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志村五郎博士"The Map of My Life"の書評

志村五郎博士の"The Map of My Life"について、私も僭越ながらアマゾンでレヴュを書きました。しかし、それはレヴュと言っても、いわゆる感想文もしくは書評ではなく、よく本に付いている帯や本の裏表紙にあるような、宣伝文句の域を超えていません。長々と得意気に論評する資格など私にはありませんから、要は私の目から見てどこが面白かったかだけを短く書いただけです。まともな感想又は書評なら私が読みたいくらいです。
で、読むに耐える感想はないものかと探してみました。条件として、一般人(数学者又は数学科卒でない人)、日本人(日本人数学者も含む)を除きます。理由は、一般人の感想は読むに耐えないものが多すぎることと、同邦人の足を引っ張るのは同邦人である(特に同じ分野において)と昔から言われていることだからです。つまり、海外の数学者の感想が一番いいのです。
これが意外にも少なかったのですが、コルビー大学の数学者Fernando Q. Gouvêa氏の感想が的を得ているように思いましたし、公正な評価だと感じました。その私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2016年10月01日]
いろいろ考えることがあって、私訳の最下段に[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を追加しました。

[追記: 2018年02月03日]
The Map of My Lifeの付録にはThat Conjecture、A Letter to Freydoon Shahidi、Two Letters to Richard Taylor、Response、André Weil as I Knew Himの5編が収められています。そのうちで数学界にいる人なら間違いなくA Letter to Freydoon Shahidi、Two Letters to Richard Taylorに注目したことでしょう。これらを'志村五郎博士著"The Map of My Life"より重要資料の手紙三編'と題名を付けて紹介しております。なお、André Weil as I Knew Himは既に紹介しました"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"です。

[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2011年08月26日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年05月04日]
2018年02月03日付の追記で触れました"That Conjecture"については'志村五郎博士著"The Map of My Life"のAppendixより"あの予想"'を見て下さい。
つい先ほど、志村博士が3日に米国で死去されたというニューズを知りました。
ここに謹んで哀悼の意を表します。

[追記: 2019年06月03日]
The Map of My Lifeの付録は"Response"を除いて他のものはすべて"私訳"の形で紹介しました。The Map of My Lifeの本文については購入して読んで下さい。なお、本文からの一部抜粋という形で'志村五郎博士著"The Map of My Life"より抜粋'と題して前に紹介しました。

志村五郎博士"The Map of My Life"の書評
2008年11月25日 Fernando Q. Gouvêa

志村五郎は、50年間前後に渡って数論に広大な貢献をした偉大な人である。歴史家と数論学者として2つの人生を私は持っているから、これは読まなければならない本だった(他のレビュアー要員もしたかったが、私が編集職に就いている恩典だ)。

The Map of My Lifeは普通の自伝ではない。むしろ、追憶の本である。1930年に生まれた志村は、辛いエピソードを抜かし、生き生きとした物語に絞って私達に語り、いくつかの感情と考えを見せている。そのスタイルは飾り気がなく強烈で、親密な印象を与える。

本は2つの主要部を持つ。第一部は、第二次世界大戦以前、最中、戦後の日本で大人になっていくことについて。ここで、タイトルの"地図"が具体的になる。祖先が生活をし、彼も成長した東京の近郊を示す地図(切繪図)のことを書いている。その地図は江戸時代に作成され、大名が所有する土地を示し、家臣(志村家を含む)によって占有されている地区を指し示している。本の中に、その地図が再作成されていないのが私は残念だった。

この部分は、戦前の彼の幼年期に主に焦点を合わせている。読みながら、私の祖父がよく語った物語を思い出させた。記憶の一部は鮮明だが、他は曖昧だった。幾つかの場合、同じ状況にいなければ、物語を理解するのは困難だと思った(例えば、志村は"アドバルーン"と言っている。これらが何であるか推測出来るが、彼は正確には私達に話さないので、私の推測が正しいのかどうか分からない)。

第二部は、数学者としての志村の初期時代についてである。1950年代後半のフランス訪問とプリンストン訪問、米国への移住の決心、プリンストン大の教授として1962年からの時代について語っている。1960年代に彼がやっていたことへの意見、数学への一般的なアプローチについて沢山書かれている。数学的詳細は非常に少ない。私はもっと欲しかったが、ちょっとテクニカル過ぎるかも知れないので、多くを与えないことが他の読者には嬉しいだろうと理解出来る。

私も別の国(私の場合はブラジルだが)に生まれたので、移住の決心の説明に興味を持った。志村が言う理由の一部は、彼は痩せているので寒さに敏感だと。日本の家屋はうまく暖まりにくく、彼が1959年[訳注: 細かいことはどうでもいいことかも知れませんが、志村博士の最初のプリンストン訪問は1958年の秋です]にプリンストンを訪問した時、アパートがいかに暖かく大喜びした。彼は日本が寒かったから去ったと言っている(それを人に話すと冗談か比喩的に言っていると思うらしい、と彼は言う)。

志村の個性は始めから終わりまで発揮している。彼は遠慮無く他人を貶す。平凡、又は嫉妬深い、又は無分別だと志村が思えば、そのように言う。数学についても彼の意見を遠慮無く語る。例えば、良く知られている理論の形式的公理化を軽蔑している(例として、幾何の基礎についてのヒルベルトの仕事)。彼の会う老日本人数学者達に対する反応はしばしばネガティブである、と彼は言う。

私がもっと読みたいと思ったトピックスはそこにはない。志村は友人で連携者である谷山の自殺について書いて来ているが、この本では"何故、あの記事を書いたのか"という節で触れているだけだ(その記事自体を付録に収めていても良かったかも知れないが、そうではない)。実を言えば、谷山は小さな役割でしかない[訳注: この著者もそうだったのでしようが、日本人のド素人はもちろんのこと多くの人が勘違いしているのは、志村博士が谷山氏とモデュラ曲線の話をしたことが無いという事実を理解していません。共同研究したのはアーベル多様体の虚数乗法論に関してです。それに加えて谷山氏はモデュラで十分であるという認識がありませんでした]。

志村の多くの大学院生について全く触れていず、数論の最近(例えば、1980年以降)の結果もない。プリンストンと高等研究所での同僚で詳しく書かれている唯一の人はアンドレ・ヴェイユだけであり、志村は明らかに愛情と尊敬を持っている。

数回じれったいヒントがある。プリンストンの学生はシニア論文を書くことを要求され、そのため多くの学生が彼を指導官として選んで来たと志村は言う。"私は易しいが興味あるトピックスのストックを持っていたから、彼等を歓迎した"と言っている。私はいつも"易しいが興味ある"シニア論文のトピックスを案出することに苦労して来ているので、実例を欲しい思いが残った。

数学的な節は、基本的テーマとして、モデュラ形式の数論的理論における志村の役割の解明を含む。1960年代には、殆どの人が分かっておらず、おそらくヴェイユとアイヒラーのみと彼は言う。プリンストンに来た時、彼は"私は数論、代数幾何学、モデュラ形式に精通しており、米国にはそんな数学者はいなかった"と言う。私が受けた印象は、私の数学人生が志村の活躍する場所で費やされて来ただけであることだ。

志村が時間を割いているトピックスの一つは、すべての有理楕円関数はモデュラであるという予想の起こりだ。1955年に谷山によって作られた問題がその線に沿っているが、不正確であり、もっと言えば正しくないと志村は強調している。最初に予想を正しく作り、それを人に話したのは志村だった。付録として、もっと詳細に説明している複数の手紙を含めている。

志村が英語のネイティブスピーカではないことが、この本にはっきりと現れている。ぎこちなく組立てられた文章が多くある。いくつかの所で、特に日本での幼年時代に関する節では、上手く表現出来ない効果を求めている。年代順の範囲内で泊まることに殆ど注意を払っていない。"それについては後で書く"又は"それについては、これ以上言いたくない"のようなコメントをしばしば目にする。これは、老人が若かりし頃の物語を記憶に沿ってあちらこちらしながら、まだ好きな部分を語っているのを聞くような、私の印象を強くする。

もっとよい作品製作が出来たであろう、又はするべきだったであろうと思うことを書くが、シュプリンガー社の私の友人にはあまり立腹しないよう希望する。写真が悪く再作成され少ない。多くの所で、ちょっと大胆に編集を加えたら本を改善出来たであろう。もっとも悪いのは、索引と文献が無く、志村作品集へのポインターだけだ。少なくとも名前の索引くらいはあったていいだろう?

私の数学人生の殆どはモデュラ形式の研究だが、志村に会ったことがなく、彼の論文の多くも読んではいない(許しがたいことと分かっている。私の唯一の弁明は、私がやって来るまでに、志村は1960年代の研究からもっと一般的で、私自身の研究に必要でない難解なケースに移ったことだ。しかも、他には古い研究の教科書風解説を書き始めていたことだ。志村の古典的な"Introduction to the Arithmetic Theory of Automorphic Functions"の大部分を読んだが、大学院生には非常に難しいことが分かった)。志村作品集一式を欲しい思いが残った。例えば、ヘッケ固有形式に付随したガロア表現を彼が構築した未発表の1968年論文がある。私は大学院生の時、この論文の噂を聞いた憶えがあり、それが作品集の中に収められると聞いて嬉しい。そして、もちろん、歴史家の観点から、理論がどのようにして来たか見る必要がある。

志村の回顧録は、数学の陰にいる人の一瞬を私達に見せる。私は、もっと名前、もっと物語、もっと詳細を欲しかった。しかし、私は貪欲であってはならない。彼をほんの少しだけでも知ることはありがたいことだ。

[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]
志村博士が日本語で谷山氏と書いた近代的整数論に対して復刊リクエストが後を絶たないそうですが、出版社は著者の意向で復刊出来ない旨を回答したと聞きました。このことを友人共から教えられた時、こういうリクエストをする人達は志村博士の書いたものを全然読んでいないと私は思いました。つまり、そういう人達は志村博士の意思を完全に無視しているわけです。何故復刊リクエストに応えないのか、志村博士のThe Map of My Lifeを読んでいれば分かりそうなもんです。
The Map of My Life p. 119下段-p. 120中段より抜粋
As I said in the preface, there were
several unsatisfactory points in the book. One of them was the
proper definition of “the field of moduli,” which I discovered only
in October 1958 and which I told Weil immediately after my arrival
in Paris. Thus, the first thing I did after coming back to Tokyo in
the spring of 1959 was to write the whole theory in English in a
better form by using this new definition.
We had actually planned an English version, but nothing was
done except for a short section I wrote in English on differential
forms on abelian varieties. Sometime in 1957 I handed it to
Taniyama, who died in November 1958. It was returned to me
when I met one of his brothers. I eventually published the book
in English as a collaborative work with him in 1961, but actually
I wrote everything alone, and he was not responsible for the
exposition.
I had known that he was not a careful type, but after starting
this project in 1959 I realized that the problem was more serious
than I had thought. Indeed, I had to throw away many things
he wrote in that book in Japanese. In my article about his life
published in Bulletin of the London Mathematical Society (1989),
I wrote: “Though he was by no means a sloppy type, he was gifted
with the special capability of making many mistakes, mostly in the
right direction.” I also wrote in the preface of the 1961 book in
English: “The present volume is not a mere translation, however;
we have written afresh from beginning to end, revising at many
points, and adding new results such as §17 and several proofs of
propositions which were previously omitted.”
Thirty-five years later in 1996 I published a book, of which
I was the sole author, the first half of which was a revision of
this book, and the last half of which contained new results on
the periods of abelian integrals. Although this subject is related
in various ways to other topics I investigated later, I do not talk
about them here.
(私訳)
本[訳注: 近代的整数論のこと]の序文の中で述べた通り、本には多数の不満足な点があった。それらの内の一つが"モジュライ体"の正しい定義だった。それを私は1958年の10月に発見したばかりであり、パリに到着後すぐにヴェイユに話した。こうして、1959年の春に東京へ戻った後で私が最初にしたことは、この新しい定義を使用することにより理論全体をより良い形に英語で書くことだった。
私達[訳注: 志村博士と谷山氏]は英語版を計画していたが、アーベル多様体における微分形式について私が英語で書いた短いセクションを除いて何もなされなかった。1957年の或る時に、その短いセクションの原稿を谷山に渡したが、彼は1958年の11月に死去した。彼の兄弟の内の一人に会った時、その原稿が私に返された。私は結局1961年に彼との共著として英語で刊行したが、実際には私がすべてを一人で書き、彼はその解説書に対して責任がない。
私は彼が注意深いタイプでないことを分かってはいたが、このプロジェクトを1959年に始めた後で、私が考えていたよりも問題がずっと深刻であることを認識した。実際、あの本[訳注: 近代的整数論のこと]の中で彼が日本語で書いた多くの事柄を私は捨てなければならなかった。彼の人生についてBulletin of the London Mathematical Society (1989)に発表された私の記事[訳注: Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsのこと。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい]の中で以下のことを書いた。"彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた"。また私は1961年の本[訳注: 先に志村博士が説明している通り、形式的に谷山氏との共著としたComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと。因みに題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法とその整数論への応用"となります]の序文の中で以下のことを英語で書いた。"しかし、ただいまの本は単なる翻訳ではない。私達は始めから終わりまで再度新たに書いた。つまり、多くの箇所を訂正し、§17のような新しい結果と以前には省略されていた命題の多くの証明を追加した"。
35年後の1996年に私はある本[訳注: Abelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsのこと]を出版したが、私が単独の著者だった。その本の最初の半分はこの本[訳注: 前述の1961年の本Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと]の改訂であり、最後の半分はアーベル積分の周期に関する新しい結果を含んだ。この議題は後年私が調べた他のトッピクスに様々な意味で関係するけれども、それらをここでは語らない。

以上の通り、志村博士は明確に理由を書いています。つまり、中途半端で不完全な近代的整数論の代わりにComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryを出し、更にはAbelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsも出しているのに、何故旧著を復刊する必要があるのかということです。

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