1998年にベルリンで開催された国際数学者会議においてフィールズ賞を受賞したウィリヤム・ティモシ・ガゥワーズ卿を主任編集者とするThe Princeton Companion to Mathematics(以降PCMと略称します)を所持している人も多いと思います。私はもちろん所持していますが、2008年にプリンストン大学出版から刊行された当初は購入しようとは思ってなくて、米国の知人達から強く勧められたことと、今回紹介する書評記事を読んでから2010年頃に購入したと記憶しています。何故しばらく躊躇したかと言うと、岩波の数学辞典を持っており、それで不満を持たなかったことも一つの要因です。米国の知人の一人が、PCMはいわゆる辞典の類ではなく、読んで楽しい参考書または手引書であり、これを辞典と称するならば調べるためのものではなく、読む辞典だと強く主張していたことを憶えています。購入してから分かったのですが、調べるためと言うよりもぱらぱらとめくって適当なところを目にすると、そのまま没頭して読んでいることが多いです。日本のくだらない大衆向けの数学読み物よりも遥かに面白いです。日本でも2015年になってやっと"プリンストン 数学大全"と題して和訳が出版されたようですが、私は原書をお勧めします。理由として第一に、概して和訳本よりも原書の方が値段が安いからです(例外もありますが)。第二に、昨今大学教育においても英語ライティングを教える必要性が議論されていたように思いますが、その前に学生達が読んで読みまくって多くのイディオム等を既に習得してなければ、英語ライティングだけを教えても意味が無いからです。幸いにしてPCMの英文は平易で非常に参考になり、大げさに言えばどの英文も名文だと思います(ガゥワーズ卿を始めとする編集者達が書いているのですから当たり前ですし、もし寄稿者が下手な英文を書いたら卿から草稿を突き返されたでしょう)。そういう意味で約7年も遅れて和訳本を出す意義を私は理解出来ません。
ここで話しは変わりますが、私はGowersをガゥワーズとカタカナ表記しました。日本では不思議なことにガワーズもしくはガウアーズという表記が流布しています。Gowersの発音記号は/ˈɡaʊ.ərz/なのですが、母音/ʊ/と母音/ə/が連続しているのでリエイズンによってその間に子音/w/が挿入されます。従って、ガウアーズという表記は馬鹿じゃなかろうかと思うほど全く話になりません。問題はガワーズという表記ですが、英国の知人の一人が多少なりともカタカナを知っており、母音/ʊ/は母音/u/よりも弱い音だけれども全く発音しないかのようなガワーズよりもガゥワーズの方が近いのではないかと言ってました。よって私が選んだ表記はガゥワーズです。次いでながら私はウィリアムではなくウィリヤムと表記してます。Williamは母音iと母音aが連続しているので子音y(発音記号で言えば/j/)が挿入されます。たとえ発音記号に明示されてなくてもリエイズンにより子音wや子音yが自然に挿入されることは英語を話せる人なら常識以前の話です。更にスペルに子音rがなくてもrが発音される時があります。例えばlaw and orderが典型です。つまり/ɔː/で終わる単語に続いて/ə/等の母音で始まる単語が来た場合に間に/r/が挿入されます。これをカタカナ表記するとローランドーダという感じです。ここでラはもちろん/rə/です。次いでながら米国ではandのdが完全にリダクションされ、lawの/lɔː/が /lɑː/に変化してラーノーダという感じです。ここでラーはもちろん /lɑː/です。子音/r/、/w/、/y/は母音と母音を繋ぐ役割を担っているので半母音と呼ばれます。これらのことも当たり前の常識です。
もちろん英語をカタカナ表記することは不可能だということ(例えば/lɑ/と/rɑ/のどちらを「ラ」と表記するのかを考えれば、不可能であることは明らかでしょう)は十分承知していますが、tunnelをタノゥならまだしも、無神経にも平気でトンネルと表記して日本語化させてしまった日本人の馬鹿さ加減を指摘することも無意味ではありますまい。他にも、例えば英国の首都を恥ずかしげもなくロンドンと書いて平気なんだから馬鹿を通り越して鈍感なんでしょう。/ˈlʌndən/をどう聞いたらロンドンになるのか不思議です。
さて前置きはこれくらいにして、今回紹介するのは上でも述べた通りPCMの書評記事"Book Review The Princeton Companion to Mathematics"(PDF)です。PCMは一巻と言えども非常に分量が多いので、AMS Notices編集部は5人の一流数学者に書評を依頼したのですが、私が特に驚いたのがサイモン・ドナルドソン卿も書評しているからです。
ともかくも、その私訳を以下に載せておきます。これを読んでPCM(もちろん原書の方)を手に取る日本の読者が増えたら幸いです。なお私訳において普通の日本人のカタカナ英語表記(はっきり言って完全に間違っています)とは違う表記が多々あることをご理解ください。もちろん前述したように英語をカタカナ表記することは不可能ですが、現行の表記の無神経さに服従するよりは多少は増しかも知れません。
最後に今年の1月11日にマイケル・アティーヤ卿が急逝されたことは皆さんもご存じでしょう。89歳のご高齢だったとは言え、最近見た動画ではお元気そうだったので訃報を聞いて驚きました。しかし、アティーヤ卿の生涯現役数学者たらんという精神はリーマン予想に関する論文の合否とは関係なく後世に受け継がれるであろうと思います。そして私はアティーヤ卿がPCMに書かれた若い数学者達へのアドヴァイスを何回も読み返しております。遅まきながら、ご冥福をお祈り申し上げます。
[追記: 2019年02月18日]
ガゥワーズ卿については非常に短いインタビュー記事ですが、"ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー"をご覧ください。
[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2019年02月14日に某サイトに載せたものです。
書評 The Princeton Companion to Mathematics
2009年11月
編集者の注意: この異常に広範囲に渡る巻をリヴュするために、Noticesはその分野でエキスパートであるのみならず、数学について広い知識を持つ5人の著名数学者を招待した。彼等のリポートはアルファベット順で提示されている。 ―アンディ・マディド
ブライアン・バーチィ
これは極めて野心的な本であり、美しい事柄に満ちている。その本を私は枕元の卓上に置いておきたいが、余りにも大部なので卓を継ぎ足すことでしか可能でないだろう。ティモシ・ガゥワーズと彼の副編集者達は、まずまず十分な利用出来る量の数学の解説を与えようと目論んでいる。特に、大学生は数学の本質を理解することに役立ち、見込みのある大学院生は何のトピックスを研究すべきか決めることに役立ち、確立した数学者は同僚達がやっていることを知ることに役立つはずである。
記事の多くが編集者達自身で書かれているが、殆どは編集者達が採用した協力者達の莫大なチームによって書かれている。序論の中で、ガゥワーズは利用しやすさの重要性を強調し、著者達が彼等の記事を改訂することを厭わないことに敬意を表している。つまり、彼が分からなければ、それを変えるように頼んだ。彼は非常に機転をきかしたに違いない! 私がサンプルした記事のほぼすべてが素晴らしく、利用しやすいばかりでなく、読むのが楽しく、そして多くの見解が本の活気さに加わっている。本は読者に最前線の知識(当然のことながら、それらは殆どが近づきにくい)を示そうとはしていないが、至る所に道しるべがある。私見では、本は非常に成功しているが、向上心に燃える研究学生はこれは百科事典でなく手引書であって、研究にとっていくつかの重要なトピックスが触れられてさえいないことを注意すべきである。
本の全体図は8つの部分からなる古典的"アーチ"である。その中心はPart IVであり、任意だが意味ある線型順で数学の26"分科"の解説を含んでいる。これは同僚達が何をしているかを学ぶ所である! 第一分科(バリー・メイザーによる"代数的数論")はたまたま私が最もよく知るものだった。彼は類体論(Part Vでその解説がある)はもちろんのこと、p-進数に軽く触れてとどまっている。彼の簡単な例はその分野の本質を見事に伝えているが、彼にちょっと深く行って欲しかったと私は思う。もちろん記事を非常に楽しんだし、バリーのような素晴らしい書き手によって上手く書かれ、人が良く知っているものを読むことはいいことだ。私が第二分科(アンドリュー・グランヴィルによる"解析的数論")に進んだ時、著述はまだ素晴らしく楽しみ続けた。しかし、私が良く知っている解析的数論の部分は主として代数方程式に関する一方で、アンドリュー・グランヴィルの記事は素数概念を中心としており、ウェアリングの問題(それは後で言及されており、特に伝記的なPart VIの中で)について何もない。もっと深刻なのは、超越数論とディオファントス近似も見当たらないようだ。たとえ数学を26分科に分けて利用しやすいように保っていても、それらの分科は膨大なままであり、欠落は存在し始める! "計算数論"、"代数幾何学"、"数論幾何学"、"代数的トポロジー"(特に素晴らしい章だ)。だが、私は難しいと分かり始めていた。私は殆ど知らないIV.25の"危険現象の確率モデル"へと飛んだが、私の知っていることを楽しませたし、ゴードン・スレイドは私を失望させなかった。
本の残りついてはどうか? Part Iは数学の真髄と数学の言葉への編集者の序論だ。それは初心者学生を対象としているが、その簡潔な例は私達が完全に学べられる諸点を示している。Part IIは現代数学がどこから来ているのか説明しており、特に実質的な歴史的記事を含んでいる。Part IIIは一見ごった煮の何かに思えるが、重要だがどの分科にも便宜的に収まらないために、どこへ行くにも必要な断片を含んでいる。容易な参照のためにアルファベット順に編成されているので、参考するのに驚くほど満足する。本の好意的偏りは数学の問題と結果に存在し、それはPart IVにおいて分科に分割するやり方だ。しかし、概念と手法も重要であり、同じやり方で分割されていない。それに応じて、重要な手法とテクニックはPart IIIに記述があり、時には拡張記事にある。コホモロジーが軽くあしらわれていることに私は注意する。価値があって普及しているテクニックだが、魅力的に書くのは難しいかも知れない。
Part IIIとは対照的に、Part V("定理と問題")はより一層美人コンテストのつもりだ。私は4番目の位置を占めていることが嬉しい(アルファベット順にもかかわらず)[訳注: ちょっとこの文章はすぐ後に出て来るB-S-D予想のことを全く知らない人にとって分かりにくい思うのでちょっと補足します。ブライアン・バーチィ博士の英字名はBryan Birchであり、バーチィ博士はB-S-D予想を立てた一人として姓名の頭文字のBとして連名しているからです]。つまり、弱形式のみだけれどもB-S-D予想が明確かつ簡明に記述されている。再度、これは手引書であり、百科事典ではない! ミレニアム問題は置いといて、この部はいくつかの素晴らしいものを含んでいる。私のような数論学者にとってV.27以降の節は楽しい。(この手引書においてガゥワーズは非常に気前よく数論を扱っている!) 最終時点でヴェイユ予想に関するオッサーマンの記事は予想をきちんと仕上げている。
本は偉大な数学者達の人生と業績を含む部分、"数学の影響"と題された部分、最後に"最終展望"と題された部分で締めくくる。"数学の影響"は様々な数学の応用で始めているが、特にドブシーによるウェイブレットに関する、フランク・ケリーによる通信量に関する、スーダンによる符号化に関する、コックスによる暗号に関する信頼出来る記事を含んでいる。これらに続いて音楽に関する、芸術に関する記事がある。"最終展望"は思考を引き起こすつもりの5つのエッセイを含み、確かにそうしている。そして最終において若い数学者に対するアティーヤ、バラバシ、コンヌ、ダサ・マクダフ、ピーター・サルナックからのアドヴァイスの手紙がある。
要約すれば、本は実にすぐれている。若い学生に数学の本質に関する良いアイデアを与えるだろう本を私は知らない。これが私の同僚達がしていることを私に語るだろう唯一の本であると確信している。この巻において同様に重要な異なる分野が同等に扱われていないかも知れないので(中には欠けているものすらあるかも知れない)、見込みのある大学院生が研究トピックの選択に対するガイドとして、この本を取るはずだとは少し自信が持てない。だが、彼又は彼女はきっと最終部を読むはずだ。最後にあらさがしコメントを。出版社は少なくとも3巻のライブラリ版の刊行を考えるべきだ。ただ今の重い巻の背が過度の使用から壊れるかも知れぬと心配している。
サイモン・ドナルドソン
序文からの2つの抜粋が本の本質の良い全体図を伝えている。
"手引書は読者に対して21世紀の始めに数学者達が把握している重大で典型的なアイディアの例を簡潔に示すことを目指している"。
"手引書は百科事典ではない。...本は人間の伴侶に似ており、一般的に共有されていないかも知れないトピックスについて知識と考え方に欠落を備わっている"。
本は異なる有望な読者層向けにかなり異なる種類の教材を含む8つの部を持つ。大ざっぱに教材は3つのクラスに分かれるだろう。
(1) Scientific Americanの記事または市民数学講座と類似の、一般読者層対象の教材
(2) 学部生の数学レベルの教材
(3) 多少AMS Bulletinの記事のスタイルで、プロ数学者達対象の解説記事
多くの異なる著者達からの寄稿があるが、本はガゥワーズの明確なヴィジョンが行き渡っており、彼は大量の教材を書いている。
先へ進めると、本の中心はPart IVであり、それぞれが約15ページの26"数学分科"の解説から成っている。例えば"代数的数論"(メイザー)、"微分トポロジー"(タウビズ)、"偏微分方程式"(Klainerman)、"極値的および確率的な組合せ論"(AlonとKrivelevich)。これらは大ざっぱに上記の(2)–(3)レベルだ。これらの記事のうちで最も成功しているものは優れていて、どこか他の所では見つけにくいであろう概観と考察を与えている。私が特に好んだ記事の2つは"偏微分方程式"(そんな小さな紙面の中でそんな大きな議題と取り組んでいるから)と"表現論"(グロノウスキー)だ。"表現論"は初等理論から高度なトピックスまで移っているが、全体的なまとまりを伝えている。最初の2つの記事、"代数的数論"と"解析的数論"(グランヴィル)は少なくともこの読者[訳注: つまりドナルドソン卿ご自身のこと]にとって非常に有益で興味深く、スタイルにおいて著しい差異を例証している。第1のものは、その議題における多くの基本的なアイデア(イデアル類群と一意分解のように)を証明のアウトラインをつけて説明している一方で、第2のものは結果と興味深い未解決問題を述べることに専念している。どちらのアプローチも上手く行っており、その議題にとって正しいものだろう。Part IVのこれらの記事のそれぞれが参考文献の短いリストで終わっている。
本のPart IIIは99個の"数学概念"についての更に短い記事(1ページまたは2ページ)で成り立っている。そのレベルとスタイルは非常に一様ではない。3つのアルファベット順に隣接する記事のサンプルは対照的なアプローチを伝えている。
"オイラー及びナヴィエ–ストークス方程式"(フェファーマン)
方程式の命題と長年既存する問題の議論、弱及び強形式の差異、そして現代的な結果。とうとう"我々はちっぽけな粘性が多量のエナジーを消費する理由を理解する必要がある"という考察に至る。
"イクスパンダ"(ヴィグダーソン)
定義(n-頂点を持つグラフは、すべてのm≦n/2とm頂点の全集合Sに対してSとその補集合の間に最小cn辺が存在するならば、cイクスパンダである)。
"指数及び対数函数"(ガゥワーズ)
これはずっと初等レベル向けである。すなわちaが整数、有理数、または無理数の時に2aを定義する問題。冪級数または(1+x/n)nの極限として証明のアウトラインをつけて定義される指数函数。対数函数と複素変数への拡張。
再度、これらは違うやり方ですべて優れている。最初の2つは上記の(2)–(3)レベルにおいて簡潔で考察のある言及となるだろうし、3つ目はだいたい学部初年または高校高学年あたりの標準的な教材をテキスト本に埋められている時よりも消化しやすいだろうやり方で上手くまとめている。異なる記事の間に包括的な相互参照がある。Part IIIにおいては他のソースへの参照が殆ど無く、もっとあれば役立つだろう(例えば、読者がリッチフロゥに関してもっと見つけるかも知れない、上で議論した"イクスパンダ"に関するオリジナルな研究記事とソース)。
Parts IIIとIVはこれでお終い。Part Iの"序論"(76ページ、ガゥワーズにより書かれている)は現代数学の一般的な記述として独立しているだろう。その議論は、他にもいろいろある中で例えば"数学に重要なのは何か?"、"基本的な数学定義"、代数学、幾何学、解析学を特徴づける異なる思考の方法、証明で使用される形式及び非形式言語、"数学論文に何を見つけるか?"を含んでいる。これは数学研究に人生をかけるかを熟考している学部生にとって非常に価値がある。Part IIは7つの中身の濃い歴史的記事から成っている。Part Vは短い記事から成っており、いくぶんPart IIIに似ているが、特定の結果と問題に注目している("数論の基本定理"から"ポアンカレ予想"まで再度広範囲に渡っている)。Part VIは再度歴史的で96人の数学者達の簡単な伝記であり、Part VIII("最終展望")は一般的で、時にはより哲学的なトピックスに関する様々なエッセイから成っている。
Part VII("数学の影響")は特別に言及する価値がある。序文で述べられているように本の中心焦点はpure mathematicsであるが、応用に対する共感を持っている。Part VIIは更に詳しく応用に的を絞り、その範囲は非常に選択的にならざるを得ない一方で、その記事は特に興味深い。おそらくプロ純粋数学者達にとって最も有益だ。ここで"応用"は広く解釈されるべきだ。すなわち、記事は"ウェイブレット"、"医学統計"、"数学と音楽"を含む。
本の中でカバーされていないことに関して不満を言うのは簡単だが、そんな批判は上で引用した百科事典ではないということによって大方跳ね返される。微分幾何学に関しては殆ど無い。様々な外観におけるコホモロジーの広い議論(確かに20世紀数学の主発展の一つ)を見つけようと望んでいたが、失望した。"21世紀の始めに数学者達が把握している"際立ったアイデアとして、量子場理論についてもっと調べていれば面白く話題になっていたであろう("鏡対称性"と"頂点作用素代数"という表題の下でこれの適用範囲があるけれども)。定義の中がもう少し正式であれば概して私は喜んだであろう、等々。だが、これは本をもっと百科事典にし、もっと標準的にして、そして独自性を減らすだろう。
全体として、この本は著者達が感謝されるに値する非常に大きな偉業である。どこか他の所では見ない分量、豊富な教材を含み、多くの異なる経歴の読者達に楽しまれるだろう。
Gil Kalai
称賛
この本は科学としての、芸術としての、力強いツールとしての、そして人間活動としての数学の多面性の異常に豊富な記述である。
数学の人間面は一般歴史的な章と個々の数学者達についての小さな章の中のみならず、しばしば数学の領域に充てられた章と概念、問題、そして結果に充てられた章の中にも演じることになる。例えば次の素晴らしい引用を取ろう。すなわち、"ボーチャーズはV1と共形場理論のカイヤラル代数の間の形式的類似にショックを受けた"(頂点作用素に関する章からのムーンシャイン予想の証明のストーリー p. 549)。発見の最初の瞬間の素晴らしい感覚とそれが作った喜びを理解するために、これらのオブジェクトを完全に理解する必要は無い。人間風味で描かれた、数学における決定的瞬間のもう一つの例は以下だ。"ゲルハルト・フライはそんな曲線は非常に異常かも知れないので志村-谷山-ヴェイユ予想と矛盾するかも知れぬと理解した"("フェルマーの最終定理"の章から、p. 692)[訳注: あの有名な予想を志村予想ではなく、志村-谷山-ヴェイユ予想と呼ぶのはラングランズ・プログラムでの呼び方が強い影響力を持っているからだと思いますが、その他にもPCMが2008年9月8日に刊行されていることと、予想の呼称に異議を唱えている志村五郎博士の自伝的著作The Map of My Lifeも2008年11月5日に刊行されており、同時期だったことは不幸です。谷山氏はモデュラ性を全く予想してなかったのですが、氏の名前は不幸な亡くなり方(自殺)を悼む意味合いもあるので日本人的感覚でまだ理解出来ますが、少なくともヴェイユの名は無関係なので取り除くべきでしょう。志村博士のいろいろな業績を基礎にしてラングランズ博士はあのプログラムを立てたのにもかかわらず、志村博士の神経を逆撫ですることばかりやっていると訳者は考えます] おお、よろしい!
異なる著者達が分野、概念、または定理を示すための異なるやり方は数学への異なる個人的アプローチを鮮明にする。
本の自己信任は純粋数学に制限される一方で、応用数学の非常に強い魂がある。数学の最も古くて強い関係は物理学に対してと、それを通して他の精密科学と工学に対してだ。実際、本の大部分で物理学が強く感じられる。私見では次に来るのが統計学だ。読者は統計と確率の重要さを感じるだろう(そして、もっと好きになるだろう)。最適化とアルゴリズムも本の中で十分説明されている。この本の中で登場する数学の哲学と哲学の中の数学に関する強い協調を見ることは普通でなく、これは最も歓迎される。
本はとても豊富だが、それでも上手くやっている。実際、稀なる偉業だ!
批判
火星への人間使節団を描く映画の中で、そこへ着いたばかりの3人の宇宙飛行士達の誇り高き家族達は宇宙飛行士達へ話しかけようとしていた。彼等は挨拶し、光速のため90秒応答を待たねばならないだろうと言われた。いったんこれらの90秒が過ぎ、映画が科学に義理を果たすと会話は何の妨害も無いのに行ったり来たりし続けた。これは数学的発表を自己完結にしようと努めることの共通する問題(そして共通する不成功な解決)に似ている。この本において、数学的努力に対する大きな入門の章は全体として素晴らしいが、数学の主要分野を記述するいくつかの章は同種類の小さな入門的な章を必要とするらしい。本は実のところ自己完結でないし、自己完結であるはずがない。
それに加えて、The Princeton Companion to Mathematics(PCM)のような大きな百科事典タイプの本を読むことは、この膨大な森林の中の林で貴方の小さなコーナーが如何に小さいかを認識するので、落胆させることになり得る。慰めになるものは科学と数学のフラクタル[訳注: フラクタルはどの部分を取っても自己相似な図形のことを意味します]な性質だ。小さなコーナーにおける小さな発見、概念、または定理が大きな全体像に対して大きな差を作れる。数学の価値のみならず、価値としての数学(PCMが強く擁護する考えだ)にも注意を払うことから更にもっと慰めが来る。
本は2.6キログラムだが、余りにも重たすぎる。寄稿者達が彼等の章を彼等のホゥムペィジに載せ、将来の版が複数巻に分割されることを私は望む。
アドヴァイス
本には若い数学者達に対する複数のアドヴァイスがあるが、中年と老年の数学者達に対するアドヴァイスの章が際立って欠けている。ベラ・バラバシが彼の素晴らしいアドヴァイスの中でG. H. ハーディを引用している。ハーディは醜い数学のための恒久的な場所が世界には無いと書いた。ハーディがこのフレィズを書いた時、説明すべきと彼が感じた術語は"醜い"だった(そして彼は数学における美しさが意味することを詳しく述べた)が、最近ではおそらく術語"恒久的"を説明する更に多くの困難がある。ハーディの空想的な格言を規範的アドヴァイスとしてあまり認められないし、バラバシの続編、すなわち熱意の無い数学者達のための場所が世界には無いということもあまり認められない。貴方が良い補題と定理を証明する、または数学探求で他の進歩を作るならば、数学に対する熱意の合計は貴方次第である。私達の前の本が示しているように数学と数学者達は多くの種類に登場し、ああ! おそらく恒久的でないけれども、すべての人のための場所が世界にはある。
よくある良い補題
ポール・エルデシュがウルフ賞を受賞した時、"私が良い補題を得られるなら―百個のメダルのためにそれを与えないだろう"と言った(エルデシュはハンガリーの詩人ヤーノシュ・アラニが書いたことを言換えていた。アラニは"私が良い眠りを得られるなら―百個のメダルのためにそれを与えないだろう"と書いた)。ヨースタ・ミッタク=レフラーはもう一つの取り組み方を持っていたようだ。彼の時代の他の数学者よりも数学を促進する(ハーディが彼について述べたように)ことは補題を証明する誘惑をたまに避けることを要求した。数学と数学コミュニティに対する貢献もいろいろなやり方で登場し、この本は数学の構造基盤を豊かにする大胆不敵で成功の企てだ。読者に数学と数学者達に関する豊かで役立つソースを提供する。本はティム・ガゥワーズ、ジューン・バロウ・グリーン、イムレ・リーダー、そして他の多くの貢献者達が誇れる、そして私達すべてが楽しめる偉業である。
リチャード・ケニオン
この本は何なのか? すぐに言うのは簡単ではない。パッと見て人々が思うかも知れない数学のウキペディアの印刷版の類ではない。数学の百科事典でもない。公式または積分または数学術語の定義の一覧表は見当たらない。この意味で"完璧"ではない。もっとはっきり言えば、必ずしも特定の議題を勉強するための良いリゾースでもない。
本は何なのかの部はむしろ数学は何なのかの記述であり、一般人は理解しやすい。私がしていることを説明する手段として15歳の私にそれを読むように渡したい衝動に駆られている。それは数学の歴史を含んでいる。つまり主要数学者達、定理、定義、そして証明の簡潔な年代順の配列。
数学は何なのかのもう一つの部(そして職業数学者としての私にとって、これが部だ)は(少なくとも理想世界において)数学者が知るべき事実/エッセイ/アイディアのコレクションだ。それは私の教養の部分でない数学の部分をもう少し学びたい時に拾い読みすべきものだ。ここに専門家達(!)―これは私の数学仲間と同僚を意味している―によって理解しやすいのみならず、ざっくばらんに近づきやすい術語で書かれた数学の様々な議題に関するエッセイがある。私はその記事を拾い読みし、アイディアの新しい宝を露出させながら本を通して非常に楽しんだ。正直言えば、短い記事は素晴らしいが、時には、まぁ、もどかしいほど短い。それらのいくつかはもう少し深く行って欲しかった! だが、これは本が役目を果たしている兆候かも知れない。つまり、外へ出てどこか他の所でもっと情報得るようになるほど十分に読者を議題に興味を持たせている。
短い記事のもう一つの良い面はそれらが自由形式で依頼されていたことだ。つまり著者達は(おそらく)何を言うべきか厳密な方針を与えられていなかった。結果として、例えばバリー・メイザーによって書かれた代数的数論に関する記事は議題における基礎事項をカヴァーしながら補題と定理が巻き散らかされた定義の冷たいリストではない。むしろ数学者としてのバリー・メイザーの興味をかき立てているもの、すなわち耳より情報、事実、そして定義の話だ。それは基礎から始まり、高校の代数問題を動機づけしながら、(ほとんど)現代数論の真剣だが興奮させる問題まで引張っている。全体プログラムを楽しく、面白く、そして興味深くさせているのは、この個人好みに合わせている風味である。
貴方すなわち読者への私のアドヴァイスは本を買い、ランダムにペィジを開け、読み、楽しみ、そして啓発されることだ。
アンガス・マッキンタイア
序文は純粋数学の論理主義者的"定義"を与えているバートランド・ラッセルの有名な引用から始まる。
純粋数学は形式'pならばq'のすべての命題のクラスである。ここでpとqは一つまたはそれより多い変数を含んでいる命題であり、2つの命題において同じであり、論理定数を除いてpもqも何らかの定数を含まない。そして論理定数はすべて次に述べることに基づいて定義可能な概念である。すなわち、"ならば"、術語が属するクラスに対するその術語の関係、"~するような"の概念、関係の概念、そして上記で述べた形式の命題の一般概念に含まれるであろう更なる概念。これらに加えて、数学はそれが考えている命題の構成要素ではない概念を使用する。すなわち、真実という概念だ。
The Princeton Companion to Mathematicsはラッセルの定義が書き落としているすべての事柄について説明することによって見事に反撃している。その意図は魅力的で近づきやすいやり方で現代的な純粋数学のアイディアの大きくて代表的なサンプルを示すことであり、そのサンプルの殆どが私達の時代の数学者達を引き付けているものだ。Companionから私はアインシュタインの言葉"結局、最高の数学的天才は多くの傑出した頭脳の共同研究によって発見されていることを単独で発見出来ない"を学んだ。Companionはその意図をそんな共同制作、熟達した控えめな編集により達成している。非旅行者のための短い遠足から探検(最も経験し熟達した数学者達を報いることになるだろう)まで広い範囲の数学旅行を可能にしている。
起源と先駆者達から始めよう。歴史的なセクションはベルのMen of Mathematics[訳注: 日本語版では"数学をつくった人びと"ですが、老婆心から申し上げるとウソばかり書かれています。エリック・テンプル・ベルという人は数学史家のように事実を調べて書いたのではないことが明らかです。それだけならまだしもウソまででっち上げています。米国の知人から言わせるとベルの本が権威を誇った時期に、つまり第二次世界大戦前及び最中に少年期を過ごした人ならまだしも、戦後においては有害図書だと言ってました。それなのにもかかわらず、日本では現代でも未だにその日本語訳を有難く読んで胸を熱くさせている青少年がいるかと思うと呆れてしまいます。古今東西を問わず、この種の無神経サイエンスライター(そして、その著書を喜んで翻訳する人も含めて)が皆さんが思っている以上に多いことも残念ながら事実です](多くの若者達の目を開かせたことで有名な作品)の低俗ドラマが無い一方で、学識の典拠があり、最も長い記事の質を高めている。亡くなった数学者達とブルバキの一つの96個の短い科学的伝記がある。96個の記事はピタゴラスで始まり、アブラハム・ロビンソンで終わっている。96個の記事の中で論理学を研究した人が多い(名声の主な権利がどこか他にある人も含めて18人を数えた)ことに私は少し驚いた。
た。
私は本の中をあちらこちら歩き回った。啓発的なセクション"最終展望"に早く行くことを勧める。トニー・ガーディナーとマイケル・ハリスの寄稿に私は心を引かれた。私にとって彼等が共通に持っていることは数学の"具体的な事柄"(または"雑多")の重要視であり、他と違う人間活動の進化だ。
ガーディナーの"問題解決の芸術"は大変面白い一連の引用(多くは馴染みだが、不朽の力を持つ)の周りのあちこちで立てられている。彼は大部分が未踏の知的世界の探求の暗喩を追求している。大部分が未踏の知的世界において偉大な発見は"小さい中の数学"の具体的知識に根底を置いている。数学は工芸であり、そこにおいて重大な洞察は変わらぬ修練を通してのみ得られる。工芸において子供達を上手く始めさせることに彼は特別な関心を持っているが、彼の言っていることの多くが私達の終わることのない修行期間のすべての段階で的を射ている。問題解決の理論の専門用語に関して喜ばしい懐疑的な見解、真面目な初等数学の重要視と時間を減らす"改革"の非難がある。"最終展望"の最後から2番目の副セクションにアティーヤ、バラバシ、コンヌ、マクダフ、そしてサルナック(各々人を奮い立させる、私達の工芸の名人だ)の現代の研究世界に入ろうと意図する若い数学者達に対する賢明でかなり特殊なアドヴァイスがある。アティーヤの忘れらないフレィズがある。すなわち、"数学研究の本当に創造的な側面すべてが証明段階に先立つ"。
ハリスの題名は"'何故数学なのか?' 君は問うかも知れない"であり、私が考えたいのは数学のアイディアについて彼が言っていることである。彼の重要視は数学のアイディアと経験についてだ。ここにいくつかの彼のフレィズがある。
"数学の基本単位は概念であって、証明ではない"。
"証明の目的は概念を照らすことである"。
"最も無慈悲な資金援助機関でさえ、質問'何故経験なのか'に応答を要求する程まだポゥストヒューマンではない"。
早期にあげたラッセルの引用と極端な対照に注目せよ。数学的アイディア(それらは盗まれるか、または考慮に入れられる可能性がある!)の客観性に関する説得力のある説明と数学の基礎となっている公然の直感の肯定のため、私はペィジ973–975を賞賛する。Companionそれ自体がハリスが書いていることを十分に強固している。証明が無いが、素晴らしいアイディア(しばしば物理学にリンクされる)がある。私、そして他の非常に多くの人がそうだと思うが、ランダムに選ばれた記事に行けて、"真意"を得られることは確かに公然の直感を裏付ける。本の故意に柔軟な構造(始めから終わりまで読むことに殆ど意味が無い)は数学の組織の深い神秘感を伝えている。証明の欠如を残念がる人々はProofs from the Book[訳注: マーティン・アイグナー、ギュンター・ツィーグラー両博士による有名な本。日本では"天書の証明"として和訳が出ていますが、題名からして拙いです。奇をてらったつもりでしょうが、日本には「天書」という奈良時代の歴史書が実在するのです。これは翻訳者の無知をさらけ出していることになります。と言うか、これくらいの本の英語は中高生でも軽く読めるはず(数学的内容の理解はともかくも)なので知性と教養がある人には原書をお勧めします]へ向かうかも知れない。私達の殆どが両方から学ぶだろう。
Part IとIIはプロフェショナルによって最も飛ばされやすいが、上手く書かれており、初心者達にとって不可欠だ。
Part IIIは雑多な今日の概念を示している。それらがアルファベット順に登場することは私の喜びに影響しなかった。
Part IV "数学の分科"は最も重要で複雑なアイディアへ導く。私は記事すべてを読んだが、それらすべてを楽しんだと正直に言える。ここで新しい議題がどのように進化して来ているか、他がどのように予見しないやり方でリンクされて来ているかを見る。この本が50年前をどのように見たであろうか想像してみよ[訳注: この書評が2009年であることをお忘れなく。以下の記述は現在の2019年から見れば的外れなものもあります]。計算数論は殆ど無い、暗号理論は殆ど無い、ほぼ無い数論幾何、非常に無い幾何学群理論、非常に少ない力学系、フラクタルは無い、ウェイブレットは無い、計算複雑性は無い、鏡対称性は無い、有限単純群の分類は無い、ヴェイユ予想の証明は無い、ラングランズ・プログラムは無い、頂点作用素代数は無い、非常に異なって、そしてもっと断片化された組合わせ論、ストキャスティクスから他の数学世界へのリンクは殆ど無い、集合論における強制は無い、Q上楕円曲線のモデュラ性は無い、ハミルトンとペレルマンのスタイルにおけるリッチフロゥは無い。このようにして私達はCompanionが多くの改訂を経るだろうことを望み、後世代にとって豊富なリゾースである(私達にとってそうであるように)であろうことを望まなければならない。
私は他の書評者達に2つの懸念を伝えた。現代数学にとても普及しているアイディアとして、トタロの素晴らしい記事の中の3ペィジを除いてコホモロジーがかなり小さい扱いを受けている。改訂版においてもっと多くを望める。非常に難解で、長い歴史があり、Companionのすべての読者達が容易に問題を理解出来る、かなり異なる議題が私にとって無視されているように思われる。すなわち、超越理論。
PDEに関する記事は私を非常に満足させた。代数学的または論理学的好みの人々とって、学部課程の公式レベルをずっと超えてPDEの理解を広げる要求を見事に広く証明している。Companionを読みながら私はずっと大きい全体像に気がついた。Klainermanを引用する。"ラプラス方程式、熱方程式、波方程式、ディラック方程式、KdV方程式、マックスウェル方程式、ヤン–ミルズ方程式、アインシュタイン方程式(これらはもともと特定の物理学的状況で導入されたのだが)のような方程式が幾何学、トポロジー、代数学、組合わせ論のような分野に深い応用を持っていることがどのように判明したかを人は畏敬の念で見る"。
Mutatis mutandis[訳注: これはラテン語で"変更すべきところは変更する"という意味です。このラテン語には全体の枠組みや構造等を変えないで必要箇所のみ変更するという意味合いが込められています。そして、マッキンタイア博士はこれを標語のような感じで掲げているのです]、そんな意見はこの本の中の殆どのアイディアに対して適切な反応である。
ここで話しは変わりますが、私はGowersをガゥワーズとカタカナ表記しました。日本では不思議なことにガワーズもしくはガウアーズという表記が流布しています。Gowersの発音記号は/ˈɡaʊ.ərz/なのですが、母音/ʊ/と母音/ə/が連続しているのでリエイズンによってその間に子音/w/が挿入されます。従って、ガウアーズという表記は馬鹿じゃなかろうかと思うほど全く話になりません。問題はガワーズという表記ですが、英国の知人の一人が多少なりともカタカナを知っており、母音/ʊ/は母音/u/よりも弱い音だけれども全く発音しないかのようなガワーズよりもガゥワーズの方が近いのではないかと言ってました。よって私が選んだ表記はガゥワーズです。次いでながら私はウィリアムではなくウィリヤムと表記してます。Williamは母音iと母音aが連続しているので子音y(発音記号で言えば/j/)が挿入されます。たとえ発音記号に明示されてなくてもリエイズンにより子音wや子音yが自然に挿入されることは英語を話せる人なら常識以前の話です。更にスペルに子音rがなくてもrが発音される時があります。例えばlaw and orderが典型です。つまり/ɔː/で終わる単語に続いて/ə/等の母音で始まる単語が来た場合に間に/r/が挿入されます。これをカタカナ表記するとローランドーダという感じです。ここでラはもちろん/rə/です。次いでながら米国ではandのdが完全にリダクションされ、lawの/lɔː/が /lɑː/に変化してラーノーダという感じです。ここでラーはもちろん /lɑː/です。子音/r/、/w/、/y/は母音と母音を繋ぐ役割を担っているので半母音と呼ばれます。これらのことも当たり前の常識です。
もちろん英語をカタカナ表記することは不可能だということ(例えば/lɑ/と/rɑ/のどちらを「ラ」と表記するのかを考えれば、不可能であることは明らかでしょう)は十分承知していますが、tunnelをタノゥならまだしも、無神経にも平気でトンネルと表記して日本語化させてしまった日本人の馬鹿さ加減を指摘することも無意味ではありますまい。他にも、例えば英国の首都を恥ずかしげもなくロンドンと書いて平気なんだから馬鹿を通り越して鈍感なんでしょう。/ˈlʌndən/をどう聞いたらロンドンになるのか不思議です。
さて前置きはこれくらいにして、今回紹介するのは上でも述べた通りPCMの書評記事"Book Review The Princeton Companion to Mathematics"(PDF)です。PCMは一巻と言えども非常に分量が多いので、AMS Notices編集部は5人の一流数学者に書評を依頼したのですが、私が特に驚いたのがサイモン・ドナルドソン卿も書評しているからです。
ともかくも、その私訳を以下に載せておきます。これを読んでPCM(もちろん原書の方)を手に取る日本の読者が増えたら幸いです。なお私訳において普通の日本人のカタカナ英語表記(はっきり言って完全に間違っています)とは違う表記が多々あることをご理解ください。もちろん前述したように英語をカタカナ表記することは不可能ですが、現行の表記の無神経さに服従するよりは多少は増しかも知れません。
最後に今年の1月11日にマイケル・アティーヤ卿が急逝されたことは皆さんもご存じでしょう。89歳のご高齢だったとは言え、最近見た動画ではお元気そうだったので訃報を聞いて驚きました。しかし、アティーヤ卿の生涯現役数学者たらんという精神はリーマン予想に関する論文の合否とは関係なく後世に受け継がれるであろうと思います。そして私はアティーヤ卿がPCMに書かれた若い数学者達へのアドヴァイスを何回も読み返しております。遅まきながら、ご冥福をお祈り申し上げます。
[追記: 2019年02月18日]
ガゥワーズ卿については非常に短いインタビュー記事ですが、"ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー"をご覧ください。
[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2019年02月14日に某サイトに載せたものです。
書評 The Princeton Companion to Mathematics
2009年11月
編集者の注意: この異常に広範囲に渡る巻をリヴュするために、Noticesはその分野でエキスパートであるのみならず、数学について広い知識を持つ5人の著名数学者を招待した。彼等のリポートはアルファベット順で提示されている。 ―アンディ・マディド
ブライアン・バーチィ
これは極めて野心的な本であり、美しい事柄に満ちている。その本を私は枕元の卓上に置いておきたいが、余りにも大部なので卓を継ぎ足すことでしか可能でないだろう。ティモシ・ガゥワーズと彼の副編集者達は、まずまず十分な利用出来る量の数学の解説を与えようと目論んでいる。特に、大学生は数学の本質を理解することに役立ち、見込みのある大学院生は何のトピックスを研究すべきか決めることに役立ち、確立した数学者は同僚達がやっていることを知ることに役立つはずである。
記事の多くが編集者達自身で書かれているが、殆どは編集者達が採用した協力者達の莫大なチームによって書かれている。序論の中で、ガゥワーズは利用しやすさの重要性を強調し、著者達が彼等の記事を改訂することを厭わないことに敬意を表している。つまり、彼が分からなければ、それを変えるように頼んだ。彼は非常に機転をきかしたに違いない! 私がサンプルした記事のほぼすべてが素晴らしく、利用しやすいばかりでなく、読むのが楽しく、そして多くの見解が本の活気さに加わっている。本は読者に最前線の知識(当然のことながら、それらは殆どが近づきにくい)を示そうとはしていないが、至る所に道しるべがある。私見では、本は非常に成功しているが、向上心に燃える研究学生はこれは百科事典でなく手引書であって、研究にとっていくつかの重要なトピックスが触れられてさえいないことを注意すべきである。
本の全体図は8つの部分からなる古典的"アーチ"である。その中心はPart IVであり、任意だが意味ある線型順で数学の26"分科"の解説を含んでいる。これは同僚達が何をしているかを学ぶ所である! 第一分科(バリー・メイザーによる"代数的数論")はたまたま私が最もよく知るものだった。彼は類体論(Part Vでその解説がある)はもちろんのこと、p-進数に軽く触れてとどまっている。彼の簡単な例はその分野の本質を見事に伝えているが、彼にちょっと深く行って欲しかったと私は思う。もちろん記事を非常に楽しんだし、バリーのような素晴らしい書き手によって上手く書かれ、人が良く知っているものを読むことはいいことだ。私が第二分科(アンドリュー・グランヴィルによる"解析的数論")に進んだ時、著述はまだ素晴らしく楽しみ続けた。しかし、私が良く知っている解析的数論の部分は主として代数方程式に関する一方で、アンドリュー・グランヴィルの記事は素数概念を中心としており、ウェアリングの問題(それは後で言及されており、特に伝記的なPart VIの中で)について何もない。もっと深刻なのは、超越数論とディオファントス近似も見当たらないようだ。たとえ数学を26分科に分けて利用しやすいように保っていても、それらの分科は膨大なままであり、欠落は存在し始める! "計算数論"、"代数幾何学"、"数論幾何学"、"代数的トポロジー"(特に素晴らしい章だ)。だが、私は難しいと分かり始めていた。私は殆ど知らないIV.25の"危険現象の確率モデル"へと飛んだが、私の知っていることを楽しませたし、ゴードン・スレイドは私を失望させなかった。
本の残りついてはどうか? Part Iは数学の真髄と数学の言葉への編集者の序論だ。それは初心者学生を対象としているが、その簡潔な例は私達が完全に学べられる諸点を示している。Part IIは現代数学がどこから来ているのか説明しており、特に実質的な歴史的記事を含んでいる。Part IIIは一見ごった煮の何かに思えるが、重要だがどの分科にも便宜的に収まらないために、どこへ行くにも必要な断片を含んでいる。容易な参照のためにアルファベット順に編成されているので、参考するのに驚くほど満足する。本の好意的偏りは数学の問題と結果に存在し、それはPart IVにおいて分科に分割するやり方だ。しかし、概念と手法も重要であり、同じやり方で分割されていない。それに応じて、重要な手法とテクニックはPart IIIに記述があり、時には拡張記事にある。コホモロジーが軽くあしらわれていることに私は注意する。価値があって普及しているテクニックだが、魅力的に書くのは難しいかも知れない。
Part IIIとは対照的に、Part V("定理と問題")はより一層美人コンテストのつもりだ。私は4番目の位置を占めていることが嬉しい(アルファベット順にもかかわらず)[訳注: ちょっとこの文章はすぐ後に出て来るB-S-D予想のことを全く知らない人にとって分かりにくい思うのでちょっと補足します。ブライアン・バーチィ博士の英字名はBryan Birchであり、バーチィ博士はB-S-D予想を立てた一人として姓名の頭文字のBとして連名しているからです]。つまり、弱形式のみだけれどもB-S-D予想が明確かつ簡明に記述されている。再度、これは手引書であり、百科事典ではない! ミレニアム問題は置いといて、この部はいくつかの素晴らしいものを含んでいる。私のような数論学者にとってV.27以降の節は楽しい。(この手引書においてガゥワーズは非常に気前よく数論を扱っている!) 最終時点でヴェイユ予想に関するオッサーマンの記事は予想をきちんと仕上げている。
本は偉大な数学者達の人生と業績を含む部分、"数学の影響"と題された部分、最後に"最終展望"と題された部分で締めくくる。"数学の影響"は様々な数学の応用で始めているが、特にドブシーによるウェイブレットに関する、フランク・ケリーによる通信量に関する、スーダンによる符号化に関する、コックスによる暗号に関する信頼出来る記事を含んでいる。これらに続いて音楽に関する、芸術に関する記事がある。"最終展望"は思考を引き起こすつもりの5つのエッセイを含み、確かにそうしている。そして最終において若い数学者に対するアティーヤ、バラバシ、コンヌ、ダサ・マクダフ、ピーター・サルナックからのアドヴァイスの手紙がある。
要約すれば、本は実にすぐれている。若い学生に数学の本質に関する良いアイデアを与えるだろう本を私は知らない。これが私の同僚達がしていることを私に語るだろう唯一の本であると確信している。この巻において同様に重要な異なる分野が同等に扱われていないかも知れないので(中には欠けているものすらあるかも知れない)、見込みのある大学院生が研究トピックの選択に対するガイドとして、この本を取るはずだとは少し自信が持てない。だが、彼又は彼女はきっと最終部を読むはずだ。最後にあらさがしコメントを。出版社は少なくとも3巻のライブラリ版の刊行を考えるべきだ。ただ今の重い巻の背が過度の使用から壊れるかも知れぬと心配している。
サイモン・ドナルドソン
序文からの2つの抜粋が本の本質の良い全体図を伝えている。
"手引書は読者に対して21世紀の始めに数学者達が把握している重大で典型的なアイディアの例を簡潔に示すことを目指している"。
"手引書は百科事典ではない。...本は人間の伴侶に似ており、一般的に共有されていないかも知れないトピックスについて知識と考え方に欠落を備わっている"。
本は異なる有望な読者層向けにかなり異なる種類の教材を含む8つの部を持つ。大ざっぱに教材は3つのクラスに分かれるだろう。
(1) Scientific Americanの記事または市民数学講座と類似の、一般読者層対象の教材
(2) 学部生の数学レベルの教材
(3) 多少AMS Bulletinの記事のスタイルで、プロ数学者達対象の解説記事
多くの異なる著者達からの寄稿があるが、本はガゥワーズの明確なヴィジョンが行き渡っており、彼は大量の教材を書いている。
先へ進めると、本の中心はPart IVであり、それぞれが約15ページの26"数学分科"の解説から成っている。例えば"代数的数論"(メイザー)、"微分トポロジー"(タウビズ)、"偏微分方程式"(Klainerman)、"極値的および確率的な組合せ論"(AlonとKrivelevich)。これらは大ざっぱに上記の(2)–(3)レベルだ。これらの記事のうちで最も成功しているものは優れていて、どこか他の所では見つけにくいであろう概観と考察を与えている。私が特に好んだ記事の2つは"偏微分方程式"(そんな小さな紙面の中でそんな大きな議題と取り組んでいるから)と"表現論"(グロノウスキー)だ。"表現論"は初等理論から高度なトピックスまで移っているが、全体的なまとまりを伝えている。最初の2つの記事、"代数的数論"と"解析的数論"(グランヴィル)は少なくともこの読者[訳注: つまりドナルドソン卿ご自身のこと]にとって非常に有益で興味深く、スタイルにおいて著しい差異を例証している。第1のものは、その議題における多くの基本的なアイデア(イデアル類群と一意分解のように)を証明のアウトラインをつけて説明している一方で、第2のものは結果と興味深い未解決問題を述べることに専念している。どちらのアプローチも上手く行っており、その議題にとって正しいものだろう。Part IVのこれらの記事のそれぞれが参考文献の短いリストで終わっている。
本のPart IIIは99個の"数学概念"についての更に短い記事(1ページまたは2ページ)で成り立っている。そのレベルとスタイルは非常に一様ではない。3つのアルファベット順に隣接する記事のサンプルは対照的なアプローチを伝えている。
"オイラー及びナヴィエ–ストークス方程式"(フェファーマン)
方程式の命題と長年既存する問題の議論、弱及び強形式の差異、そして現代的な結果。とうとう"我々はちっぽけな粘性が多量のエナジーを消費する理由を理解する必要がある"という考察に至る。
"イクスパンダ"(ヴィグダーソン)
定義(n-頂点を持つグラフは、すべてのm≦n/2とm頂点の全集合Sに対してSとその補集合の間に最小cn辺が存在するならば、cイクスパンダである)。
"指数及び対数函数"(ガゥワーズ)
これはずっと初等レベル向けである。すなわちaが整数、有理数、または無理数の時に2aを定義する問題。冪級数または(1+x/n)nの極限として証明のアウトラインをつけて定義される指数函数。対数函数と複素変数への拡張。
再度、これらは違うやり方ですべて優れている。最初の2つは上記の(2)–(3)レベルにおいて簡潔で考察のある言及となるだろうし、3つ目はだいたい学部初年または高校高学年あたりの標準的な教材をテキスト本に埋められている時よりも消化しやすいだろうやり方で上手くまとめている。異なる記事の間に包括的な相互参照がある。Part IIIにおいては他のソースへの参照が殆ど無く、もっとあれば役立つだろう(例えば、読者がリッチフロゥに関してもっと見つけるかも知れない、上で議論した"イクスパンダ"に関するオリジナルな研究記事とソース)。
Parts IIIとIVはこれでお終い。Part Iの"序論"(76ページ、ガゥワーズにより書かれている)は現代数学の一般的な記述として独立しているだろう。その議論は、他にもいろいろある中で例えば"数学に重要なのは何か?"、"基本的な数学定義"、代数学、幾何学、解析学を特徴づける異なる思考の方法、証明で使用される形式及び非形式言語、"数学論文に何を見つけるか?"を含んでいる。これは数学研究に人生をかけるかを熟考している学部生にとって非常に価値がある。Part IIは7つの中身の濃い歴史的記事から成っている。Part Vは短い記事から成っており、いくぶんPart IIIに似ているが、特定の結果と問題に注目している("数論の基本定理"から"ポアンカレ予想"まで再度広範囲に渡っている)。Part VIは再度歴史的で96人の数学者達の簡単な伝記であり、Part VIII("最終展望")は一般的で、時にはより哲学的なトピックスに関する様々なエッセイから成っている。
Part VII("数学の影響")は特別に言及する価値がある。序文で述べられているように本の中心焦点はpure mathematicsであるが、応用に対する共感を持っている。Part VIIは更に詳しく応用に的を絞り、その範囲は非常に選択的にならざるを得ない一方で、その記事は特に興味深い。おそらくプロ純粋数学者達にとって最も有益だ。ここで"応用"は広く解釈されるべきだ。すなわち、記事は"ウェイブレット"、"医学統計"、"数学と音楽"を含む。
本の中でカバーされていないことに関して不満を言うのは簡単だが、そんな批判は上で引用した百科事典ではないということによって大方跳ね返される。微分幾何学に関しては殆ど無い。様々な外観におけるコホモロジーの広い議論(確かに20世紀数学の主発展の一つ)を見つけようと望んでいたが、失望した。"21世紀の始めに数学者達が把握している"際立ったアイデアとして、量子場理論についてもっと調べていれば面白く話題になっていたであろう("鏡対称性"と"頂点作用素代数"という表題の下でこれの適用範囲があるけれども)。定義の中がもう少し正式であれば概して私は喜んだであろう、等々。だが、これは本をもっと百科事典にし、もっと標準的にして、そして独自性を減らすだろう。
全体として、この本は著者達が感謝されるに値する非常に大きな偉業である。どこか他の所では見ない分量、豊富な教材を含み、多くの異なる経歴の読者達に楽しまれるだろう。
Gil Kalai
称賛
この本は科学としての、芸術としての、力強いツールとしての、そして人間活動としての数学の多面性の異常に豊富な記述である。
数学の人間面は一般歴史的な章と個々の数学者達についての小さな章の中のみならず、しばしば数学の領域に充てられた章と概念、問題、そして結果に充てられた章の中にも演じることになる。例えば次の素晴らしい引用を取ろう。すなわち、"ボーチャーズはV1と共形場理論のカイヤラル代数の間の形式的類似にショックを受けた"(頂点作用素に関する章からのムーンシャイン予想の証明のストーリー p. 549)。発見の最初の瞬間の素晴らしい感覚とそれが作った喜びを理解するために、これらのオブジェクトを完全に理解する必要は無い。人間風味で描かれた、数学における決定的瞬間のもう一つの例は以下だ。"ゲルハルト・フライはそんな曲線は非常に異常かも知れないので志村-谷山-ヴェイユ予想と矛盾するかも知れぬと理解した"("フェルマーの最終定理"の章から、p. 692)[訳注: あの有名な予想を志村予想ではなく、志村-谷山-ヴェイユ予想と呼ぶのはラングランズ・プログラムでの呼び方が強い影響力を持っているからだと思いますが、その他にもPCMが2008年9月8日に刊行されていることと、予想の呼称に異議を唱えている志村五郎博士の自伝的著作The Map of My Lifeも2008年11月5日に刊行されており、同時期だったことは不幸です。谷山氏はモデュラ性を全く予想してなかったのですが、氏の名前は不幸な亡くなり方(自殺)を悼む意味合いもあるので日本人的感覚でまだ理解出来ますが、少なくともヴェイユの名は無関係なので取り除くべきでしょう。志村博士のいろいろな業績を基礎にしてラングランズ博士はあのプログラムを立てたのにもかかわらず、志村博士の神経を逆撫ですることばかりやっていると訳者は考えます] おお、よろしい!
異なる著者達が分野、概念、または定理を示すための異なるやり方は数学への異なる個人的アプローチを鮮明にする。
本の自己信任は純粋数学に制限される一方で、応用数学の非常に強い魂がある。数学の最も古くて強い関係は物理学に対してと、それを通して他の精密科学と工学に対してだ。実際、本の大部分で物理学が強く感じられる。私見では次に来るのが統計学だ。読者は統計と確率の重要さを感じるだろう(そして、もっと好きになるだろう)。最適化とアルゴリズムも本の中で十分説明されている。この本の中で登場する数学の哲学と哲学の中の数学に関する強い協調を見ることは普通でなく、これは最も歓迎される。
本はとても豊富だが、それでも上手くやっている。実際、稀なる偉業だ!
批判
火星への人間使節団を描く映画の中で、そこへ着いたばかりの3人の宇宙飛行士達の誇り高き家族達は宇宙飛行士達へ話しかけようとしていた。彼等は挨拶し、光速のため90秒応答を待たねばならないだろうと言われた。いったんこれらの90秒が過ぎ、映画が科学に義理を果たすと会話は何の妨害も無いのに行ったり来たりし続けた。これは数学的発表を自己完結にしようと努めることの共通する問題(そして共通する不成功な解決)に似ている。この本において、数学的努力に対する大きな入門の章は全体として素晴らしいが、数学の主要分野を記述するいくつかの章は同種類の小さな入門的な章を必要とするらしい。本は実のところ自己完結でないし、自己完結であるはずがない。
それに加えて、The Princeton Companion to Mathematics(PCM)のような大きな百科事典タイプの本を読むことは、この膨大な森林の中の林で貴方の小さなコーナーが如何に小さいかを認識するので、落胆させることになり得る。慰めになるものは科学と数学のフラクタル[訳注: フラクタルはどの部分を取っても自己相似な図形のことを意味します]な性質だ。小さなコーナーにおける小さな発見、概念、または定理が大きな全体像に対して大きな差を作れる。数学の価値のみならず、価値としての数学(PCMが強く擁護する考えだ)にも注意を払うことから更にもっと慰めが来る。
本は2.6キログラムだが、余りにも重たすぎる。寄稿者達が彼等の章を彼等のホゥムペィジに載せ、将来の版が複数巻に分割されることを私は望む。
アドヴァイス
本には若い数学者達に対する複数のアドヴァイスがあるが、中年と老年の数学者達に対するアドヴァイスの章が際立って欠けている。ベラ・バラバシが彼の素晴らしいアドヴァイスの中でG. H. ハーディを引用している。ハーディは醜い数学のための恒久的な場所が世界には無いと書いた。ハーディがこのフレィズを書いた時、説明すべきと彼が感じた術語は"醜い"だった(そして彼は数学における美しさが意味することを詳しく述べた)が、最近ではおそらく術語"恒久的"を説明する更に多くの困難がある。ハーディの空想的な格言を規範的アドヴァイスとしてあまり認められないし、バラバシの続編、すなわち熱意の無い数学者達のための場所が世界には無いということもあまり認められない。貴方が良い補題と定理を証明する、または数学探求で他の進歩を作るならば、数学に対する熱意の合計は貴方次第である。私達の前の本が示しているように数学と数学者達は多くの種類に登場し、ああ! おそらく恒久的でないけれども、すべての人のための場所が世界にはある。
よくある良い補題
ポール・エルデシュがウルフ賞を受賞した時、"私が良い補題を得られるなら―百個のメダルのためにそれを与えないだろう"と言った(エルデシュはハンガリーの詩人ヤーノシュ・アラニが書いたことを言換えていた。アラニは"私が良い眠りを得られるなら―百個のメダルのためにそれを与えないだろう"と書いた)。ヨースタ・ミッタク=レフラーはもう一つの取り組み方を持っていたようだ。彼の時代の他の数学者よりも数学を促進する(ハーディが彼について述べたように)ことは補題を証明する誘惑をたまに避けることを要求した。数学と数学コミュニティに対する貢献もいろいろなやり方で登場し、この本は数学の構造基盤を豊かにする大胆不敵で成功の企てだ。読者に数学と数学者達に関する豊かで役立つソースを提供する。本はティム・ガゥワーズ、ジューン・バロウ・グリーン、イムレ・リーダー、そして他の多くの貢献者達が誇れる、そして私達すべてが楽しめる偉業である。
リチャード・ケニオン
この本は何なのか? すぐに言うのは簡単ではない。パッと見て人々が思うかも知れない数学のウキペディアの印刷版の類ではない。数学の百科事典でもない。公式または積分または数学術語の定義の一覧表は見当たらない。この意味で"完璧"ではない。もっとはっきり言えば、必ずしも特定の議題を勉強するための良いリゾースでもない。
本は何なのかの部はむしろ数学は何なのかの記述であり、一般人は理解しやすい。私がしていることを説明する手段として15歳の私にそれを読むように渡したい衝動に駆られている。それは数学の歴史を含んでいる。つまり主要数学者達、定理、定義、そして証明の簡潔な年代順の配列。
数学は何なのかのもう一つの部(そして職業数学者としての私にとって、これが部だ)は(少なくとも理想世界において)数学者が知るべき事実/エッセイ/アイディアのコレクションだ。それは私の教養の部分でない数学の部分をもう少し学びたい時に拾い読みすべきものだ。ここに専門家達(!)―これは私の数学仲間と同僚を意味している―によって理解しやすいのみならず、ざっくばらんに近づきやすい術語で書かれた数学の様々な議題に関するエッセイがある。私はその記事を拾い読みし、アイディアの新しい宝を露出させながら本を通して非常に楽しんだ。正直言えば、短い記事は素晴らしいが、時には、まぁ、もどかしいほど短い。それらのいくつかはもう少し深く行って欲しかった! だが、これは本が役目を果たしている兆候かも知れない。つまり、外へ出てどこか他の所でもっと情報得るようになるほど十分に読者を議題に興味を持たせている。
短い記事のもう一つの良い面はそれらが自由形式で依頼されていたことだ。つまり著者達は(おそらく)何を言うべきか厳密な方針を与えられていなかった。結果として、例えばバリー・メイザーによって書かれた代数的数論に関する記事は議題における基礎事項をカヴァーしながら補題と定理が巻き散らかされた定義の冷たいリストではない。むしろ数学者としてのバリー・メイザーの興味をかき立てているもの、すなわち耳より情報、事実、そして定義の話だ。それは基礎から始まり、高校の代数問題を動機づけしながら、(ほとんど)現代数論の真剣だが興奮させる問題まで引張っている。全体プログラムを楽しく、面白く、そして興味深くさせているのは、この個人好みに合わせている風味である。
貴方すなわち読者への私のアドヴァイスは本を買い、ランダムにペィジを開け、読み、楽しみ、そして啓発されることだ。
アンガス・マッキンタイア
序文は純粋数学の論理主義者的"定義"を与えているバートランド・ラッセルの有名な引用から始まる。
純粋数学は形式'pならばq'のすべての命題のクラスである。ここでpとqは一つまたはそれより多い変数を含んでいる命題であり、2つの命題において同じであり、論理定数を除いてpもqも何らかの定数を含まない。そして論理定数はすべて次に述べることに基づいて定義可能な概念である。すなわち、"ならば"、術語が属するクラスに対するその術語の関係、"~するような"の概念、関係の概念、そして上記で述べた形式の命題の一般概念に含まれるであろう更なる概念。これらに加えて、数学はそれが考えている命題の構成要素ではない概念を使用する。すなわち、真実という概念だ。
The Princeton Companion to Mathematicsはラッセルの定義が書き落としているすべての事柄について説明することによって見事に反撃している。その意図は魅力的で近づきやすいやり方で現代的な純粋数学のアイディアの大きくて代表的なサンプルを示すことであり、そのサンプルの殆どが私達の時代の数学者達を引き付けているものだ。Companionから私はアインシュタインの言葉"結局、最高の数学的天才は多くの傑出した頭脳の共同研究によって発見されていることを単独で発見出来ない"を学んだ。Companionはその意図をそんな共同制作、熟達した控えめな編集により達成している。非旅行者のための短い遠足から探検(最も経験し熟達した数学者達を報いることになるだろう)まで広い範囲の数学旅行を可能にしている。
起源と先駆者達から始めよう。歴史的なセクションはベルのMen of Mathematics[訳注: 日本語版では"数学をつくった人びと"ですが、老婆心から申し上げるとウソばかり書かれています。エリック・テンプル・ベルという人は数学史家のように事実を調べて書いたのではないことが明らかです。それだけならまだしもウソまででっち上げています。米国の知人から言わせるとベルの本が権威を誇った時期に、つまり第二次世界大戦前及び最中に少年期を過ごした人ならまだしも、戦後においては有害図書だと言ってました。それなのにもかかわらず、日本では現代でも未だにその日本語訳を有難く読んで胸を熱くさせている青少年がいるかと思うと呆れてしまいます。古今東西を問わず、この種の無神経サイエンスライター(そして、その著書を喜んで翻訳する人も含めて)が皆さんが思っている以上に多いことも残念ながら事実です](多くの若者達の目を開かせたことで有名な作品)の低俗ドラマが無い一方で、学識の典拠があり、最も長い記事の質を高めている。亡くなった数学者達とブルバキの一つの96個の短い科学的伝記がある。96個の記事はピタゴラスで始まり、アブラハム・ロビンソンで終わっている。96個の記事の中で論理学を研究した人が多い(名声の主な権利がどこか他にある人も含めて18人を数えた)ことに私は少し驚いた。
た。
私は本の中をあちらこちら歩き回った。啓発的なセクション"最終展望"に早く行くことを勧める。トニー・ガーディナーとマイケル・ハリスの寄稿に私は心を引かれた。私にとって彼等が共通に持っていることは数学の"具体的な事柄"(または"雑多")の重要視であり、他と違う人間活動の進化だ。
ガーディナーの"問題解決の芸術"は大変面白い一連の引用(多くは馴染みだが、不朽の力を持つ)の周りのあちこちで立てられている。彼は大部分が未踏の知的世界の探求の暗喩を追求している。大部分が未踏の知的世界において偉大な発見は"小さい中の数学"の具体的知識に根底を置いている。数学は工芸であり、そこにおいて重大な洞察は変わらぬ修練を通してのみ得られる。工芸において子供達を上手く始めさせることに彼は特別な関心を持っているが、彼の言っていることの多くが私達の終わることのない修行期間のすべての段階で的を射ている。問題解決の理論の専門用語に関して喜ばしい懐疑的な見解、真面目な初等数学の重要視と時間を減らす"改革"の非難がある。"最終展望"の最後から2番目の副セクションにアティーヤ、バラバシ、コンヌ、マクダフ、そしてサルナック(各々人を奮い立させる、私達の工芸の名人だ)の現代の研究世界に入ろうと意図する若い数学者達に対する賢明でかなり特殊なアドヴァイスがある。アティーヤの忘れらないフレィズがある。すなわち、"数学研究の本当に創造的な側面すべてが証明段階に先立つ"。
ハリスの題名は"'何故数学なのか?' 君は問うかも知れない"であり、私が考えたいのは数学のアイディアについて彼が言っていることである。彼の重要視は数学のアイディアと経験についてだ。ここにいくつかの彼のフレィズがある。
"数学の基本単位は概念であって、証明ではない"。
"証明の目的は概念を照らすことである"。
"最も無慈悲な資金援助機関でさえ、質問'何故経験なのか'に応答を要求する程まだポゥストヒューマンではない"。
早期にあげたラッセルの引用と極端な対照に注目せよ。数学的アイディア(それらは盗まれるか、または考慮に入れられる可能性がある!)の客観性に関する説得力のある説明と数学の基礎となっている公然の直感の肯定のため、私はペィジ973–975を賞賛する。Companionそれ自体がハリスが書いていることを十分に強固している。証明が無いが、素晴らしいアイディア(しばしば物理学にリンクされる)がある。私、そして他の非常に多くの人がそうだと思うが、ランダムに選ばれた記事に行けて、"真意"を得られることは確かに公然の直感を裏付ける。本の故意に柔軟な構造(始めから終わりまで読むことに殆ど意味が無い)は数学の組織の深い神秘感を伝えている。証明の欠如を残念がる人々はProofs from the Book[訳注: マーティン・アイグナー、ギュンター・ツィーグラー両博士による有名な本。日本では"天書の証明"として和訳が出ていますが、題名からして拙いです。奇をてらったつもりでしょうが、日本には「天書」という奈良時代の歴史書が実在するのです。これは翻訳者の無知をさらけ出していることになります。と言うか、これくらいの本の英語は中高生でも軽く読めるはず(数学的内容の理解はともかくも)なので知性と教養がある人には原書をお勧めします]へ向かうかも知れない。私達の殆どが両方から学ぶだろう。
Part IとIIはプロフェショナルによって最も飛ばされやすいが、上手く書かれており、初心者達にとって不可欠だ。
Part IIIは雑多な今日の概念を示している。それらがアルファベット順に登場することは私の喜びに影響しなかった。
Part IV "数学の分科"は最も重要で複雑なアイディアへ導く。私は記事すべてを読んだが、それらすべてを楽しんだと正直に言える。ここで新しい議題がどのように進化して来ているか、他がどのように予見しないやり方でリンクされて来ているかを見る。この本が50年前をどのように見たであろうか想像してみよ[訳注: この書評が2009年であることをお忘れなく。以下の記述は現在の2019年から見れば的外れなものもあります]。計算数論は殆ど無い、暗号理論は殆ど無い、ほぼ無い数論幾何、非常に無い幾何学群理論、非常に少ない力学系、フラクタルは無い、ウェイブレットは無い、計算複雑性は無い、鏡対称性は無い、有限単純群の分類は無い、ヴェイユ予想の証明は無い、ラングランズ・プログラムは無い、頂点作用素代数は無い、非常に異なって、そしてもっと断片化された組合わせ論、ストキャスティクスから他の数学世界へのリンクは殆ど無い、集合論における強制は無い、Q上楕円曲線のモデュラ性は無い、ハミルトンとペレルマンのスタイルにおけるリッチフロゥは無い。このようにして私達はCompanionが多くの改訂を経るだろうことを望み、後世代にとって豊富なリゾースである(私達にとってそうであるように)であろうことを望まなければならない。
私は他の書評者達に2つの懸念を伝えた。現代数学にとても普及しているアイディアとして、トタロの素晴らしい記事の中の3ペィジを除いてコホモロジーがかなり小さい扱いを受けている。改訂版においてもっと多くを望める。非常に難解で、長い歴史があり、Companionのすべての読者達が容易に問題を理解出来る、かなり異なる議題が私にとって無視されているように思われる。すなわち、超越理論。
PDEに関する記事は私を非常に満足させた。代数学的または論理学的好みの人々とって、学部課程の公式レベルをずっと超えてPDEの理解を広げる要求を見事に広く証明している。Companionを読みながら私はずっと大きい全体像に気がついた。Klainermanを引用する。"ラプラス方程式、熱方程式、波方程式、ディラック方程式、KdV方程式、マックスウェル方程式、ヤン–ミルズ方程式、アインシュタイン方程式(これらはもともと特定の物理学的状況で導入されたのだが)のような方程式が幾何学、トポロジー、代数学、組合わせ論のような分野に深い応用を持っていることがどのように判明したかを人は畏敬の念で見る"。
Mutatis mutandis[訳注: これはラテン語で"変更すべきところは変更する"という意味です。このラテン語には全体の枠組みや構造等を変えないで必要箇所のみ変更するという意味合いが込められています。そして、マッキンタイア博士はこれを標語のような感じで掲げているのです]、そんな意見はこの本の中の殆どのアイディアに対して適切な反応である。
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