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メタファとしての数学

ユーリ・マニン博士については以前、"良い証明は我々を賢くする証明である―ユーリ・マニンへのインタビュー"を紹介しました。マニン博士の専門は代数幾何学、数論、数理物理学等ですが、マニン博士に限らず、ロシアの数学者は押並べて物理学に強いことに私は感心します。御存知だと思いますが、モスクワ大学の数学部門は力学・数学学部という名称を持つくらいですから、数学と物理学の乖離はあり得ないのです。しかし、日本では学部レベルでそういうことを本格的にやっている大学は無いと思います。モスクワ大学のみならず、ロシアの大学では当たり前のようにやっていると言うか、そもそも学生の意識とレベルが日本とは全然違うということでしょう。
また、マニン博士の著書の扱うテーマの範囲の広さにも驚きます。専門分野に関連するものなら驚きませんが、何と数理論理学の著書もあるのには呆れます。数理論理学等の基礎論屋さんなら兎も角も、普通の分野の人が書くのですから恐れ入ります。
私もマニン博士の著書のいくつかにお世話になりました。その内で比較的新しいものでは、セルゲイ・ゲルファント博士(あの大数学者イズライル・ゲルファント博士の御子息)との共著であるMethods of Homological algebra[ホモロジー代数の方法]があります。これは本当に素晴らしい本です。この著書のみならず、私がいくつかの著書を読んだ限りの感触で言えば、マニン博士の著書にはいわゆる駄作というものが無いのではなかろうかと思います。ですから、どの著書でもおそらく読んで損は無いでしょう。
今回紹介するのは、マニン博士の"Mathematics as Metaphor"(PDF)です。これは京都で開催された国際数学者会議での講演です。この京都会議が1990年ですから、もう25年も昔になりました。この私訳を以下に載せておきます。なお、冒頭にパスカルのパンセからの引用があるのですが、パスカルが何を言いたいのか、私には全く分かりませんでした。不勉強をお詫びします。

[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2015年12月27日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年05月22日]
ユーリ・マニン博士の記事については他にも"我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶ: ユーリ・マニンへのインタビュー"があります。

メタファとしての数学
1990年 ユーリ・イヴァノヴィッチ・マニン

秩序。[...]私はそれが何であるかを少しばかり、そしていかに殆どの人がそれを理解していないかを知っている。人間の科学はそれを維持出来ない。セント・トーマスはそれを維持しなかった。数学はそれを維持するが、その深遠さのため役立たない。
パスカル、パンセ

序論
H. ポアンカレが1902年に本La Science et l'hypothèse[訳注: 科学と仮説]を最初に刊行した時、ベストセラーとなった。この本の第1章は数学的推論の性質に費やされてた。ポアンカレは、数学的知識がいくつかの基本的("合成的な")真理のトートロジーな変換の長いチェーンに還元され得るのか、またはもっと何かを含んでいるのかという古い哲学論争を議論した。数学の創造力は最初の仮説-定義(それらは、後で観測された世界による推論によって制約される)のおかげであると彼は主張した。
私達の時代の社会はポアンカレと同時代の人々よりも哲学的なニュアンスになおさら関心が無い。科学そのものが不人気になったと私は言いたくない。S. ワインバーグのThe first three minutes[訳注: 最初の3分間]やS. W. ホーキングのA brief history of time[訳注: 時間の簡単な歴史]のような本が何十万と売れて、広く発行されている新聞で好意的に評されている。変わって来ていることは一般的なムードだ。新しい物理理論の逆説性は、さほど劇的ではなく、より実際的に理解されている(ビジュアルアートの受け止め方が全く同じように進化したことを注目出来る。つまり、印象派の最初の展示会が一種のスピリチュアル革命だったならば、各戦後前衛派の新しい波が伝統主義の一門特性をすぐに獲得した)。
この状況において、数学の基礎的危機と無限の性質に関する、過ぎ去った日々の熱い議論はほぼ的外れで、確かに不適当に思える。学校教育またはコンピュータ新世代についての意見に対して聴衆はずっと活発に反応する。
これが、私達の科学が自然言語の特殊化された方言、その機能が特殊な場合のスピーチだと考える慎み深いエッセイをこのセクションで発表しようと決めた理由だ。これは高校と大学の教育に関する或る提案を含む。

メタファリズム
"メタファ"という言葉はここではテクニカルな意味で使用されていない。それは、James P. Carseの本Finite and Infinite Game[訳注: 有限及び無限ゲーム]からの以下の引用で最もよく表現されている:

"メタファは、人が他者に決してなれないようなアンライクに対してライクを結合することである"。
"語源において、すべての言語はメタファの性質を持つ。何をしようと意図していようが、言語のままであり、何についてであろうが絶対的にアンライクのままだからだ"。
"自然の沈黙性は言語の可能性である"。

数学をメタファと考えるならば、数学的知識の解釈は高度な創造的行為だと主張したい。或る意味で、数学は自然と人間についての小説である。人は"戦争と平和"によって教えられることを正確に語れないのと全く同様に、数学が何を教えるのか正確に語れない。教育それ自体が、この教育を再考する行為の中に水没している。
この見解は外見上、科学と工業技術計算における応用数学の由緒ある伝統に合致しない。
もっとはっきり言えば、私は数学の技術面と人道面との間の或るバランスを取り戻したいだけだ。

二つの実例
2つの重ならない議題を議論することで、数学のメタファ潜在能力を例証させてほしい。つまり、コルモゴロフ複雑性とK. Arrowによる"独裁者定理"である。

ⅰ) 自然数Nのコルモゴロフ複雑性は、Nを生成出来る最小のプログラムPの長さ、またはNの最小コードの長さである。読者は自然数をコーディングする一方法(整数値を取る部分再帰函数f(P))を想像するはずだ。コルモゴロフの定理は、そのような函数すべての中でも、次に述べるような意味で最も経済的なものが存在すると述べている。すなわち、Cf(N)がf(P)=NとなるようなPの極小値ならば、Cf(N)≦const. Cg(N)である。ここで、const.はfgだけに依存し、Nに依存しない。
Pはその2進表記から再構成され得るのだから、Nを生成する最小のプログラムの長さKf(N)はlog2 Cf(N)によって上に有界だ。この函数、もっと正確に言えば、有界被加数まで定義されている、そんな函数すべてのクラスはコルモゴロフ複雑性である。
第一に、K(N)≦log N+const.。もちろん、これは対数的長さのプログラムを生成する数を与えた位取り表記法システムの歴史的成功に見事に一致する。しかし、任意の大きな整数があって、それらのコルモゴロフ複雑性がそれらの表記の長さよりずっと小さい。例えば、K(10N)≦K(N)+const.。一般に、大きな数を少しでも使う時、比較的小さなコルモゴロフ複雑性を持つ数だけをどうやら使うようだ。おそらく今まで数学者達によって作られてちゃんと定義されている数の最も長いπの10進分解でさえ、K([10Nπ])≦log N+const.だからコルモゴロフ的に簡単である。一般に、小さなコルモゴロフ複雑性=高次の構成だ。
他方、殆どすべての整数Nはlog Nに近い複雑性を持つ。例えば、最適なfに対してf(P)=Nならば、K(P)はlog Pと同値である。そんな整数は多くの注目すべき性質を持つが、私達は通常それらと"ランダム性"を結びつける。
第二に、コルモゴロフ複雑性は、数でない離散オブジェクト、例えばロシア語または英語のテキストに対して容易に定義され得る。従って、"戦争と平和"は非常に上手く定義された複雑性を持つ。不確定は最適コーディングに結合され、小さな、まずまずのコーディングの一つを選べば、不確定は非常に小さくなるようだ。
この観点から、"戦争と平和"は高度に構成されているのか、またはランダムなオブジェクトの組合せなのか?
第三に、コルモゴロフ複雑性は計算可能函数ではない。もっと正確に言えば、fが最適ならば、Cf(N)とexp(O(l))だけ異なる再帰函数G(N)は存在しない。人は計算可能函数によって複雑性を有界に出来るだけだ。
人間知識の性質に関する何らかの議論において、コルモゴロフ複雑性は心に留めておくべき非常に本質的だと思う。
私達の知識の内容が記号的に(口頭的に、デジタル的に、...)記述されている限り、保存及び処理出来る情報の分量に物理的制約がある。私達は情報圧縮の様々な方法にいつも頼っている。コルモゴロフ複雑性はそんな圧縮の効率に絶対的制約を置く。例えば、運動方程式によって記述されている物理法則を語る時、物理システムの振舞いの正確な記述は、これらの法則をコンピュータプログラムへ翻訳することにより得られる。しかし、発見し、使用出来る法則の複雑性は明らかに有界である。"初等的"システムを管理することさえ、高次の複雑性を持つ法則が無いと確信出来るのか?
この時点で、議論は全く非数学的になっており、数学的頭脳を持つ観衆の前において、ここで私は止めなければならぬ。だが、そのようなことは何らかのメタファの宿命である。

ⅱ) Arrowの独裁者定理は1950年あたりに発見された。数学的には、それは2項関係に値を持つ或る函数を記述する組合せ的命題である。直感的には、社会選択問題の形式的議論だ。集団決定に投票の個人意思の過程を管理する法律を立法者が作らなければならないと仮定しよう。問題が2つの選択肢の1つを選ぶことなら、標準的解決は投票の多数によって決めることだ。しかし、普通2つの選択肢より多くあり(資金割り当ての問題を想像せよ)、投票者達は彼等の好みに従って選択肢の順序付けを問われるかも知れない。個人的好みの何らかの集合から集団的好みを抽出するアルゴリズムは何であるべきか? Arrowはいくつかの自然で民主的な公理(例えば、すべての人がBよりAを好むなら、社会はBよりAを好む)を満足するアルゴリズムを考えた。それにもかかわらず、2つの選択肢より多くある時、解決を達成する唯一の方法は社会の一メンバーを選び("独裁者")、彼の個人的好みの順序を社会のものと同一視することだと発見した(実際には、これは後で発見されたArrowの定理のバージョンの一つである。また、有限な社会の場合に適用する。無限の場合においては、社会的決定は"ルール階層"と適切に呼ばれる超フィルタによって決められる)。

或る意味で、この定理はジャン=ジャック・ルソーの社会契約論のアイデアを例証している。
理想的な民主的選択のイメージの根本的矛盾は3人の投票者と3つの選択肢に関する以下のストーリで例証出来る。3人の騎士が十字路でコースを外れ、彼等の前に石があるというストーリだ。石の上の碑文は損失だけを予言している。すなわち、左へ行く者は刀を失うだろう、右へ行く者は馬を失うだろう、直進する者は首を失うだろう。騎士達は馬から降りて協議を始める。このストーリのロシア版では、騎士達は名前と個性を持っている。最も若く熱烈なAlyosha Popovich、最も年長で賢明なDobrynya Nikitich、そして、のろまな小作農Ilya Muromets。だからAlyoshaは馬よりも刀、彼の首よりも馬に価値を置く。Dobrynyaは彼の首に最も価値を置き、次に刀、そして次に馬。Ilyaは首、刀よりも馬を好む。
読者は、3つの個人的好みの順序が選択肢の集合における同一の巡回順序を形成していることに気づくだろう。結果として、多数決によって任意の2つの選択肢間の決定を出来るが、これらの決定の結合は矛盾になるだろう。つまり、民主的手続きは上手く順序付けられたリストを与えられない。騎士達は意思決定権をDobrynyaに署名委任する。
Arrow定理は私達が前以って知らなかった何かを告げるのだろうか? イエスだ。定理を真剣に議論する、すなわち組合せ的証明を詳しく調べる、途中で作られる様々な仮定と初等的ロジックのステップの実生活の中身を想像する、一般に、不正確な想像を数学的推論の堅固なロジックによって質を高めることを喜んでするならば、定理は私達の知らなかった何かを告げる。例えば、政策立案のいくつかのトリック、社会が一途に跳び込むいくつかの罠(ルール階層によって強制された選択肢のリストを疑問無く受入れるような。このリストの編成は全く社会意思決定の中心問題であるが)を非常に理解出来る。
この段階で、議論の主要なトピックに来ている。つまり、何が数学の講演と自然言語の講演の差を示すのか、何故パスカル主義者の"秩序"が私達の特殊化された記号的活動に君臨し、本当に"深遠さのため役立たない"のか?

言語と数学
約30年前、最初の真剣な自動翻訳の試みがなされた時、数学と人類の間の交流の非常に興味深い一時期が始まった。この領域において基本的な障害は無く、処理されるべき大変な量の情報に関する技術的困難を克服することだけが残っていると信じた多くの楽観者達にとっては少なくとも、これらの最初の試みは苦痛な失敗だった。言い換えれば、翻訳は明快なコンピュータプログラムとして実装されているはずの、さほど複雑でないアルゴリズムによって原理的に実行されることを彼等は当然だと思った。
この仮定は数学的メタファの素晴らしい実例だ(実際には、脳科学で使用される一般的な"コンピュータメタファ"の特殊化である)。
このメタファは言語学者達に人間言語の語彙、意味論、語形論、文法を空前の度合いの明確さと完全さで無理やり記述させたのだから、一般に言語学者達にとって非常に好結果を生んだ。このプログラムのおかげで、いくつかの全く新しい概念とツールが発見された。
しかし、自動翻訳自体の成功は乏しかった(そして、現在なおも乏しい)。書かれた人間のスピーチは、翻訳または論理的推論(すら)として計画されたアルゴリズム的処理に対して非常に悪いインプットデータであることが明らかになった(例えば、統計的学習の題材として考慮された人間のスピーチに特別なことは何も無いから、私はこの但書きを加えている)。
この事実は人間言語の普遍的性質と考えられるし、注目に値する。先ず何よりも、人間言語の意味の範囲が余りにも広く、実世界を記述する良く整理されたメタ言語と認める程には構造化されていないという、ありきたりな説明を非常に無邪気だとして拒絶すべきだ。問題は、この範囲をたとえ小さな整数量の算数の部分集合に制限しても、まだ同じ困難に直面しなければならないことだ。もっとはっきり言えば、この困難が、算術記号と計算の基礎アルゴリズム、後に記号代数の全システムの具対化に対する決定的な理由だった。人間言語における初等算術の語彙ですら基本的に時代遅れだ。つまり、原始社会の自然な有限系列"一、二、三、無限に多い"が指数的規模で私達の"千、百万、十億、何億兆"に増える。"1989"のような比較的小さな数に対する表現は実際には10進表記の名前であって、数自体の名前ではない。
ディオファントスの半口頭的代数よりF. ビエトの代数の有利な点は新しい意味を表現出来たという事実のためではなく、比較にならない程アルゴリズム的処理(高校代数の"同等変換")をしやすいためである。
テキストとその製作者/ユーザの間の直観的かつ情緒的な結びつきの分裂、つまり科学の言葉の特徴は新しい計算自動化機能によって埋め合わされた。それらの(制限があるけれども)領域において、日常言語説教の伝統的プラトン及びアリストテレス文化より断然有能になった。それでは、何故私達の科学論文は言葉と式のまとまりのない混合としてまだ書かれているのか? 部分的には情緒的な結びつきをまだ必要だからだ。つまり、部分的にはいくつかの意味(人間価値のような)は人間言語において上手く表現されるからである。しかし、科学的スピーチの媒体としてさえ、人間言語はいくつかの固有の有利な点を持っている。すなわち、空間的かつ質的イマジネーションに訴えることで、自由度の数(次元)、極値の存在、対称性のような"構造上安定的"概念を理解することを助ける。はっきり言えば、科学のメタファ的使用を可能にする。

メタファと証明
ここで公言される見解は高校と卒業生のカリキュラムに関係すると考えることが出来る。
今世紀前半の一般的な数学教育は応用志向だった。それは実生活の問題に対して基本的な最小限を与え、大学レベルでの工業及び科学計算にスムーズな移行を与えた。プロフェッショナル数学者達の活動により、このカリキュラムの裂け目はますます言われるようになった。良く知られているように、これは米国においてニューマス[訳注: 新数学という訳にしようかなと思いましたが、私自身全然実感出来なかったので、そのままカタカナ表記しました]の形で反応を持たらし、他の国では似たプログラムを持たらした。これらのプログラムは高校数学にプロフェッショナルから借りた概念と原理を導入した。すなわち、集合論、証明の公理的方法、定義の厳格な洗練。
ニューマスは広く受入れられるようになったが、70年代及び80年代に大合唱となった抵抗の声を伴っていた。批判者達はニューマス発議者達の基本議論に賛成しなかった。認知科学と学習心理学からのデータに基づく反対に触れないで、私は数学における証明の役割の一般評価に関する議論を思い出す。
一つのポールはニコラ・ブルバキによる有名な陳述で代表される。つまり、"ギリシャ人以来,数学とはすなわち証明である"。この認識によれば、ニューマスのプログラムにおいて厳密な証明は原理問題を生じさせた。以下のことが議論された。a) 証明は数学的事実を理解することに役立つ。b) 厳密な証明は現代のプロフェッショナル数学の最も本質的な構成要素である。c) 数学は厳密性の普遍的に認識された基準を持つ。
これらの見解は大規模に批判された。例えば、Gila Hannaによる本"Rigorous Proof in Mathematics Education"[訳注: 数学教育における厳密な証明], OISE Press, Ontario 1983の中で批判された。特に、Gila Hannaは数学者達が満場一致で厳密性の基準を認めるには程遠いこと(論理主義者、形式主義者、直観主義者の間の口論に言及して)と、活動している数学者達はいつもルールを破っていると本の中で指摘した。
私の見解では、これは関係が無い。
関係することは、証明重視によって生み出されている様々な基本価値の間のアンバランスだ。証明自体が"真実"という概念の派生だ。真実の他にも多くの価値があり、中でも"活発さ"、"美しさ"、"理解し易さ"があって、それらは高校や後の教育に本質的である。これらの価値を無視するならば、教師(または大学教授)は悲惨に失敗する。残念ながら、これも広く認識されていない。ルネ・トムのカタストロフィー理論をめぐる論争の社会学的分析は、志向が形式的真実から理解することへ移ったことがそんな鋭い批評を呼んだということを示している。しかし、もちろんカタストロフィー理論は発展した数学的メタファの一つであり、そういうものとして審判されるべきだ。
教育学的に、証明は数学テキストのジャンルの一つに過ぎない。多くの異なるジャンルがある。すなわち、計算、コメントされたスケッチ、コンピュータプログラム、アルゴリズム言語の記述、または形式的定義と直観概念の間の関係の議論のような無視される類。すべてのジャンルに、それ自身の規則、特に厳密性の規則があり、それらが特別な注意を払われていなかったから法典にされないのに過ぎない。
教師の中心問題は、彼/彼女のコースの制約された範囲で様々な種類の数学的活気と基本価値の指導を示すことである。もちろん、この多様性は階層的に構成されている。ゴールは、初等的な算術と論理のリテラシーを達成することからプログラミングスキルまで、最も簡単な日常的な問題から現代科学思考の原理まで変動するかも知れない。これらのゴールの範囲において、"厳密な証明"の基準の重要視は差し支えなく本質でない位置を占めることが出来る。
しかし、そうは言っても、私の議論は決して厳密な数学推論の理想を弱めないことを強調しなければならない。この理想は数学の原理を構成する根本であり、この意味でブルバキは確かに正しい。研究の外部的オブジェクトを持たず、熱愛者達の限られたサークルの合意に基づいており、数学はゲームの厳格なルールの恒久的コントロールが無ければ発展出来ないだろう。この言葉の厳密な意味(アポロ計画における不可欠性のように)で、数学の応用性は途方も無い長さの記号操作の連続をコントロールする私達の能力のためである。
この理想の存在は、その到達不可能さよりもずっと本質的である。数学の自由(G. カントール)は鉄のように堅い必要性の限界において発展出来る。現代のコンピュータのハードウェアはこの必要性の化身である。
メタファは神々の高尚な雰囲気の中で人間が一息入れることに役立つ。

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