数学に少しでも関心のある人なら、8月末にカリフォルニア大学バークレー校名誉教授小林昭七博士がお亡くなりになったことをご存知でしょう。遅くなりましたが、心よりご冥福をお祈りいたします。
小林博士の業績については今さら申し上げる必要も無いでしょう。知っている人は知っているし、知らない人は何を聞いても知らないもので、ただそれだけのことです。
私が数学の勉強を始めた頃は完全に小林博士は多複素変数(私はこの名称が嫌いで、旧の多変数解析函数論という名称を使用したいのですが、博士の場合は旧名称が似つかわしくなく、まさしく複素解析幾何もしくは複素幾何の方がぴったりなんです。私はこの名称も嫌いなので、折衷案としていやいやながら多複素変数を使っています)の人でした。ですから、後に微分幾何学の決定的著書"Foundations of Differential Geometry"(故野水克己博士との共著)の存在を知って驚き、微分幾何学の分野も専攻されていたことを知って、論文の随所に駆使される微分幾何学的手法も納得しました。
小林博士は数学以外に殆ど御自分のことを語らないようで、私が知っている限りでも"Cartan and Complex Analytic Geometry"(PDF)に寄稿されたエッセイ"My Memory of Professor Henri Cartan"の中で若かりし頃に触れているだけです(但し、日本語で発表されたもので回想録があるのかどうか私は知りません)。これは貴重な文章だと思いますし、非常に短いですが紹介する価値があると思いましたので以下に私訳を載せておきます。正直言って、私はこの記事が発表された当時に読んだ時、最後の文節が今ほど痛切には感じていませんでした。今は何と言えばいいのか、寂しい思いでいっぱいです。
[追記: 2019年03月20日]
このペィジは2012年10月16日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
[追記: 2019年06月03日]
アンリ・カルタン博士については"アンリ・カルタンへのインタビュー"もあります。
アンリ・カルタン教授の思い出
2010年8月 小林 昭七
1953年に私は東京大学を卒業し、フランス政府の給費生として一年をフランスで過ごす幸運を得た。観測上最も暑い8月のある日、私は横浜からMessageries海運会社の"ベトナム"に乗船し4週間かけてマルセイユへと旅立った。私は21歳で自信が無かった。微分幾何と多複素変数に興味を持っていた。矢野教授のセミナーのメンバーだった最終学年の間に、調和積分の話をした。同時に私は多複素変数に関するカルタンセミナーのノート1951/1952に魅了された。
禰永教授が私のことをカルタン教授に手紙で書いたので、私はパリに到着の際にカルタン教授を表敬訪問する予定だった。残念ながら国際大学都市の日本館に居を定めるやいなや、私は腸チフス(予防接種したのにもかかわらずパリへの道中で拾ってしまった)を患った。都市病院での5週間の後、日本館へ戻りカルタン教授に会いに行った。彼は同じ病気を何年か前に患い、経験によれば病気を患う前よりもずっと健康になるだろうと励ましの言葉を述べた。
1953/1954のカルタンセミナーは幸いにも再び多複素変数についてだった。私はその講義のいくつかに、例えば保型函数の講義にはついて行けなかったが、真面目にセミナーに出席した。これは、一週間以内に話が完全な形に書き上げられ、次回のセミナーの時に配布されたことも部分的な理由だった。パリ滞在中、私は名前だけを知っていたKarl Steinの話を聞く機会があった。3月の彼の2つの講義は私が出席した最後のセミナーだった。
その一方で、私はコレージュ·ド·フランスでのLichnerowiczの連続講義にも出席し、プライベートな幾何学セミナーをMarcel Berger(学位論文を終える予定)、Paulette Libermann(既に学位取得済み)、Warren Ambrose(MITから長期有給休暇を取って)、野水克己(フランス国立科学研究センター)達と行った。
Steinの講義の後、私はパリを去り、残り4ヶ月の特別奨学金をEhresmannの元で使うためストラスブールへ向かった。そして、私は10年以上カルタン教授と会わなかった。
Foundations of Differential Geometryを野水と出した時、一冊を私の感謝の印としてカルタン教授に送った。1969年に第2巻目が出た時、彼は手紙で、約束された2巻目が出たためしがないから実際に2巻目が出現したのを見てうれしいという趣旨のことを書いて来た。私はずっと後に彼がその本を参考にしていることを知った。
1967年頃、私は微分幾何学から焦点を多複素変数に移した。1960年代終わりにバークレーで(私の記憶が正しければ)カルタン教授に会った時、当時新しく発見された不変擬距離を彼に話した。彼はすぐさま新しい距離で定義された位相は多様体に位相を与えるのかと聞き、それは当然の質問だと私は認識した(この事実は後にT. Barthによって証明された)。彼のCarathéodory距離(これを彼は有界領域の変換に関する研究で使用した。標準位相がCarathéodory距離で与えられない有界領域をViguéが構築したのが1984年のように最近である)での経験からこの質問を出したのに違いないと私は思う。
1960年代の終わりに私は高次元でのピカールの定理、従って双曲型性において超平面の補完に対する問題に興味を持った。これは私をEmile BorelとAndré Blochの古い論文、そしてカルタンの学位論文へと導いた。1953年私がパリへ行った時、1928年のカルタン学位論文を読む日を夢想だにしなかった。1973年、私の元学生の一人Peter Kiernanと私はカルタンの主要結果を不変擬距離の言葉で再解釈する論文を書いた。カルタン全集の中で、彼は自身の学位論文の簡単な分析と親切にも私達の論文に言及した。私達は非常に光栄だった。
私にとって1950年代は昨日のことのように思える。しかし、ここで私が言及した人々の大半、Ambrose、禰永、Libermann、Lichnerowicz、野水、矢野が逝き、そして今カルタン教授である。パリでの私の日々は実際に遠くなったと認めなければならない。
小林博士の業績については今さら申し上げる必要も無いでしょう。知っている人は知っているし、知らない人は何を聞いても知らないもので、ただそれだけのことです。
私が数学の勉強を始めた頃は完全に小林博士は多複素変数(私はこの名称が嫌いで、旧の多変数解析函数論という名称を使用したいのですが、博士の場合は旧名称が似つかわしくなく、まさしく複素解析幾何もしくは複素幾何の方がぴったりなんです。私はこの名称も嫌いなので、折衷案としていやいやながら多複素変数を使っています)の人でした。ですから、後に微分幾何学の決定的著書"Foundations of Differential Geometry"(故野水克己博士との共著)の存在を知って驚き、微分幾何学の分野も専攻されていたことを知って、論文の随所に駆使される微分幾何学的手法も納得しました。
小林博士は数学以外に殆ど御自分のことを語らないようで、私が知っている限りでも"Cartan and Complex Analytic Geometry"(PDF)に寄稿されたエッセイ"My Memory of Professor Henri Cartan"の中で若かりし頃に触れているだけです(但し、日本語で発表されたもので回想録があるのかどうか私は知りません)。これは貴重な文章だと思いますし、非常に短いですが紹介する価値があると思いましたので以下に私訳を載せておきます。正直言って、私はこの記事が発表された当時に読んだ時、最後の文節が今ほど痛切には感じていませんでした。今は何と言えばいいのか、寂しい思いでいっぱいです。
[追記: 2019年03月20日]
このペィジは2012年10月16日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
[追記: 2019年06月03日]
アンリ・カルタン博士については"アンリ・カルタンへのインタビュー"もあります。
アンリ・カルタン教授の思い出
2010年8月 小林 昭七
1953年に私は東京大学を卒業し、フランス政府の給費生として一年をフランスで過ごす幸運を得た。観測上最も暑い8月のある日、私は横浜からMessageries海運会社の"ベトナム"に乗船し4週間かけてマルセイユへと旅立った。私は21歳で自信が無かった。微分幾何と多複素変数に興味を持っていた。矢野教授のセミナーのメンバーだった最終学年の間に、調和積分の話をした。同時に私は多複素変数に関するカルタンセミナーのノート1951/1952に魅了された。
禰永教授が私のことをカルタン教授に手紙で書いたので、私はパリに到着の際にカルタン教授を表敬訪問する予定だった。残念ながら国際大学都市の日本館に居を定めるやいなや、私は腸チフス(予防接種したのにもかかわらずパリへの道中で拾ってしまった)を患った。都市病院での5週間の後、日本館へ戻りカルタン教授に会いに行った。彼は同じ病気を何年か前に患い、経験によれば病気を患う前よりもずっと健康になるだろうと励ましの言葉を述べた。
1953/1954のカルタンセミナーは幸いにも再び多複素変数についてだった。私はその講義のいくつかに、例えば保型函数の講義にはついて行けなかったが、真面目にセミナーに出席した。これは、一週間以内に話が完全な形に書き上げられ、次回のセミナーの時に配布されたことも部分的な理由だった。パリ滞在中、私は名前だけを知っていたKarl Steinの話を聞く機会があった。3月の彼の2つの講義は私が出席した最後のセミナーだった。
その一方で、私はコレージュ·ド·フランスでのLichnerowiczの連続講義にも出席し、プライベートな幾何学セミナーをMarcel Berger(学位論文を終える予定)、Paulette Libermann(既に学位取得済み)、Warren Ambrose(MITから長期有給休暇を取って)、野水克己(フランス国立科学研究センター)達と行った。
Steinの講義の後、私はパリを去り、残り4ヶ月の特別奨学金をEhresmannの元で使うためストラスブールへ向かった。そして、私は10年以上カルタン教授と会わなかった。
Foundations of Differential Geometryを野水と出した時、一冊を私の感謝の印としてカルタン教授に送った。1969年に第2巻目が出た時、彼は手紙で、約束された2巻目が出たためしがないから実際に2巻目が出現したのを見てうれしいという趣旨のことを書いて来た。私はずっと後に彼がその本を参考にしていることを知った。
1967年頃、私は微分幾何学から焦点を多複素変数に移した。1960年代終わりにバークレーで(私の記憶が正しければ)カルタン教授に会った時、当時新しく発見された不変擬距離を彼に話した。彼はすぐさま新しい距離で定義された位相は多様体に位相を与えるのかと聞き、それは当然の質問だと私は認識した(この事実は後にT. Barthによって証明された)。彼のCarathéodory距離(これを彼は有界領域の変換に関する研究で使用した。標準位相がCarathéodory距離で与えられない有界領域をViguéが構築したのが1984年のように最近である)での経験からこの質問を出したのに違いないと私は思う。
1960年代の終わりに私は高次元でのピカールの定理、従って双曲型性において超平面の補完に対する問題に興味を持った。これは私をEmile BorelとAndré Blochの古い論文、そしてカルタンの学位論文へと導いた。1953年私がパリへ行った時、1928年のカルタン学位論文を読む日を夢想だにしなかった。1973年、私の元学生の一人Peter Kiernanと私はカルタンの主要結果を不変擬距離の言葉で再解釈する論文を書いた。カルタン全集の中で、彼は自身の学位論文の簡単な分析と親切にも私達の論文に言及した。私達は非常に光栄だった。
私にとって1950年代は昨日のことのように思える。しかし、ここで私が言及した人々の大半、Ambrose、禰永、Libermann、Lichnerowicz、野水、矢野が逝き、そして今カルタン教授である。パリでの私の日々は実際に遠くなったと認めなければならない。
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