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ウッズホールの不動点定理の起源について

前回の"ウッズホールの不動点定理の歴史"の追記で予告を書きましたが、約束通り今回紹介するのはLoring W. Tu博士の"On the Genesis of the Woods Hole Fixed Point Theorem"(PDF)です。この記事は最近私が読んだ数学関連記事の中で最も面白かった記事の一つです。つまらない記事やどうでもいいような本が氾濫する中で、これくらい面白い記事を他の数学者も書いてほしいものだと思いました。
Tu博士と言えば、故ラウル・ボット博士との共著Differential Forms in Algebraic Topology[代数トポロジーにおける微分形式]が特に有名です。この本は代数トポロジーを学ぶ時に必読と言ってもいいでしょう。もっとも、一般的な基礎トポロジーや多変数の微積分やその他の関連知識が無ければ、ちょっとしんどいかも知れませんが、例えば今回紹介する記事の数学的事項を本当に理解するためには、これくらいの本を理解出来ないようでは無理と言っても過言ではないです。
しかし、今回の記事は数学的事項を抜きにしても面白く読めるはずです。この記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2016年01月10日]
この記事を巡って、私は友人共の数人と更には海外の友人達とさえも議論をしました。日本語という言葉のバリアに守られて偉そうに論評する昨今の卑怯者の輩にはなりたくないので、全世界の人々が読めるように私がメールで友人達に書き送ったものをそのまま載せておきます。
As you know, Professor Bott passed away in 2005. So, tritely speaking, maybe Professor Shimura should have excused Bott earlier on. It may be hard for him to do so, however. According to his autobiography "The Map of My Life," he comes from a samurai class family. He seems to have a rigorous spirit in the sense that samurais never retract their own words. I guess it has something to do with the grounds that he doesn't endorse even Professor Tu's article. It is not so much that he settles a score against Bott or someone else, as that his claim isn't acknowledged to be true: it is that he formulated the formula more generally for a correspondence though he now can no longer recall its detail.

[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2016年01月09日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

ウッズホールの不動点定理の起源について
2015年10月 Loring W. Tu

ウッズホールの不動点定理は古典的なレフシェッツの不動点定理のベクトルバンドルへの遠大な拡張である。それは系として、複素多様体に対する正則レフシェッツ式、コンパクト・リー群の既約表現に対するワイル指標式を持つ。それ自体の重要性を別にして、ウッズホールの不動点定理は、多様体の解析とトポロジーの最大の見所の一つ、楕円型複体に対するアティヤ-ボットの不動点定理への前兆として数学史において重要である。代数側では、エタールコホモロジーにおけるVerdierのレフシェッツ不動点定理となった([13], [23])。実際、アティヤは1966年にフィールズ賞を授与され、表彰の言葉の一部分はアティヤが"シンガーと共同で複素多様体上の楕円作用子の指標定理を証明し"、そして"ボットと共同でレフシェッツ式に関連する不動点定理を証明した"と書いてある。これらの不動点定理の発見は、1964年にマサチューセッツの海のそばの小さな街ウッズホールでの代数幾何学に関するAMS夏期研究会にさかのぼる。時の流れと共に、どのように定理が来たかの記憶がいくぶん曖昧になっている。2001年にラウル・ボットはNotices of the AMSで発表されたインタビューで無意識に論議を点火し、論議は今日まで決着していない。
このドラマには3人の主役がいる: マイケル・アティヤ、ラウル・ボット、志村五郎―3人とも20世紀数学の巨人だ。アティヤは指標定理で有名だが、解析学、トポロジー、K-理論、数理物理学に対して手広く深い貢献をして来ている。ボットはトポロジーにおける基本的研究を通して、最近の60年間に幾何学とトポロジーにおいて大きな影響を与えた。志村は取り分け志村多様体で有名であるが、志村-谷山予想の定式化を通してフェルマーの最終定理の証明において主要な役割を果した。彼等の各々がウッズホールの不動点定理の起源の思い出を書いて来ている([1], [10], [11], [15], [16], [17])。論議は志村の正確な貢献に集中する。
ボットの全論文集の第5巻を編集している間に、私はコメントを求めるためアティヤと志村の両者に手紙を書いた。その過程で、私は或る未完の任務を発見した。時々歴史は関係者達ではなく、中立な観察者によって上手く書かれる。私は結果において何のかかわりが無く、私の目的は書かれた記録を吟味すること、関係者達にインタビューすること、互いに相違する見解をまとめることである。この報告書をNoticesに発表することでおそらく一歩近づけることを除いて、万人が入手可能な歴史的真実に辿り着くことは可能でないかも知れない。残念ながらボットはもはやいないが、大部の書き物を後に残したから、それは私の調査の基礎の一部分を形成している。全面公開のため、志村五郎はプリンストンで私の学部生論文[訳注: プリンストン大学では4年生は解説的な論文を書くことを求められ、正式にはシニア論文と呼ばれているそうです]の指導官、ラウル・ボットはハーバードで私の指導官の一人だったこと、両者に感謝の思いがあることを言わなければならない。

古典的レフシェッツ不動点定理
古典的レフシェッツ不動点定理は、コンパクト有向多様体Mからそれ自身への、非退化でスムーズな写像f: MMの不動点の数がfレフシェッツ数、すなわち、実コホモロジーベクトル空間Hq(M; R)上の誘導線型変換のトレースの交代和Σq(-1)q tr f*Hq(M; R)であるという美しい命題だ。ここで"非退化"はfのグラフGraph(f)がM×Mの対角集合Δに横切って出会い、交叉理論で普通のように、不動点はGraph(f)とΔの向きによって重複度±1にカウントされる。

図1.Graph(f)と対角との横断的交叉
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

例えば、f: S2S2が球のz-軸に関するαラジアン、0<α<2πの回転ならば、fは2つの不動点、北極と南極を持ち、各々が重複度1にカウントされる。2次元球体のコホモロジーベクトル空間Hq(S2; R)は次元0、1、2において各々R、0、Rである。Hq(S2; R)上の誘導写像f*が各々1(恒等写像)、0、1だから、fのレフシェッツ数は、
L(f)=1-0+1=2
であり、それが不動点の数であることはすぐ分かる(図2)。

図2.z-軸に関する球の回転は2つの不動点を持つ。回転のレフシェッツ数も2である。
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

レフシェッツ不動点定理はいくつかの素晴らしい結果を持つ。一つには、非退化零点を持つベクトル場に対するホップ指標定理をきわめて簡単に意味する。つまり、コンパクト有向多様体上のスムーズなベクトル場が非退化零点を持つならば、重複度も数えて零点の数の合計は多様体のオイラー指標である(図3)。

図3.この球上のベクトル場は各々が重複度1の2つの零点を持つ。球のオイラー指標も2である。
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

もう一つ別の結果として、多様体Mが縮小可能ならば、そのコホモロジーは正次元において消滅し、0次元においてH0(M; R)=Rである。従って、コホモロジー上の誘導写像f*H0において恒等写像、そうでなければ零写像だから、fのレフシェッツ数は1でなければならない。このようにレフシェッツ不動点定理は、縮小可能多様体からそれ自身へのすべてのスムーズな写像が不動点を持つことを意味する。これは円板の連続写像に対するブラウワー不動点定理のスムーズな場合の類似である。

論議
Allyn Jacksonとの2001年のNoticesインタビュー[9]の中の一箇所で、ラウル・ボットは1964年のウッズホールでのコンファレンスでマイケル・アティヤとの研究について語った。"コンファレンスの間、私達は私達の不動点定理、この新しい条件下でのレフシェッツ不動点定理を発見した。これは非常に心地良い考察だった。数論学者達は最初私達が間違っているはずだと言ったが、それから私達が正しいとなった。だから私達はそれを愉快に思った!" [9, p. 379]。編集部宛の手紙[15][訳注: これについては"ウッズホールの不動点定理の歴史"を参照して下さい]の中で、志村は発見という記述(志村予想の言及が無かった)を憤慨した。また志村は彼の予想に反対した数論学者を知らないと言い、数人の数論学者が間違ったというボットの記憶を数論学者全体をこき下ろしていると解釈して反対した。
過失を認めてボットは返書[10]を書き、うっかり志村の役割を省いたことを詫びた。不快にさせた文章を"ウッズホールでアティヤと私は、志村の予想した不動点式を楕円型の場合に一般化する方法を発見し、結局私達は擬微分手法でこの一般化を確立出来た"と喜んで置き換えるだろうと言った。論議はそこで終わらなかった。志村は治まらなかった、と言うのはボットの謝罪はきわめて微妙だったからである。実際、ボットはさらに続けて、志村に会う前に正則不動点式を研究していた印象を持っているから、志村との出会いを"意外な新事実よりも確証として"いつも憶えていたと言った。ボットの陳述は、志村のみが予想に対して貢献したのか、または彼と会う前にアティヤとボットは彼等自身の何らかのアイデアを持っていたのか疑いが持ち上がった。

図4.1970年代初期のラウル・ボットとマイケル・アティヤ
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

正則レフシェッツ不動点定理
複素多様体Mからそれ自身への正則写像f: MMは、コホモロジーベクトル空間Hq(M; )上の線型写像f*Hq(M; )を誘導する。ここでM上の正則函数の層である。fの正則レフシェッツ数L(f, )は誘導線型写像f*Hq(M; )のトレースの交代和Σq(-1)q tr f*Hq(M; )と定義される。古典的レフシェッツ数L(f)と違って、正則レフシェッツ数はもはや必ずしも整数ではなく、任意の複素数であり得る。正則レフシェッツ不動点式は、不動点からの寄与の合計として孤立非退化不動点を持つ正則自己写像の正則レフシェッツ数L(f, )を計算する:
L(f, )=Σf(P)=P1/det(1-J(f)P)
ここでJ(f)は任意の局所正則座標システムに関するfのヤコビ行列である。det(1-J(f)P)が不動点Pの重複度として解釈されるならば、正則レフシェッツ数もfの不動点をカウントするが、面白いことに不動点の重複度はもはや整数である必要は無い!
上記の2次元球体の例において、2次元球体は次元1の複素射影空間CP1として複素構造を与えられる。回転写像f: CP1CP1は、f(z)=ezにより有限平面C内で与えられるから、不動点0でのfのヤコビ行列はeである。他の不動点z=∞で、局所座標はw=1/zであり、wで書けば、写像f
w→1/e・1/we-iαw
だから、不動点∞でのヤコビ行列J(f)はe-iαである。コホモロジーHq(CP1; )は0次元でCであり、定数1で生成され、他のすべての次元で0である。従って、fの正則レフシェッツ数は
L(f, )=tr f*H0(CP1; )=1=1/(1-e)+1/(1-e-iα)
これは、この場合における正則レフシェッツ不動点定理を証明する。
正則レフシェッツ不動点定理もいくつかの素晴らしい結果を持つ。例えば、複素代数多様体Mは、複素射影空間CPnに対して双有理ならば有理的だと言われる。つまり、有限的に多くの超曲面の外側で合成写像ghhgが恒等写像となるような有理型写像g: MCPnh: MCPnが存在する。コンパクト・スムーズ有理多様体はCPnと同じコホモロジーHq(M; )を持つ。従って、コンパクト・スムーズ有理多様体の正則自己写像の正則レフシェッツ数は1である。正則レフシェッツ不動点定理によって、コンパクト・スムーズ有理多様体のすべての正則自己写像は不動点を持っていなければならない。これは円板における古典的ブラウワー不動点定理の正則な場合の類似である。
正則レフシェッツ不動点定理は正則p-形式に一般化出来る。複素次元nの複素多様体M上で、0≦pnに対してΩpM上で正則p-形式の層としよう。各pに対して正則レフシェッツ数を定義出来る:
L(f, Ωp)=Σ0≦pn(-1)q tr f*Hq(M; Ωp)
この正則レフシェッツ数L(f, Ωp)も不動点からの寄与の合計である。寄与の正確な形式はウッズホールの不動点定理によって与えられる。

ウッズホールでの志村の予想
幸いにも、コンファレンスの時からウッズホールの不動点定理に関する2つの独立した説明がある。つまり、ウッズホールの不動点定理セミナーに関するアティヤとボットの報告[4](それは1964年のコンファレンスで配布された)と1964年8月2-3日付けのアレクサンドル・グロタンディーク宛のジャン=ピエール・セールの手紙[18]である。アティヤ-ボット報告は刊行されて来ていないが、ボット全集の来る第5巻に収録されるだろう。
アティヤ-ボット報告では、志村予想の正確な陳述が見つかる:

Xを代数的閉体k上の非特異射影代数多様体、f: XXXのそれ自身の中への射とする。更に、EX上のベクトルバンドル、fEへのリフティングφを容認する―つまり、ベクトルバンドル写像φ: f-1(E)→Eを容認するとしよう。そんなリフティングは自然な方法で、Eの切り口の芽の局所的自由層S[訳注: 原文では違う文字なのですが、入力不可能な文字種でしたので代用しました]で係数を持つXのコホモロジーベクトル空間H*(X, S)の自己準同型(f, φ)*を定義する。従って、この自己準同型のレフシェッツ数を形成してよい:
χ(f, φ, E)=Σq(-1)q tr {(f, φ)*Hq(X; S)}
...最後に、不動点pにおいて、リフティングφは(ファイバー)EpEf(p)の自己準同型φpを定めるから、十分に決定されたトレースを持つことに注目せよ。
これを理解して、志村予想(今、我々はウッズホールの不動点定理と呼ぶことを提案する)は次の関係で与えられる:
χ(f, φ, E)=Σp tr φp/det(1-dfp)
ここでpfの不動点の集合をさらう。

1964年8月2-3日付けのグロタンディーク宛のセールの手紙も本質的に同じことを言っているが、フランス語である。
状況によって、多くのレフシェッツ不動点定理がある―スムーズ写像に対して、正則写像に対して、正則形式の層に対して、ベクトルバンドルに対して、楕円型複体に対して、エタール・コホモロジーに対して。それらは正確には同じでない(あるものは他の特殊ケースであるけれども)。文献では、ウッズホールの不動点定理はベクトルバンドルに対するレフシェッツ不動点定理(それが志村が予想したことだった)を意味する共通理解があるようだ。
この観点から、2001年にボットがNoticesインタビューで言ったことは完全に正確であり正しい。つまり、彼とアティヤはウッズホールで楕円型複体に対するレフシェッツ不動点式を発見した。勿論、そのヒントはベクトルバンドルにおける志村の予想だった。ベクトルバンドルから楕円型複体へ行くためにはイマジネーションの大きな飛躍が必要だった。これのため、そして他の研究のためにアティヤはまさにフィールズ賞を受賞した。
アティヤ-ボット報告は志村予想の代数的ケースにおいて多くの出席者の集合的努力を通して証明されたことも述べている。"セール双対のグロタンディーク版の多少とも古典的な線に沿って...特にVerdier、マンフォード、ハーツホーンの奮闘"とある。セールは手紙の中でアティヤが双対と局所Extを使って志村予想の代数的証明を、ボットが微分形式を使って複素解析的証明を与えたことをグロタンディークに報告している。

アティヤとボットの承認
レフシェッツ不動点式に関する研究の多くの同時代に発表された解説の中で、アティヤとボットは志村の貢献を承認した。
1964年のハーバードノート[5]の序論の中で、アティヤとボットは"私達の主要式はアイヒラーの代数曲線に関する結果(それは、最近のウッズホールでの代数幾何学のコンファレンスの期間、志村によって私達に注意させた)も一般化している。もっとはっきり言えば、この研究はこの方向での志村予想を証明する試みからの結果だった"と書いた。
1966年のBulletinの記事の序論[6, p. 245]の中で、アティヤとボットは"複素及びリーマン幾何から古典的作用子を取ることで、複数の重要な特殊ケース(定理2, 3)を得る。これらの最初は志村によって我々に予想され、1次元に対してはアイヒラーによって証明されていた"と書いた。"これらの最初"は定理2[6, p. 247]を意味したが、それが正則ベクトルバンドルに対するレフシェッツ不動点式である。
1967年と1968年の2つのAnnals of Mathematics論文([7]と[8])の中で、序論において志村に言及しなかったけれども、レフシェッツ不動点式[8, p. 458]の下にアティヤとボットは、

要約すると、複素解析多様体Xの横断自己準同型fに対して、我々の不動点式は、
(1) L(fp, *)=Σf(P)=PtraceCpdfp)/detC(1-dfp) に特殊化する。ここで、
(2) L(fp, *)=Σ(-1)qtrace Hp, q(f) である。 1965年[訳注: 本当は1964年の間違い]にウッズホールでのコンファレンスの間に志村が予想したのは、この式であり、それがこの研究に対して刺激を与えた。と言うのは、曲線(4.9)はアイヒラーによって[11]の中で確立されていたからである。志村とアイヒラーはもちろん代数幾何学のフレームワークの中で考えていた。そこでは、セールとグロタンディークの双対の全理論が任意の標数上でさえも、この結果を導くことが分かった。

と書いた。
これらの説明は、既に述べた分子と分母を持つ正則不動点式に関する予想の創始者が志村だったことを明確に確立していると思われる。

志村の忘れられた予想
志村によれば([16, p. 131], [17])、ウッズホールで正則写像に対するレフシェッツ不動点式より以上のことを予想した。

図5.1996年5月の志村五郎
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

多様体Mスムーズな対応M×MにおけるMと同じ次元を持つ部分多様体である。MからMへの写像のグラフは、垂直線テストを満足する対応の特殊なケースだ。1次元のヘッケ対応に対するアイヒラーの式に当時興味を持ち、高次元へアイヒラーの式を一般化する代数的対応に対する予想を作ったと志村は言った。彼の言葉で"私の意図は高次元の場合にアイヒラーの結果を拡張することだった。従って、写像のケースのみに私が予想することは滑稽だったであろう"[17]。代数的対応が正則写像の時、志村予想は正則不動点定理に特殊化されるであろうが、これはアティヤとボットが証明したことであった。しかし、志村の回想はアティヤ-ボット報告[4]またはセールの手紙[18]のどちらかによって立証されていない。
私は文献の何らかの参考を見つけることが出来ていないけれども、スムーズ対応に対するレフシェッツ不動点定理は知られているが、代数的なケースが未解決だと志村は考えている。残念ながら、誰も代数的対応に対するレフシェッツ不動点定理の志村予想を書下していなかったようであり、志村はもはやその正確な定式化を憶えていないので、正則不動点定理とヘッケ対応に対するアイヒラー式を同時に一般化するであろう、この魅力的な予想は今や失われている。

図6.対角線と横断交叉する対応Γ
(略)[訳注: 図を載せることは不可能ですので、原文を見て下さい]

回想
志村に会う前にボットとアティヤが式を研究していたというボットの回想はどうしたのか?  彼特有のユーモアの自虐的センスで、ボットは[11]の中で"実際、アティヤと私が自分達自身で、この式の或るバージョンを偶然見つけたことを私は思い出しているようだ。しかし、他の人の誰もこの事実を確認出来ないのだから、私は記憶の自己権威拡大本能のせいにせざるを得ない"と書いた。アティヤ全集[1]へのコメントの中で、アティヤは1988年に"1964年の夏のウッズホールのコンファレンスで、ボットと私は正則写像に対するレフシェッツ不動点式の一般化に関する志村の予想を学んだ。大変な努力の後、何らかの楕円型作用(または、もっと一般的に言えば、何らかの楕円型複体)を保持する写像に対して、この種の一般的な式があるに違いないと私達は確信した"と書いた。更に最近、2013年にアティヤは私に電子メッセージ[2]を送り、それは"AB[アティヤとボット]が志村に会う前に既に問題を研究していたという示唆のためにボットが責められることを私は心配だ。私はこの見解を決して支持しなかった"と述べた。
ボットの回想が正しいと仮定すると、可能な説明は志村が彼の予想をコンファレンスで多くの人達に語り、それからアティヤとボットに語り、ボットの認識の無いまま、志村が正則レフシェッツ不動点式に関する予想の究極のソースとなったことである。実際、志村は[17]の中で"コンファレンスの間、私はこの予想式を思い出し、それをジョン・テイトに話した。私は彼を1958年から知っていた。それからテイトはそれをアティヤとボットに語した。結局、私は問題を彼等と議論した"と書いた。
アティヤとボットに彼等は間違っていると話した数論学者達に関する逸話について言えば、ボット達が相談した数論学者達のみを意味する時に、ボットが"数論学者達"という言葉を使ったことは残念である。と言うのは、"数論学者達"は1964年のウッズホールでの数論学者全員を意味するだろうし、その中に志村も含むからだ。この点について、アティヤは2013年に私へのメッセージ[3]の中で詳しく述べた:

私の記憶(及びラウルの記憶)の正確さを私は強く主張する。1次元における実例(虚数乗法を持つ楕円曲線と関係があったと私は思う)をチェックするために私達は確かにテイトとCasselsに質問した。彼等は戻って来て、上手く行っていないと私達に語った。しかし、私達は正しくないにしては余りにも美しいので、あくまでやり抜いた。ヘルマン・ワイル式が特殊な場合として現れることを分かっていたので、私達は更に確信するようになった。このエピソードはストーリの中で非常に重要だから私が間違えているはずがない。残念ながらテイトもCasselsも、そのことを憶えていないが、彼等にとって憶えている価値の無い小さなストーリだった。私にとって、それは重要だった。これを、1次元においてアイヒラーが一般HLF[holomorphic Lefschetz formula][訳注: 正則レフシェッツ式]を証明していたという志村の陳述とどのように一致させるか?私の一番の推測は、これがモジュラー形式に登場するものであり、アイヒラーの研究すべてがこれに関係していたから、アイヒラーだけが直線バンドルが標準バンドルの冪である時の場合を研究したということだ。志村は私への電子メールの一つの中で十分に認めたが、それから見解を取消したようだった。だから私の見解は志村が一般にHLFを予想していたかも知れない(しかし、彼がそれを書き下ろさなかったし、今や予想が何だったのか憶えていないことはいらだたしい)ということだ。だが、1次元におけるアイヒラーの研究は決定的ではなかったし、(ワイル式以前に)一般HLFに対するまともな証拠が無かった。

ジョン・テイトは2013年7月に[20]の中で"その式について志村が私に話したことを私は憶えていない。もっとはっきり言えば、コンファレンスでその式のことについては何も憶えていない。だが、49年前のことであり、特にそれらが多複素変数または楕円型PDE[訳注: 偏微分方程式]のような分野(私はさほど詳しくなかった)についてであれば、記憶は消える。何故彼が私に話したのだろうかと思う。1958年の春にパリで彼と会ったことは事実だが、私達はお互いによくは知らなかった"と書いた。また[19]の中で"楕円曲線に関する何かをチェックしてほしいとCasselsと共に頼まれた記憶が無い。そこでの話を面白くするためにラウルが何かを大げさにしていたのかも知れぬと私は思う..."と書いた。

結び
1964年以降の年月の間に、ウッズホールの不動点定理の起源における志村の重要な役割は大部分忘れられて来ている。例えば、グリフィスとハリスの広く使用されているPrinciples of Algebraic Geometry[訳注: 代数幾何学の原理]の中で正則レフシェッツ定理の議論とアティヤとボットのAnnals論文[8]への参照があるが、志村に関する言及は無く、正則不動点式に関する様々な研究記事([14], [21], [22])の中で志村に関する言及は無い。彼の予想、少なくとも正則写像に対するものが公衆の意識の中に留まらないほどに短い命だったのかも知れない。
志村の自伝[16, p. 131]の中でウッズホールの不動点定理に関して、"しかし、面白いことに彼等[アティヤとボット]は次第に私の貢献を最小にしようとした"と書いた。これが意味するアティヤとボットの側の意図的行為に関する限り、これがそうだという証拠を私は見つけられていない。2001年のボットのNoticesインタビュー(その中で彼はうっかり志村の役割を省略してしまい、それに対して後で公的に謝罪をした)を除き、ウッズホールの不動点定理に関して発表された説明のすべてにおいて、アティヤとボットは必ず志村予想を承認して来ている。遅くとも2004年、亡くなる一年前に、2001年のNoticesインタビューに対して埋め合わせるかのように、ボットはウッズホールの不動点式の歴史に関する短い記事[11]の中で"志村式"または"志村予想"を6回も述べた。私がラウル・ボットを知って30年以上に渡り、彼はいつも私にクレジットに関して寛容であるべきだと語った。
私にとって証拠の優位性は、1964年のウッズホールでのコンファレンスの間に志村及び志村のみが正則レフシェッツ不動点式に関してオリジナルな予想をし、それをアティヤとボットが証明して楕円型複体へ拡張したことを示している。代数的対応に関するもっと一般的な予想を志村がしていた可能性があるが、もはや誰も憶えていない。

後記
アティヤと志村両者がこの記事を読んでいる。アティヤは"非常に公平だと思う"と言ったが、志村は是認することを断った。

感謝、写真ソース、クレジット
(略)

文献
(略)

コメント

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前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ