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1966年フィールズ賞、2004年アーベル賞のマイケル・アティーヤ卿へのインタヴュー

マイケル・アティーヤ卿[Atiyahの発音記号は/əˈtiːə/です。不思議なことにアティヤとかアティアなどのカタカナ表記が流布しています。前まではアティーヤという表記もあったという記憶があるのですが、最近では見かけません。私もしばらくアティヤという気持ち悪い表記に倣っていましたが、初心に返ってアティーヤとします。次いでながら/iː/と/ə/が連続しているのでリエイズンによりその間に/j/が挿入されることをお忘れなく]が今年の1月11日にお亡くなりになったことは前に紹介した"書評 The Princeton Companion to Mathematics"の前置きの中でも言及しました。アティーヤ卿が書いた記事はこの"私訳"シリーズにおいても"ブルバキに関する2冊の本のAtiyah卿による書評"や"私が知った時のグロタンディーク"を紹介したことがありました。今回紹介するのはEMS Newsletterの2016年12月号に掲載されたインタヴュー記事"Interview with Sir Michael Atiyah Fields Medal 1966 and Abel Prize 2004"(PDF)です。これがおそらく最後のインタヴュー記事だと思います。もちろん断片的なものや新聞、一般大衆向けの科学誌にこれよりも新しいインタヴューがあるのかどうか知りませんし、そんなものは私にとってはどうでもいいことです。
私は論文を除いてアティーヤ卿が書いた記事をけっこう読んでいますが、著書だとあの有名なIntroduction to commutative algebra(マクドナルド博士と共著)しか通読したことがありません。と言うか、可換代数方面で熟読したのはIntroduction to commutative algebraとザリスキとサムエルのCommutative Algebraしかありません。これだけでは分量が少ないとか古いとか言われますが、基礎だけを固めると考えれば十分だと思います。これより新しいことや知らないことを調べたいなら通読しようなどと馬鹿なことを考えずにブルバキのAlgèbre commutativeや、もっと代数幾何学よりのトピクスならグロタンディークのEGAをひょいと覗けば済むことです。いずれにせよIntroduction to commutative algebraには本当にお世話になりました。
このインタヴュー記事を読んで私が思ったことは、案の定グロタンディーク氏には一言も触れてないなぁと思いました。グロタンディーク氏が1970年前後に数学者であることを自分勝手に辞めてRécoltes et Semaillesにおいて、あることないこと(殆どが出鱈目だと断言出来ます)を書き連ねて数学界を弾劾したことを許せなかったんだと私は思いました。出版予定のなかったRécoltes et Semaillesの草稿のコピーをグロタンディーク氏は当時の世界の有力数学者達に勝手に送り付けたのですが、その中にもちろんアティーヤ卿も含まれていました。私の大先生や大先輩がたとの大昔の茶飲み話によるとアティーヤ卿は非常に激怒したらしいです(アティーヤ卿の他にもグラウエルト博士もひどく怒っていたとか)。因みに言うと日本でもRécoltes et Semaillesの一部が翻訳されたようですが、罵詈雑言の部分やその他の部分はかなり割愛されていることを知っておいてください(原文を読めないと結局何も理解してないことと同じなんです。つまり翻訳本では割愛や是正の可能性があるのです。一種の検閲制度と何ら本質が変わりません。それが証拠にヒトラの"我が闘争"がいい例でしょう。少なくとも戦前において何人の馬鹿を生み出したことでしょう)。
さて、数学的業績がすごいことは誰もが知っていることだから脇に置いといて、私がアティーヤ卿をすごいと思うのは最後の最後まで現役数学者たらんと頑張ったことです。誰が90歳近くの老数学者がリーマン予想の論文を書くと思ったでしょうか。リーマン予想の論文の合否に関係なく、その精神を多くの人が見習うべきじゃないでしょうか。アティーヤ卿には本当に長い間(少なくとも60年間ですよ)お疲れ様でしたと言いたいです。
この最後のインタヴュー記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2019年03月03日に某サイトに載せたものです。

[追記: 2019年04月09日]
このインタヴュー記事がアティーヤ卿の最後のインタヴュー記事だと思っていたのですが、つい最近のインタヴュー記事がありました。詳しくは"マイケル・アティーヤ卿への最近のインタヴュー"をご覧下さい。

1966年フィールズ賞、2004年アーベル賞のマイケル・アティーヤ卿へのインタヴュー
2016年12月

マイケル・アティーヤと彼の共同研究者達は最近の何十年の間、数学の外観を変えて来た。彼の業績のおいて他にもいろいろ根本的な研究もある中で例えば(イサドール・シンガーとの共同研究における)指標定理[訳注: 日本では何故かindex theoremを指数定理と呼ぶ人が多いのですが、誤解を招くおそれがあるので指標定理にしました]、理論物理学において重要な応用を持つヤン-ミルズ方程式の幾何学の研究を人は挙げるだろう。彼の貢献は数学のまとまりを見事に例証し、幾何学と物理学の間の相互作用の重要性を示す。これらの議題に専念する科学コミュニティの研究にとんでもない影響力を持つ主要人物である。他にもいろいろ賞がある中で例えば、彼は1966年にフィールズ賞、1988年にコプリ・メダル、2004年にアーベル賞を授与されている。また欧州数学会の創立の発起人の一人だった。
アンリ・ルベーグ-センターにより組織された実ベクトルバンドル関するコンファレンスに入り、私達は2014年7月10日にフランスの市ブレストでマイケル・アティーヤ卿と一緒にいた。このコンファレンスの主題は50年より前のマイケル卿の将来の発展のもとになる論文に起源を持つ。

マイケル、貴方の研究が20世紀と21世紀の数学に非常に有名で根本的な一時期を作って来ているので、貴方が数学経歴において会ったことのある人々について話せればいいかと私は思います。
はい、確かに。人々について語るのは好きだ。

そうです、これらの人々の追憶と回想です。貴方が大学生だった時、または高校生以下だった時でさえも。貴方のその時の指導者達から始めたいと思います。すなわち、私は貴方の助言者を意味していますが、特に指導官だったトッドとホッジです。彼等について何を語れますか?
はい、えーっと。私はカイロゥにある学校(それは英国の学校だった)に行き、アリグザーンデュリア[訳注: 発音記号/ælɪɡˈzɑːndriə/。これをどう読めばアレクサンドリアになるのか理解に苦しみます]の学校にも行った。そこで私は教師達を持った。かなり良い数学の教師がいた(しかし、少し時代遅れであまり洗練されてなかった)。つまり、良い教育を受けたが、数学で特別なことは無かったと言いたい。私はいつもクラスで一番若く、現に2歳近く差があった。小さな少年だった。学校にいて他の少年達より2歳若い時、起きたことは私が年長の少年達の宿題を助け、お返しに彼等が私を守ったものだ。それで私は力強い友人達を持った。彼等は大きいが、あまり賢くないので私が彼等の宿題を手伝い、お返しに私はボディガードを得た(笑い)。小さければそれは重要だ、ねぇ。学校で小さくて、すべての少年が年上なら苛められる可能性がある。だから、あれは非常に良いことだった。 イージプトでの、アリグザーンデュリアの学校の最終年に私達は時代遅れの数学教師を持った。彼は非常に良かった。もっとはっきり言えば、彼は数学者としては訓練されていなかった。化学者として訓練されていたが、非常に良い教師だった。大変厳格で規律正しかった。私は非常に異なるスタイルでフランスで教育を受けた教師を漠然と憶えている。彼はグリーク[訳注: 普通のカタカナ表記ではギリシャ]人だったと思う(彼の名前はMouzourisだった)。彼がフランスで勉強した現代解析学に関する本を実際に私に与えたことを憶えている。それは私がそんなことに出会った最初だが、さほど印象には残らなかった。
それから後に、私はイングランドのマンチェスタにある学校に行った。そこでは非常に良い学校に行った。えーっと、私の父は大学に備える方法を訊ねた。数学のために一番良い学校は何だと訊き、すべての人がマンチェスタ・グラマスクールだと言ったが、それは一種の知的イリート学校だった。私達は非常に献身的な数学教師を持った。彼は1910年かそこらにオクスフォードにいて時代遅れだったが、ある意味で非常に人を奮い立させた。私達がケィンブリッジに入るためにかなり難しい勉強をしていたから、私はそこでものすごく勉強した。ケィンブリッジは非常に競争が激しかった。だから、おそらく私の人生で最も懸命に勉強した。

その時、貴方はいくつだったのですか?
17歳。私はそこへ16か17歳の時に行った。私達は全員非常に訓練されて、全員ケィンブリッジに入った。私は非常に優れた素養を持ってケィンブリッジに到着した。もちろん、大学に着く時、すべての人が彼等の学校で一番の人であるから、他の人と比べてどれくらい自分が優秀なのか分からない。最初の一年の終わりに私は大学で一番になった。その観点から私が優れていることを認識し、非常に良い数学者達である多くの友人を得た。彼等の多くが後に数学のみならず他の分野でかなり有名になった。だから良い環境だった。私はテュリニティ・コリッジへ行ったが、そこはアイザク・ヌゥーツン[訳注: 普通のカタカナ表記では書くのもアイザク卿に申し訳ないアイザック・ニュートンです]や多くの他の人(ラーマーヌジャン、ハーディ、リトォウド)で有名だ。だからコリッジには強い伝統があった。結局、50年後に私は学長として戻った(笑い)。
だから私は非常に良い訓練を受けた。講義はむしろ平凡で、非常に優れた一人か二人の講師、殆どが特徴の無い講師、非常に悪い一人か二人の講師がやった。しかし、非常に優れた一人か二人の講師がいた。その時に私はコースを受講し加速させた。進歩を非常に速めるために多くの講義へ行って、学部2年生として私の最初の論文を発表した。私はトッドによるいくつかのコースへ行った。古典幾何学に良い問題があった。私は小さな貢献をし、彼はそれを発表するよう鼓舞した。いいかね、たった2ペィジのノートだが、私は2年生で、それが私に論文発表する途方もない誇りを与えた! 他の何よりも、この論文を私は誇らしいと思っているのかも知れない。それで、それは良いスタートだったし、そしてその後に私は大学院の勉強をした。学位のための指導教官を選ぶ必要があった。私は学部生としてトッドにより教えられてはいたし、彼はいい数学者だったが、非常に人見知りだった。私が彼に会いに行っても彼は喋らなかった。問題を議論するが、それ以外は何も話さなかったものだ。だから会話を持続させるために彼に質問する余分の質問の長い一覧を持って行かなければならなかった。
私はトッドの許ではなく、ホッジの許で研究しようと決心した。ホッジは彼の研究でずっと有名で、国際的な名声を持っていた。彼は印象深かった。彼もトッドとは非常に異なる人であることを除いて、私は彼がより大きなヴィジョンを持っていると思ったし、彼はやった。彼は大変な社交的かつ外向的で親しみやすい人だった。彼に会えば、貴方は彼が数学者ではないと思うであろう。食料雑貨店を営む主人のようだった。もっとはっきり言えば、後で私は彼が食料雑貨店を持つ家系出身だということを発見した! 大店だ(笑い)! 彼が数学に行った唯一の人だった。他の全員が店か何かでビジネスをしていた。だが、彼はすごく愛想がよく好意的だったから、私に大きな影響を与え、良い方向を与えた。だから私の数学経歴にとっていいスタートだったし、いい時に到着して幸運だった。私は良き学生仲間を持ち、戦後の数学世界は変わりつつあった。新しい事がパリスとプリンストンで起きていた。私はComptes Rendus[訳注: 固有名詞化していますが、研究報告を意味します]の最近号を見るために毎週図書館に行ったものだ。すなわちセール、カルタンによる論文を。そしてホッジはプリンストンにコネを持っていたと私は聞いたものだ。だから私はかなり早くにこれらの動きに接していた。これが私の始動を助け、プリンストンへ行った。

学位論文で貴方が取組んでいた数学問題は何だったのですか? ホッジがこの問題を示唆したのですか?
えーっと、学位論文でかなり離れている2つのことをやった。一つは自身で取り上げた。幾何学者達が呼ぶところの線繊曲面を扱うものだった。線繊曲面は古典幾何学で発生する直線族の曲面だ。それらをベクトルバンドルと層コホモロジ手法に関係づける観点から私は興味を持った。私は分類を始めるために現代的手法を使ったが、これらは初期だった。後に大きな分野となった。私はその議題に関して1953年から54年の間に最初の論文を書いたが、それは大体自分自身で書いた。私と一緒に研究していたホッジは興味を持っていた代数幾何積分における全問題を攻撃するために現代的手法を使う方法を理解した。だから彼は始めるためのアイディアを私に与え、私はそれを展開し、そして私達はこれに関する共著論文を書いたが、それが非常に有名になった。それで、私は学位論文でかなり離れている2つのことをやった。一つは完全に私自身のもの、他は実のところ私の指導教官との協力だった。2年の終わりまでに大体終えていた。

ホッジは数学的にどこの出身なんですか?
えーっと、ホッジはスコッランド人で、スコッランドは大変優れた伝統を持つ。彼はエディンバラ大学を卒業したが、そこは私が現在実際にいるところだ。彼は学位を修了するために、そこからケィンブリッジへ行き、数学と物理学において良好な素養を持った。それが彼の研究と実際に関係した(ホッジ理論)。その時にケィンブリッジで、彼は幾何学の大変有力な学派(時代遅れの幾何学)にいたが、この感覚のアイディアから離れて彼自身の道を築いた。彼は位相的手法を使うことによって代数幾何学を改革していたレフシェッツに多大な影響を受けた。レフシェッツは目の前にいなかったが、遠隔作用だった。彼はレフシェッツの本と研究を倣い、結局レフシェッツに会った。だから、完全に彼自身の選択に従って、有名になりたいとは思わず、そして、もちろん若かったからプリンストンへ行った。本当に面白いことに、彼がレフシェッツに会った時、レフシェッツは彼が証明していた事柄をホッジが証明していたと信じることを拒否した。彼はホッジが間違っていると抗議し続け、ホッジは彼が正しいとレフシェッツを説得するのに長い時間を要した。結局、彼はレフシェッツのアイディアをもっと複雑なやり方で使用した。レフシェッツは大変強い個性を持っており、とうとうホッジが正しいと説得された時、彼は前言を翻して支持者になった。強い反対者から強い支持者になってホッジに椅子を与えた。いいかね、最初は全くのガラクタ扱いだ。そして、しばらくして'おお! 何て素晴らしい!'だよ。彼は非常にカラフルな個性だった。私はホッジの学生だったから初めてプリンストンへ行った時にレフシェッツに会ったが、彼は非常に積極的だった。その時までに、彼は別のことをしていたが、ホッジとの共著の私の論文を見ており、"しかし、その理論はどこなの? 来たまえ、私に話しなさい"と彼は言った。彼はいくらか積極的で、その重要な論文の中は空っぽだと言おうと努めた。私はそれはいずれにせよスタイルの問題だったと思う。後に私達は良い友達となったが、彼は非常に強い個性だった。

ケィンブリッジでの学位論文の後、プリンストンへ行った時に貴方が会った人々のうちで言及したい人がいますか?
はい、私は高等研究所へ行った。多くの偉大な常勤教授がいたが、ヘルマン・ワイル、フォン・ノイマン、アインシュタインのような人々に会うためには遅すぎた。私が着いた時に彼等全員が大体世を去っていた。常勤教授達の他にペゥスドク[訳注: 普通のカタカナ表記でポストドク]として来ていた非常に多くの輝かしい若人達がいた。戦後の直後だったから、戦争によって教育を変えられてしまった(多くの世代が共に多少圧縮された)応じ切れないほどの数の人々がいた。それで、そこで私はヒルツェブルフ、セール、シンガー、小平、スペンサー、ボットと会い、これらの人皆と私はプリンストンで一年半を過ごした。それは私が本当に殆どの数学的才能に出会った時だった。リー群やトポロジーのように以前には聞いたことがない事柄を私は学んだ。

彼等は全員プリンストンにいた?
そう、まさに彼等は全員プリンストン高等研究所にいた。小平とスペンサーは立派な教授で、他は全員ペゥスドクだった。私達は一年または二年を共に過ごしたが、彼等のうちの何人かは前からプリンストンにいたから若人達にとって非常に素晴らしい会合場所だった。私達は互いから多くを学んだ。大学での講義に一緒には行かなかった。私はフランスにおける数学のフランス学派から自分で学んでいたから、私がケィンブリッジにいたにもかかわらず、プリンストンでは個人的接触と人々の影響があった。私は彼等全員と本当に親しかったと言いたい。たった一年ちょっとでとんでもなく多くを学んだ。成人になるようなものだった。急に私は一種の職業数学者になった。私達は新しいアイディアを学んだ。世界の最高峰の場所の一つであったので、あらゆる種類の事柄が起き、毎週新しい前進があった。すなわち、新理論、特性類、コホモロジ。入るには理想的な時だったから私自身の貢献をした。
私はヒルツェブルフと知り合ってからは、彼が欧州へ戻った時に私は彼やボンの人達と会うことや、その種類の事柄を引き継いだので、非常に良かった。その時期にプリンストンへ到着すべき理想的な時だったし、それから欧州へ戻った。事柄は欧州でも発生していた。いいかね、戦争が1945年に終わり、私は1955年(事柄が落ち着くのに十分な時間だ)にプリンストンへ行ったが、私の仲間の多くが正確には戦争で戦ってはいなかったけれども招集されていた。シンガーは米国海軍で軍務に服した。ボットは訓練を受け、戦争に入る寸前だった。ヒルツェブルフは若年兵としてドイツ軍部にいて、米国人達に捕虜として捕まったが、たった数ヶ月の間だった。彼は17歳だったから免れた。だから私はちょうど終わりの部分にいた。戦争に巻き込まれた人々は年長であり、そこでも長期間いた。私がプリンストンへ行くまでに10年を過ぎていた。人々は回復して非常に良い時だった。

そして貴方は2年後に欧州に戻ったのですね?
はい、一年と半年してから戻った。私はケィンブリッジで職を得た。仕事に復帰し、数年以上ケィンブリッジで過ごし、そしてオクスフォードへ移った。

それで、ケィンブリッジとオクスフォードの両方において貴方の学生達について何かを何故語らないのですか?
えーっと、私はケィンブリッジを若くして去っているから、ケィンブリッジでは多くの学生達を持たなかったが、私の指導教官ホッジから引き継いだ2人の学生達を持った。ホッジは学生達を引き受けたが、この時までに彼は非常に忙しい男だった。彼は時間が無かった。彼自身の数学経歴は戦争によって多少損なわれた。彼は戦前まだ若い時に有名になったが、戦中にコリッジにとどまって多くの行政をしなければならなかった。戦争終了時までに、ちょっと数学に疎くなったので、学生達を取ったけれども彼等を私に丸投げした。それで、私の最初の2人の学生達は委譲だったが、彼等は了解した。彼等両者は私のもとで学位論文をした。それは私にとっていい準備だった。学生達を扱うやり方を学ぶ必要があった。それはあまり明白でなかったし、もちろん、学生達は様々なレヴェルの能力で来てるのだから、何人かの学生達は独学して自主的だが、多くの学生達が多くの助けを必要とすることを認識する。何人かは非常に能力があり、何人かはかなり弱い。だから、私はオクスフォードへ行く前に、私のもとで勉強する、これら2人の学生達を持った。オクスフォードでは、そこに非常に長い間いたし、時が経つにつれて徐々にもっと多くの学生達を持った。いいかね、貴方が若い時は彼等が貴方のもとへ来て勉強したい理由を不思議に思う。貴方は少し歳を重ね、少し有名にならなければならない。そして学生達が来る。私は合計約50人の非常に多くの学生達を持った。えーっと学生の顔が上手く定義されていない(または他の誰かの学生は実際には事実上の貴方の学生かも知れぬ)から学生を数えるのは難しい。しかし、生涯で40人から50人だ。ある時には、私のもとで学位論文をする5人または6人の学生達を持ったものだ。毎年は2人、それが良かった。それから、私は研究員としてプリンストンへ行き、そこで4人の学生達を持った。

オクスフォードにいたのに再度プリンストンへ行ったと言ってます?
そうです。1961年に初めてオクスフォードに行き、1969年にプリンストンへ行った。だから8年間オクスフォードにいて、それから3年と半年の間プリンストンへ行った。そしてオクスフォードに復帰した。プリンストンでの一つの利点は人々を招待して一緒に研究出来るという選択肢を持つことだった。もともとオクスフォードからだが、私と一緒に来た一人はルメィニャ[訳注: 普通のカタカナ表記ではルーマニア]出身の非常に若い人、ジョージ・ルスティックだった。彼は有望な学生で、プリンストンでの私の学生だった。そして私の助手達として人々を招待することも出来て、ナイジェル・ヒッチンを私の助手として持った。

彼はオクスフォードで既に貴方の学生でしたね?
彼は私の学生(または事実上の学生)だった。公式的には他の誰かのために研究していたが、私が指示した通りに彼は研究し、私は彼との接触を続けた。だから彼は実際に私の学生でもあった。その前にグレアム・シーガルを持った。彼は一年間ホッジのもう一人の学生だった。

ホッジが彼をオクスフォードへ送った?
えーっと、彼は彼自身をオクスフォードへ送ったと思う(笑い)。私のもとで研究するために彼はオクスフォードに来た。その時までに私は学生達を集めていた。プリンストンでは数人。そしてオクスフォードに復帰した時、非常な数の学生達を持った。この時までに私が非常に有名だったからだと思う。ケィンブリッジからの多くの学生達、外国からの多くの学生達、印度からの数人の学生達を持った。ああ! Patodiは非常に若い印度人だった。事実上の学生として彼は私のもとで研究をしに来た。それから後に、何人かの非常に有望な学生達を持った。例えばサイモン・ドナルドソン等。それは私をぎょっとさせる。私は非常に素晴らしい学生達を持っていないと考えている時期を体験した。私はそんなに上手くやっていない。学生達を取ることを止めるべきかも知れぬ。私はもはや十分には活発でない。それから何かが変化し、突然6人の有望な学生達を見つける。それはまさにちょっとした偶然の出来事だ。もちろん、非常に優れた学生達から学ぶ。ドナルドソンがそこにいた。彼はしばらくしていくつかの講義をした。彼がやっと学位を取ったばかりの時でさえ、私は彼の講義に行った。だから、そう、貴方は多くを学び、そしてそんなに多くの学生達と一緒になり、貴方は彼等に取組むべき学位論文を与え、彼等を励まし、彼等にどの方向に進むべきかを語り、彼等に様々な段階の手助けをし、そして時には彼等は彼等自身ですべてをやり、時には貴方が彼等のために研究し、時には共同だ。だから、それは非常に前向きな体験であり、私はそれを楽しんだ。プリンストン高等研究所へ行った時、私は実際には学生達を持たなかった。つまり、いいかね、正式な大学が無かった。オクスフォード大学の学生達については、何人かは地元から、何人かは外部から学位を取る(特に私のもとで、または何人かは彼等自身で)ために来た。それから、豪州(グレアム・シーガルのように)、米国、印度のような国々から何人かいた。そう、かなり国際的だ。

ナイジェル・ヒッチンのように、だから貴方は何人かの学生達と共同研究した。
そうです、通常彼等が学位を修了した後、準同僚として私は共同研究した。しかし、彼等は私と研究したのであるから、彼等は同じ分野を研究した。だから私がナイジェル・ヒッチンやグレアム・シーガルと共著論文を続けるのは当然だった。通常、学生達がちょっと違う分野を研究することを私は好んだ。何人かは微分幾何学で、何人かは代数幾何学で、何人かはトポロジーで研究する。そうして彼等は全員が同じ分野とは限らなかった。だから私は彼等と共同研究したものだったし、彼等も彼等自身の個性を持ち、数学的好みを持っていたものだ。つまり彼等は異なるだろう。彼等はちょっと違う方向へ進んだものだったが、それが非常に良い。貴方が拡がるようになる。何人かはもっと解析学を、何人かは幾何学を、何人かはもっとトポロジーを。そうして彼等がもっと専門家になっているのだから、貴方は20歳の学生達に学ぶ。シーガルはホモトピー理論でもっと専門家になったし、ヒッチンは微分幾何学でもっと専門家になった...それが学ぶ一つの方法だ。貴方が始める時、何かを学ぶが、貴方が教えている時、戻って勉強するための十分な時間が無い。だから貴方は違う方法で学ぶ必要があり、学ぶ一つの方法が貴方の学生達との共同研究において学生達を通してである。

貴方の数学経歴を通じて持った主要共同研究者達について多分何かを言えると思いますが。
はい、私の主要共同研究者達(私の年齢、または年長の先輩共同研究者達)の中に私よりたった2歳年上のヒルツェブルフがいた。彼は私よりもずっと年長に見えた。私は軍隊に入隊[訳注: 外国では徴兵制度があることをお忘れなく]し、そこで2年間を過ごしたが、彼はそれをしなかった。彼は非常に若くして昇進した。私が学位を修めたばかりの時に彼は教授だったが、私達は実際に年齢がきわめて近く、私がよくボンに行ったものだから非常に長い間私達は共同研究した。そこで展開された研究について私達が一緒に論文を書くのは当然だった。それから、私が一緒に研究した他の2人はボットとシンガーだった。彼等は米国にいてハーヴァドとMITにいたから、私は彼等とプリンストンで彼等とよく会ったものだ。または私がMITへ行くか、彼等がオクスフォードに来たものだ。私達は長時間一緒に過ごした。私達全員が一緒に論文を書いた。私達全員が共通の興味を持ち、異なる強みを持っていた。ヒルツェブルフは多くの意味で私と非常に近かったが、私は彼から学んだ。彼は特性類と代数トポロジーにおいてエクスパートだった。ボットはもっと微分幾何学とリー群とそれに類似の事柄に詳しく、シンガーは解析学の素養から函数解析とヒルベルト空間論に詳しかった。だから彼等は皆少し異なる分野の専門知識を持っていたが、彼等が皆部分的に重なっていたので多くの共通する興味があり、それが良かった。私は多くの論文を書けた。彼等はエクスパートだった。えーっと、エクスパートだったのみならず、彼等は本当のエクスパートを知っていた。シンガーは多くの微分方程式等での大物達と友達であり、ボットはトポロジーで多くの人々を、ボンを通じて多くの人々を知っていたから彼等皆が交流と学生達の非常に広い知的ネッワークを持っていた。スメィルとキレンはボットの学生だったから、これは素晴らしいネッワークだ。
私は非常に社交的だ。見ての通り、喋るのが好きだ(笑い)し、数学的議論を愛している。私達は黒板へ行きアイディアを交換したものだ。私はこれが好きだ。非常に刺激になる。私達は語った後に考えて、そして再度戻って議論したものだ。それはまさに社会的プロセスであり、良い友達も作る。その意味で研究関係は非常に親密である。だから、彼等が私の主要共同研究者達だ。それから、私はグレアム・シーガル、ナイジェル・ヒッチンのような若い共同研究者達を持ち、そして後にはフランシズ・カーゥワンのような若い共同研究者達を持った。私はヒッチンとカーゥワンと一緒にかなりの数の論文を書いた。私が先生で彼等が学生達だったから、これはちょうど逆さまになった類似の関係だった。私達が共通する興味を持ち、そして再び彼等の興味が年長者の興味と平行した。彼等は新しいアイディアを持つかなり若い世代だったから、非常に良いネッワークだった。

貴方は物理学コミュニティにおいても素晴らしい友達を持っていました。特にウィツンとですね?
はい、それはもっと後だった。私が1970年代の始めに米国へ行った時にウィツンに会ったことを憶えている。物理学者達がやっていたこととシンガーと私がやっていたことの間にある重なりがあったことをその時に私達は完全に理解した。だから私は行って、MITの4人の物理学者達と会合を持った。これらの年長者達と一人の若い野郎が椅子に座ったが、最後に議論の後で私はその野郎が頭のいい男だと分かった。私が説明しようと努めた数学よりも多くのことを彼は理解した。それがエドゥ・ウィツンだった。彼は準フェロウだった。その後、彼を数週間オクスフォードへ招待し、彼をよく知るようになった。だから私は彼がハーヴァドで若いフェロウだった時から知っている。彼はいつも途方もなく印象的だった。私は彼から非常に多くのことを学び、彼が書いたほぼすべての論文を読もうと努めた。彼は信じられないほどたくさん書いている。私の主要な貢献の一つは数学世界にウィツンや彼の共同研究者達のような人々を通して物理学から来ているアイディアを触れさせることだったと思う。初期には多くの数学者達が物理学者達を信用しなかった。物理学は数学と関係が無いと彼等は言った。'彼等は定理を証明していない'、'それは疑わしいビズネスだった'。だから、いいかね、私は悪い会社を混ぜたことで悪評を貰った(笑い)! 数学者達はウィツンについてさえ懐疑的だったが、彼等が出来ないことを彼は出来ることを理解した。彼は多くの扉を開け、フィールズ賞を取った。だから彼の展開に従うことは実際に私の教育の一部分だった。結局、私は彼の大学院生みたいになった(だが、これはずっと後年だった)。カルテクで彼と共に学期を過ごしたが、それはちょっと大学院生である(再び)ような感じだった。私は朝の間に彼に会いに行き、私達は各々の問題を一時間議論し、それから立ち去り、戻って来る前に休みなくそれを考えたものだ。その間に彼は他のすべてをやっていたものだ。私は翌日に戻り、私達は議論を続けたものだ。私は彼に遅れないために勉強しなければならなかった...。

貴方は論文を書きました。
そう、100ペィジの論文。私はそのところどころを書いた。おそらく私が以前にやっていたことと或る関係があったから、私達がこれについて研究すべきと彼は決心した。しかし、彼はそれについてアイディアを持っていた。彼が押し進め、私達が時々結果の数学面に関して議論をしたものだが、大抵彼が正しく(笑い)、そう! 私が間違っているほど彼は素晴らしかった。それは大抵素晴らしい体験だった。この時までに私は既に老いており、えーっと、ともかくも何年か先に行っていたが、学生のようだった。本当に興奮させた。今でさえエディンバラで私が共同研究している人達の中で物理学者達、数理物理学者達が多数いる。新世代の物理学者達だ。私は物理学に関連して数学をますますやる。

時を戻して、貴方はロジャー・ペンロゥズともよくやり取りしました。
はい、まぁペンロゥズは私の学生仲間だった。彼はランドン[訳注: これをどう聞こえたらロンドンになるのでしょうか]から学生として来ており、私と同じ時にホッジの学生として学位取得を始めたが、ホッジのもとではあまり成功しなかった。彼の興味は違っていたので一年後トッドに切り替えた。

貴方がやったことと逆のこと。
はい、まぁ私は既にトッドから教えられていた。トッドが代数学と幾何学をもっとやっていたから皮肉だった。ペンロゥズがケィンブリッジを終えて他のどこかへ行った時に私達は連絡を絶った。その時に彼は真剣に物理学に興味を持つようになった。プリンストンから私が復帰した後、彼が数理物理学の教授としてオクスフォードに来た時に私達は再会した。それから私達は私達の関係を何とか再構築出来た。この共通する要因が代数幾何学にあり、彼はやっていることを私に説明出来た。しばらくして私は層理論の現代的アイディアが彼の必要とすることだと分かり、彼のグループを物理学では新しいアイディアに触れさせ、非常に上手く行った。私は彼の学生達の一人、リチャード・ゥオードと一緒に論文を書き、非常に上手く行った。本当に面白いことに、私がオクスフォードに復帰する前、プリンストンにいた時にフリーマン・ダイソンと話をしたが、私達はロジャー・ペンロゥズを議論し、彼は"おお! ロジャー・ペンロゥズはブラックホゥルについて非常に素晴らしいことをやった。私はそれを感心するが、彼はツイスタについて非常におかしいことをやった。私は理解出来なかった。君がオクスフォードへ戻る時、多分君はツイスタが何であるか分かるでしょう"と言った。そして彼は正しかった、まさしく正しかった(笑い)。それがつなぐ役目をした。

それが貴方がたの代数幾何学における共通知識につなげられたのですね?
もちろん私達は直線とグラスマニヤンのクライン表現を習った。私達は古典代数幾何学をよく知っていたから、それが非常に良い関係なので私達は上手く成功した。彼は非常に多くの学生を持った。彼は学生ティームと一緒に研究し、若い時のホーキングに出会った。それで私は物理学者達のそのグループと良い関係を持ったから多くを学んだ(もしくはシンガーを通して)。シンガーとボットの両方はもともと数学外の学位を持っていた。ボットは電気技師として訓練し、シンガーは物理学で訓練した。彼等は後で数学に入って来た。シンガーは物理学に入り、いいかね、それから物理学は厳密さが十分でないと決定を下した。しかし、ボットは電気技師として訓練されてからヘルマン・ワイルを通して数学に入って来た。ワイルは或る意味で彼を正しい方向に推し進めた。そう、その当時数学は実際には職業ではなかったから、彼等は違う素養から来た。貴方の父親がそれをすべきでないと考える。つまり、貴方は技師のような職業で訓練すべきである。それが金になるだろう(笑い)。数学者になることは仕事を得られる職として見なされていなかった。もちろん今は少し変わって来ているが、その頃はもっとそうだった。
シンガーとボットはチャーンをよく知っていた。チャーンはシカゴで彼等を教えていたからヤンの良い友人だった。彼等は両方が中国人だからヤン、リー、ジム・シモンズとチャーン、そしてシンガーというつながりがあった。それはいろいろな事柄が発生していた時と同時の現代物理学における参加者達だった。しかし、それは偶然だった。非常に奇妙だった。プリンストンでは数学と自然科学の大学派があった。それがもともとのものだったが、それからは解体されてしまった。プリンストンでの第一次任命はすべて大物だった。ヘルマン・ワイル、フォン・ノイマン、ゲーデル。パウリのような人達もそこにいた。あー、しかし後に数学は異なる種類の数学になった。つまり、それらはかなりブルバキのタイプであり、かなり純粋の数学と物理学だった。物理学から完全に漂泊したから私が到着した時には両学科は完全に離婚していた。それらは互いと話さなかった。ダイソンは数学者として生活を始め、物理学者になったのだから、彼がつなぎになれたであろう。しかし、その時までに物理学者達と数学者達は異なる道を先へ行ってしまっていた。彼等は違う事柄を追求していたと言っていいだろうし、数学者達は物理学にあまり共感しなかった。彼等は物理学はごたごたした科目であり、あまり厳密でないと考えた。そして物理学者達は彼等自身で数学について同様の見解を持っていた。現代数学は非常に抽象的なので彼等はつながりを持たなかった。事が変化してウィツンが登場するまでには、それは完全に異なっていた。ずっと相互作用的になった。彼等はセミナーを一緒に持ったが、まだ距離を保った。

しかし、1950年代に戻れば、物理学者達がヤン–ミルズ理論を展開し、同時に数学者達がバンドル理論、チャーン類、コネクシュンなんかを展開していたことは実際に偶然だったのですか? コネクシュンは何だったのですか?
えーっと、それは非常に面白い話だ。要となる人は実際にヘルマン・ワイルだったであろうと思う。彼は物理学にゲィジ理論を導入した人だった。彼はゲィジ理論の手法を使う方法に関する最初の論文を書いた。数学の偉大な人だったし、非常に早い時期に高等研究所にいた。しかし、彼は1955年に死去し、その年に私はプリンストンに到着した。ヤン–ミルズ理論は大体その年までに展開されていた。私はミルズに会ったが、彼はそこで客員だった。ヤンとヘルマン・ワイルが話していたであろう一方で、ワイルはまだ物理学に関心を持っていたと人は考えるだろう。

彼等はプリンストンで重なっていますが、話す機会を持たなかったと私は信じます。
まぁ、この時までにワイルは少し老いていたし、物理学における彼の関心はそれの20年前だった。現代物理学は非常に異なる方向に動いていた。彼はかなり異なることをやっていた。新粒子が発見されたが、彼はそれにあまり入り込まなかった。しかし、彼は偉大な老人だった。彼等がヘルマン・ワイルに話したなら、彼はコネクシュンについて及びリー群についてのすべてを彼等に話したであろう。彼がしなかったのは時代と時の偶然に過ぎなかったし、彼とヤンが接触をしなかったことを私は本当に不思議だと感じる。そのようにその機会は逃された。ところで同時に、ケィンブリッジでの私の同時代の人達の一人、ロナルド・ショーはこれに関する学位論文を書いた。彼は独立に理論を発見したが、彼の指導教官はそれが"発表するに値しない"と言った。かわいそうな野郎の彼はそれを決して発表しなかった。しかし、その時に理論に物理学的反対があり、それが理論をさほど人気ではないようにしたので理論は放棄された。人々が論文を再考したのは数年後だった。彼等はその用途、すなわち適切な物理的用途をまだ作らねばならなかった。それから論文は人気となった。だが、論文が再度取上げられたのはたぶん15年後、1970年代だった。それらの中断の間に彼等は違うことを追いかけていた。対称性、粒子表現、分類...を追いかけていた。彼等はかなり違う類のことをやっていて、ヤン–ミルズ理論は後にほっとかれた。理論が再浮上した時、それはシンガーと私が関連する数学をやっていたので私達は巻き込まれ、興味を持った時だった。だが、ヘルマン・ワイルはそれすべて、物理学と数学を知っており、物理学者達より早く彼がそこにいた。しかし、物理学者達は決して幾何学面を強調しなかった。

しかし、より不可思議に見せているミシンリンク[訳注: 普通のカタカナ表記ではミッシングリンク]が存在し、彼等は類似のオブジェクトを展開し、これを認識するために時間をかけたという印象を受けます。
えーっと、いいかね、物語はヘルマン・ワイルが磁力をアインシュタインの相対性理論と一緒にするためにゲィジ理論を使ったということだ。彼が論文を書く時に、ワイルがしていることが尺度の変化の生じる実直線バンドルを使って働いているので物理的に意味が無いとアインシュタインに指摘された。ゲィジ理論は尺度を扱うことであり、彼のアイディアは磁力場の中で径を歩き回るならば、事柄の長さと尺度を変えるだろうということだった。アインシュタインはこれを無意味だと言った。それが正しければ、水素原子は異なる歴史を持つであろうから、すべてが同じ質量を持たないであろう。これにもかかわらず、論文は発表された。これは私が面白いと思うことだ。ワイルはそれでも正しいと主張したから論文は発表され、アインシュタインの異議は付録として登場した。だからワイルはそのことについては分かっていたが、彼等が相の長さに新解釈を加えたのは僅か数年後(量子力学が登場した時)だった。その時に物理的異議は消え、理論は標準になった。現代的標準だ。その時までにワイルはその議題を残して立ち去ったから、それを実際にこれ以上はしなかった。だが、もちろん彼はそれが彼の理論全体であることを知っていた。非アーベリヤン版は彼の死後まで離陸しなかったけれども。もし彼がもっと長生きしたなら、彼が主要ミシンリンクになったであろう。

しかし、数学コミュニティの中でアーベリヤン理論が展開されていたことは興味深くもあります。
そう、しかし、それはほぼ必然的だ。ポイントはバンドルの理論がリーマン幾何学の支流であるということだ。それはリーマンとイタリヤン幾何学者達(微分幾何学、平行輸送)によって展開されていた。バンドルの超構造のため(実際簡単だ)ではなく、タンジェントバンドルのため、距離のためだ。距離の場合はもっと難しい。
アインシュタインが相対性理論を提示した時、微分幾何学者達から非常に大きな関心があった。あれは微分幾何学に大きな刺激を与えた。平行輸送は一般相対性の大部分だったから全く当然だった。新しかったことは空間に加えてヴェクトルバンドルを取ることだった。これが素晴らしかった。しかし、平行輸送の全概念は幾何学者達によく知られていたし、そのすぐ後でチャーンとヴェイユがそれをバンドル理論と特性類に持って来た。数学では非常に長い間これをやっていた。リーマンやベティの時からでさえ微分幾何学ではそれをやっていた。アインシュタインの相対性理論が微分幾何学に付箋を付け、ヤン–ミルズ理論がバンドル理論のためにそこに入って来た。

これが数学の全部だった。起きたことはシンガーと私がディラク方程式(物理学者達にとって非常に馴染みの微分方程式。スピン、スピノル、等々)にリンクを作ったことだ。それは以前には真剣にやられていなかった数学の新しい断片だった。誰がそれについて知っていたか? だから数学がいつもそこにあったと私は考える。物理学者達はここかしこと触ったに過ぎず、それから後で真剣に興味を持った。その時にヘルマン・ワイルが亡くなった。それは面白い話だが、人生の殆どの事柄のように事実の展開は貴方が期待するものでなはいし、後から回顧的に貴方がそれをして刈り取るものではない。貴方はそれを異なってしたであろう。ちょっと偶然的だ。その時代の流行、その時代の人々と彼等の個性に依存する。だから、いいかね、それは非常に面白い。予測出来ない。自動的ではない。ちょっとたまたまだ。

それらの興奮させる年月、貴方の貢献、貴方の共同研究者達及び貴方の学派の貢献の後、理論物理学の全容は大きく変わって来ています。例えば、モデュライ空間は今や物理学で偏在します。
そう、私達は先ずそれから始めたが、彼等は代数幾何学のもとに来て、私はそれらについて知った。だから物理学者達はその時に真剣に弦理論に興味を持ち、もっと数学的になった。彼等は他のすべての人達がやった膨大な量の数学を引き継いだ。私の学生達はドナルドソン理論に引き寄せられたので1970年代のその時期の後、相互作用が非常に増加し、影響を持って来た(今もなお)。物理学と数学はまだ互いに寄生している。

そのことについて貴方に訊きたかったのでした。現在、状況をどのように思いますか? 興奮させると貴方が思う事柄がありますか?
はい。もちろん、歳を重ねるにつれて起きていることについてちょっと疎くなる。私はそれに関して間接的に聞くようになっている。書かれている新しい論文のいくつかを読む。チャーン-シモンズ理論にいくらか発展がある。私が興味を持った話の一部分として、結び目理論等があり、ある程度それを理解しようと努める。今は少ないけれども。数学はしばしばより高級になる。導来キャティゴリのような、より抽象的な事柄がある。歳を食っている人達が嫌う事柄だ。しかし、相互作用はなおも大変親密で、数学と物理学の両方に今入り込んでいる全世代の人達がいる。彼等が物理学者なのか数学者なのか区別することが非常に困難だ。彼等は混合ハイブリッドだ。それは物理学者達が彼等を物理学者として見なしていない、そして数学者達が彼等を数学者として見なしていないから彼等はいくつかの問題を抱えていることを意味する。従って彼等が仕事を得ることが時には困難だ。貴方が魚でも鶏でもないなら誰が貴方に仕事を与えるのかと私は言いたい。しかし、これは非常に健全なことであり、弦理論のように、これらのハイブリッドなアイディアを奨励する中心施設がいくつかあると私は考える。だから、なおも非常に活発な分野であることは間違い無い。それは正確に物理学にとって何を意味するのか? 物理学と数学は近い関係性を持つが、違いがある。物理学は宇宙に対し唯一の解を探している一方で、数学は可能な宇宙または可能な理論すべてを探究している。だから私達は多くのアイディアを得る。それらのアイディアのいくつかは物理学では死んでいる(物理学者達は新しいアイディア好むので)が、数学者達にとってはそうではない。彼等はすべてのことに取組めるから違う種類の関係性だ。貴方は物理学について決して分からない。
私は自分自身のアイディアを持っている。現在起きていることを私は理解するが、ちょっと独立になろうと努めている。若い人達がしていることを正確に理解しようと努めることに利点は無いと私は考える。言わばもうちょっと型にはまらない、またはもうちょっとオリジナルな考えを持ちたい。ちょっと異端な新しいアイディアをもてあそんでいる。他の物理学者達が現在やっていることと違うことに私は取組んでいる。物理学において、最終理論があるのか、私達が最終理論の近くにいるのか、もっとはっきり言うとそれらが5年間に全く異なる見解になるのか、シリーズが発展してかなり急進的な変更になるのか、誰も分からないと私は言いたい。ただ今のアイディアのいくつかは吸収されるだろう、いくつかは追い出されるだろう、いくつかは変化するが数学がそれからすっかり利益を得るだろう、それがいい物理学か悪い物理なのか。それが数学的内容を持ち、数学者達は多くを学んで来ている。鏡対称性と弦双対性は物理学から来たアイディアだ。だからたくさんある。弦理論はたまたま20世紀に発見されて21世紀からは数学の分科であると言ったのはウィツンのプロパガンダだったと私は思う。それで、今や真価を発揮して、これが何の理論なのかあまりはっきりしないが、数学を変化させる新しいアイディアをもたらしている。私達は、あちこちら渦巻く風のように、アイディアの一種の激動の真っ只中にいる。貴方は起りつつあることを知らない。予言することは困難だし、貴方が予言出来るなら、それはつまらないものだと私はいつも言っているから貴方は予言してはいけない。面白い事柄は新しい発展であり、貴方がそれらを予言出来るなら、それらは余り興奮させるものではないであろう。従って、貴方は驚きの覚悟をすべきである。貴方は驚きを探すべきだ。時おり驚きがある。

私達がここで持っているコンファレンスで貴方がいかに活動的であるか私は非常に驚いています。貴方はまだ研究を考え生み出しています。この頃、貴方の日々を占めているのは何ですか、教えてください。
えーっと残念ながら、ちょうど今は私は歳老いていて、私の妻もより歳老いている。彼女は多くの問題を抱えている。私は妻の世話をする多くの時間を使わなければならない。それがどういう状況せよ私達にすっかり起きている。だから彼女が私の時間の75%を占めている。私がこのようなコンファレンスに来る時はかなり稀な出来事だ。私は休日を科学について語ることにしている。家にいる時、私は辛うじて生き延び、私のアイディアを議論するために一週間に1回か2回会う物理学友達を持っている。ここ一二年の間、ヒルツェブルフに関する伝記的記事を書くことに忙しい。またランドン数学会のためのもの、王立協会のためのものに関わっている(終わってないが、多くの私の時間を取上げている)。それは明らかに優先してやらねばならなかった。私がここにいる間にしなければならなかった。
他にも、追求しようと努めている馬鹿げたアイディアを持っている。最後までやり遂げるためには若い人を必要とする等の理由から、私は若い人達と話をする。そして彼等の一部は...えーっと、今年のコンファレンスはちょっとした事件だ。ずいぶん前にこれらのアイディアのいくつかに私は夢中だったからだ。そんなに多くの人達が実ヴェクトルバンドルに取組んでいるとは実感しなかった。だから私は入って来て、その全部ではなく、そのいくらかを理解出来ると分かった。そして、その多くが私が50年前に書いた論文から引き出されている。いいかね、それは変な体験だ。私はこの体験を今持っている。私はコンファレンスへ、このような大きな講義会場へ行く。入るのも出るのも非常に簡単だから私は最上席に座る。若い人達が最下段にいて、私と50年前の私の研究について忙しく話している。あたかも私の過去を見下ろしながら私が空の上で生活しているように感じる。私は浮上がり、どんどん天国へ近づく。それは時には非常に奇妙な体験だ。そこの人達は私がそこにいることさえも知らない(笑い)。また、いいかね、50年後に貴方が貴方自身の研究を振り返る時、貴方自身の論文を理解する困難を持つのだから、それは変な体験だ。貴方が若い時、理解が早くて速い。いいかね、私は私自身の論文を読もうと努力するが、それらがかなり難しい(笑い)。たとえ私がそれらを大体において知っていても、専門的事項のいくつかを忘れてしまっているし、今はそれを出来ないであろう。貴方が用心すべき前兆に関していくつか恐ろしい問題がある。だから、変な体験見学であり、いいかね、私が何年も前に終えた事柄がまだ生きていると分かることは非常に喜ばしいことだ。多くの場合、事柄はどんどん進み、人々がやっていることは忘れ去られるが、私が50年前にやった事柄のいくつかが若い人達によってまだ使用され、再発見または再展開され、新しい方向に押し進められている。だから非常に励みになる。すべての事柄を分かるとは言えないが、良い方向に進み、事柄を進歩させようと努めていることを理解出来る。

この特別なイヴェント(私は小規模のイヴェントを意味している)のためにここへ来たことは非常に素晴らしかった。私は他の会合にも行くが、そんなに多くの機会を持っていない。もちろん私は講義やセミナに行く。最近私はイツリ[訳注: 普通のカタカナ表記ではイタリアです]の祝祭に行った。イタリヤンは祝祭が好きで、そこでは音楽、詩、数学がある。非常に素晴らしく、多少混合文化だ。イタリヤンはこの種の事柄を好む。彼等は多くのそれをやる。リネィスンス[訳注: 普通のカタカナ表記ではルネサンスです]のアイディア! 私はロゥム、ミラン...へ行ったことがある。最後のものではネィポゥズ[訳注: 普通のカタカナ表記ではナポリです]の南部にいて、興味深い人達に会った。私がボリス・スパスキに会ったのはロゥムでのものだった思う。いいかね、チェスプレィヤだよ。私達はチェスやそれと類似のことについて話した。それから私は数学者でノゥベル経済学賞を取ったナッシュにも会った。彼はそこにいて、インタヴューを受けていた。彼がちょっとおかしかった時にプリンストンで彼をちょっと知ったが、今や彼は著しく健康を快復している。しかし、もちろん彼は老人だ。今は私よりも老けている。[このインタヴューが行われた時にナッシュはまだ生きていた]。

話す機会を持てたのですか?
はい。例えば彼の人生について、彼の人生から作った映画について彼がインタヴューを受けていて、私はそこにいた。それは面白かったが、もちろん悲しい事例だ。少なくとも彼は病気の年々から快復している。そうして、これらのイヴェントで興味深い人達に会う。もう一つのホゥテルで滞在した時に一人の男に会った。ブラジル人作家パウロ・コエーリョだ。彼は非常に有名だった。彼はたまたま私と同じパフォーマンスで同じ舞台で登場した。彼は数学について興味を持たなかった。彼は大物だった。そう、そうして人々の面白い混合に会う。音楽家、詩人...

数学と美の間の関係について最近論文を書いていましたね?
私が共同研究する人達の中に一人の友人がいる。彼は神経生理学者だ。しかし、私と同じく彼はレバノン人だ。彼がレバノン生まれだから私達はレバノン料理を一緒に作り、顔を合わせ、しばらくの間議論をしている。彼は芸術に大変興味を持っている。彼は芸術と視覚、すなわち画家が達成しようと努めていることと芸術を比較して何のプロセスが脳の中で起きているかに関する本を書いている。彼がスキャニングするので、私達は数学に関する次の質問に入った。私が彼に質問した。いいかね、人々が数学について考える時に脳の中で何が起きているのか。そして私達はそれについて書いた。だから私達は前から研究していた。最も最近のものが美についてだった。数学者達が美について語る時、彼等が意味することを知っているが、芸術や音楽で見るような美の種類と同じなのか? 同じ生理学的現象なのか? そして基本的に彼がティームと一緒にやった実験は、同種類であり、数学での美、芸術での美、他の分野での美を語っているにかかわらず、明るくなる脳の共通部分が存在することを示している。もちろん他の脳の部分は状況に依存して明るくなる。共通部分がある。だから美という抽象概念が脳の中で組立てられ、数学、または絵画、または音楽を語るにかかわらず、共通体験なのだ。従って美という語を使うことは正しい。

そうして貴方は数学と他の芸術との間のリンクを体験して来ているのですね?
まぁ、私達皆が美の意味することを分かっている。音楽や芸術を通してそれを認識する。私達はまた数学においてもそれを認識する方法を知っており、私はそれらが同じだと考えるが、非常に客観的かどうかは分からない。今は証明、それが主観的ではないという科学的証明がある。美の概念は生理学的に同じ種類の体験に基づく。だから私達がこの論文を書いた時、それが世界中で直ぐに有名になった。New York TimesLondon Timesやマデュリドでのものに記事があった。すべての人はそれが言っていることを理解出来た。だから論文はすぐに非常に有名になった。正統派の野郎達にとって、これらの種類の事柄はあまり受入れられない傾向にあるから、私達はもともと論文を発表してもらう困難があった。もちろん一般大衆にとっては魅力的だ。

それで、音楽の素晴らしい部分を聞くか演奏することと同様に美しい定理を見るか証明することで人々が感動出来ると貴方は思いますか?
はい、絶対に。明らかにそれらは異なるが、例えば音楽と絵描きを比較すれば、それらは同じではないと私は言いたい。それらの間に大きな差があるが、芸術鑑賞に対する共通する側面があると私は思う。

しかし、数学についてはもっと困難でしょう?
そう、もっと困難だが、それが問題の核心全体だ。語が正しく使用されているのか確信が無いが、数学者として美の意味することを私達は分かっており、数学での美は音楽での美と類似点があると私は思う。それらは同じではないが、類似する。それについては間違いない。私達は本当に美しい定理が何であるか知っている(笑い)。それは主観的感覚であるが、真実だ。ここにヘルマン・ワイルが書いた次の引用がある。"私の人生の殆どで私の2つの目標は真実と美を探すことだったが、確信を持てない時に私はいつも美を選んだ"。今日人々はこれを馬鹿げていると思うが、何故真実について心配すべきなのか? もっとはっきり言えば、いいかね、私は以下のことを論じる。真実は決してたどり着かないものだ。真実を探している間に他のことを見つける。貴方がその瞬間に得ているものは真実らしきものだ。部分的な真実だ。それは幻覚ですらあるかも知れない。しかし、美は主観的で即席の体験だ。いいかね、貴方は美を見る。私は美が貴方を真実へ案内する松明だと言いたい。貴方はそれが見える。それが明かりを投げている。それが方向を見せている。貴方はそれに従う。体験が美しい事柄は真実の結果につながることを示している。だから、それが真実と美の間の興味深い関係だと私は思う。ヘルマン・ワイルはそれに賛成したであろうと思う。人々はそれが冗談だったと言うが、彼はそれを意味したと私は確信する。

美について語れば、私達はもうすぐディナです。
はい(笑い)。

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了解です。よろしい。大変ありがとう。
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はい、私もこのインタヴューすべてを語ることを楽しかった。
大変有難うございました、マイケル。

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