鮮味。これらすべてが、グロタンディークの冒険的で先見の明があり、非常に野心的な気概に対して、つり合いのおもりとして発生した。新しいIHÉSは様々な世界的な若い才能を結集した。スキームの主要概念の周辺を系統立てして、グロタンディークの理論は幾何学の大部分を併合するに至った(代数群17の研究のような最も新しい部分さえも)。巨大な道具―グロタンディーク位相(エタール、結晶…)、降下、導来圏、6則演算、特性類、モノドロミー群、等々)―を使用してグロタンディークは最終ゴール、ヴェイユ予想の半ばに到着した。1974年ドリーニュが証明を完成させたが、1970年までに、そしてIHÉSに議論の余地が無い科学的君臨の12年の後、グロタンディークは自身の組織化しているセンターを失っていて、物事をぼろぼろにしてしまった。1988年の60歳で公式な退職まで、彼は間欠的に働くだけだった。それにもかかわらず、仕事の重要な"死後の"主要部を残した。
3つの主要なテキストがある。1983年に書かれたÀ la poursuite des champs18[訳注: 野を追跡する]は多次元カテゴリに関する600ページの黙想だ。組合わせ論、幾何学、ホモロジー代数が壮大なプロジェクトにまとまっている。多くの努力が結集された15年以上の後、3つの定義(おそらく殆ど同等)が多次元カテゴリ(広義)19に対して提案されて来ている。そんな構築の理論は理論コンピューター科学、統計物理等において多くの潜在的応用を持つであろうから、それらは純粋数学に対して重要だけではない。2番目に、Esquisse d'un programme20[訳注:プログラムのスケッチ]はCNRSのポジションの申込書に加えるため1984年に書かれたテキストだった。その中で、グロタンディークは代数曲線の変形を記述しているタワー(またはレゴのゲーム)の構築をスケッチ(その言葉は正確である)している。最後に、La Longue Marche à travers la théorie de Galois21[訳注:ガロア理論を通しての長い展開]は1981年に書かれ、Esquisse d'un programmeで示唆された、いくつかの構築に関する部分的指示を与えている。 Esquisse d'un programmeを除いて、それらのテキストは手から手へと渡り、最終的に熱狂者グループのしつこい求めに応じて刊行された。不思議なことに、グロタンディークの研究の本当の後継者は本質的にロシア数学の学派のメンバー(ユーリ・マニン、ウラジーミル・ドリンフェルト、アレクサンドル・ゴンチャロフ、マキシム・コンツェビッチ、但し少数の人達を例示したに過ぎない)だ。彼等はグロタンディークと直接のコンタクトがあるとしても殆ど持ったことがない。それにもかかわらず、グロタンディークが無視し忌み嫌った数理物理学からの手法の使用方法を継承し知っていた。
研究の解剖
幾何学的コーパスの編集
2つのシリーズで刊行されたグロタンディークの代数幾何学における研究は一万ページ以上に達する。ユークリッド原論とブルバキ両方に対するアピールのために題名された一つ目はÉléments de Géométrie Algébrique[訳注: 代数幾何学原論](またはÉGA)であり、全くデュドネによって書かれ、未完のままである。最初計画された13巻のうち、4巻のみが書かれた。二つ目のシリーズはその構成がより乱雑だったが、Séminaires de Géométrie Algébrique[訳注:代数幾何学セミナー](またはSGA)と呼ばれ、7巻から成る。ボワ・マリー(IHÉSの所在地から名付けられた)でのセミナーをカバーし、グロタンディークはセミナーを1960年から1969年までリードした。最初の2巻はグロタンディークまたは彼のコントロールの元により書かれた。彼は個人的にそれらの刊行を監修した。3巻目に関しては、本質的にピエール・ガブリエルとミッチェル・ドマジュール(彼の学位論文はこの仕事から抜粋された)により書かれた。以後、事は非常に複雑になった。1970年にグロタンディークが数学的舞台を断念した時、未完成の事業を後に残して、職場は惨めな状態だった。彼は判読出来ない原稿、セミナーからの講義の謄写版、刊行のためのノートを残した。それらは整理され、(かなり大きい)ギャップを埋める必要があった。それは壮大な仕事だった。リュック・イリュージーとピエール・ドリーニュが素晴らしい忠誠と弟子の敬虔で以って、これ全部を成し遂げた。ヴェイユ予想を考慮してセンターピースは、最も革新的なアイデアに割かれたSGA 4である。だが、1974年にドリーニュがヴェイユ予想の自身の証明を発表した時、専門家達は彼の証明の基礎が不完全だと考えた。ドリーニュはその時、(グロタンディークセミナーSGA 5の欠けた部分と共に)追加の巻を刊行した。それはドリーニュ自身が計画し、奇妙にもSGA 4 ½と題名された。グロタンディークは企て全体を却下した。これはグロタンディークが考えていたことではなかった。彼の計画は切捨てられていた。彼等は彼を裏切っていた。グロタンディークは自身のフィーリングを強いイメージを使って記述した。すなわち、今や大工チームの棟梁が死んでいるのであるから、チームは解散し、各自が棟梁のスケッチとツールを運び去っている。死亡どころか、棟梁がチームを単に捨ててしまったという事実が無ければ、道徳的に見て力強いイメージであろう。
グロタンディークはネーミングに好みと才能があり、主要な知的戦略として使用した。従って、私のタイトル"名前でのみ知られる田園"は彼の方法への言葉の敬意である。物事の所有と征服以前に、彼は物事に対するネーミングに特殊な才能があって、彼の用語上の選択の多くが注目に値した。科学的アイデアを描くためメンタルなイメージを求めた。これらはla belle demeure parfaite[訳注:美しい完璧な家]やle beau château dont on a hérité[訳注:継承される美しい城]を含んだ。彼は自身を大工だと言った。彼は言葉の空想的記録簿の中で、これら寓喩を曲芸した。彼の母語はドイツ語であり、母が死ぬまで母との会話で使用した唯一の言語なのだから、これは全く、より驚きと同時により著しい。しかし、もし彼がドイツ語で長く思考したなら、それでも彼は結果的にフランス語の鋭い感覚を得ていた。彼の2言語使用能力は彼にドイツ的慣習を認識出来る能力を許した。
大きな問題
シンボリズムにこだわりがあるので、ちょうどRécoltes et Semaillesを12のテーマ(そのうちの少数しか私はコメントしない)に分割したように、グロタンディークは12人の弟子を認めた。多くのテーマがグロタンディークの大きな事業、すなわち代数幾何学に関係する。大きな問題が大きな謎から成り、謎の比較的単純な定式化は明白な攻め所を提供しない。フェルマーの最終定理として不正確に知られているものは大規模で簡潔な予想だった。つまり、a、b、c、nがすべて自然数で、n=2でないなら、an + bn = cnは不可能である。アンドリュー・ワイルズとリチャード・テイラーは証明を確立するため、主にヴェイユとグロタンディークの手法に基づいて、大きく複雑な体系を必要とした。現代の問題で最も有名で人々を混乱させているのはリーマン予想だ。1930年、ヘルムート・ハッセは(エミール・アルティンとフリードリッヒ・シュミットの後で)、リーマン予想を不等式に翻訳することで、リーマン予想に類似の問題を定式化して解いた。次の段階は1940年から1948年までヴェイユが占めた。ヴェイユが1949年に彼の有名な予想を定式化した時、これらのアイデアによって導かれた。
グロタンディークにとって、ヴェイユ予想はそれ自体ではさほど面白くないが、彼の一般的ビジョンのテストとして興味がある。グロタンディークは数学における構築者と探検者を区別していて、彼自身を一度にどちらでもあると見ていた。グロタンディークのお気に入りの手法はジェリコ征服のためのヨシュアのものと似ていた。人は場所を徐々に弱らせることで場所を取らなければならない。ある時点で、闘志を無くし屈する。数学の統一的見解を十分に持ち、問題の概念的本質を十分に見通せるならば、問題はそれ自体のためにもはや解かれる必要の無いテストに過ぎないだろうとグロタンディークは確信していた。
数学を理解する、この流儀はグロタンディークにとって非常に上手く働いた(たとえ彼の夢が時折もっと自身を成功させたいという傾向があったとしても。更に、たとえ彼がデュドネとセールの正しい影響を必要としたとしても)。ドリーニュは師匠の仕事のすべてのトリック、すべての概念、すべての変形を暗記するほどに知っていた。1974年に与えられた彼の証明は驚くほどの精密だ。何の驚きも無く自然な順番で、ステップが相互に続いている。グロタンディークのすべての講義は、以前のものよりも更に一般的な概念の全く新しい世界を導入した。手法、もっと正確に言えば気質の対立が彼等を別れさせた個人的衝突の真の理由だと私は思う。イエスが愛した弟子、最後の福音書を一人で書いた、あのジョンはおそらく不機嫌な追われ人(グロタンディークはそれを自身に押し付けた)の役割をした。
手法
今やグロタンディークの数学的手法のまさに心臓部に到着する。彼が正当に誇る12の偉大なアイデアの内、彼は3つを他のものより上に置いた。それらをスキームからモチーフへの進化の形の中で提供した。
スキーム → トポス → モチーフ
彼の科学的戦略全体が実のところ、ますます一般的な概念の進化の周辺に体系づけられる。私の心に来るそのイメージは、私が1980年に訪れたベトナムの仏寺院だ。しきたりによれば、祭壇は一連の昇順のステップから成り、その頂点にいろいろな仏陀の横たわった像が置かれた。その発展を通して私達がグロタンディークの研究を追う時、私達も完全へ徐々に進化していると同様に感じる。彼の心の中でモチーフは最終ステージを意味し、彼がまだ到達していなかったものだ。だが、彼は2つの中間ステージ(スキームとトポス)には到着した。
3部作
スキーム
グロタンディークによって使われた用語よりもっと制限された意味で受取られていたけれども、用語自体はシュヴァレーによって考案された。Foundations of Algebraic Geometry[訳注: 代数幾何学の基礎]の中で、アンドレ・ヴェイユは彼の助言者エリ・カルタンによって微分幾何学で使用された(カール・フリードリヒ・ガウスとジャン・ダルブーの後で)手法を代数幾何学に導入した。だが、ヴェイユの手法は決して本質的ではなかったので、シュヴァレーはヴェイユの意味の多様体で何が不変なのだろうかと思った。その答えは、ザリスキーの研究にヒントを得て、単純でエレガントだった。すなわち、代数多様体のスキームは、有理函数体の中で見つかる部分多様体の局所環の集まりである。明白なトポロジーの必要が無い。それがシュヴァレーとセールの違う一点だ。セールは大体同時期にザリスキー位相と層を使って代数多様体を導入した。二人のアプローチの各々に長所があったが、限界もあった。つまり、セールは代数的閉基礎体を持ったし、シュヴァレーは既約多様体でのみに研究しなければならなかった。どちらの場合でも、多様体の積と基底変換の2つの根本的問題は間接的にアプローチ出来るのみだった。それでも、永田がすぐ注目したように、シュヴァレーの観点が数論に対する将来的拡張には、より適していた。
エヴァリスト・ガロアは確かに、方程式とその解の間の極性を注目した最初の人だった。代数方程式の係数が選ばれている領域と解が求まる領域を区別しなければならない。ザリスキー-シュヴァレー-永田の概念的提示を本質的に基礎にして、グロタンディークはこれらのアイデアから統合を作った。スキームは従って、方程式並びに方程式に従属させてよい変換の符号化システムの一方法なのである。
グロタンディークはガロア問題を次のようなやり方で述べた。スキームは絶対オブジェクト、例えばXである。定数の体(または定義の体)の選択は、もう一つ別のスキームSと、XからSへの射πXの選択に相当する22。スキーム理論において、可換環はそのスペクトル23であるスキームとみなされる。環Aから環Bへの準同型写像は同様に写像し、逆にスペクトルBからスペクトルAの中に写像する。更に、体のスペクトルは単一の基礎点(この意味で、たとえ多くの異なる点が存在しても)を持つ。その結果、普遍領域に含まれている領域の体を与えることは、TからSへの射πTであるスキームを与えることに相当する。定数の領域S、普遍領域Tに値を持つ、方程式Xのシステムの解は、πTがφとπTの合成であるようなTからXへの射φに相当する。
何とみごとな簡潔さ! 現代数学は集合の卓越に基づく。集合の存在とそれから作られる構築を一旦受入れると、すべての数学オブジェクトは集合となって、その点の集合と一致する24。変換は原則的に点の変換である25。いろいろな形の幾何学(微分、計量、アフイン、代数)において、中心のオブジェクトは点の集合26と考えられる多様体だ。そして、グロタンディークにとってスキームは、空間の点27を生成する行列である内部的メカニズムだ。 量子物理学において点の状態の根本的再評価の後で、点の概念の純粋に数学的な解析(ゲルファントのもの、グロタンディークのもの)が発見された。この再評価の最も系統だった表現はアラン・コンヌの非可換幾何学である。統合は完成にはほど遠い。グロタンディーク-タイヒミュラー群28と量子場理論のくりこみ群の間のますます増える類似性は確かに、物理の普遍定数に作用する対称群(一種の宇宙ガロア群29)の最初の表明に過ぎない。グロタンディークはこの発展を予期しなかったし、彼の物理学に対する偏見(大部分、彼の軍産共同体の激しい拒絶による)のため、おそらく歓迎すらしなかったであろう。 Récoltes et Semaillesの中で、グロタンディークは少しの間、空間の問題に対する自身の貢献において自身をアインシュタインと比較した。彼の貢献は確かに同じ重要性30を持つ。アインシュタインとグロタンディーク共に、空間は現象のための空容器ではなく、世界の人生と宇宙の歴史における主人公であるという特別な見解を深めた。
トポス
今やトポス31を考えよう。スキームと違って、トポスは点の無い幾何学を生成する。もっと言えば、点、線、面がすべて同じ立場の幾何学のための公理的フレームワークを提案することを妨げない。従って、私達は射影幾何学(ジョージ・バーコフ)のための公理的システムを知っている。射影幾何学において、第一概念はプレート(線と面の一般化)であり、基本関係は結合則である。数学では、束と呼ばれる部分順序集合のクラスを考える。束の各々が異なる幾何学32に相当する。
位相空間の幾何学では、開集合の束が主演であり、一方点は比較的脇役だ。だが、グロタンディークの独創性はリーマンのアイデアを再現することだった。リーマンのアイデアとは、多価函数は実のところ複素平面の開集合ではなく拡張リーマン面に住んでいるというものだ。拡張リーマン面は互いに投影するので、カテゴリのオブジェクトを成す。しかし、束は2つの与えられたオブジェクト間の変換を多くても一つしか持たないので、束はカテゴリの特殊ケースである。従って、グロタンディークは開集合の束を拡張開集合のカテゴリに置換えることを提案した。代数幾何学に適用する時、代数函数に対する陰函数定理が無いのであるから、このアイデアは根本的困難を解決する。層は今や、開集合の束(カテゴリとみなして)の上で特殊なファンクターとして考えられるので、エタール層に拡張出来る。エタール層はエタール位相の特殊なファンクターである。
このテーマについてグロタンディークは、いろいろな幾何学的構成の問題(例えば、代数曲線に対するモジュールの問題)の文脈で、みごとに多くのバリエーションを披露したものだった。この点について彼の最も偉大な成功は、スキームのエタール"ℓ-adic"コホモロジーであろう。それはヴェイユ予想を攻略するために必要なコホモロジー理論である。
だが、抽象化に向けてまだもう一つ別のステップがある。以下の進化を考えよう。
スキーム → エタールコホモロジー → エタール層
最後のステップに直接行けるであろう、そしてスキームの幾何学的概念すべてがエタール層のカテゴリの中に符号化されるとグロタンディークは悟った。このカテゴリは、彼が"トポス"と呼んだカテゴリの特別な型に属する。
そして、ここに劇の最後の幕がある。与えられた空間上の層は集合のカテゴリと同じ概念を基本的に持つカテゴリを形成するとグロタンディークは注目していた。だが、クルト・ゲーデルとポール・コーエンは既に集合論の同等でないモデルがいろいろあることを示してしまっていた。従って、トポスと集合論のモデルの間に存在するかも知れない関係を調べることは当然だった。グロタンディークは論理学を知らないし、おそらく彼が物理学にしたことと同じように徹底的に蔑視した。謎を解決したのは他の人達(特にジーン・ベナボウ、ウィリアム・ローヴェア、マイルズ・ティアニー)だった。トポスは完全に集合論の直観論理モデルを包含した。排中原理は正しくない。この論理が傑出した位相幾何学者ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワーによって考案されたことが最も注目に値するが、後から振り返って考えてみると、直観論理は位相幾何的解釈33を与えられているようなので、非常にもっともである。
モチーフ
モチーフが残っている。グロタンディークが訴えたイメージは、夜に回転灯を持つ灯台に照らされた岩の多い海岸線だった。灯台は海岸線の一部分を見せ、そして、もう一つ別の部分を見せる。同様に、私達が拠点に戻って、統一された風景を描く灯台を構築する前に、私達はいろいろ知られたコホモロジー理論(その多くを彼自身が考案した)を見ている。いくつかの意味で、その科学的戦略はスキームの世界で使用されたものとは反対である。
この話題についてグロタンディークは何も発表しなかった。彼は少しの注意をしたのみだった。ウラジミール・ヴォエヴォドスキーがモチーフと呼ばれるオブジェクトのカテゴリを構築することによって、この分野に最も野心的な貢献をした。だが、そんなカテゴリにおいて、さまよう遺伝子のようにオブジェクトは移動できる。遺伝のイメージは私にとって極めて妥当だと思われる。これは、ヴェイユ予想の証明の中で中心である、重さというドリーニュの定義の使用によって可能となった。
ヴォエヴォドスキーによって作られたツールはグロタンディークの期待に一致していたかも知れないが、使用するのは困難だった。正しいツールは使用が簡単であるべきだ。従って、何の進歩がなされて来たかは、混合ホッジ構造または混合テイトモチーフのようなオブジェクトに私達の野望を制限することによって達成されて来ているのみだ。グロタンディーク-タイヒミュラー群のように、これらは対称の基本群の表現である。この小さな分野の中でさえ、貴重な宝を発見するためにはなされるべき大量の研究が既にある。これすべてを余りにも経済的、余りにも手頃過ぎるとグロタンディークは不平を言った。彼の洞察力の深さから彼は商売人達に多くの叱責をした。グロタンディークまたはロバート・ラングランズのような数学的先見の明がある人の面前で、正しい科学的戦略は、厳密であって私達が十分に進歩させることの出来るような範囲だけれども面白い結果も持つくらいには十分大きい断片を分離することにある。
著者の分析: 宗教的回帰
最初、グロタンディークについて思いつくことは苦難という表現だ。研究は未完成で放棄され、協力者達と弟子達に裏切られた感覚という苦難。平静時に、"私は閃きのささやきを持っている唯一の人だったし、私が周辺に伝えたことは閃きでなく仕事だ。私の周辺に職人がいたが、彼等の誰も本当に閃きを持っていなかった!"のようなことを彼は言った。そのコメントは深くて妥当であるが、ささやきが発したことを彼が故意に口を閉ざした理由を説明していない。私達が現在彼の人生について知っていることから、彼は周期的な鬱の危機に従属している。科学的創造のための彼のキャパシティーが鬱に対する薬であったし、活発な科学的環境(ブルバキ集団とIHÉS)への没頭が彼の独創性に好ましかったと私には思われる。
だが、私はここで彼の人生の宗教面に言及したい。彼の要求することは深くて不変だ。視覚と聴覚の幻覚を持っていると彼は言う。Récoltes et Semaillesの中で、彼は自身と神の2つの声で同時に福音書を歌うと書きながら、これらの神のような幽霊を描いている。それは、彼が奇妙に返答の無い公的終末論メッセージを送った幻覚または幽霊の連続を追っていた。最も不安なのは悪魔への彼の執着だ。彼はレポートを草案している。
結末に代えて
数学者達は彼等自身を最も客観的な科学者だと見なす。歪み無く伝わるならば、数学は数学者から分離されるはずである。数学者が礼儀正しく消えることを許されるはずだ。実際には、この消失はかなり効果的だ。
グロタンディークは特殊なケースを象徴する。劇画化された上の空の教授よりも遥かに世界から離れて彼は生活した。彼の数学的環境の中でさえ、彼は全く家族の一員でなかった。彼は一種の独白、もっと正確に言えば、数学と神(彼にとっては一つであり、同じだった)との対話を追求した。彼の研究は彼の夢と拘りを消さなかったが、むしろ、それらの同伴の中に生き、それらを育成したということでユニークである。彼は私達に純粋に数学的研究の本体を与え、同時に彼が意義があると考えたことを提供した。
彼の人生は魂の炎によって燃焼し、彼は国と名前を探し求め続けた。私はその国がガリツィア[訳注: ポーランドのクラクフにあるガリツィア ユダヤ博物館]だったと信じるし、そして名前は彼の父親の名前だった。
さて、私及び私の周辺もグロタンディーク氏の逝去を聞いて特に何らかの反応はありません。これは数学界にいる人なら皆同様だと思います。つまり、数学者グロタンディーク氏は1970年までに終わっているからです。逝去の報に接して、グロタンディーク素数がどうのこうの下らないことを言っている人はド素人だと断言出来ます。因みに、私の知る限り、グロタンディーク素数のエピソードを裏付ける資料はありません。おそらく、他の数学者が面白おかしくエピソードをジョークとして捏造したのではないかと思います。と言うのは、グロタンディーク氏が具体的な数字を持ち出すことはあり得ないからです。例えば、広中平祐博士は「グロタンディーク、彼は凄い人だ! 彼は方程式を見ない。最初から大局的にすべてを見るだけだ。」("広中平祐博士へのインタビュー"より)と言っているのです。また、グロタンディーク氏を個人的にも良く知っていたマイケル・アティヤ卿は「彼は弱点を持っていた。彼は成層圏では他に誰も出来ない操縦を出来たが、地球上の彼の立場に自信が無かった。つまり、具体例に彼は乏しく、同僚に供給して貰わなければならなかった。」("ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"より)と言っています。つまりは、グロタンディーク氏が、どういう場面か分かりませんけど、自ら具体的な数字を持ち出すはずがないのです。また、具体的な数字に縛られるような理論をグロタンディーク氏が作るはずもなく、具体的な数字を上げなければ理解出来ない聴衆がグロタンディーク氏の講義に参加出来るはずもありません。仮にそういう低レベルな聴衆がいたなら、グロタンディーク氏から公衆の面前で罵倒されていたでしょう。これは私の大先生や大先輩方から聞いた茶飲み話です。
ところで、グロタンディーク氏は病院で亡くなったそうですが、そこらへんの詳しいいきさつの情報がないかとフランスの地元メディアをいろいろ調べてみてもありませんでした。私は数学者グロタンディーク氏ではなくても、一般人グロタンディーク氏の最後が日本のように独居老人のミイラや白骨死体であってはならないと以前から懸念を持っていましたから、氏の周辺を限られた人達が目を光らせていたことに安堵を覚えています。
前置きが長くなりました。今日紹介するのは、グロタンディーク氏とブルバキで親しかったピエール・カルティエ博士の"Alexander Grothendieck―A Country Known Only by Name"です。これは正確な日付がわかりませんが、発表されたのがグロタンディーク氏の逝去の少し前だと思います。従って、偶然と言うよりも、カルティエ博士はグロタンディーク氏の直近の健康状態を部外者よりは知っていたと私は思います。
紹介する記事に関して補足したいことがあります。タイトルから容易に想像出来るように、記事は博士の以前の論文'A country of which nothing is known but the name Grothendieck and "motives"'(PDF)を下敷きにしていることは明らかです。大きな違いは、元論文の誤った伝記的事項が大幅に削除されています。例えば、グロタンディーク氏の父君がJohn Reedの有名な本"Ten Days that Shook the World"[世界を震撼させた10日間]に載るほどの有名(?)アナキストだったという間違いは削除されています。これは同じ名前を持つ別人物でした。これが原因で長らく父君が有名アナキストだと多くの人が思い込んでいました(特に日本では今でも多いです)。念のために言っておきますが、これはカルティエ博士のミスと言うよりも、グロタンディーク氏の思わせ振りが原因です。後にグロタンディーク氏の伝記を書くことになるWinfried Scharlau博士との手紙のやり取りの中で、グロタンディーク氏は自分の軽率を謝罪(?)しています。つまり、グロタンディーク氏と言えども、人並みに虚栄心や見栄があったということなんでしょう。なお、詳しいことはScharlau博士の本"Wer Ist Alexander Grothendieck? Anarchie, Mathematik, Spiritualität - Eine Biographie"[アレクサンンドル グロタンディークとは何者か? アナキズム、数学、霊性 - 伝記]をご覧ください。
それでも、まだ間違いがあります。グロタンディーク氏には4歳年上の異父姉がいますが、その姉をグロタンディーク氏が良く知らないようにカルティエ博士は書いています。確かにグロタンディーク氏が赤ん坊の時代は姉が同居していても分からないし、この姉は母方の実家に預けられていることが多かったことも事実です。しかし、両親がパリに行って、グロタンディーク氏が里親の保育所に預けられていた時代でも、身勝手な両親と冷たい母方の実家とは反対に、弟思いの姉は奉仕期間(当時のドイツで初等教育を終えた若い女性は何らかの奉仕をすることが義務だったらしいです。現在の日本の教育制度で言えば、中学校卒業の年齢に相当します)に(弟がその保育所にいた時期とは異なるけれども)保育所で働き、子供達の世話をしているのです。そして、後に互いが長じて、数学者になった若きグロタンディーク氏は母と姉と3人で一時的には暮らしていたのです。ですから、知らないどころではなく、良く知っていたのです。このことも前述のScharlau博士の本には詳しく書かれています。
いずれにせよ、カルティエ博士の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、注釈部を省きましたが、注釈へのインデックスはそのままです。
[追記:2014年12月02日]
この記事に記述されている伝記的事項は余りにも少ないし、おざなりなので、是非とも上述のWinfried Scharlau博士の労作をお勧めしますが、この本の日本語版が刊行されることは先ずありません。と言うのは、グロタンディーク氏の数々の瞑想録は勿論のこと、いろいろな写真(例えば、異父姉Maidiさんの若き日の笑顔の素敵な写真)も含んでおり、はたまた母親のハンカさんの自伝的遺稿さえもふんだんに引用されているからです。Scharlau博士の執念がこれらの資料を入手可能にしたとは思うのですが、生前のグロタンディーク氏の許可を得ることは不可能だったのでドイツでの出版社による刊行は諦めたようです(詳しくは、"Translation of Grothendieck Biography"での私の質疑に対する、Scharlau博士の同僚であるLeila Schneps氏の回答を参照のこと)。Scharlau博士とその助力者は自費出版または注文出版という形で独語版と英語版を自らの責任において刊行したのです。海外の出版社でも困難なのに、腰抜け日本の出版社のどこがリスクを負ってまで和訳を引き受けると思いますか? とどのつまり、Scharlau博士はリスクを負ってでも労作を世に出すべきだと決断したのです。
グロタンディーク氏のRécoltes et Semailles[収穫と種蒔き]等のいくつかは一度は刊行されて、和訳も刊行されました。しかし、後にグロタンディーク氏は認可を取消しました。私の想像では出版したことを後悔したのではないでしょうか。ですから、和訳の復刊を望む声が多いと聞きましたが、マーケット以前に認可の問題があったのです。従って、グロタンディーク氏の逝去の後、著作権が切れるまで先ず復刊はありません。どうしても読みたいなら、ネット上に原文の海賊版がいくつもありますので、それを読めばいいでしょう。但し、私も読んだことがありますが、非常に難解な仏文です。
伝記的事項については、とりあえず"グロタンディークとは何者か?"や"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇"も参考になるかと思います。
[追記: 2019年03月22日]
このペィジは2014年11月30日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。
アレクサンドル・グロタンディーク―名前でのみ知られる田園
2014年 ピエール・カルティエ
数学者達にアレクサンドル・グロタンディークを紹介する必要はない。つまり、20世紀最高の科学者達の中の一人である。彼の個性を様々なゴシップ(つまり、たとえ彼の業績が一流の仲間や弟子達に熱狂的に受入れられて発展させられても、彼は故意に自身の業績を破壊した、または少なくとも彼自身の学派を意図的に破壊した、社会の末端の一人の男)の評判で混同すべきでない。
グロタンディークの人生? ナチズムとその犯罪によって滅茶苦茶にされた少年時代、幼児期に不在で、そして動乱の中に消えて行った父親、彼を手元に置き長らく女性達との関係に邪魔をした母親。これに対して彼は数学的抽象に精神的疾患になるまで没頭することで補い、没頭の間中人を寄せ付けず、熱中の余り病的な苦痛に陥った。
グロタンディークを分類するのは困難だ。カール・フリードリヒ・ガウス、ベルンハルト・リーマンや他の多くの数学者達と同様に、彼は空間の概念ばかりを考えた。だが、彼の独創性は幾何学的な幾何学的な点1の概念を深く掘下げたことにあった。そんな研究は自明だと思われるかも知れないが、その抽象的利害は非常に大きい。それが生じさせている哲学的問題は未だ解決にはほど遠い。究極的にグロタンディークが最も誇りとする研究は、モチーフの概念または、与えられたオブジェクトを、その化身の様々なつかの間の仮面を通して照らし出している標識として見なされるパターンに循環した。しかし、この概念も彼の未完の研究が虚空に面した点を象徴している。グロタンディークの特異的傾向が、この欠陥を容認することに促進した。フランソワ・ジャコブ[訳注: 1965年度ノーベル生理学医学賞受賞の病理学者]が言うように、殆どの科学者はいくぶん砂から彼等の足跡を消し、彼等の空想と夢を語らず、彫像内に彼等自身を捧げたいと熱望する。
1990年以降グロタンディークは自身に課している孤立の深さから、我々に膨大で内省的な作品を送って来ている。すなわち、Récoltes et Semailles2[訳注: 収穫と種蒔き]。もし、その存在がとりわけ不健全な好奇心を引起してしまっているのなら、それにもかかわらず私は、本自体がまさしく例外的な人物の注目すべき企みを明らかにすることを容認する以前に、出来るだけ合理的かつ正直な評価を与えたいと思う。
伝記的要素
追放された人々の家庭
3人の人格があった。つまり、父、母、そして息子。各々がユニークで注目すべきだ。更に幻。つまり、グロタンディークが余りよく知らない母方の姉。彼女は最近米国で死んだ。私の知る限り、父親の名前はSchapiroで、ユダヤ人のハシディズム[訳注: ユダヤ教の敬虔主義運動]に根を持つことを示している。家系の伝統を壊し、Schapiroはロシア革命のユダヤ人サークルに引き付けられ、17歳の時に帝政に反抗し、失敗の1905年革命に参加した。この活動のため刑務所で10年以上の罰を受け、1917年革命の間にやっと解放された。これは終りなき革命の放浪の始まりと投獄の連続の最初を示した。スペインでのフランコの勝利の後、ついにフランスで難民だった妻ハンカと息子アレクサンドルに再会した。その時までに彼は衰弱した男だったと息子が証言する。彼はしばらくぼんやりと漂泊の人生を送った。そして、他の多くの反ファシズムの難民と同様に、ヴィシー政権当局は彼をナチスに引渡すまで、1939年の初頭にヴェルネ収容所へ収監し、アウシュヴィッツ3内で消息不明となった。
ハンカ・グロタンディーク(アレクサンドルは母親の姓を名乗った)は北ドイツ人だった。1920年代の間、彼女は様々な極左グループで活躍して執筆を試みた。彼女はSchapiroに出会った時に既に一人娘を持っていた。アレクサンドルは1928年3月4にベルリンで誕生した。ヒトラーが権力を握った時、彼女はフランスに移住し、ドイツ人移民サークルにおいて貧弱な生活を辛うじて立てた。ハンカと息子は1939年にマンドゥで収監され、1940年6月の大敗北の後に猶予を見たに過ぎないだろう。
アレクサンドル(Alexander、彼はこのスペルをずっとしつこく強調した)は両親がドイツを去る時捨てられた。1938年(彼は10歳だった)まで、北ドイツのファームに匿われていて、自然に帰れという信念を持つフレネ学校の教師によって育てられた。彼は1942年から1944年まで、(平常時において)素晴らしいリゾート地のシャンボン=シュール=リニョンで過ごした。その地は殆どの場合プロテスタントにとって人気だった。私立高校コレージュ・セヴァンヌを収容していた。コレージュ・セヴァンヌは1939年まで主に、馬鹿だが富めるプロテスタントの若者のためのディプロマミル[訳注: 早い話が、実際に勉強しなくても金さえ出せば種々の資格を与える学校機関のこと]だった。だが、戦争の間、牧師Trocméの活動的な影響の許で、コレージュ・セヴァンヌはナチズムに対する精神的抵抗の中心となり、ユダヤ人の子供達の救済に捧げられた。グロタンディークはホワイエ・スイスの寮生であり、コレージュ・セヴァンヌの生徒だった。彼は強い印象を残したので、1950年代の終り頃でさえも、私は目撃者から彼に関する話を聞けた。
形成期
彼の幼年期は終りに来た。コレージュ・セヴァンヌを卒業し、1945年にモンペリエの学生になった。そして、彼の科学的訓練の時期が始まった。
彼が学部学生だった時に最初の明確な数学的エピソードが発生した。その時に受けていた教育に非常に不満だったと彼は表現した。彼の教授はルベーグという人が数学におけるすべて(!)の問題を解決してしまったが、それを教えるのは非常に難しいであろうと言った。たった一人で、殆ど何のガイダンスも無しでグロタンディークはルベーグ積分の非常に一般的なバージョンを再構築した。Récoltes et Semaillesの中で、孤立している状態で達成した、この最初の数学的研究の発生を彼は詳しく記述している。彼は率直に自分を世界で唯一の数学者だと思った5。
1948年学士を得てパリに到着した時、彼の公式な時期が始まった。モンペリエの教授が元先生であるエリ・カルタンに彼を推薦した。その教授はカルタンが今や高齢で衰弱していること、カルタンに息子アンリ・カルタンがいて、父と同様に有名であり、数学的意味において今後パリ人、従ってフランス人にとって有力になるであろうことを知らなかった。
偉大でプロテスタントな大学教授アンリ・カルタンと若き独学の反抗者の間には少しも愛情が損なわれなかった。従って、アンドレ・ヴェイユはグロタンディークをナンシーに送ることを提案した。ナンシーでは、ブルバキ集団の創始者の一人であるジャン・デルサルトが、ブルバキを出来るだけ浸透させながらブルバキを出来るだけ浸透させながら学部長の地位に器用に上りつめていた6。ジャン・デュドネとローラン・シュワルツはグロタンディークを彼が背伸びすることを妨げて訓練する方法を、そして彼が極端な一般化を異常に好むことを抑制する方法を分かっていた。また両者は彼にルベーグ積分のような問題を与える方法を分かっていた。急速に訓練は師匠達に追いついた。一人で誰の助けを求めず、意図的に孤立して彼は函数解析の分野で有力となった。
同時に、ナンシーにおける女性家主との密通は息子セルジュの誕生となった。数年後グロタンディークが自分でセルジュを養育しようと努めた時、殆ど成功の見込みが無かった親権に関する民事訴訟に乗り出した。だが、これは彼の無秩序な家庭生活の始まりに過ぎなかった。結局、彼は3人の婦人に対する5人の子供を持ち、彼自身の父親がそうだったように5人の子供達にとって彼は不在な父親であろう。
IHÉSでの黄金時代
ナンシーでの彼の数学的研究は彼の名声を確立してしまったから、その勢いでどんどん進めて行くのがもっともであったであろう。だが、住まないつもりの家の建築者であると彼が言った時、自身を上手に表現した。彼は研究者の伝統的なキャリアを開始し、CNRS(Centre National de la Recherche Scientifique)[訳注: フランス国立科学研究センター]に即採用されて昇進し、学位論文を書いた後に数年海外で過ごした。サンパウロから戻った時、彼は函数解析に関する章を終えた。それは彼が主人公である時期1958年から1970年までの始まりであり、その時期はブルバキ集団の全盛時と一致した。この驚くべき研究を彼に可能にさせた足がかりは、ビュール=シュル=イヴェットにあるIHÉS(Institut des Hautes Études Scientifiques)[訳注: フランス高等科学研究所]の設立に打ち込んだ華々しい実業家レオン・モチャーンにより彼に与えられた。モチャーンは、形式群の理論を完成させたばかりのデュドネに将来の研究所の数学での最初の席を申し入れた。デュドネはグロタンディークも雇うことを条件に了承した。それから、二人組はジャン=ピエール・セールをリクルートした。セールは数学の統一性に関して鋭敏な感覚、高度な科学的教養、迅速な頭脳、テクニカル的に非凡な腕前を持っており、彼等の気を引き締めるだろう。ヴェイユとグロタンディークがもはや直接コミュニケーションを望まなかった時、セールは両者の間の仲介者として行動し、ヴェイユ予想の明晰化に大いに貢献した。セールは、グロタンディークの網の中へ獲物を怯えさせて入らせたから、数学的な雉の完璧な勢子(私は仲人と呼ぶことにしていた)だった。網の中でも同様に強烈で、獲物は辛うじてもがくだけだった。
そして、グロタンディークは世界が今まで見たことのある最も世評の高い数学セミナーの一つを作ることに移った。若い才能に囲まれ、彼は情熱的に数学的発見に没頭した。セッションは10時間から12時間まで継続した7! 彼は数論、代数幾何学、トポロジーを融合する意図の手強いプログラムを体系づけた。彼自身の寓話の中で述べたように、大聖堂の建築者である彼は研究をチームメイトに分配した。毎日彼は、果てしの無い、字が読みにくい数学的続き物(feuilletons)をデュドネに送った。デュドネは毎朝5時から8時まで仕事台に座り、その走り書きをデュドネとグロタンディーク共著の堂々たる巻の集まりに変化させた。そして、IHÉS数学出版(IHÉS' Publications Mathématiques)の中で刊行された。デュドネは個人的大望を捨て、彼がブルバキの許で示した同じ自己抑制で、このサービスに自身を捧げた。それにもかかわらず、数年間彼はIHÉSにとどまった。ニース大学創立において、彼は最初の科学部長になった。だが、それはグロタンディークとのコラボレーションの終りではなく、1970年のニースにおける国際数学者会議を組織するために精力的でさえあった8。
IHÉSチームの成功はすぐに反響した。早くも1962年、セールは代数幾何学とスキーム理論は同等であると宣言した9。その分野に関する直接的及び間接的刊行物は何千ページにもなった。グロタンディークの数学からの撤退の後、ピエール・ドリーニュ、リュック・イリュージーが代数幾何学セミナーシリーズの刊行を完結することに骨折ったが、それに対してグロタンディークは良しとしなかった。グロタンディーク学派がそれ自体を包囲した。学派にあった寛容の精神は消えた。風のそよぎが鎮圧された。だが、その時ブルバキの事業もそうだった10。
上流社会からの脱走
グロタンディークの科学的名声は1968年に絶頂に至った。彼はこの上ない栄誉、フィールズ賞をモスクワでの国際数学者会議で受けることとなった11。ソビエト当局は彼にしぶしぶビザを与えた(彼の父親は1917年革命の後"人民の敵"となっていた)が、憎みに満ちた冷戦において数学者達を利用すると思った(モスクワでスメールが小さなデモを組織した。それでも、数学者達を煽ることが如何に困難であるか明らかだった)。グロタンディークは姿を見せなかった。
従って、社会不和の始まり(1965年のバークレーの熱狂がフランスにおける1968年の3月を引起した)と同様に、このイベントの背景において、グロタンディークの欠点の限界が破裂した。もっと正確に言えば、彼の深い傷が再び開いた。この傷はロシアのユダヤ人であり、反ユダヤ人主義が復古していた国で覚えられていた父親の傷だった。フィールズ賞は未完成の構想に授与し、彼の科学的大望のゴールに到達しないのではないかという彼の疑いがあったので、"ノーベル症候群"と相俟っていた12。これと並行して、環境の社会不和が彼に自身の矛盾を露にした。自身をアウトローでありアナキストだと見ていた彼は、自身が実のところ国際的な科学世界の官吏であって、理想と人民に権力をふるう者であると突如見出した。すべての権力が競い合った時期に、彼はこの2重人格性に不安になった。彼の当面の反応は、生き残り(Survivre)、そして後に生き残りと生活(Survivre et vivre)と呼ばれる小さなグループを設立して、ニューズレターの中でそれ自身を語ることだった。この運動は、1970年代に発生した環境保護セクトに似ており、核戦争の危険(当時は現実味があった)が公害と人口過密の強迫観念とともに綯い交ぜになっていた。彼はおそらく社会的議論も数学的証明のテクニックを使用して形成されるであろうと信じていた。結局のところ、彼は彼の支持者を敵に回したに過ぎなかった。
放浪の数年が続いた。すなわち、彼は1970年の9月に比較的マイナーな口実13でIHÉSを辞職、海外を旅行し、コレージュ・ド・フランスで一時的地位を得て、最終的に、彼の若き日の、控えめな尊重14しか持っていないモンペリエ大学の教授に就いた。
奥地亡命
モンペリエでの長い年月の間、特に一つの事件が画期的だった。つまり、彼の裁判。グロタンディークはいつも家に辺境の人々を歓迎していた。1970年代には、多くのヒッピー集団がロゼールとラルザックの地域に付属するようになった。外から見れば、グロタンディークの家はファランステール[訳注: フーリエ主義に基づく共同体住居]のまさに具体化であって、彼がリーダーの一人だった。真実か誇張か、いくつかの出来事によれば、地方警察がグロタンディークの家を家宅捜査した。警察が彼に被せた唯一の罪状は日本人仏僧を泊めたことだった。その日本人仏僧はボンベイにあるタタ研究所の元学生で、全く人畜無害の人柄だったが、フランスでの滞在期間を超えていた。予期せぬ結果が6ヵ月後のモンペリエの裁判所への出頭命令だった。その時までに日本人仏僧はもちろん地球の反対側へいなくなっていた。そして、10分で迅速に処理されるべきはずだったことが大きな事件となった。グロタンディークはパリのブルバキセミナーに姿を現し、彼の仲間達、すなわちローラン・シュワルツ、アラン・ラスクー、私に注意を促した。公判の日までに裁判官は被告に味方する200通の手紙を受け、チャーターされた飛行機は学部長の礼服を纏ったサポーター達(デュドネが彼等のヘッド)、裕福な社会主義者集団の教会非主流派、法曹界の重鎮達の寄集めを吐き出した。形式上の譲歩を裁判で失うリスクを好んで、グロタンディークは彼自身の弁護士として行動した。彼は防衛のため壮大なスピーチをした。ああ~、グロタンディークが予測していた通り、臆病な裁判官は彼に6ヶ月の執行猶予判決を宣告した。その判決は上訴で是認されたが、その時までにメディアの興奮は消え去ってしまっていた。
グロタンディークは1988年に定年退職し、アリエージュ(フランス南西部のミディ=ピレネー地域の県)の小さな村に以降奥地亡命して暮らしている。彼は家族全員との繋がりを破棄していたようだ。嘆かわしいほど悪名高いが、とりわけ彼の子供時代に付随するヴェルネ収容所のとても近くに彼が住んでいることは重要ではない。彼は電話も知られている郵便住所も持っておらず、ごく限られた数人のみが口外しないと約束した上で、彼の隠遁の正確な場所を知っている。隣人達に"少々風変わりな、退職した数学教授"と了解されて、彼は一人で住んでいる。彼は自分の霊性を仏教用語に翻訳したり、正統派のユダヤ先祖から離れて食事タブーを重視したりしている。つまり、彼は最も極端な菜食主義を実践していて、その結果、健康を危うくしたらしい。
数学的研究の出生
グロタンディークの科学的研究を数ページで素人に説明することは難題だ。それをするために私は、長らくグロタンディークの最も近いパートナーであるデュドネによって提供された分析を利用する。その分析は、グロタンディークの生誕60年の機会に作成された記念論文集(Festschrift)15の序論にある。
函数解析
ゲオルク・カントールの集合論は20世紀の後継者達に函数解析を作ることを許した。これは微分積分(ライプニッツとニュートンによって作られた)の拡張である。函数解析においては、特定の函数(例えば指数函数または三角函数のような)のみならず、あるタイプのすべての函数上で実行され得る作用素と変換を考える。20世紀の始めにエミール・ボレルと、とりわけアンリ・ルベーグによって作られた新しい積分論、ステファン・バナハ、モーリス・フレシェ、ノーバート・ウィーナーによるノルム付空間の発明は数学の構築と証明のための新しいツールを与えた。函数解析は、その一般性、簡潔性、調和性において魅力的な理論であり、難しい問題をエレガントに解決出来る。だが、函数解析は数学的オブジェクトの存在を証明するために、よく非構成的手法を使う(ハーン-バナハ定理、ベールの定理とその帰結)。その構成に対して、いつも効果的な手法を与えられるとは限らない。(abが有理数となるような2つの無理数a、bが存在するか? 明らかな証明が存在を示すが、それらの数を特定出来ない)。初心者のグロタンディークがモンペリエのいくらか時代遅れの教授から函数解析について教わり、大喜びして習った理論に熱狂的に反応することは驚きではない。
1948年グロタンディークが20歳でパリ数学界に着いた時、彼はルベーグ積分の非常に一般的なバージョンを再構築した膨大な原稿を既に書いてしまっていた。ナンシーではジャン・デュドネ、ジャン・デルサルト、ロジェ・ゴドメン、ローラン・シュワルツ(全員、ブルバキ集団の活動的なメンバー)が函数解析におけるバナハの研究を超えようと努力していた。グロタンディークはナンシーで好ましい環境を一旦確立すると、彼は函数解析に大変革をもたらした。ある意味では、その分野を絶滅させた。1953年に書かれ、1955年に刊行された彼の学位論文の中で、バナハ空間とその一般化に対するテンソル積の理論をゼロから作り、函数作用素に関するローラン・シュワルツの重要な核定理を説明するために核空間の概念を発明した。イズライル・ゲルファントに影響を受けたロシアの数学者達は核空間を本質的に使用し、確率論からのテクニックを数理物理学の問題(統計力学、"構成的"量子場理論)に適用することの鍵の一つになったものだった。グロタンディークは距離不等式に関する難解で深遠な論文を書いた後、函数解析を断念した。距離不等式は40年間、学派(ジル・ピジェとその仲間)全体に燃料を供給した。彼は自分のアイデアの結果について殆ど注意を払わず、広島全滅の罪深い学問ということで、理論物理学に対して無関心、敵意さえも持っていた。
ホモロジー代数
そしてグロタンディークは27歳で2番目の数学的キャリアを始めた。ブルバキの数学者達が、アンリ・カルタン、ローラン・シュワルツ、ジャン=ピエール・セールのリーダーシップの元で幾何学、群論、トポロジーの最も困難な問題に取組んだ時はフランス数学の黄金時代である1955年だった。新しいツールが出現した。つまり、層理論とホモロジー代数(層理論はジャン・ルレーによって発明され、ホモロジー代数はアンリ・カルタンとサミュエル・アイレンベルグによって発明され、彼等の解説書Homological Algebraが1956年に刊行された)。それらの一般性と融通性は称賛に値した。ヘスペリデスの園のリンゴは、1949年にアンドレ・ヴェイユによって述べられた有名な予想だった。これらは、たとえ多くの重要な特殊ケースが既に知られていたとしても、圧倒されるほどの一般性の組合せ問題(ガロア体で変数を持つ方程式の解の数を数えること)だと思われた。
この新しい分野でのグロタンディークの最初の進出の試みは雷鳴だった。それは"Sur quelques points d'algèbre homologique"16[訳注: ホモロジー代数のいくつかの諸点について]という控えめなタイトルで1957年に日本のTōhoku Mathematical Journalで出現したので、"東北"というニックネームで知られた。特殊ケース全部をを超える一般的ツールとして意図されたホモロジー代数は既に、知られた手法と結果の広大な統合だった。だが、層はこのフレームワークに入っていない。ジャン・ルレーはエリ・カルタン(アンリ・カルタンの父)の幾何学的手法を模倣して層とそのホモロジーを特別に構築した。1950年の秋、パリで一年を過ごしていたアイレンベルグはアンリ・カルタンと一緒に層ホモロジーの公理的特徴づけを始めたが、まだ構築はその特別な特徴を残した。1953年セールが代数幾何学に層を導入した時、ザリスキー位相の外見上病的な性質が彼にいくつかの不自然な構築を余儀無くさせた。グロタンディークの天分は、彼がよく使用したもの、つまり上から問題を解くことにあった。モジュールの文脈の中でホモロジー代数の成功を分析して、彼はアーベル圏及び、とりわけ彼が呼ぶところのAB5*条件の概念を掘り起こした(同時にデヴィッド・ブックスバウムによっても発明された)。この条件はいわゆる単射オブジェクトの存在を保証した。モジュールに対して根本的である単射解消の手法である、AB5*条件を満たす層は何の策略の必要も無く一般的に層へ拡張する。層ホモロジーの構築に健全な基礎を与えるばかりでなく、モジュールと層に対する絶対的並行展開を与える。それは層にExtとTorファンクターを引き入れている。再びすべてが自然である。
代数幾何学と数論幾何学
この始まり(1955–1958)の後、グロタンディークは自身のプログラムを発表した。すなわち、トポロジーで使用され、既にアンリ・カルタン、アイレンベルグ、セールによってテストされた新しいツールを借り、一般性を最大限に求めながら代数幾何学の(新しい)再編を通して数論幾何学を作ること。その当時の登場人物(クロード・シュヴァレー、サージ・ラング、永田雅宣、ジャン=ピエール・セール、私)の誰もが思い切ってしなかった統合にグロタンディークは、性来のエネルギーと熱狂で以って自身を真っ逆さまに研究に投げ出して思いっきり立ち向かった。グロタンディークの事業は予期されなかった相互作用のおかげで繁栄した。統合及び研究に対する、筆記者の地位に推進したデュドネの巨大なキャパシティー。セールの厳密で合理的かつ物事に精通している気概。オスカー・ザリスキの学生達の幾何学と代数学における実践的ノウハウ。グロタンディークの偉大な弟子ピエール・ドリーニュの若い新鮮味。これらすべてが、グロタンディークの冒険的で先見の明があり、非常に野心的な気概に対して、つり合いのおもりとして発生した。新しいIHÉSは様々な世界的な若い才能を結集した。スキームの主要概念の周辺を系統立てして、グロタンディークの理論は幾何学の大部分を併合するに至った(代数群17の研究のような最も新しい部分さえも)。巨大な道具―グロタンディーク位相(エタール、結晶…)、降下、導来圏、6則演算、特性類、モノドロミー群、等々)―を使用してグロタンディークは最終ゴール、ヴェイユ予想の半ばに到着した。1974年ドリーニュが証明を完成させたが、1970年までに、そしてIHÉSに議論の余地が無い科学的君臨の12年の後、グロタンディークは自身の組織化しているセンターを失っていて、物事をぼろぼろにしてしまった。1988年の60歳で公式な退職まで、彼は間欠的に働くだけだった。それにもかかわらず、仕事の重要な"死後の"主要部を残した。
3つの主要なテキストがある。1983年に書かれたÀ la poursuite des champs18[訳注: 野を追跡する]は多次元カテゴリに関する600ページの黙想だ。組合わせ論、幾何学、ホモロジー代数が壮大なプロジェクトにまとまっている。多くの努力が結集された15年以上の後、3つの定義(おそらく殆ど同等)が多次元カテゴリ(広義)19に対して提案されて来ている。そんな構築の理論は理論コンピューター科学、統計物理等において多くの潜在的応用を持つであろうから、それらは純粋数学に対して重要だけではない。2番目に、Esquisse d'un programme20[訳注:プログラムのスケッチ]はCNRSのポジションの申込書に加えるため1984年に書かれたテキストだった。その中で、グロタンディークは代数曲線の変形を記述しているタワー(またはレゴのゲーム)の構築をスケッチ(その言葉は正確である)している。最後に、La Longue Marche à travers la théorie de Galois21[訳注:ガロア理論を通しての長い展開]は1981年に書かれ、Esquisse d'un programmeで示唆された、いくつかの構築に関する部分的指示を与えている。 Esquisse d'un programmeを除いて、それらのテキストは手から手へと渡り、最終的に熱狂者グループのしつこい求めに応じて刊行された。不思議なことに、グロタンディークの研究の本当の後継者は本質的にロシア数学の学派のメンバー(ユーリ・マニン、ウラジーミル・ドリンフェルト、アレクサンドル・ゴンチャロフ、マキシム・コンツェビッチ、但し少数の人達を例示したに過ぎない)だ。彼等はグロタンディークと直接のコンタクトがあるとしても殆ど持ったことがない。それにもかかわらず、グロタンディークが無視し忌み嫌った数理物理学からの手法の使用方法を継承し知っていた。
研究の解剖
幾何学的コーパスの編集
2つのシリーズで刊行されたグロタンディークの代数幾何学における研究は一万ページ以上に達する。ユークリッド原論とブルバキ両方に対するアピールのために題名された一つ目はÉléments de Géométrie Algébrique[訳注: 代数幾何学原論](またはÉGA)であり、全くデュドネによって書かれ、未完のままである。最初計画された13巻のうち、4巻のみが書かれた。二つ目のシリーズはその構成がより乱雑だったが、Séminaires de Géométrie Algébrique[訳注:代数幾何学セミナー](またはSGA)と呼ばれ、7巻から成る。ボワ・マリー(IHÉSの所在地から名付けられた)でのセミナーをカバーし、グロタンディークはセミナーを1960年から1969年までリードした。最初の2巻はグロタンディークまたは彼のコントロールの元により書かれた。彼は個人的にそれらの刊行を監修した。3巻目に関しては、本質的にピエール・ガブリエルとミッチェル・ドマジュール(彼の学位論文はこの仕事から抜粋された)により書かれた。以後、事は非常に複雑になった。1970年にグロタンディークが数学的舞台を断念した時、未完成の事業を後に残して、職場は惨めな状態だった。彼は判読出来ない原稿、セミナーからの講義の謄写版、刊行のためのノートを残した。それらは整理され、(かなり大きい)ギャップを埋める必要があった。それは壮大な仕事だった。リュック・イリュージーとピエール・ドリーニュが素晴らしい忠誠と弟子の敬虔で以って、これ全部を成し遂げた。ヴェイユ予想を考慮してセンターピースは、最も革新的なアイデアに割かれたSGA 4である。だが、1974年にドリーニュがヴェイユ予想の自身の証明を発表した時、専門家達は彼の証明の基礎が不完全だと考えた。ドリーニュはその時、(グロタンディークセミナーSGA 5の欠けた部分と共に)追加の巻を刊行した。それはドリーニュ自身が計画し、奇妙にもSGA 4 ½と題名された。グロタンディークは企て全体を却下した。これはグロタンディークが考えていたことではなかった。彼の計画は切捨てられていた。彼等は彼を裏切っていた。グロタンディークは自身のフィーリングを強いイメージを使って記述した。すなわち、今や大工チームの棟梁が死んでいるのであるから、チームは解散し、各自が棟梁のスケッチとツールを運び去っている。死亡どころか、棟梁がチームを単に捨ててしまったという事実が無ければ、道徳的に見て力強いイメージであろう。
グロタンディークはネーミングに好みと才能があり、主要な知的戦略として使用した。従って、私のタイトル"名前でのみ知られる田園"は彼の方法への言葉の敬意である。物事の所有と征服以前に、彼は物事に対するネーミングに特殊な才能があって、彼の用語上の選択の多くが注目に値した。科学的アイデアを描くためメンタルなイメージを求めた。これらはla belle demeure parfaite[訳注:美しい完璧な家]やle beau château dont on a hérité[訳注:継承される美しい城]を含んだ。彼は自身を大工だと言った。彼は言葉の空想的記録簿の中で、これら寓喩を曲芸した。彼の母語はドイツ語であり、母が死ぬまで母との会話で使用した唯一の言語なのだから、これは全く、より驚きと同時により著しい。しかし、もし彼がドイツ語で長く思考したなら、それでも彼は結果的にフランス語の鋭い感覚を得ていた。彼の2言語使用能力は彼にドイツ的慣習を認識出来る能力を許した。
大きな問題
シンボリズムにこだわりがあるので、ちょうどRécoltes et Semaillesを12のテーマ(そのうちの少数しか私はコメントしない)に分割したように、グロタンディークは12人の弟子を認めた。多くのテーマがグロタンディークの大きな事業、すなわち代数幾何学に関係する。大きな問題が大きな謎から成り、謎の比較的単純な定式化は明白な攻め所を提供しない。フェルマーの最終定理として不正確に知られているものは大規模で簡潔な予想だった。つまり、a、b、c、nがすべて自然数で、n=2でないなら、an + bn = cnは不可能である。アンドリュー・ワイルズとリチャード・テイラーは証明を確立するため、主にヴェイユとグロタンディークの手法に基づいて、大きく複雑な体系を必要とした。現代の問題で最も有名で人々を混乱させているのはリーマン予想だ。1930年、ヘルムート・ハッセは(エミール・アルティンとフリードリッヒ・シュミットの後で)、リーマン予想を不等式に翻訳することで、リーマン予想に類似の問題を定式化して解いた。次の段階は1940年から1948年までヴェイユが占めた。ヴェイユが1949年に彼の有名な予想を定式化した時、これらのアイデアによって導かれた。
グロタンディークにとって、ヴェイユ予想はそれ自体ではさほど面白くないが、彼の一般的ビジョンのテストとして興味がある。グロタンディークは数学における構築者と探検者を区別していて、彼自身を一度にどちらでもあると見ていた。グロタンディークのお気に入りの手法はジェリコ征服のためのヨシュアのものと似ていた。人は場所を徐々に弱らせることで場所を取らなければならない。ある時点で、闘志を無くし屈する。数学の統一的見解を十分に持ち、問題の概念的本質を十分に見通せるならば、問題はそれ自体のためにもはや解かれる必要の無いテストに過ぎないだろうとグロタンディークは確信していた。
数学を理解する、この流儀はグロタンディークにとって非常に上手く働いた(たとえ彼の夢が時折もっと自身を成功させたいという傾向があったとしても。更に、たとえ彼がデュドネとセールの正しい影響を必要としたとしても)。ドリーニュは師匠の仕事のすべてのトリック、すべての概念、すべての変形を暗記するほどに知っていた。1974年に与えられた彼の証明は驚くほどの精密だ。何の驚きも無く自然な順番で、ステップが相互に続いている。グロタンディークのすべての講義は、以前のものよりも更に一般的な概念の全く新しい世界を導入した。手法、もっと正確に言えば気質の対立が彼等を別れさせた個人的衝突の真の理由だと私は思う。イエスが愛した弟子、最後の福音書を一人で書いた、あのジョンはおそらく不機嫌な追われ人(グロタンディークはそれを自身に押し付けた)の役割をした。
手法
今やグロタンディークの数学的手法のまさに心臓部に到着する。彼が正当に誇る12の偉大なアイデアの内、彼は3つを他のものより上に置いた。それらをスキームからモチーフへの進化の形の中で提供した。
スキーム → トポス → モチーフ
彼の科学的戦略全体が実のところ、ますます一般的な概念の進化の周辺に体系づけられる。私の心に来るそのイメージは、私が1980年に訪れたベトナムの仏寺院だ。しきたりによれば、祭壇は一連の昇順のステップから成り、その頂点にいろいろな仏陀の横たわった像が置かれた。その発展を通して私達がグロタンディークの研究を追う時、私達も完全へ徐々に進化していると同様に感じる。彼の心の中でモチーフは最終ステージを意味し、彼がまだ到達していなかったものだ。だが、彼は2つの中間ステージ(スキームとトポス)には到着した。
3部作
スキーム
グロタンディークによって使われた用語よりもっと制限された意味で受取られていたけれども、用語自体はシュヴァレーによって考案された。Foundations of Algebraic Geometry[訳注: 代数幾何学の基礎]の中で、アンドレ・ヴェイユは彼の助言者エリ・カルタンによって微分幾何学で使用された(カール・フリードリヒ・ガウスとジャン・ダルブーの後で)手法を代数幾何学に導入した。だが、ヴェイユの手法は決して本質的ではなかったので、シュヴァレーはヴェイユの意味の多様体で何が不変なのだろうかと思った。その答えは、ザリスキーの研究にヒントを得て、単純でエレガントだった。すなわち、代数多様体のスキームは、有理函数体の中で見つかる部分多様体の局所環の集まりである。明白なトポロジーの必要が無い。それがシュヴァレーとセールの違う一点だ。セールは大体同時期にザリスキー位相と層を使って代数多様体を導入した。二人のアプローチの各々に長所があったが、限界もあった。つまり、セールは代数的閉基礎体を持ったし、シュヴァレーは既約多様体でのみに研究しなければならなかった。どちらの場合でも、多様体の積と基底変換の2つの根本的問題は間接的にアプローチ出来るのみだった。それでも、永田がすぐ注目したように、シュヴァレーの観点が数論に対する将来的拡張には、より適していた。
エヴァリスト・ガロアは確かに、方程式とその解の間の極性を注目した最初の人だった。代数方程式の係数が選ばれている領域と解が求まる領域を区別しなければならない。ザリスキー-シュヴァレー-永田の概念的提示を本質的に基礎にして、グロタンディークはこれらのアイデアから統合を作った。スキームは従って、方程式並びに方程式に従属させてよい変換の符号化システムの一方法なのである。
グロタンディークはガロア問題を次のようなやり方で述べた。スキームは絶対オブジェクト、例えばXである。定数の体(または定義の体)の選択は、もう一つ別のスキームSと、XからSへの射πXの選択に相当する22。スキーム理論において、可換環はそのスペクトル23であるスキームとみなされる。環Aから環Bへの準同型写像は同様に写像し、逆にスペクトルBからスペクトルAの中に写像する。更に、体のスペクトルは単一の基礎点(この意味で、たとえ多くの異なる点が存在しても)を持つ。その結果、普遍領域に含まれている領域の体を与えることは、TからSへの射πTであるスキームを与えることに相当する。定数の領域S、普遍領域Tに値を持つ、方程式Xのシステムの解は、πTがφとπTの合成であるようなTからXへの射φに相当する。
何とみごとな簡潔さ! 現代数学は集合の卓越に基づく。集合の存在とそれから作られる構築を一旦受入れると、すべての数学オブジェクトは集合となって、その点の集合と一致する24。変換は原則的に点の変換である25。いろいろな形の幾何学(微分、計量、アフイン、代数)において、中心のオブジェクトは点の集合26と考えられる多様体だ。そして、グロタンディークにとってスキームは、空間の点27を生成する行列である内部的メカニズムだ。 量子物理学において点の状態の根本的再評価の後で、点の概念の純粋に数学的な解析(ゲルファントのもの、グロタンディークのもの)が発見された。この再評価の最も系統だった表現はアラン・コンヌの非可換幾何学である。統合は完成にはほど遠い。グロタンディーク-タイヒミュラー群28と量子場理論のくりこみ群の間のますます増える類似性は確かに、物理の普遍定数に作用する対称群(一種の宇宙ガロア群29)の最初の表明に過ぎない。グロタンディークはこの発展を予期しなかったし、彼の物理学に対する偏見(大部分、彼の軍産共同体の激しい拒絶による)のため、おそらく歓迎すらしなかったであろう。 Récoltes et Semaillesの中で、グロタンディークは少しの間、空間の問題に対する自身の貢献において自身をアインシュタインと比較した。彼の貢献は確かに同じ重要性30を持つ。アインシュタインとグロタンディーク共に、空間は現象のための空容器ではなく、世界の人生と宇宙の歴史における主人公であるという特別な見解を深めた。
トポス
今やトポス31を考えよう。スキームと違って、トポスは点の無い幾何学を生成する。もっと言えば、点、線、面がすべて同じ立場の幾何学のための公理的フレームワークを提案することを妨げない。従って、私達は射影幾何学(ジョージ・バーコフ)のための公理的システムを知っている。射影幾何学において、第一概念はプレート(線と面の一般化)であり、基本関係は結合則である。数学では、束と呼ばれる部分順序集合のクラスを考える。束の各々が異なる幾何学32に相当する。
位相空間の幾何学では、開集合の束が主演であり、一方点は比較的脇役だ。だが、グロタンディークの独創性はリーマンのアイデアを再現することだった。リーマンのアイデアとは、多価函数は実のところ複素平面の開集合ではなく拡張リーマン面に住んでいるというものだ。拡張リーマン面は互いに投影するので、カテゴリのオブジェクトを成す。しかし、束は2つの与えられたオブジェクト間の変換を多くても一つしか持たないので、束はカテゴリの特殊ケースである。従って、グロタンディークは開集合の束を拡張開集合のカテゴリに置換えることを提案した。代数幾何学に適用する時、代数函数に対する陰函数定理が無いのであるから、このアイデアは根本的困難を解決する。層は今や、開集合の束(カテゴリとみなして)の上で特殊なファンクターとして考えられるので、エタール層に拡張出来る。エタール層はエタール位相の特殊なファンクターである。
このテーマについてグロタンディークは、いろいろな幾何学的構成の問題(例えば、代数曲線に対するモジュールの問題)の文脈で、みごとに多くのバリエーションを披露したものだった。この点について彼の最も偉大な成功は、スキームのエタール"ℓ-adic"コホモロジーであろう。それはヴェイユ予想を攻略するために必要なコホモロジー理論である。
だが、抽象化に向けてまだもう一つ別のステップがある。以下の進化を考えよう。
スキーム → エタールコホモロジー → エタール層
最後のステップに直接行けるであろう、そしてスキームの幾何学的概念すべてがエタール層のカテゴリの中に符号化されるとグロタンディークは悟った。このカテゴリは、彼が"トポス"と呼んだカテゴリの特別な型に属する。
そして、ここに劇の最後の幕がある。与えられた空間上の層は集合のカテゴリと同じ概念を基本的に持つカテゴリを形成するとグロタンディークは注目していた。だが、クルト・ゲーデルとポール・コーエンは既に集合論の同等でないモデルがいろいろあることを示してしまっていた。従って、トポスと集合論のモデルの間に存在するかも知れない関係を調べることは当然だった。グロタンディークは論理学を知らないし、おそらく彼が物理学にしたことと同じように徹底的に蔑視した。謎を解決したのは他の人達(特にジーン・ベナボウ、ウィリアム・ローヴェア、マイルズ・ティアニー)だった。トポスは完全に集合論の直観論理モデルを包含した。排中原理は正しくない。この論理が傑出した位相幾何学者ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワーによって考案されたことが最も注目に値するが、後から振り返って考えてみると、直観論理は位相幾何的解釈33を与えられているようなので、非常にもっともである。
モチーフ
モチーフが残っている。グロタンディークが訴えたイメージは、夜に回転灯を持つ灯台に照らされた岩の多い海岸線だった。灯台は海岸線の一部分を見せ、そして、もう一つ別の部分を見せる。同様に、私達が拠点に戻って、統一された風景を描く灯台を構築する前に、私達はいろいろ知られたコホモロジー理論(その多くを彼自身が考案した)を見ている。いくつかの意味で、その科学的戦略はスキームの世界で使用されたものとは反対である。
この話題についてグロタンディークは何も発表しなかった。彼は少しの注意をしたのみだった。ウラジミール・ヴォエヴォドスキーがモチーフと呼ばれるオブジェクトのカテゴリを構築することによって、この分野に最も野心的な貢献をした。だが、そんなカテゴリにおいて、さまよう遺伝子のようにオブジェクトは移動できる。遺伝のイメージは私にとって極めて妥当だと思われる。これは、ヴェイユ予想の証明の中で中心である、重さというドリーニュの定義の使用によって可能となった。
ヴォエヴォドスキーによって作られたツールはグロタンディークの期待に一致していたかも知れないが、使用するのは困難だった。正しいツールは使用が簡単であるべきだ。従って、何の進歩がなされて来たかは、混合ホッジ構造または混合テイトモチーフのようなオブジェクトに私達の野望を制限することによって達成されて来ているのみだ。グロタンディーク-タイヒミュラー群のように、これらは対称の基本群の表現である。この小さな分野の中でさえ、貴重な宝を発見するためにはなされるべき大量の研究が既にある。これすべてを余りにも経済的、余りにも手頃過ぎるとグロタンディークは不平を言った。彼の洞察力の深さから彼は商売人達に多くの叱責をした。グロタンディークまたはロバート・ラングランズのような数学的先見の明がある人の面前で、正しい科学的戦略は、厳密であって私達が十分に進歩させることの出来るような範囲だけれども面白い結果も持つくらいには十分大きい断片を分離することにある。
著者の分析: 宗教的回帰
最初、グロタンディークについて思いつくことは苦難という表現だ。研究は未完成で放棄され、協力者達と弟子達に裏切られた感覚という苦難。平静時に、"私は閃きのささやきを持っている唯一の人だったし、私が周辺に伝えたことは閃きでなく仕事だ。私の周辺に職人がいたが、彼等の誰も本当に閃きを持っていなかった!"のようなことを彼は言った。そのコメントは深くて妥当であるが、ささやきが発したことを彼が故意に口を閉ざした理由を説明していない。私達が現在彼の人生について知っていることから、彼は周期的な鬱の危機に従属している。科学的創造のための彼のキャパシティーが鬱に対する薬であったし、活発な科学的環境(ブルバキ集団とIHÉS)への没頭が彼の独創性に好ましかったと私には思われる。
だが、私はここで彼の人生の宗教面に言及したい。彼の要求することは深くて不変だ。視覚と聴覚の幻覚を持っていると彼は言う。Récoltes et Semaillesの中で、彼は自身と神の2つの声で同時に福音書を歌うと書きながら、これらの神のような幽霊を描いている。それは、彼が奇妙に返答の無い公的終末論メッセージを送った幻覚または幽霊の連続を追っていた。最も不安なのは悪魔への彼の執着だ。彼はレポートを草案している。
結末に代えて
数学者達は彼等自身を最も客観的な科学者だと見なす。歪み無く伝わるならば、数学は数学者から分離されるはずである。数学者が礼儀正しく消えることを許されるはずだ。実際には、この消失はかなり効果的だ。
グロタンディークは特殊なケースを象徴する。劇画化された上の空の教授よりも遥かに世界から離れて彼は生活した。彼の数学的環境の中でさえ、彼は全く家族の一員でなかった。彼は一種の独白、もっと正確に言えば、数学と神(彼にとっては一つであり、同じだった)との対話を追求した。彼の研究は彼の夢と拘りを消さなかったが、むしろ、それらの同伴の中に生き、それらを育成したということでユニークである。彼は私達に純粋に数学的研究の本体を与え、同時に彼が意義があると考えたことを提供した。
彼の人生は魂の炎によって燃焼し、彼は国と名前を探し求め続けた。私はその国がガリツィア[訳注: ポーランドのクラクフにあるガリツィア ユダヤ博物館]だったと信じるし、そして名前は彼の父親の名前だった。
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