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アンリ・カルタンへのインタビュー

私の書棚の硝子戸越しに薄黄色い表紙のHenri Cartan Oeuvres[アンリ・カルタン全集](全3巻)が見えます。この本はReinhold Remmert博士とジャン=ピエール・セール博士の編纂によるものです。論文数が多いですから拾い読み程度でしか読んでいません。ぱらぱらとめくって目に留まった個所を流し読みする感じでしょうか。ですから全然精読していず、どちらかと言えば美しい仏文に魅入られて、「ああ、これはこういう表現を使うんだな」とか仏作文の参考にしていると言った方がいいかも知れません。ですからカルタン博士のかの有名な"定理A"と"定理B"の証明も原論文では読んでいません(グラウエルト博士の著書とGunning-Rossi本で読みました)。いつかは腰を据えて精読するつもりですが、正直言ってカルタン博士の著作(本として刊行されたものは全集には入っていません)で通読したものを挙げればThéorie Élémentaire des Fonctions Analytiques d'une ou Plusieurs Variables Complexes[一変数または多変数解析函数の初等理論]とHomological Algebra[ホモロジー代数](Samuel Eilenberg博士との共著)の2冊だけです。なお函数論の初学者のために付け加えておくならば、前者はとてもいい本なんですが、この英訳本はいただけません。と言うのは、アマゾンのレヴュでも書きましたが、仏語原書には私が知る限り殆ど無かったマイナーエラーやミスプリントが英訳本には多少混入されています。理由があって(これも話が長くなるので端折ります)英語版を取り寄せたのですが、誰が翻訳したのか分かりませんけれどもフランス人が英訳したのか、英語も不自然(やたらと形容詞句が長くなるのが非英語圏のヨーロッパ人の特徴)で仏名文が台無しです。もし読むのであれば(トポロジーの知識を前提として)、是非とも仏語原書をお勧めします。
カルタン博士には若死にされた2人の弟さんがいました。一人は作曲家でしたが、肺結核により25歳で亡くなられました。その次の弟さんが理論物理学者でしたが、ナチス・ドイツに捕らわれ終戦前に絞首刑にされました。まだ御存命であった父君のエリ・カルタン博士の心痛を思うと絶句の他にありません。捕らわれた時点で、アンリ・カルタン博士と親交のあったMünster大のベンケ博士らもドイツ国内を捜索したのですが、阿呆と馬鹿が政権を取っている政治(日本でもそうでした。いや、日本は有史上ずっとそうなのかも)には敵うわけがなく最悪の事態となりました。アンリ・カルタン博士が偉いのは、戦争を憎んで個人を憎まずということで、終戦後の1946年にドイツは厳冬のオーバーヴォルファッハを訪れました。ベンケ博士らの案内により、ある館のピアノで(カルタン博士はピアノを得意にしていました)ハイドン、バッハ、ベートベン等を演奏し弟君の鎮魂をしたそうです。そして戦後のドイツ数学への支援を惜しみませんでした。私はこの逸話を聞くと涙が出て来ます。
そういうカルタン、ベンケ博士らの心優しさが戦前、戦中、終戦直後の日本数学界で相手にされていなかった故岡潔博士を国境を越えて遠方から励ましの手紙やら終戦後の動乱の中で論文発表の便宜を図ったのでしょう。
私が多複素変数に興味を持ったのは一変数複素解析を勉強した後に、では多変数の場合正則性とは何か、例えばコーシー-リーマンの方程式やコーシーの積分表示は一体どうなるのかという素朴な疑問からでした。そしてパイオニア達の辛苦、例えばハルトークスやレヴィの戦争による痛ましい犠牲を知り、凡才の私でも少しは勉強してみようと思ったことも一つの動機でした。この分野に限らないと思いますが、何故か多複素変数の場合には戦争の暗い影が差していると思うのは私の考え過ぎでしょうか。
上述のカルタン博士のエピソードはAMS Noticesによるインタビュー記事"Interview with Henri Cartan"(PDF)でも簡単に触れられておりますので、この私訳を以下に載せておきます。数学者である前に人間アンリ・カルタンを彷彿させるいい記事だと私は思いました。
最後になりましたが、この世から戦争と言う愚挙が無くなることを切実に祈願します。

[追記: 2019年03月20日]
このペィジは2012年10月20日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年06月03日]
アンリ・カルタン博士については"アンリ・カルタン教授の思い出"もあります。

アンリ・カルタンへのインタビュー
1999年7月
以下のインタビューはパリで1999年3月19日から20日にかけて、シニアライター及び編集長代理のAllyn Jacksonにより行われた。

簡単な経歴
アンリ・カルタンは20世紀の一流数学者である。研究、教育、彼の学生、そして有名なカルタンセミナーを通して長く続くインパクトを与え続けて来た。その研究は多岐に渡る。彼はブルバキの創始者メンバーの一人だ。Samuel Eilenbergとの共著Homological Algebraは1956年に刊行されてなおも増刷されており、標準的な文献として残っている。
現代微分幾何学の父と考えられるエリ・カルタンの息子、アンリ・カルタンは1904年7月8日フランスのナンシーに生まれた。エコールノルマルシュペリウールに通い、1928年に数理科学で博士号を受けた。リールとストラスブールでの地位を得た後、パリに戻りエコールノルマルで1940年から1965年まで教えた。後にオルセーにあるパリシュッド大学に移り1975年に定年退職した。カルタンはパリの科学アカデミー会員、他のヨーロッパ、米国、日本の12のアカデミー会員の一人である。多くの大学から名誉学位を授与され、そして1980年に数学部門でウルフ賞を受けた。

初期時代
Notices: 貴方の人生の初期から始めましょう。数学的関心の最も早期の記憶は何ですか?

カルタン: 私は数学にいつも関心を持っていた。だが、それは父が数学者だったからではないと思う。数学者になるだろうことに疑念を持たなかった。私は、良い、もしくはあまり良くないを問わず、多くの先生を持った。特別な先生のためではないと思う。勿論、父と会話をした。父がユークリッドの公準は必要ないと語った時、私は非常に驚いた。

Notices: 父君がそれを話したのは貴方が何歳の時ですか?

カルタン: よく分からないが、14歳だったと思う。

Notices: 他に父君との数学的議論の思い出がありますか?

カルタン: 御存知の通り、父は控えめな人だった。私に決して影響を与えなかった。すなわち、いつでも父に質問出来たが、どの質問か分からない。ずっと後に私達はいくつかの問題について一緒に研究した。例えば、父は私よりリー群を良く知っていたので、推移群を持つ有界円領域のすべての決定に対して、この知識を使う必要があった。だから私達はその問題について一緒に論文を書いた["Les transformations des domaines cerclés bornés"(訳注: 有界円領域の変換)C. R. Acad. Sci. Paris 192 (1931), 709–712]。しかし、一般的には父は彼の立場で、私は自分の立場で研究した。

Notices: 貴方は音楽に興味がありました。

カルタン: そうだった。私には2歳若い弟がいたが、彼は作曲家になった。しかし、肺結核のため25歳で亡くなった。それは大きな損失だった。勿論私はもっと音楽を演奏したが、今は目が見えないので出来ない。

Notices: 他の兄弟についてどうですか? 他に兄弟がいましたね?

カルタン: そう、物理学者になった弟がいた。彼はレジタンスにいたから戦争中にドイツによって殺された。1943年2月にドイツへ国外追放され、8月に死刑の判決が下り、同年の12月に打ち首となった。1943年2月から正味1945年の5月の終わりまで彼の消息を聞かなかった。その状況下で、いい知らせがあるとは思えなかった。何人かのドイツ人仲間が彼を探そうと親切にもしてくれたが、成功しなかった。

Notices: そのドイツ人仲間は誰だったのですか?

カルタン: 彼らの一人はハインリッヒ・ベンケだった。少し年長者だったけれども、ベンケは私の友人の一人だった。私の最初のドイツへの招待は1931年5月だった。ベンケはヴェストファーレン州のMünsterで教えていて、約40人の学生を持っていた。私がComptes Rendus de l'Académie des Sciencesに円領域について["Les transformations analytiques des domaines cerclés les uns dans les autres"(訳注: 円領域の相互変換), C.R. Acad. Sci. Paris 190 (1930), 718–720]ノートを発表したから招待された。そのノートで、ベンケによって早期に証明されていた定理を私は全く簡単に証明(しかし、特別な場合におけるある条件の元で)した。私はいろいろなスピーチをMünsterでした。それが1931年で、ベンケは再び1937年に私を招待した。それはヒトラーの時代だった。
戦争前、1931年12月から私はストラスブール大学で教えていた。しかし、1939年9月にストラスブール住民は退去させられた。大学はクレルモンフェランに移り、1940年11月にパリのソルボンヌでの教授(実際には、エコールノルマルで数学学生の担当だった)を任命される前の一年間をそこで教えた。
戦争中私はストラスブールのアパートに行くことを許されなかった。或る日、ベンケが私のアパートに残した数学草稿を探してみようと申し出た。彼は実際にストラスブールへ行ったが、うまくいかなかった。彼は再度挑戦し、成功した。彼はやっとのことでいくつかのドキュメントを持って、フライブルク大学の図書館に保管した。1945年にドイツでフランス将校達ががそこでそれらのドキュメントをたまたま見つけ、私の所へ戻った。それらの草稿の中に後にブルバキグループとなった人達の最初の会合の議事録があった。それはブルバキの仕事のもっとも初期だった。これらの議事録のもう一つ別の写しは無かったと思う。
私は戦後1945年の終わりにストラスブールへ戻り2年間いた。1946年の11月にオーバーヴォルファッハの研究所に行った。非常に寒く、雪と氷があった。私はSüss(オーバーヴォルファッハ数学研究所の創始者)、Süss夫人、そしてハインリッヒ・ベンケに会った。彼らが私にピアノを弾いてはどうかと勧めたことを憶えている。そこに2つと無いという素晴らしいピアノだった。そのオーバーヴォルファッハの館はもう存在しない。その後オーバーヴォルファッハを何回も訪問した。ドイツ人仲間が戦時中にしてくれたことを私は感謝した。

Notices: 貴方のドイツ人仲間との関係は戦争中悪くならなかったのですか?

カルタン: そう、ドイツ人仲間とね、すべての人とではない。

Notices: 貴方が最初にベンケを訪問した時、フランスとドイツで数学的風潮に違いがあったのですか?

カルタン: 条件に依るから、その質問は難しい。勿論、多複素変数函数に興味を持っている数学者はフランスでは多くはなかった。

Notices: しかし、一変数の函数論についてフランスは偉大なる伝統がありました。

カルタン: そうだね。一変数はたぶんフランスの殆どの数学者が研究した。私の父が例外だった。

Notices: だが、貴方はフランスで多変数の研究を始めた人だった。

カルタン: 多変数が面白いだろうことを示唆したのはアンドレ・ヴェイユだったと私は信じている。彼は私にCarathéodoryの円領域に関する研究を語った。それが私の関心の始まりだった。
1931年にベンケの助手、すなわちペーター・トゥルレンが私のベストフレンドの一人となった。私達は協同研究をし、Mathematische Annalenへの論文を書いた["Zur Theorie der Singularitaten der Funktionen mehrerer Komplexen Veränderlichen"(訳注: 多複素変数函数の特異点理論について), Math. Ann. 106 (1932), 617-647]。私はいつもトゥルレンといい関係だった。1933年か1934年の初めに彼はドイツを去った。彼はユダヤ人でなかったが、非常に信仰深いカトリック教徒だった。クーラントのおかげで、彼はエクアドルで職を得た。トゥルレンはエクアドルに、後にはコロンビアに社会保障システムを設立した。1951年だと思うが、彼はヨーロッパに戻った。私は彼のしたことを嬉しく思った。彼は国際労働事務所(ここで彼はラテンアメリカの社会保障システムの担当だった)で働くためジュネーブに行った。その職を退いた時、ファン・デル・ヴェルデンのおかげでチューリッヒの大学に指名され、後にスイスのフリブール大の数学教授となった。私は彼の長男と仲良しだが、彼はジュネーブの国連で働いていて今は退いている。彼は毎年私達を訪れてくれる。

Notices: 貴方が最初に米国に行ったのはいつでしたか?

カルタン: 1948年に初めて米国に行った。いや実は1942年だったと思うが、戦時中に米国はドイツ侵攻からフランス人を守りたかったために、私は米国に招待された。だが、私の家族のためと父が年老いていたため、それは不可能だった。1948年の2月始めから3月いっぱいまでハーバード大学から招待された。しかし、それに先立ってアンドレ・ヴェイユによってシカゴへ招待された。だから出発の前に、英語で講義出来るために(ある言葉を知ることは私にとって必須だった!)英語を学ばなければならなかった。最初の講義は前以って英語で書下ろしせざるを得なかった。後に私は要約だけを書いた。1947年ニューヨークの空港に到着した時、Samuel Eilenbergと会った。それはSammyとの最初の出会いだった。滞米は私にとって大変重要だった。多くのことを学んだ。

ブルバキの始まり
Notices: パリのエコールノルマルで共に学生だった時に、貴方はアンドレ・ヴェイユに会いました。

カルタン: そう。私達はエコールノルマルで一緒だったが、彼は16歳以前で認可されていた。

Notices: 貴方とヴェイユは、Jean Dieudonné、Claude Chevalley、Jean Delsarte、Jean Leray …のような人とエコールノルマルで一緒だった。

カルタン: Dieudonnéは勿論私の後から来た。Lerayが入学した時、私はもうエコールノルマルにいなかった。彼はChevalleyと同じ年に入った。

Notices: これらの何人かは次にブルバキを形成しました。エコールノルマルで、または貴方方共通のバックグランドに後でブルバキを形成させる何かがあったのですか?

カルタン: 御存知の通り、第一次世界大戦後、フランスに科学者(私は優秀な科学者を意味している)は大部分が殺されたので多くはなかった。私達は戦後の第一次世代だった。私達の前には真空があり、それは新しいことすべてを作るためには必要だった。私の友人の何人かは外国、特にドイツへ行き、そこで何が行われているか観察した。これが数学的リニューアルの始まりだった。それはヴェイユ、Chevalley、de Possel …のような人に起因した。同様な人々は、アンドレ・ヴェイユの提唱に答えてブルバキグループを形成するために共にやって来た。ブルバキで私は非常に学んだ。数学で私の知っていることの殆どすべてがブルバキグループから、かつ一緒に学んだ。

Notices: Lerayはブルバキにはいなかった。

カルタン: 完全にいなかったのではない。もっと言えば、始めにLerayは第一次グループ(1935年1月から6月まで会合した)にいた。その時は解析学草稿を書くことを考えていた。だが、グループから2人が夏までに去ったが、彼らは続けたいとは思わなかった。Lerayは彼らのうちの一人だった。最終グループは1935年7月に、いわゆるBesse-en-Chandesse会議で固まった。このグループは何をやろうとするか決定した。

Notices: 1935年上半期のこれらの会合の議事録がストラスブールの貴方のアパートに残したものだったのですか?

カルタン: そうだよ。

Notices: その議事録は誰が書いたのですか?

カルタン: それらはいつもDelsarteによって書かれた。彼はナンシーの大学に職を持っていたため、秘書にそれらをタイプさせることが出来た。タイピングは今ほどやさしくはなかった。

Notices: それらの初期会合でグループ内で絶対的な人がいたのですか?

カルタン: 私の答えは"アンドレ・ヴェイユ"だが、御存知の通りブルバキでは殆どのメンバーが強烈な個性を持っていた。よく反対し、よく大議論になったが、私達は良い友達であり続けた。個々の分科では"エディタ"が指名された。後にエディタの草稿は大きな声で音読され、徹底的に検証された。次の"エディタ"は適当な指図が与えられて、これが続く。各章に対して9つの草稿がありえた。しかし結局、皆が疲れた。そして、Dieudonnéが"今が終わりだよ。僕が最終稿を書こう"と言うのが常だった。それを彼はやった。結局、満場一致は不可能だと思われたけれども一致があった。しかし、時間がかかった。チームワークとしてはたぶんベストな方法ではないのだろうが、それが私達の取った方法だった。

Notices: 今フランスではブルバキスタイルが支配的であると考えますか?

カルタン: そうは思わない。御存知の通り、数学的理論を記述する一つの方法であるが、数学をやる唯一の方法だと主張しない。ブルバキの各メンバーは実際各々で数学を各々自身の方法でやった。私が論文を書いた時、ブルバキのための草稿を作らなかった。

Notices: だが、ブルバキはフランスの数学に様々な影響を持った。

カルタン: いや、フランス国内のみではない。国外においても、一定の偉大な数学者達は影響を受けた。たとえば、マイケル・アティヤ卿は非常に美しい数学をやったが、ブルバキ流の考えに馴染んでいることが確実に彼を助けた。現在、物事は完全に違っている。ブルバキは現在の数学者達に大きな影響を持っていないと思う。だが、ブルバキは数十年以上数学の発展に絶対重要だった。

Notices: すると、今貴方は現在ブルバキの影響はかってほど強くないと言っている。

カルタン: ブルバキがしなければならなかった事は今もなされている。ブルバキは永久不変ではない。だが、ブルバキセミナーがまだあり、現在のブルバキのメンバーで構成されている。私は現在の数学をよく見られないから、ブルバキの影響を審判するのは難しい。

Notices: 貴方の研究は数学の多くの部分に広がっている。最近の人はずっと専門特殊化されているので、貴方の研究は全く尋常ではない。貴方は純粋数学の殆どをカバーして来たか、または分野すべてにタッチして来たようです。

カルタン: この言明には賛同出来ない。私はいろいろな分野に興味を持った。例えば、Eilenbergのおかげでホモロジー代数。私達はこの概念の一般性を共に発見した。もっと言えば、私達の本のタイトルを見つけなければならず、そこで私達は言った。"代数だが、ホモロジー的な代数だ。だから本をホモロジー代数と呼ぼう"。驚くことは、この本が今日まだ印刷され売られていることだ。この本が最初に出版されてから現在43年だから、非常に瞠目すべきことだと思う。本のすべてがSammy(すべての人が彼を"Sammy"と呼んだから、私はそう言っている)によって書かれた。Sammyがすべてを書いた。私は何も書かなかった。勿論私達は議論したが、その後でSammyが書いた。そして私はスペルの間違いを正すことを担当した。英語だよ! 私はそれほど英語を知っているのではないが、スペルは出来る。Sammyと共に研究し議論することは非常に安らかで楽しかった。

エコールノルマルで教えること、エコールノルマルやその他で学ぶこと
Notices: 貴方は研究すべき問題をどうやって選んだのですか?

カルタン: 問題がただ単にやって来た。幾人かが私に問題について興味を持たせた。例えば、Marcel Brelot。彼はポテンシャル論の大家だ。彼は質問と問題を私に提出し、私は問題を解けた。それは戦時中だった。
戦後、エコールノルマルでセミナーを始めた時、ジャン=ピエール・セールが非常に多くの質問をした。彼は質問によって私に多くのことを発見させるのに役立った。セールを知り、彼の質問を聞くことは私にとって非常に重要だった。彼が学位論文を用意した時、私に質問し続け、私はそれらを考えざるを得なかった。私は多くのことをエコールノルマルで私の学生から学んだ。彼らの多くが私の指導(人は通常"指導"と言うが、私の"指導"は学生が心中何を考えているかを理解することから成っていた)下で学位論文を用意した。だから私は非常に学んだ。例えばGodementと提携出来たが、彼はエコールノルマルで私の学生の一人だった。彼は1940年に入学したが、私がエコールノルマルで教え始めた時だった。その奨励会にGodementがおり、Koszul(後に"私の指導下で"学位論文を準備したが、彼は自分が何をしたいのか知っていた)がいた。学生は勿論手助けを受けなければならないが、彼等は彼等自身のアイデアを持っていた。各自が自身の個性を持っており、この個性を尊重しなければならない。個性を見出すように手助けしなければならない。絶対に他の誰かのアイデアを強制してはならぬ。
私が第1学年学生を教えた時、学生は宿題の問題を解答しなければならず、私は彼等の間違いを正した。だが、彼等は黒板に来て、私が彼らにいろいろな数学理論を発見させる手伝いをするのが常だった。

Notices: つまり、これは非常に個人的授業だった。すなわち、貴方は学生をマンツーマンにした。

カルタン: そう、学生が理解出来ることを見るのは可能だった。第2学年に対して私は毎年変わる科目について通常コースを与えた。第3学年に対して集団教育があった。学生は講義をし、他の学生から、そして勿論私から批判を受けなければならなかった。第4学年学生は研究分野を選ばなければならなかった。彼等の各々と私は議論をした。第1学年で約20人の学生がいた。だが、第2学年ではある者は数学を選び、他者は物理を選んだので、そんなに多くなく、10乃至12人の学生がおり、第3学年も同数だった。

Notices: 貴方がエコールノルマルの学生だった時に教えられた方法と、貴方が教授で教えた方法とでは違いがあったのですか?

カルタン: 勿論そうだ。教授方法を変えることは必要だった。私がそれを変えた。

Notices: 貴方の教授達のうちで賛同出来るスタイルの人はいましたか?

カルタン: 私は何人かの教授が好きだったから、勿論答えはイエスだ。ガストン・ジュリアまたは私の父(エコールノルマルでいくつかのレッスンをしたから私は彼の学生だった。エコールノルマルの学生もソルボンヌで一般コースを取らなければならなかった)。

Notices: 貴方のセミナーについてはどうですか? 貴方の教育方法にどのように関係しましたか?

カルタン: 私の4学年学生の多くにある分野、特にトポロジーに興味を持たせたかった。すぐにジャン=ピエール・セールが"だが、貴方が解説を書き下ろさなければならない"と言った。それで、私が解説を書き下ろすか、または時々他の人に書き下ろすように頼んだ。最初私は詳細な長期計画を持たなかったが、どういうわけかこれが退行不能のプロセスとなり、かのセミナーとなった。毎年ますます人が(学生のみならずフランスと外国の数学者も)絶え間なく来た。勿論、当時他のセミナーがなかった。私は自分で解説をタイプしたが、後にアンリ・ポアンカレ研究所の秘書の仕事になった。そして、その後自然な勢いで、いくつかのセミナーにおいて私は何もしなかった。例えば、グロタンディークが彼のアイデアと展開に半年間説明した。

Notices: 貴方のグロタンディークの思い出は何ですか?

カルタン: 勿論、彼は非凡な人だ。彼は数学のある部分、特に代数幾何学に決定的な影響を持った。彼のアプローチは新しいものだった(例えば、最初は彼自身がセールに影響されたのだから完全には新しくはなかったけれども)。グロタンディークは特殊な人だ。彼がどこにいるか、または何をしているのか誰も知らない。

Notices: 貴方が最も感嘆する数学者は誰ですか?

カルタン: 私が数学をし、理解出来た時はかなり多くの数学者に感嘆した。現在は…!

Notices: 貴方が数学を出来た時、最も感嘆した数学者は誰でしたか?

カルタン: いや、その質問に答えたくない。私は多くの数学者に感嘆したが、裁定を下したくない。

Notices: 数学で貴方の最も重要な業績は何だと考えますか?

カルタン: 他人がそれを言うべきことだ。

Notices: しかし、貴方が特別好きな、または満足したものがあるかも知れない。

カルタン: 代数トポロジーと解析函数の関係だね。私は大きな役割をする一般的な定理を発見した。だが、この中で私はセールに手伝ってもらった。ところで、私が完全に感嘆する数学者の一例がセールだ。

Notices: 貴方は多くの分野で研究して来ました。解析学、代数学、幾何学…に同等な気安さを感じますか?

カルタン: 幾何学は正確には幾何学でない。トポロジーだと私は言いたい。だが、私もそれらの関係が理解出来た。或る日、位相的概念、特に層の理論が多変数解析函数に応用出来るだろうことを私は発見した。これは非常に重要だった。解析函数の重要な結果を得るためにトポロジーからの結果を使用出来る。私はそれが面白いと思う。

Notices: 貴方はいつも純粋数学で研究して来ました。今日、応用数学が非常に重要です。これをどう思いますか?

カルタン: 御存知の通り、数学の一部は応用可能(応用ではなく応用可能)だ。それを前以って語るのは非常に難しい。私が1931年に始めてMünsterに招待された時、私の滞在の終わりに彼等は盛大な夕べの宴を催し、大きな議論があった。数学のどの部分が応用出来るのかについて語る哲学者がいた。"ともかくも、多複素変数解析函数はない! 応用出来ない"と誰かが言った。しかし、後で実際に応用された。だから、前以って語るのは難しい。何故数学が他のこと、物理学に応用出来るのか、それは不可思議だ。

政治と人類
Notices: 貴方は政治活動をして来ています。それについて何か言えますか?

カルタン: これは数学ではない!

Notices: 数学と関係がない?

カルタン: おそらく…。御存知の通り、数学者は"この問題は何か? 正確に何が起こるのか? 何故そうで、何故そうでないのか? 理由は何なのか? これのすべての論理的結果は何なのか?"と考える。私はこれを政治に応用している。状況を分析し、論理的帰結を描こうと努めて来た。これは、他に道は無いと分かったから私が欧州連邦主義者となった方法だった。私にとって今現在進行していることが連邦主義の必要性を証明している(連邦主義という言葉が正しく理解されるなら、まさにそうあるべきだ)。フランスでは、すべてがトップで決定される。誰も(政府を除いて)責任がない。今日コソボで起きていることを見たまえ。人々が"おお、ヨーロッパは共通の外交政策を持たなければならぬ"と言うのを聞く。それは空疎な言葉だ。決定出来、実現し、民主的管理下に治められる権力を持たずにどうやって達成出来るのか? ヨーロッパ憲章が連邦政府を作り、共通利益の限定された範囲で責任を持たせなければ、何も達成出来ない。勿論、この連邦政府は州、地域、町村のどれかの責任圏を決して侵さない。

Notices: 貴方が戦争中ストラスブールで住み、立ち去った経験がこれらの見解に影響を与えたという見方に賛成しますか?

カルタン: そう。しかし、第2次世界大戦終了時に私は連邦主義者ではなかった。数年後に連邦主義者となった。
ヨーロッパ総選挙について語れば、最初が1979年だった。当選することは非常に難しかった。ヨーロッパ議会はそれほど力が無かった。それらの選挙の後、私はヨーロッパ議会開催の間にストラスブールへ行った。5年後1984年の第2回総選挙については、私が候補者(勿論、フランスで)だった。もっと言えば、私が名簿のトップだった。私達は政党を持たなかった。私達の名簿は"ヨーロッパ連合のために"と呼ばれた。不幸にも、ヨーロッパ総選挙の投票システムを選ぶ段階に来た時、フランス議会は国家名簿からメンバーを偏向的に選び、ヨーロッパ議会のフランスメンバーは草の根有権者の代わりに政党から選ばれた。他にも、そのようなキャンペーンは恐ろしいほどの費用がかかり、組織化された党派(公式的には州が補助金を出している)だけが賄えることを見過ごすべきでない。

Notices: 貴方はニューヨーク科学アカデミーからPagels賞を授与されました。何に対しての賞だったのですか?

カルタン: これは反体制者への支援に対するものだった。私はソ連や他の国々の反体制者、特に数学者の保護に参加した。いわゆる数学委員会は反体制者を保護するために設立された。私はこの保護プロセスに熱心だった。当時の最も有名な反体制数学者はLeonid Plyushchだった。大騒動だった! Plyushchは"特殊"精神病院にいた。これは1973年に遡るが、彼の場合に私達の注意を引いたのはAndrei Sakharovによってだった。私達はパリのソ連大使館に質問し始めた。当時は可能だったが、すぐに不可能となった。1974年に国際数学者会議がバンクーバーで開催された時、Plyushchの場合について私達は出席者に奮起させようと努めた。アピールに署名を頼み、彼の釈放を訴える署名100人が集まった。私はソビエト当局に電信を打つのかと聞かれた。結果として、パリへ戻った時、この数学委員会を設立し、パリの人権連盟の席で多くの会合を持った。Salle de Mutualitéで数百人の人達と共に大きな会合を開いた。結果的にソビエト当局は1976年1月にPlyushchの釈放を決定した。大きな成功だった。
後には私達は他の人のためにも働いた。ウルグアイ人数学者José Luís Massera(彼は共産主義者だった)は軍部独裁国家の犠牲者だった。数学委員会(ローラン・シュワルツのような人と共に)は彼の場合について働いた。現在、私達はフランス科学アカデミーの中で活動的な科学人保護委員会を持っている。その総裁はノーベル医学賞のFrançois Jacobだ。フランス、スェーデン、英国、イタリア、そして米国の同様な委員会は共に関係し、同様な目的のために手を結んでいる。

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数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ