大学の教壇に立つ友人共の話によれば、彼等が教えている(または教えた)学生達の何人かは、私のこの"私訳"シリーズを読んだことがあるそうです。たまたま友人共の一人がルベーグ積分の講義を担当した時、グロタンディーク氏が高校生から大学生にかけて自力でルベーグ積分を構築したことを学生がさも得意げに喋っていたから、どこで知ったのかを聞くと、この"私訳"シリーズを読んだことを白状したそうです。友人は私に、学生がそんなどうでもいいことにうつつを抜かすよりもルベーグ積分をしっかり勉強して、いい成績を取る方が肝要だろうと苦笑し、"私訳"シリーズに責任ありと冗談で言ってました。
確かに"私訳"シリーズにおいて、かなり昔にAllyn Jackson女史の"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇"等で、そのようなエピソードが出て来ました。しかし、理系の人なら論理的にしっかり読んで欲しいのですが、Jackson女史はあくまでグロタンディーク氏のRécoltes et Semailles("収穫と種蒔き")に沿って筆を進めているに過ぎず、実際にそれが本当かどうかの判断を入れてないことに注意して下さい。つまり、あくまで"収穫と種蒔き"を前提にしているのです。しかし、"収穫と種蒔き"を原文で少しでも読んだことのある人なら実感出来るように、いろいろな箇所で話を盛っている可能性を捨て切れないと思います。
私はルベーグ積分のエピソードに関して、全くの嘘ではないにしても話を盛っていると思っています。理由は二つあります。グロタンディーク氏がルベーグ積分に関する論文を書いた、書いたと一方的に言っているに過ぎず、その草稿は残っておらず、ブルバキの誰がそれを読んだのかもはっきりしていません(アンドレ・ヴェイユ博士が読んでないことは断言出来ます)。巷ではアンリ・カルタン博士が読んだことにされているようですが、その割にはカルタン博士は後にその件で何も語っていませんし、グロタンディーク氏の話題に及んでも、草稿を目にしたとは不思議なくらい一言も言ってません。仮に百歩譲って、実際に草稿があったとしても、取るに足らないものだったはずです。何故なら、ルベーグと結果が同じだったとしても、グロタンディーク氏の言う通り、本当に独自のツールとフレームワークを開発して理論を構築したならば、立派にグロタンディーク積分と認知されたはずだからです。またグロタンディーク氏の最強の味方であるピエール・カルティエ博士ですら実際に草稿の存在を目にした訳ではなく、草稿を誰かが読んだらしいという又聞きに過ぎません。グロタンディーク氏は、自分の父親に関して有名アナキストだと言ったという思わせぶりの件にしてもそうですが、青少年の頃のコンプレックスは相当に根深いことを伺わせます。そんな過去のことを気にせずに、数学者になって以降にやって来た業績で十分胸を張ればいいのにと凡才の私は思います。以上が一つ目の理由です。
グロタンディーク氏は面積とは何かという疑問から出発しているのですが、ルベーグはそんなナイーブ(日本ではいいようにとらえているようですが、馬鹿、世間知らず、素朴等否定的意味合いが本当です)なことから出発してません。つまり、問題意識が違うのです。ルベーグは今日言うところの強収束定理を念頭に入れていたのです。ですから、少年グロタンディーク氏のようにナイーブではなく、プロフェッショナルの仕事としてルベーグはやったのです。両者が全く同じ結果を生んだとは正直思えません。以上が二つ目の理由です。
さて、ルベーグ積分のエピソードはこれくらいにして話は変わります。AMS Noticesの2016年3月号及び4月号にグロタンディーク氏の追悼記事があったことは皆さんもご存じでしょう。それらの中から今回はマイケル・アティヤ卿が書いたGrothendieck As I Knew Himを紹介します。なお、原文は"Alexandre Grothendieck 1928–2014, Part 1"(PDF)の中にあります。その私訳を以下に載せておきます。
確かに"私訳"シリーズにおいて、かなり昔にAllyn Jackson女史の"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇"等で、そのようなエピソードが出て来ました。しかし、理系の人なら論理的にしっかり読んで欲しいのですが、Jackson女史はあくまでグロタンディーク氏のRécoltes et Semailles("収穫と種蒔き")に沿って筆を進めているに過ぎず、実際にそれが本当かどうかの判断を入れてないことに注意して下さい。つまり、あくまで"収穫と種蒔き"を前提にしているのです。しかし、"収穫と種蒔き"を原文で少しでも読んだことのある人なら実感出来るように、いろいろな箇所で話を盛っている可能性を捨て切れないと思います。
私はルベーグ積分のエピソードに関して、全くの嘘ではないにしても話を盛っていると思っています。理由は二つあります。グロタンディーク氏がルベーグ積分に関する論文を書いた、書いたと一方的に言っているに過ぎず、その草稿は残っておらず、ブルバキの誰がそれを読んだのかもはっきりしていません(アンドレ・ヴェイユ博士が読んでないことは断言出来ます)。巷ではアンリ・カルタン博士が読んだことにされているようですが、その割にはカルタン博士は後にその件で何も語っていませんし、グロタンディーク氏の話題に及んでも、草稿を目にしたとは不思議なくらい一言も言ってません。仮に百歩譲って、実際に草稿があったとしても、取るに足らないものだったはずです。何故なら、ルベーグと結果が同じだったとしても、グロタンディーク氏の言う通り、本当に独自のツールとフレームワークを開発して理論を構築したならば、立派にグロタンディーク積分と認知されたはずだからです。またグロタンディーク氏の最強の味方であるピエール・カルティエ博士ですら実際に草稿の存在を目にした訳ではなく、草稿を誰かが読んだらしいという又聞きに過ぎません。グロタンディーク氏は、自分の父親に関して有名アナキストだと言ったという思わせぶりの件にしてもそうですが、青少年の頃のコンプレックスは相当に根深いことを伺わせます。そんな過去のことを気にせずに、数学者になって以降にやって来た業績で十分胸を張ればいいのにと凡才の私は思います。以上が一つ目の理由です。
グロタンディーク氏は面積とは何かという疑問から出発しているのですが、ルベーグはそんなナイーブ(日本ではいいようにとらえているようですが、馬鹿、世間知らず、素朴等否定的意味合いが本当です)なことから出発してません。つまり、問題意識が違うのです。ルベーグは今日言うところの強収束定理を念頭に入れていたのです。ですから、少年グロタンディーク氏のようにナイーブではなく、プロフェッショナルの仕事としてルベーグはやったのです。両者が全く同じ結果を生んだとは正直思えません。以上が二つ目の理由です。
さて、ルベーグ積分のエピソードはこれくらいにして話は変わります。AMS Noticesの2016年3月号及び4月号にグロタンディーク氏の追悼記事があったことは皆さんもご存じでしょう。それらの中から今回はマイケル・アティヤ卿が書いたGrothendieck As I Knew Himを紹介します。なお、原文は"Alexandre Grothendieck 1928–2014, Part 1"(PDF)の中にあります。その私訳を以下に載せておきます。
[追記: 2018年01月15日]
グロタンディーク氏の"収穫と種蒔き"は伝記的記述、特に数学者になる前の記述にはかなり歪曲があります。例えば、父親、母親、異父姉の件等、家族関連はほぼ歪曲されています。これらに関しての事実はミュンスター大学名誉教授Winfried Scharlau博士の著書Wer ist Alexander Grothendieck?を参照して下さい(これは全4巻からなり、一応完成しているのは第1巻と第3巻で、今なお執筆中です)。
[追記: 2018年02月08日]
他の数学者によるグロタンディーク氏の追悼には他にもピエール・カルティエ博士の"グロタンディークに関する青春の思い出"があります。
[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2018年01月14日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。
[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。
[追記: 2023年01月15日]
グロタンディーク氏のRécoltes et Semaillesを書評対象とするPierre Schapira博士によるリヴュー“切り詰めた草稿”もあります。
私が知った時のグロタンディーク
2016年3月 マイケル・アティヤ
私がグロタンディークという旋風と出会った最初は、ごく初期で1957年のボンでのごく小さなArbeitstagung[訳注: これは独逸語でワークショップの意味です。数学界では誰もが知っている名称なので、以降和訳せず、そのまま表記します]だった。毎日グロタンディークが数時間喋り、ヒルツェブルフ-リーマン-ロッホ定理(HRR)の彼の新しいK-理論一般化を詳細に述べていたことを憶えている。ドン・ザギエによれば、Arbeitstagungの議事録は4日間に渡って合計12時間彼が喋ったことを示す。それは浮き浮きとする体験だった: 輝かしいアイデア、気迫のこもった講義。その時幸いにも私は若く、グロタンディークとほぼ同年齢で、彼の偉大な結果を吸収し、結果的に拡張出来た。
今から思えば、彼は然るべき時に然るべき人だったと見ることが出来る。セールが層コホモロジーを含んで代数幾何学の新しい基礎を置き、ヒルツェブルフがチャーン類に基づく一般コホモロジー形式論を展開し、それを彼とボレルが最新式にした。多くの人にとって、HRRが何百年の代数幾何学の最高潮、頂点だと思えた。だが、グロタンディークはブルバキの力を借り、将来は普遍性とファンクター性[訳注: 関手性という無意味な訳がありますが、私見では日本数学史上最低な訳だと思っており、適当な訳が無ければファンクターとそのまま表記すればいいだけと考えます。圏だってそうです。キャテゴリーとすればいいんです。例えばhomology、cohomologyはホモロジー、コホモロジーとしているのに一貫性が無さ過ぎでしょう]が有力になるだろうと待望した。彼のK-理論の導入と展開はホモロジー代数に関する彼の熟達と名人芸にかかっており、それは凡人が踏むことを恐ろしいと思うような道を完全に制圧して貫通した。出現したもの、つまりグロタンディーク-リーマン-ロッホ定理はHRRの輝かしいファンクター化であり、証明は練習問題となってボレルとセールに任された!
彼の函数解析における初期の研究に続いて、この偉大な勝利はグロタンディークを数学者として確立し、フィールズ賞受賞(ソビエト政権に抗議して、彼は立派に1966年のモスクワ会議に出席しなかったが、そこでメダルは授与された)に繋がった。彼の新しい哲理は大勢の信奉者達を惹きつけ、彼等は私が描く力を超えて、壮大な新しいアイデアを展開した。
個人的に私にとって、次のArbeitstagungで発芽したもっと位相的なアイデアと共に彼のK-理論は結局、有名なBott周期性定理に基づいてヒルツェブルフと私が展開し、位相的K-理論となった。その後、キレンや他者のアイデアを通して、代数的K-理論がトポロジー、代数幾何学、数論を前途有望だが、気のくじけるような問題を抱えながらも深くて美しい方法でリンクする主要フレームワークとして出現した。これがグロタンディークの遺産の一部だ。
最初のArbeitstagungはまた私にとって教育的側面を持った。1959年の秋、プリンストンの高等研究所において、毎土曜日の朝はボレル、セール、テイトによって詳細でテクニカルなセミナーが運営され、グロタンディーク流のスキームの代数的基礎を解説した。私は熱心な学生で、オックスフォードで短いコースを講義するため可換代数を十分に勉強した。それが最終的にイアン・マクドナルドと共著のテキスト本[訳注: Intoduction to Commutative Algebraのこと]となった。それはベストセラーではなかったが、主にサイズが薄くて値ごろであるという理由から世界中の学生に読まれた。それはまた私が可換代数のエキスパートであるという間違った印象を与えたが、それでまだ私は可換代数の扱いにくい質問をメールで受けている!
私は引き続く年々にグロタンディークとボン、パリ、その他のどこかで頻繁に会っており、私達は親しい間柄だった。彼は私の初期の論文の一つを好み、これは"アティヤ類"として知られるようになったものに基づき層理論的フレームワークの中でチャーン類を導いた。他方、彼はアティヤ-ボット不動点式をかなり取り合わなかった。アティヤ-ボット不動点式は彼の一般理論の当然な結果として、コンパクトリー群の表現の特性に対するヘルマン・ワイル式に繋がった。テクニカル的に彼は正しかったが、彼も他の誰もワイル式との関係を今まで作ったことがなかった。
私自身の研究に対する、これら2つの反応は啓発的だ。私の初期の論文は彼の一般理論の部分でなかったので彼は感銘を受けたが、アティヤ-ボットの結果(それを私はずっと重要だと考えるが)は彼の大きな仕組みの部分に過ぎず、従って驚きも興味深くもなかった。
私の思い出には記録に残しておく価値のある2つのエピソードがある。一番目はライン川で有名な客船旅行の一つで発生したが、客船旅行はボンArbeitstagungの中心だった。グロタンディークと私は上階のデッキのベンチに一緒に座っており、彼は両足を反対側のベンチに乗せた。船員が近づき、全く理性的にベンチから両足を下すよう彼に話した。グロタンディークは文字通り両靴を埋め込み、拒否した。船員は上役を連れて戻り、上役は要求を繰り返したが、グロタンディークは再度拒否した。それから、このプロセスは頂点にまでエスカレートした。船長が来て、船を停泊地まで戻すと脅したが、それは主要な国際的事件を防ぐためのヒルツェブルフの外交的スキル全体を要した。このストーリーはグロタンディークが彼の個人的生活において如何に非妥協的であるかを示し、数学における彼の妥協の無い態度と並行していると私は思う。その違いは、数学において彼は主に成功したが、実社会において彼の非妥協的性質は必然的に大失敗と悲劇となったことである。
私の2番目の個人的思い出は、グロタンディークが40歳だった時、彼は数学を止めてビジネスマンになると打ち明けたことだ。私はそれを割り引いて聞いたが、彼は至って真剣だった。もっとはっきり言えば、その年齢あたりで彼は本質的に数学を止めて、従来に無いビジネスマンになっており、狭い商業的世界ではなく、ふさわしい空想家として世界的規模の業務で運営した。不幸にも、数学の学問的世界において彼に大きく役立った才能は、より広い世界において全く不完全、または不適当だった。政治を"可能性の芸術"にする妥協性はグロタンディークにとって大嫌いなものだった。彼はシェークスピア風の型における悲劇的人物であり、彼自身の内なる弱点により未完成なヒーローだった。
グロタンディークを非常に大きい影響を持つ偉大な数学者にした非常な特徴はまた、残りの人生で彼が自分で選んだ大いに異なる役割に対しても彼を適合させなかったものだった。
コメント