随分前に、代数構造もしくは代数系に関する講義を担当した友人が定期考査、多分夏休みの前か終了直後に行われる中間考査だと思いますが、以下の問題を出題したことがありました。
(問題)
有理整係数の多項式は任意の素数を法とする既約多項式の因子に一意分解されることを証明せよ。
解答自体は殆ど自明で、友人も受講者全員が解答出来るであろうと見込んで出題しており、解答そのものよりも、この出題の内容の事実を講義で言及出来なかったので、こういう事実を知っておいて欲しいということで出題したようです。
ここで初学者のために解答例を書いておきます。
(解答例)
有理整数環Zは単項イデアル域だから、任意の素数pが極大素イデアル(p)を生成する。従って、剰余環Z/(p)は可換体であり、多項式環(Z/(p))[x]は単項イデアル域である。単項イデアル域においては素因子分解の一意性が保証されているから、議題は証明された。
ごらんの通り、数学的センスも考察も何もいらないです。強いて言えば、単なるロジックの連鎖だけが必要です。しかし、友人によれば思ったほど正解率がよくなく、"素数を法とする既約多項式の因子に一意分解される"の意味を理解出来なかったのではなかろうかと言っておりました。
ここで少しばかり解説します。簡単のため、素数2を法とします。法2に関して、1次の既約多項式はx、x+1だけであり、2次の既約多項式はx2+x+1だけです。ここで、x2+1は既約じゃないのかとちょっとでも思った人は全く問題を理解していません。法2ですから2x≡0であり、x2+1≡x2+2x+1≡(x+1)2なので、既約ではありません。同様にx3+x2+x+1も既約ではありません(x3+x2+x+1=(x+1)(x2+1)だから、もともと既約でないことは誰でもすぐに分かりますが、法2のもとでの素因子分解はx3+x2+x+1≡(x+1)3であることに注意)。
では、何故こういった事実を知っておいた方がいいのか? 有理整係数の多項式の既約性を推論する時、特殊な場合(例えばアイゼンシュタインの判定法を適用出来る場合等)を除いて、一般的には低次の既約多項式で割ってみることが普通です。次数を定めても、Z[x]が無限個なのに対して(Z/(p))[x]は有限個なのですから、その中で低次の既約多項式を考える方が楽なのは当たり前です。そして、(Z/(p))[x]で既約ならばZ[x]においても既約です。但し、(Z/(p))[x]で既約でないからと言って、Z[x]で既約でないとは限りません。その場合は、法とする素数をいろいろ変えてみるという手段もあります。
以上のことを長々と書いたのは、定期考査の問題を解答出来た、出来なかったで終わらせずに、講義の補講的な意味合いの出題もあるから、しっかり問題を憶えておき、試験終了直後にノートに書いておくことをお勧めしたいからです。教官は学生達が思っている以上に教育的な配慮を考えているものなんです。自慢じゃありませんが、私はノートに問題を忘れない間に記入した後で、時間制限のある試験で書いた自分の解答に不満足だと思ったものについて、新たな解答をレポートに書いて先生に見てもらったことが何回もあります。それが成績に反映するなんて下心は一切ありませんでしたし、先生もそのことを最初に断っていました。ただ純粋に自分の好奇心を満足させるだけのためだったし、そのことは私の友人共皆が知っていましたから、誰も文句を言いませんでした。私のような凡才はこれくらいのことをやって当たり前なんです。なんせ周囲を見渡せば天才かと思うような人達が多くいましたから(それでも、所詮日本国内における天才度に過ぎず、世界規模で見れば大したことはありません。そのことは海外との交流を深めるといやと言うほど実感出来るはず)。
さて、話は変わります。昨年は公私共に多忙で、一時期は体調も悪く、この"私訳"シリーズにおいて一編も紹介出来ませんでした。やっと年末年始で一息ついたので、紹介するネタを探していましたら、あのアンドレ・ヴェイユ博士の御長女であるシルヴィ・ヴェイユ女史が何とAMS Noticesの一月号に寄稿しているではありませんか。これは私にはちょっと驚きでした。と言うのは、志村五郎博士の"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"の追加箇所を読んでいただければ分かる通り、志村博士とシルヴィ・ヴェイユ女史との間に良く分からない理由で不和が生じました。しかし、これはNoticesの担当編集者に責任があったことは明白です。ですから、シルヴィ女史がNoticesに寄稿することは志村博士と和解出来たのだと私は楽観しています。なお、原文は"My Father André Weil"(PDF)です。以下の私訳において原文にある注釈を省いていますが、インデックスの番号はそのままです。
[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2018年01月09日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
わが父アンドレ・ヴェイユ
2018年1月 シルヴィ・ヴェイユ
1998年8月6日の父の死から約20年経過しているが、それでも彼は時々私を呼ぶ: "シルヴィ、ここから出してくれ、退屈だ"(彼が使う仏語の言葉はとても丁寧ではない)。
ユダヤ人の伝統に従って、アンドレは永遠に研究仲間をあてがわれたと私は確信する。この仲間とは誰なのと訊いたことがあった。"オイラー"と彼は答えて笑った。彼が私を呼び、退屈だと言う時、私は訊く: "オイラーはどうしたの? 彼も退屈なの?"
父は退屈や時間の浪費ほど恐いものはなかった。すべての瞬間が有用に、または愉快に費やされなければならなかった。父から10代の私宛の手紙をまだ持っている。彼はとてつもない計画を勧めた: エウリピデスとソフォクレスを毎晩読み、毎木曜日はルーブル美術館またはコメディ・フランセーズで、毎日曜日の午後はベートーヴェンを聞くためにサル・プレイエルで...。これらの手紙の観念主義は私を笑わせるが、15歳の私はただ楽しい時を過ごしたかったから、私が覚えた嫌な罪悪感を復活させる。
父と一緒の食事は少しストレスを感じたようだ: 私達は"面白い"トピックスの会話をすることになっていた。ジャン・ラシーヌの、あるいは、もっと良いのはウェルギリウスの数節を暗唱することは上手くいったものだった。しかし、批判を避けることは困難だった: "かわいそうな娘よ、それらはお前にラテン語の数節の正しい発音を教えているのかい?"が大抵アンドレの反応だろう。だが、彼の計画は必ずしも厳しいだけのものではなかった。サタジット・レイや黒澤明の映画を好んだ。水泳、アイススケート...を好んだ。また彼はかなり演劇を出来た(図2を見よ[訳注: このエッセイの図はすべて写真ですので、原文を見て下さい])。妹と私が子供だった時、彼は私達にモリエールのコメディを読み聞かせ、私達を喜ばせる裏声を装いながら若い純情娘を演じるのが上手かった。
多くの場合、一流数学者達の一人であるのみならず、傲慢で皮肉的で脅迫的であるという世界的評判を受けた父の許で成長することは特典だと私は感じた。あまりにも恐ろしいので博士研究員達は私に宿題を持たせ、偉大な男のムードを検査するために彼のオフィスに送り込んだものだった。彼が私に怒鳴るのを聞けば、博士研究員達は姿を消すだろう!
幼年時代の一つの思い出をとてもかぐわしくしているのはまさにアンドレの傲慢の評判である: 恐ろしく傲慢な数学者アンドレ・ヴェイユ、パジャマにさっと羽織られるレインコート、雨の中を外に出て、米国西部のどこかのみすぼらしいモーテルのぼんやり照らされた中庭を走り回り、各戸をノックして25セントを必死に物ごいする。2つの軋むベッドがある私達のひどい部屋で、母、妹と私はコインを使い果たした時、コイン式テレビを見ていた。アンドレは自身の試みが失敗し、私達は耳が不自由になっていく若くて美しいヒロインに何が起きたのか知らないこととなった。
2008年、シモーヌ・ヴェイユの100周年が近づくにつれて、彼女に関する大量の本が刊行されるだろうことが明らかになっていた。全く見知らぬ人が"おお、貴女は実に彼女に似ている!"と言いながら、私に遠慮なく近づき、触り、キスさえもしたので、私は長らく"聖女の姪"("遺品"の一種と人は言うかも知れいないが)といういかがわしい役目を演じていた。今や他の誰もが書けない本を書くべき時だった。
もちろんシモーヌはアンドレよりもずっと有名だ。大抵の人々は数学よりも哲学的、政治的、神秘的な書物を読めるか、少なくともそう思っている! そして、そうだ、多くの目には彼女は聖女だった!
しかし、アンドレのことを書かないことは不公平だと思った。特に私はいつもアンドレとシモーヌを異様な双子の組だ(図3)と見なしていたから、バランスの問題だった。
聖女であることに加えて、叔母は私の父の分身だった。彼女は彼と双子のように似ていた。私は彼女と非常に似ていたから、私にとってぞっとする分身だ。私は父の分身に似ていた1。
もちろん、この類似は私達の関係に影響した。アンドレは子供達を溺愛する母親によってシモーヌがあまりにも過保護だったと思っていたから、私自身の自立を奨励した! 例えば、私が12歳だった時、祝日に親戚と合流するために私はフランスを横断旅行しなければならなかった。これは列車の乗り換えを3回含んだ。アンドレは3つの駅の駅長に手紙を書き、私に会って手助けするように頼んだ。各駅で私は駅長が私を見なかったことを確認し、自分で列車を乗り換えた。家に戻ると、私は父に話した。彼は非常に喜んだ。"私は父としての義務を果たし、お前は娘としての義務を果たした"と彼は言った。
私が本の中でしたかったことは伝記を書くことではなく、"ヴェイユの空間"を奪回、再構築することだった。はばかりながら、再び本の中から一章を引用しよう。この章のタイトルは"ユークリッドの美しさ"だ。
私はシモーヌのノートの一つを研究した:
"現代数学者の公理システム。彼等は何を探しているのか? その使い方を理解せずに彼等は数学をしている。
(アンドレに質問する: 彼が成功する時、彼は喜びを感じるのか、それとも美的歓喜なのか?)"
私はこれを読んだ...そして、突然訳も分からずに、素晴らしいと感じた。その丸かっこは小さな家族の再会を隠している。そして、その家族は私のものだ...。
私は台所における昼食を想像した。私の祖母のスペシャルな塩漬けキャベツ、リーズリングの結構なボトル、シモーヌとアンドレの会話。アンドレがたまに私に話したように、彼は妹に数学は科学でなく芸術だと話したのか? 彼が後によく書いたように、驚くほど互いに引続き、互いから生じる実験思考の喜びは数時間、いや数日さえも継続するのだから性的喜びよりも勝ると彼は彼女に話したのか?
1938年のブルバキ会議の間に取られた写真(図4)は、高揚して派手にベルを鳴らしている父を見せている。シモーヌはそこにおり、とても真剣にノートの方へ身をかがめている! この写真は私が生まれるずっと前に取られたが、私の子供時代を取り囲んだキャラクターの出演者達だった。ブルバキ集団2は熱情的で観念論的であり、ある程度まで無私であって、彼等の解説書をニコラ・ブルバキ, ナンカゴ大学(ナンシー-シカゴ)と署名していた。
だが、ブルバキ集団の無私の観念論的情熱は大声で話すこと常としていた! アルプスの小さなホテルで無名の会議があり、その時これらの紳士達が互いを怒鳴りあい、それが余りにも狂暴的なのでホテル管理人は誰かが殺されるだろうことを恐れて、憲兵隊を呼んだ。
アンドレの一番最初の情熱は数学ではなく、クローケーだったらしいことを言及しなければならぬ。これはおそらく幾何学に対する情熱となった。私の祖母セルマはユーモラスに、だが誇らしげに友人宛の手紙の中で、このシフトを宣言している。アンドレはたった7歳だった。
私はアンドレの激しい性質は伝統的な作法を除いて、彼の流儀の妨げにならなかったと思う。かって、プリンストンでのコンサートの間に騒動があった。つまり、アンドレの前に座っている人が担架で運び去られた。コンサートは再開したが、人々はざわめいた。私の父は腹を立てて人々に静かにしろと要求した。一人の婦人が彼に"ねぇ、あの男は死んだのよ!"とつぶやいた。"それがどうした! モーツァルトを聞いている間に死ぬことよりも悪いことがある!"とアンドレは言い返した。そして、それがまさに彼自身の願いだった。つまり、モーツァルトを聞きながら死ぬこと。残念ながら、私はそれをアレンジ出来なかった。
1938年の楽しいブルバキ会議の翌年、第二次世界大戦が始まった。1939年11月のヘルシンキでの父の逮捕は良く知られている。その物語のロルフ・ネヴァンリンナ版はネヴァンリンナがアンドレをロシアのスパイとして射殺されることからどのように救ったかを語っている。スウェーデン、デンマーク、英国の様々な刑務所に移送された後に、軍隊徴兵に答えなかったためフランスで投獄された。
私が本を書いていた時に、文書箱の中に小さな紙の1枚を見つけた。私はすぐにそれを"家族写真"と呼んだ。4つの短い文、4つの手書き、すべてが私にとって馴染み深いもので、もっと言えば、現実の人々だ。手紙で5番目の人物が大きい天然紺色ジグザグ、つまり間違いなく刑務所監督官として登場する。1940年2月にアンドレはルーアン刑務所にいる。家族は彼に面会に来ており、担当守衛は家族の入場を拒んでいる。誰の訪問も無い。祖母セルマが度胸で説得力のある非難をするのを私は想像する。守衛は説得されて、手紙を受け取るだろう。4人はカフェに行く。刑務所からの通りにはいつもカフェがある。彼等は各々文を書く。最初に3つの青色の文が来る。つまり、セルマ、シモーヌ、そして私の母エヴェリーネ。おそらく母のペンだ。私の祖父は青色のインクで書くことを拒み、カフェからペンを借りるのだろう。彼の文は黒色のインクで書かれている。
各人が快適に見えるように、おそらくカムフラージュを感じながら笑みを浮かべようと努力したであろうから、集合写真があったであろう。これら4つの文にはカムフラージュが無い! 必然的に簡単であるけれども、各々がキャラクターに絶対的真実であり、各人がアンドレと持っている感情的な関係を見せている。セルマとエヴェリーネは愛情の表現で競い合い、シモーヌは兄が詩を書き、美しい定理を思いついていることを希望する。ベルナルトは女性陣より感情を抑えているが、彼等がアンドレとすぐに再会する喜びを持つだろうことを希望する。この紙切れから私はヴェイユ家全体を構築出来た。あたかも私がそこにいたかのように。
どのように終結したのか? 数ヶ月後、アンドレは裁判で宣告され、軍隊に行った(図5を見よ)。それから英国に退去させられた。
1994年、父は京都賞を授与された。私は日本へ彼に同伴した。日本は私にとって神秘的な所であり、妹と私が少女だった時にアンドレによって描かれた想像上の国だった。1955年の日本での滞在の後、彼は日本にとりつかれて戻った。彼は私達にお辞儀すること、箸で食事すること、小さなバスタオルを使用することを教えた。電話が鳴った時、私達はそれを取り上げるために急いで行き、もしもしと答えたものだった。"日本では自分の感情を出してはならない。無礼である。いつも笑みを浮かべるべきだ"とアンドレは説明した。私達はくすくす笑いを手で隠して礼儀正しさを実践した。私達は日本人だった。
今や私は父と一緒に京都にいた。最初の二晩、私達は贅沢なホテル(彼は軽蔑した)を出て、ホテルのメイドから勧められた控えめなレストランで夕食に出た。私達は暗い小さな通りをゆっくり下りながら、アンドレは私達が目にしていることのいくつかを説明し、コメントしたが、私の子供時代の想像上の日本に私が戻ったように感じた。
アンドレは黒澤明に会って幸せだった。"私は貴方よりも大きな利点を持つ。私は貴方の業績を愛し、崇拝出来る一方で、貴方は私の業績を愛せないし、崇拝出来ない"と彼は有名な監督に言った。何人かはこれを皮肉を込めた賛辞だと思った。彼等は間違っていた。アンドレは全く正直だった。
東京での最後の朝、私達を皇居に連れて行くタクシーを待ちながら、静寂は気が滅入り、アンドレは退屈になった。黒澤の方を振り返って"天皇は貴方の映画のようなのか?"と言った。短い沈黙があり、それから小さくお辞儀して返答が来た: "天皇は偉大な皇帝です"。
京都では絶え間無いセレモニーがあった。これらは"履行"を要求した。だが、今やアンドレは歳老いた。彼は演じることも、お辞儀もしたくなかった。彼はもはや日本人でありたくなかった。私は彼を管理していた。ときおり私が文楽の人形使いで、彼が私の人形のように感じた! 時々、美しい日本仮面、もしくは(笑いも礼儀正しくもしたくない)老いた父に対する恐ろしい赤くて金色の悪魔の仮面を手に入ればなぁと思った。
結局、彼は仮面を必要としなかった。私は京都賞の3人の受賞者の公式写真を見ている(図6)。黒澤の少しおかしそうなよそよそしい小さな笑顔、背が高く恰幅の良いアメリカ人科学者の満面の笑み。そして、2人の巨人の間に押し込まれた歳老いた小人、アンドレは最後の勝利を得ている。彼は積み重ねた手から彼の手、力強くて立派な手を引き離している。彼は自由だ!
(問題)
有理整係数の多項式は任意の素数を法とする既約多項式の因子に一意分解されることを証明せよ。
解答自体は殆ど自明で、友人も受講者全員が解答出来るであろうと見込んで出題しており、解答そのものよりも、この出題の内容の事実を講義で言及出来なかったので、こういう事実を知っておいて欲しいということで出題したようです。
ここで初学者のために解答例を書いておきます。
(解答例)
有理整数環Zは単項イデアル域だから、任意の素数pが極大素イデアル(p)を生成する。従って、剰余環Z/(p)は可換体であり、多項式環(Z/(p))[x]は単項イデアル域である。単項イデアル域においては素因子分解の一意性が保証されているから、議題は証明された。
ごらんの通り、数学的センスも考察も何もいらないです。強いて言えば、単なるロジックの連鎖だけが必要です。しかし、友人によれば思ったほど正解率がよくなく、"素数を法とする既約多項式の因子に一意分解される"の意味を理解出来なかったのではなかろうかと言っておりました。
ここで少しばかり解説します。簡単のため、素数2を法とします。法2に関して、1次の既約多項式はx、x+1だけであり、2次の既約多項式はx2+x+1だけです。ここで、x2+1は既約じゃないのかとちょっとでも思った人は全く問題を理解していません。法2ですから2x≡0であり、x2+1≡x2+2x+1≡(x+1)2なので、既約ではありません。同様にx3+x2+x+1も既約ではありません(x3+x2+x+1=(x+1)(x2+1)だから、もともと既約でないことは誰でもすぐに分かりますが、法2のもとでの素因子分解はx3+x2+x+1≡(x+1)3であることに注意)。
では、何故こういった事実を知っておいた方がいいのか? 有理整係数の多項式の既約性を推論する時、特殊な場合(例えばアイゼンシュタインの判定法を適用出来る場合等)を除いて、一般的には低次の既約多項式で割ってみることが普通です。次数を定めても、Z[x]が無限個なのに対して(Z/(p))[x]は有限個なのですから、その中で低次の既約多項式を考える方が楽なのは当たり前です。そして、(Z/(p))[x]で既約ならばZ[x]においても既約です。但し、(Z/(p))[x]で既約でないからと言って、Z[x]で既約でないとは限りません。その場合は、法とする素数をいろいろ変えてみるという手段もあります。
以上のことを長々と書いたのは、定期考査の問題を解答出来た、出来なかったで終わらせずに、講義の補講的な意味合いの出題もあるから、しっかり問題を憶えておき、試験終了直後にノートに書いておくことをお勧めしたいからです。教官は学生達が思っている以上に教育的な配慮を考えているものなんです。自慢じゃありませんが、私はノートに問題を忘れない間に記入した後で、時間制限のある試験で書いた自分の解答に不満足だと思ったものについて、新たな解答をレポートに書いて先生に見てもらったことが何回もあります。それが成績に反映するなんて下心は一切ありませんでしたし、先生もそのことを最初に断っていました。ただ純粋に自分の好奇心を満足させるだけのためだったし、そのことは私の友人共皆が知っていましたから、誰も文句を言いませんでした。私のような凡才はこれくらいのことをやって当たり前なんです。なんせ周囲を見渡せば天才かと思うような人達が多くいましたから(それでも、所詮日本国内における天才度に過ぎず、世界規模で見れば大したことはありません。そのことは海外との交流を深めるといやと言うほど実感出来るはず)。
さて、話は変わります。昨年は公私共に多忙で、一時期は体調も悪く、この"私訳"シリーズにおいて一編も紹介出来ませんでした。やっと年末年始で一息ついたので、紹介するネタを探していましたら、あのアンドレ・ヴェイユ博士の御長女であるシルヴィ・ヴェイユ女史が何とAMS Noticesの一月号に寄稿しているではありませんか。これは私にはちょっと驚きでした。と言うのは、志村五郎博士の"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"の追加箇所を読んでいただければ分かる通り、志村博士とシルヴィ・ヴェイユ女史との間に良く分からない理由で不和が生じました。しかし、これはNoticesの担当編集者に責任があったことは明白です。ですから、シルヴィ女史がNoticesに寄稿することは志村博士と和解出来たのだと私は楽観しています。なお、原文は"My Father André Weil"(PDF)です。以下の私訳において原文にある注釈を省いていますが、インデックスの番号はそのままです。
[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2018年01月09日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
わが父アンドレ・ヴェイユ
2018年1月 シルヴィ・ヴェイユ
1998年8月6日の父の死から約20年経過しているが、それでも彼は時々私を呼ぶ: "シルヴィ、ここから出してくれ、退屈だ"(彼が使う仏語の言葉はとても丁寧ではない)。
ユダヤ人の伝統に従って、アンドレは永遠に研究仲間をあてがわれたと私は確信する。この仲間とは誰なのと訊いたことがあった。"オイラー"と彼は答えて笑った。彼が私を呼び、退屈だと言う時、私は訊く: "オイラーはどうしたの? 彼も退屈なの?"
父は退屈や時間の浪費ほど恐いものはなかった。すべての瞬間が有用に、または愉快に費やされなければならなかった。父から10代の私宛の手紙をまだ持っている。彼はとてつもない計画を勧めた: エウリピデスとソフォクレスを毎晩読み、毎木曜日はルーブル美術館またはコメディ・フランセーズで、毎日曜日の午後はベートーヴェンを聞くためにサル・プレイエルで...。これらの手紙の観念主義は私を笑わせるが、15歳の私はただ楽しい時を過ごしたかったから、私が覚えた嫌な罪悪感を復活させる。
父と一緒の食事は少しストレスを感じたようだ: 私達は"面白い"トピックスの会話をすることになっていた。ジャン・ラシーヌの、あるいは、もっと良いのはウェルギリウスの数節を暗唱することは上手くいったものだった。しかし、批判を避けることは困難だった: "かわいそうな娘よ、それらはお前にラテン語の数節の正しい発音を教えているのかい?"が大抵アンドレの反応だろう。だが、彼の計画は必ずしも厳しいだけのものではなかった。サタジット・レイや黒澤明の映画を好んだ。水泳、アイススケート...を好んだ。また彼はかなり演劇を出来た(図2を見よ[訳注: このエッセイの図はすべて写真ですので、原文を見て下さい])。妹と私が子供だった時、彼は私達にモリエールのコメディを読み聞かせ、私達を喜ばせる裏声を装いながら若い純情娘を演じるのが上手かった。
多くの場合、一流数学者達の一人であるのみならず、傲慢で皮肉的で脅迫的であるという世界的評判を受けた父の許で成長することは特典だと私は感じた。あまりにも恐ろしいので博士研究員達は私に宿題を持たせ、偉大な男のムードを検査するために彼のオフィスに送り込んだものだった。彼が私に怒鳴るのを聞けば、博士研究員達は姿を消すだろう!
幼年時代の一つの思い出をとてもかぐわしくしているのはまさにアンドレの傲慢の評判である: 恐ろしく傲慢な数学者アンドレ・ヴェイユ、パジャマにさっと羽織られるレインコート、雨の中を外に出て、米国西部のどこかのみすぼらしいモーテルのぼんやり照らされた中庭を走り回り、各戸をノックして25セントを必死に物ごいする。2つの軋むベッドがある私達のひどい部屋で、母、妹と私はコインを使い果たした時、コイン式テレビを見ていた。アンドレは自身の試みが失敗し、私達は耳が不自由になっていく若くて美しいヒロインに何が起きたのか知らないこととなった。
2008年、シモーヌ・ヴェイユの100周年が近づくにつれて、彼女に関する大量の本が刊行されるだろうことが明らかになっていた。全く見知らぬ人が"おお、貴女は実に彼女に似ている!"と言いながら、私に遠慮なく近づき、触り、キスさえもしたので、私は長らく"聖女の姪"("遺品"の一種と人は言うかも知れいないが)といういかがわしい役目を演じていた。今や他の誰もが書けない本を書くべき時だった。
もちろんシモーヌはアンドレよりもずっと有名だ。大抵の人々は数学よりも哲学的、政治的、神秘的な書物を読めるか、少なくともそう思っている! そして、そうだ、多くの目には彼女は聖女だった!
しかし、アンドレのことを書かないことは不公平だと思った。特に私はいつもアンドレとシモーヌを異様な双子の組だ(図3)と見なしていたから、バランスの問題だった。
聖女であることに加えて、叔母は私の父の分身だった。彼女は彼と双子のように似ていた。私は彼女と非常に似ていたから、私にとってぞっとする分身だ。私は父の分身に似ていた1。
もちろん、この類似は私達の関係に影響した。アンドレは子供達を溺愛する母親によってシモーヌがあまりにも過保護だったと思っていたから、私自身の自立を奨励した! 例えば、私が12歳だった時、祝日に親戚と合流するために私はフランスを横断旅行しなければならなかった。これは列車の乗り換えを3回含んだ。アンドレは3つの駅の駅長に手紙を書き、私に会って手助けするように頼んだ。各駅で私は駅長が私を見なかったことを確認し、自分で列車を乗り換えた。家に戻ると、私は父に話した。彼は非常に喜んだ。"私は父としての義務を果たし、お前は娘としての義務を果たした"と彼は言った。
私が本の中でしたかったことは伝記を書くことではなく、"ヴェイユの空間"を奪回、再構築することだった。はばかりながら、再び本の中から一章を引用しよう。この章のタイトルは"ユークリッドの美しさ"だ。
私はシモーヌのノートの一つを研究した:
"現代数学者の公理システム。彼等は何を探しているのか? その使い方を理解せずに彼等は数学をしている。
(アンドレに質問する: 彼が成功する時、彼は喜びを感じるのか、それとも美的歓喜なのか?)"
私はこれを読んだ...そして、突然訳も分からずに、素晴らしいと感じた。その丸かっこは小さな家族の再会を隠している。そして、その家族は私のものだ...。
私は台所における昼食を想像した。私の祖母のスペシャルな塩漬けキャベツ、リーズリングの結構なボトル、シモーヌとアンドレの会話。アンドレがたまに私に話したように、彼は妹に数学は科学でなく芸術だと話したのか? 彼が後によく書いたように、驚くほど互いに引続き、互いから生じる実験思考の喜びは数時間、いや数日さえも継続するのだから性的喜びよりも勝ると彼は彼女に話したのか?
1938年のブルバキ会議の間に取られた写真(図4)は、高揚して派手にベルを鳴らしている父を見せている。シモーヌはそこにおり、とても真剣にノートの方へ身をかがめている! この写真は私が生まれるずっと前に取られたが、私の子供時代を取り囲んだキャラクターの出演者達だった。ブルバキ集団2は熱情的で観念論的であり、ある程度まで無私であって、彼等の解説書をニコラ・ブルバキ, ナンカゴ大学(ナンシー-シカゴ)と署名していた。
だが、ブルバキ集団の無私の観念論的情熱は大声で話すこと常としていた! アルプスの小さなホテルで無名の会議があり、その時これらの紳士達が互いを怒鳴りあい、それが余りにも狂暴的なのでホテル管理人は誰かが殺されるだろうことを恐れて、憲兵隊を呼んだ。
アンドレの一番最初の情熱は数学ではなく、クローケーだったらしいことを言及しなければならぬ。これはおそらく幾何学に対する情熱となった。私の祖母セルマはユーモラスに、だが誇らしげに友人宛の手紙の中で、このシフトを宣言している。アンドレはたった7歳だった。
私はアンドレの激しい性質は伝統的な作法を除いて、彼の流儀の妨げにならなかったと思う。かって、プリンストンでのコンサートの間に騒動があった。つまり、アンドレの前に座っている人が担架で運び去られた。コンサートは再開したが、人々はざわめいた。私の父は腹を立てて人々に静かにしろと要求した。一人の婦人が彼に"ねぇ、あの男は死んだのよ!"とつぶやいた。"それがどうした! モーツァルトを聞いている間に死ぬことよりも悪いことがある!"とアンドレは言い返した。そして、それがまさに彼自身の願いだった。つまり、モーツァルトを聞きながら死ぬこと。残念ながら、私はそれをアレンジ出来なかった。
1938年の楽しいブルバキ会議の翌年、第二次世界大戦が始まった。1939年11月のヘルシンキでの父の逮捕は良く知られている。その物語のロルフ・ネヴァンリンナ版はネヴァンリンナがアンドレをロシアのスパイとして射殺されることからどのように救ったかを語っている。スウェーデン、デンマーク、英国の様々な刑務所に移送された後に、軍隊徴兵に答えなかったためフランスで投獄された。
私が本を書いていた時に、文書箱の中に小さな紙の1枚を見つけた。私はすぐにそれを"家族写真"と呼んだ。4つの短い文、4つの手書き、すべてが私にとって馴染み深いもので、もっと言えば、現実の人々だ。手紙で5番目の人物が大きい天然紺色ジグザグ、つまり間違いなく刑務所監督官として登場する。1940年2月にアンドレはルーアン刑務所にいる。家族は彼に面会に来ており、担当守衛は家族の入場を拒んでいる。誰の訪問も無い。祖母セルマが度胸で説得力のある非難をするのを私は想像する。守衛は説得されて、手紙を受け取るだろう。4人はカフェに行く。刑務所からの通りにはいつもカフェがある。彼等は各々文を書く。最初に3つの青色の文が来る。つまり、セルマ、シモーヌ、そして私の母エヴェリーネ。おそらく母のペンだ。私の祖父は青色のインクで書くことを拒み、カフェからペンを借りるのだろう。彼の文は黒色のインクで書かれている。
各人が快適に見えるように、おそらくカムフラージュを感じながら笑みを浮かべようと努力したであろうから、集合写真があったであろう。これら4つの文にはカムフラージュが無い! 必然的に簡単であるけれども、各々がキャラクターに絶対的真実であり、各人がアンドレと持っている感情的な関係を見せている。セルマとエヴェリーネは愛情の表現で競い合い、シモーヌは兄が詩を書き、美しい定理を思いついていることを希望する。ベルナルトは女性陣より感情を抑えているが、彼等がアンドレとすぐに再会する喜びを持つだろうことを希望する。この紙切れから私はヴェイユ家全体を構築出来た。あたかも私がそこにいたかのように。
どのように終結したのか? 数ヶ月後、アンドレは裁判で宣告され、軍隊に行った(図5を見よ)。それから英国に退去させられた。
1994年、父は京都賞を授与された。私は日本へ彼に同伴した。日本は私にとって神秘的な所であり、妹と私が少女だった時にアンドレによって描かれた想像上の国だった。1955年の日本での滞在の後、彼は日本にとりつかれて戻った。彼は私達にお辞儀すること、箸で食事すること、小さなバスタオルを使用することを教えた。電話が鳴った時、私達はそれを取り上げるために急いで行き、もしもしと答えたものだった。"日本では自分の感情を出してはならない。無礼である。いつも笑みを浮かべるべきだ"とアンドレは説明した。私達はくすくす笑いを手で隠して礼儀正しさを実践した。私達は日本人だった。
今や私は父と一緒に京都にいた。最初の二晩、私達は贅沢なホテル(彼は軽蔑した)を出て、ホテルのメイドから勧められた控えめなレストランで夕食に出た。私達は暗い小さな通りをゆっくり下りながら、アンドレは私達が目にしていることのいくつかを説明し、コメントしたが、私の子供時代の想像上の日本に私が戻ったように感じた。
アンドレは黒澤明に会って幸せだった。"私は貴方よりも大きな利点を持つ。私は貴方の業績を愛し、崇拝出来る一方で、貴方は私の業績を愛せないし、崇拝出来ない"と彼は有名な監督に言った。何人かはこれを皮肉を込めた賛辞だと思った。彼等は間違っていた。アンドレは全く正直だった。
東京での最後の朝、私達を皇居に連れて行くタクシーを待ちながら、静寂は気が滅入り、アンドレは退屈になった。黒澤の方を振り返って"天皇は貴方の映画のようなのか?"と言った。短い沈黙があり、それから小さくお辞儀して返答が来た: "天皇は偉大な皇帝です"。
京都では絶え間無いセレモニーがあった。これらは"履行"を要求した。だが、今やアンドレは歳老いた。彼は演じることも、お辞儀もしたくなかった。彼はもはや日本人でありたくなかった。私は彼を管理していた。ときおり私が文楽の人形使いで、彼が私の人形のように感じた! 時々、美しい日本仮面、もしくは(笑いも礼儀正しくもしたくない)老いた父に対する恐ろしい赤くて金色の悪魔の仮面を手に入ればなぁと思った。
結局、彼は仮面を必要としなかった。私は京都賞の3人の受賞者の公式写真を見ている(図6)。黒澤の少しおかしそうなよそよそしい小さな笑顔、背が高く恰幅の良いアメリカ人科学者の満面の笑み。そして、2人の巨人の間に押し込まれた歳老いた小人、アンドレは最後の勝利を得ている。彼は積み重ねた手から彼の手、力強くて立派な手を引き離している。彼は自由だ!
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