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ニコラ・ブルバキと共に25年間 1949年–1973年

かなり前に"ブルバキの沈黙は続く―Pierre Cartierへのインタビュー"を紹介したことがありました。その記事は何故ブルバキが沈黙せざるを得ないのかを簡潔に説明している点で貴重な記事だと私は思います。ですが、1人の記事だけでは公平さを保てないという意味で、故アルマン・ボレル博士の"Twenty-Five Years with Nicolas Bourbaki"も紹介すべきだったと最近思いました。きっかけは、"アンドレ・ヴェイユ: 長い友情の思い出"で触れたように、カルタン博士とヴェイユ博士の文通書簡集を読んだからですが、何故そう思ったのかを書くと、これもまた長くなるので端折ります。いずれにせよ、ボレル博士の記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2018年5月29日]
ブルバキの中の人の観点ではなく、編集者の観点から見たブルバキについては"存在しなかった著者: ニコラ・ブルバキ"があります。

[追記: 2019年03月21日]
このペィジは2013年07月18日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。

ニコラ・ブルバキと共に25年間 1949年–1973年
1998年3月 アルマン・ボレル

期日は個人的な環境により指定されている。つまり、私がブルバキ内部を知っていた期間である。最初は複数メンバーとの内輪の接触を通して、そして、50歳で強制退会するまでの20年間のメンバーとしてだ。
個人的回想に大いに依存しているので、私の説明は主観的だ。勿論、入手可能なドキュメントをあたって私の記憶をチェックしたが、ドキュメントはいろいろな意味で限られている。すなわち、方向と一般目標に関する議論の多くが記録されていない1。他のメンバーは異なる記述をするかも知れない。
お膳立てするため、ブルバキの最初の15年を簡単に触れよう。それは非常によくドキュメントされているので2、私は簡略出来る。
30年代の初期、大学と研究レベル(ここでの関心はこれらだけだ)においてフランスの数学の状況は非常に不満足だった。第一次世界大戦は本質的に一世代を一掃した。来る若い数学者達は指導のために、いわゆる1900年学派の主要で傑出したリーダー達を含む以前のものに依存せざるを得なかった(特に解析学において)。海外、特に繁栄するドイツ学派(ゲッチンゲン、ハンブルグ、ベルリン)での現代の展開に関する情報は殆ど入手可能でなかった(何人かの若いフランス人数学者達、J. Herbrand, C. Chevalley, A. Weil, J. Lerayがそれらのセンターへ訪問中に見出していたのに3)。
1934年に、A. WeilとH. Cartanはストラスブール大学で講義職(准教授相当)だった。勿論、主要な義務の一つは微積分の教育だった。標準テキストはE. GoursatのTraité d'Analyse[訳注: 解析教程]だったが、彼等は多くの点で不完全だと思った。カルタンはヴェイユにこの教材をどう講義するのかとうるさく訊いたので、或る時に、それをきっぱり終わらせるため、ヴェイユは我々が自力でTraité d'Analyseを書けばいいのではと言った。この示唆は周辺に広まり、すぐに約十人の数学者のグループが教程を計画するために定期的に会合を始めた。業績は個人的貢献への承認も無く、集団的にすることがすぐに決まった。1935年の夏に、著者名ニコラ・ブルバキが選ばれた4
メンバーは長年に渡って変化した。最初のグループ内のある人達はすぐに退会し、他者が入会し、後には入会退会の定期的過程があった。ここで、本当の"開祖"に言及させてほしい。それらの人達は(ブルバキを形作り、退会するまで多くの自らの時間と思考を与えた):

アンリ・カルタン
クロード・シュヴァレー
ジャン・デルサルト
ジャン・デュドネ
アンドレ・ヴェイユ

彼等は各々1904年、1909年、1903年、1906年、1906年に生まれ、全員がパリにあるエコール・ノルマル・シュペリウールの元学生だ5
解決すべき最初の問題は、素養となる教材への参照をどう処理するかだった。大部分の既存の本は不満足だと分かった。ファン・デル・ヴェルデンのModerne Algebra[訳注: 現代代数学](深い感銘を受けたが)でさえ、彼等のニーズに相応しくなかったようだった(独語で書かれていることの他に)。更に、彼等はフランスで伝統的に使用されて来た解説書より、もっと正確、厳密なスタイルを採用したので、一から始めることを決定し、多くの議論の後で基礎的教材を6つの"巻"に分冊し、各巻がおそらく多くの分冊からなっている:

I 集合論
II 代数
III 位相
IV 一実変数函数
V 位相ベクトル空間
VI 積分

これらの巻は直系的に順序つけされていた。つまり、任意の時点での参照は同じ巻内の先行するテキストまたは早期の巻(与えられた順序で)へのみに出来た。タイトル"Éléments de Mathématique"[訳注: 数学原論]は1938年に選ばれた。普通の"Mathématiques"よりも"Mathématique"を選んだことは特記に値する。"s"の欠如は勿論全く意図的であり、数学の統一というブルバキの信念を表明する一つの方法だった。
姿を現した最初の巻はFascicle of Results on Set Theory[訳注: 集合論に関する結果の概説](1939年)だった。そして、40年代には位相と3冊の代数。
当時、チューリッヒのE.T.H.(スイス連邦工科大学)の学生、そして後には助手として私はそれらを読み、特に多重線型代数から学んだ。多重線型代数について同等なものはどこにも無かったが、あるためらいがあった。読者に容赦が無く、一般性に対する明らかな努力、内部参照の融通のきかないシステム、外部参照の完全な欠如(歴史的ノート内を除いて)、その非常にドライなスタイルに私は不快だった。多数にとって、この解説のスタイルは数学での傾向、それ自体のための一般化に対して、特定の問題から遠ざかっていることの警告を意味した。それらの批判のうちに、H. Weyl(その見解を私は彼の古い友人で元同僚のM. Plancherelを通じて聞いた。何と私は一時はPlancherelの助手だった)がいた。
1949年秋にC.N.R.S.(フランス国立科学研究センター)のフェローシップ(C.N.R.S.とE.T.H.間でちょうど取り交わされた交流協定から資金を得て)を貰ったので私はパリへ行き、シニアメンバーの何人か(アンリ・カルタン、ジャン・デュドネ、ローラン・シュワルツ)とすぐに知り合いとなった。もっと有益なことは非公式に若人達(特に、Roger Godement、ピエ-ル・サミュエル、Jacques Dixmier、そしてもっと重要なジャン=ピエール・セール。セールは激しい議論と親友の始まりだった)と接したことだった。勿論、私もブルバキセミナーに参加した。ブルバキセミナーは年に3回あって、各回で最近の展開に関する6つの講義を行った。
それらの最初の出会いは私のブルバキへの見解を変えた。これらの人達すべて(勿論年長者のみならず、若人達も)が非常に考えを持っていた。彼等は非常に多くのことを知り、非常によく理解していた。彼等は数学を消化するため、本質点を突くため、数学をもっと包括的、概念的な方法に再定式化するための効率的な方法を分かち合った。彼等よりもずっと私が精通しているトピックを議論する時でさえ、彼等の鋭い質問はよく私が本当には理解していなかった印象を私に与えた。その研究方法は、いくつかのブルバキセミナー、例えばヴェイユのゼーター函数に関するセミナー(Exp. 16, 1949)、シュワルツの小平Annals大論文(調和積分について)に関するセミナー(Exp. 26, 1950)でも明らかだった。勿論、特殊な問題を忘れなかった。もっとはっきり言えば、特殊な問題は殆どの議論のパンでありバターだった。本を書くことは明らかに別の問題だった。
後に私はブルバキ会議(の一部分)に招待され参加し、全く狼狽した。それらの会議(規則として、年3回。一週間の2回、約二週間の1回)は私的行事であり、本に捧げられた。通常のセッションは、ある章の草稿を、または、その時または後に入会するための審査のもとでの或るトピックに関する予備報告(かも知れない)を議論したものだった。メンバーによって一行ごとに大声で読まれ、誰もが任意の時点で、中断、コメント、質問、批判出来た。多くの場合、この"議論"は滅茶苦茶な、怒鳴り合いになった。豊かな声量、決定的な申し立てへの嗜好、そして極端な意見の持つデュドネが彼も参加する会話を自動的に音量を上げたのをよく私は見た。それでも、私は見たこと聞いたことに対する心構えが出来なかった。"2、3人の1人芝居俳優が、おそらく各自ばらばらで絶叫した"が、最初の夕べに私が自分で印象をまとめたことだった。その感想はデュドネの[8]での以下のコメントとは関係がない:

見物人としてブルバキ会議に招待された或る外国人達は、狂人達の集まりだという印象を漏らした。彼等は、これらの人達が時には3、4人が同時に叫びながら、どうやって知的なことを思い付くのか想像出来なかった・・・

私が、絶叫しないまでも、この無法な特徴が実際には意図的だったことを知ったのは、数学における組織化と解体に関するヴェイユによる1961年の講義[13]を読むことの、ほんの10年前だった。ブルバキを語って、ヴェイユは一部を言った:

・・・私達の議論の中では慎重に無法な特徴を保ち続けた。グループの会合では、統率者を置かないようにして来た。話したい誰かが喋り、誰もがそれを遮る権利を持つ・・・
これらの議論の無法的特徴はグループの存在を通して維持されて来ている・・・
間違い無く、良い組織はすべての人にトピックまたは章を割り当てたであろうが、その考えが私達には起きなかった・・・
その経験から具体的に学ぶべきことは、組織での何らかの苦心は他のものと似た研究書で終わったであろうことだ・・・

根底にある考えは外見上、本当に新しく画期的なアイデアは整然とした議論からよりもずっと対決から起こるだろうことだった。アイデアが出て来た時、ブルバキのメンバーは"魂が吹いている"とよく言ったものだ。そして、実際に、静かな議論よりも"魂のこもった"(または、荒々しいと言うべきか)議論の後で、ずっとよく吹いたことは事実である。
運営に関する他のルールも限られた時間内での刊行の可能性を小さくしたようだ。
一つの草稿のみが指定された時間に読まれ、誰もがすべてのことに関係すると当てにされた。章は6回またはそれより以上の草稿を経たかも知れない。最初の草稿は専門家によって書かれたが、誰もが後の草稿を書かないかと求められたであろう。これは殆ど報われなかった。ブルバキはいつも決心を変えられた。草稿はばらばらに引き裂かれたかも知れず、そして新しいプランが提出された。それらの指示に従いながら、次のバージョンが左程上手く事を運ばないかも知れず、ブルバキはもう別のアプローチを採用、または元の草稿が結局好ましかったと決定するかも知れず、等々。時には、引き続く草稿内の2つの周期性が似る結果となった。問題をもっと停滞させる、もしくはそれらしいことには、刊行について多数決投票がなかった。すべての決定は満場一致でなければならず、誰もが拒否権を持った。
しかし、それらすべてのハードルにもかかわらず、分冊は出版され続けた。そのようなやっかいなプロセスが収まった理由は、開祖のメンバー達にでさえ、ちょっとミステリーだった([6, 8]を見よ)。だから、私がそれをあつかましくも十分に説明出来るとは言わない。それでも、あえて2つの理由を説明しよう。
一つ目の理由は、メンバーのひるみない責任、企ての持つ価値への信念、目標は遠く離れているが、時間とエネルギーを捧げる喜びだった。典型的なブルバキ会議の日は3つの会合を含み、合計して(しばしばハードで時には緊張する議論の)7時間だが、非常に過酷なスケジュールだった。これに加わるのが草稿の執筆だった。時には長時間であり、それは実質の部分が数週間または数ヶ月を要するかも知れず、没にならないにしても成果が辛らつに批判される、またはせいぜい数ページの読了の後に即決で否決される、または棚上げ("冷蔵庫に置け")される予兆を持つ。たとえ興味深く読まれても、多くが刊行に繋がらなかった。実例として、私が参加した第2回会議の重要なものは多様体とリー群に関する"微積分草稿"と題された260ページ以上のヴェイユによる原稿だった。それは、Ehresmannのジェットの一般化である"nearby points"[訳注: "付近点"とでも訳せるのでしょうが、少なくとも私には初耳です]というアイデアに基づいた。これに続いてGodementによる約150ページの精巧な作品があったが、ブルバキは何ら付近点に関するものを発表しなかった。
他方、受領されたものが何であれ、著者への功績言及無しで編入された。概して言えば、数学の統一と極度の簡明化への信念に動かされて、基礎数学の可能でベストな解説を与えようと努力している人達による、真に無私的で匿名的な要求の厳しい作品である。
私の2つ目の理由は、デュドネの超人間的な効率だ。私はページ数を数えようとしたことがないが、2、3人の他のメンバーを合わせた量よりも多くを彼は書いたと思う。約25年間、彼は(おそらく一時間のピアノ演奏の後で)ブルバキのための数ページを書くことで規則正しい一日を始めたものだった。決して独占的ではなくて、特に彼がメンバーの間、そして少し退会を先延ばしする間に出現した、すべての巻(約30巻)の最終原稿、練習問題、出版者に対する準備の世話をした。
これは、おそらく、個人または他者の貢献を特徴付けようとする、どんな努力も失敗させて、複数巻のスタイルの一様を保つことへの説明となる。だが、これは実際にはデュドネのスタイルではなく、むしろ彼がブルバキのために採用したものだった。シュヴァレーを除いて、他のブルバキのメンバーのものでもなかった。ブルバキに対してさえ、シュヴァレーは時に非常に厳しかったようだ。彼のものの中の一つの草稿は"非常に抽象的過ぎる"として否決されたかも知れない。シュヴァレーの本のレビューでヴェイユは"まことに冷酷な本・・・"と記述[12, p.397]したが、それは多くの人達がブルバキ自体に当てはめたであろう記述である。この非人間的で初心者に優しくない表明6に寄与している、もう一つの要因は、最終テキストが結論されたプロセスである。読者を助けるためのヒューリスティックな注意が時には草稿の中に入り込んだものだった。このバージョンまたは後のバージョンでそれを読んでいる間、その用語は吟味され、少数の語で正確にするには余りにも曖昧で漠然として不可能だと分かれば、殆どいつも投げ捨てられた。
言わば副産物として、ブルバキ内部の活気は、素晴らしい教育であり、ユニークな訓練場所であり、ブルバキのメンバー達との私の最初の議論内で私が行き詰った理解の幅と鋭敏性の明らかに主要なソースだった。
すべてのトピックスに興味を持つ要求は明らかに水平を広げることとなった。ヴェイユにとっては(またはシュヴァレーにとっては。殆どの他のメンバーにとってではない)、大したことではないかも知れないが、一般的に認められているように、彼は殆ど初めから全計画を決心していた。それは特にカルタンにより認められていた[7, p. xix]:

完全性への共通する要求に動かされて、強烈な個性を持ち性格の非常に異なる人達と共通な、この研究は私に多くのことを教えて来ている。そして、私の数学的文化の大部分を、これらの友人達に負っている。

そして、デュドネによって[8, pp.143-44]:

個人的経験では、私がよく知らなかった疑問について草稿を書く義務を負い、そしてどうにか切り抜けていなかったら、私がやって来た数学の4分の1、もしくは10分の1すらしかやらなかったであろう。

だが、メンバーの教育は本来目標ではなかった。むしろ、ブルバキの標語の一つ、"非専門家による専門家のコントロール"によって強制された。始めの方で述べた、チューリッヒでの私の初期の印象に反して、研究書の目的は、それがための極度の一般化ではなく、否むしろ、いろいろな分野での能力あるユーザのニーズに答える、最も効率的なもの、最も確からしいものだった。応用の範囲を実質的に広げない、主として専門家をかき立てるらしい定理の改良はしばしば放棄された。勿論、後で発展がブルバキは最善の選択をしなかったと示すかも知れない8。それにもかかわらず、これは指針原則だった。
他にも、個人的研究または現在の展開について議論がセッションの外で行われた。概して言えば、ブルバキは自由に交換される最先端の知識の驚くべき総量だった。
これは、ブルバキにとって現在の研究と"原論"を書くこととは完全に別で、ほぼ互いに素な活動だったことを明らかにした。勿論、"原論"を書くことは現在の研究に対して基礎を供給し、一般から特殊まで行う教理スタイルが、その目的のためには最も適していた([5]を見よ)。しかし、"原論"は研究に対して活気を与えること、示唆すること、青写真となることを意図しなかった([8, p. 144]で強調されているように)。私は時には警告は"指図"に含まれるべきではなかったかと思って来た。
これすべてが実を結び、50年代はメンバーの論文と研究の両方によってブルバキの影響が拡がった時代だった。特に、代数トポロジー、複素解析幾何での連接層、そして複素数体C上の代数幾何学(後には抽象的代数幾何学)、ホモロジー代数におけるフランスの大活躍を思い起こそう。非常に代数的であるけれども、これらの発展は、超函数のシュワルツ理論、彼の学生B. MalgrangeとJ.-L. LionsのPDEにおける研究を通して解析学にも到達した。1955年の初め、"ハードアナリスト"であるA. Weinsteinは私に彼の分野においてブルバキは安全だと言った。だが、2年足らず後に彼はMalgrangeとLionsをメリーランド大学にある彼の研究所に招待していた。
私はこれらの発展すべてが単にブルバキによるものだったとは全く言っていない。何と言っても、トポロジーにおける驚くべき進歩はLerayの研究から起こり、R. Thomは主要な貢献者だった。また、小平邦彦、D. Spencer、F. Hirzebruchは複素解析幾何への層の応用に決定的な役割を担ったが、間違い無くブルバキの考え方と方法が大きな役割を果した。これは、初期の批判的コメントにもかかわらず、H. Weylによって早くから認識されていた。かって、R. Bottは1949年にブルバキについてH. Weylによる否定的所見(私が知っていたことと同様)を聞いたことがあったが、1952年までにWeylは"私はそれをすべて引っ込める"とBottに言ったと私に語った。しかし、他の人達(1952年の会話の中で、W. Hurewiczのように)は、すべてブルバキとは何ら関係が無い、ただ彼等は凄い数学者達だったと表明したものだった。勿論、凄い数学者達だったことは事実だが、個々の研究と数学観におけるブルバキの影響は私の世代の多くにとって明らかだった。私達にとってH. Cartanは、ブルバキの最も際立った実例、ほぼ化身だった。彼はエコール・ノルマル・シュペリウールで多くの管理的、教育的義務を抱えているのにもかかわらず、驚くほど生産的だった。彼の業績すべて、トポロジーにおける研究、多複素変数における研究、Eilenberg–MacLane空間、ポテンシャル論における初期の研究(J. Denyとの共同)、局所コンパクトアーベル群上の調和解析(R. Godementとの共同)が真新しい革新的なアイデアを含んでいなかったように思えた。むしろ、本当のブルバキ的アプローチで、一連の自然なレンマから成っていて、そして突如、大定理が次に続いた。かって、私はセールと共にカルタンの生産高についてコメントしていたが、それに対して彼は、"やぁ、そうだね、ブルバキにおせっかいした20年。それで終わり"と言った。勿論、彼はそれより以上のものがあることを知っていたが、この所見は、いかに私達はカルタンがブルバキのアプローチを例証したと思ったか、いかにブルバキのアプローチが好結果を生んだかをうまく表現した。当時、セミナー、論文、教育を通してカルタンの影響は痛切に感ぜられた。R. Bottはカルタンの70歳を記念する学界で、彼について"彼は本当に私達の先生である"と言った[4]。
50年代は、最もパワフル、最も一般的、最も根本的を探求する、ブルバキのさらなる化身の人物の登場も見た。すなわち、アレクサンドル・グロタンディーク。彼の1949年以来の関心事は函数解析にあった。デュドネとシュワルツによって彼に提示された位相ベクトル空間に関する多くの問題を彼はすぐにこてんぱんにやっつけ、広大な理論を確立するまで進めた。それから彼は、代数トポロジー、複素解析幾何、代数幾何に関心を向け、すぐにリーマン-ロッホ定理の一つのバージョンを思いついた。そのバージョンは、既に公式化によって関数的思考に慣れている人達に不意打ちを食らわせ、他の誰よりも遥か先にいた。それは重大だったけれども、代数幾何学における彼の基礎研究の始まりに過ぎないことが判明した。
50年代は、このように外見上ブルバキの大成功の期間だった。しかし、対照的に内側では危機に面していて、成功は重大な困難の一つだった。
勿論、ブルバキの影響に対する不満はあった。私達は数学内の進歩を、そして数学の統一を見て来た。数学のかなりの部分を主として(その当時は)非常に洗練された、本質的に代数的手法を通して見て来た。パリで最も成功した講師はカルタンとセールだが、彼等は随分多くの支持者がいた。その数学的風潮は、異なる気質、異なるアプローチを持つ数学者達の好みではなかった。これは実に不幸なことだが、このことでブルバキのメンバー達を悪く思うことは殆どあるはずがなかった。ブルバキのメンバー達はブルバキ流で研究を行うことを誰にも強要しなかった9
私が議論したい困難は種々の内的性質であり、部分的にはブルバキの大成功によって画策され、"第2部"(つまり、最初の6巻より以上の研究書)と連携された。50年代には、これらは本質的に終わっていたし、これからのブルバキの主要エネルギーは後編に専念することと理解されていた。それは早期からブルバキの心にあった(何と言っても、まだTraite d'Analyseがなかった)。既に1940年の9月(Tribu No. 3)にデュドネは、数学の殆どを含む27巻に壮大な計画のアウトラインを書いた。もっと控えめなもの(それでも"原論"を超えていた)も通常デュドネによって会議の結論となったものだった。また、将来の章のレポートと草稿が多数書かれた。しかし、数学は様々に成長し、一部ブルバキの研究を通して数学的風景はかなり変化した。そして、私達が伝統的なパターンに単純に従って続けることは出来ないと明らかとなった。これは意図したことではないけれども、開祖達は基礎的記述をよく重視したが、彼等は今や退会していて10、第一責任は若いメンバー達に移っていた。いくつかの基本原則は再検証せざるを得なかった。
例えば、一つは直系順序と参照のシステムだった。私達はもっと特殊なトピックスを目的とした。厳密な直系順序を保つことは、いくつかの巻を書くのを過度に延期するかも知れない。その課程が最初に採用された時、実際に適当な参照の不足があった。だが、ブルバキはすぐ気付いた。新しい巻はスタイルにおいてブルバキのすぐ近くにあり、何人かのメンバー達は他のものを刊行していた。それらを無視することはかなりの重複と骨折り損になるかも知れない。したくなければ、研究の匿名性の特徴を壊さずに、どのようしてそれらを考慮出来るのであろうか? もう一つの伝統的教義は、誰もがすべてのことに興味を持つべきだった。それに固執することは意味あることだけれども、"原論"(基礎数学から成っており、プロフェッショナルな数学者の手荷物の一部だ)を書いている間は、それはどちらかと言えば簡単だ。しかし、最前線により近い、より特殊化されたトピックスを処理する時、それはより難しくなる。ブルバキの小グループへ巻の分割、第一責任の預託の可能性は潜んでいたが、私達が気軽に採用するものではなかった。しばらく決定されなかったけれども、これらの問題と他の問題が討論された。解答よりも問題のほうが多くあった。手短に言えば、2つの傾向、2つのアプローチが出現した。一つ(これを理想主義的と呼ばせて欲しい)は自治的方法、ブルバキの伝統的方法で広大な基礎の構築を続けること。他はもっと実用的で、たとえ最も一般的なところで徹底的には設計されていなくても、私達が処理可能と思うトピックスを取り掛かること。
漠然とした一般論のレベルでとどまるよりも、私は実例によってジレンマを説明したい。
或る時点で、初等層理論に関する草稿が作成された。それは、代数トポロジー、ファイバーバンドル、微分多様体、複素解析幾何、代数幾何に基礎的土台を与えることを意図された。しかし、グロタンディークは反対した。つまり、もっと系統立てて、このトピック自体のために先ず基礎を与えなければならない。彼の対案は以下の2つの巻を持つ:

VII: ホモロジー代数
VIII: 初等トポロジー

VIII巻は試験的に以下のように分冊される:

章 I: 位相的カテゴリ、局所カテゴリ、局所カテゴリの貼り付け、層
章 II: 層の係数を持つH1
章 III: Hnとスペクトル系列
章 IV: 被覆

これに続いて:

IX: 多様体

これは既に計画されていた。
詳しく触れないが、彼は層に関する章の非常に詳しい計画も追加した。
これは確かにブルバキ精神だった。それに反対することはちょっと母性に反論するみたいだから、ヒアリングを与えなければならなかった。グロタンディークは時間が無く、約3ヶ月後の会議で2つの草稿を示した。

章 0: 多様体の巻への予備、多様体のカテゴリ、98ページ
章 1: 微分多様体、微分形式論、164ページ

そして、もっと多くの代数(例えば超越代数)が必要だろうと注意した。グロタンディークの論文の場合よくあることだが、それはいろいろな点で落胆させるように一般的だったが、他の点ではアイデアと洞察が豊富だった。しかし、そのルートに従うのであれば、私達は長年、基礎で動きが取れなくなり、成果がはっきりしないであろうことは明白だった。寛大に受け止めれば、彼の計画は既成数学に基礎を与える("原論"がそうだったように)のみならず、予想出来る範囲内で将来的発展に対しても基礎を与えることを狙っていた。ラベル"章 0"がなにかの兆候ならば、数字の割り当てが両方向に広がるのではと危ぶむだろう。つまり、基礎に基礎を与えるための章 -1、章 -2、・・・等々。
他方、多くのメンバーは限られた時間内でもっと確実な目標(そんなに根本的でないかも知れないが、それでも価値がある)を達成するだろうと考えた。予備知識として、そんな大規模な根本的基礎を必要としないで、ブルバキのアプローチが良い解説を作成するかも知れないと思う、多くの分野(少し挙げれば、代数トポロジー、多様体、リー群、微分幾何、超函数、可換代数、代数的数論)があった。
理想な解決は両方の道を進むことだったであろうが、これは私達の可能性を遥かに超えた。選択しなければならなかったが、どちらを? その問題はかなり長い間答えられず、一種の停滞となった。一年後、遂に解決策が到着した。すなわち、微分多様体と解析多様体について概説を書くこと、従って少なくとも、私達が考えたトピックスに対しては基礎の問題を迂回した。結局、多様体が関係する限り、何の種類の基礎材料が必要かを知った。要求されることを述べ、自分達でそれを証明することは全く実現可能だった(そして、実際すぐに実行された)。
この決定は障害物を持ち上げて、私達が望む可換代数、代数幾何、リー群、大域的解析、函数解析、代数的数論、保型形式を実質的に含むだろう本のシリーズの計画を置くことが出来た。
繰返すが、これはとても野心的だった。それでも、次の15年かそこらで、他の多くの事柄に対する予備草稿に加えて、結構な数の巻が出現した:

可換代数 (9 章)
リー群とリー代数 (9 章)
スペクトル理論 (2 章)

1958年には、私達を長期間悩ませて来た問題を原則的に解決する決定も為された。すなわち、"原論"への追加。時々、新しい章を書いている間、最初の6巻の一つへの補足が理に適っていることを認識したものだった。これをどう処理するか? 時には巻が絶版だったら、これらの補足を改訂版に含めることは可能だった。そうでなかったら、あるいは新しい章の付録を追加するであろう。だが、これは参照内の混同を作ると脅かした。1958年に、"原論"を改訂し、"最終"版(少なくとも15年間は手を加えない)を刊行することでそれは解決された。残念ながら、予想したよりももっと時間と苦労がかかった。いやそれどころか、それは現時点で全く終わっていないし、研究書の革新的部分の進歩を遅らせた(と私は思う)。だが、それがブルバキの論理だったし、避けられなかった。
上記に挙げた3巻の内、可換代数はブルバキの権限内でうまくいった。私達が直面したジレンマの解決とは無関係に進められただろうし、いやそれどころか実際に進めた。だが、多様体概説はリー群とリー代数のための必要条件だった。リー群とリー代数も、より実用的方法は役立つ研究に繋がるだろうことを示す。良い実例が、反射群とルートシステムに関する4章、5章、6章によって与えられている。
それはルートシステムに関する約70ページの草稿から始まった。そんなテクニカルで特殊なトピックをブルバキに示したことを筆者は詫びたが、多くの応用によってこれは正当化されるだろうと表明した。130ページの次の草稿が提出された時、一人のメンバーが、大いに結構だが、実際ブルバキはそんなマイナーなトピックに時間を使い過ぎている、他のメンバーは黙認していると所見を述べた。ところで、最終成果は有名だ。288ページ、ブルバキによる最も成功している分冊だ。それは、私達の約7人が積極的に関わっている本当の共同研究だ。7人の内の誰もが自力で書けなかったであろう。専門家、及び違う角度から見て興味を持っている人達から与えられたトピックに関する共同研究を引き出すための強いテクニックをブルバキは開発した。私の感触(全員がそうとは限らない)は、そのタイプの本をもっと作成していたかも知れないが、結論の出ない議論と論争、及び活動のはっきりした計画を描くことの難しさが勢いの沈没(それらからブルバキは十分にリカバリーしなかった)を作ったということだ。実際、おそろしいほど大量の未使用材料がブルバキのアーカイブにある。
このアプローチはグロタンディーク計画よりも野心的ではない。グロタンディーク計画が成功したかどうかは(私達がその方向に進めていたならば)、私には成功したとは思えないが、否定はしない。数学の発展はそのように行っていないと思うが、あの計画の実施は数学の発展の進路に影響を与えていたかも知れない。誰が分かる?
勿論、ブルバキはその夢のすべてを実現して来なかったし、その目標のすべてに全く近づいて来なかった。数学とその統一の大局的ビジョンの促進、解説のスタイル、記号の選択によって、数学に永続的なインパクトを持つことは十分に実行されたと私は思うが、当事者だから私は審判を下す立場にない。
最も生々しく私の心に残っていることは、共通目標に向けて、種々の個性を持つ数学者達の長年に渡る無私の共同研究である。それは本当にユニークな経験で、もしかして数学史上唯一の出来事かも知れない。根底にある約束と義務は当然のことだと思うし、敢えて言わない。これらの出来事が遠くになるにつれて、事実はますます私をびっくりさせ、殆ど非現実のように思われる。

参照
(略)[訳注:興味ある方は原文を見て下さい。ついでに言えば、本文にある脚注への番号はそのまま残していますが、脚注は各ページに散乱しており、煩雑なので省略しました。これも興味ある方は原文を見て下さい]

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今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ