スキップしてメイン コンテンツに移動

数の美しさ

少し前に、大学生にもなって偶数+奇数=奇数を証明出来ないことでちょっと世間が騒いでいたことがありました。おそらく、その大学生は入試科目に数学が無い私立文系でしょう。もし理系だったら笑い話ではなくて大事でしょう。私はそのことで余り驚きませんでした。数式を見聞するだけで蕁麻疹を発症する知性の高い人を知っているからです。xを偶数、yを奇数として、スペースと記号の節約のため、2を法とする合同式で書けばx≡0、y≡1となり、これらの両辺を辺々加えればx+y≡1。たったこれだけで証明完了ですが、どうしても数式を使わざる得ません。従って、その大学生が蕁麻疹症状の人かも知れないので、むしろ私は同情を禁じ得ませんでした。そんなことよりも私が現実に体験したもっと仰天したことを書きます。
数式を用いない図形で誰もが知っていることは三角形の内角の合計が180度になることでしょう。ある会合で、その証明はと聞くと、驚くなかれ一握りの人しか答えられませんでした。詳細を余り書けないのですが、出席者は大体中学生くらいのお子さんを持つ父母さん達でした。私は10人に聞けば10人近くの人が答えられるはずだと思っていました。それらの父母さん達は日頃から中学生になったお子さんが始めて習う証明の問題に苦しんでいて、"証明なんて時代遅れも甚だしい"とか"コンピュータ時代に証明なんてねぇ"等々不平を言っていた方々です。教育現場の従事者でもなく該当する子供もいない私がオブザーバーとして出席して相談に乗っていたのですが、父母さん達自身が全然証明とは何たるか分かっていないのです。そして、出来ない言い訳のオンパレードです。"教科書を見れば分るんだけど"とか"何年も昔だから忘れて当たり前"等々。そんなことを言えば、私だって習った証明なぞ覚えていないし、いつ習ったのかも覚えていません。しかし、三角形を思い描き、3つの頂点の内の一つとその頂点に向い合う辺を考えれば、その辺と平行して、その頂点を通る直線を引きたくなるのが通常の人間の感覚ではないのかと言いました。
そして、もっと驚くべきことに磁針コンパスの使い方を知らない人がいたことです。これは数学リテラシー云々以前に、理科リテラシー(あえて科学リテラシーと言っていません。なぜなら科学云々以前の使い方を分かっていないからです)を問題にすべきだと思いました。
さて以前に、一般大衆は素より一般の科学者達からも数学が乖離していることに関して、"良い証明は我々を賢くする証明である―ユーリ・マニンへのインタビュー"を紹介しました。その中でマニン博士は数学者が何らかのアクションを起こすべきか否かについて、どちらかと言えば悲観的で懐疑的でした。これは頷けるところがありますが、数学者全員が悲観的になったら、これもまた問題だと思いました。で、少しは明るく前向きで比較的最近のものはないかと探しましたら、あの超天才のドン・ザギヤー博士の"The Beauty of Numbers"(PDF)に出会いました。
ザギヤー博士と言えば早熟で有名です。16歳でMITの学士及び修士を終了し、20歳で学位を取得しています。そして、24歳で正教授になるのですから呆れるばかりです。チャールズ・フェファーマン博士も早熟で(フェファーマン博士は22歳でシカゴ大学の正教授になっています)有名ですが、両博士とも早熟の典型例です。と言うか、私の知る限り超一流数学者は例外無く皆早熟です。
ここでちょっと補足したいことがあります。私は"ザギヤー"と日本語表記しました。博士は当時の西ドイツの生まれで正真正銘のドイツ人です。たとえ今は米国籍になっていても"ザギエ"とするのが自然だと思うのです。何故かよく分りませんが、日本では"ザギヤー"が流布しています。これに関連して、昔ドイツ人の方と英語で話している時、迷いながらも"ザギヤー"と発音したら注意されました。それは当然でして、ヒルベルトをヒルバートと呼ぶのと同じくらい変ですが、日本では通例に従うのが無難なので止むを得ず"ザギヤー"としました(つまり、"ザギエ"と書いたら「はぁ?」とイチャモンをつける輩がいますので)。
いずれにせよ、ザギヤー博士のエッセイの私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月22日]
このペィジは2015年05月06日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

数の美しさ
2012年 ドン・ザギヤー

ハンガリー人の数論学者はかって数学を次のように定義した:"数学者は珈琲を定理に変換するマシンである"。ボンの私の研究所[訳注: ザギヤー博士はボンにあるマックス・プランク研究所の所長]において、美味い珈琲が欠乏しているが、数学者または定理に不足は無く、時々数学者を逆に使えないかなぁと私に思わせる!

数学者は何をするのか? 新しい事を発明または発見するのか?
ところで、このように珈琲を処理することを止められない人々がいる一方で、数学を単に思うだけで恐怖で一杯になる他の人々がいる。私はこのことに後で戻ろうと思うが、先ず最初に他の議論に的を絞りたい。すなわち、数学とは何なのか? 何がそれを美しくするのか? そして、数学の楽しさを非数学者にも伝えるために何が出来るか?
数学が実際何であるかという問いは単純に思える。しかし、実のところ答えるのはそう簡単ではなく、実際に哲学者達はこの議論を何世紀もの間熟考して来ている。純粋理性批判のごく最初で、イマヌエル・カントでさえ純粋数学がどのように可能なのか問うていた。他の科学者達は彼等の研究対象物(天体、生物、人間関係、その他何であれ)に従って明らかに特徴付けられる。数学については、そう簡単ではない。一つには、数学は必ずしも同じオブジェクトを扱わない。数、代数式、解析函数、幾何図形は明らかに含まれるが、数学的思考は、特定の予定されたオブジェクトの構造の研究よりも実際には構造それ自体を研究する。そして、問題は更に深くなる。他の学科と違って、我々の研究するオブジェクトが実際にどこに見つかるのかさえも明らかでない。それらが内部的か、または外部的か? 主観的か、または客観的か? それらが我々の頭脳の中のみに、または実世界に存在するのか? 数学者の仕事は発明すること、または発見することなのか?

いつも正しい結果が存在する。
数学的結果が客観的に検証され得るという事実が発見を支持するように語っている。すなわち、定理に対する数学者が与える証明は間違っていない限りどんな数学者達にも言明の真実について確信させる。同じ問題を調べている異なる数学者達は、個性または個人の好みにかかわらず、必ず同じ答えを考えつく。同じことが、互いに全く独立に同じ数学をふと見つける異なる文化にも当てはまる。例えば、2次方程式の解の公式、ピタゴラスの定理(もちろん、どこでもこう呼ばれていない!)、立方根を取るためのアルゴリズムは古代時代に多くの異なる文化で発見された。
だが、数学者はしばしば発明家だ。これを示す一つは、彼等は自身のものの何かを創案する純粋に主観的フィーリングを持つ。また、異なる数学者は個人の好みと経験に依存して、しばしば異なる問題へ導かれ、従って異なる結果へ導かれる。彼等は個人のトレードマークのように彼等の数学定理から認識さえもされ得る。全く同様に、異なる文化はしばしば全く異なる数学的方向を取り、従って彼等自身の数学を発展させて来ている。例えば、ギリシア人は証明の概念を創案し、これに集中した一方で、中国人はしばしば同じ発見をしたが、それらをアルゴリズムまたは算術的方法で示した。または、もう一つ別の実例を挙げれば、エジプト人は他の古代人がしたように、商業、測量、天文において数学を使用し、有理数(分数)を非常に異常な方法で使用する算術的手法を発展させた。分子、分母の商として分数を書く代わりに、彼等は純粋に逆数(1/n)のみを認め、そのような数の合計としてすべての分数を表現した。更に彼等は異なる分母のみを認めた。すなわち、2/5は1/5プラス1/5としてではなく、1/3プラス1/15として書かれた!
それでは真実はどこにあるのか? 殆どの数学者達は真実は両側面の組合せだと言うだろう。チェスにおける任意の位置に対する可能な多くの動きに似て、いつも任意の問題に対して公理と既知の事柄から成立する正しい結果が存在する。これらの結果はある意味で既にそこにあるが、数学者はその都度どの道を取るべきか決めなければならない。そして、これが彼等自身の個人的スキル、嗜好、個性が効果を出すところだ。フランス人数学者ギュスタヴ・ショケーは次のことを言った: "人が探し求めている定理は太古から存在している。しかし、それを発見するためには、人は道を発明しなければならない"。
数学は芸術か、または科学か? 再び、両方の見解は容易に防御出来る。数学をしばしば芸術において見つけられる(常識的な意味合いにおいて)という事実が数学は芸術という見解を支持する。建築では、ピラミッド、パルテノン神殿、またはクリストファー・レン、ル・コルビュジエや他の建築家の建物を考えさえすればいい。音楽では、バッハ、モーツァルト、またはシェーンベルク。そして絵画では、デューラーまたはダ・ヴィンチ。
更に数学それ自体が美的観点から見て美しくあり得る。例えば、プラトンにより発見された5つの正多面体のように、ある幾何的図形。または、もっと現代的な実例を挙げれば、多くのものに類似の美しいフラクタル模様。時には、例えばオランダ人芸術家マウリッツ・エッシャーによる多くの描画によくあるように、芸術さえも新しい数学になる。もっと興味深い実例は、いわゆる平面のテセレーションがそれだ。そんなテセレーションが持てる、異なる対称基本形は正確に17個あると難しい数学定理は述べている。驚くことに、17個のすべてが中世のイスラム教徒の芸術家達によって発見されていて、グラナダにあるアルハンブラ宮殿の装飾に取り込まれていた。

自然は必ずしも我々人類をもっとも喜ばす道を選ぶとは限らない。
しかし、私が芸術と数学を語る時、数学とその他の芸術の間のこれらの広範で興味深い関係を意味しておらず、むしろ数学それ自体が芸術だと言っている。ここで関連する審美的基準は全く抽象的でない。すなわち、議論とアイデアの簡潔、単純、明確、及び絶対的な説得力。一見、これらの基準は芸術的と言うより理知的に見えるかも知れないが、かなり長い間数学を研究して来て、その美的センスを磨けない人は滅多にいない。"説得力のある"または"正しい"のような科学的用語よりも、数学者は"美しい"と"エレガント"のような言葉を多用する。数学的美に対するこのフィーリングは、数学の迷路から最善の方法を選ぶ時に最も確実な方針(一種のアリアドネの糸)になることがよくある事実はもっと興味深い。
芸術家は決断する時に審美的基準を応用出来る。すなわち、何を書くべきか? 何を描くべきか? 何を作曲すべきか? 自然は必ずしも我々人類をもっとも喜ばす道を選ぶとは限らないから、科学者だけがこの贅沢を滅多に持たない。数学は中間のどこかだ。つまり、数学はいつも審美的基準に沿って進める必要が無い(そして、いつも確実に審美的基準に沿えるとは限らない)が、多くの場合、数学的に最善の方法は審美的見解からのものでもある。いつも最も美しい解法を探すことよりも良い戦略は無い。
従って、数学者はいとも簡単に数学は芸術であると考えることが出来る。しかし、数学を科学として分類する素晴らしい議論もある。他の科学者が滅多に到達しない客観性の等級を数学は持っている。証明されているのだから、その結果は絶対的に確実である。そして、一度何かが発見されると、それは期限切れにならない。引き続く発展は新しい側面を加えるかも知れないが、一旦示されれば真実は変わらない。
我々の世界の事故特性に依存しないから、他の科学よりも数学はより科学的だとさえ言える。様々な科学は次のようにソフト科学からハード科学まで順序付け出来る。例えば、歴史、社会学、心理学、医学、生物学、化学、物理学、そして、その時にこそ数学。国の歴史は大いに偶然の出来事によって定まり、いとも簡単に異なっていたであろう。民族の社会学は大いに文化的側面に依存する。心理学はもっと普遍的だが、それでも文化に依存する。医学は全文化と全民族に適用するが、人種のみだけだ。生物学は知られている全生命に適用するが、おそらく遠い惑星では異なって見えるだろう。化学は遠い惑星でも変わらないだろうが、極端な温度または極端な圧力(例えばビッグバンの後)の条件下では違う法則に従うであろう。そして、普遍的に見える物理学さえも必ずしもそうではない。例えば、陽子と電子の質量の比が1,836以外の値を持つ異なる世界を容易に想像出来るからだ。しかし、他の世界の中でさえも数学は正しいだろう。2プラス2はまだ4だろうし、すべての整数はまだ素数の積だろう。それはパラドックスだ。つまり、全科学の中で最も非現実に見える数学が最も実在の現実を記述する!

我々は永遠に反駁出来ない答えを何とか工夫して証明する。
では、何故数学は多くの人々を非常に喜ばすのか? 明らかな答え、そして確実に完全には間違っていないものは、問題を解き難しいパズルをすることは全く単純に楽しいからだ。これに上述の審美的フィーリングを加えると、人が他者の研究の中で読む、または自分で発見したことのある、結果と議論のエレガンスと美しさから得られる喜びだ。しかし、数学達人によって感ぜられる満足の主要な源は、他者を頼らずに真実の一部、自然の秘密の未発見物の一部を発見する特殊なフィーリングから来ていると私は考える。
これの簡単な実例として、私は素数が無限に存在することのユークリッドの有名な証明を示したい。

素数が有限個、例えば31までの2, 3, 5, 7....があって、他に存在しないと想像せよ。これらの素数2, 3,....,31すべてを共に掛け合わせ、その積に1をプラスする。結果の数は、2, 3,....,31のどの素数でも割り切れない。それらの素数の各々の積よりも1つだけ大きいからである。しかし、任意の他の数のように、それ自体が素数であるか、それ自体よりも小さい素因数を含まなければならない。仮定に反して、この因数は元々のオリジナルなリストに無い素数であろう。

この議論の詳細全体がそんな簡単な説明の後で理解されるかどうかにかかわらず、万人がこの議論の一つの素晴らしい概念を確実に認識出来ると私は信じる。つまり、もちろん素数の小さな有限個の断片より以上を考えられないのであるから私達人類が実際に全く答えられないはずの設問(素数が有限個または無限個あるのか?)から始めている。それにもかかわらず、簡単でも非常に難解な2、3の文章を使って何とか答えを見つけており、永遠に反駁出来ない程に証明している。数学(内側からやって来て、それでも外側における何かを記述する)は、真実を見つけるのみならず証明もするために、思考力だけを用いることの出来る唯一の科学だ。そして、それはこれを出来る素晴らしいフィーリングだ。
それから、数学は人々に楽しみのフィーリングを与えられる。しかし、残念なことに少しだけだ。すなわち、それは絶対的にすべての人に対してではない。音楽や良い食べ物(一部の人は熱狂し、一部の人は興味ない。しかし、殆どすべての人がある程度には分かる)と対照的に、数学は全く異なるフィーリングを促す。その魅力を発見したことのある人々は永遠にはまる一方で、殆どの人々は数学と喜びがどう関係するのか全く想像し始めることが出来ない。たとえ、そのテーマに関して興味深い研究があるとしても、私はこれに対する理由を論じたくない(確かなことは文化が主要な役割を担っている)。しかし、多くの人々が数学を愛する潜在能力を持つと私は実際に確信している。
殆どの人々が実際の数学を見たことがないということが主要な問題であろう。つまり、すべての人が学校で習う数学は殆ど必ず日常使用のための、または良くて科学内のレシピのコレクションに過ぎない。美しい数学は理解するのが困難だ。だが、数学の美を理解するためには、人は美しい数学との出会いもしていたはずだ。貴方が音楽の存在を知っており、しかし単一の音またはメロディーを聞いたことがないと想像しよう。多くの人が数学が美しいと得心することと同等に、貴方が音楽の美を得心することは全く困難であろう。もちろん、貴方が少量の音とメロディーを聞いたことがあるのみならず、それらを演奏または歌ったことがあればもっと良いだろう。そして、これを子供の時にしたことがあるならもっと良いだろう! 数学に関しても同じことだ。
幸いにも、数学との出会いは非常に可能だ。定式化(時には証明も)が非数学者により理解可能で、その美しさが確かに多数によって理解され得る数学的成果が多数ある。上で言及したプラトンの立体、オイラーの公式、ラグランジュの定理(すべての自然数は多くても4つの平方数の和である)が実例だ。人が自身で実験出来て数学的発見の喜びを体験出来る他のものもある。

私は数週間ピックの定理を熟考した。
私が12歳の時、化学者からピックの定理を聞かされたことをはっきり思い出せる。この定理は、グラフ用紙上に描かれた多角形の面積はその角点が格子上のみにある時、内点の数プラス周上の点の半数より小さいことを述べている。私が遂に証明を発見するまで数週間これを熟考した。または、一つの面と一つの辺だけを持つ不思議なメービウスの帯。もっぱら思索だけで、そんな帯の中央または辺から3番目の道を切落とせば何が起こるか考えよ。
これらのタイプの出会い(老いも若きも絶対魅せられるだろう)は良い教師または良い本によって教えられる。ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーによる2つの本を思いつく。すなわち、The Number Devil[訳注: 数の悪魔]とDrawbridge Up[訳注: はね橋を上げよ]。前者はより子供向きで、後者はより大人向きだ。しかし、教師とテキスト本の他に、第3の道がある。つまり、人が見聞出来て美しい物に触れられる数学博物館だ。そんな実例の一つがパリにあるカルティエ現代美術財団での展示会"数学: 美しいどこか他の場所"だった。そこで8人の芸術家達は訪問者が数学の美観を体験するのを助けた。また、このユニークな試みのカタログは読者に抽象的思考の美しさへ旅行することを勧めている。

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ