先日、Stefan Banachの"Theory of Linear Operations"を再読しまして、これは数学徒、特に関数解析を専攻する人は是非とも読むべき名著だと思いました。Banachの日本語表記はバナッハとするのが通例ですが、私の身辺の欧米圏の人に何回も発音していただいたのですが、私にはバナハとしか聞こえなかったので以降バナハと表記します。勿論、ポーランド人がいないので正確かどうかは分かりませんが。
ところで、バナハ空間は完備ノルム線型空間のことですが、数学科では関数解析でなくても、例えば私が専攻した多変数解析函数論でもバナハ空間を使用します。それほど馴染みのあるバナハですが、正直申し上げてポーランドの人くらいしか知りませんでした。そこで、ちょっとどういう人か調べましたら驚きました。数学科ではなく、工科で勉強した人ですが、しかも卒業していないのですね。こういうことは天才にはよくあることですが、20世紀でも実際にあったことに感無量を覚えました。
話が飛びます。あまり詳細には書けないのですが、私の職場は数学、物理の知識を駆使して問題を解析することがメインでありまして、プログラミング等は誰でも出来るし、そんなものは検証の段階か新しいシミュレーションを取る際に始まるのです。そんなわけで、一昔前、量子力学を履修していない人向けにセミナーを同僚と手分けして行ったことがありました。始める前に希望者の名簿を見たら、情報系出身者が幾人かいました。私見では情報系は今や、学科を理系文系と分けた場合にはおよそ理系とは思えないほど数学が出来ません。高校までは理系だったと主張する阿呆がいますが、高校数学は関係ないし、そんなものは使用しません。私の偏見もあるかも知れないので、希望者に抜き打ちテストを行いました。問題は以下の3つです。
ノルム線型空間において、
1. エルミート変換の固有値は実数である。
2. ユニタリ変換の固有値の絶対値は1である。
3. 右手系で、一端を固定した直交変換の固有値は1である(つまり、剛体力学におけるオイラーの定理)。
これらは、おそらく線型代数の教養課程で、日本のどこかの大学で期末試験に出題されるはずのものです。問題とも言えないほど当り前で基礎的なものです。結果はどうだったかと言いますと、数物系は当り前ですが、電子電気工学系は殆ど出来ました。ノルムを意識したエレガントな解答ではなくても、電子電気工学系は腕力で行列計算に持ち込みねじ伏せるのには感心した覚えがあります。それに引き換え、情報系は殆ど白紙状態で、生物・医学系と差はありませんでした。生物・医学系は理論系と言うよりも実験系だから情状酌量がありますが、情報系がいつ実験系になったのかと思いました。情報系は理学ではなく工学だと反論するならば、何故電子電気工学系は出来るのでしょうかと言いたいです。かっては、理系でも俊英が情報系に進んだものですが、今やどこの大学でも情報系学科あり、しかもこの学科以外では学べないものがあるわけでもなく、本当に中途半端なことが原因だと思います(それともう一つ、何でも大衆化すると質が落ちるのです)。文系でも数理経済学を勉強した連中の方がおそらく出来るでしょう。
話をバナハに戻します。バナハの出生の秘密とかいろいろ面白い逸話があるのですが、深入りすると時間が足りませんので、程々のところで、D.Henderson氏の"Banach’s space: Lviv and the Scottish Cafe"(PDF)が簡潔でまとまっていると思いました。以下に、その私訳を載せておきますが、バナハを早死させる原因となった戦争というものが地球上からなくなることを願って止みません。
ところで、バナハ空間は完備ノルム線型空間のことですが、数学科では関数解析でなくても、例えば私が専攻した多変数解析函数論でもバナハ空間を使用します。それほど馴染みのあるバナハですが、正直申し上げてポーランドの人くらいしか知りませんでした。そこで、ちょっとどういう人か調べましたら驚きました。数学科ではなく、工科で勉強した人ですが、しかも卒業していないのですね。こういうことは天才にはよくあることですが、20世紀でも実際にあったことに感無量を覚えました。
話が飛びます。あまり詳細には書けないのですが、私の職場は数学、物理の知識を駆使して問題を解析することがメインでありまして、プログラミング等は誰でも出来るし、そんなものは検証の段階か新しいシミュレーションを取る際に始まるのです。そんなわけで、一昔前、量子力学を履修していない人向けにセミナーを同僚と手分けして行ったことがありました。始める前に希望者の名簿を見たら、情報系出身者が幾人かいました。私見では情報系は今や、学科を理系文系と分けた場合にはおよそ理系とは思えないほど数学が出来ません。高校までは理系だったと主張する阿呆がいますが、高校数学は関係ないし、そんなものは使用しません。私の偏見もあるかも知れないので、希望者に抜き打ちテストを行いました。問題は以下の3つです。
ノルム線型空間において、
1. エルミート変換の固有値は実数である。
2. ユニタリ変換の固有値の絶対値は1である。
3. 右手系で、一端を固定した直交変換の固有値は1である(つまり、剛体力学におけるオイラーの定理)。
これらは、おそらく線型代数の教養課程で、日本のどこかの大学で期末試験に出題されるはずのものです。問題とも言えないほど当り前で基礎的なものです。結果はどうだったかと言いますと、数物系は当り前ですが、電子電気工学系は殆ど出来ました。ノルムを意識したエレガントな解答ではなくても、電子電気工学系は腕力で行列計算に持ち込みねじ伏せるのには感心した覚えがあります。それに引き換え、情報系は殆ど白紙状態で、生物・医学系と差はありませんでした。生物・医学系は理論系と言うよりも実験系だから情状酌量がありますが、情報系がいつ実験系になったのかと思いました。情報系は理学ではなく工学だと反論するならば、何故電子電気工学系は出来るのでしょうかと言いたいです。かっては、理系でも俊英が情報系に進んだものですが、今やどこの大学でも情報系学科あり、しかもこの学科以外では学べないものがあるわけでもなく、本当に中途半端なことが原因だと思います(それともう一つ、何でも大衆化すると質が落ちるのです)。文系でも数理経済学を勉強した連中の方がおそらく出来るでしょう。
話をバナハに戻します。バナハの出生の秘密とかいろいろ面白い逸話があるのですが、深入りすると時間が足りませんので、程々のところで、D.Henderson氏の"Banach’s space: Lviv and the Scottish Cafe"(PDF)が簡潔でまとまっていると思いました。以下に、その私訳を載せておきますが、バナハを早死させる原因となった戦争というものが地球上からなくなることを願って止みません。
[追記: 2011年07月20日]
バナハの"Theory of Linear Operations"ですが、これは元々のバナハが書いた仏語版の英訳です。私が始めて読んだのは仏語版でしたが、バナハは非常に仏語が流暢でしたので、数学的内容が素晴らしいだけではなく、仏語が名文です。どうせ読むなら仏語版をお勧めします。私は関数解析が専門でないのに、この本を読もうとしたのは、仏語の練習のためでした。
[追記: 2019年03月18日]
このペィジは2011年07月18日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
バナハの空間: リヴィウとスコティッシュカフェ
2004年9月28日 D.Henderson
或る意味でステファン バナハはこのワークショップの守護神である。彼はリヴィウ[訳注: 現在はウクライナのリヴィウ州]の元住民で最も著名な一人だった。彼の"溜まり場"、スコティッシュカフェは、このNATO高等研究ワークショップの要約本の表紙になっている街頭風景や、ワークショップ写真を背景とするポスターの中に見られる。私達は、スコティッシュカフェがあった建物の外壁にバナハとスコティッシュカフェを記念するプレートをワークショップ期間中に設置したいと希望したが、そのプレートは間に合わなかった。
始めてバナハを知ったのは、私がブリティッシュコロンビア大学(UBC)の学生で、大学図書館で物理学の本を見ていた時だった。バナハの本、"力学" [1]を見つけた。それは非常に素晴らしい解説であるが、西側諸国ではほぼ知られていない。残念ながら、絶版になって久しい。しかし、長年の後、私は台湾の書店で、この本を購入して嬉しかった。2回目にバナハを知ったのは、UBC図書館で彼の本を見つけた一年後、関数解析学のコースを取り、バナハとヒルベルト空間を勉強した時だった。おかしいかも知れないが、ほぼ当たっていることは、大部分の物理本に見られるヒルベルト空間の定義は実質的にバナハ空間の定義である。ヒルベルト空間は距離を定義するスカラー積を持つバナハ空間であり、一方バナハ空間での距離は正値で三角不等式を満足することのみ必要とする。
20年前、私はグルジア共和国テラヴィでのカンファレンスで、Myroslav HolovkoとOrest Pizioに会った。彼等は私にリヴィウを訪問するよう招待した。彼等の実績をもっとよく知るためとバナハの空間を訪問する機会のため、私は喜んで招待を受けた。
バナハは関数解析学の父の一人だったし、20世紀の最も重要な数学者の一人である。彼はリヴィウにあるKazimierz大学の数学教授だった。当時、リヴィウはポーランド東部の都市だった。現在は、ウクライナ西部のリヴィウ市であり、Kazimierz大学はIvan Franko大学である。
バナハは1892年にクラクフで生まれた。クラクフは現在ポーランドの都市だが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国のガリツィアの一部だった。バナハは一切ガリツィアを離れないで、オーストリアで生まれ、ポーランドで働き、ウクライナで死んだとも言えるだろう。
バナハの両親は結婚しなかった。彼は貧窮の中で祖母によって育てられたようだ。1910年クラクフのギムナジウムでの課程を終了した後、リヴィウの工科大学に入学し、1914年まで勉強した。第一次世界大戦の間は、医学的問題がバナハを軍役から救った。大戦中、クラクフにあるヤギェウォ大学の講義に出席したが、どちらの大学も卒業しなかったらしい。多分、バナハが試験を憎悪したからだろう。
クラクフで発生した注目する出来事は1920年のバナハの結婚だった。
バナハが正式な学士を持っていなくても、彼の数学的天才は既に明らかだった。クラクフで多くの数学的論文を書いた。Kazimierz大学の学部教員になる予定だったHugo Steinhausは、クラクフの公園でバナハがルベーグ積分について話をしているのを偶然聞き、バナハと語らって友人かつ擁護者となった。
1920年、バナハはリヴィウの工科大学の次席教員を申し込まれた。彼は学士を持っていなかったのだから、修士試験に進むために(博士号を得るために必須だった)文部省から特別な許可を得ることが要求された。1920年、彼は博士論文を工科大学に提出した。1922年、Kazimierz大学から教授資格取得を受諾し、この大学の教授となった。
リヴィウは既に物理学の中心だった。アインシュタインの同僚の一人である、Smoluchowskiは1900年から1913年までリヴィウで働き、死去までクラクフにいた。しかし、バナハとSmoluchowskiが緊密に連絡を取った、又は会ったことはおそらくないであろう。バナハはリヴィウを数学の中心にした。中でも、Hugo Steinhaus, Stan Ulam, Stan Mazur, Marc Kacは、この時代にリヴィウで活躍した有名な数学者である。セミナーの後、これらの数学者はスコティッシュカフェと呼ばれる軽食堂へ立ち去り、続きの議論を行った。
最初彼等はカフェローマで会合したが、軽食堂の支配人が支払いの繰延を喜ばなかったらしい。この理由と、スコティッシュカフェのスタッフのより親切な姿勢のため、バナハと同僚は道を横切ってスコティッシュカフェへ移動した。
議論の間、彼等は大理石から出来ているテーブルの表面に式を書いたように、スコティッシュカフェの支配人はとても寛容だったようだ。バナハの細君は、テーブルの表面に書く旦那の癖に賛同しなかったか、又は夜には結果の式が拭い去られるためか、どちらかの理由でテーブルの表面に置くノートブックを買った。そのノートブックは、必要なら提出するように軽食堂のスタッフで保管されていた。当然ながら、ノートブックは"スコティッシュ本"として知られるようになった。
彼等の議論は、このノートブックに書かれた数学的問題の提出を含んだ。193個の問題のコレクションは1935年と1941年に編纂された。1941年のSteinhausによる最後の記入は、ドイツによる侵略の約一ヶ月前だった。これらは純粋な研究問題であり、その幾つかは解決されたが、幾つかは未解決である。
その軽食堂は、もうスコティッシュカフェと呼ばれていないが、建物と土地は残り、私は1989年、そこで昼食をした。もっと最近では、その空間は銀行へと変わった。少なくとも建物と土地は数字に専念している。既に言及したように、スコティッシュカフェの初期の姿は、要約本の表紙として使用されている。建物が"スコットランド風"に建てられたから、軽食堂はスコティッシュカフェと呼ばれたと地元の住民は主張する。私はそうは思わない。私にとって、典型的な中央ヨーロッパの建物に見える。
第二次世界大戦が近づくにつれ、バナハの同僚の多くは米国へ逃げた。バナハはとどまった。1939年、ポーランドは再び分割され、リヴィウはウクライナの一部となった。1941-1944年の間、リヴィウはドイツによって占領された。スコティッシュ本は、ドイツの占領の間、安全な場所に保管された。埋められいたのかも知れない。
地元の噂では、バナハはドイツ占領の間、強制収容所で過ごし、人体実験の犠牲者だったという。彼は通貨違法売買の容疑で短期間監獄で過ごしたけれども、伝記 [2] によれば、強制収容所で過ごしたという噂は事実ではない。しかし、彼は困難な環境で生活し、確実に健康を損ねた。人体実験の噂の源は、生物研究所で技術者として働くことを強制されたという事実からだ。
戦後、再びリヴィウはウクライナの一部となった。バナハはクラクフにあるヤギェウォ大学の学問的地位を提供された。しかし、その時までに、彼は重病だった。1945年、肺がんのため死去し、リヴィウで埋葬された。1989年、Orest Pizioは私をバナハの墓へ案内した。
リヴィウがウクライナの都市になった時、スコティッシュ本はワルシャワへ運ばれ、神経外科医である、バナハの息子によって保管された。1956年、Hugo Steinhausは問題をコピーし、そのコピーをロスアラモスのStan Ulamへ与えた。Stan Ulamは英語に翻訳し、1957年に謄写版ノートとして公開した。1981年、Mauldinによって編集された本の中でスコティッシュ本は正式に刊行された。[3]
バナハの優れた伝記が刊行されている。[2]
バナハは、Smoluchowskiに始まり、現在も凝縮物質物理学研究所の中で続いているリヴィウの科学的、数学的伝統の瞠目すべき一部だった。私はバナハの空間を再度訪問出来て嬉しい。ワークショップの写真で見られる、出席者はバナハの空間の中で非有界オペレータである。
文献
1. Banach S. Mechanics, Mathematical Monographs 24. Warsaw-Wroc law, 1951. Presumably, originally published in Banach’s lifetime.
2. Kaluza R. The Life of Stefan Banach, (A. Kostant and W. Woyczynski, translators and editors). Boston, Birkhauser, 1996.
3. Mauldin R.D., ed. The Scottish Book. Boston, Birkhauser, 1981.
[追記: 2019年03月18日]
このペィジは2011年07月18日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
バナハの空間: リヴィウとスコティッシュカフェ
2004年9月28日 D.Henderson
或る意味でステファン バナハはこのワークショップの守護神である。彼はリヴィウ[訳注: 現在はウクライナのリヴィウ州]の元住民で最も著名な一人だった。彼の"溜まり場"、スコティッシュカフェは、このNATO高等研究ワークショップの要約本の表紙になっている街頭風景や、ワークショップ写真を背景とするポスターの中に見られる。私達は、スコティッシュカフェがあった建物の外壁にバナハとスコティッシュカフェを記念するプレートをワークショップ期間中に設置したいと希望したが、そのプレートは間に合わなかった。
始めてバナハを知ったのは、私がブリティッシュコロンビア大学(UBC)の学生で、大学図書館で物理学の本を見ていた時だった。バナハの本、"力学" [1]を見つけた。それは非常に素晴らしい解説であるが、西側諸国ではほぼ知られていない。残念ながら、絶版になって久しい。しかし、長年の後、私は台湾の書店で、この本を購入して嬉しかった。2回目にバナハを知ったのは、UBC図書館で彼の本を見つけた一年後、関数解析学のコースを取り、バナハとヒルベルト空間を勉強した時だった。おかしいかも知れないが、ほぼ当たっていることは、大部分の物理本に見られるヒルベルト空間の定義は実質的にバナハ空間の定義である。ヒルベルト空間は距離を定義するスカラー積を持つバナハ空間であり、一方バナハ空間での距離は正値で三角不等式を満足することのみ必要とする。
20年前、私はグルジア共和国テラヴィでのカンファレンスで、Myroslav HolovkoとOrest Pizioに会った。彼等は私にリヴィウを訪問するよう招待した。彼等の実績をもっとよく知るためとバナハの空間を訪問する機会のため、私は喜んで招待を受けた。
バナハは関数解析学の父の一人だったし、20世紀の最も重要な数学者の一人である。彼はリヴィウにあるKazimierz大学の数学教授だった。当時、リヴィウはポーランド東部の都市だった。現在は、ウクライナ西部のリヴィウ市であり、Kazimierz大学はIvan Franko大学である。
バナハは1892年にクラクフで生まれた。クラクフは現在ポーランドの都市だが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国のガリツィアの一部だった。バナハは一切ガリツィアを離れないで、オーストリアで生まれ、ポーランドで働き、ウクライナで死んだとも言えるだろう。
バナハの両親は結婚しなかった。彼は貧窮の中で祖母によって育てられたようだ。1910年クラクフのギムナジウムでの課程を終了した後、リヴィウの工科大学に入学し、1914年まで勉強した。第一次世界大戦の間は、医学的問題がバナハを軍役から救った。大戦中、クラクフにあるヤギェウォ大学の講義に出席したが、どちらの大学も卒業しなかったらしい。多分、バナハが試験を憎悪したからだろう。
クラクフで発生した注目する出来事は1920年のバナハの結婚だった。
バナハが正式な学士を持っていなくても、彼の数学的天才は既に明らかだった。クラクフで多くの数学的論文を書いた。Kazimierz大学の学部教員になる予定だったHugo Steinhausは、クラクフの公園でバナハがルベーグ積分について話をしているのを偶然聞き、バナハと語らって友人かつ擁護者となった。
1920年、バナハはリヴィウの工科大学の次席教員を申し込まれた。彼は学士を持っていなかったのだから、修士試験に進むために(博士号を得るために必須だった)文部省から特別な許可を得ることが要求された。1920年、彼は博士論文を工科大学に提出した。1922年、Kazimierz大学から教授資格取得を受諾し、この大学の教授となった。
リヴィウは既に物理学の中心だった。アインシュタインの同僚の一人である、Smoluchowskiは1900年から1913年までリヴィウで働き、死去までクラクフにいた。しかし、バナハとSmoluchowskiが緊密に連絡を取った、又は会ったことはおそらくないであろう。バナハはリヴィウを数学の中心にした。中でも、Hugo Steinhaus, Stan Ulam, Stan Mazur, Marc Kacは、この時代にリヴィウで活躍した有名な数学者である。セミナーの後、これらの数学者はスコティッシュカフェと呼ばれる軽食堂へ立ち去り、続きの議論を行った。
最初彼等はカフェローマで会合したが、軽食堂の支配人が支払いの繰延を喜ばなかったらしい。この理由と、スコティッシュカフェのスタッフのより親切な姿勢のため、バナハと同僚は道を横切ってスコティッシュカフェへ移動した。
議論の間、彼等は大理石から出来ているテーブルの表面に式を書いたように、スコティッシュカフェの支配人はとても寛容だったようだ。バナハの細君は、テーブルの表面に書く旦那の癖に賛同しなかったか、又は夜には結果の式が拭い去られるためか、どちらかの理由でテーブルの表面に置くノートブックを買った。そのノートブックは、必要なら提出するように軽食堂のスタッフで保管されていた。当然ながら、ノートブックは"スコティッシュ本"として知られるようになった。
彼等の議論は、このノートブックに書かれた数学的問題の提出を含んだ。193個の問題のコレクションは1935年と1941年に編纂された。1941年のSteinhausによる最後の記入は、ドイツによる侵略の約一ヶ月前だった。これらは純粋な研究問題であり、その幾つかは解決されたが、幾つかは未解決である。
その軽食堂は、もうスコティッシュカフェと呼ばれていないが、建物と土地は残り、私は1989年、そこで昼食をした。もっと最近では、その空間は銀行へと変わった。少なくとも建物と土地は数字に専念している。既に言及したように、スコティッシュカフェの初期の姿は、要約本の表紙として使用されている。建物が"スコットランド風"に建てられたから、軽食堂はスコティッシュカフェと呼ばれたと地元の住民は主張する。私はそうは思わない。私にとって、典型的な中央ヨーロッパの建物に見える。
第二次世界大戦が近づくにつれ、バナハの同僚の多くは米国へ逃げた。バナハはとどまった。1939年、ポーランドは再び分割され、リヴィウはウクライナの一部となった。1941-1944年の間、リヴィウはドイツによって占領された。スコティッシュ本は、ドイツの占領の間、安全な場所に保管された。埋められいたのかも知れない。
地元の噂では、バナハはドイツ占領の間、強制収容所で過ごし、人体実験の犠牲者だったという。彼は通貨違法売買の容疑で短期間監獄で過ごしたけれども、伝記 [2] によれば、強制収容所で過ごしたという噂は事実ではない。しかし、彼は困難な環境で生活し、確実に健康を損ねた。人体実験の噂の源は、生物研究所で技術者として働くことを強制されたという事実からだ。
戦後、再びリヴィウはウクライナの一部となった。バナハはクラクフにあるヤギェウォ大学の学問的地位を提供された。しかし、その時までに、彼は重病だった。1945年、肺がんのため死去し、リヴィウで埋葬された。1989年、Orest Pizioは私をバナハの墓へ案内した。
リヴィウがウクライナの都市になった時、スコティッシュ本はワルシャワへ運ばれ、神経外科医である、バナハの息子によって保管された。1956年、Hugo Steinhausは問題をコピーし、そのコピーをロスアラモスのStan Ulamへ与えた。Stan Ulamは英語に翻訳し、1957年に謄写版ノートとして公開した。1981年、Mauldinによって編集された本の中でスコティッシュ本は正式に刊行された。[3]
バナハの優れた伝記が刊行されている。[2]
バナハは、Smoluchowskiに始まり、現在も凝縮物質物理学研究所の中で続いているリヴィウの科学的、数学的伝統の瞠目すべき一部だった。私はバナハの空間を再度訪問出来て嬉しい。ワークショップの写真で見られる、出席者はバナハの空間の中で非有界オペレータである。
文献
1. Banach S. Mechanics, Mathematical Monographs 24. Warsaw-Wroc law, 1951. Presumably, originally published in Banach’s lifetime.
2. Kaluza R. The Life of Stefan Banach, (A. Kostant and W. Woyczynski, translators and editors). Boston, Birkhauser, 1996.
3. Mauldin R.D., ed. The Scottish Book. Boston, Birkhauser, 1981.
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