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アーベル賞受賞者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアへのインタビュー

ジョン・ナッシュ博士がアーベル賞授賞式から僅か4日後の5月23日に授賞式からの帰路の途中、ニュージャージで空港から乗車したタクシーの事故により車外に投げ出され、奥様のアリシアさん共々お亡くなりなったことは皆さんも御存知でしょう。私がこの一報を聞いたのは米国の友人からで、少なくとも日本のメディアがどこも報じていない時でした。正直、最初は何かの間違いじゃないのか思いました。と言うのは、その2、3日前にアーベル賞受賞講演を聴きに行ったノルウェーの友人から様子を聞いていたからです。
その後の続報で、博士と奥様は後部座席でシートベルトをしていなかったようです。交通法規の遵守についてはさて置いといて、高齢者の人は概してシートベルトを嫌がります。シートベルトをすると窮屈なことと、彼等の若い時は運転席及び助手席は兎も角も、後部座席でのシートベルトそのものが無い時代の方が彼等にとって圧倒的に長いからです。ですから、私は遺憾だけれども無理も無いなぁと思いました。
さて、いち早い一報を知らせてくれた米国の友人は私が映画"A Beautiful Mind"を見ていないこと、また原作も読んでいないことを知って、市販パッケージのDVDとペーパバック版の原作をわざわざ買い求めて送ってくれました。つまり、映画を見るか、原作を読むかせよということです。
先にDVDを見ましたが、感心しませんでした。映画なんですから数学的なことは嘘でもでっち上げでも構わないと思いますが、ナッシュ博士を演じるラッセル・クロウが冷戦の時代に暗号解読に従事しているなんて(それが幻覚だとしても、映画ではどこまで本当なのか曖昧にしています)、これは完全に史実を逸脱していると思いました。念のため言っておきますが、ナッシュ博士は暗号解読に従事していません。そんなことが出来る神経の図太さがあれば、ナッシュ博士はリーマン予想への挑戦で精神的消耗なんかしません。原作の著者シルヴィア・ナサーさんはクレームを言わなかったのかと不思議です。
結局、映画ではアリシア夫人を演じるジェニファー・コネリーの美しさとけなげなさだけが印象に残りました。正直言って、主演が逆じゃないのかと思いました。
原作の方は資料的価値があり、初めてナッシュ博士を知る人にとって必読でしょう。ただ、著者のナサーさんは経済学畑の人で、いじわるな言い方をすれば銭になるなら何でもござれという印象を受け、映画の逸脱も承知の上だったのかも知れません。
前置きが長くなりました。今回紹介するのは、泣いても喚いても最後のナッシュ博士へのインタビュー記事"Interview with Abel Laureate John F. Nash Jr."です。最後のインタビュー記事と言いましたが、事実上の遺稿と言っていいでしょう。これは"EMS Newsletter September 2015"(PDF)に収録されており、原文を読みたい人は該当ページを探して下さい。その私訳を以下に載せておきます。なお、注釈は省きましたが、注釈への索引はそのままです。

[追記: 2015年12月09日]
ミハイル・グロモフ博士がナッシュ博士のリーマン幾何学に関する論文を最初に読んだ時の驚きについて、"ミハイル・グロモフへのインタビュー"を参照して下さい。

[追記: 2015年12月10日]
インタビューの中で、ナッシュ博士が幼少の時に読んだと言うエリック・テンプル・ベルの本"Men of Mathematics"[訳注: 日本語版では"数学をつくった人びと"]ですが、ナッシュ博士の世代の米国人なら兎も角も(つまり、あの時代の米国ではベルの本が権威を誇っていた)、現代において、特に青少年は読むべきではないです。嘘が多く書かれているからです。例えば、集合論の開祖カントールがクロネッカーから執拗な攻撃を受けたから精神を病んだのではありません。これの詳しいことは、"ゲオルク・カントールと超限集合論闘争"が参考になるでしょう。いずれにせよ、ベルは数学史家のようにきちんと事実を調べておらず、適当に書いてます。こんな本を日本人は現代においても喜々として翻訳、出版し、それを喜んで買い求めるのですから、言葉が悪いですが、馬鹿そのものでしょう。また日本人が書く一般向けの数学者の伝記(つまり、研究書や歴史書でないもの、早い話が青少年向けの偉人伝物語の類の下らないもの)は概してベルの本を下敷きにしていますから注意して下さい。

[追記: 2015年12月17日]
映画"ビューティフルマインド"の原作シルヴィア・ナサー女史の同タイトルの本の書評については'ジョン・ナッシュと"ビューティフルマインド"'を参考までにどうぞ。

[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2015年12月08日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

アーベル賞受賞者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアへのインタビュー
2015年5月18日

このインタビューは2015年5月18日にオスロで行われたが、その日は授賞式の前日であり、ジョン・ナッシュと彼の妻アシリアの死となった悲劇の事故の僅か5日前だった。
ナッシュの時ならぬ死は、アーベル賞インタビューのための通常の手順、つまりインタビューされる人は最初の草稿のゲラ刷りを見て修正することを求められるが、その手順に従うことを不可能にした。従って、すべてのあり得る間違いはインタビュアーだけの責任である。

ナッシュ先生、ルイス・ニーレンバーグと共同受賞する2015年度の数学におけるアーベル賞受賞者である貴方を祝福します。アーベル賞を受けると知った時に貴方の反応は何だったのですか?
ノーベル賞の時と同様に、それに関して知らなかった。発表の前日の遅くに私は電話を受けたが、うろたえた。しかし、全く驚いたのではなかった。アーベル賞について考え続けて来たことがあった。かなり大きく、それでいて全く予測出来ない新しいカテゴリーの賞の興味深い一つの実例だ。私は事前通知を受けた。電話で翌日の朝にアーベル賞が発表されると聞かされた。私はきちんと準備した。

しかし、意外だった?
はい、意外だった。私はアーベル賞決定がいつ発表されるのかさえ知らなかった。それらを新聞で読んだことがあったが、熱心に見なかった。完全に立派な人達が選ばれていることを理解出来た。

青春と教育
数学に対して類稀なる才能を持っていることをいつ実感したのですか? 形成期に、数学を追究することを貴方に勇気づけた人達がいたのですか?
ええと私の母は学校教師だったが、英語とラテン語を教えた。私の父は電気技師だった。彼も第一次世界大戦直前に学校教師だった。
小学校に通っていた間、学校で習ったこと、つまり2桁の数字の掛算の代わりに、私は複数桁の数字で算数―足し算と掛算―をよくしていたものだった。だから、4桁と5桁の数字で勉強するようになった。それらを試し、正しい手順を見つけることに喜びを感じるだけだった。私がこれを解決出来たという事実はもちろん数学的才能の兆候だった。
そして、他の兆候もあった。幼い年齢でエリック・テンプル・ベルの本"Men of Mathematics"[訳注: 日本語版では"数学をつくった人びと"というタイトルで今でも出版されているようです]を持っていた。私はそれを読めた。アーベルがあの本で言及されていると思うが?

はい、アーベルは言及されています。1948年、貴方が20歳の時、学生を精選するエリート大学のプリンストン大学に貴方は大学院生として認可されました。プリンストンでの雰囲気をどのように好きだったのですか? 非常に競争が激しかったのですか?
それは刺激だった。もちろん競争も激しく、大学院生達の静かな競争だった。彼等はテニス選手のように直接互いに競争していなかった。或る特別な理解の可能性を彼等はそれぞれ追跡していた。誰もそれについて何も言わなかったが、多少暗黙の了解だった。

ゲームとゲーム理論
初期段階で貴方はゲーム理論に興味を持ちました。プリンストン大学の数学建物であるファイン・ホールの談話室において教員達と学生達の両方で広く興じられる、位相的性質を持つ独創的なゲームを貴方は考案しました。そのゲームはプリンストンで"ナッシュ"と呼ばれていましたが、今日では"魔法の呪文"として知られています。なんと、デンマーク人の発明家でありデザイナーのPiet Heinが独立にこのゲームを発見しました。何故、貴方はゲームとゲーム理論に興味を持ったのですか?
ええと、以前の大学、つまりピッツバーグにあるカーネギー工科大学(今日のカーネギーメロン大学)で経済学を勉強した。私はプリンストンでゲームと数理プログラミングの間の連結を研究している人達に注目した。私はいくつかアイデアがあった。すなわち、株式市場の相場師のように、一部は経済に関係し、他はゲームに関係した―それは実際ゲームである。それを正確にはっきりさせることが出来なかったが、プリンストンでフォン・ノイマン1とモルゲンシュテルン2が、私の発見したn人ゲームの均衡に対する一般的な定理の特殊なケースである2人ゲームの解の証明をした。私はそれを、均衡とブラウワー不動点定理(これは素晴らしい道具だ)の位相的考えの自然なアイデアに関連させた。
正確に私がいつ何故始めたのか、または、いつフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンがあれを考えたのか、それは私の確信が無い事柄だ。後でブラウワーの定理の一般化である角谷不動点定理について調べた。私はフォン・ノイマンがそれを呼起こし、角谷3に影響を与えたことを実感しなかった。角谷はプリンストンで学生だったから、位相的議論が一般に均衡を与えるだろうというアイデアにフォン・ノイマンは驚かなかった。この時に私はゲームの他の側面を研究するために理論を開発した。

今貴方は少し先走っています。数学コミュニティ以外の多くの人々は貴方が1994年にノーベル記念経済学賞を受賞したことを知っています。
あれはずっと後だった。

はい。映画"ビューティフルマインド"(その中でラッセル・クロウが貴方の役を演じています)によって、貴方がノーベル経済学賞を受賞したことを非常に多くの観衆が知ることになりました。しかし、ノーベル賞のアイデアが貴方の学位論文に含まれていることをすべての人が知っているのではありません。その学位論文は、貴方が21歳の時にプリンストンで提出されました。学位論文のタイトルが"非協力ゲーム"でした。
これが素晴らしく革新的になるだろうという考えを持っていたのですか? 経済学のみならず、政治学、進化生物学のような様々な分野にも影響を持つだろうことを?
言うのは難しい。ある種の均衡があって、相反する、または相互作用するパーティがあるところではどこでも使えることは本当だ。進化論者の考えは当然これと若干匹敵する。この点において私は科学的軌道に興奮する。

しかし、学位論文が素晴らしいことを実感していた?
はい。それのもっと長いバージョンがあったが、私の学位論文指導教官によって縮小された。協力ゲームに対する材料もあったが、それは別に発表された。

学位論文を書いた時、自分でトピックを見つけたのですか、それとも指導教官がトピックを見つけることを助けたのですか?
ええと、どちらかと言うと私は自分でトピックを見つけていて、そして私のトピックの性質によって指導教官が選ばれた。

アルバート・タッカー4が貴方の指導教官でしたね?
はい。彼はフォン・ノイマンとモルゲンシュテルンと一緒に共同研究したことがあった。

プリンストン
貴方の勉強及び研究習慣について聞きたい。貴方はプリンストンで滅多に講義に出席しなかった。何故ですか?
それは本当だ。プリンストンは非常に自由だった。私が入る少し前にプリンストンはN-グレードの概念を導入した。だから、例えばコースをしている教授はNの標準評価を与えたものだった。これは"ノーグレード"を意味する。だが、これは運営スタイルを変えた。ハーバードは当時そんなベースで運営していなかったと私は思う。その後ハーバードがあのように運営して来ているのかどうか知らない。プリンストンはN-グレードで運営を続けて来ていて、コースを実際に取っている(グレードが与えられるコースを正式に取っている)人達の数はプリンストンでは他の学校でのケースよりも少ない。

中古で多くを学ぶことは創造性と独創性を窒息させるという姿勢を取ったというのは本当ですか?
ええと、それはもっともと思える。しかし、中古とは何か?

はい、中古は何を意味するのですか?
中古とは、例えば人はアーベルから学ばないが、アーベル積分の学生である誰かから学ぶことを意味する。

もっとはっきり言えば、アーベルは数学日誌の中で、人はマスター達を学ぶべきであり、彼等の弟子達ではないと書きました。
そう、それはややその考えだ。うん、それは非常に匹敵する。

プリンストンにいた間に、貴方は別々の機会にアルベルト・アインシュタインとフォン・ノイマンと交流しました。彼等はプリンストン高等研究所にいた。高等研究所はプリンストン大学のキャンパスの近くにあります。若い学生にとって、そんな有名人と交流することは非常に大胆不敵だったのではないですかね?
ええと、やれるだろう。それは知性的機能の考え方の中に入る。フォン・ノイマンに関して、私はブラウワー不動点定理を使ってゲーム理論の均衡定理に関する私の証明を達成したが、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンは彼等の本の中で別の事柄を使った。だが、フォン・ノイマンに連絡し、私が黒板に立った時、彼は"君は不動点定理を使ったのか?"と訊いた。"はい。ブラウワーの不動点定理を使いました"と私は言った。
私は既にかなり長い間、角谷の不動点定理を使う証明のバージョンが存在すると実感していた。角谷の不動点定理は、写像が完全な連続性を要求されないから、経済学における応用に便利である。或る連続性、いわゆる一般連続性を持っており、その場合においても不動点定理が存在する。角谷がフォン・ノイマンから啓示を受けた後にあれを証明したことを私は実感しなかった。フォン・ノイマンは、経済において相互作用するパーティを持つ経済問題へのアプローチに不動点定理を使っていた(しかし、ゲーム理論では使用しなかった)。

貴方がフォン・ノイマンと話した時、彼の反応は何だったのですか?
ええと、既に言った通り、私が彼のオフィスにいて、彼はいくつか一般的な事を言っただけだ。彼は角谷不動点定理を知っていたし、私がそれに言及しなかった(既に私はやっていた)から、私は今彼が考えていたかも知れぬことを想像出来る。彼は"もちろん、これは上手く行く"のように一般的な事を言った。それが何と素晴らしいとかについて彼はそれほど言わなかった。

貴方がアインシュタインと会い、物理学での貴方のアイデアを説明しながら彼と話した時、彼の反応はどうでしたか?
彼の助手学生達の一人がそこで彼と一緒にいた。私はあれを余り期待しなかった。私のアイデアについて説明したが、それは宇宙を通る長い旅行においてエネルギーを失う光子に関係していて、結果として赤方偏移を得る。他の人達がこのアイデアを持っていた。ずっと後で私はドイツの誰かがそれについて論文を書いたことが分かったが、直接の参照を貴方に示すことが出来ない。この現象が存在すれば、宇宙膨張の時間に対する流行の意見は弱められるだろう。もう一つ別の起源の赤方偏移が存在し得るのだから、宇宙膨張の効果と思えるもの(ドップラー赤方偏移の類)はそのようには正しく解釈出来ないだろうからだ。私は後にこれに関する数学的理論を展開した。明日のアーベル賞講義で、私は可能な解釈としてこれを示すつもりだ。
異なるタイプの時空を記述出来るだろう興味深い方程式がある。ダークマターとダークエネルギーに関するアイデアに関係するであろう特異点が存在する。それを実際に促進する人達は宇宙での質量の殆どがダークエネルギーから来ているというアイデアを促進している。だが、存在しないかも知れない。代わりの理論が存在するであろう。

2011年にアーベル賞を受賞したジョン・ミルナーは貴方が大学院生になった同じ年に一年生としてプリンストンに入りました。彼は貴方が人々に根掘り葉掘り聞いて非常に未解決問題をよく知っていたという意見をしました。
プリンストンにいた間、貴方は有名な未解決問題を探していたのですか?
ええと、そうだった。概して私はそうだった。ミルナーは当時私が研究するための特別な問題を調べていたことを注目していたのかも知れない。
ミルナーは彼自身で様々な目を見張らせる発見をした。例えば、7次元球面上の非標準微分可能構造。彼はまた任意の結び目が或る量の曲率を持つことを証明した。これは、他の誰か5がミルナーに知られること無しに証明してしまっていたから、実際は新しい定理ではなかったけれども。

一連の有名結果
貴方がプリンストン大学でゲーム理論に関する学位論文を書いていた一方で、貴方は既に全く異なる性質の、非常に幾何学的趣きのある問題について研究していました。そして、1951年から1959年までボストンのMITのスタッフとして働いている間、この研究を続けました。貴方は実に素晴らしい結果の連なりを思い付きました。もっとはっきり言えば、この時期に貴方が得た結果は今年のアーベル賞受賞の一番の動機です。
この時期からの結果に迫る前に、2009年にアーベル賞を受賞したミハイル・グロモフを引用することで概観を与えたいと思います。6年前我々が彼にしたインタビューの中で、彼は貴方の手法が"信じられない程の独創性"を示していると語りました。更に、"私の観点から言えば、幾何学においてナッシュのやって来ていることは、経済学で彼がやって来ていることよりも、マグニチュードのオーダーで何倍も比較にならない程大きい"と言いました。
グロモフの評価に賛同しますか?
まあ、ただ好みの問題だ。それは全く苦闘だった。代数幾何学で私がやったものがあったが、それは微分幾何学(その中に細かい区別立てを持つ)に関係する。私はそこに突破口を作った。実際に代数多様体の幾何学的形状のコントロールを得ることが出来た。

それは我々の次の質問の議題になるでしょう。1951年にMITで始めた時、貴方は実代数多様体に関する論文を提出しました。MITで後に貴方の結果を利用するミハイル・アルティンを引用したいと思います。彼は"全くそんな定理を思いつくことは注目に値する"とコメントしました。
貴方が扱ったこと及びあの論文で証明したこと、どのように貴方が始めたのかを少し語っていただけますか?
私は実は時空とアインシュタイン、星の分布のアイデアに影響を受けた。そして、"星の分布の或るパターンを選べると仮定しよう。星の分布を持ち、均衡状態にある多様体(あちこちに曲がり、それ自身に加わるもの)が存在するであろうか?"と考えた。これが私の考えていたアイデアだ。最終的に、点(興味深い点)の分布が選ばれて、望ましい幾何的及び位相的方法でぐるっと回る多様体が存在するように数学的アイデアを展開した。だから、私はそれをやり、同時に、それをするための特別な一般理論を開発した。そして、それが発表された。
私が証明したことが表現されている多様体の中に幾何学的に美しくない事柄を許していたかも知れないと思うから、後に人々は表現をもっと正確にする研究を始めたが、それが他の事柄と緊密になるかも知れない。厳密には有限でないかも知れぬ。そのいくつかの部分は無限遠点に存在するかも知れない。
最終的に、他の誰か、A. H. Wallace6が問題を修復したように思えたが、そうではなかった。綻びがあった。だが、後にイタリアのトレントのAlberto Tognoli7という名前の数学者によって修復された。

もう一つ別の結果、リーマン多様体の実現に関して訊きたいと思います。大雑把に言えば、リーマン多様体は抽象的な滑らかな構造であって、その構造上で距離と角度が局所的に極めて抽象的な方法で定義されています。これらの抽象的要素が、十分に高次元のユークリッド空間における部分多様体として非常に具体的に実現され得ることを貴方は示しました。
はい、貴方が言うとおり、距離が抽象的方法で与えられるが、距離を定義するために十分だと考えられるならば、それは埋め込みによってでも達成出来るであろう。つまり、埋め込みによって誘導される距離だ。そこで私は脱線した。最初、最小レベルのスムーズ、つまりC1級の場合を持つ多様体に対して証明した。他の人達の一部はその後をさらに追究して来ている。私はそれに関する論文を発表した。その時、オランダ人数学者Nicolaas Kuiper8がいたが、彼は何とかして埋め込み空間の次元を1つ下げることが出来た。

貴方が得た結果はさておき、多くの人達が貴方の採った手法が独創的だと語りました。例えばグロモフとジョン・コンウェイを引用させて下さい。グロモフが貴方の結果を最初に読んだ時"私はナンセンスだと思ったから、真実であるはずがなかった。しかし、真実だった。信じられなかった"。更に後で"彼は偏微分方程式の全体像を完全に変えた"と言いました。そして、コンウェイは"彼のやったことは20世紀における数学解析の最も重要なものの一つである"と言いました。ええと、非常に大したことです!
はい。

噂が伝える通り、貴方は賭けの結果として埋め込み問題の研究を始めたということは本当ですか?
賭けのようなものがあった。談話室で議論があった。談話室はMITで学部メンバーの会合場所だ。幾何学の上級メンバーの一人、Warren Ambrose9教授と私は埋め込みのアイデアを議論した。埋め込みによる距離の実現のアイデアは彼から得た。当時、これは完全に未解決問題だった。そこにはあらかじめ何も無かった。
私はそれについて研究を始めた。そして、C1級の場合へ移った。多様体と比べて埋め込み空間の超過次元が少ししかない条件で、この場合では出来るであろうことが分かった。私は2でやったが、Kuiperは1だけでやった。だが、彼はスムーズにそれをやらなかった。これは正しかったようだ。つまり、スムーズな何かを与えられたなら、スムーズな解答を持つに違いないだろう。
しかし、数年後、私はスムーズに対する実現を作った。4つのパートを持つ論文でそれを発表した。私は今白状出来るが、間違いがある。論文が発表されてから約40年後、カリフォルニア大学の論理学者Robert M. Solovayが間違いを私に知らせた。"どうして?"と思った。私は調べ始めた。無限多様体があって、スムーズな埋め込みをしたければ、多様体をポーションに分け、各ポーションにおいて或る量の距離に対する埋め込みを持つという理由で、私はとうとう間違いを悟った。だから、皆は多様体をいくつかの、より小さい有限多様体に分けている。だが、私のやってしまったことは論理において間違っていた。うーん、どう表現すればいいかな? 私は任意の点に対する十分な局所的点を証明した。ここで任意の点は伸ばされ、一点に十分近い点を取るならば完全に微分されている。だが、2つの異なる点に対して、それらが同一の点の上に写像されることが起こり得る。だから厳密に言えば、写像は正しく埋め込まれてなかった。自己交叉の余地があった。

しかし、証明は修復された? 間違いは修復された?
ええと、私がそれを知ったのは、発表から長年の後だった。公式に注意されなくても知られていたかも知れないか、または注意されていたかも知れないが、人々はその知識を秘密10にしていたかも知れない。

貴方の結果がいかに驚きであったかをハイライトするために以下のことを差し挟んでいいですか? MITでの貴方の同僚の一人、MITで数学教授及び哲学教授でもあるGian-Carlo Rota11が"その分野の偉大なエキスパートの一人が、彼の大学院生の一人がそんな異様なアイデアを提案したなら、オフィスから追っ払っているであろうと私に語った"と言いました。
それは本当のリベラル、進歩的態度でない。

偏微分方程式
しかし、それでも貴方の証明した結果は、当時の人々が持っていたテクニックの範囲を超えているものと受止められています。
はい、そのテクニックは一般にPDE[訳注: 偏微分方程式]を研究するための新しい手法となった。

純粋にPDE論の範囲内での貴方の研究について続けさせて下さい。私達が間違ってなければ、これは1956年にニューヨークのクーラント研究所で貴方がルイス・ニーレンバーグ(彼は貴方と今年のアーベル賞を共同受賞します)とした会話の結果として生じました。彼は貴方に非線型偏微分の方程式内の主要な未解決問題について語りました。
はい、彼は私にこの問題について話した。カリフォルニア大学教授C. B. Morrey12による2次元でのいくつかの研究が以前あった。偏微分方程式の解の連続性はMorreyによって2次元において本質的であることが分かった。問題は2次元を超えると何が起きるかだった。それが私の取組むようになったものであり、イタリア人数学者de Giorgi13もそれについて取組むようになった。

しかし、当時貴方達は互いの研究を知らなかった?
はい、これについてのGiorgiの研究を知らなかったが、彼は最初にそれを解いた。

楕円の場合のみだけれども。
はい、ええと、元々は楕円の場合だったが、私は放物型方程式を含めるため、それを少し一般化した。それは非常に好都合なものとなった。放物型方程式を用いて、エントロピー概念に関係する引数を得る手法が生じた。
私は分からない。先例を議論するつもりはないが、同様のエントロピー手法がニューヨークのハミルトン教授、そしてペレルマンによって使用された。彼等は必要とする改善をコントロールするために彼等がコントロール出来るエントロピーを使っている。

そして、それはついにポアンカレ予想の証明となるものだった?
彼等のエントロピーの使用はきわめて本質的だ。ハミルトンがそれを最初に使い、そしてペレルマンはそこから取上げた。もちろん、成功を見越すことは難しい。
ペレルマンが何らかの賞を受取って来ていないのは面白いことだ。彼はフィールズ賞、またクレイのミレニアム懸賞も拒否した。ミレニアム懸賞は100万ドルの賞金がついてくる。

貴方とde Giorgiが大体同じ問題を研究した時代に戻ります。貴方の前にde Giorgiが問題を解いてしまっていたことを知った時、非常に失望しましたか?
もちろん私は失望したが、人はそれを考える他の方法を見つけようとする傾向がある。水が徐々に増え、湖が満ち溢れ、そして流出の流れがバックアップするように、別の方法で出現する。

一部の人達は、de Giorgiの研究との偶然の一致が無かったら、貴方がフィールズ賞を受賞していたかも知れないと憶測して来ています。
はい、あり得ることだ。当然のことだと思われる。de Giorgiは他の表彰を受けたけれども、彼もフィールズ賞を受賞しなかった。しかし、何らかの種類の選考機関がどのように機能するかを考えれば、これは数学ではない。選考対象のカテゴリに入っていないとはっきりしている人達によって考えられる方が良い。

貴方が1950年代に主要で実に素晴らしい発見をした時、貴方が議論出来る誰か、貴方のために相談相手として振舞う人がいたのですか?
証明に対して? ええと、ゲーム理論での証明に対しては議論する程ではない。フォン・ノイマンはテーマが持ち上げられるとすぐにそんな証明が存在するであろうと知っていた。

幾何学的結果及び貴方の他の結果はどうしましたか? 貴方が証明を議論出来る誰かがいたのですか?
ええと、Ambrose教授のように、概して幾何学に興味のある人達はいた。しかし、彼等は証明の詳細に助けとなる程ではなかった。

プリンストンでスペンサー14はどうしましたか? 彼と議論しましたか?
彼はプリンストンにいたし、私の一般試験委員だった。彼は私を評価したらしかった。彼は複素解析を研究していた。

プリンストンまたはMITのどちらかで貴方が会って、実に感心する、尊敬する特別な数学者はいましたか?
ええと、もちろん、MITでレビンソン15教授がいる。私は彼に感心した。プリンストンで私はノーマン・スティーンロッド16と話し、ソロモン・レフシェッツ17を知った。レフシェッツはプリンストンで学部長だった。彼はいい数学者だった。プリンストンの代数学教授エミール・アルティン18とはそんな親密な関係になかった。

リーマン仮説
貴方の人生のターニングポイントに進めさせてください。貴方は数学での未解決問題でほぼ間違い無く最も有名な問題、リーマン仮説に取組む決心をしました。これはまだ未解決です。私達が話したクレイのミレニアム懸賞問題の一つです。貴方の努力の結果として、どう精神的消耗を体験したか語っていただけますか?
ええと、私が仮説に正面攻撃をしたというのは少し噂または俗説だと思う。私は慎重だった。問題は言ってみれば反撃出来るから、或る問題に取組もうとする時に私の努力について少し慎重だ。リーマン仮説に関して、私は自分自身を現実的な学生だとは思わないが、何らかの美しく興味深い新しい側面を分かるところでは(何事においても)いくらか不用意かも知れない。
高等研究所にいたノルウェーの数学者セルバーグ教授は、さかのぼって第二次世界大戦の時に、実際に臨界線上にある零点が少なくとも或る有限な程度に存在することを証明した。それらは異なるタイプの零点として来る。一つの零点として現れる二つの零点のようなものだ。零点の何分の一かが臨界線上にあることをセルバーグは証明した。それは彼が研究所へ来る数年前だった。彼は当時いくつかの素晴らしい研究をした。
そして後に、1974年にMIT(そこに私がいた)でレビンソン教授が良い割合―1/3周辺―の零点が臨界線上にあることを証明した。当時彼は脳腫瘍を患っており、それが原因で亡くなった。そんなことが起こり得るのだ。頭脳は攻撃の許にあり得るが、しばらくの間は素晴らしい論理的思考が出来る。

非常に特殊な数学者?
貴方を知る数学者達は、貴方の数学問題に取組む姿勢を殆ど他の人達のそれとは全然違うと述べています。貴方のアプローチについて少し語れますか? 貴方のインスピレーションの源は何ですか?
ええと、唯今現在私がこれこれしかじかのやり方で研究していると議論出来ない。それはもっと標準的なやり方とは異なる。言い換えれば、私の心、経験、縁故者を使って出来ることを考えようとしている。私が努力するために何が好都合だろうか? だから私は最近の流行のノンセンスのどれもやろうとは思わない。

貴方がインタビューで以下のようなことを言ったことがあります(訂正してもいいです)。"私がもっと普通に考えていたなら、私は良い科学的アイデアを持たなかったであろう"。貴方は非常に異なった方法でものを考察しました。
ええと、それを考えることは容易だ。一数学者としての私にとってそれは真実だと思う。良い学生が学位論文をするように考えることは見合う価値が無いであろう。殆どの数学の学位論文は非常に型にはまっている。それはたくさんの研究だが、多少学位論文指導教官によってセットアップされている。十分なまでに研究をするなら学位論文は認められる。

関心と趣味
以前のアーベル賞受賞者全員に訊いて来た質問を最後にしていいですか? 数学以外に貴方の主な関心もしくは趣味は何ですか?
ええと、様々なことがある。もちろん、金融市場を注目している。これはノーベル経済学賞のふさわしい範囲の外であるが、事を考えるなら出来ることがそこにはたくさんある。大不況、つまりオバマの当選後すぐに来た危機に関して、きわめて異なる結果になるであろう、一つの決定また別の決定を出来る。経済は2009年に回復に取りかかったと私は思う。

貴方がプリンストンの学生だった時、バッハの"小フーガ"を口笛で吹きながらキャンパス周辺を自転車に乗っていたことが知られています。古典音楽が好きなんですか?
はい、バッハが好きだ。

バッハ以外の好きな他の作曲家は?
ええと、聴くのが嬉しい古典作曲家はたくさんいる。例えば、モーツァルトによる素晴らしい曲を聴く時。彼等ははケテルビーや他者のような作曲家よりもずっと良い。

とても興味深いインタビューのため、私達は貴方に感謝を申したいと思います。私達の二人に加えて、これはデンマーク、ノルウェー、及びヨーロッパ数学協会を代表してです。

正式なインタビューの終了後、ジョン・ナッシュの主な現在の関心に関する非公式会話があった。彼は再度宇宙に関する熟考を言及した。刊行に関して、ナッシュはOpen Problems in Mathematics[訳注: 数学における未解決問題]と題される本について語り、それを若きギリシア人数学者Michael Th. Rassiasと共に彼は編集作業をしていた。Michael Th. Rassiasはアカデミックイヤーの間、プリンストン大学で学位取得後の研究をしていた。

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今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)...

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ...

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections ...

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追...

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ...