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切り詰めた草稿

2022年01月13日にグロタンディーク氏のRécoltes et Semailles(以降R&Sと略記します)がやっと仏蘭西でGallimard社から出版されたことは皆さんも御存知でしょう。これはグロタンディーク氏がお亡くなりになり、それと前後して同時代の有力数学者等の関係者も故人となっているので遅かれ早かれ出版されるであろうことは誰もが予想していたことでした。しかし、文芸出版の老舗であるGallimard社から出版されることは少なくとも私には予想外でした。Gallimard社はR&Sをノンフィクシュンではなく、あくまで創作物と見なしているのかも知れません。だから、ひょっとして訴訟沙汰になるかも知れぬ作品の出版を決断したのでしょう。

そうは言っても、関係者全員が故人になったわけではなく、例えばグロタンディーク氏が執拗に攻撃した弟子筋ではドリーニュ博士等がご健在だし、気の毒にも全く的外れの攻撃対象になった日本の柏原正樹博士もいらっしゃるし、よく出版を決断出来たなぁと感心してたら、仏蘭西の知人がそれらの人達はグロタンディーク氏よりも年下だけど遥かに大人だよと書いて来ました。勿論Gallimard社はプロの出版社ですから、用意周到に何年も前から関係者各位に根回しをしたことは間違い無いでしょうが、確かに上記の人達が大人でなければ成立しません。

さて、今回紹介する記事はInferenceに掲載されたPierre Schapira博士のA Truncated Manuscriptです。これは出版されたR&Sを書評対象とするリヴューです。Schapira博士と言えば、佐藤幹夫博士を頭とする、いわゆる佐藤学派の擁護者としても有名であり、柏原正樹博士との共著Sheaves on Manifoldsを読んだ人も多いことでしょう。

 Schapira博士は出版されたR&Sにはグロタンディーク氏の追記と脚注の最新のものが含まれていないことを疑問視しています。仏蘭西の知人ともe-mailで議論した結果、私はそれは止むを得ないのではないかと思います。R&Sはinternet上にいろいろな海賊版が出回っており、どれが正本なのか、科学捜査でもしなければ判定出来ないくらいです。また、追記と脚注がグロタンディーク氏本人のものであることを誰が保証出来ますか? それくらいinternet上には捏造と嘘を平気でやる輩が多いということなんです。グロタンディーク氏はR&Sを脱稿した直後、頼まれもしてないのに関係者達や有力数学者達に郵送で写しを送り付けました。直後かどうか分かりませんが、IHESにも届いたようです。ですから、IHESが長年保管してた草稿をGallimard社は底本としたのではないかと私は考えます。当然、最新の追記と脚注は含まれてないでしょう。それから、もっと言えば追記と脚注での謝罪は意味がありません。本当に心からの謝罪をするならば、レタを謝罪相手に書くなり、直接会って謝罪する方が人としての筋道です。そして、R&Sの写しを送り付けた先に出向き頭を下げて回収し、全部を焼却すれば良かったのです。それすらせずに今日出版される破目になったのですから、数学者を勝手に辞めた後のグロタンディーク氏はやることなすことすべてが餓鬼がやることと同じです。Gallimard社もグロタンディーク氏の恰好付けだけのための追記とか脚注とかを真剣に捉えるのは馬鹿々々しいと思ったのだろうと私は推測しますので、Gallimard社はR&Sをノンフィクシュンではなく創作物だと見なしたのでしょうと上の方で書きました。つまり、ノンフィクシュンだと思うから腹立たしいのであって、創作だと思えば追記とか脚注なんぞはどうでもいいわけです。いずれにせよ、A Truncated Manuscriptの私訳を以下に載せておきます。なお、例のごとく注釈欄は省きましたが、それへのインデクスはそのままです。

最後になりましたが、佐藤幹夫博士が2023年01月09日に94歳でお亡くなりになりました。また一人、日本数学界の巨星があの世へ旅立たれました。ここに哀悼の意を表します。

切り詰めた草稿

2022年12月 Pierre Schapira

厳密に言うと、このエセイはアレクサンドル・グロタンディークのRécoltes et Semailles(収穫と種蒔き)1の単なるリヴューではない。グロタンディークの研究と人生と同様に、本を全体として議論するけれども、エセイの大部分はグロタンディークが元々のテクスッで展開した論考に対する反論である。この観点で私達は重要な味方を持っている。すなわち、著者彼自身である。この新しい版に含まれていない重要な追記の列の中で、グロタンディークは彼の断言のいくつかを完全に否定している。

数学研究

グロタンディークの人影は20世紀後半期に数学の殆どを支配した。彼の研究が本質的に代数幾何学に関するものならば、彼の見解と手法は遥か彼方に及んでいる。つまり、代数トポロヂ、表現論、複素幾何学、シンプレクティク幾何学、代数解析に対して、更にもっと最近では計算幾何学に対してさえも。つまり、力学系、確率論、または純幾何的幾何学(リーマン幾何学またはハミォツン幾何学のような)とは対照的に、線型数学すべてに及んでいる。導来カァティグリや層理論の言葉がこれらの分野で確立されたのは彼の影響下である。導来カァティグリ理論を直感し、そしてその主な方針を定式化したのも彼である。彼は学生であるJean-Louis Verdierに学位論文のためにその詳細全体を書くことを任せた。その学位論文の中で、Verdierは三角カァティグリ2の主要概念を明確化した。だが、層理論と導来カァティグリ理論における6オペレィシュンを位置づけたのはグロタンディークである。それについて私達は後に立ち戻ろう。

1950年から1970年まで、函数(もしかして一般化されて)は実または複素多様体において研究され、特にフーリエ変換を使用してユークリヅ空間で研究された。しかし、複素多様体において私達が函数に言及する時、実際には正則函数を意味し、これは深刻な困難をもたらす。すなわち、正則函数が存在しない。少なくとも、射影直線のようなコンパァクッ多様体においては大局的に存在しない(勿論、定数を除く)。従って、大局的知識が実微分可能な場合と異なり何の情報も与えないので、数学者は局所的に研究しなければならない。この目的のために異常過ぎる道具がある。すなわち、層理論である。層理論はJean Lerayが1941年から1945年まで独逸で捕虜だった間に発明した3。Lerayのテクスッはいくぶん不可解だったが、後にHenri CartanとJean-Pierre Serreによって明確化され、Roger Godementの有名な本Théorie des Faisceaux(層の理論)4となった。岡潔の独創的研究の後に、CartanとSerreは次元1以上の正則函数に関する各々の研究の中で層理論を使って、Cartanの定理AとB、Serreの画期的な論文“Faisceaux algébriques cohérents”(代数的連接層)5のもととなった。

1955年頃グロタンディークが代数幾何学に接近し、Tōhoku Mathematical Journalに発表された基本的論文6で確かな基礎を与えたのは、こういう状況の中である。この論文において、暗黙的にカァティグリ理論の主要な難儀、すなわち宇宙の問題に既に出会っている。この問題は後にSGA4の中でグロタンディークにより解決された。これは、別のアレクサンドルのGordian結び目切断の方法の中でなされた7。グロタンディークはすべての集合は宇宙に属するという公理を提起する。この宇宙の問題、達成不能濃度としても知られているが、その外側にカァティグリ理論は展開出来ず、おそらくブルバキがカァティグリについて降参し、その時にグロタンディークがブルバキを去った理由だろう[訳注: Schapira博士はわざと惚けているのかどうか分かりませんが、それが理由ではありません。そんな大層御立派な理由ではなくて、実に子供じみた理由です。詳しいことはピエール・カルティエ博士の“グロタンディークに関する青春の思い出”を読んで下さい。他にもグロタンディーク氏の子供じみた行動はマイケル・アティーヤ卿の"私が知った時のグロタンディーク"で回想されています]。Ralf Krömerがこの問題について素晴らしい記事を書いている8

1940年代から1950年代の間、その重要性が直ぐには理解されなかった二つの概念的革新があった。すなわち、上で言及したように層理論とカァティグリ理論である。後者はSamuel EilenbergとSaunders Mac Laneのおかげである9。更にカァティグリ的観点は、Claude Lévi-Straussの構造主義者手法及びNoam Chomskyの言語学を抱擁した考え方の大きな運動の一部である。集合が或る構造を本来持つと考える代わりに、カァティグリ理論はオブジェクッ間で存在出来る関係に注目する。集合が要素の族であるように、カァティグリ𝐶は従ってオブジェクッの族であるが、二つのオブジェクッ𝘟と𝘠が与えられた時、𝘟から𝘠への射を表すHom𝐶(𝘟, 𝘠)と呼ばれる集合が先天的に存在し、勿論これらのディタはいくつかの自然な公理(射の合成、恒等射等)に従う。そして新しいステプはカァティグリ間の射を見ることになるが、それらはファンクタと呼ばれる。その次に或る主要な概念が登場する。例えば、随伴ファンクタ、最終または初期オブジェクッ、極限と余極限のような概念である。それらは数学中にある多くのアイディヤに正確な統一的意味を与える。

中心的役割を担うカァティグリの族がある。すなわち、これらは加法カァティグリであり、特にアーベゥカァティグリである。アーベゥカァティグリは環上のモデューォのカァティグリにもとづいて作られている。しかし、環上のモデューォが体上のヴェクタ空間に取って代わると、古典的テンサ積と内部Homファンクタがもはや存在しない。つまり、それらが完全列を完全列へ変換しない。部分空間が必ずしも補空間を許すとは限らないことになる。従って導来ファンクタを考える必要がある。次に私達はホゥモロヂ代数の領域に入ることになるが、線型代数の自然な一般化である。ここでは参考文献が初期ではCartanとEilenbergの本10(グロタンディークのTōhoku論文により退位させられる前)[訳注: 念のために言っておきますが、CartanとEilenbergの本は今でも有益です。ヴェィユ博士のFoundationsとグロタンディーク氏のEGAの関係に似ています。つまり、Foundationsを読まず、EGAだけを読んでも代数幾何学における古典的諸問題全体を把握し辛いことは事実です]だった。しかし、二つのファンクタの合成の導来ファンクタを計算することはLerayのスペクチュラム列を必要とし、しばしばもつれた計算となる。これが導来カァティグリがその力を見せる場所だ。すなわち、この言葉内では驚くべきことに万事が簡単になる。

6つのオペレィシュンとは何か? 通常の函数を用いて、私達は加法を除いて3つの自然なオペレィシュンを持っている。すなわち、積と、実多様体間の適用𝑓:𝘟→𝘠に関連付けされて(いくつかの技術的詳細を法とする)𝘟上の函数を𝘠上の函数へ送る積分、𝘠上の函数を𝘟上の函数へ送る𝑓による合成。層理論において、テンサ積\stackrel{L}{\otimes}は積の類似、固有順像𝑅𝑓!は積分の類似、逆像𝑓-1は𝑓による合成の類似である。しかし、テンサ積は右随伴Rhomを、ファンクタ𝑓-1は右随伴𝑅𝑓*を、ファンクタ𝑅𝑓!は右随伴𝑓!を持つ。

ファンクタ𝑓!は他の5つと違って導来のフレィムワークでのみ存在するが、étaleコゥホモロヂの文脈でグロタンディークにより発見され、続いてVerdierにより局所コンパァクッ空間に対して構築された。グロタンディークが見抜いたように、𝑓!はPoincaré双対の幅広い一般論を与え、このファンクタは今や極めて重大な役割を果たしている。だが、局所コンパァクッ空間はétale位相よりも頻繁に登場するので、双対に付随して残っている名前はVerdier単独ではないにしてもPoincaré–Verdierである。この帰属は大いに不公平であり、グロタンディークに多少なりとも悲痛な思いを残したが、間違いなくそうだった11

そんな抽象的なフレィムワークは明白な計算を省くと人は考えるかも知れないが、これは誤解だ。すなわち、簡単に言えば計算はもはや同じではない。順像ファンクタが積分に対して明白に計算されることを許さないなら、6つのオペレィシュンの形式論はそれにも拘わらず、コゥホモロヂ空間の次元の計算のように洗練された計算結果のもとになる。Riemann–Roch–Hirzebruch–Grothendieck定理が美しい例証である。

同じ趣旨で、グロタンディークの基本的発見の一つはカァティグリにおいて層理論を展開することであり、特にもはや何ら点を持たない空間においてだった。層が存在するために何が必要か? すなわち、開集合とそれらの包含関係のディタと被覆の概念だ。カァティグリのオブジェクッが開集合の役割を果たすことを妨げるものは無く、その時カァティグリはpre-siteと呼ばれ、siteを得るために被覆が何であるか公理的に定義しなければならない。つまり、グロタンディーク位相を持つカァティグリだ。通常の位相空間のこの自然な一般化は非常に豊穣であることを証明していて、解析学は実際それから閃きを得ることを見事にやったものだ。実多様体において、開集合の稜で何が起きているのか関心を持つなら余りにも多すぎる病的な開集合と多すぎる被覆がある。

そして次にtopos(学者達にとってはtopoiだが)理論にたどり着く。根底にあるアィディヤ(特別な条件ではIsrael Gelfandに立ち戻る)は空間(この場合はsiteであるが)がそのsiteにおける層のカァティグリから再構築出来ることだ。その時toposは層のカァティグリにカァティグリ的等価である。例えば集合のカァティグリは点に関連付けされたtoposに他ならない。しかし、たとえtopos理論が連続体仮説の独立性に関するPaul Cohenの結果の新しい証明に使用されて来てはいても、数学におけるtopos理論の適用はまだ確かではない。

グロタンディークの基本的アィディヤの選り抜きに関するこのプレズンティシュンは完全からは程遠く、書評者の特別な関心事を反映しているに過ぎない。R&S[訳注: Récoltes et Semaillesの略語]において、グロタンディークは彼の研究に関する12の主要アィディヤを一覧にしており、彼の学生達の一覧も与えている12

勿論、1955年頃から始まる函数解析における彼の最初の研究、scheme理論、motiveの直感にも言及すべきだ。scheme理論は代数幾何学を革新し、motiveは部分的に予想的理論であるが、後にPierre Deligne、Vladimir Voevodsky、Joseph Ayoubや多くの人達によって展開された。基本的テクスッ“À la poursuite des champs”[訳注: 野を追跡する]にも言及すべきである。その中でグロタンディークは∞-カァティグリとホゥモロヂ代数に対する基礎を置いている13。確かに三角カァティグリが途方も無く簡単で効率的な道具なら、例えば諸問題を糊付けする際に、三角カァティグリの使用を制限する欠点を持つ。この欠点は、或る射が同型まで一意であるが、この同型が一意ではない!という事実につながっている。∞-カァティグリの新しい理論(Jacob Lurie、Graeme Segal、Bertrand Töenや少数の他者の名前が付けられなければならない)は導来カァティグリの古典的理論に取って代わっている際中である。控えめに言っても、現時点では簡単に利用出来るものではないが。

人生

Pierre Cartierはグロタンディークについて注目すべき記事を書いており、それをここで言い換えることは無益だ14。またAllyn JacksonとWinfried Scharlauによる秀でた記事[訳注: Allyn Jackson女史の記事は前編だけですが“虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇”を、Winfried Scharlau博士の記事は“グロタンディークとは何者か?”を参照して下さい]のみならず、Leila Schnepsにより運営されているGrothendieck Circle website上にリンク全体がある15

それにも拘わらず、この議題について少数の言葉は助けになる。グロタンディークの父親Sascha Schapiroは鎮圧された1905年革命に参加した露西亜人無政府主義者だった。そして彼は1917年革命で釈放される前にCzar Nicholas IIの刑務所で10年間服役した。最初英雄として祝福されたにも拘わらず、Schapiroはすぐに人民の敵として宣告された。彼は後に西班牙市民戦争の期間に共和主義者達と共に戦い、仏蘭西で巡業写真屋になった。1939年にSchapiroは仏蘭西PyreneesにあるCamp Vernetに収監され、1942年に彼はVichy警察によりNazisへ身柄を渡され、Auschwitzの中へ消えて行った。

グロタンディークの母親Hankaは1920年代の期間に独逸で極左闘士であり、Adolf Hitlerが権力の座に就いた時に仏蘭西へ移民した16。彼女の息子は独逸の農園で隠れて生活した後の1938年(その時彼は10歳だった)まで彼女と合流しなかった。グロタンディークは戦争の一時期をLe Chambon-sur-Lignonにある有名なCollège Cévenolで過ごした。その学校はとても多くの猶太人子供達を救った。

グロタンディークの数学人生は1950年代の期間にNancyで始まった。NancyではJean DieudonnéとLaurent Schwartzが彼を保護した。函数解析での彼の最初の研究(それは未だに根本的なまま残っている)の後、彼は代数幾何学に転じ大きな成功を修めたが、その話は今や良く知られている。

グロタンディークは1959年にInstitut des Hautes Études Scientifiques (IHES)に任命された最初の二人の教授の一人だった。IHESで彼は殆どの結果を得、IHESの他の教授であるJean Dieudonnéの協力を得て有名なEGA (Éléments de géométrie algébrique)を刊行した。彼は代数幾何学に関するセミナを指揮し、彼の学生達の何人かと共著してSGA (Séminaire de Géométrie Algébrique du Bois Marie)として知られる5,000ペィヂより多い刊行物となった。1966年の国際数学者会議でグロタンディークはFields賞を授けられたが、それを受け取るためにモスコゥへの旅行はしなかった。彼は1988年に権威があり高額賞金のCrafoord賞を受賞したが、彼は受賞を拒否した。

IHESが軍部資金から利益を得たことを知ってグロタンディークはIHESを去り、最初はジャーノゥSurvivre、後にSurvivre et vivreを通して彼自身の環境保護運動を始めた。しかし、グロタンディークはIHESを去っただけではなく、数学の世界(特に彼の学生達)も去った。1983年に彼は数学に復帰したが、非常に異なるやり方で“Esquisse d’un programme”(プロゥグラァムの概略)、“À la poursuite des champs”(野を追跡する)17を発表した。Collège de Franceでの一年の後、彼はMontpellierの教授を任命され[訳注: 遅くともこの時点までにグロタンディーク氏は仏蘭西国籍を取得しています。仏蘭西の大学教授は国家公務員なので、無国籍では就任出来ません。つまり、穿った観方をすれば兵役義務が無くなる年齢になったとたんに国籍を取得したことになります。無国籍なら兵役義務が無いことをいいことに、反戦運動等を展開したのだから呆れます]、1988年の定年退職までそこで働いた。2014年86歳での死去まで、彼は田舎にほぼ完全引き籠りで最終年月を過ごした。

私達が見て来たように、グロタンディークは非常に多くの数学研究の著者である。だが、彼は重要な文学作品の著者でもある。中でもR&Sは、グロタンディークが1986年に最初に書いた以降にインターネッ上で広く拡散された後で、2022年01月にGallimard社から出版された。総計1,900ペィヂを超え、本は多くの議題を扱っている。すなわち、数学者の時の著者の旅行、彼の情熱、彼の幻想と幻滅、創造の過程やその他無数のトピクを扱っている。陰陽についての長い一節、女性特有及び男性特有の数学のやり方、母と父と子供、夢、等も含んでいる。テクスッの大部分は彼が1976年に体験したと言われる暴露話とそれに続く長い期間の瞑想に専念している。それは或る程度の被害妄想気味の一種の自己分析と言わねばならない。繰り返す議題は彼の元学生達に対する彼が感じた背信感覚であり、それは彼の研究が無視され忘れられていることに明らかに示されている。“葬儀”、“故人”、“霊柩車”、“大虐殺”、“墓堀り”、等の言葉が目次に登場した後で急に偏在するようになる。もっと一般的に言えば、本は数学コミュニティ全体の倫理の欠如を公然と批判している。

グロタンディークは読者にあたかも旧世代が非の打ち所がないかのように、数学は“以前はもっと良かった”、すなわち1960年より前は良かったと説明している!とんでもない。もっと言えば、1990年代以降に数学者達はずっと誠実になったと言える。この奇跡の原因はarXivという名前を持つ。他者のアィディヤを着服することは今はもっと困難になっている。勿論、或る程度はまだ可能ではあるけれども。数学の組織それ自体も大きく改善、または少なくとも大きく変化して来ている。1970年代まで仏蘭西の数学を支配した官吏システムは事実上消滅している。グロタンディークはそのシステムから何ら困難を経験しなかったし、誰それについても一言も言ってない。

グロタンディークはテクスッの至る所で非常に自己批判的であり、1960年代と1970年代の彼の最盛期に、傲慢だったかも知れない、または彼の周りの人達に対して軽蔑すら示したかも知れないと時々熟考している。これらの懸念事にも拘わらず、読者達の歓心を買うことに殆ど注意を払っていない。代わりに、彼は1,900ペィヂを超える本を提供しているが、一方では初期のIHES図書についての質問に答えて彼は“私達は本を読まない。それらを書く!”18と述べている。一連のNotesによって部分的にしか訂正されていない多くの矛盾をR&Sは含んでいる。Notesのいくつかは特別に重要であるにも拘わらず、この新しい版には含まれていない。これらの矛盾を解決することは間違い無くテクスッを完全に書き直さなければならなかったであろう。

グロタンディークは偽物の謙虚さの意識によって不活発にはならない:

私の心に浮かんだことは、歴史に詳しい友人達または同僚達からの言及で、手当たり次第ではなく広大な統一的展望(物理学と天文学でのNewtonやEinstein、生物学でのDarwinやPasteurの場合がそうだったように)の一部として、そのような多くの革新的アィディヤを寄与した数学者を(私を別にして)聞いた記憶が無いことである19

他でも彼は、“私の中で生まれた広大な統一的展望の召使いとして、私は数学史の起こりから今日までにおいて‘その種の一人’のようである”20と書いている。

書き方はインスピレィシュンにおいて不足は無いが、それでも一様ではなく、時には(わざと)打ち解けている。グロタンディークはle duc de Saint-Simonではない。

以下の分析は数学に関する内容と数学者達の言葉のみに焦点を当てることになる

テクスッで、グロタンディークは彼のアィディヤが元学生達により師匠への言及も無しに略奪されている、または彼等はそれらのアィディヤを消去して忘れてしまっていると事細かく文句を言っている。これらの主張は必ずしも確かな議論または詳細な参照によって支えられているわけではない。しかし、取り分け、発見が当たり前のことになり、その発見の著者が忘れられることは自然の摂理であり、根底にあるアィディヤが今から思えばしばしば明らかな時はなおさらそうである。

グロタンディークの非難は彼の弟子達すべて、特にDeligne(彼の名前はほぼいつも“私の友人”、仄めかしの“私の元友人”という語が先行している)とVerdierに向かっている。Deligneがmotiveについてのグロタンディークの原作者権に軽く関わっているに過ぎなかったこと、または既に言及したように“Verdier双対”が“グロタンディーク双対”と呼ばれてもおかしくないと想像することは全く可能である。しかし、そうではなく、schemes、motives、グロタンディーク位相、topoiを造ったのはグロタンディークであることは誰もが知っている。取り分け、彼が6オペレィシュンを通してファンクタ的観点と導来カァティグリを課したことは誰もが知っている。DeligneがAndré Weilの最終予想を解決したのはグロタンディークによって考案された大きな仕組みのおかげであると誰もが知っている[訳注: 念のために言っておきますが、グロタンディーク氏の造った大きな仕組みだけで解決出来るなら、とうの昔にグロタンディーク氏自身が解決出来たはずです。ドリーニュ博士が凄いのは、おそらくグロタンディーク氏が全く無知だった古典数論のRankin理論に着目して、これを主な道具として十分に使用したことがヴェイユ最終予想解決の主要因です。これは又聞きですが、ヴェイユ博士は仕組みの上に仕組みを拵えても真実にはたどり着かないと予見してたそうです。逆に言えば、グロタンディーク氏の数学的腕力があまり強くない(大きな仕組みばかり拵えるのは腕力に自信のないことの現れだそうです。対極的に、例えばジョン・コンウェイ博士や岡潔博士等は歴史上の数学者達の中でも屈指の数学的剛腕の持ち主の中に入るでしょう)ことが解決失敗の要因です。グロタンディーク氏はヴェイユ予想を含む標準予想と呼ばれるものを拵えましたが、結果的に問題解決の先送りだったと言われても致し方ありません。大きな仕組みさえ造れば必ず解決出来るとは限らないことを示唆しています。グロタンディーク氏が数学のみならず、すべてを投げ捨てて隠遁者になったのはヴェイユ最終予想を解決出来なかったからだと訳者は思います。何故なら、逆にもしも解決出来てたら、そういうことをしたかを考えれば答えは自ずから出るでしょう]。

1970年代以降の数学コミュニティにおける倫理の完全欠如に関する主張を支援して、グロタンディークの議論全体が片田舎の彼の家に数回訪問したたった一人の数学者の唯一の証言に基づいている。

民俗学において、研究対象の集団から言語を話す情報提供者に頼ることが一般的慣例である。問題は情報提供者が必ずしも信頼出来るすべてではないかも知れないことと、もっとはっきり言えば情報提供者は何事も言えることだ。情報提供者が告げようとする話に影響を受ける重要人物は彼自らだと断言するから、ここで状況は更に悪くなる。すなわち、Riemann–Hilbert (R–H)対応のことだ。

Riemann–Hilbert対応

情報提供者はグロタンディークを情報提供者が或る意味でグロタンディークの霊的息子(“私の研究の後継者”21)であると納得させることが出来た。更に、情報提供者は少しの助言も無く、彼の周辺からのあからさまな敵意ではないにしても無関心を物ともせずR–H対応を実証出来たと言ってグロタンディークを説得した22。加えて、この分野で初めて導来カァティグリの言葉を使って成し遂げたとも。この情報提供者と言えば、グロタンディークも“彼の1972年以降の先駆者的研究は完全な孤立の中でなされている”23と書いている。

このこと全てが甚だしく出鱈目だ

情報提供者は彼の学位論文を私の指導の許で行い、題目は私が彼に提供したものについてだった。情報提供者が初めての論文を準備し始めていた時の1975年に、彼は大いに柏原正樹による非公式談話から利益を得た。その初めての論文はこの決定的な談話に何の言及もしていない。彼はまた柏原の1970年の学位論文24の写し(日本語で書かれているが、翻訳者は事欠かない)及び彼の博士課程通してのChristian Houzelの度重なる助言から利益を得た。導来カァティグリについて言えば、それは1973年に発表された佐藤幹夫、河合隆裕、柏原による基本論文25の最初のペィヂに登場する。

R–H対応は1975年に柏原によって定式化された“カァティグリの等価性”であり、1980年に同じ著者によって実証された26

次いでながら、カァティグリの興味深い等価性が、先天的に無関係で異なる数学分野間の橋渡しすることに注記する価値がある。ここで言う先天的に無関係で異なる数学分野とは、解析学の偏微分方程式と代数的位相数学の構成可能層のことだ。もう一つの、もっと最近で非常に重要な等価性はMaxim Kontsevichの“鏡対称性”である。それは複素幾何学とシンプレクティク幾何学を繋いでいる。

従って、R–H対応の話における、元々のテクスッの1,900ペィヂの至る所に散らばって繰り返されているグロタンディークの被保護者の役割についての言明全体が嘘の証言に基づいている。しかしながら、私達の著者は驚くべきほどに世間知らずであり、話し相手が彼に告げるすべてを額面通りに受け止め、話し相手は200回より以上も引用されている。たとえ柏原と交流したことがなく、彼の研究を非常に断片的にしか知らなくても、グロタンディークは柏原に対して撲滅運動を続け、彼を“太平洋各地からの首謀者[元の仏語ではcaïd]”27呼ばわりまでしている。拡大解釈すれば、“太平洋各地からの首謀者達”という札付けされたのは佐藤学派全体なのだ28。網羅的(それは本全体を写すこと無しでは全く不可能だ)ではないが、Note 458から以下の引用を考えてみよ。それは思わず漏れた皮肉に満ちている: “佐藤学派は支配のために曖昧さでそれ自体を取り囲む手法を始めたと言われている”29

1981年、グロタンディークの怒りは彼が“le Colloque Pervers”(Perverseコロゥキュィャム)と呼んだイヴェンツで頂点に達した。その歴史的に重要なコンフレンスに彼の被保護者は招待されなかった。Alexander Beilinson、Joseph Bernstein、Deligne(Ofer Gabberは数えられていない。彼は良く分からない理由で名前が付加されることを拒否した)がPerverse層30を紹介したのはこの時だった。これらの層(厳密には層ではないが、層の複合体であり、従っておそらくはadjectiveである)のアィディヤはR–H対応から自然に生じる。それらの定義は既に柏原の1975年のテクスツで暗示的に登場している。グロタンディークは彼の被保護者がこのコロゥキュィャムでスターであるべきだった時に完全に無視されたと憤慨した。そのイヴェンツでR–H対応の原作者権に関する言及が何も無かったならば、それはおそらく数学コミュニティが原作者権を巡っての論争を知っていたし、誰も巻き込まれたくなかったからだろう。しかし、グロタンディークがR&Sに追記していることを読むと、このコロゥキュィャムで注目すべき欠席者は実は彼の情報提供者ではなく、柏原だった!言い換えると、元々のテクスツにおけるすべてのペィヂと憤怒のペィヂは完全に見当違いか、または正しい人々を擁護していないかのどちらかである。1980年代の期間の仏蘭西学派と特にブルバキによって、佐藤と彼の弟子である柏原が不当に無視されたか、または誤解すらされたかもしれないことは間違いないと私は思うが、それは別の話である31

Gallimardによって出版された版において、グロタンディークは用心深くR–H対応の原作者権に関する言明に立ち戻り、おそらく彼の情報提供者の役割と同等くらいに、柏原が果たしたであろう役割を認めている32。最終的に、第III部の終わりで彼は“私の最も心からの謝罪”を柏原に申し出ている33。しかし、1,500ペィヂ後であり、これらの自白のどれもグロタンディークが再び柏原を侮辱することへの妨げにはなっていない。

グロタンディークの追記からの抜粋

1986年、グロタンディークのテクスッのこの部分、つまり太平洋の他の側からの首謀者達、または彼が言ったようにcaïdsに関する部分を私は知り、01月16日付でそのことに関して彼に手紙を書いた。03月の終わり頃まで数ヶ月間、重要な文通が続いた。Christian Houzelの証言に支えられて、R–H対応に関する所見は完全に間違っているとグロタンディークに納得させたと私は信じている。

一連の追記において、約20ペィヂがR&Sの初期テクスッに加わり、そこからいくつかの抜粋が下で紹介されるが34、グロタンディークは早期に書いていたことについて完全に立ち戻った。1975年にR–H対応を最初に定式化したのは実は柏原であり、1980年に証明の最初の概略を与えたのも柏原だったことをグロタンディークは遂に断言した。判断の間違いを認めることはグロタンディークの名誉ではあるが、1,900ペィヂの至る所に拡散されていたのだから、容易に修正出来ない誤りだった。グロタンディークは追記と脚注を使うことで問題を克服することを選んだが、残念ながら、単調な謝罪35を別にして、これらの修正項のどれも出版された本には登場しない。

例えば、次の追記を考えてみよ。

1986年03月09日、グロタンディークは書く:

昨年10月からのRécoltes et semaillesの暫定的配布の後で、Récoltes et semaillesの中で提示されているイヴェンツの所見に明らかな間違いを指摘する連絡をPierre Schapira、それからChristian Houzelから受けた。彼等両者との文通(今年の01月から03月まで続いた)の間に状況はかなりはっきりした。“Zoghman Mebkhout所見”(内部的一貫性の欠陥は無い)には、真実、宣伝、純然たる間違いが解きほぐせないほど混在していることが私には今は見える。

1986年03月15日付でもグロタンディークは書く:

回顧すれば、この案件において柏原が咎められることはないと私は確信する。彼のプレズンティシュンにおいて、彼は命題と最初の定理の証明の概略を与えている。それは彼が実は早くも1975年に予想を立てた最初の人だった...更に、彼が早くも2ペィヂ目で“定理は異なる方法でMebkhoutによっても証明されていることに注意しよう”と述べていることは正しい。これは“金持ちへの貸し出し”ですらでもあった。何故なら、前月の1980年03月03日のCRAS[Comptes Rendus de l’Académie des Sciences]へのノゥツの中で、Mebkhoutは仮説的な形式で“...であると示したいと思う”と彼自身の考えを述べており、柏原のことへ少しも言及が無かったからだ...

結び

次に述べることすべてが、2022年01月のGallimardによるR&Sの出版へ導いた編集過程に関していくつかの疑問を引き起こす。序文(1986年01月の日付が入っている36)において、グロタンディークはÉpistémè選集の中に彼のテクスッが入ることに対してChristian BourgoisとStéphane Deligeorgesに感謝している。この日付とGallimardによる出版までの間に何があったのか? そして取り分け、グロタンディークの追記(1986年03月29日以前のものは含まれている)が最終刊行版に登場しない一方で、登場する簡単な謝罪が明らかにGallimard版が1986年01月の後で追加された他の要素を含んでいることを示しているのは何故なのか?37

このリヴューにおいて、私は本の数学的部分とR–H対応の歴史を議論している箇所に焦点を当てている。R–H対応の歴史は本の中で少しも逸話的成分ではない。実際、グロタンディークは絶えずそれに言及しており、何回も繰り返される中心議題である。残念ながら、そして非常に素直に認めているように、控えめに言ってもグロタンディークは客観性を欠いている情報提供者によって惑わされた。警戒心を解かせるような、且つ或る意味で賞賛に値する程の世間知らずだから、彼に供給されている情報が全くの嘘は勿論のこと、偏っている又は不完全であり得ることを想像しなかったと彼も認めている。1955年と1970年までの間、グロタンディークは純然たるアィディヤの世界の中に生きていた。想像が難しいくらいに彼は数学にどっぷり浸っていた。彼が生活圏から実世界(つまり、社会)に出て来た時、日常生活の厳しい衝撃、科学界における倫理の欠如と彼が思ったものによって彼が如何に押し潰されたと感じたか想像しか出来ない。だが、何故科学界が他の社会と異なわなければならないのか? 科学の厳しさはその実践者達に反映されたことがない(実例は無数にある)。

科学は人や個性を飲み込む偉大な存在である38

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