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虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇

親族の数学に多少の興味を持っている高校生からグロタンディーク氏(本来なら博士とお呼びすべきなのでしょうが、皆さんもご存知の通り氏は世間と没交渉ですし、博士と呼ばれるのは最も氏の忌嫌うことだと容易に想像されますので、氏のままにします)のまとまった伝記本が無いのかと聞かれ、ちょっと困ったなあと思いました。本がある無しで弱ったのではなく、グロタンディーク氏の人生を知ってショックを受けるかも知れぬと危惧したからです。勿論私くらいの年齢の大人になれば、天才は天才であって、凡才は凡才に過ぎぬと居直って平気なのですが、高校生くらいの年齢ではまだ自己が何たるか分かっていないので無限大の力を持っているかのように錯覚しがちです。今の日本で家が裕福でないと言っても、グロタンディーク氏ほど劣悪な環境で少年期を過ごすことは先ずないと思います。ですから、大人はどうでもいいですが、青少年はもっと勉強出来るはずなんです。グロタンディーク氏の少年期を考えれば、凡才なりに勉強しないと人として恥だと思ってほしいです。
さて、グロタンディーク氏のまとまった伝記本は私の知る限り皆無です。但し、一つだけ例外があり、後でまた触れます。本ではありませんが、まとまった伝記的記事で定評があるのがAllyn Jackson女史の"Comme Appelé du Néant—As If Summoned from the Void: The Life of Alexandre Grothendieck"(PDF)だと思います。この記事は2004年に発表されましたが、書かれた当時はまだグロタンディーク氏が御存命である可能性が高かったのですが、今は83歳ですから生きておられるかどうかわかりませんし、誰も知るすべを持っていません。なお、Allyn Jackson女史は現在"AMS Notices"の主任編集者です。編集者は裏方さんなので、プライベートなことを言いたくないのですが、数学科で勉強され、私の記憶に間違いが無ければ学位も持っているはずです。ですから、どこかの無責任な素人編集者ではありません。
ここで伝記本の件に戻ります。先に例外があると言いました。Jackson女史の記事の中でも言及されていますが、現在ミュンスター大学名誉教授のWinfried Scharlau博士が伝記本(独語)を書いていました。但し、その本は限定出版と言うのか注文出版と言うのかよく分かりませんが、限定されています。つまり、商業ベースに乗せていないのです。その理由は博士が明言されていないので分かりません。ただ、何となく分かるような気がします。伝記の主人公が世間と縁を切って姿をくらましているのに、赤の他人が土足で家に上がるようなもんです。しかも、グロタンディーク氏の心の傷になっているはずの少年期にも触れなければならないのです。だから商業ベースに乗せることに躊躇いがあったと思います。もう一つ理由があると思います。Scharlau博士はグロタンディーク氏と会ったことがありません(とは言っても、伝記を書き出す前から文通による交流がありました。当たり前ですが、全くの赤の他人が伝記を書けるはずもなく、もし書くのであれば、それこそ無責任の極みでしょう)。ですから、Michael Atiyah卿が言っている、グロタンディーク氏を個人的に知る数学者が学問的に等身大の伝記を書くことが望ましいという意見に反するのです。
しかしながら、Atiyah卿やジャン=ピエール・セール博士がグロタンディーク氏の伝記を書くなんて私は想像出来ませんし、お二人ともご高齢ですから先ずあり得ないでしょう。結論を言えば、この先伝記本が書かれることはないと思います。従って、伝記本は皆無です。但し、無責任素人が書く可能性はあります。
ともかくも、Jackson女史の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、この記事は前篇で続きがあります。後編の第2部は私が気の向いた時にでも(いつになるかわかりません)紹介するかも知れません。

[追記: 2013年8月19日]
後編に関しては私自身が興味を無くしたので、紹介しません。その代わりに、"グロタンディークとは何者か?"を新たに紹介しております。その前置きの中で、私が後編に興味を無くした理由も書いておきました。

[追記:2015年6月1日]
元高弟のリュック・イリュージー博士達による、もっと数学的に踏込んだ座談会の記事"グロタンディークとその学派の思い出"も、ご参考までに。

[追記:2019年03月19日]
このペィジは2011年09月24日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。

[追記: 2023年01月15日]
グロタンディーク氏のRécoltes et Semaillesを書評対象とするPierre Schapira博士によるリヴュー“切り詰めた草稿”もあります。

虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇
2004年10月 Allyn Jackson

そして、すべての科学は、力と支配の手段としてではなく、人類により時代を跨って追求されて来た知識内の冒険として考える時、紛れもなくこの調和であり、一つの時代から別の時代へと多少拡がり、多少豊富になる。あたかも虚空から呼出されたかのように順次出現するすべてのテーマの繊細な対位旋律によって、世代と世紀を越えて拡がる。 ―収穫と種蒔き、ページ20

アレクサンドル・グロタンディークは、数学的事項に非常に敏感で、それらの複雑でエレガントな構造に深い知覚を持つ数学者である。彼の経歴から2つの目立つ点は、彼がフランス高等科学研究所(IHÉS)の創始者メンバーであり、1966年にフィールズ賞を受賞した。これで20世紀数学の偉人の中に入ることは十分である。だが、そんな些細なことは彼の研究の本質を捉えられないし、本質はもっと遥かに基本的で慎ましいことに根を持っている。彼が長い追想録収穫と種蒔き(Récoltes et Semailles、R&S)で書いたように、"研究者の創意と想像の質を為すものは、物事の声に耳を傾ける注意力の質である"(強調はオリジナル P27)。今日、グロタンディーク自身の声は、彼の書くもので表現されているけれども、あたかも虚空を通して私達に届く。現在76歳の彼は何十年以上、フランスの南部の人里離れた小村に引き篭って暮らしている。
グロタンディークは数学風景を"宇宙的に全体的"(ミシガン大学のHyman Bassの言葉)な見地で変えた。この見地は徹底的なまでに数学に吸収されたので、その分野で必ずしもこのようではなかったことを理解するのは近頃の新参者にとって困難だ。グロタンディークは代数幾何学に深い足跡を残したが、オブジェクトそれ自体を理解するやり方で数学的オブジェクト間の関係の発見を重視した。問題を高度に一般的な状況で理解する、非常にパワフルで殆ど浮世離れた抽象化能力を彼は持っていて、精巧な正確性でこの能力を使った。実際、増大する一般性と抽象化への傾向は、20世紀の半ばからすべての分野で見られるのであるが、その決して小さくない部分はグロタンディークの影響のためでもある。同時に、それがための一般性(不毛な面白みのない数学になり得る)は、彼に全く魅力を感じさせなかったものだ。
第2次世界大戦中の彼の少年時代は相当な混沌とトラウマがあり、彼の教育的経歴はよくなかった。どのようにして彼が貧困な生い立ちから抜け出て、世界の指導的数学者の一人としての彼自身のための生活を築いたかは、激動のドラマの一つのストーリーだ。彼の偉大な業績が開花し、並外れた個性に大いに影響された数学的環境を突如去るのは1970年の彼の決定である。

初期時代
私達の高校数学教科書で私にとって不満だったことは、曲線の長さ、曲面の面積、立体の体積の概念の真剣な定義の欠如だった。機会があれば、私がこのギャップを埋めようと自分に誓った。 ―収穫と種蒔き、ページ3

プリンストン高等研究所のArmand Borel(2003年の8月に80歳で亡くなった)は、1949年11月にパリのブルバキセミナーで初めてグロタンディークに会ったことを憶えていた。講義の間の休憩中に、20代半ばのBorelはCharles Ehresmann(45歳のフランス数学の指導的人物だった)と話をしていた。Borelが回想したことには、一人の若い男がEhresmannに大股で近づき、何の前置きもなく、"貴方は位相群のエキスパートですか?"と詰問した。高慢と思われたくないので、Ehresmannは位相群について何かを知っていると答えた。その若い男は"だが、本当のエキスパートが必要なんだ!"と言い張った。これが、生意気、激情的で、全くの無礼ではないが社交上の細かい作法をほぼ持っていない21歳のアレクサンドル・グロタンディークだった。Borelはグロタンディークが尋ねた質問を憶えていた。つまり、すべての局所位相群は大域位相群の芽なのか? 結局、Borelが反例を知っていた。グロタンディークが既に非常に一般的な観点で考えていたことを示す質問だった。
1940年代末のパリでの時期は初めての数学的研究との接触だった。その時まで、彼の人生物語(少なくとも知られていること)は、その世界で群を抜いて高い人物になるという運命の糸口を殆ど含んでいない。グロタンディークの家族歴と初期時代の詳細の多くが大雑把、又は未知である。ミュンスター大学のWinfried Scharlauはグロタンディークの伝記を書いていて、彼の人生のこの部分について注意深く研究して来た。以下の伝記的スケッチの多くは、Scharlauへのインタビューと彼がグロタンディークについて集めている伝記的資料 [Scharlau] [訳注: Scharlau博士のサイトには以前まで執筆中の伝記(独語)を閲覧出来たはずなのですが、今はもう自費出版されて閲覧不可能なようです。但し、短い記事は数少ないですが、閲覧出来ます]から来ている。
名前がAlexander Shapiroだったかも知れない、グロタンディークの父親は1989年10月11日にウクライナのノボズイプコフでユダヤ人家族の中に生まれた。Shapiroはアナキストで、20世紀の初頭に帝政ロシアでのいろいろな蜂起に関係した。17歳の時に逮捕され、やっとのことで死刑宣告を逃れられたが、数回の逃亡と再逮捕の後、合計して約10年間刑務所で過ごした。グロタンディークの父は、別のもっと有名な活動家(いくつか同じ政治運動に参加した)で同名のAlexander Shapiroに時々混同される。この別のShapiroは、John Reedの本Ten Days that Shook the Worldに書かれていて、ニューヨークへ移住し1946年にそこで亡くなったが、その時までの4年間にグロタンディークの父は既に亡くなっていた。1970年代の一時期にグロタンディークと一緒に暮らし、彼との間に息子がいるJustine Bumbyによると、彼の父は、警察の逮捕を逃れようとする間に自殺行為をして片腕を無くした。グロタンディーク自身が2人のShapiroの混同に知らず知らず寄与したのかも知れなかった。例えば、フランス高等科学研究所のPierre Cartierは、[Cartier2] の中で、Reedの本の中の人物の一人が彼の父親だというグロタンディークの主張に言及した。
1921年Shapiroはロシアを離れ、以後の人生は無国籍だった。政治的過去を隠すために、Alexander Tanaroffという名前の身分証明を得て、以後この名前で暮らした。彼は、フランス、ドイツ、ベルギーでアナキストや別の革命グループと共に過ごした。1920年代の中頃、ベルリンの急進的サークルで、彼はグロタンディークの母、Johanna (Hanka) Grothendieckと出会った。彼女は1900年8月21日、ハンブルクのルーテル教徒のブルジョア家庭に生まれた。伝統的な躾に反逆して彼女は、当時前衛派文化と革命的社会運動の温床だったベルリンに惹かれた。彼女とShapiro共にライターになることを熱望した。彼は決して発表しなかったが、彼女はいくつか新聞記事を発表した。特に1920年と1922年に、Der Prangerという左派系週刊新聞に書き、ハンブルク社会の底辺で暮らす売春婦の理由を取り上げた。ずっと後の1940年代末に、彼女はEine Frauという自伝的小説を書いたが、発表されなかった。
Tanaroffの人生の大部分は街頭カメラマンだったが、彼のアナキスト主義に反していたであろう雇い主と従業員の関係を持たずに独立した生計を得る職業だった。彼とHankaはそれぞれ前に結婚して子供がおり、彼女は女の子、彼は男の子だった。アレクサンドル・グロタンディークは1928年3月28日にベルリンで、Hanka、Tanaroff、Hankaの最初の結婚で生まれた娘Maidi(アレクサンドルより4歳上)から成る家庭に生まれた。彼は家庭では、後には親しい友人からもShurikと呼ばれた。父親のニックネームはSaschaだった。彼は異母兄に会っていないけれども、グロタンディークは1980年代に書かれた原稿、A La Poursuite des Champs(野を追跡する)を彼に捧げた。
1933年ナチスが権力を持った時、Shapiroはベルリンを逃れパリに避難した。その年の12月、Hankaは夫に付いて行こうと決心し、ハンブルク近郊のブランケネーゼの里親家庭に息子を預けた。Maidiは障害を持っていなかった(R&S、ページ472–473)けれども、ベルリンにある障害児のための施設に残された。里親家庭はWilhelm Heydornによって率いられていたが、彼の注目すべき人生は伝記Nur Mensch Sein! [Heydorn] で概略が述べられている。その本は1934年からのアレクサンドル・グロタンディークの写真を含み、簡単に言及されている。Heydornはルーテル教徒で軍将校だったが、当時は教会を離れ、小学校教師とHeilpraktiker(近頃では大雑把に"代替医術の実践者"と訳していいかも知れない)として働いた。1930年、彼は"Menschheitspartei"(人類党)という理想的政党を創設したが、ナチスによって非合法化された。Heydornは彼自身4人の子供を持っていたが、彼と彼の妻Dagmarはキリスト教徒の義務という意識に沿って、第2次世界大戦前の荒れ狂った時期に家族と離別された複数の里子を泊めた。
グロタンディークは5歳と11歳の間の5年間、Heydorn家族と共に泊まり、学校へ通った。Dagmar Heydornの追想録は、自由で本当に正直だが抑制に欠ける幼いグロタンディークを回想した。Heydorn家といた間、母親から2,3通の手紙を受け取っただけで、父親からは何の言葉も無かった。Hankaはまだハンブルクに親戚がいたけれども、誰もいっさい彼女の息子を訪問しに来なかった。収穫と種蒔き(ページ473)で表明したように、グロタンディークにとって突然の両親との別離は非常なトラウマだった。Heydorn家と一緒の幼いグロタンディークはさほど幸福ではなかったのだろうとScharlauは推測した。アナキストのカップルによって率いられた自由な家庭で生活を始めたので、Heydorn一家の厳しい雰囲気は苛立ったであろう。彼は実際、Heydorn家の近くに住む他の家族と親しく、大人としての彼はそれらの家族に長年手紙を書き続けた。彼はHeydorn家にも手紙を書き、数回ハンブルクを訪問したが、1980年代中頃が最後だった。
戦争が差し迫った1939年まで、Heydorn家へ政治的圧力が増大し、もはや里子を泊めておけなかった。グロタンディークはユダヤ人に見えたから、特に難しいケースだった。彼の両親の正確な所在は分からないが、Dagmar Heydornはハンブルクのフランス領事館に手紙を書き、やっとのことでパリのShapiroとニームのHankaへメッセージを届けられた。いったん両親と連絡がついたら、11歳のグロタンディークはハンブルクからパリへの列車に乗せられた。彼は1939年の5月に両親と合流し、戦争前の短い時期を共に過ごした。
グロタンディークがハンブルクにいた間、彼の両親がしていたことは正確には分からないが、彼等は変わらず政治活動していた。彼等はスペイン内戦を闘うためスペインへ行き、フランコが勝利した時、フランスへ逃げる大勢の中に彼等はいた。政治的活動のため、Hankaと夫はフランス国内で危険外国人と見なされた。グロタンディークが彼等と合流した後のある時、Shapiroは(フランス収容所の内でも最悪な)捕虜収容所ル・ヴェルネに収監された。妻と息子を再び見たことは無いであろう。1942年8月、彼はフランス当局によってアウシュヴィッツへ国外追放され、そこで殺された。この時、Maidiに何があったか明らかでないが、彼女はアメリカ兵士と結婚し米国へ移住した。彼女は数年前に亡くなった。
Hankaと息子はマンドゥの近くのリュクロにある捕虜収容所に収監された。一般的な捕虜収容所としては、リュクロにあるものは良いものの一つで、グロタンディークはマンドゥのlycée(高校)へ行くことを許された。それでも、貧しく不安な生活だった。Hankaがナチスの敵対者であることを知らないフランス人から時々彼と母は避けられたと彼はBumbyに語った。一度、ヒトラー暗殺の意図を持って彼は収容所から逃げたが、すぐ捕まり戻された。"逃亡に成功していたなら簡単に命を落としていたでしょう"とBumbyは言及した。彼はいつも強くボクシングが上手だったが、彼は時々いじめの対象になっていたから、特技はこの時に役立った。
2年後、母と息子は引き離された。Hankaは別の捕虜収容所に送られ、息子は結局シャンボン=シュール=リニョンの町へとなった。プロテスタント牧師André Trocméは、シャンボンの高地リゾートの町を対ナチス抵抗の拠点及び戦争中ユダヤ人や危険にさらされている人を保護する避難所に変えた。[Hallie] そこで、グロタンディークはスイス組織に援助された児童ホームに入れられた。若い人に教育を与えるために設立されたセヴァンヌ学校に通いバカロレア資格を得た。シャンボン町民の英雄的奮闘は逃亡者を安全に保ったが、それでも生活は危なかった。収穫と種蒔きの中でグロタンディークは、数日間森の中に隠れるため彼と学生仲間を散り散りばらばらにさせたユダヤ人の定期的一斉検挙に言及した(ページ2)。
彼はマンドゥとシャンボンで受けた学校教育についても詳しく述べた。青春時代の困難と混乱にもかかわらず、彼が早い時期から内なる方針を持ったことは明らかだ。数学学級において、彼は教師に頼らず、何が重要で何が重要でないか、何が正しく何が間違っているか見分けた。彼は教科書の数学問題が、それらに意味を与えるものから切離されて、くどくどと表現されていることが分かった。"本に問題があったが、私の問題ではなかった"と彼は書いた。ある問題が彼を捉えた時、どれくらい時間を費やしたかに関係なく、我を忘れてそれに夢中になった。(ページ3)

モンペリエからパリへ、更にナンシーへ
Soula氏[私の微積分教師]は私に、数学で提出された決定的な問題はルベーグという人によって20年か30年くらい前に確か解決されたと言った。ルベーグはまさしく(ああ、何という偶然だ!)測度と積分の理論を展開し、それは数学の終点だった。 ―収穫と種蒔き、ページ4

1945年の5月に欧州で戦争が終わった時までに、アレクサンドル・グロタンディークは17歳になった。彼と彼の母は、モンペリエ郊外のワイン生産地にある村、マザルグへ生活のため向かった。彼はモンペリエ大学に入学し、二人は彼の学生奨学金とぶどう収穫の季節労働によって生き延びた。母も家庭清掃で働いた。教師が教科書にあることを殆ど繰り返しているのが分かったので、やがて彼は大学のコースにますます出席しなくなった。当時、モンペリエは"数学を教えることに関して、フランスの大学の中で最も遅れたうちにいた"とジャン・デュドネは書いた。[D1]
この面白くない環境の中で、グロタンディークはモンペリエでの3年間の殆どを、長さ、面積、体積の満足する定義を与える方法について彼が感じた高校教科書のギャップを埋めることに費やした。彼は独力で、測度論とルベーグ積分の概念を実質的に再発見した。このエピソードは、グロタンディークの人生とアルベルト・アインシュタインの人生の複数の類似点のうちの一つである。若き頃のアインシュタインは統計物理で彼自身のアイデア(Josiah Willard Gibbsが既に発見していたことを彼は後に知った)について展開した。
1948年モンペリエで学士を終えたグロタンディークは、フランスの数学の中心であるパリに行った。1995年のフランスの雑誌に発表されたグロタンディークに関する記事 [Ikonicoff] で、フランス教育当局者André Magnierはグロタンディークのパリ行きのための奨学金申請を回想した。Magnierは彼にモンペリエでやっていた計画の説明を訊いた。"私はびっくり仰天した。20分の面接の代わりに、彼はどのようにして、構築に数十年かかる理論を'可能なツール'を使って再構築したかを私に2時間も説明し続けた。彼は異常な賢明さを示した"と記事はMagnierの言うことを引用した。Magnierは"グロタンディークは並外れた若人という印象を与えたが、苦難と貧困によりバランスを欠いていた"とも付け加えた。Magnierはすぐに奨学金にグロタンディークを推薦した。
モンペリエでのグロタンディークの微積分教師Monsieur Soulaは彼にパリに行くことを勧め、カルタンに連絡を取った。カルタンはSoulaの先生だった。カルタンという名前が当時80歳に近いエリ・カルタンを指すのか、当時40歳台半ばの息子のアンリ・カルタンを指すのか、グロタンディークは分からなかった(R&S、ページ19)。1948年の秋パリに到着した時、モンペリエで彼がやった研究を数学者達に見せた。Soulaが言った通り、結果は既に知られていた。しかし、グロタンディークは失望しなかった。実のところ、この初期の孤立した成果は数学者としての彼の成長にとって決定的だった。収穫と種蒔きで、彼はこの時のことに言及した。"それを知らないで、私は孤立して数学者の専門にとって本質的なこと―どんな達人も教えられないものを学んだ。言われたことがなくても、'心底から'私は数学者、人がセックスを'する'と言うような最大限の言葉の意味で、数学を'する'人だと分かった"。(ページ5)
エコール・ノルマル・シュペリウールでアンリ・カルタンによって運営されている伝説的セミナーにグロタンディークは出席し始めた。このセミナーは、グロタンディークが彼のキャリアの中で後に断固として採用したパターンを守っていた。そのパターンでは、テーマは年間のコースを超えて講義で研究され、講義は系統立てて書き上げられ刊行される。1948年-1949年のカルタンセミナーのテーマは単体代数的トポロジーと層理論(当時はフランスのどこでも教えられていなかった最先端なトピックス。[D1])だった。実際に、これはジャン・ルレイによって層の概念が体系化されて日も浅かった。カルタンセミナーで、グロタンディークはクロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、ジャン・デュドネ、Roger Godement、ローラン・シュワルツ、アンドレ・ヴェイユを含む、その時代の傑出した数学者の多くに初めて出会った。この時のカルタンの学生の中にジャン=ピエール・セールがいた。カルタンセミナー出席に加えて、コレージュ・ド・フランスでルレイによって与えられた局所凸空間の当時新しい概念に関するコースに行った。
幾何学者エリ・カルタンの息子として、彼自身の正当性で傑出した数学者として、エコール・ノルマル・シュペリウールの教授として、アンリ・カルタンは多くの意味でパリ人数学的エリートの中心だった。また、彼は戦後ドイツ人同僚に手を差し伸べようとした数少ないフランス人数学者の一人だった。これは、彼が戦争のおぞましさを痛切に知っているにも拘わらずだった。彼の弟はレジスタンスに参加し、ドイツ人に捕らえられ打首にされた。カルタンと多くのトップ数学者(例えば、Ehresmann、ルレイ、シュヴァレー、デルサルト、デュドネ、ヴェイユ)はノルマル人(彼等はフランスの最も権威ある高等教育機関エコール・ノルマル・シュペリウールの卒業生を意味した)だったという共通の経歴を持っていた。
グロタンディークがカルタンセミナーに参加した時、彼はアウトサイダーだった。彼は戦後フランスに住むドイツ語スピーカーだったのみならず、彼の貧弱な教育的素養はグループのそれと際立って対照的であり、グループ内で彼はそのことに気付いた。それでも収穫と種蒔きの中で、グロタンディークは周囲の状況で彼が変わっているとは感じなかったと言い、"慈悲深い歓迎"を受けた思い出を詳述した。(ページ19-20) 彼の遠慮の無さは注目を引いた。カルタンの100歳祝福記事の中でJean Cerfは、この時前後のカルタンセミナーで"部屋の後ろからあたかも対等であるかのようにカルタンに話す無礼をした変わり者(グロタンディークだった)"を見た思い出を書いた。[Cerf] グロタンディークは遠慮なく質問したが、それでも、彼の周りの人が即座に把握し"揺りかごの時から知っていた"かのような事柄を学ぶのに苦労していることも彼は気付いたと書いた。(R&S、ページ6) これが1949年10月にカルタンとヴェイユのアドバイスで、彼がパリの高尚な雰囲気を離れスローペースのナンシーに向かった理由だったのかも知れない。また、デュドネが [D1] に書いたように、この時のグロタンディークは代数幾何学よりも位相ベクトル空間に興味を持っていて、ナンシーは彼にとって行くべき自然な所だった。

ナンシーでの見習い期間
私が1949年にナンシーで愛情を受けた時の始めの瞬間から、ローランとエレーヌ・シュワルツの家(そこでは、私は多少家族の一員だった)で、デュドネの家で、Godementの家(当時、私のたまり場にもなった)で...愛情は伝わった...。数学の世界での私の第一歩を囲い込み、そして私がいくらか忘れがちだった、この愛情深い温かさは数学者としての私の全人生に重要だった。―収穫と種蒔き、ページ42

1940年代の末、ナンシーはフランスの最も有力な数学的中心の一つだった。実際、架空のニコラ・ブルバキは"ナンカゴ大学"出身だと言われたが、"ナンカゴ大学"の名前は、ナンシーのブルバキメンバーとともにヴェイユのシカゴ時代を参照した。ナンシーの学部はデルサルト、Godement、デュドネ、シュワルツを擁した。ナンシーでのグロタンディークの学生仲間には、Jacques-Louis LionsとBernard Malgrange(グロタンディークと同時期にナンシーに来た23歳のブラジル人Paulo Ribenboimと同様にシュワルツの学生だった)がいた。
Ribenboim(現在、オンタリオのクイーンズ大学名誉教授)によれば、ナンシーでのペースはパリよりも慌ただしくなく、教授は学生のための時間をより多く持った。グロタンディークの予備知識の不足がカルタンの高度なセミナーについて行けなかったためナンシーに来たという印象を受けたとRibenboimは言った。だからと言って、グロタンディークが告白したのではない。"彼は分からないと認める男ではなかった!"とRibenboimは注意した。それにもかかわらず、グロタンディークの異常な才能は明らかで、Ribenboimは彼を理想として仰ぎ見たことを憶えていた。グロタンディークは極度に感情が激しかったのであろう、時々厚かましいやり方で自身の考えを述べた、とRibenboimは回想した。"彼は意地悪でなかったが、自身と他の誰にも厳しかった"。グロタンディークは殆ど本を持たなかった。読んで事柄を学ぶよりも、自力でそれらを再構築したものだった。そして懸命に研究した。Ribenboimはシュワルツが言ったことを回想した。"君はバランスのとれたいい若者だと思う。グロタンディークと友達になって、彼が研究ばかりしないようにすべきだ"。
デュドネとシュワルツは、位相ベクトル空間についてナンシーでセミナーを実施した。デュドネが [D1] で説明したように、この時までバナハ[訳注: Banachの日本語表記はバナッハが通例ですが、私が欧米人の発音を何回か聞いてもバナハとしか聞こえなかったので、以降バナハと表記します]空間とその双対は非常に理解されていたが、局所的凸空間は最近導入されたばかりで、その双対の一般論はまだ解決されていなかった。この分野で研究しているうちに、デュドネとシュワルツは一連の問題にぶつかり、グロタンディークに任せようと決心した。数ヶ月後、彼がそれらの問題の一つをすべて解決し関数解析の他の問題の研究に進んだ時、デュドネとシュワルツは吃驚した。"1953年、彼に博士号を与えるべき時だったが、彼の書いた6つの論文の中から選ぶ必要があった。そのどれもが素晴らしい博士論文のレベルだった"とデュドネは書いた。学位論文として選ばれた論文は"Produits tensoriels topologiques et espaces nucléaires"[訳注: "位相的テンソル積と核空間"]だったが、グロタンディークの全研究を特徴付けるだろう思考の一般性の最初の兆候を示す。シュワルツはグロタンディークの結果を1954年に発表されたパリセミナー"Les produits tensoriels d’après Grothendieck"[訳注: "グロタンディークによるテンソル積"]で普及させた。[Schwartz] その上、1955年にグロタンディークの学位論文は研究書としてAMSの研究論文集シリーズに出現した。それは1990年に7回増刷された。[Gthesis]
関数解析でのグロタンディークの研究は"全く並外れている"と、ロスアンゼルス・カリフォルニア大のEdward G. Effrosは評した。"彼は間違いなく、第2次世界大戦後に盛んになった代数的/カテゴリ的手法が関数解析の高度に解析的な分科で使用されるだろうと最初に認識した"。或る意味で、グロタンディークは時代の先にいた。バナハ空間論のメインストリームにグロタンディークの研究が十分に取り入れられるまでに少なくとも15年要した(代数的な観点を採用することに少し躊躇いがあったため)とEffrosは注意した。グロタンディークの研究の影響は近年、バナハ空間論の"量子化"(グロタンディークのカテゴリ的アプローチは特に適している)で大きくなっているとEffrosは言った。
グロタンディークの数学研究は前途有望に始まったけれども、個人的生活は不安定だった。彼はナンシーで母親と暮らしたが、彼女は(Ribenboimの回想)結核のため時折ベッドに臥せた。彼女は捕虜収容所で病気にかかった。彼女が自伝的小説Eine Frauを書いていたのは、この時前後だった。グロタンディークと或る年配の婦人(グロタンディークと母親が部屋を借りていた下宿を営んでいた)の密通は彼の最初の子供、Sergeと命名された男の子の誕生という結果になった。Sergeは殆どグロタンディークの母親に育てられた。博士号を終えた後、グロタンディークの定職の見込みは破れた。彼は無国籍だったし、当時フランスで市民権を持たない人が定職を得ることは困難だった。フランス国民になることは、グロタンディークが拒否した軍役を伴っただろう。1950年からフランス国立科学研究センター(CNRS)によって、ある地位を持っていたが、これは定職よりも特別奨学金受領者にずっと似ている。ある時点で、金を得る一方法として彼は大工仕事を学ぼうと考えた(R&S、ページ1246(*))。
ローラン・シュワルツは1952年にブラジルを訪問し、フランス内で職を見つけることが困難な、前途有望な若い学生について語った。結果として、グロタンディークはサンパウロ大学の客員教授の申し出を受け、その地位を1953年と1954年の間保持した。José Barros-Neto(当時サンパウロ大学の学生で、現在ラトガース大学名誉教授)によれば、グロタンディークは特別な段取りを作って、秋に行われるセミナーに出席するためパリへ帰れるようにした。ブラジル人の数学コミュニティの第2言語はフランス語だったから、グロタンディークが教えたり、同僚と談話することは容易かった。サンパウロに行っている間に、グロタンディークはブラジルとフランス間の科学交流の伝統を受け継いだ。シュワルツの他にも、ヴェイユ、デュドネ、デルサルトはすべて1940年代と1950年代にブラジルを訪問した。ヴェイユは1945年の1月にサンパウロに来て、1947年の秋まで滞在したが、その時にシカゴ大学へ行った。フランスとブラジルの数学的結び付きは今日まで続いている。リオデジャネイロにあるInstituto de Matemática Pura e Aplicada(純粋応用数学研究所)は、多くのフランス人数学者をIMPAに連れてくるというブラジル-フランス協同協定を持っている。
収穫と種蒔きの中で、グロタンディークは1954年を"困難な年"("l’année pénible")(ページ163)と呼んだ。その年を通じて、彼は位相ベクトル空間における近似問題の前進に成功しなかった。その問題はおよそ20年後にグロタンディークが試みたものと異なる手法で解決されたばかりだった。これは"私の人生で数学をすることが重荷になった唯一の時だった!"と彼は書いた。この苛立ちは彼に教訓を与えた。すなわち、一つの問題が厄介と分かれば、取組むべきものが他にあるように数学的"火中の鉄"をいつも複数持て。
サンパウロ大学教授Chaim Honigは、グロタンディークがサンパウロにいた時に助手で、彼等はいい友達となった。グロタンディークはいくぶん質実剛健で孤独な生活をし、ミルクとバナナだけを食べて完全に数学に没頭したとChaim Honigは言った。Chaim Honigは一度グロタンディークに数学に行った理由を訊いた。数学とピアノに熱中したが、そのような生活を得やすいと思ったから数学を選んだとグロタンディークは答えた。彼の数学的才能は余りにも明らかなので、Honigは言った。"彼が数学と音楽の間で迷った瞬間があるなんて、私は吃驚した"。
グロタンディークはLeopoldo Nachbin(リオデジャネイロにいた)と位相ベクトル空間に関する本を書く計画をしたが、その本は実現しなかった。しかし、彼はサンパウロで位相ベクトル空間のコースを教え、ノートを書き上げた。ノートは順次大学によって刊行された。Barros-Netoはそのコースの学生で、ノートのために基礎的予備知識を与える入門章を書いた。Barros-Netoがブラジルにいた時、グロタンディークは分野を変えることを話していたと回想した。彼は"非常に、非常に野心的だった"とBarros-Netoは言った。"彼の根本的で、重要で、基礎的なことをしなければならない、というやる気を感じられたはずだ"。

期待の新星
本質的なことは、私には熱くも冷たくも感じられなかったそのページの表現の裏にセールはいつも豊富な意味を感じ取り、豊かな触知可能で不思議な実体の知覚を"伝える"ことが出来たということだ。この知覚は同時に実体を理解し見通したいという願望でもある。 ―収穫と種蒔き、ページ556

グルノーブル大学のBernard Malgrangeはグロタンディークが学位論文を書いた後、彼が位相ベクトル空間にはもう興味が無いと言ったことを回想した。"彼は私に、'もうやるべきことが無い、この分野は死んだ'と言った"。当時、学生は"第2学位論文"の提出を要求された。第2学位論文はオリジナルな研究を含まないが、学位論文のトピックとは遠くかけ離れた数学分野の深い理解を示すためのものだった。グロタンディークの第2学位論文は層理論に関するもので、この仕事は彼の代数幾何学(この分野で彼は最大の研究を行うことになった)への関心のきっかけだったかも知れない。パリで行われたグロタンディークの学位試問の後、Malgrange、グロタンディーク、アンリ・カルタンはタクシーに乗り込み、ローラン・シュワルツの家で昼食に行ったとMalgrangeは回想した。Malgrangeがスキーで足を怪我をしていたので、彼等はタクシーを使った。"タクシーの中で、カルタンはグロタンディークに彼が層理論について言ったことの間違いを説明した"。
ブラジルを去った後、グロタンディークは1955年の1年をカンザス大学(おそらくN. Aronszajnの招待だろう。[Corr])で過ごした。そこで、グロタンディークはホモロジー代数に没頭し始めた。彼が"Sur quelques points d’algèbre homologique"[訳注: "ホモロジー代数のいくつかのポイントについて"]を書いたのはカンザス大学滞在中だった。この論文は、それが掲載されたTôhoku Mathematical Journal [To]の名前を冠して専門家の間で非公式に"東北論文"として知られるようになったが、ホモロジー代数の古典となり、モジュールに関するカルタンとアイレンバーグの研究を拡張した。またカンザスにいる間、グロタンディークは"A general theory of fiber spaces with structure sheaf"[訳注: "構造的層を持つファイバー空間の一般論"]を書き、アメリカ国立科学財団のレポートとして出現した。このレポートは非アーベルコホモロジーに関する彼の第1着想を展開した。非アーベルコホモロジーには後に代数幾何学の状況で舞い戻った。
この時前後、グロタンディークはコレージュ・ド・フランスのジャン=ピエール・セール(グロタンディークは彼にパリで会ったし、後にはナンシーでも出会った)と文通を始めた。彼等の手紙のセレクションが元々の仏語で2001年、仏語-英語の二重バージョンが2003年に刊行された。[Corr] これは長く実りのある交流の始まりだった。手紙は、非常に異なる二人の数学者の間の深く活気に満ちた数学的絆を示す。グロタンディークは非常に飛んだイマジネーションを見せるが、セールの鋭い理解力と広い知識によってしばしば地上に戻されている。時々手紙の中でグロタンディークは驚くべきレベルの無知を示す。例えば、ある時点で、彼はセールにリーマンゼータ関数が無限個の零点を持つのか聞いている。([Corr]、ページ204) "彼の古典的代数幾何学の知識は実際にはゼロだった。私自身の古典的代数幾何学の知識は少しましだったが、大したことはなかった。しかし、それを用いて彼を助けようとした。だが...問題にならない質問が多過ぎた"とセールは回想した。グロタンディークは最新の文献についていく人ではなく、かなりな程度まで、何が行われているかを語るセールに依存した。収穫と種蒔きの中で、独学したことを除いて、幾何学で勉強したことの大部分はセールから学んだと書いた。(ページ555-556) だが、セールはグロタンディークに只単に教えたのではなかった。つまり、彼はアイデアを要約し、グロタンディークが反駁出来ないと分かる方法で要約を議論出来た。グロタンディークはセールを、アイデアの爆発のためヒューズに燃やさせるスパークを与える"起爆薬"と呼んだ。
実際、グロタンディークは彼の研究の中心テーマの多くを追跡してセールに行き着いた。例えば、1955年前後に、コホモロジー的状況でヴェイユ予想をグロタンディークに述べたのはセールだった。その状況は、ヴェイユ予想のオリジナルな説明では明確にされておらず、グロタンディークを罠にはめる可能性があった。(R&S、ページ840) ヴェイユ予想の"ケーラー的"類似のアイデアを通して、いわゆる"標準予想"というグロタンディークの概念もセールが呼び起こした。"標準予想"はより一般的で、系としてヴェイユ予想を暗に意味した。(R&S、ページ210)
カンザスの一年後の1956年、グロタンディークがフランスへ戻った時、CNRSの地位を持っており、大部分の時間をパリで過ごした。彼とセールは手紙と定期的に電話で交流を続けた。これは、グロタンディークがトポロジーと代数幾何学により深く研究し始めた時だった。彼は"アイデアで溢れていた"とArmand Borelは回想した。"第一級のものが彼から出て来るだろうと私は確信した。だが、出現したものは私が期待した以上にずっと高度だった。それはリーマン-ロッホのグロタンディーク版であったが、素晴らしい定理だった。これは実に数学の傑作だった"。
リーマン-ロッホ定理は古典的形式で19世紀の半ばに証明されていた。それが取り組んでいる問題は、多くても特定の有限点集合で与えられた位数の極を持つコンパクトリーマン面上の有理型関数空間の次元は何か、である。その答えがリーマン-ロッホ式だが、曲面の不変式の表現で次元を記述している。それによって、曲面の解析的及び位相的属性の間の深大な繋がりを与える。Friedrich Hirzebruchが1953年に大きく前進させた。その時、彼はリーマン面のみならず、複素数上の射影非特異多様体にも適用されるようにリーマン-ロッホ定理を一般化した。数学界はこの大作(その問題に関する究極の言葉だったかも知れない)に歓喜した。
"グロタンディークがやって来て言った。'いや、リーマン-ロッホ定理は多様体に関する定理ではなく、多様体間の準同型に関する定理だ'"とプリンストン大学のNicholas Katzは言った。"これは根本的に新しい見方...完全に変形された定理の表現だった"。カテゴリ理論の基本哲学(オブジェクトそのものよりもオブジェクト間の射にもっと注意を払うべき)は、その頃影響を持ち始めたばかりだった。"グロタンディークがやったことは、この哲学を数学の非常に難しい部分に応用したことだ。これは実際にはカテゴリとファンクタの精神であるが、そのような難しいトピックにこれをすることに誰も考えもしなかった...人々がその表現を与えられ理解したなら、証明出来たであろう他の人がいたかも知れない。だが、表現そのものが他の人の10年先にあった"とBorelは言った。
この定理は1959年にGerard Washnitzer [Washnitzer] によっても証明されたが、複素代数多様体(基礎体が標数ゼロの場合)のみならず、基礎体に関係なく任意の通常の滑らかな多様体にも適用される。その時Hirzebruch-リーマン-ロッホ定理は特別なケースとして成立する。リーマン-ロッホ定理の広範囲な一般化は1963年のAtiyah-Singer指標定理のMichael AtiyahとIsadore Singerの証明と一緒に来た。グロタンディークは証明の過程で、いわゆるグロタンディーク群(本質的に新しい種類の位相不変量)を導入した。グロタンディーク自身はそれをK-群と呼び、K-群はAtiyahとHirzebruchによる位相的K-理論の展開に立脚点を与えた。そして位相的K-理論は代数的K-理論にインスピレーションを与え、両方がこの時から活発な研究分野となっている。
Arbeitstagung(文字通りワークショップを意味する)はHirzebruchによってボン大学で始まり、40年以上の間最先端の数学研究のフォーラムになっている。グロタンディークがリーマン-ロッホに関する研究を話したのは、1957年7月の一番最初のArbeitstagungにおいてだった。だが、面白い紆余曲折があり、結果は彼の名前で発表されなかった。Borelとセールの論文 [BS] の中に出現した(証明も後に、1966-67年Séminaire de Géometrie Algébrique du Bois Marieの第6巻に説明として出現した)。1957年の秋のIAS訪問中に、セールは証明の概略を含む手紙(1957年11月1日 [Corr])をグロタンディークから受けた。セールとBorelはそれを理解しょうとセミナーを開いた。グロタンディークは他のことで忙しかったので、彼等がセミナーノートを書き上げ刊行すると同僚に言った。"グロタンディークの主要な哲学は、数学は小さく自然なステップの連続物に帰着すべきということだ。これが出来ない限り、何が進行しているのか分かっていない...そしてリーマン-ロッホの彼の証明は一つのトリック、une astuce[訳注: 因みに日本語ではヒントやチップという意味合いになります]を使った。彼はそれが嫌いだったので発表したくなかった...彼は他のすべきことを多く抱えていて、このトリックを書き上げることに関心はなかった"とBorelは言った。
グロタンディークが懸案に関する見方を革新したのは、これが最後ではなかった。"人々が考えた問題(いくつかの場合では百年も考えた)に彼が来ると、このことが何度も何度も起こり続けた...そして、その懸案にとって人々が重要だと考えたことを完璧に変えた"とKatzは注意した。グロタンディークは未解決の問題を解いていたのみならず、それらが持ち出した核心を見直していた。

新しい世界の幕開け
この"我々、偉大で高潔な精神よ..."というイデオロギーが子供時代から母の中に猛威をふるい、他者との関係を支配したと私は結局分かった。彼女は憐れみ(しばしば横柄で軽蔑的ですらある)を持った崇高さの高みから他者を見下したかった。 ―収穫と種蒔き、ページ30

Honigによれば、少なくともブラジルにいた時、グロタンディークの母は彼と一緒だった(Honigは彼女に会ったことはないと言うけれども)。彼女がカンザスで彼と一緒だったかどうかはっきりしない。グロタンディークが1956年にフランスへ戻った時、彼等は一緒に暮らしていなかったのかも知れない。1957年11月パリで書かれたセール宛の手紙で、グロタンディークはセールが立ち退く予定のパリのアパートを借りられるか聞いた。"母のため、そのアパートに関心がある。彼女はボワ=コロンブでは上手くなく、非常に孤独だ"とグロタンディークは説明した。[Corr] 実のところ、彼の母はその年の末より前に亡くなった。
友人と同僚は、グロタンディークが両親のことを非常な尊敬と殆ど賞賛を持って話した、と言う。そして、収穫と種蒔きに、グロタンディークは両親に深い根源的な愛情を述べていた。長年、彼はル・ヴェルネ収容所の拘留者仲間によって描かれた父親の目立つ肖像画をオフィスに飾っていた。Pierre Cartierが書いたように、その肖像画は丸坊主で目に"火のような調子"を宿す男を見せた。[Cartier1] グロタンディークも長年丸坊主だった。Ribenboimによれば、Hanka Grothendieckは輝ける息子を大変誇りに思い、同様に息子も母に非常に深い愛情を持っていた。
彼女の死後、グロタンディークは内省の時期を通り抜けたが、その間に彼はすべての数学活動を止めてライターになることを考えた。数ヶ月後、彼は数学に戻り、彼が展開し始めたいくつかのアイデアに関する研究を終わらせることを決心した。これが1958年で、グロタンディークが言ったように、その年は"私の数学人生の中で最も多産"だった。(R&S, ページ24) この時までに、彼はMireilleという名前の女性と一緒に生活をしており、数年後に結婚し、彼女との間に3人の子供Johanna、Mathieu、Alexandreを持つことになった。Mireilleはグロタンディークの母と親しく、彼等を知っている複数の人によれば、彼よりもかなり年上だった。オースティンのテキサス大学のJohn Tateと当時の彼の妻Karin Tateは1957–58年の学年度をパリで過ごし、グロタンディークに初めて会った。グロタンディークが母に原因があると考えた傲慢さを少しも見せなかった。"彼は非常に友好的で、同時に世間知らずで純真だった。多くの数学者は純真、ある意味で俗離れしているが、グロタンディークは最たるものだ。彼は天真爛漫のように見えた―全く洗練されていない、気取りがない、見せかけがない。彼は非常に明確に考えて、何ら偉そうな素振りもなく、辛抱強く事柄を説明した。彼は文化又は権力又は競争原理に毒されていなかった"とJohn Tateは回想した。Karin Tateはグロタンディークが楽しみを受容する十分な能力があり、魅力的で、笑うのが好きだったと回想した。しかし、彼は極端に生真面目で、物事をグレーがなくて白黒に考えた。そして彼は正直だった。"皆が彼を支持した。彼は何も偽らなかった。直接的だった"と彼女は言った。彼女と彼女の弟、マサチューセッツ工科大学のMichael Artinの両者は、グロタンディークの個性と姉弟の父親、Emil Artinの個性が似ていると思った。
グロタンディークは"信じられなくらいの理想家肌"とKarin Tateは回想した。例えば、絨毯は全く装飾贅沢品だと彼は考えていたので、家に絨毯を敷かなかった。また彼女は彼がタイヤから作られたサンダルを履いていたことを回想した。"彼はこれらを素晴らしいと考えた。それらは彼が大事にしていた物の種類のシンボルだった。つまり、持っている物と我慢している物が必要、ということ"と彼女は言った。彼の理想主義には、彼が非常に実際面に疎い可能性もあった。1958年にグロタンディークとMireilleが初めてハーバードを訪問する前に、彼女のかなり貧弱な英語の知識を改善するために彼はお気に入りの小説の一つを与えた。その小説は白鯨だった。

新しい幾何学の誕生
30年間を振り返ると、1958年が2つの主要なツールの後に新しい幾何学のビジョンが実際に生まれた年であると今言える。2つの主要なツールとは、スキーム("代数多様体"の古い概念のメタ準同型を表現するもの)とトポス(空間の概念のメタ準同型を更に深大に表現するもの)だ。 ―収穫と種蒔き、ページ23

1958年8月、グロタンディークはエジンバラの国際数学者会議で本講演を行った。[Edin] そのトークは、注目すべき予見もあって、彼が次の12年間に研究する多くの主要テーマの概略を述べた。この時までに、彼がアンドレ・ヴェイユの有名な予想を証明しょうと目指していることは明らかだった。ヴェイユ予想は、代数多様体の離散的世界とトポロジーの連続的世界の壮大な統一性をほのめかしていた。
この時、代数幾何学は、多くの予備知識を要しない多くの未解決問題と共に、急激に進化していた。元々研究の主目標は複素数上の多様体だった。20世紀の初頭の間、この領域はGuido Castelnuovo、 Federigo Enriques、Francesco Severiなどのようなイタリア人数学者の専門だった。彼等は多くの独創的なアイデアを開発したけれども、彼等の結果のすべてが厳密に証明されたわけではなかった。1930年代と1940年代に、他の数学者、中でもB. L. van der Waerden、アンドレ・ヴェイユ、オスカー・ザリスキは、任意の体、特に標数p(数論で重要)の体上の多様体について研究したかった。だが、イタリア学派の代数幾何学の厳密性の不足のため、体について新しい基礎を構築する必要があった。これが、ヴェイユが1946年の彼の本Foundations of Algebraic Geometry [Weil1] の中でやったことだ。
ヴェイユ予想は彼の1949年の論文 [Weil2] で出現した。数論の問題に動機付けられてヴェイユは、特別な場合にEmil Artinによって導入された或るゼータ関数を研究した。リーマンゼータ関数のアナロジーで定義されたからゼータ関数と呼ばれている。標数pの有限体上で定義された代数多様体Vを与えられて、各有限拡大体に対する相当する数と同様に、Vの点の数(この体上で有理数)を数えられる。その時、これらの数は生成関数に含まれるが、生成関数はVのゼータ関数である。ヴェイユは曲線とアーベル多様体両方に対して、このゼータ関数に関する3つの事実を証明した。すなわち、有理型であり、関数方程式を満足し、その零点と極は或る特別な形を持つ。いったん変数変換されると、この形はまさしくリーマン仮説に相当する。更にヴェイユは、Vが標数ゼロの多様体Wの還元モジュロpから生じるなら、ゼータ関数が有理型関数として表現される時Wのベッチ数はVのゼータ関数から読める、と述べた。ヴェイユ予想は、射影非特異代数多様体に対してそんなゼータ関数を定義すれば、これら同じ事実が成り立つかを問うている。特に、ベッチ数のような位相的データがゼータ関数に出現するか? この代数幾何学とトポロジー間の連結の予想は、コホモロジー理論(当時、位相空間に対して開発されていた)のような新しいツールのいくつかが代数多様体での使用にも採用出来ることを仄めかす。古典的リーマン仮説との類似性のため、ヴェイユ予想の第3番目は時に"合同リーマン仮説"と呼ばれる。これは3つのうちで証明が最も難しいものとなった。
"ヴェイユ予想が作られるやいなや、それらは全く'ブラックボックス'のように信じられない声明だったためと、それらを解決するには相当に新しいツール(とにかくそれ自体でも相当な価値が無ければならない。相当な価値を持つことは全く正しかった)の開発が必要なことは明らかに思えたため、ヴェイユ予想がともかくも中心的役割を担っていることは明らかだった"とKatzは言った。
プリンストン高等研究所のピエール・ドリーニュは、グロタンディークを惹きつけたのは代数幾何学とトポロジー間の連結の予想だったと言った。グロタンディークは"このヴェイユの夢をパワフルな仕組みに変える"というアイデアを好んだとドリーニュは注記した。
ヴェイユ予想は有名だったから、もしくは他の人々がヴェイユ予想を難しいと考えたから、グロタンディークはヴェイユ予想に興味を持たなかった。実際、彼は難しい問題の挑戦にはやる気がなかった。彼に興味を持たせたものは、大きく隠れた構造を指しているかも知れない問題だった。"彼は、問題の自然な生息地となる家を見つけ造ることを目指していた。それが問題を解くことよりもずっと彼に興味を持たせた部分だった"とドリーニュは注意した。このアプローチは、その時代の別の偉大な数学者、John Nashのアプローチと対照的だ。全盛期に、Nashは同僚が最も重要でやりがいがあると考えた特定の問題を探し出した。[Nasar] "Nashはオリンピック選手のようだった。彼はいろいろな個人的挑戦に興味を持った"とミシガン大学のHyman Bassは言った。Nashがプロブレムソルバーの好例なら、グロタンディークは理論構築者の好例である。グロタンディークは"数学とは何であろうかと広範囲に渡るビジョンを持っていた"とBassは言った。
1958年の秋、グロタンディークはハーバード大学数学科へ初めて訪問した。Tateがそこで教授で、主任教授はオスカー・ザリスキだった。この時までに、1940年代に証明されたザリスキの大きな結果の一つである連結定理をグロタンディークは最近開発されたコホモロジー理論によって再証明していた。ブラウン大学のデヴィッド・マンフォード(彼は当時ザリスキの学生だった)によれば、ザリスキは自分では新しい手法を取上げなかったが、それらのパワーを理解し彼の学生に慣れて欲しいと思った。これがグロタンディークをハーバードに招待した理由だった。
数学者としてザリスキとグロタンディークは非常に異なっていたけれども、彼等は非常に仲がよかったとマンフォードは注記した。ザリスキは行き詰まった時、黒板に行き交わる曲線をよく書いたものだと言われた。それはいろいろなアイデアの理解を新鮮にしたのであろう。"噂は彼が黒板の隅にこれを書き、そして消してから代数をやったということだ。幾何学的な絵を描き幾何から代数への連結を頭の中で復元することにより頭をクリアにしなければならなかった"とマンフォードは説明した。マンフォードによれば、これはグロタンディークは決してしなかったであろうことだ。極端に簡単で殆ど自明なものを除いて、彼は実例から研究をしなかったようだ。ホモロジーのダイアグラムを別にして、彼は殆ど絵も書かなかった。
グロタンディークが初めてハーバードに招待された時、訪問より前に彼はザリスキと文通していたとマンフォードは回想した。下院反米活動委員会の時代からまだ日も浅く、ビザを得るための必須事項は米国政府打倒に働かないという宣誓だった。グロタンディークはザリスキにそのような誓約を拒否すると言った。拘置所に入るかも知れないと言われた時、グロタンディークは学生が訪問出来る限り、そして彼が望むだけの多くの本を持てるなら、拘置所も結構だと言った。
グロタンディークのハーバードでの講義で、マンフォードは息を飲むほどの飛躍を抽象の中に見た。一度彼はグロタンディークに或る補題を証明する方法を尋ね、非常に抽象的な議論で答えを得た。そんな抽象的議論が非常に具体的な補題を証明出来るとマンフォードは最初信じなかった。"それから私は別れて数日間考えた。そして、まさに正解だと分かった。彼は私が会ったことのある他の誰よりも、この絶対にぎょっとさせる飛躍をものの中に非常な規模の抽象化で構成する能力を持っていた...彼はいつも問題を体系付け、すべてのものを剥ぎとり、そのため何かが残っていると人が思わないような方法を求めていた。それでも何かが残っていて、彼はこのうわべの真空の中に実際の構造を見つけられた"。

英雄的時代
IHÉSの英雄的時代の間、デュドネと私のみがメンバーで、IHÉSに威信と科学的世界の観客を与えている唯一のメンバーだった...デュドネと共に私が研究所(私は一研究員だったが)の"科学的"共同創始者のようにちょっと感じた。私は自分の寿命をそこで終えると予想した! 私は結局IHÉSを自分と重ね合わせるようになった。 ―収穫と種蒔き、ページ169

1958年6月、フランス高等科学研究所(IHÉS)がパリのソルボンヌでのスポンサー会議で正式に決定された。創設者Léon Motchane(物理学の学位を持つ起業家)はプリンストン高等研究所と類似な独立した研究所をフランスに造るというビジョンを持っていた。IHÉSの元々の計画は3つの分野での基礎的研究に的を絞ることだった。すなわち、数学、理論物理学、人間科学論。3番目の分野が足掛かりを掴めなかったが、10年のうちにIHÉSは数学と理論物理学で少ないが一流の研究員と活発な交流プログラムを持つ、世界一流の中心の一つとなった。
科学史のDavid Aubinの学位論文 [Aubin] によれば、Motchaneがデュドネとグロタンディークを新しく設立されるIHÉSの教授職を受けるよう説得したのは、1958年のエジンバラ会議でか、又はおそらくそれ以前だった。Cartierは[Cartier2]の中で、Motchaneは元々デュドネを雇いたかったが、デュドネはグロタンディークにも申し入れすることが職を引き受ける条件にしたと書いた。IHÉSは最初から国とは無関係だから、無国籍なのにもかかわらずグロタンディークを雇うことに問題は無かった。2人の教授は正式に1959年3月に就任し、その年の5月にグロタンディークは代数幾何学のセミナーを始めた。1958年の会議でフィールズ賞を受賞したルネ・トムが1963年の10月に研究員に加わり、IHÉSの理論物理学部門は1962年にLouis Michel、1964年にDavid Ruelleの任命で始まった。
1962年まで、IHÉSは恒久的な場所を持たなかった。事務室はティエール財団から借り、セミナーはそこでやるか、又はパリ内の大学で行われた。IHÉSの初期ビジターArthur Wightmanは彼のホテルの部屋で研究することとされたとAubinは書いた。ビジターが不十分な図書を指摘すると、グロタンディークは"我々は本を読まない。それらを書くのだ!"と答えたと言われた。実際、初期時代において研究所の活動の大部分が"Publications mathématiques de l’IHÉS"に集中した。"Publications mathématiques de l’IHÉS"は、基本的研究Éléments de Géométrie Algébrique(一般的に頭字語EGAで知られる)の初巻から始まった。実を言うと、デュドネとグロタンディークがIHÉSの職に就任するより半年前にEGAの執筆が始まった。[Corr]の中の参照は執筆開始を1958年の秋と指定している。
EGAの原作者は"ジャン・デュドネの協力があって"グロタンディークとされる。グロタンディークがノートと草稿を書き、それをデュドネが肉付けし洗練した。Armand Borelが説明したように、グロタンディークがEGAのグローバルビジョンを持つ人で、一方デュドネは一行毎に理解した。"デュドネはこれをかなり重いスタイルに書いた"とBorelは注意した。と同時に"デュドネは勿論非常に有能だった。他の誰も自身の研究を犠牲にしないで、それを出来なかったであろう"。その当時、その分野に入りたい一部の人にとってEGAから学ぶことは大変な挑戦であっただろう。現在では他に多くの、もっとアプローチしやすいテキストがあるので、EGAは滅多に入門として使用されることはない。だが、それらのテキストはEGAが目指していること、すなわちスキームを調べるために必要なツールを十分かつ組織的に説明することをしていない。Gerd Faltings(現在、ボンのマックス・プランク研究所の数学部門にいる)がプリンストン大学にいた時、博士課程の学生にEGAを読むように勧めた。そして、今日の多くの数学者にとってEGAは依然として有益であり総合的な参考書だ。現在のIHÉS所長Jean-Pierre Bourguignonは毎年EGAが100冊以上売れていると言う。
EGAは何をカバーするかグロタンディークの計画は広大だった。1959年8月からのセールへの手紙に彼は簡単な概略を与えたが、基本群、カテゴリ理論、剰余、双対、交叉、ヴェイユコホモロジー、"事情が許せば、少しのホモトピー"を含んだ。"予期しない困難がなければ、又は私が泥沼にはまらなければ、multiplodocusは3年、せいぜい4年で出来るはず"とグロタンディークは彼とセールのジョーク術語"multiplodocus"(非常に長い論文を意味する)を使い楽観的に書いた。"我々は代数幾何学を始められるだろう!"と彼は歓声を上げた。実のところ、指数的膨張の後にEGAは流れを枯渇した。1章と2章は其々1巻、3章は2巻、最後の4章は4巻を突破している。合計して、それらは1800ページからなる。グロタンディークの計画に達していないにもかかわらず、EGAは記念碑的作品である。
EGAのタイトルがニコラ・ブルバキによるÉléments de Mathématiqueを真似ているのは偶然ではなく、結局ユークリッドのElementsを真似ている。グロタンディークは1950年代末から数年間ブルバキのメンバーで、多くの他のメンバーと親しかった。ブルバキは数学の基礎的研究書のシリーズを協力して書く数学者(彼等の殆どはフランス人)の集団の筆名だった。
デュドネはアンリ・カルタン、クロード・シュヴァレー、ジャン・デルサルト、アンドレ・ヴェイユと共にブルバキグループの創設者だった。通常約10名のメンバーがいて、グループの構成は数年に渡って進化した。最初のブルバキ本は1939年に出現し、グループの影響力は1950年代と1960年代の間絶頂だった。本の目的は、大部分の数学者に本が有用である普遍性のレベルで数学の中心分野の公理的処方を与えることだった。本は、グループのメンバーで活発な、時には激越した議論のるつぼの中で生まれた。メンバーの多くが強い個性と高度に個人的見解を持っていた。25年間ブルバキのメンバーだったBorelは、この共同制作は"数学史の中で唯一の出来事"だったかも知れぬと書いた。[Borel] ブルバキはその時代の若干の一流数学者の努力を分かち合った。彼等は無私かつ匿名で、その分野の広大な部分を利用しやすくするであろう本の執筆に相当な時間とエネルギーを費やした。テキストは大きなインパクトを持ち、1970年代と1980年代までに、ブルバキの影響が大きすぎたと不満があった。また、何人かは行き過ぎた抽象化と普遍化を持つとして本のスタイルを批判した。
ブルバキの研究とグロタンディークの研究は、普遍性と抽象性のレベルで、また根本的、徹底的、系統的なことを狙っている意味でいくらかの類似性を帯びている。大きな違いは、ブルバキは数学分野の範囲をカバーしたが、グロタンディークはヴェイユ予想を第1目標として、代数幾何学の新しいアイデアの開発に焦点を合わせた。その上に、グロタンディークの研究は彼自身の内面的ビジョンに集中したが、ブルバキはメンバーの見解の総合を築いた共同成果だった。
Borelは [Borel] の中で、1957年3月のブルバキ会議を、層理論に関するブルバキ草稿をもっとカテゴリ的見方からやり直すべきだというグロタンディークの提案のため、"頑固なファンクタの会議"と名付けた。基礎構築の無限サイクルに陥ると思われたので、ブルバキはこのアイデアを却下した。グロタンディークは"彼の大きな装置を持っており、ブルバキは彼にとっての全体ではなかったので、実際にはブルバキに協力出来なかった"とセールは回想した。その上に、"彼はブルバキのシステムを余り好きではなかったと思う。ブルバキで、私達は実際に草稿を細かく議論し批判したものだった...それは彼の数学のやり方ではなかった。彼は自分でやりたかった"とセールは述べた。多くのメンバーと親しいままだったけれども、グロタンディークは1960年にブルバキを去った。
ヴェイユとの衝突のためにグロタンディークはブルバキを去ったという話が伝わっているが、実のところ二人はちょっとだけオーバーラップしたに過ぎなかった。50歳でメンバーは引退しなければならぬという勅令を守って、ヴェイユは1956年にグループを去った。それでも、グロタンディークとヴェイユは数学者として非常に違った。ドリーニュが言ったように、"ヴェイユは、グロタンディークがイタリア人幾何学者のやったこと、古典的文献全体が何であったか、余りにも知らなさすぎるとちょっと感じた。そして、ヴェイユは大きな装置を構築するスタイル好まなかった...彼等のスタイルは非常に違った"。
EGAを別にして、グロタンディークの代数幾何学における全作品の別の大きな部分はSGAとして知られる、Séminaire de Géométrie Algébrique du Bois Marieであり、それはIHÉSセミナーで行われた講義の筆記録を含む。それらは元々IHÉSにより配布された。SGA 2はNorth-HollandとMassonの共同で刊行され、残りの巻は Springer-Verlagによって刊行された。SGA 1は1960–1961年セミナーから始まり、シリーズ最後のSGA 7は1967–1969年から始まる。EGA(基礎を据える目的がある)と対照的に、SGAはグロタンディークのセミナーで展開した独自の研究を書いている。彼はパリのブルバキセミナーで多くの結果を発表したが、それらはFGA、Fondements de la Géométrie Algébriqueに集められ、1962年に出現した。EGA、SGA、FGA合わせて約7500ページにのぼる。

魔法の送風機
数学で他の何よりも私を魅了する(そして確かにいつも魅了して来た)一つのことがあるとすれば、それは"数"でも"数量"でもなく、いつも形式である。そして、形式自体が私達に見せる夥しい顔の中で、何よりも私を魅了し、魅了し続ける一つは数学的事柄に隠れている構造である。 ―収穫と種蒔き、ページ27

収穫と種蒔きの最初の巻で、グロタンディークは非数学者が近づきやすいように彼の研究の概要の解説を行っている。(ページ25-48) そこで、彼はこの研究は2つの世界の統一を求めているとせいぜい基本的なレベルで書いている。すなわち、"算術的な世界、そこには連続の概念を持たない(いわゆる)'空間'が住み、そして連続的数量の世界、そこには言葉の真の意味での'空間'が住み、解析学者には近づきやすい"。ヴェイユ予想の解決が非常に待ち望まれていた理由はまさしく、この統一の手がかりを与えていたからである。ヴェイユ予想を直接に解こうとするよりも、グロタンディークはそれらの完全な観点を一般化した。そうすることは、予想が住んでいる大きな構造を彼に理解させ、その大きな構造の束の間の一瞬のみを与えた。収穫と種蒔きのこの節で、グロタンディークはスキームトポスを含む彼の研究の主要アイデアのいくつかを説明した。
基本的に、スキームは代数多様体の概念の一般化である。素数標数の有限体の配列を与えられて、スキームは順次、各自異なる幾何を持つ多様体の配列を造る。"異なる標数の異なる多様体の配列は一種の'多様体の無限送風機'(各標数に対して一つ)として視覚化出来る。'スキーム'はこの魔法の送風機であり、異なる非常に多くの'枝'のような、すべての可能な標数の'アバター'又は'化身'を連結する"とグロタンディークは書いた。スキームに対する一般化は、多様体の異なる"化身"のすべてを統一的な方法で研究することを可能にする。グロタンディーク以前は、"人はそれが出来ると信じなかったと思う。余りにも急進的だった。これがうまく行く、完全な一般性でうまく行く方法かも知れぬと考えることすら勇気が無かった"とMichael Artinはコメントした。
19世紀のイタリア人数学者Enrico Bettiの洞察に始まって、位相空間の研究ツールとして、ホモロジーとその双対であるコホモロジーが開発された。基本的にコホモロジー理論は不変式を与えたが、その不変式は空間をいろいろな様相に測るための"尺度"と見なされる。ヴェイユ予想に内在している考察に掻き立てられて、大いなる希望は、位相空間に対するコホモロジー的手法が多様体とスキームとの使用に採用出来る可能性だった。この希望はグロタンディークと協力者の研究によってかなりな程度にまで実現した。"これらのコホモロジー手法を代数幾何学に持ち込むのは昼と夜に似ていた。その分野を完全にひっくり返した。フーリエ解析前後の解析学に似ている。いったんフーリエ手法を得ると、関数を考察する方法に突如広く深い考察を持つ。コホモロジーと似ていた"とマンフォードは注記した。
層の概念はジャン・ルレイによって考案され、アンリ・カルタンとジャン=ピエール・セールによって更に発展された。FAC("Faisceaux algébriques cohérents"[訳注: "代数的連接層"])として知られる画期的な論文 [FAC] で、セールは代数幾何学で層がどのように用いられるか示した。層とは何か正確に言わないで、グロタンディークは収穫と種蒔きの中で、この概念がいかに風景を変えたか記述した。すなわち、層のアイデアがやって来た時、あたかも古き良きコホモロジー"尺度"が突然に新"尺度"の無限配列に増殖し、すべての数量と形式において、固有の測度作業に完全に適していた、かのようだった。更に、空間上のすべての層のカテゴリがとても多くの情報を伝播するので、その空間が何であるか実質的に"忘れ"られる。情報全体が層の中にある―グロタンディークが言うところの、発見への道に案内する"寡黙で確かなガイド"だった。
トポスの概念は"空間の概念のメタ準同型"だとグロタンディークは書いた。層の概念は、位相的背景(空間が住む)からカテゴリ的背景(層のカテゴリが住む)への変換の一つの方法を与える。その時トポスは、(通常の空間から生じる必要はない。それでも)層のカテゴリの"立派な"プロパティをすべて持つカテゴリとして記述出来る。トポスの概念は、"位相空間で重要なものは、'点'又は点の部分集合とそれらの近接関係などでは全然なく、むしろ空間に関するとそれらが形作るカテゴリである"という事実を際立たせるとグロタンディークは書いた。
トポスのアイデアを考えつくために、グロタンディークは"空間の概念について非常に深く考えた"とドリーニュはコメントした。"ヴェイユ予想を理解するために彼が造った理論は、最初に(空間の概念の一般化である)トポスの概念を造り、次に問題に採用されるトポスを定義することだった"と説明した。グロタンディークも"人は実際にトポスと一緒に働ける。つまり、私達が通常の空間について持つ直感はトポスにおいても働く...これは実に深いアイデアだった"と明かした。
収穫と種蒔きの中で、グロタンディークは、技術的な観点から彼の数学における研究の大部分は不足しているコホモロジーを開発することにあったとコメントした。エタール・コホモロジーがそのような理論の一つで、特にヴェイユ予想に適用するためにグロタンディーク、Michael Artin、その他の人によって開発された。実際、彼等の証明の中で重要な構成要素の一つだった。グロタンディークは更に進めモゥティブの概念を開発したが、これを"究極のメタコホモロジー的不変式"と表現し、モゥティブ以外のすべてがモゥティブの異なる実現又は化身である。モゥティブはまだ理解を超えたままであるが、その概念は多くの数学を生成した。例えば1970年代に、ドリーニュとIASのRobert Langlandsはモゥティブと保型表現の間の正確な関係を予想した。この予想は、今はいわゆるLanglandsプログラムの一部だが、[Langlands] の中で出現した。トロント大学のJames Arthurはこの予想を一般的に証明することは何十年先だと言った。しかし、彼は、フェルマーの最終定理の証明でAndrew Wilesがしたことは本質的に楕円曲線から来る2次元モゥティブの場合にこの予想を証明することだったと指摘した。別の例はモゥティブ的コホモロジーに関するVladimir Voevodskyの研究で、それに対して2002年に彼はフィールズ賞を受賞した。この研究はいくつかのグロタンディークのモゥティブに関するオリジナルのアイデアに基盤を置いている。
この数学研究の回顧的要約を振り返って、グロタンディークは本質とパワーを構成するものは結果又は大定理ではなく、"アイデア、いや夢想でさえも"と書いた。(ページ51)

グロタンディーク学派
1970年の最初の"目覚め"の瞬間まで、私の学生との関係は、私自身の研究に対する私の関係と同じく、満足と喜びの源であったし、私の人生での調和感の現実で非の打ち所が無い基盤の一つでもあり、引続き私の人生に意義を与えていた...。 ―収穫と種蒔き、ページ63

1961年秋のハーバード訪問の間に、グロタンディークはセールに"ハーバードでの数学的雰囲気は素晴らしく、パリに比べて実に新鮮だ。パリは毎年陰気になっている。ここでは、スキームの言葉に馴染み始め、興味ある問題について研究すること以外に何も要求しない多くの頭のいい学生がいて、彼等は明らかに無尽蔵だ"と書いた。[Corr] その時Michael Artinは1960年にザリスキの下で学位論文を終えた後に、ベンジャミン・パース インストラクタとしてハーバードにいた。学位論文の直後、Artinはスキームの新しい言葉の習得にとりかかり、エタール・コホモロジーのアイデアにも興味を持つようになった。グロタンディークが1961年ハーバードに来た時、"私はエタール・コホモロジーの定義を尋ねた"とArtinは笑いながら回想した。その定義はまだ構築されていなかった。"実際、私達は秋の間ずっと定義の議論をした"。
1962年マサチューセッツ工科大学へ移った後、Artinはエタール・コホモロジーについてセミナーをした。彼は次の2年間の大部分をIHÉSでグロタンディークとの研究に費やした。いったんエタール・コホモロジーの定義が得られると、理論を飼い慣らし、実際に役立つツールに変えるためにはすべき研究が多くあった。"その定義は素晴らしく思えたが、何かが有限、又は計算が可能なのかそうでないのかすら保証がなかった"とマンフォードはコメントした。これはArtinとグロタンディークが嵌った研究だった。一つの成果はArtinの表現可能性定理だった。Jean-Louis Verdierと共に、彼等はエタール・コホモロジーに的を絞った1963–64年セミナーを指揮した。そのセミナーはSGA 4の3巻の中に書き上げられ、合計ほぼ1600ページだった。
1960年代初期のパリっ子数学の現場についてグロタンディークの"陰気"評価に異論があるかも知れないが、彼が1961年にIHÉSへ戻りセミナーを再開した時に、いろいろな押し上げがあったことは間違いない。その雰囲気は"素晴らしかった"とArtinは回想した。そのセミナーは、他所から来ている数学者と同様にパリっ子数学の有力指導者に非常に人気があった。才気溢れ熱心な学生のグループはグロタンディークの周辺に集まり始め、彼の指導のもとで学位論文(IHÉSは学位を与えないので、公式的に彼等はパリ内外の大学の学生だった)を書き始めた。1962年までにIHÉSは、ビュール=シュリヴェットのパリ郊外にあるボアマリーと呼ばれる、落ち着いて木の多い公園の真ん中にある恒久的住居に移った。セミナーが開かれた望楼のような建物は大きな絵が書かれた窓、開放的で風通しの良い雰囲気を持ち、変わっていて劇的な背景を与えた。グロタンディークは活動のダイナミックな中心だった。"セミナーは非常にやり取りが活発だったが、グロタンディークは彼がスピーカーであろうがなかろうが君臨した"と、1960年代にIHÉSを訪問したHyman Bassは回想した。グロタンディークは非常に厳しく、人々には手ごわかったであろう。"彼は不親切ではなかったが、甘くもなかった"。
グロタンディークは学生と研究する或るパターンを開発した。典型的な実例は、1964年にグロタンディークの学生となった、パリシュッド大学のLuc Illusieだ。Illusieはパリでアンリ・カルタンとローラン・シュワルツのセミナーに参加し、Illusieはグロタンディークのもとで学位論文をした方がいいと勧めたのはカルタンだった。Illusieは、その時までトポロジーしか研究していなかったが、代数幾何学の"神"に会うことに不安だった。後で分かったことであるが、グロタンディークは非常に親切且つ友好的で、Illusieに何を研究して来たか尋ねた。Illusieが短く話した後、グロタンディークは黒板に行き、層、有限性条件、擬似コヒーレンスなどの議論を始めた。"海のようであり、黒板には数学の絶え間ない流れがあるかのようだった"とIllusieは回想した。それが終わってグロタンディークは、翌年のセミナーはL-関数とl-進コホモロジーにするが、Illusieはそのノート作成を手伝うべきだと言った。Illusieが代数幾何学について何も知らないと主張した時、グロタンディークは、それは問題ではない、"君はすぐに習得するだろう"と言った。
そしてIllusieはやった。"彼の講義は非常に明快で、必須事項、予備知識を思い出させるように多くの工夫をした"とIllusieは述べた。グロタンディークは秀でた教師であり、我慢強く、事を明快に説明することに熟練していた。"仕組みがどう動くかを示す非常に簡単な例を説明する時間を取った"とIllusieは言った。グロタンディークは、"自明"、従って余りにも明らかすぎて説明を要しないとよく誤魔化されて来た形式的属性を議論した。普通は"それを取上げないし、時間をかけない"とIllusieは言った。しかし、そういうことは教育学上非常に有益である。"時にはちょっとくどかったが、理解のためには非常によかった"。
グロタンディークはIllusieにセミナーの要約(SGA 5のexposés I, II, III)のためにノートを書き上げる任務を与えた。ノートを書き上げ、"それらを彼に渡す時、私は震えていた"とIllusieは回想した。数週間後、ノートを検討するために家に来ないかとグロタンディークはIllusieに言った。グロタンディークは同僚や学生とよく家で研究した。グロタンディークがノートを取出しテーブルに置いた時、Illusieはノートが鉛筆で書かれたコメントで真っ黒になっているのを見た。グロタンディークが各コメントを読み上げながら、二人は数時間座っていた。"彼はコンマ、ピリオドについて批判したであろう、アクセントについて批判したであろう、内容についても深く批判し、別の編成を提案したであろう、それがコメントの全種類だった。だが、彼のコメント全体が的を得ていた"とIllusieは言った。書かれたノートについて、この種の一行ごとの批判は学生と一緒に作業するグロタンディークの典型的方法だった。数人の学生がこの種の親密な批判に耐え切れず、他の人の下で学位論文を書くことになったとIllusieは回想した。一人はグロタンディークと会った後に殆ど泣かんばかりだった。"私が憶えている一部の人達はそれをあまり好まなかった。...だが、コメントはささいな批判ではなかった"とIllusieは言った。
Nicholas Katzも1968年にポストドクターとしてIHÉSを訪問した時、任務を与えられた。グロタンディークはKatzにレフシェッツペンシルに関してセミナーで講義出来るだろうと勧めた。"レフシェッツペンシルがあるのは知っていたが、それを除けば殆ど何も知らなかった。だが、年の終わりまでにセミナーで2,3のトークをした。それらは現在SGA 7の一部として存在する。そのことから私は非常に多くのことを学び、私の将来に大きな影響を与えた"とKatzは回想した。グロタンディークはたぶん一週間毎の一日をビジターに話すためにIHÉSへ来るのが常だったとKatzは言った。"本当に不思議だったことは、彼はその頃どういうわけか彼等を何かに興味を持たせ、彼等にすべきことを与えるのが常だった。だが、と同時に、そんな特別な人に考えさせる良い問題が何であるか、一種の不思議な洞察力だと私には思える。そして彼はとにかく数学的に信じられないほどカリスマ的だったから、未来へのグロタンディークの長期ビジョンの一部である何かをしないかと求められることに人々は特権だと感じたようだ"とKatzは説明した。
ハーバード大学のBarry Mazurは今でも、1960年代初期にIHÉSでの初めての会話中でグロタンディークが彼に提出した問題を憶えている。その問題はGerard Washnitzerが元々グロタンディークに尋ねたものだった。問題は、体上で定義された代数多様体が、体から複素数への2つの異なる埋込みによる2つの位相的に異なる多様体を与えられるか? セールが早くに2つの多様体が異なるだろうことを示している実例を与えた。Mazurはこの問題に刺激を受けたArtinと一緒にホモトピー理論の或る研究を続けた。だが、グロタンディークがこの問題を提出した時、Mazurは熱心な微分位相幾何学者だったし、そんな疑問は彼には思いもよらなかったであろう。"グロタンディークにとって、それは当然な疑問だった。だが私にとって、それは代数について考え始めさせる、まさに動機の類だった。グロタンディークは人々と未解決問題を組合せる才覚を持っていた。彼は人を見定め、人にとって世界の解明に繋がるかも知れぬ問題を提出したのだろう。それは、非常に素晴らしく稀な感知力からなる手段だ"とMazurは言った。
IHÉSでの学生や同僚との研究に加えて、グロタンディークはパリ外の大勢の数学者と文通を維持し、彼等の一部は他所で彼のプログラムの一部を研究していた。例えば、バークレー・カリフォルニア大学のRobin Hartshorneは1961年にハーバードにいて、グロタンディークのハーバードでの講義から彼の学位論文ためのトピックのアイデアを得たが、そのトピックはヒルベルトスキームについてであった。学位論文を書き上げてHartshorneはコピーをグロタンディーク(彼はその時までにパリに戻っていた)に送った。1962年9月17日付けの返信に、グロタンディークはその学位論文について簡単で肯定的な注意をした。"手紙の次の3ページ又は4ページは、私が展開出来るかもしれない更に進んだ定理やその分野で人が知りたい他の事柄に関する彼のアイデアがびっしり"とHartshorneは言った。その手紙が示した事柄の一部は"途方もなく難しい"とHartshorneは注記した。その他は注目すべき予見を示している。アイデアのほとばしりの後、グロタンディークは学位論文に戻り、詳細なコメントからなる3ページを費やした。
1958年エジンバラ会議での彼のトークの中で、双対性の理論に対する彼のアイデアの概要を述べたが、IHÉSセミナーでは他のトピックで忙しかったので、双対性の理論は取上げられなかった。そういうことで、Hartshorneは双対性に関するセミナーをハーバードで行い、ノートを書き上げることを申し出た。1963年の夏過ぎに、グロタンディークはHartshorneに約250ページの"プレノート"を供給した。その"プレノート"がセミナーの基礎となり、Hartshorneはセミナーを1963年の秋に始めた。聴衆からの質問はHartshorneが理論を展開し洗練するのに役立って、系統だった方法で理論を書き始めた。彼は各章を批評のためにグロタンディークに送るのが常だった。"いたるところ赤インクで覆われて戻って来るのが常だった。私は彼が言ったすべてを直し、新しいバージョンを彼に送ったものだ。そして、更に赤インクが増えて再度戻って来るのが常だった"とHartshorneは回想した。これは潜在的に終わりなきプロセスだと分かったので、Hartshorneは或る日原稿を刊行のために発送することにした。それは1966年にスプリンガー講義ノートシリーズに出現した。[Hartshorne]
グロタンディークは"とても多くのアイデアを持っていたので、その当時通しで彼は世界の真剣なすべての代数幾何学研究者を基本的に忙しくさせた"とHartshorneは述べた。どのように彼はそんなチャレンジ精神を保ったのか? "簡単な答えは無いと思う"とArtinは返答した。しかし、確かにグロタンディークのエネルギーと広さが要因だった。"彼は非常にダイナミックで、すべての領域をカバーした。注目すべきことの一つは、彼がその分野の完全なコントロールを握っていたこと。12年間前後の間、その分野には無精者は住まなかった"。
IHÉS時代の間がグロタンディークの数学専念のすべてだった。研究に対する彼の恐ろしいエネルギーとキャパシティは、彼の内なるビジョンへの執拗な忠誠と結合して、多くの人を流れの中へ押し流したアイデアの洪水を造った。彼は自分が立てた威圧感いっぱいのプログラムにひるまず、突入して大小の仕事を引受けた。"彼の数学予定はどんな人間が一人で出来るであろうものよりずっと多い"とBassはコメントした。彼は研究の大部分を彼の学生と同僚に分割し、一方でかなりなものを自分で引受けた。収穫と種蒔きで説明したように、彼にモチベーションを与えたものは理解したい欲求だけであり、実際彼を知っていた人達は彼がどんな意味の競争によっても駆り立てられなかったと確証する。"当時、誰か他の人前で何かを証明する考えは無かった"とセールは説明した。そしていずれにせよ、"ある意味で、彼は自分自身の方法でものをやりたかったし、本質的に他の誰もが同じことをやりたくなかったので、彼は誰とも競争にならなかっただろう。仕事が多過ぎだった"。
グロタンディーク学派の権勢はいくらか有害な影響を持った。グロタンディークの著名なIHÉS同僚ルネ・トムでさえ圧力を感じた。[Fields] の中で、ルネ・トムはグロタンディークとの関係は他のIHÉS同僚よりも"好ましくない"と書いた。"彼の技術的優勢は圧倒的だった。彼のセミナーはパリっ子数学の全体を惹きつけたが、一方で私は何も新しいことを提供しなかった。それが私に厳密数学的世界を去らせ、形態形成のようなもっと一般的概念に取組ませた。その分野は私にもっと興味を持たせ、非常に一般的な形の'哲学的'生物学へ私を導いた"。
1988年のテキストUndergraduate Algebraic Geometryの終わりにある歴史的注意の中で、Miles Reidは"グロタンディーク個人信仰は深刻な副作用があった。ヴェイユのファゥンディシュンズをマスターすることに人生の大部分を費やした多くの人は拒絶され恥をかいた。...全世代の学生(主にフランス人)は、高性能抽象形式に盛装出来ない問題は研究に値しないという阿呆な信念へと洗脳された"と書いた。グロタンディーク自身は抽象化のための抽象化を決して追求しなかったけれども、そんな"洗脳"はおそらく時代の流行の不可避な副産物だった。"ペースを守り、生き残る"ことが出来た少数のグロタンディークの学生を別にして、彼のアイデアから最も恩恵を受けた人達は離れて影響を受けた人達、特にアメリカ人、日本人、ロシア人だった、ともReidは注記した。Pierre Cartierは、Vladimir Drinfeld、Maxim Kontsevich、Yuri Manin、Vladimir Voevodskyのようなロシア人数学者の研究にグロタンディークの遺産を見ている。"彼等はグロタンディークの真の精神を捉えているが、他のことにそれを結び付け出来ている"とCartierは言った。

参考文献
(略)[訳注: 但し、面白そうな文献が多く列挙されてますので、是非とも原文の方で見ることをお勧めします]

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昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追...

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ...