スキップしてメイン コンテンツに移動

志村五郎博士著"The Map of My Life"より抜粋

志村五郎博士が英語で書かれた自伝"The Map of My Life"を取寄せ、早速読んでみました。実は購入しなくてもPDFの形式ですが、無料で全文を読めるリンク先があります。しかし、次に述べる理由から購入しました。つまり、少しでも(失礼とは思いますが)博士に印税が入ればいいと思ったからです。もっとはっきり言えば日本国は今までに博士に支援をしたことがあったか疑わしいからです。やったことと言えば、中学生になったばかりの博士等を学徒総動員令のもと朝から晩まで無駄な強制労働をさせ、成長盛りの一番必要な時に勉強させませんでした。博士の現在があるのは、家を焼かれても飢えに苦しんでも独力で勉強したからであり、日本国は何らまともなことをしていません。しかも、数学者となった博士は日本の大学の官僚的な閉鎖性に愛想が尽きて、自嘲気味に米国はプリンストン大に"亡命"(博士は冗談で言ってますが、少しは本音が入っていると私は思います)したと言っています。
"The Map of My Life"を読んで、私は志村博士が非常に骨のあるリベラリストだと思いました。御自身の政治的なスタンスを述べている文節においては、右も左も非常に厳しく酷評しています。例えば、昭和天皇、共産主義国家、在日米軍、左翼学者、原子爆弾(特に長崎投下)等に批判的です。こういうことを英語で書くから意味があるのであって、日本語で書いていたら、それこそ全く国内向けポーズに過ぎませんが、世界的数学者としての自身の考えを堂々と英語で世界に発信しているのですから、賛否両論はあるだろうけれども、日本国内でぶつぶつ言っている連中よりははるかに立派だと思いました。
さて、"The Map of My Life"のどの部分を抜粋して私訳を載せるか随分迷ったのですが、先ず第一に"The Map of My Life"と日本語で書かれた自伝"記憶の切繪図"とで何が違うかを博士が説明している後書きは絶対に欠かせませんので、選びました。次に、多くの数学者を批評しているのですが、これを全部取り上げたらきりがありませんので、大物日本人数学者で多少なりともネガティブに博士から書かれた部分を抜粋として選びました。なお、原文へのリンクは今回はわざと省略しています(始めに書いた通り是非とも購入して支援しましょう、が私の本意です)。原文に興味ある人は購入するなり、フリーなものを御自分で探してください。
以下の私訳を読んで、原書を購入するなり、また日本語版"記憶の切繪図"(私は買っていません)を既に読んだ人は、ほんの少しの以下の抜粋から違いが判別出来るのであれば幸いです。

[追記: 2011年04月26日]
前日の私訳"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"に、"The Map of My Life"からの抜粋を追加しております。それもご覧下されば嬉しいです。

[追記: 2011年08月21日]
志村博士の"The Map of My Life"についてアマゾンでレヴュを書きましたので、参考になれば幸いです。

[追記: 2016年01月10日]
志村博士については他にも、"志村-谷山予想の或る由来"、"ウッズホールの不動点定理の歴史"、"ウッズホールの不動点定理の起源について"が面白く、参考になると思います。

[追記: 2016年09月26日]
"The Map of My Life"の中でも触れていますが、故谷山豊氏の生涯について志村博士が英語で書かれた有名な記事Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsについては、"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"があります。

[追記: 2016年09月30日]
"The Map of My Life"の書評については、私が妥当だと思った'志村五郎博士"The Map of My Life"の書評'があります。

[追記: 2016年10月01日]
いろいろ考えることがあって、私訳の最下段に[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を追加しました。

[追記: 2018年02月03日]
The Map of My Lifeの付録にはThat Conjecture、A Letter to Freydoon Shahidi、Two Letters to Richard Taylor、Response、André Weil as I Knew Himの5編が収められています。そのうちで数学界にいる人なら間違いなくA Letter to Freydoon Shahidi、Two Letters to Richard Taylorに注目したことでしょう。これらを'志村五郎博士著"The Map of My Life"より重要資料の手紙三編'と題名を付けて紹介しております。なお、André Weil as I Knew Himは既に紹介しました"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"です。

[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2011年04月24日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年05月19日]
2018年02月03日付の追記で触れました"That Conjecture"については'志村五郎博士著"The Map of My Life"のAppendixより"あの予想"'を見て下さい。

[追記: 2024年07月16日]
以下の私訳に追加をしました。

志村五郎博士著"The Map of My Life"より抜粋
("The Map of My Life" p.211)
後書き
先ず第一に、記憶の切繪図の題名で日本語で書いてしまっていることを知らせなければならない。その内容は、この本の内容とほぼ同じであり、東京の筑摩書房から発刊されるだろう。従って、ほぼ共通する2つの本があるが、一方が他の翻訳ではない。両言語で私が気楽と思う表現を使い、同時に両方を書いたが、矛盾とは言えなくても、当然いくらかの違いの原因となった。一方の本には或る節があって、相当するものが他方にはないこともある。一般的に言って、ただ今の本は数学と数学者に関する題材が日本語版よりも多い。

私の数学的作品は、本の形になったものと少しのマイナーな記事を除いて、
Collected Papers, vol. I–IV, Springer, 2003
で編纂されている。
この全集は、これに入らなかったものを含めて2001年までのすべての一覧がある。2001年以降の私の仕事はウェブ上でチェック出来る。
歴史に関する多くの基礎的な情報を得るために、プリンストン大学東アジア図書館Gestコレクションと筑摩書房編集部に大いに助けられた。彼等に深い謝辞を述べたい。」

("The Map of My Life" p.75中段-76)
「しかし、ヒルベルトの名前が付いているものは何でも深刻に受け止めるべきだと考える人々がいる。彌永[訳注:故彌永昌吉博士]は極端な例だが、いずれにせよ彼は数学的信仰を持ち、その信仰に基づいて教えた。さらに悪いことに、岡田[訳注: 旧制一高の数学教師]は彼に心酔し、間違った考えを私達に強制した。私自身について言えば、そんな公理的アプローチに何も興味を持たなかった。私の東京大学でのクラスメートにも同じことが言える。彌永は確かに私達が"近頃の年配数学者は…"と見なした人の中にあったが、そのような人はもっと大勢いた。」

(“The Map of My Life” p.83下段 2024年07月16日追加)
「もう一人の助教授[訳注: 故矢野健太郎博士だと思います]は微分幾何学の教程を教えていた。彼は無名の欧羅巴人数学者による二流の著書を読んでいたが、講義はその本の日本語への翻訳以外の何ものでもなかった。しかしながら、彼は教程履修単位を欲しい学生すべてに与えたが、それは単なる評点の“可”だった。当時彼は新聞や大衆向け雑誌に多くの短い随想を寄稿していたので、1950年代において彼が日本で最も有名な数学者だったと思う。」

("The Map of My Life" p.117-118)
「高木貞治の印象を記述したい。彼は類体論の発展に主要な役割を果たした。日本の非常に偉大な数学者として崇められていた。1955年に日本人数学者の夕食会があった。第12節で述べたように、その年に多くの外国人数学者が訪日したが、彼等はそこにはいなかった。彼と私は違うテーブルにいたが、彼が言っていることは聞こえた。彼は陳腐な冗談を言って自分で楽しんでいたが、何ら興味あることは彼の口から発せられなかった。それから直ぐに、私と同世代の4,5人の若い数学者が彼と話するため家を訪問した。彼は80歳で難聴だったから、私達の一人が喋る度に、彼の親類の中年の御婦人が彼が聴こえるであろう音量と高低で内容を復唱した。
彼は決して会話上手ではなかった。私達に温かい感情を示さなかった。私はあるトピックスを探し、彼が1940年頃に数学は過渡期だと言ったことを思い出した。それらの言葉により彼が何を言いたかったのか尋ねた。私は聞いた方がいいことを何も見つけられなかったから、そうしただけだ。彼に婦人から話が伝わった時、彼ははっきり気を悪くした。彼は怒りの声音で何かを言った。私は彼が正確に何を言ったのか憶えていない。おそらく説明を拒否したのだろう。
私は彼が話すのを聞いたのは、それらの2回だけだが、非常に失望した。孔子は人を2つのカテゴリに分けている。つまり、君子(高潔な人)、小人(つまらない人)だ。論語に一節がある。"君子は穏やかで傲慢でないが、一方小人は傲慢で穏やかでない"。私は、傲慢で穏やかでない人物の実例を見たように思った。後に、彼が近い親類から嫌われていたことさえ聞いた。」

("The Map of My Life" p.163第3行目から)
「ここで私は非常に有名な日本人数学者[訳注: 私見では、以下の条件を考えると、故小平邦彦博士だと思います]が言ったことを追加する。米国の3つの大学で教鞭を取った後に日本に帰国し、東京大学で10年間教えた。60歳で定年退官する数年前、若い同僚に以下のようなことを言った。"私達教授はここで教えるのが義務であって、研究することではない"。これは、それらの若い同僚から私へと伝わった。若い同僚はこれらの言葉に非常に不安だった。その教授はその時の自分の無為を正当化したかったように思える。」

[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]
志村博士が日本語で谷山氏と書いた近代的整数論に対して復刊リクエストが後を絶たないそうですが、出版社は著者の意向で復刊出来ない旨を回答したと聞きました。このことを友人共から教えられた時、こういうリクエストをする人達は志村博士の書いたものを全然読んでいないと私は思いました。つまり、そういう人達は志村博士の意思を完全に無視しているわけです。何故復刊リクエストに応えないのか、志村博士のThe Map of My Lifeを読んでいれば分かりそうなもんです。
The Map of My Life p. 119下段-p. 120中段より抜粋
As I said in the preface, there were
several unsatisfactory points in the book. One of them was the
proper definition of “the field of moduli,” which I discovered only
in October 1958 and which I told Weil immediately after my arrival
in Paris. Thus, the first thing I did after coming back to Tokyo in
the spring of 1959 was to write the whole theory in English in a
better form by using this new definition.
We had actually planned an English version, but nothing was
done except for a short section I wrote in English on differential
forms on abelian varieties. Sometime in 1957 I handed it to
Taniyama, who died in November 1958. It was returned to me
when I met one of his brothers. I eventually published the book
in English as a collaborative work with him in 1961, but actually
I wrote everything alone, and he was not responsible for the
exposition.
I had known that he was not a careful type, but after starting
this project in 1959 I realized that the problem was more serious
than I had thought. Indeed, I had to throw away many things
he wrote in that book in Japanese. In my article about his life
published in Bulletin of the London Mathematical Society (1989),
I wrote: “Though he was by no means a sloppy type, he was gifted
with the special capability of making many mistakes, mostly in the
right direction.” I also wrote in the preface of the 1961 book in
English: “The present volume is not a mere translation, however;
we have written afresh from beginning to end, revising at many
points, and adding new results such as §17 and several proofs of
propositions which were previously omitted.”
Thirty-five years later in 1996 I published a book, of which
I was the sole author, the first half of which was a revision of
this book, and the last half of which contained new results on
the periods of abelian integrals. Although this subject is related
in various ways to other topics I investigated later, I do not talk
about them here.
(私訳)
本[訳注: 近代的整数論のこと]の序文の中で述べた通り、本には多数の不満足な点があった。それらの内の一つが"モジュライ体"の正しい定義だった。それを私は1958年の10月に発見したばかりであり、パリに到着後すぐにヴェイユに話した。こうして、1959年の春に東京へ戻った後で私が最初にしたことは、この新しい定義を使用することにより理論全体をより良い形に英語で書くことだった。
私達[訳注: 志村博士と谷山氏]は英語版を計画していたが、アーベル多様体における微分形式について私が英語で書いた短いセクションを除いて何もなされなかった。1957年の或る時に、その短いセクションの原稿を谷山に渡したが、彼は1958年の11月に死去した。彼の兄弟の内の一人に会った時、その原稿が私に返された。私は結局1961年に彼との共著として英語で刊行したが、実際には私がすべてを一人で書き、彼はその解説書に対して責任がない。
私は彼が注意深いタイプでないことを分かってはいたが、このプロジェクトを1959年に始めた後で、私が考えていたよりも問題がずっと深刻であることを認識した。実際、あの本[訳注: 近代的整数論のこと]の中で彼が日本語で書いた多くの事柄を私は捨てなければならなかった。彼の人生についてBulletin of the London Mathematical Society (1989)に発表された私の記事[訳注: Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsのこと。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい]の中で以下のことを書いた。"彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた"。また私は1961年の本[訳注: 先に志村博士が説明している通り、形式的に谷山氏との共著としたComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと。因みに題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法とその整数論への応用"となります]の序文の中で以下のことを英語で書いた。"しかし、ただいまの本は単なる翻訳ではない。私達は始めから終わりまで再度新たに書いた。つまり、多くの箇所を訂正し、§17のような新しい結果と以前には省略されていた命題の多くの証明を追加した"。
35年後の1996年に私はある本[訳注: Abelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsのこと]を出版したが、私が単独の著者だった。その本の最初の半分はこの本[訳注: 前述の1961年の本Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと]の改訂であり、最後の半分はアーベル積分の周期に関する新しい結果を含んだ。この議題は後年私が調べた他のトッピクスに様々な意味で関係するけれども、それらをここでは語らない。

以上の通り、志村博士は明確に理由を書いています。つまり、中途半端で不完全な近代的整数論の代わりにComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryを出し、更にはAbelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsも出しているのに、何故旧著を復刊する必要があるのかということです。

コメント

このブログの人気の投稿

ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する

今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ