大先生や大先輩方の話によれば、故岡潔博士が戦後に奈良女子大へ奉職された時、集合論講義の準備のためにハウスドルフの"Grundzüge der Mengenlehre"[集合論概説]を参考にされたそうです。私はその話を聞いた時、以下の2つの感想を持ちました。一つは岡博士と集合論(たかが学部学生への講義とは言えども)の取り合わせに意外感を抱きました。何か見てはならないものを見てしまったような感じです。戦後間も無い時代でもあり、しかも大学に昇格したばかりの学校では教員も手薄だったのだろうとは思うのですが、岡博士と言えどもこういう講義を受け持たざるを得なかったのでしょうか。いずれにせよ、どんな講義だったのだろうと講義ノートがあるならば是非見たいと思いました。もう一つはハウスドルフを参考にされたということで、(下辺な私ごときが論評するなど失礼かも知れませんが)やはり偉大なる業績を残す人は違うなと思いました。当時の日本にもブルバキ旋風が既に上陸しており、どちらかと言えば流行や風潮に弱く確固たる信念を持たない(つまり、自立していない)多くの日本人がブルバキ、ブルバキと喚いている時代で、普通の凡人ならブルバキの集合論を紐解いてもおかしくなかったそうです。私は大学3年の時に主として独語学習のため"Grundzüge der Mengenlehre"を読みましたが、確かに素晴らしい本だと思いました。内容は一般集合論、位相空間、測度論等を扱っていて、しかも読み易いです。今でもちゃんとした大学の図書館なら所蔵しているはずですから独語が出来る人(苦手な人も独語学習と思って)は是非読んでみて下さい。
ハウスドルフと言えば位相の分離公理が有名ですが、現在ある集合、位相の基礎はハウスドルフによるものと考えていいと思います。集合論の開祖は勿論カントールですが、集合論の公理的基礎はハウスドルフの貢献が大きいです。また位相空間論についても、距離空間に関してはフレッシェに始まるのですが、距離函数に依存するのは位相概念として筋が悪いので(当たり前ですが)、ハウスドルフ等が位相空間として徹底的な基礎付けを行ったわけです。ですから、ハウスドルフの"Grundzüge der Mengenlehre"を読むのは少なくとも戦前では至極当たり前の話で、ブルバキの面々も読んだはずなんです。そして現在でも読む価値があるのですから名著と言う他にないです。そういう意味では、あの訳の分からないブルバキ積分論(一説には駄作という評価もあり)なんかよりも余程S. Saks著"Theory of the Integral"[積分論]の方が古いけれど現在においても読む価値があると思います。
話が飛びますが、学術関係の出版社編集部に勤めている友人の話によれば、集合論や数学基礎論の話を取り上げると解説本や雑誌の売り上げが数学の他分野よりもいいそうです。その友人の言葉を借りれば、哲学的な深淵さが醸し出す雰囲気に酔い痴れるのだろうとのこと。つまり、数学の他分野に比べて素人受けするのです。本当は非常に難解な分野のはずなんですが、専門的なことを省いて(書いても理解出来るはずがないので)、数学的素養を持たない読者をいかに惹きつけられるかが勝負なんだそうです。
私はカントールについて伝記的なことも含めて何も知らないし、せいぜい精神病院で亡くなったことくらいしか知りませんでした。かと言って、今更"何とか数学者列伝"とか"何とか数学物語"とかを購入し読んで胸を熱くさせるような馬鹿な年齢でもないので、他に何か面白い記事は無いかと探しましたところ、Joseph W. Dauben博士の記事"Georg Cantor And The Battle For Transfinite Set Theory"(PDF)を見つけました。
この記事を読んで、ちゃんとした数学史の専門家がきちんと調べ上げれば、いかに伝記作者というものがいい加減であるか(と言うよりも捏造していると言った方が正確です)が分かり、百聞は一見に如かずとはまさにこういうことだと感じました。但し、自伝を除きます。自伝だからと言って全部が正確だと決して思いませんが、少なくとも本人が書いている以上は他者がどうのこうの言っても栓の無いことです。勿論立派な伝記作者はいます。例えば、故コンスタンス・リード女史(実妹が故Julia Robinson博士です)の書く数学者の伝記は信用出来ます。身内に有名な数学者がいるのに、嘘や出鱈目を書けないのは当たり前です。私はリード女史の"Hilbert"を何回も通しで読んでいますが、自伝ではない伝記本を購入して読んだのは後にも先にも、これ一冊のみと言ってもいいでしょう。それほど伝記本を読んでいない私には伝記作者達を非難する気持ちは毛頭ありませんが、以前高校の英語教諭から比較的最近に米国で出版されたエミー・ネーターの青少年向き伝記本について相談を受けたことがありました。その先生は英語研究部か何かのクラブ活動の顧問をしているらしく、夏休みの部活動としてエミー・ネーターの伝記本を採用したのだけれども、数学に関係するページの英文解釈と解説を生徒等にしてほしいという依頼でした。お借りした本を一読して、先ず本文中の数学的事項の説明が意味不明でした。巻末に一般的な百科事典から抜粋したような用語集なるものもあるのですが、これを読んで納得する青少年は先ずいないと思います。明らかに著者の数学的素養の欠如が容易に想像出来ましたが、無いなら無いで余計なことを書かなければいいのにと思いました。ネーターの伝記的なことは私もよく知らないので何とも言えませんが、分かっていることだけをしっかり書き、よく分かっていないことは知ったかぶりで書くなという当たり前のことが何故出来ないのか、本当に不思議でした。この程度のモラルで青少年向き図書かと呆れました。その青少年向き伝記本の正式なタイトルと著者名を暴露したら気持ちはいいのですが、止めておきます(高校生達の小遣いの額を考えると決して安い値段ではなかったと思いますので、かわいそうです)。関心ある人は調べてください。そして、特に日本人は国内メディア等の鵜呑み度70%という驚異的な民度の低さが海外の研究機関によって暴露されましたから、もし和訳本が出たら(またこういう疑問符がつく原書を嬉々として翻訳して出版する訳者、出版社は大いにあり得ます)宣伝文句に騙されて購入する親御さんや教師が何人かいらっしゃるかも知れません。
随分横道に逸れましたが、Dauben博士の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、最後に脚注部があるのですが、殆どの人は読みそうにもないので載せていません。興味ある方は原文をあたってください。勿論本文での脚注への言及はそのままです。
[追記: 2019年11月14日]
数学でどれくらい集合論の知識を必要とするのかと初学者の方から質問を受けました。数学基礎論や数理論理学のような分野を専攻しない限り、数学科の集合・位相講義で事足れるはずですし、皆さんのお好きな対角線論法には必ず触れます。それでは物足りない人は、上述のハウスドルフの著書や私が一年生の時に読んだ故P. R. Halmos博士の"Naive Set Theory"[素朴集合論]で充分過ぎると思います。数学科の友人共も私も基礎論方面を専攻した人がいないので、それ以上のことは知りません。
ハウスドルフと言えば位相の分離公理が有名ですが、現在ある集合、位相の基礎はハウスドルフによるものと考えていいと思います。集合論の開祖は勿論カントールですが、集合論の公理的基礎はハウスドルフの貢献が大きいです。また位相空間論についても、距離空間に関してはフレッシェに始まるのですが、距離函数に依存するのは位相概念として筋が悪いので(当たり前ですが)、ハウスドルフ等が位相空間として徹底的な基礎付けを行ったわけです。ですから、ハウスドルフの"Grundzüge der Mengenlehre"を読むのは少なくとも戦前では至極当たり前の話で、ブルバキの面々も読んだはずなんです。そして現在でも読む価値があるのですから名著と言う他にないです。そういう意味では、あの訳の分からないブルバキ積分論(一説には駄作という評価もあり)なんかよりも余程S. Saks著"Theory of the Integral"[積分論]の方が古いけれど現在においても読む価値があると思います。
話が飛びますが、学術関係の出版社編集部に勤めている友人の話によれば、集合論や数学基礎論の話を取り上げると解説本や雑誌の売り上げが数学の他分野よりもいいそうです。その友人の言葉を借りれば、哲学的な深淵さが醸し出す雰囲気に酔い痴れるのだろうとのこと。つまり、数学の他分野に比べて素人受けするのです。本当は非常に難解な分野のはずなんですが、専門的なことを省いて(書いても理解出来るはずがないので)、数学的素養を持たない読者をいかに惹きつけられるかが勝負なんだそうです。
私はカントールについて伝記的なことも含めて何も知らないし、せいぜい精神病院で亡くなったことくらいしか知りませんでした。かと言って、今更"何とか数学者列伝"とか"何とか数学物語"とかを購入し読んで胸を熱くさせるような馬鹿な年齢でもないので、他に何か面白い記事は無いかと探しましたところ、Joseph W. Dauben博士の記事"Georg Cantor And The Battle For Transfinite Set Theory"(PDF)を見つけました。
この記事を読んで、ちゃんとした数学史の専門家がきちんと調べ上げれば、いかに伝記作者というものがいい加減であるか(と言うよりも捏造していると言った方が正確です)が分かり、百聞は一見に如かずとはまさにこういうことだと感じました。但し、自伝を除きます。自伝だからと言って全部が正確だと決して思いませんが、少なくとも本人が書いている以上は他者がどうのこうの言っても栓の無いことです。勿論立派な伝記作者はいます。例えば、故コンスタンス・リード女史(実妹が故Julia Robinson博士です)の書く数学者の伝記は信用出来ます。身内に有名な数学者がいるのに、嘘や出鱈目を書けないのは当たり前です。私はリード女史の"Hilbert"を何回も通しで読んでいますが、自伝ではない伝記本を購入して読んだのは後にも先にも、これ一冊のみと言ってもいいでしょう。それほど伝記本を読んでいない私には伝記作者達を非難する気持ちは毛頭ありませんが、以前高校の英語教諭から比較的最近に米国で出版されたエミー・ネーターの青少年向き伝記本について相談を受けたことがありました。その先生は英語研究部か何かのクラブ活動の顧問をしているらしく、夏休みの部活動としてエミー・ネーターの伝記本を採用したのだけれども、数学に関係するページの英文解釈と解説を生徒等にしてほしいという依頼でした。お借りした本を一読して、先ず本文中の数学的事項の説明が意味不明でした。巻末に一般的な百科事典から抜粋したような用語集なるものもあるのですが、これを読んで納得する青少年は先ずいないと思います。明らかに著者の数学的素養の欠如が容易に想像出来ましたが、無いなら無いで余計なことを書かなければいいのにと思いました。ネーターの伝記的なことは私もよく知らないので何とも言えませんが、分かっていることだけをしっかり書き、よく分かっていないことは知ったかぶりで書くなという当たり前のことが何故出来ないのか、本当に不思議でした。この程度のモラルで青少年向き図書かと呆れました。その青少年向き伝記本の正式なタイトルと著者名を暴露したら気持ちはいいのですが、止めておきます(高校生達の小遣いの額を考えると決して安い値段ではなかったと思いますので、かわいそうです)。関心ある人は調べてください。そして、特に日本人は国内メディア等の鵜呑み度70%という驚異的な民度の低さが海外の研究機関によって暴露されましたから、もし和訳本が出たら(またこういう疑問符がつく原書を嬉々として翻訳して出版する訳者、出版社は大いにあり得ます)宣伝文句に騙されて購入する親御さんや教師が何人かいらっしゃるかも知れません。
随分横道に逸れましたが、Dauben博士の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、最後に脚注部があるのですが、殆どの人は読みそうにもないので載せていません。興味ある方は原文をあたってください。勿論本文での脚注への言及はそのままです。
[追記: 2019年11月14日]
数学でどれくらい集合論の知識を必要とするのかと初学者の方から質問を受けました。数学基礎論や数理論理学のような分野を専攻しない限り、数学科の集合・位相講義で事足れるはずですし、皆さんのお好きな対角線論法には必ず触れます。それでは物足りない人は、上述のハウスドルフの著書や私が一年生の時に読んだ故P. R. Halmos博士の"Naive Set Theory"[素朴集合論]で充分過ぎると思います。数学科の友人共も私も基礎論方面を専攻した人がいないので、それ以上のことは知りません。
[追記: 2019年03月20日]
このペィジは2012年11月12日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
[追記: 2019年10月17日]
この記事に出て来るエリック・テンプル・ベルの本"Men of Mathematics"[日本では"数学をつくった人びと"と題されて今も出版されています]ですが、エリック・テンプル・ベルという人は数学史家のように事実を調べて書いたのではないことが明らかです。それだけならまだしもウソまででっち上げています。米国の知人から言わせるとベルの本が権威を誇った時期に、つまり第二次世界大戦前及び最中に少年期を過ごした人ならまだしも、戦後においては有害図書だと言ってました。それなのにもかかわらず、日本では現代でも未だにその日本語訳を有難く読んで胸を熱くさせている青少年がいるかと思うと呆れてしまいます。古今東西を問わず、この種のいい加減なサイエンスライター(そして、その著書を喜んで翻訳する人も含めて)が皆さんが思っている以上に多いことも残念ながら事実です。また日本人が書く一般向けの数学者の伝記(つまり、研究書や歴史書でないもの、早い話が青少年向けの偉人伝物語の類の下らないもの)は概してベルの本を下敷きにしていますから注意して下さい。
[追記: 2019年10月17日]
この記事に出て来るエリック・テンプル・ベルの本"Men of Mathematics"[日本では"数学をつくった人びと"と題されて今も出版されています]ですが、エリック・テンプル・ベルという人は数学史家のように事実を調べて書いたのではないことが明らかです。それだけならまだしもウソまででっち上げています。米国の知人から言わせるとベルの本が権威を誇った時期に、つまり第二次世界大戦前及び最中に少年期を過ごした人ならまだしも、戦後においては有害図書だと言ってました。それなのにもかかわらず、日本では現代でも未だにその日本語訳を有難く読んで胸を熱くさせている青少年がいるかと思うと呆れてしまいます。古今東西を問わず、この種のいい加減なサイエンスライター(そして、その著書を喜んで翻訳する人も含めて)が皆さんが思っている以上に多いことも残念ながら事実です。また日本人が書く一般向けの数学者の伝記(つまり、研究書や歴史書でないもの、早い話が青少年向けの偉人伝物語の類の下らないもの)は概してベルの本を下敷きにしていますから注意して下さい。
ゲオルク・カントールと超限集合論闘争
2004年 Joseph W. Dauben
ゲオルク・カントール一生の研究の要旨はよく知られている。すなわち、カントールが言うところの超限数算法の展開において彼は実無限のアイデアに数学的内容を与えた1。やがて彼は抽象集合論の基礎を築き、微積分の基礎と実数連続体の解析に重大な貢献をした。カントールの最も注目すべき業績は数学的に厳密な方法で無限の概念が区別出来ることを示した。無限集合のすべてが同じ基数とは限らず、結果的に無限集合は他者と相互比較出来る。
カントールのアイデアは最初非常に衝撃的で、しかも非常に直観に反するので、著名なフランス人数学者アンリ・ポアンカレは超限数の理論を一つの"病気"だと強く非難し、数学はいつの日かそれから治癒するだろうと述べた。カントールの先生でドイツ数学界の大物の一人であるレオポルト・クロネッカーはカントールを"科学の山師"、"裏切り者"、"青年の堕落者"と呼び、個人的な攻撃すらした2。またカントールが歳を重ねるにつれて頻繁に発生し身体衰弱させた"ノイローゼ"に生涯苦しんだことは良く知られている。発作はおそらく漸進的な心の病気の兆候だった。もっと言えば、これは、カントールの生涯の晩年1913-1918年の間、彼がハレ精神病院の患者だった時に実際に治療を担当した医師の一人の説明によって最近確認されたばかりである。医師Karl Pollittの言葉の中にはこう記されている。
若手助手として私は、周期的な躁鬱病の再発のため治療を施さなければならない著名な数学教授[ゲオルク・カントール]を手当てした3。
それにもかかわらず、早期の伝記作者にとってカントールを描くことは実に容易いことだった。つまり、カントールは自分の複雑な理論を擁護しようと努めたが、同時代人の迫害による哀れな犠牲者として、ますます内面的崩壊に長期間苦しんだと。だが、カントールの人生のより扇情的な説明は、カントールの理論に対する同時代の最も思慮深い反対者の一部に動機を与えた、まともな知的関心事を矮小化することによって真相を歪曲している。また早期伝記作者は、超限集合論の容認を勝ち取るための闘争の中で、カントールが繰り出した彼のアイデアに対する弁明のパワーと範囲を信じていない。最初カントールも実無限のアイデアは一貫的に定式化出来ないので厳密な数学にならないと信じていたので、彼の研究が示しているものに抵抗した。それでも、カントール自身の説明によれば、彼の数学の将来的展開のためには不可欠だと分かったので、超限数に関する"偏見"をすぐに克服した。カントール自身の初期段階での疑いのおかげで、いろいろな方面からの反対を予想出来、彼は数学的会合は勿論のこと、哲学的、神学的な会合を持とうとした。更には、批判に回答せよと要求された時に、カントールは相当な気力でアイデアを召集出来た。すぐ後で議論するように、彼の心の病気は決してネガティヴな役割ではなく、躁状態のなかで理論を促進し擁護するエネルギーとひたむきさの一因となった可能性が高い。ちょうど、クロネッカーのような反対者が理論に対して言わんとすることに関係なく5、カントールの無限についての解釈の神学的側面が彼に絶対的真実だと安心させた(もっと言えば、確信させた)ように。
だが、超限集合論の容認を勝ち取るためのカントールの闘争の始まり、範囲、重要性をきちんと認識出来る前に、彼の生涯と集合論の初期展開について簡単に言及することは助けとなる。
ゲオルク・カントール(1845-1918)
ゲオルク・フェルディナント・ルートヴィッヒ・フィリップ・カントールは1845年3月3日にサンクストペテルブルグで生まれた。彼の母はローマカトリック教徒であり、有名な音楽家一家の出身だった。彼の父はユダヤ人実業家の息子で、自身も成功した商人だったが、ルーテル派伝道団の中で育ったので敬虔なルーテル教徒だった。カントールの父は自身の深い信仰心を息子に伝道したことも付け加えておくべきだ。1937年に初刊され、広く読まれたEric Temple Bellの本Men of Mathematicsによれば、カントールの後半生の不安定は父との破滅的な葛藤に根差したとあるが、残存する手紙やその他彼等親子関係に関する証拠は全く逆を示している。カントールの父は、子供達を気遣い、彼等の幸福と長男の教育に特別な、しかし強圧的でない関心を持った神経質な人らしい6。
カントールがまだ子供だった時に、一家はロシアからドイツへ移住し、彼が数学の勉強を始めたのはドイツだった。数論に関する学位論文に対して1868年にベルリン大学から博士号を取得した2年後に、彼はハレ大学で私講師の職を得た。ハレ大学は立派な研究機関だったが、ゲッティンゲン大学またはベルリン大学ほど数学については世評が高くなかった。ハレ大学での同僚の一人がハインリチ・エドゥアルト・ハイネだった。ハイネはその頃三角級数の理論を研究していて、カントールに三角級数の一意性に関する難問に取り組めと励ました。27歳だった1872年にカントールは、実数論と後に超限集合と超限数の理論となる種とともに、その問題の非常に一般的な解法を含む論文を発表した。三角級数に関するカントールの最初の論文は、実際には2年前の1870年に出現していて、函数が区間全体で連続ならば、その三角級数による展開は一意であることを示した。カントールの次のステップは、函数が有限個の例外点を除き区間全体で連続という条件を緩めることだった。カントールの一意性定理の、より一般的な条件の探求は、1872年に例外点が入念に指定された方法で分布している限り無限個存在し得る、という証明となった。
その新しい結果の証明で最も重要なステップは、例外点の無限集合の正確な記述だった。カントールはそれを第一種集合(すなわち、ある有限値vに対する集積点の集合Pvを導集合として持つ集合Pは結局は空集合である)と呼んだ。第一種の点集合の実際の構造を正確に記述するためには、連続体の確固たる解析を可能にする強度な実数論を必要だと分かった。
カントールとデデキント: 実数
詳細に連続体の概念を研究しているのはカントール一人ではなかった。カントールの論文が出現した同年の1872年に、ドイツ人数学者リヒャルト・デデキントも無限集合に基づいた連続体の解析を発表した。論文の中でデデキントは(後にカントールがもっと正確にした)アイデアを詳細に述べた。
個々の数字における有理数の領域よりも個々の点における直線の方が無限に濃い8。
しかし、デデキントの言明は致命的な弱点を隠している。有理数の無限集合と比べて連続体の点の無限集合はどのくらい多いのかと誰かがデデキントに聞いていたならば、彼は答えられなかったであろう。この問題に対するカントールの主要な貢献は1874年のクレレジャーナルに発表された。
カントールが示したことは実数の非可算性で、やがて現代数学を一変する発見だった。カントールの論文は短く3ページで、しかも奇妙なタイトルがついていた: "On a Property of the Collection of All Real Algebraic Numbers"9[訳注: 実代数的数の族の一概念について]。
だが、タイトルを一見して、これが実数連続体の非可算性というカントールの革命的発見を公開していたとは誰も思わなかったであろう。かわって、意図的に欺いているタイトルは主要な結果が代数的数の一定理だと思わせ、論文が実質的に含んでいる、もっと重要な点のヒントにもなっていない。今から思えば現代数学の最も重要な発見の一つだと現在の読者が考えるものに対して、そのような不適切なタイトルをカントールに選ばせたのは何だったのだろうか?
カントールが元々論文を書いた1873年後半は彼がほぼ30歳だったが、数学的キャリアの始めに過ぎなかった。1869年にハレ大学の教員に加わる前に、その時代の偉大な数学者(クンマ、ヴァイエルシュトラス、クロネッカー)に就いて学んだ。ヴァイエルシュトラスのセミナーで、カントールは有理数の集合Qと自然数の集合Nの同等性を示すため既に一対一対応の手法を使っていた(たとえ有理数の集合が稠密であり整数の集合が稠密でなくても、Qは可算である)。これは後に、カントールが代数的数の可算性を示す1874年の論文の中で使用した方法と同じだった。
1872年までに、主として三角級数の展開一意性定理によって浮上した面白い問題のため、カントールは連続体の構造にますます関心を持った。これらの問題は彼の導入した第一種点集合(これは必ず可算である)に依存した。点集合Pに対して、カントールはその集積点の集合P'を定義した。P'の集積点の集合は2番目の導集合P2を形成した等々。ある有限値nに対してPnが空集合である限り第一種集合と呼ばれた。もし連続体も可算であると示せれるなら(有理数と代数的数は可算だと証明されていたので)、カントールは第一種集合によって連続体の特徴づけを望んだであろう。
デデキントへの手紙(1873年12月2日)の中で、カントールは実数と自然数間のような一対一対応は可能ではないという仮説がもっともらしいとは認めていたけれども、この仮説が成立する理由が分からなかった。他方で、そのような対応が不可能であることを示せれるなら、これは超越数存在に関するリウビルの定理の新しい証明を与えるだろうことを知っていた10。
数日の間にカントールは遂に答えを見つけ、1873年12月7日にデデキントへ手紙を書き、NとR間の一対一対応は不可能であることを説明した。ベルリンにいた月末にカントールはヴァイエルシュトラスに証明を見せる機会を持った。ヴァイエルシュトラスは感銘を受け、カントールに結果を発表せよと勧めた。それは数週間の間にクレレジャーナルに現れた。だが、既に注記したように、明らかに不適切な"On a Property of the Collection of All Real Algebraic Numbers"というタイトルがついていた。
今、カントールがわざと不明瞭なタイトルを選ばなければならなかった理由に立ち戻ろう。Walter PurkertとHans Joachim Ilgaudsは最近、彼等の本Georg Cantorの中で、一つの答えを提案した。ヴァイエルシュトラスは代数的数の可算性についてカントールの結果に関心を持ったと彼等は論じる。従って、カントールは論文のタイトルでこの結果を強調した11。ヴァイエルシュトラスの関心が代数的数の可算性(ヴァイエルシュトラスは早速、連続だが至る所微分可能でない関数の実例を作るために結果を応用した)にあることはカントールがデデキントに語っていたことだけれども、そのような"抑制した品性"を論文に与えた本当の理由は部分的には"ベルリンでの環境"のためとカントールは語った12。この謎めいた言葉でカントールが意味したことは何であれ、何が論文のタイトルを必要としたのだろうか?
答えは、ベルリンでのカントールのもう一人の先生レオポルト・クロネッカーにかかっている。クロネッカーに就いて勉強したので、カントールは数論と代数におけるクロネッカーの研究と数学に関する超保守的な見解をよく知っていた。1870年代初期までに、クロネッカーは既にボルツァノ-ヴァイエルシュトラスの定理、上限と下限、一般的には無理数に猛烈に反対した。数学の満足いく基礎だけのために整数を使うこと対して頑固で有名な抵抗は勿論のこと、解析学と集合論にも反対するクロネッカーの後年の宣告も初期的見解の単純な延長だった13。
これを留意すれば、カントールはクロネッカーが実数の非可算性の証明に反対することを予期したと推測するのは不合理ではない。超越数の存在を確認するいくつかの結果(例えばカントールのもの)はきっとクロネッカーに批判されていたであろう。もっと悪いことには、クロネッカーはカントールが論文を投稿した学術雑誌の編集委員だった。カントールが"実数の集合は非可算無限である"もしくは"超越数の存在に関する新しく独立した証明"という風により直接的なタイトルをつけていたならば、クロネッカーから強く否定的な反応があると予想していたのであろう。結局、後にリンデマンが1882年にπの超越性を確定した時、クロネッカーは無理数が存在しないのだから、その結果は何の価値があるのかと問うた14。
カントールが1874年に論文発表を熟慮したように、当り障りの無いタイトルは明らかに戦略的な選択だった。代数的数のみへの言及はクロネッカーの目に注目させず、素通りする絶好の機会だったのであろう。と言うのは、すぐには関心または非難を起こさせるものが無かったからだ。
カントールが隠し通していたであろうアイデアにクロネッカーがそのような早期に反対することを恐れていたということに根拠が無いと思えるならば、クロネッカーが既にハレ大学でのカントールの同僚ハイネに三角級数の論文をクレレジャーナルに発表しないように説得していたことは特記に値する。ハイネの論文は結局発表されたけれども、クロネッカーは少なくとも発表を遅らせることに成功した(そのことについて、ハイネはシュヴァルツや、カントールの友人の一人に手紙を書いて怒った15。1870年5月3日のハイネからシュヴァルツへの手紙で下線を引いた部分がクロネッカーのハイネ論文発表の妨害を説明している。間違い無くシュヴァルツとハイネは共に、クロネッカーが反対するアイデアを妨害するための用意(と能力)を話題にしてカントールの注意を惹いた。
実際数年後に、クロネッカーはカントールの次元不変性に関する1878年の論文発表も遅らせた。これはカントールを非常に怒らせたので、クレレジャーナルには何も発表しなくなった。十年後、カントールはクロネッカーを公私共に脅威と見なした(クロネッカーは集合論を非難していただけではなく、ヴァイエルシュトラス流の解析学をも非難していたからだ16)。
しかし、カントールの研究に対するクロネッカーの反対はいい面もあった。と言うのは、カントールが集合論を作り上げている最中に、その基礎を吟味することを余儀無くさせたからだ。この事は、1880年代の集合論に関するカントールの主著、1883年のGrundlagen einer allgemeinen Mannigfaltigkeitslehre[訳注: 集合の一般論の基礎]の中で、長い哲学的な一節を促した。数学に関するカントールの最も有名な宣言の一つを発したのは、この本の中だった。すなわち、数学の本質は紛れも無くその自由性である、と17。これは単に数学仲間への学問的または哲学的メッセージではなく、深く隠れていた個人的テーマも伝えていたからだ。カントールが後でダフィット・ヒルベルトに認めた通り、数学者達の客観性と寛大さへの嘆願だった。これは、クロネッカーに代表されるように(もっと悪いことに、クロネッカーは敵対する人達へ破廉恥で且つ損害を与えるような手段を行使した)、カントールが感じた圧制と権威主義的な閉鎖性による直接的な啓示だったと言った。
従って、キャリアの始まりで、超限集合論について挑戦的なアイデアを展開する前であっても、カントールはクロネッカーの反対の最初の苦しい経験をした。間違い無くカントールは将来の更なるトラブルを予期出来た。
カントールが始めて連続体仮設(実数の集合の基数は自然数の可算集合の基数よりも大きく、次に来る)を確立しようとしたのも1883年だった。しかし、連続体仮設を証明する努力は成功せず、カントールに相当なストレスと不安を引き起こした。1884年の初めに証明を見つけたと思ったが、数日後前言を完璧に翻して、仮設が間違いであると証明出来たと思った。ミッタク=レフラーに手紙で知らせた通り、カントールは全く進展が無かったことを認めた。その間中でも、カントールは累積する反対意見とクロネッカーからの脅し(クロネッカーは"現代函数論と集合論の結果は全く重要でない"ことを示す論文を準備していると言った18)に耐えなければならなかった。
その後すぐの1884年の5月に、カントールは最初の深刻なノイローゼにかかった。連続体仮設の進展が無いことのフラストレーションとクロネッカーの攻撃からのストレスも発作の引起す要因となったかも知れないが、現在では、そのような事柄は根底にある原因とは殆ど関係が無いと思われる。病気は驚くべき速さで進み、一ヶ月間くらい長引いた。当時、躁鬱病の躁状態のみが症状とされた。カントールが1884年6月末に"治癒"し鬱状態に入った時、確固たる数学的思考に戻るためのエネルギーと関心が欠乏したと不平を言った。カントールは大学で下らない管理上の問題の世話をすることで満足したが、殆ど何も出来ないように思った。
カントールは結局数学に戻ったが、ますます他の関心事に夢中になった。英語の歴史と文学の研究に乗り出し、当時の人が真剣に受け止めた学問的な娯楽(シェークスピアの戯曲の本当の作者はフランシス・ベーコンであるという仮定)に夢中になった。カントールはまた(成功しなかったが)数学の替わりに哲学を教えようとし、無限に関するカントールの理論の哲学的影響に関心を抱いた多くの神学者と文通を始めた。カントールは神からのメッセージとして超限数が来たと固く信じていたので、この文通は特別に重要だった。だが、既にお約束したように、この重要性をすぐにもっと見てみよう。
説得力があり満足のいく数学的防御を積み重ねる、絶え間の無いカントールの努力の一部分として言及すべき、超限集合論のテクニカルな展開の最後の要素がまだある。すなわち、超限基数の本質と地位だ。
アレフは多分カントールの創造物の最も有名な遺産ではあるけれども、それは厳密な定義または特殊シンボルを与えるべき理論の最後の部分だったから、超限基数に関するカントールの考え方の進化は不可思議である。実際、後から振り返ってカントールが手探り状態であったに違いない曖昧さを再構成することは困難であり、無限集合の冪が基数として理解されることをカントールがあたかも分かっていたかのように、彼の研究を今までここで議論して来た。もっとはっきり言えば、1880年代早期の初めに、カントールは最初に導集合の無限(実際は超限数)列に対して記号Pvを導入し、第一種集合に初期段階で課した限界を超えて、それを上手く拡張した。この時、数として何も言わず、無限のシンボル"として添え字に言及しただけだった20。
カントールが1883年にGrundlagenを書いた時までに、超限順序数は遂に数として独立した地位を達成し、お馴染みのオメガ記号が与えられた。しかし、カントールは他の任意の集合と同等(または、それより少ないか)を確立するのは集合の冪だと明らかに分かっていたけれども、超限基数について何ら言及が無かった。それにもかかわらず、カントールは無限集合の冪が数として解釈出来るという提議を注意深く避けた。
しかし、間も無くカントールは2つの概念を同一視し始め、1883年の9月までにフライブルクの会合の数学者への講義で、そのようにした21。たとえそうであっても、最小超限順序数を明示するためにシンボルωを与えてしまっていたので、一つの超限基数を他者と区別するための記号はまだ与えられなかった。第一超限基数に対してカントールが遂にシンボルを導入した時、超限順序数に対して既に使っていたシンボルを借りていた。1886年までに、文通の中でカントールは第一超限基数をωとして記述し始めた。次に最も大きいものをΩと記した。この記号はあまりフレキシブルでなかったので、数ヶ月中にカントールは超限基数の上昇階層全体を記述出来る、もっと一般的な記号が必要だと認識した。一時的にカントールは基数列を記述するため"o"のフラクトゥール(明らかにオメガの派生だ)を使った。
暫くの間、カントールは実際に超限基数に対して上付きスター、バー、フラクトゥール"o"を交互に(出来る限り好ましいものを決める必要を意識しないで)使った。だが、1893年にイタリア人数学者Giulio Vivantiが集合論の一般的解説書を準備していて、カントールは標準記号を採用すべき時だと認識した。お馴染みのギリシア文字とローマ文字は既に数学においては他の目的で非常に幅広く採用されいるとカントールは思ったので、超限基数に対してアレフを選んだだけだった。カントールの新しい数は区別されユニークなものにするに相応しかった。だからヘブライ文字aleph(ドイツの印刷機の文字フォントの中では簡単に可能だった)を選んだ。カントールが喜んで認めた通り、ヘブライのアレフは数字1のシンボルでもあるから、この選択は特に賢明だった。超限基数はそれ自体で単一の無限であるから、アレフは数学の新しい始まりを意味するだろう。1893年にカントールは第一数クラスの超限基数をaleph1と明記したが、1895年までに心変わりしてaleph0(以前までカントールがωと呼んでいた数)とし、第二数クラスの超限基数はaleph1と明記された22。
カントールは1895年と1897年に集合論へ最後の主要な貢献をした。任意の集合の基数は必ずその部分集合の集合の基数よりも小さいことを示すためカントールは1891年に有名な対角線論法を既に使っていた23。数年後、カントールはこの結果の系、連続体の基数は2aleph0に等しいこと(今日では簡単に2aleph0 = aleph1と表現出来る)を提示し、この結果がすぐに連続体仮設の解決へ繋がるだろうことを希望した。
しかし、部分集合の冪集合の基数に関するカントールの証明の議論は全く異なった結論を引き起こした。これらの最も重要なものは1903年にバートランド・ラッセルによってなされた。要素としてそれら自体を含まないすべての集合を考えることによって、ラッセルは集合論の中にパラドックスが導き出されることを示した。ラッセルのパラドックスはカントールの集合の定義に根本的に何らかの間違いがあることを示し、この認識の影響は20世紀数学の主要問題となった24。
しかし、バートランド・ラッセル以前でさえ、カントールは最大順序数または最大基数のアイデアに関連付けた矛盾の形で集合論の中に彼自身のパラドックスを既に持っていた。これは最初に1897年のヒルベルトへの手紙、そして1899年のデデキントへの手紙で説明されていた。例えば、1899年8月3日のデデキントへの手紙の下書きには、多くの題材の追加と削除に囲まれた左側欄外のA判付近に、カントールは"すべての数のシステムΩは絶対的に矛盾した無限の集まりだ"と書いていた25。
だが、私が今結論で示したいように、もっと早い時、おそらく1880年代と同時期にカントールは集合論のパラドックスに気づいていた可能性が高い。その時期は、クロネッカー相手の苦労がカントールの心に重荷となっていて、集合論で最初の深刻な技術的問題を経験した始まりだった。
例えば1883年のGrundlagenと同じくらいの早期に、カントールは族(明確に述べられていて、完全であり、統合化されている集まりとして理解されるには余りにも大きすぎる、と彼は言った)に言及していた。残念ながらカントールは明らかに神学的言葉で絶対集合に論及して不明瞭に書いており、"真の無限または絶対は神の中にあって、決定されない"と説明していた26。
Grundlagenに付いている脚注には、カントールは更に進めて"数の絶対無限連続列には相応しいシンボルabsoluteがいいと思う"と説明していた27。これが、超限順序数すべての族は矛盾しているので集合とは見なさない、ということをカントールが知っていた暗示だったのか? 後にカントールはその真意を語り(その時でさえベールに包まれた合図であるが)、すべての超限順序数から成る整列順序化された集合に対応する超限順序数は何であるべきかを決定する試みから成立するパラドックスな結果に気づいていたと言った。
1890年代半ばまでに、カントールが絶対的集まりに関してそれほど曖昧ではなかろうし、超限順序数または超限基数すべての集合を考慮することから来るパラドックスな結果について、もっとはっきりさせなければならなかった。そのような数学的パラドックスを扱うためにカントールがその時考案した解法は、単純に集合論からそれらを除外することだった。明確に述べられていて、統合されており、一貫性のある集合と見なすには余りにも大きすぎるものすべてが矛盾と断言された。これらは"絶対的"族であったし、数学的決定の可能性の範疇外に存在する。これが本質的にカントールが手紙で最初は1897年にヒルベルトへ、いくぶん遅れて1899年にデデキントへ知らせたことである28。
1880年代初期にカントールがパラドックスを気づいていただろう程度が何であれ、カントールはクロネッカーの増大し、ますます声高になっている反撃に対して確実に敏感だった。とりわけ、Grundlagenで述べられた哲学的懸念が新理論防御のためのカントールの見解の中で戦略的にきわめて重大だったことは明らかである。これはその時に異常だっただけではなく、ずっとそうである。ミッタク=レフラーがカントールの集合論の論文のフランス語訳をミッタク=レフラーが新しく創刊した雑誌Acta Mathematicaへ載せる許可をカントールに求めた時に、理論に興味を持つが哲学を受け付けないだろう数学者にとって不必要(且つ、おそらくミッタク=レフラーの考えでは不愉快)としてミッタク=レフラーはGrundlagenの哲学部分全体を落とすようにカントールを説得した29。
しかし、哲学的議論はミッタク=レフラーにとってはともかくも、カントールにとっては本質的だった。それらは多方面(だが、特にクロネッカー)からの反対を打倒すべくカントールが構築し始めた精巧な防御の一部なので本質的だった。その策略は、首尾一貫している理論を認める数学の自由性に基づいた正当性を推進することだった。応用はどの数学理論が便利かを決定するかも知れないが、数学者にとって唯一本当の問題は一貫性だとカントールは主張した。勿論、これはクロネッカーのような権威主義的な数学者に挑戦するためカントールが必要とした解釈に過ぎなかった。キャリアの初期で、カントールは明らかに自分の理論を公正に聞くようベストを尽くして嘆願しなければならないと感じた。首尾一貫している限り数学的に合法と取られるべきであり、クロネッカーの構成主義者、有限主義者的批判は、一貫性のみが実現可能な試金石であるべき殆どの数学者から無視されるかも知れない。
カントールは数学の自由性に関する自分の哲学を1890年代の初期に実行に移した。その時期の彼のキャリアは単に書くことよりも多くのことを出来る地位にいた。1880年代の間、カントールは既にドイツにおける独立数学者連合のための戦略的基礎を築いていた。カントールが文通でしばしば明らかにした通り、そのような連合の特定の目標はオープンフォーラムを特に若い数学者に対して与えることだった。連合(カントールが思い描いた通り)は、向上心に燃える数学者を簡単に破滅するかも知れない保守的年配権威者のメンバーからの偏見的批判無しに数学的結果の自由で開かれた議論を誰もが期待出来ることを保証するであろう。とりわけ、これは問題のアイデアが全く新しく、革命的もしくは議論を呼ぶ場合には必要だった。
カントールはドイツ数学協会設立のため集中的に働いた。結局賛同は達成し、ドイツ数学者連合はドイツ科学医学者協会の年次総会に合わせて開催し、1891年ハレで会合を持った。カントールは連合初代会長に選出され、彼の今や有名な証明、実数は非可算であることを対角線論法で示した30。
ドイツ数学者連合はカントールの夢の終わりではなかった。彼は国際的なフォーラムも推進する必要を感じ、ドイツ数学協会設立後すぐに正式な国際会議のためのロビー活動を始めた。国際会議は結局多くの数学者の協同の努力を通して組織されたのであって、直接的にカントール一人だけの努力の結果では決してないことを付け加えておくべきだ。国際会議の一回目が1897年にチューリッヒで、二回目がパリで1900年に開催された。
数学の議論のために新しい道を推進することが、カントール自身の研究が引き起こした敵対の類に対して彼が反発した一つの方法だった。批判(特にクロネッカーから)にもかかわらず、集合論に関するいくつかの最も基本的な問題(特に連続体仮設)の解決の自身の度重なる失敗さえものともしないで、たとえ躁鬱病のますます深刻な繰り返しが起こっていても、カントールは困難に屈せずにやり抜いた。皮肉にもクロネッカーとの対立のように、カントールの躁鬱病も有用な目的に適ったのかも知れない。カントール自身の心の中で、躁鬱病は強く持っていた宗教的確信から集合論が引き出した絶対確実な支えと密接に連結されていた。手紙(と彼を知っていた同僚の証言)は、カントールが集合論の真実を幅広い信奉者にもたらすために神によって選ばれたと信じていたと明かす。またカントールは1880年代に彼を悩ませ始めた躁鬱病の引き続く波(猛烈な活発化のピークに続いて、ますます長引く内省の期間が続いた)を神の力による霊感と見なした。病院での長期の隔離は邪魔されない黙想の機会を与えた。その黙想の間、カントールは集合論が絶対的真実(他人が何と言おうとも)であるという声を以って励ますミューズの訪問を思い描いた。
数学者、哲学者、神学者(カントールはある時点で無限についてPope Leo XIIIにも手紙を書いていた)に集合論を推進する間に、カントールは超限集合論の正当性を確保したと確信した31。首尾一貫性と数学の本質的な自由性を強調することにより、カントールも知的疑問の必須要素を前進させた。真実を追究するためには、それがどこへ行こうとも心は自由でなければならない。インスピレーションは勝手な偏見に惑わされずに奨励されるべきである。カントールにとって、これは標準の一貫性と有用性によって審理される理論のための忍耐を意味した。
集合論のイメージ
終結するにあたって、まだもう一つの考慮するに値する重要な、カントールの心の病気と数学の関係がある。あるドキュメントは、瞑想と現実逃避の周期期間の執行に加えて、カントールの鬱の期間が全くの非生産的ではなく、もっと言えば、病院または家での安静の独居の中でカントールは頻繁に数学的アイデアを追究出来た、と示唆している。いやそれどころか、病気はカントールの信念、超限数は神により彼に送られて来たということの支えとなっていたようである。もっと言えば、カントールの最後の発表物1895年のBeiträge[訳注: 投稿]において第3の標語の中に、
現在貴方には見えないものが、はっきりと現れる時が来るだろう32。
と書いていた。
これはバイブル、第一コリント書からのお馴染みの一節であり、カントールが天啓を伝える役務の仲介者だったという自身の信念を反映している。また、カントールの研究への広く行われている抵抗にもかかわらず、すべての所で数学者が認知し賞賛する素晴らしい日が来るであろうというカントールの誓約を伝えていたであろう。
勿論、大衆扇動者がよくするようにカントールの考えの宗教要素を誤って解釈するのは容易だ。少し前、フランスの雑誌La Recherche[訳注: 研究]に発表された記事は確かにそうだった。その記事は、カントール、彼の宗教観、精神病、超限集合論に関する解説をイラスト化して、次のような風刺漫画を載せた33。最初のイラストは、言わばエクスタシー状態で神のメッセージを受けているカントールを描いている。2番目のイラストでは、銃を持つ人物(勿論クロネッカーを意味する)とカントールのバランスを支えている神が登場し、それらすべてが不安定に超限アレフに載っている。
だが、このすべてに深刻な側面があり、強調されるべく価値がある。例えば、1908年の長期入院に続いて、カントールはゲッティンゲンにいる友人、英国人数学者Grace Chisholm Youngに手紙を書いた。カントールが以下に書いた通り、躁鬱病は際立って創造的な品質を引き受けた。
奇妙な宿命は神のおかげで何ら私を壊して来なかった。いや、それどころか、数年前の私よりも内面的に私を強くし、幸福にし、もっと楽しくして、そして私を家から遠ざけている。つまり、世界から遠ざけているとも言えるだろう...長期隔離で、数学も、特に超限数も私の中では眠りも横たえもしなかった。この分野で長い間私がしなければならない最初の発表は"ロンドン数学協会報告"を念頭に書かれている34。
他のどこかで、カントールは実際に彼の理論の真実についての確信を明確に擬似宗教的言葉で以下のように書いていた。
私の理論は岩のような堅固さで立っている。理論に向けて放たれたすべての矢はすぐに射手に返るだろう。どうして私がこれを分かるか? 長年様々な角度から研究して来たからだ。長年様々な角度から吟味して来たからだ。無限数に対して作られて来た反対意見をすべて吟味して来たからだ。そして、何よりも、その根元、言わば万物の絶対確実な第一要因に従って来たからである35。
後世代は哲学を捨て、カントールのSt. ThomasまたはChurch Fathersへの言及の多さに不審がり、形而上学的な声明を見落とし、理論の絶対真実に対するカントールの後半生の深く堅固な信頼を全く見落としているのかも知れない。
だが、これらすべての関わりが超限数を放棄しないというカントールの決意に貢献した。反対意見はカントールの決定を強くしたようだ。カントールが他に貢献していただろうことと同じくらいに彼の踏ん張りは、集合論が猜疑と非難の初期を生き抜き、結局は20世紀数学において堅固で革命的な力となって繁栄することを確実にした。
脚注
以下省略
カントールのアイデアは最初非常に衝撃的で、しかも非常に直観に反するので、著名なフランス人数学者アンリ・ポアンカレは超限数の理論を一つの"病気"だと強く非難し、数学はいつの日かそれから治癒するだろうと述べた。カントールの先生でドイツ数学界の大物の一人であるレオポルト・クロネッカーはカントールを"科学の山師"、"裏切り者"、"青年の堕落者"と呼び、個人的な攻撃すらした2。またカントールが歳を重ねるにつれて頻繁に発生し身体衰弱させた"ノイローゼ"に生涯苦しんだことは良く知られている。発作はおそらく漸進的な心の病気の兆候だった。もっと言えば、これは、カントールの生涯の晩年1913-1918年の間、彼がハレ精神病院の患者だった時に実際に治療を担当した医師の一人の説明によって最近確認されたばかりである。医師Karl Pollittの言葉の中にはこう記されている。
若手助手として私は、周期的な躁鬱病の再発のため治療を施さなければならない著名な数学教授[ゲオルク・カントール]を手当てした3。
それにもかかわらず、早期の伝記作者にとってカントールを描くことは実に容易いことだった。つまり、カントールは自分の複雑な理論を擁護しようと努めたが、同時代人の迫害による哀れな犠牲者として、ますます内面的崩壊に長期間苦しんだと。だが、カントールの人生のより扇情的な説明は、カントールの理論に対する同時代の最も思慮深い反対者の一部に動機を与えた、まともな知的関心事を矮小化することによって真相を歪曲している。また早期伝記作者は、超限集合論の容認を勝ち取るための闘争の中で、カントールが繰り出した彼のアイデアに対する弁明のパワーと範囲を信じていない。最初カントールも実無限のアイデアは一貫的に定式化出来ないので厳密な数学にならないと信じていたので、彼の研究が示しているものに抵抗した。それでも、カントール自身の説明によれば、彼の数学の将来的展開のためには不可欠だと分かったので、超限数に関する"偏見"をすぐに克服した。カントール自身の初期段階での疑いのおかげで、いろいろな方面からの反対を予想出来、彼は数学的会合は勿論のこと、哲学的、神学的な会合を持とうとした。更には、批判に回答せよと要求された時に、カントールは相当な気力でアイデアを召集出来た。すぐ後で議論するように、彼の心の病気は決してネガティヴな役割ではなく、躁状態のなかで理論を促進し擁護するエネルギーとひたむきさの一因となった可能性が高い。ちょうど、クロネッカーのような反対者が理論に対して言わんとすることに関係なく5、カントールの無限についての解釈の神学的側面が彼に絶対的真実だと安心させた(もっと言えば、確信させた)ように。
だが、超限集合論の容認を勝ち取るためのカントールの闘争の始まり、範囲、重要性をきちんと認識出来る前に、彼の生涯と集合論の初期展開について簡単に言及することは助けとなる。
ゲオルク・カントール(1845-1918)
ゲオルク・フェルディナント・ルートヴィッヒ・フィリップ・カントールは1845年3月3日にサンクストペテルブルグで生まれた。彼の母はローマカトリック教徒であり、有名な音楽家一家の出身だった。彼の父はユダヤ人実業家の息子で、自身も成功した商人だったが、ルーテル派伝道団の中で育ったので敬虔なルーテル教徒だった。カントールの父は自身の深い信仰心を息子に伝道したことも付け加えておくべきだ。1937年に初刊され、広く読まれたEric Temple Bellの本Men of Mathematicsによれば、カントールの後半生の不安定は父との破滅的な葛藤に根差したとあるが、残存する手紙やその他彼等親子関係に関する証拠は全く逆を示している。カントールの父は、子供達を気遣い、彼等の幸福と長男の教育に特別な、しかし強圧的でない関心を持った神経質な人らしい6。
カントールがまだ子供だった時に、一家はロシアからドイツへ移住し、彼が数学の勉強を始めたのはドイツだった。数論に関する学位論文に対して1868年にベルリン大学から博士号を取得した2年後に、彼はハレ大学で私講師の職を得た。ハレ大学は立派な研究機関だったが、ゲッティンゲン大学またはベルリン大学ほど数学については世評が高くなかった。ハレ大学での同僚の一人がハインリチ・エドゥアルト・ハイネだった。ハイネはその頃三角級数の理論を研究していて、カントールに三角級数の一意性に関する難問に取り組めと励ました。27歳だった1872年にカントールは、実数論と後に超限集合と超限数の理論となる種とともに、その問題の非常に一般的な解法を含む論文を発表した。三角級数に関するカントールの最初の論文は、実際には2年前の1870年に出現していて、函数が区間全体で連続ならば、その三角級数による展開は一意であることを示した。カントールの次のステップは、函数が有限個の例外点を除き区間全体で連続という条件を緩めることだった。カントールの一意性定理の、より一般的な条件の探求は、1872年に例外点が入念に指定された方法で分布している限り無限個存在し得る、という証明となった。
その新しい結果の証明で最も重要なステップは、例外点の無限集合の正確な記述だった。カントールはそれを第一種集合(すなわち、ある有限値vに対する集積点の集合Pvを導集合として持つ集合Pは結局は空集合である)と呼んだ。第一種の点集合の実際の構造を正確に記述するためには、連続体の確固たる解析を可能にする強度な実数論を必要だと分かった。
カントールとデデキント: 実数
詳細に連続体の概念を研究しているのはカントール一人ではなかった。カントールの論文が出現した同年の1872年に、ドイツ人数学者リヒャルト・デデキントも無限集合に基づいた連続体の解析を発表した。論文の中でデデキントは(後にカントールがもっと正確にした)アイデアを詳細に述べた。
個々の数字における有理数の領域よりも個々の点における直線の方が無限に濃い8。
しかし、デデキントの言明は致命的な弱点を隠している。有理数の無限集合と比べて連続体の点の無限集合はどのくらい多いのかと誰かがデデキントに聞いていたならば、彼は答えられなかったであろう。この問題に対するカントールの主要な貢献は1874年のクレレジャーナルに発表された。
カントールが示したことは実数の非可算性で、やがて現代数学を一変する発見だった。カントールの論文は短く3ページで、しかも奇妙なタイトルがついていた: "On a Property of the Collection of All Real Algebraic Numbers"9[訳注: 実代数的数の族の一概念について]。
だが、タイトルを一見して、これが実数連続体の非可算性というカントールの革命的発見を公開していたとは誰も思わなかったであろう。かわって、意図的に欺いているタイトルは主要な結果が代数的数の一定理だと思わせ、論文が実質的に含んでいる、もっと重要な点のヒントにもなっていない。今から思えば現代数学の最も重要な発見の一つだと現在の読者が考えるものに対して、そのような不適切なタイトルをカントールに選ばせたのは何だったのだろうか?
カントールが元々論文を書いた1873年後半は彼がほぼ30歳だったが、数学的キャリアの始めに過ぎなかった。1869年にハレ大学の教員に加わる前に、その時代の偉大な数学者(クンマ、ヴァイエルシュトラス、クロネッカー)に就いて学んだ。ヴァイエルシュトラスのセミナーで、カントールは有理数の集合Qと自然数の集合Nの同等性を示すため既に一対一対応の手法を使っていた(たとえ有理数の集合が稠密であり整数の集合が稠密でなくても、Qは可算である)。これは後に、カントールが代数的数の可算性を示す1874年の論文の中で使用した方法と同じだった。
1872年までに、主として三角級数の展開一意性定理によって浮上した面白い問題のため、カントールは連続体の構造にますます関心を持った。これらの問題は彼の導入した第一種点集合(これは必ず可算である)に依存した。点集合Pに対して、カントールはその集積点の集合P'を定義した。P'の集積点の集合は2番目の導集合P2を形成した等々。ある有限値nに対してPnが空集合である限り第一種集合と呼ばれた。もし連続体も可算であると示せれるなら(有理数と代数的数は可算だと証明されていたので)、カントールは第一種集合によって連続体の特徴づけを望んだであろう。
デデキントへの手紙(1873年12月2日)の中で、カントールは実数と自然数間のような一対一対応は可能ではないという仮説がもっともらしいとは認めていたけれども、この仮説が成立する理由が分からなかった。他方で、そのような対応が不可能であることを示せれるなら、これは超越数存在に関するリウビルの定理の新しい証明を与えるだろうことを知っていた10。
数日の間にカントールは遂に答えを見つけ、1873年12月7日にデデキントへ手紙を書き、NとR間の一対一対応は不可能であることを説明した。ベルリンにいた月末にカントールはヴァイエルシュトラスに証明を見せる機会を持った。ヴァイエルシュトラスは感銘を受け、カントールに結果を発表せよと勧めた。それは数週間の間にクレレジャーナルに現れた。だが、既に注記したように、明らかに不適切な"On a Property of the Collection of All Real Algebraic Numbers"というタイトルがついていた。
今、カントールがわざと不明瞭なタイトルを選ばなければならなかった理由に立ち戻ろう。Walter PurkertとHans Joachim Ilgaudsは最近、彼等の本Georg Cantorの中で、一つの答えを提案した。ヴァイエルシュトラスは代数的数の可算性についてカントールの結果に関心を持ったと彼等は論じる。従って、カントールは論文のタイトルでこの結果を強調した11。ヴァイエルシュトラスの関心が代数的数の可算性(ヴァイエルシュトラスは早速、連続だが至る所微分可能でない関数の実例を作るために結果を応用した)にあることはカントールがデデキントに語っていたことだけれども、そのような"抑制した品性"を論文に与えた本当の理由は部分的には"ベルリンでの環境"のためとカントールは語った12。この謎めいた言葉でカントールが意味したことは何であれ、何が論文のタイトルを必要としたのだろうか?
答えは、ベルリンでのカントールのもう一人の先生レオポルト・クロネッカーにかかっている。クロネッカーに就いて勉強したので、カントールは数論と代数におけるクロネッカーの研究と数学に関する超保守的な見解をよく知っていた。1870年代初期までに、クロネッカーは既にボルツァノ-ヴァイエルシュトラスの定理、上限と下限、一般的には無理数に猛烈に反対した。数学の満足いく基礎だけのために整数を使うこと対して頑固で有名な抵抗は勿論のこと、解析学と集合論にも反対するクロネッカーの後年の宣告も初期的見解の単純な延長だった13。
これを留意すれば、カントールはクロネッカーが実数の非可算性の証明に反対することを予期したと推測するのは不合理ではない。超越数の存在を確認するいくつかの結果(例えばカントールのもの)はきっとクロネッカーに批判されていたであろう。もっと悪いことには、クロネッカーはカントールが論文を投稿した学術雑誌の編集委員だった。カントールが"実数の集合は非可算無限である"もしくは"超越数の存在に関する新しく独立した証明"という風により直接的なタイトルをつけていたならば、クロネッカーから強く否定的な反応があると予想していたのであろう。結局、後にリンデマンが1882年にπの超越性を確定した時、クロネッカーは無理数が存在しないのだから、その結果は何の価値があるのかと問うた14。
カントールが1874年に論文発表を熟慮したように、当り障りの無いタイトルは明らかに戦略的な選択だった。代数的数のみへの言及はクロネッカーの目に注目させず、素通りする絶好の機会だったのであろう。と言うのは、すぐには関心または非難を起こさせるものが無かったからだ。
カントールが隠し通していたであろうアイデアにクロネッカーがそのような早期に反対することを恐れていたということに根拠が無いと思えるならば、クロネッカーが既にハレ大学でのカントールの同僚ハイネに三角級数の論文をクレレジャーナルに発表しないように説得していたことは特記に値する。ハイネの論文は結局発表されたけれども、クロネッカーは少なくとも発表を遅らせることに成功した(そのことについて、ハイネはシュヴァルツや、カントールの友人の一人に手紙を書いて怒った15。1870年5月3日のハイネからシュヴァルツへの手紙で下線を引いた部分がクロネッカーのハイネ論文発表の妨害を説明している。間違い無くシュヴァルツとハイネは共に、クロネッカーが反対するアイデアを妨害するための用意(と能力)を話題にしてカントールの注意を惹いた。
実際数年後に、クロネッカーはカントールの次元不変性に関する1878年の論文発表も遅らせた。これはカントールを非常に怒らせたので、クレレジャーナルには何も発表しなくなった。十年後、カントールはクロネッカーを公私共に脅威と見なした(クロネッカーは集合論を非難していただけではなく、ヴァイエルシュトラス流の解析学をも非難していたからだ16)。
しかし、カントールの研究に対するクロネッカーの反対はいい面もあった。と言うのは、カントールが集合論を作り上げている最中に、その基礎を吟味することを余儀無くさせたからだ。この事は、1880年代の集合論に関するカントールの主著、1883年のGrundlagen einer allgemeinen Mannigfaltigkeitslehre[訳注: 集合の一般論の基礎]の中で、長い哲学的な一節を促した。数学に関するカントールの最も有名な宣言の一つを発したのは、この本の中だった。すなわち、数学の本質は紛れも無くその自由性である、と17。これは単に数学仲間への学問的または哲学的メッセージではなく、深く隠れていた個人的テーマも伝えていたからだ。カントールが後でダフィット・ヒルベルトに認めた通り、数学者達の客観性と寛大さへの嘆願だった。これは、クロネッカーに代表されるように(もっと悪いことに、クロネッカーは敵対する人達へ破廉恥で且つ損害を与えるような手段を行使した)、カントールが感じた圧制と権威主義的な閉鎖性による直接的な啓示だったと言った。
従って、キャリアの始まりで、超限集合論について挑戦的なアイデアを展開する前であっても、カントールはクロネッカーの反対の最初の苦しい経験をした。間違い無くカントールは将来の更なるトラブルを予期出来た。
カントールが始めて連続体仮設(実数の集合の基数は自然数の可算集合の基数よりも大きく、次に来る)を確立しようとしたのも1883年だった。しかし、連続体仮設を証明する努力は成功せず、カントールに相当なストレスと不安を引き起こした。1884年の初めに証明を見つけたと思ったが、数日後前言を完璧に翻して、仮設が間違いであると証明出来たと思った。ミッタク=レフラーに手紙で知らせた通り、カントールは全く進展が無かったことを認めた。その間中でも、カントールは累積する反対意見とクロネッカーからの脅し(クロネッカーは"現代函数論と集合論の結果は全く重要でない"ことを示す論文を準備していると言った18)に耐えなければならなかった。
その後すぐの1884年の5月に、カントールは最初の深刻なノイローゼにかかった。連続体仮設の進展が無いことのフラストレーションとクロネッカーの攻撃からのストレスも発作の引起す要因となったかも知れないが、現在では、そのような事柄は根底にある原因とは殆ど関係が無いと思われる。病気は驚くべき速さで進み、一ヶ月間くらい長引いた。当時、躁鬱病の躁状態のみが症状とされた。カントールが1884年6月末に"治癒"し鬱状態に入った時、確固たる数学的思考に戻るためのエネルギーと関心が欠乏したと不平を言った。カントールは大学で下らない管理上の問題の世話をすることで満足したが、殆ど何も出来ないように思った。
カントールは結局数学に戻ったが、ますます他の関心事に夢中になった。英語の歴史と文学の研究に乗り出し、当時の人が真剣に受け止めた学問的な娯楽(シェークスピアの戯曲の本当の作者はフランシス・ベーコンであるという仮定)に夢中になった。カントールはまた(成功しなかったが)数学の替わりに哲学を教えようとし、無限に関するカントールの理論の哲学的影響に関心を抱いた多くの神学者と文通を始めた。カントールは神からのメッセージとして超限数が来たと固く信じていたので、この文通は特別に重要だった。だが、既にお約束したように、この重要性をすぐにもっと見てみよう。
説得力があり満足のいく数学的防御を積み重ねる、絶え間の無いカントールの努力の一部分として言及すべき、超限集合論のテクニカルな展開の最後の要素がまだある。すなわち、超限基数の本質と地位だ。
アレフは多分カントールの創造物の最も有名な遺産ではあるけれども、それは厳密な定義または特殊シンボルを与えるべき理論の最後の部分だったから、超限基数に関するカントールの考え方の進化は不可思議である。実際、後から振り返ってカントールが手探り状態であったに違いない曖昧さを再構成することは困難であり、無限集合の冪が基数として理解されることをカントールがあたかも分かっていたかのように、彼の研究を今までここで議論して来た。もっとはっきり言えば、1880年代早期の初めに、カントールは最初に導集合の無限(実際は超限数)列に対して記号Pvを導入し、第一種集合に初期段階で課した限界を超えて、それを上手く拡張した。この時、数として何も言わず、無限のシンボル"として添え字に言及しただけだった20。
カントールが1883年にGrundlagenを書いた時までに、超限順序数は遂に数として独立した地位を達成し、お馴染みのオメガ記号が与えられた。しかし、カントールは他の任意の集合と同等(または、それより少ないか)を確立するのは集合の冪だと明らかに分かっていたけれども、超限基数について何ら言及が無かった。それにもかかわらず、カントールは無限集合の冪が数として解釈出来るという提議を注意深く避けた。
しかし、間も無くカントールは2つの概念を同一視し始め、1883年の9月までにフライブルクの会合の数学者への講義で、そのようにした21。たとえそうであっても、最小超限順序数を明示するためにシンボルωを与えてしまっていたので、一つの超限基数を他者と区別するための記号はまだ与えられなかった。第一超限基数に対してカントールが遂にシンボルを導入した時、超限順序数に対して既に使っていたシンボルを借りていた。1886年までに、文通の中でカントールは第一超限基数をωとして記述し始めた。次に最も大きいものをΩと記した。この記号はあまりフレキシブルでなかったので、数ヶ月中にカントールは超限基数の上昇階層全体を記述出来る、もっと一般的な記号が必要だと認識した。一時的にカントールは基数列を記述するため"o"のフラクトゥール(明らかにオメガの派生だ)を使った。
暫くの間、カントールは実際に超限基数に対して上付きスター、バー、フラクトゥール"o"を交互に(出来る限り好ましいものを決める必要を意識しないで)使った。だが、1893年にイタリア人数学者Giulio Vivantiが集合論の一般的解説書を準備していて、カントールは標準記号を採用すべき時だと認識した。お馴染みのギリシア文字とローマ文字は既に数学においては他の目的で非常に幅広く採用されいるとカントールは思ったので、超限基数に対してアレフを選んだだけだった。カントールの新しい数は区別されユニークなものにするに相応しかった。だからヘブライ文字aleph(ドイツの印刷機の文字フォントの中では簡単に可能だった)を選んだ。カントールが喜んで認めた通り、ヘブライのアレフは数字1のシンボルでもあるから、この選択は特に賢明だった。超限基数はそれ自体で単一の無限であるから、アレフは数学の新しい始まりを意味するだろう。1893年にカントールは第一数クラスの超限基数をaleph1と明記したが、1895年までに心変わりしてaleph0(以前までカントールがωと呼んでいた数)とし、第二数クラスの超限基数はaleph1と明記された22。
カントールは1895年と1897年に集合論へ最後の主要な貢献をした。任意の集合の基数は必ずその部分集合の集合の基数よりも小さいことを示すためカントールは1891年に有名な対角線論法を既に使っていた23。数年後、カントールはこの結果の系、連続体の基数は2aleph0に等しいこと(今日では簡単に2aleph0 = aleph1と表現出来る)を提示し、この結果がすぐに連続体仮設の解決へ繋がるだろうことを希望した。
しかし、部分集合の冪集合の基数に関するカントールの証明の議論は全く異なった結論を引き起こした。これらの最も重要なものは1903年にバートランド・ラッセルによってなされた。要素としてそれら自体を含まないすべての集合を考えることによって、ラッセルは集合論の中にパラドックスが導き出されることを示した。ラッセルのパラドックスはカントールの集合の定義に根本的に何らかの間違いがあることを示し、この認識の影響は20世紀数学の主要問題となった24。
しかし、バートランド・ラッセル以前でさえ、カントールは最大順序数または最大基数のアイデアに関連付けた矛盾の形で集合論の中に彼自身のパラドックスを既に持っていた。これは最初に1897年のヒルベルトへの手紙、そして1899年のデデキントへの手紙で説明されていた。例えば、1899年8月3日のデデキントへの手紙の下書きには、多くの題材の追加と削除に囲まれた左側欄外のA判付近に、カントールは"すべての数のシステムΩは絶対的に矛盾した無限の集まりだ"と書いていた25。
だが、私が今結論で示したいように、もっと早い時、おそらく1880年代と同時期にカントールは集合論のパラドックスに気づいていた可能性が高い。その時期は、クロネッカー相手の苦労がカントールの心に重荷となっていて、集合論で最初の深刻な技術的問題を経験した始まりだった。
例えば1883年のGrundlagenと同じくらいの早期に、カントールは族(明確に述べられていて、完全であり、統合化されている集まりとして理解されるには余りにも大きすぎる、と彼は言った)に言及していた。残念ながらカントールは明らかに神学的言葉で絶対集合に論及して不明瞭に書いており、"真の無限または絶対は神の中にあって、決定されない"と説明していた26。
Grundlagenに付いている脚注には、カントールは更に進めて"数の絶対無限連続列には相応しいシンボルabsoluteがいいと思う"と説明していた27。これが、超限順序数すべての族は矛盾しているので集合とは見なさない、ということをカントールが知っていた暗示だったのか? 後にカントールはその真意を語り(その時でさえベールに包まれた合図であるが)、すべての超限順序数から成る整列順序化された集合に対応する超限順序数は何であるべきかを決定する試みから成立するパラドックスな結果に気づいていたと言った。
1890年代半ばまでに、カントールが絶対的集まりに関してそれほど曖昧ではなかろうし、超限順序数または超限基数すべての集合を考慮することから来るパラドックスな結果について、もっとはっきりさせなければならなかった。そのような数学的パラドックスを扱うためにカントールがその時考案した解法は、単純に集合論からそれらを除外することだった。明確に述べられていて、統合されており、一貫性のある集合と見なすには余りにも大きすぎるものすべてが矛盾と断言された。これらは"絶対的"族であったし、数学的決定の可能性の範疇外に存在する。これが本質的にカントールが手紙で最初は1897年にヒルベルトへ、いくぶん遅れて1899年にデデキントへ知らせたことである28。
1880年代初期にカントールがパラドックスを気づいていただろう程度が何であれ、カントールはクロネッカーの増大し、ますます声高になっている反撃に対して確実に敏感だった。とりわけ、Grundlagenで述べられた哲学的懸念が新理論防御のためのカントールの見解の中で戦略的にきわめて重大だったことは明らかである。これはその時に異常だっただけではなく、ずっとそうである。ミッタク=レフラーがカントールの集合論の論文のフランス語訳をミッタク=レフラーが新しく創刊した雑誌Acta Mathematicaへ載せる許可をカントールに求めた時に、理論に興味を持つが哲学を受け付けないだろう数学者にとって不必要(且つ、おそらくミッタク=レフラーの考えでは不愉快)としてミッタク=レフラーはGrundlagenの哲学部分全体を落とすようにカントールを説得した29。
しかし、哲学的議論はミッタク=レフラーにとってはともかくも、カントールにとっては本質的だった。それらは多方面(だが、特にクロネッカー)からの反対を打倒すべくカントールが構築し始めた精巧な防御の一部なので本質的だった。その策略は、首尾一貫している理論を認める数学の自由性に基づいた正当性を推進することだった。応用はどの数学理論が便利かを決定するかも知れないが、数学者にとって唯一本当の問題は一貫性だとカントールは主張した。勿論、これはクロネッカーのような権威主義的な数学者に挑戦するためカントールが必要とした解釈に過ぎなかった。キャリアの初期で、カントールは明らかに自分の理論を公正に聞くようベストを尽くして嘆願しなければならないと感じた。首尾一貫している限り数学的に合法と取られるべきであり、クロネッカーの構成主義者、有限主義者的批判は、一貫性のみが実現可能な試金石であるべき殆どの数学者から無視されるかも知れない。
カントールは数学の自由性に関する自分の哲学を1890年代の初期に実行に移した。その時期の彼のキャリアは単に書くことよりも多くのことを出来る地位にいた。1880年代の間、カントールは既にドイツにおける独立数学者連合のための戦略的基礎を築いていた。カントールが文通でしばしば明らかにした通り、そのような連合の特定の目標はオープンフォーラムを特に若い数学者に対して与えることだった。連合(カントールが思い描いた通り)は、向上心に燃える数学者を簡単に破滅するかも知れない保守的年配権威者のメンバーからの偏見的批判無しに数学的結果の自由で開かれた議論を誰もが期待出来ることを保証するであろう。とりわけ、これは問題のアイデアが全く新しく、革命的もしくは議論を呼ぶ場合には必要だった。
カントールはドイツ数学協会設立のため集中的に働いた。結局賛同は達成し、ドイツ数学者連合はドイツ科学医学者協会の年次総会に合わせて開催し、1891年ハレで会合を持った。カントールは連合初代会長に選出され、彼の今や有名な証明、実数は非可算であることを対角線論法で示した30。
ドイツ数学者連合はカントールの夢の終わりではなかった。彼は国際的なフォーラムも推進する必要を感じ、ドイツ数学協会設立後すぐに正式な国際会議のためのロビー活動を始めた。国際会議は結局多くの数学者の協同の努力を通して組織されたのであって、直接的にカントール一人だけの努力の結果では決してないことを付け加えておくべきだ。国際会議の一回目が1897年にチューリッヒで、二回目がパリで1900年に開催された。
数学の議論のために新しい道を推進することが、カントール自身の研究が引き起こした敵対の類に対して彼が反発した一つの方法だった。批判(特にクロネッカーから)にもかかわらず、集合論に関するいくつかの最も基本的な問題(特に連続体仮設)の解決の自身の度重なる失敗さえものともしないで、たとえ躁鬱病のますます深刻な繰り返しが起こっていても、カントールは困難に屈せずにやり抜いた。皮肉にもクロネッカーとの対立のように、カントールの躁鬱病も有用な目的に適ったのかも知れない。カントール自身の心の中で、躁鬱病は強く持っていた宗教的確信から集合論が引き出した絶対確実な支えと密接に連結されていた。手紙(と彼を知っていた同僚の証言)は、カントールが集合論の真実を幅広い信奉者にもたらすために神によって選ばれたと信じていたと明かす。またカントールは1880年代に彼を悩ませ始めた躁鬱病の引き続く波(猛烈な活発化のピークに続いて、ますます長引く内省の期間が続いた)を神の力による霊感と見なした。病院での長期の隔離は邪魔されない黙想の機会を与えた。その黙想の間、カントールは集合論が絶対的真実(他人が何と言おうとも)であるという声を以って励ますミューズの訪問を思い描いた。
数学者、哲学者、神学者(カントールはある時点で無限についてPope Leo XIIIにも手紙を書いていた)に集合論を推進する間に、カントールは超限集合論の正当性を確保したと確信した31。首尾一貫性と数学の本質的な自由性を強調することにより、カントールも知的疑問の必須要素を前進させた。真実を追究するためには、それがどこへ行こうとも心は自由でなければならない。インスピレーションは勝手な偏見に惑わされずに奨励されるべきである。カントールにとって、これは標準の一貫性と有用性によって審理される理論のための忍耐を意味した。
集合論のイメージ
終結するにあたって、まだもう一つの考慮するに値する重要な、カントールの心の病気と数学の関係がある。あるドキュメントは、瞑想と現実逃避の周期期間の執行に加えて、カントールの鬱の期間が全くの非生産的ではなく、もっと言えば、病院または家での安静の独居の中でカントールは頻繁に数学的アイデアを追究出来た、と示唆している。いやそれどころか、病気はカントールの信念、超限数は神により彼に送られて来たということの支えとなっていたようである。もっと言えば、カントールの最後の発表物1895年のBeiträge[訳注: 投稿]において第3の標語の中に、
現在貴方には見えないものが、はっきりと現れる時が来るだろう32。
と書いていた。
これはバイブル、第一コリント書からのお馴染みの一節であり、カントールが天啓を伝える役務の仲介者だったという自身の信念を反映している。また、カントールの研究への広く行われている抵抗にもかかわらず、すべての所で数学者が認知し賞賛する素晴らしい日が来るであろうというカントールの誓約を伝えていたであろう。
勿論、大衆扇動者がよくするようにカントールの考えの宗教要素を誤って解釈するのは容易だ。少し前、フランスの雑誌La Recherche[訳注: 研究]に発表された記事は確かにそうだった。その記事は、カントール、彼の宗教観、精神病、超限集合論に関する解説をイラスト化して、次のような風刺漫画を載せた33。最初のイラストは、言わばエクスタシー状態で神のメッセージを受けているカントールを描いている。2番目のイラストでは、銃を持つ人物(勿論クロネッカーを意味する)とカントールのバランスを支えている神が登場し、それらすべてが不安定に超限アレフに載っている。
だが、このすべてに深刻な側面があり、強調されるべく価値がある。例えば、1908年の長期入院に続いて、カントールはゲッティンゲンにいる友人、英国人数学者Grace Chisholm Youngに手紙を書いた。カントールが以下に書いた通り、躁鬱病は際立って創造的な品質を引き受けた。
奇妙な宿命は神のおかげで何ら私を壊して来なかった。いや、それどころか、数年前の私よりも内面的に私を強くし、幸福にし、もっと楽しくして、そして私を家から遠ざけている。つまり、世界から遠ざけているとも言えるだろう...長期隔離で、数学も、特に超限数も私の中では眠りも横たえもしなかった。この分野で長い間私がしなければならない最初の発表は"ロンドン数学協会報告"を念頭に書かれている34。
他のどこかで、カントールは実際に彼の理論の真実についての確信を明確に擬似宗教的言葉で以下のように書いていた。
私の理論は岩のような堅固さで立っている。理論に向けて放たれたすべての矢はすぐに射手に返るだろう。どうして私がこれを分かるか? 長年様々な角度から研究して来たからだ。長年様々な角度から吟味して来たからだ。無限数に対して作られて来た反対意見をすべて吟味して来たからだ。そして、何よりも、その根元、言わば万物の絶対確実な第一要因に従って来たからである35。
後世代は哲学を捨て、カントールのSt. ThomasまたはChurch Fathersへの言及の多さに不審がり、形而上学的な声明を見落とし、理論の絶対真実に対するカントールの後半生の深く堅固な信頼を全く見落としているのかも知れない。
だが、これらすべての関わりが超限数を放棄しないというカントールの決意に貢献した。反対意見はカントールの決定を強くしたようだ。カントールが他に貢献していただろうことと同じくらいに彼の踏ん張りは、集合論が猜疑と非難の初期を生き抜き、結局は20世紀数学において堅固で革命的な力となって繁栄することを確実にした。
脚注
以下省略
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