皆さんの中には、エドワード・フレンケル博士のLove and Math: The Heart of Hidden Reality[愛と数学: 隠れた真実の核心]を読んだ人もいるでしょう。私は通常、このような一般向けの科学ノンフィクション本は読まないのですが、その方面の専門家であるフレンケル博士がご自分の専攻分野について一般向けに書いているのですから、ひねくれ者の私でさえ安心して読みました。と言うのは、普通、日本に限らず海外でも科学ノンフィクションという分野ではサイエンスライターという似非権威が偉そうに書いているからです。サイエンスライターは少なくとも非専門家であるはずであり、酷い場合は科学を勉強したこともないド素人です。ですから、数学方面でも間違い(勿論、誤植等の単純ミスを除きます)が比較的多いのです。何故素人が恥知らずにも書けるのか不思議です。たとえ著者が数学者であっても専攻分野以外の数学のことを書いているならば非専門家です。従って、下辺な私でさえ簡単に間違いを見つけられる時があります。
フレンケル博士の名前はその方面の専門家ならともかくも、一般的にはLove and Mathで初めて知った人が多いと思います。実はもっと早い時期に、具体的に言えば1999年の11月のNotices of the AMSで、当時准編集者だったMark Saul氏の記事"Kerosinka: An Episode in the History of Soviet Mathematics"(PDF)にその名前が登場します。そしてLove and Mathでも、その記事が部分的に引用されています。
最近、またもや周辺から教えられたのですが、Love and Mathの日本語版がつい最近出たそうです。しかし、私の想定外(おそらくフレンケル博士もそうだと思います)のタイトルが付いていますので、ここに明記する気持ちが起こりません。日本語版を読みたい人は簡単に見つけられますのでご自分で探して下さい。
さて、Love and Mathの日本語版が出た以上、参考としてMark Saul氏の記事を紹介するのは有意義だと思いますし、既に勉強に倦んでいる大学生以上の大人はどうでもいいですが、Love and Mathの日本語版を手にするような中高生には是非とも読んで欲しいです。Mark Saul氏の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、注釈は省略していますが、注釈へのインデックスはそのままです。
ついでながら、蛇足をもう一つ。旧ソ連のユダヤ人排斥主義は初期の時からずっとあって、20世紀最高の大数学者ゲルファント博士でさえ、15歳の時に学校から追放され、とうとう正規の教育を受けずに終わりました。しかし、ゲルファント少年の才能をいち早く見抜いたコルモゴロフ博士の庇護の下で数学者への道を歩むことが出来ました。その経験はゲルファント博士が地方の青少年のため(そして表向きには言えなかったでしょうが、心底はユダヤ人学生のため)に通信教育を始めた動機でしょう。コルモゴロフからゲルファントへ、そして更に若い世代へと数学のトーチは手渡しされていきます。それが文化なんです。ですから、中高生の人には辛い事もあるでしょうが、文化の次世代の担い手なのですから勉学に励んで欲しいです。ゲルファント博士については"I. M. ゲルファント教授―自身の興味と直感を理解した学生かつ教師―との対話"も参考までにどうぞ。
[追記: 2015年12月01日]
Love and Math: The Heart of Hidden Realityや最近テレビで放送された数学ミステリー白熱教室を見る限り、フレンケル博士は"あの"予想を志村-谷山-ヴェイユ予想と呼んでいるようです。これはおそらくフレンケル博士はサージ・ラング博士の最重要ドキュメント"志村-谷山予想の或る由来"を知らないか、もしくはラングランズ・プログラムでの呼称に則ったものと思います。いずれにせよ、谷山氏の名前は追悼の意味合いもあるので兎も角として(しかし、実際にはモジュラであると予想していません。このことが特に日本人には理解されていません)、少なくともヴェイユの名前は外すべきでしょう。
[追記: 2015年12月03日]
"あの"予想の呼称に関して、日本人に多い誤解(もちろん殆どが素人衆)は、志村博士が谷山氏の遺志を継いで"谷山の問題"から出発しているという、お涙頂戴の甘ったるいものでしょう。実際には全然違っていて、"谷山の問題"とは全く関係が無く志村博士はアイヒラーの結果を徹底的に研究しました。これは志村博士の初期からの論文を時系列に少しでも読んでいれば分かることです。そして、志村博士はモジュラで十分であると確信したのでしょう。もっとはっきり言えば、"谷山の問題"から出発したくても、(ある意味で)意味不明なのですから足がかりすらなりません。
[追記: 2015年12月06日]
その後、もう一度Love and Mathのノート部を精査しましたら、サージ・ラング博士の"志村-谷山予想の或る由来"を文献として挙げていました。ラング博士の意向を簡単に言えば、"あの"予想にヴェイユは関係無いから、少なくともヴェイユの名を外すべきだということです。従って、文献として挙げておきながらラング博士の意向は無視されたと言ってもいいでしょう。
[追記: 2015年12月23日]
私は日本語のバリアに隠れて偉そうに物を言う最近のネット等で見られる卑怯者の仲間には入りたくないので、エドワード・フレンケル博士に以下のことを申し上げました。
I'm just a Japanese reader who read your book, Love and Math.
What I feel frustrated with, however, is the name of the Shimura-Taniyama-Weil conjecture. It is not too much to say that notwithstanding the reference to Serge Lang's article in the notes of the book, you put the kibosh on his intention: Lang claims that at least Weil's name should be excluded from the conjecture because Weil was irrelevant to it.
In a nutshell, only Shimura should be given credit for the conjecture.
[追記: 2016年01月01日]
エドワード・フレンケル博士のLove and Math: The Heart of Hidden Realityについて、アマゾンでリヴューを書きましたので参考までにどうぞ。
[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2015年11月18日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
ケロシンカ: ソビエト数学史におけるエピソード
1999年11月 Mark Saul
"油の分泌のように、それは神に集まる。圧倒される..."
—ジェラード・マンリ・ホプキンス
西側世界では、熱心で才能のある学生にとって数学教育へのアクセスは困難でない。これは旧ソ連ではそうでなかった。数学キャリアをたどる若人達はいろいろな障害に直面した。マーケットは特にユダヤ家系の数学者達であふれ、これらの若い男女達は日常的に彼等が素晴らしい研究をしていたかも知れない、ある研究所と学部へのアクセスを禁じられた。 エディク[訳注: 後で実名が明かされますが、エドワード・フレンケル博士のこと](非常に若くして数学的才能を示していた)の場合を考える。彼はイズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントによって設立された通信教育を受けており、p-進数、ヒルベルト空間、トポロジーのようなトピックスを彼に個人指導をするための地方の数学者を探していた。地方都市に住んでいたので、エディクはソビエト数学的生命の2つの道標を利用する機会が無かった。すなわち、特別な数学学派1と数学研究サークル2。彼が高校を16歳で終えた時、ソビエト連邦でもっとも権威のあるモスクワ大学(MGU)で数学の学部試験を受けるためコロムナにある彼の家からモスクワへ旅立った。1984年だった。
"円の定義は何か?"と試験官は訊ねた。エディクは"平面で固定点から等距離の点の集合です"と答えた。"間違いだ"と試験官が言った。"平面で固定点から等距離のすべての点の集合だ"と試験官はアリスを尋問する赤の女王[訳注: ルイス・キャロルを読んだことがある人なら分かるでしょう]風に続けた。そして、通常の高校生が知っていると期待されるはずがなかったであろう、円内での反転のようなもっと難しい問題に移った。 そのストーリはお馴染みのものだ。つまり、ユダヤ人家系の学生達は他の受験者達が訊ねられる問題よりも著しく困難な問題を訊ねられたが、彼等を許可しないことが理由だった3。エディクの場合、彼のすぐれた経歴と才能のため、このプロセスは4時間より以上かかった。
試験官達はどのようにして受験者がユダヤ人であることを知ったのか? これは旧ソ連で見事に培われた技だった。旧ソ連ではユダヤ人排斥主義は表向き非合法だが、公式に実践されていた。すべてのソビエト市民は、各自が携帯する国内パスポートについて記録されている国籍をあてがわれる。ある人の両親がユダヤ人なら、その人の国籍はユダヤ人である。だが、混血の子孫はどうなる? 後期ソビエトのユダヤ人排斥主義は、南北戦争以前の南の人種法と同じくらい厳密に不文律の人種法のもとで簡単に手続きを取った。
"ユダヤ人"受験者を特定する多くの方法があった。一番簡単なのは姓名の起源だった(この手法はユダヤ人のみならず、異質な響きの名前を持つ少数民族のロシア人もかかった)。ロシア小説の読者達はもう一つ別の手法を知っている。ロシア人のミドルネームは法律及び習慣によって父親の名前から取られる。これらの父祖の名を取った名前は正式な宛名に使用され、ロシア人生活の重要な部分だ。従って、両親のフルネームを訊ね、受験者の祖父の名前を知ることはごく当たり前な手順である。これらの名前の一つがユダヤ人に響いたなら、受験者は悲運だった。
いずれにせよ、エディクはユダヤ人(もっとはっきり言えば、彼の父親はユダヤ人だが、母親はユダヤ人でなかった)であると決定され、彼の試験結果は適当に採点された。一つの解答も正しいとされなかった。MGUからの否決の後、彼と彼の家族は長たらしく通常愚鈍な上訴プロセスを選ばなかった。
面接を去る際に、エレベータでエディクは尋問者に出会った。MGUで一部の教員達がユダヤ人排斥のフィーリングを心に抱いていた一方で、その他は政治的環境によって大学学部からユダヤ人の排除に協力することを強いられた(多くのロシア人数学者達は今日まで当時の彼等の行動についてのフィーリングに苦しんで来ている)。この教員は後者の類か、またはエディクが試験結果を不服として訴えていないことを単純に喜んでいたのかも知れない。
すべての問題についてエディクを落としたばかりなのに、その試験管は奇妙にも彼を振り返り、"私は君の知識に感銘を受けた。石油化学及び天然ガス工業専門学校に応募することを勧める。そこでは君のような人達を採るよ"と言った。
エディクはこの専門学校を聞いたことがなかった。ソビエト初期時代4に創立され、多くのそんな学校と協力して、特別な産業のための技術者を作る素晴らしい仕事をやって来ていた。だが、そんな所は才能ある若い数学者の熱望の対象であるはずがなかった。何故、この専門学校か?
1968年の後、政治的環境はソビエトの大学の数学と物理学部門におけるユダヤ人排斥運動の殺到を始めた。学問が伝統的ユダヤ文化の中で保持されていた崇拝は現代においてしばしば数学での興味に変わり、その分野で多くのユダヤ人学生達がいた。この要因は、特別な学界部門からのユダヤ人学生達の排除と結合されて、これらの学生達のための数学における配置に対するマーケットを作った。モスクワと他の都市の或る専門学校は、他の大学のユダヤ人排斥思想の恩恵を受けて非常に質の高い学生達を獲得するためにマーケットに迎合し始めた。ある有能なユダヤ人数学者は時に冶金専門学校または教育学専門学校で教育を成し遂げた。他者は鉄道技師専門学校に入学したものだった。その鉄道技師専門学校のロシア語の略語はMEEDのように聞こえた。これは、"ユダヤ人ならMEEDへ行きなさい[ここでリズム配列は軽蔑的な用語を必要とする[訳注: もちろんロシア語でのリズムを言っているので、日本語に翻訳すればリズムどころか面白みさえも消えています。念のため]]"という格言につながった。そのスローガンは、敵対的な状況に対するユダヤ人学生達の唯一の防御手段であるプライドと皮肉の混合の特徴だった。
石油化学及び天然ガス工業専門学校は、MGUでのユダヤ人に対する偏見から恩恵を受けた、それらの専門学校のもう一つ学校だった。そのニックネーム、ケロシンカはこの同じプライドと皮肉を反映した。ケロシンカは石油ストーブのことであり、ローテクだが十分に逆境に反応する。その専門学校の学生達と卒業生達は"Kerosinshchiks"[訳注: これはただ単にロシア語のロシア文字を英字に置換えただけです。私のロシア語の貧弱な知識では適切な和訳を思い浮かべませんでした。御了承下さい]として有名になり、学校は数学に情熱を持つユダヤ人学生達の天国になった。
ロシアの数学コミュニティの特徴である、彼等の専攻分野に対する共有される熱狂は既に別のところで5描かれており、今までソビエトのユダヤ人達は多くの米国人達にこの雰囲気を直に体験させて来ている。ケロシンカのストーリは、情熱と政治の間の微妙な交錯の実例の一つ、数学を追求するために個人と組織が逆境にどのように反応したかの物語の一つに過ぎない。 運命はどのように、多くの才能の宝庫としてケロシンカを選んだのか? この疑問は答えるのが難しい。MGUからのユダヤ人排除の恩恵を受けている他の専門学校があったことを我々は知っている。また排他政策の制定が故意の行為であったこと、それが最初いくらかの抵抗に会ったことも我々は知っている。いくつかの専門学校にとって、新しい方針を始めることよりもユダヤ人学生達を受入れ続けることの方が容易だったのかも知れない。だが、一度その現象が増大し、ユダヤ人学生達の幹部がいたのに、何故耐えられたのか? 一、二箇所でユダヤ人学生達を監視続ける秘密警察(KGB)による陰謀の暗い偲び声がある。しかし、その動機のいくらかはもっとポジティブだったのかも知れない。つまり、専門学校の事務局は発展している素晴らしい部門を見ており、その現象を保つために出来ることをしたのかも知れない。
一度ケロシンカに入学して、エディクは高レベルの純粋数学を勉強したが、MGUの学生達程には徹底されていなかった。要するに、教科課程は石油化学工業に対する特殊な応用のために設計されていた。だから、エディクが解析、線型代数、微分方程式をよく学習していた一方で、彼のプログラムは応用数学とコンピュータサイエンスにおけるかなりの勉強も含んでいた。ケロシンカではエディクが学べない純粋数学の多くの分野があった。
彼と彼の仲間の学生達は方法を見つけ出した。MGUに入り、コースと非公式セミナーを聴講するために彼らは"フェンスをよじ登った"(文字通り: 建物はよくガードされていた)ものだった。ゲルファント、コルモゴロフ、キリーロフのような数学者達は、MGUに正式に入学していない学生達にしばしば寛容であり、または彼等をクラスに招くことすらした。エディクは特にDmitri FuchsとBoris Feiginの親切に世話になった。両者は彼等自身の時間の多くをその若い男に費やした。これらの手段はエディクと彼の友人達に微分多様体、リー群、表現論、トポロジーのような高度なトピックスを探求させることを可能にした。
ソビエト生活の奇妙な展開の中で、この非公式教育システムは以前に完全な学校を作っていた。すなわち、MGU内の夜間"大学"だ。何らかの正式な認可無しに大学の建物を使って、教授達と学生達は数時間後に集まり始め、ケロシンカや他の専門学校での講習を発展させ補う講習とセミナーを維持した。これらの講習で多くの学生達がユダヤ人だったから、学校は"ユダヤ人大学"という名前を間も無く付けられた。D. Fuchs、A. Sosinsky、A. Onitschik、B. Feigin、V. Ginzburg、A. Zelevinsky、A. Shenのような有名数学者達が非公式学校の教授達の中にいた。ユダヤ人大学は主催者の一人であるBella Muchnik Subbotovskayaの死により挫折をこうむった。彼女は教育的かつ数学的活動についてKGBに尋問された直後に疑わしい自動車事故で殺された。
これらの状況のもとで数学を追求することは相当な勇気が必要だった。とても多くの鮭が上流へ泳ぐように、何がエディクと他の者達を駆り立てて続行させたのか? 大学レベルで彼等が直面した差別が彼等の職業的人生においても続くだろうというすべての兆候があった。それでは、彼等は何故それほど徹底的に、しかも数学でのキャリアに対する見込みが殆ど無いにもかかわらず、自分達で準備するべきなのか? その答えは、ソビエトの数学文化の中心を射ており、この時代の数学史における多くの現象の説明に著しく貢献する。旧ソ連の国家統制主義的雰囲気の中で、知的分野は国家の自由でなすがままに据えられた。数学は著しい例外だった。数学は研究室または機器に依存せず、仲間のみに依存したから、政府の管理から比較的自由だった。この理由のため、活発な精神を持つ多くの若人達は他の分野よりも、この分野を追求した。米国では、多くの若人達が職業マーケットを見てキャリアを選ぶ。旧ソ連では、研究分野を選ぶ際に若人達は彼または彼女の個人的好みに従う傾向にあり、そして彼または彼女のスキルを使用して雇用を選ぶ。これはしばしば上手くいった。ケロシンカの卒業生達はいくつかの技術研究所で、また特殊な数学プログラムを持つ高校で職を見つけた。職業マーケットにおけるいくつかの余地は、また別のソビエト機関、"箱"と呼ばれる秘密調査機関によって彼等のために作られた。郵便局箱のアドレスのみ知られており、これらは軍事または国家機密の産業を扱っている研究室や学界部門だった。これらの部門の従業者は機密資料への簡単なアクセスを持っていたので、"非の打ち所が無い申請"より以下の誰も(ユダヤ人も含めて)が除外された。
しかし、政治的出来事がこれらの学生達の計画に追い付いたことを我々は知っている。ロシアのアカデミーは今や贅沢でなくとも研究するためにもっと開放されている場所であり、ソ連崩壊は世界中に数学者達をばら撒いて来ている。Kerosinshchiksのウェブページ6[訳注: 現在はウェブアドレス自体も残っていないようです]は卒業生の部分的リストを与えている。リストされている人々の半分より以上が技術分野において米国で働き、別の4分の1かそこらがイスラエルで、そしてもっと少数が他の西側諸国で働いている。リストされている卒業生の4分の1より以下が旧ソ連で働いている(この統計はウェブまたは電子メールのアクセスの困難さに多分影響されるけれども)。Kerosinshchiksの教育は彼等に大変役立っている。
そしてエディクは? 彼の本当の名前はエドワード・フレンケルであり、モスクワでの試験は彼の能力を示すことが出来なかった。多くのKerosinshchiksと同様に、彼は既に数学へ重要な寄与をしている。ケロシンカを卒業後、彼はハーバードで研究するたった3人のロシア人数学者達の一人として選ばれた。一年の研究の後、1991年に彼はそこでPh.D.を取得し、29歳でバークレーのカリフォルニア大学の学部において正教授になった。
フレンケルが有名なモスクワ数学サークルに参加する機会を持たなかった一方で、彼は妻のZvezdelina Stankova-フレンケル(彼女も才能豊かな数学者だ)のためにサポートとインスピレーションを与えている。彼女は才能ある若人のためにサンフランシスコ湾地域の数学サークルを創立した。これらのサークルのレギュラー講師陣の中には、Dmitri Fuchs彼自身のみならず、少なくとも一人のケロシンカ卒業生であるバークレーのAlexander Giventalがいる。
このストーリから我々は何を学べるのか? 数学史において非常に奇妙な名前を持つ脚注以上のものなのか? 他の国々における経験から教訓を得る際には慎重でなければならない。独創的プロセスは、我々の理解しない流儀における文化に対して高度に慎重さを要するらしい7。
我々が特記出来る一つの事柄は、ソビエト数学の発展は米国とはきわめて異なる力によって導出されていることだ。米国の殆どの学問と同様に、米国の数学は主に発表によって導かれている。なるほど大学での在職権と昇進プロセスは発表する必要性で占められている。しかし、ソ連においては文化的及び政治的環境のデリケートな集まりが、数学を通しての連帯感に主として基づく数学的文化の開花を考慮に入れた。私はどこか他所で、その学科の才能ある学生達における、その影響を追跡したことがある8。ケロシンカのストーリはこの場面のもう一つ別の観点を与える。
共に数学をする喜びは旧ソ連において力強い推進力だった。この力を知ることで、例えば今まで我々の職業における進出比率が低い数学の学生達を含めるために、多分その力を利用出来る。また、いかなる学歴の出身であれ才能ある高校生及び学部学生を数学に引寄せるために、その力を利用出来る(それから多分、米国の大学の学部学生に大学院の数学研究に進むことをもっと奨励出来るだろう)。そして、若い教員達に対する思いやりは、彼等の非常に困難な生活を改善する方向へ行くかも知れぬ。
この記事の最初に引用されている言葉の中で、詩人ジェラード・マンリ・ホプキンスは、数学の楽しさよりも非常に広大なトピック、"神の偉大"について書いている。それでも、数学コミュニティは彼の言葉から学ぶかも知れない。ソビエト生活の厳しい環境の中で独創的衝動がはけ口を見つけるならば、我々も米国数学に寄与するためにその方法を見つけられるはずであろう。
著者の覚書: この記事に結実した研究に対して以下の人々の寄与を承認することは喜びである:
エドワード・フレンケル、Dmitri Fuchs、イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファント、Marina Kulakova、Leonid Levin、Maria Litvin、Yuri Litvin、Vladimir Retakh、Yuri Salkinder、Alexander Shen、Nina Shteingold
フレンケル博士の名前はその方面の専門家ならともかくも、一般的にはLove and Mathで初めて知った人が多いと思います。実はもっと早い時期に、具体的に言えば1999年の11月のNotices of the AMSで、当時准編集者だったMark Saul氏の記事"Kerosinka: An Episode in the History of Soviet Mathematics"(PDF)にその名前が登場します。そしてLove and Mathでも、その記事が部分的に引用されています。
最近、またもや周辺から教えられたのですが、Love and Mathの日本語版がつい最近出たそうです。しかし、私の想定外(おそらくフレンケル博士もそうだと思います)のタイトルが付いていますので、ここに明記する気持ちが起こりません。日本語版を読みたい人は簡単に見つけられますのでご自分で探して下さい。
さて、Love and Mathの日本語版が出た以上、参考としてMark Saul氏の記事を紹介するのは有意義だと思いますし、既に勉強に倦んでいる大学生以上の大人はどうでもいいですが、Love and Mathの日本語版を手にするような中高生には是非とも読んで欲しいです。Mark Saul氏の記事の私訳を以下に載せておきます。なお、注釈は省略していますが、注釈へのインデックスはそのままです。
ついでながら、蛇足をもう一つ。旧ソ連のユダヤ人排斥主義は初期の時からずっとあって、20世紀最高の大数学者ゲルファント博士でさえ、15歳の時に学校から追放され、とうとう正規の教育を受けずに終わりました。しかし、ゲルファント少年の才能をいち早く見抜いたコルモゴロフ博士の庇護の下で数学者への道を歩むことが出来ました。その経験はゲルファント博士が地方の青少年のため(そして表向きには言えなかったでしょうが、心底はユダヤ人学生のため)に通信教育を始めた動機でしょう。コルモゴロフからゲルファントへ、そして更に若い世代へと数学のトーチは手渡しされていきます。それが文化なんです。ですから、中高生の人には辛い事もあるでしょうが、文化の次世代の担い手なのですから勉学に励んで欲しいです。ゲルファント博士については"I. M. ゲルファント教授―自身の興味と直感を理解した学生かつ教師―との対話"も参考までにどうぞ。
[追記: 2015年12月01日]
Love and Math: The Heart of Hidden Realityや最近テレビで放送された数学ミステリー白熱教室を見る限り、フレンケル博士は"あの"予想を志村-谷山-ヴェイユ予想と呼んでいるようです。これはおそらくフレンケル博士はサージ・ラング博士の最重要ドキュメント"志村-谷山予想の或る由来"を知らないか、もしくはラングランズ・プログラムでの呼称に則ったものと思います。いずれにせよ、谷山氏の名前は追悼の意味合いもあるので兎も角として(しかし、実際にはモジュラであると予想していません。このことが特に日本人には理解されていません)、少なくともヴェイユの名前は外すべきでしょう。
[追記: 2015年12月03日]
"あの"予想の呼称に関して、日本人に多い誤解(もちろん殆どが素人衆)は、志村博士が谷山氏の遺志を継いで"谷山の問題"から出発しているという、お涙頂戴の甘ったるいものでしょう。実際には全然違っていて、"谷山の問題"とは全く関係が無く志村博士はアイヒラーの結果を徹底的に研究しました。これは志村博士の初期からの論文を時系列に少しでも読んでいれば分かることです。そして、志村博士はモジュラで十分であると確信したのでしょう。もっとはっきり言えば、"谷山の問題"から出発したくても、(ある意味で)意味不明なのですから足がかりすらなりません。
[追記: 2015年12月06日]
その後、もう一度Love and Mathのノート部を精査しましたら、サージ・ラング博士の"志村-谷山予想の或る由来"を文献として挙げていました。ラング博士の意向を簡単に言えば、"あの"予想にヴェイユは関係無いから、少なくともヴェイユの名を外すべきだということです。従って、文献として挙げておきながらラング博士の意向は無視されたと言ってもいいでしょう。
[追記: 2015年12月23日]
私は日本語のバリアに隠れて偉そうに物を言う最近のネット等で見られる卑怯者の仲間には入りたくないので、エドワード・フレンケル博士に以下のことを申し上げました。
I'm just a Japanese reader who read your book, Love and Math.
What I feel frustrated with, however, is the name of the Shimura-Taniyama-Weil conjecture. It is not too much to say that notwithstanding the reference to Serge Lang's article in the notes of the book, you put the kibosh on his intention: Lang claims that at least Weil's name should be excluded from the conjecture because Weil was irrelevant to it.
In a nutshell, only Shimura should be given credit for the conjecture.
[追記: 2016年01月01日]
エドワード・フレンケル博士のLove and Math: The Heart of Hidden Realityについて、アマゾンでリヴューを書きましたので参考までにどうぞ。
[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2015年11月18日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
ケロシンカ: ソビエト数学史におけるエピソード
1999年11月 Mark Saul
"油の分泌のように、それは神に集まる。圧倒される..."
—ジェラード・マンリ・ホプキンス
西側世界では、熱心で才能のある学生にとって数学教育へのアクセスは困難でない。これは旧ソ連ではそうでなかった。数学キャリアをたどる若人達はいろいろな障害に直面した。マーケットは特にユダヤ家系の数学者達であふれ、これらの若い男女達は日常的に彼等が素晴らしい研究をしていたかも知れない、ある研究所と学部へのアクセスを禁じられた。 エディク[訳注: 後で実名が明かされますが、エドワード・フレンケル博士のこと](非常に若くして数学的才能を示していた)の場合を考える。彼はイズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファントによって設立された通信教育を受けており、p-進数、ヒルベルト空間、トポロジーのようなトピックスを彼に個人指導をするための地方の数学者を探していた。地方都市に住んでいたので、エディクはソビエト数学的生命の2つの道標を利用する機会が無かった。すなわち、特別な数学学派1と数学研究サークル2。彼が高校を16歳で終えた時、ソビエト連邦でもっとも権威のあるモスクワ大学(MGU)で数学の学部試験を受けるためコロムナにある彼の家からモスクワへ旅立った。1984年だった。
"円の定義は何か?"と試験官は訊ねた。エディクは"平面で固定点から等距離の点の集合です"と答えた。"間違いだ"と試験官が言った。"平面で固定点から等距離のすべての点の集合だ"と試験官はアリスを尋問する赤の女王[訳注: ルイス・キャロルを読んだことがある人なら分かるでしょう]風に続けた。そして、通常の高校生が知っていると期待されるはずがなかったであろう、円内での反転のようなもっと難しい問題に移った。 そのストーリはお馴染みのものだ。つまり、ユダヤ人家系の学生達は他の受験者達が訊ねられる問題よりも著しく困難な問題を訊ねられたが、彼等を許可しないことが理由だった3。エディクの場合、彼のすぐれた経歴と才能のため、このプロセスは4時間より以上かかった。
試験官達はどのようにして受験者がユダヤ人であることを知ったのか? これは旧ソ連で見事に培われた技だった。旧ソ連ではユダヤ人排斥主義は表向き非合法だが、公式に実践されていた。すべてのソビエト市民は、各自が携帯する国内パスポートについて記録されている国籍をあてがわれる。ある人の両親がユダヤ人なら、その人の国籍はユダヤ人である。だが、混血の子孫はどうなる? 後期ソビエトのユダヤ人排斥主義は、南北戦争以前の南の人種法と同じくらい厳密に不文律の人種法のもとで簡単に手続きを取った。
"ユダヤ人"受験者を特定する多くの方法があった。一番簡単なのは姓名の起源だった(この手法はユダヤ人のみならず、異質な響きの名前を持つ少数民族のロシア人もかかった)。ロシア小説の読者達はもう一つ別の手法を知っている。ロシア人のミドルネームは法律及び習慣によって父親の名前から取られる。これらの父祖の名を取った名前は正式な宛名に使用され、ロシア人生活の重要な部分だ。従って、両親のフルネームを訊ね、受験者の祖父の名前を知ることはごく当たり前な手順である。これらの名前の一つがユダヤ人に響いたなら、受験者は悲運だった。
いずれにせよ、エディクはユダヤ人(もっとはっきり言えば、彼の父親はユダヤ人だが、母親はユダヤ人でなかった)であると決定され、彼の試験結果は適当に採点された。一つの解答も正しいとされなかった。MGUからの否決の後、彼と彼の家族は長たらしく通常愚鈍な上訴プロセスを選ばなかった。
面接を去る際に、エレベータでエディクは尋問者に出会った。MGUで一部の教員達がユダヤ人排斥のフィーリングを心に抱いていた一方で、その他は政治的環境によって大学学部からユダヤ人の排除に協力することを強いられた(多くのロシア人数学者達は今日まで当時の彼等の行動についてのフィーリングに苦しんで来ている)。この教員は後者の類か、またはエディクが試験結果を不服として訴えていないことを単純に喜んでいたのかも知れない。
すべての問題についてエディクを落としたばかりなのに、その試験管は奇妙にも彼を振り返り、"私は君の知識に感銘を受けた。石油化学及び天然ガス工業専門学校に応募することを勧める。そこでは君のような人達を採るよ"と言った。
エディクはこの専門学校を聞いたことがなかった。ソビエト初期時代4に創立され、多くのそんな学校と協力して、特別な産業のための技術者を作る素晴らしい仕事をやって来ていた。だが、そんな所は才能ある若い数学者の熱望の対象であるはずがなかった。何故、この専門学校か?
1968年の後、政治的環境はソビエトの大学の数学と物理学部門におけるユダヤ人排斥運動の殺到を始めた。学問が伝統的ユダヤ文化の中で保持されていた崇拝は現代においてしばしば数学での興味に変わり、その分野で多くのユダヤ人学生達がいた。この要因は、特別な学界部門からのユダヤ人学生達の排除と結合されて、これらの学生達のための数学における配置に対するマーケットを作った。モスクワと他の都市の或る専門学校は、他の大学のユダヤ人排斥思想の恩恵を受けて非常に質の高い学生達を獲得するためにマーケットに迎合し始めた。ある有能なユダヤ人数学者は時に冶金専門学校または教育学専門学校で教育を成し遂げた。他者は鉄道技師専門学校に入学したものだった。その鉄道技師専門学校のロシア語の略語はMEEDのように聞こえた。これは、"ユダヤ人ならMEEDへ行きなさい[ここでリズム配列は軽蔑的な用語を必要とする[訳注: もちろんロシア語でのリズムを言っているので、日本語に翻訳すればリズムどころか面白みさえも消えています。念のため]]"という格言につながった。そのスローガンは、敵対的な状況に対するユダヤ人学生達の唯一の防御手段であるプライドと皮肉の混合の特徴だった。
石油化学及び天然ガス工業専門学校は、MGUでのユダヤ人に対する偏見から恩恵を受けた、それらの専門学校のもう一つ学校だった。そのニックネーム、ケロシンカはこの同じプライドと皮肉を反映した。ケロシンカは石油ストーブのことであり、ローテクだが十分に逆境に反応する。その専門学校の学生達と卒業生達は"Kerosinshchiks"[訳注: これはただ単にロシア語のロシア文字を英字に置換えただけです。私のロシア語の貧弱な知識では適切な和訳を思い浮かべませんでした。御了承下さい]として有名になり、学校は数学に情熱を持つユダヤ人学生達の天国になった。
ロシアの数学コミュニティの特徴である、彼等の専攻分野に対する共有される熱狂は既に別のところで5描かれており、今までソビエトのユダヤ人達は多くの米国人達にこの雰囲気を直に体験させて来ている。ケロシンカのストーリは、情熱と政治の間の微妙な交錯の実例の一つ、数学を追求するために個人と組織が逆境にどのように反応したかの物語の一つに過ぎない。 運命はどのように、多くの才能の宝庫としてケロシンカを選んだのか? この疑問は答えるのが難しい。MGUからのユダヤ人排除の恩恵を受けている他の専門学校があったことを我々は知っている。また排他政策の制定が故意の行為であったこと、それが最初いくらかの抵抗に会ったことも我々は知っている。いくつかの専門学校にとって、新しい方針を始めることよりもユダヤ人学生達を受入れ続けることの方が容易だったのかも知れない。だが、一度その現象が増大し、ユダヤ人学生達の幹部がいたのに、何故耐えられたのか? 一、二箇所でユダヤ人学生達を監視続ける秘密警察(KGB)による陰謀の暗い偲び声がある。しかし、その動機のいくらかはもっとポジティブだったのかも知れない。つまり、専門学校の事務局は発展している素晴らしい部門を見ており、その現象を保つために出来ることをしたのかも知れない。
一度ケロシンカに入学して、エディクは高レベルの純粋数学を勉強したが、MGUの学生達程には徹底されていなかった。要するに、教科課程は石油化学工業に対する特殊な応用のために設計されていた。だから、エディクが解析、線型代数、微分方程式をよく学習していた一方で、彼のプログラムは応用数学とコンピュータサイエンスにおけるかなりの勉強も含んでいた。ケロシンカではエディクが学べない純粋数学の多くの分野があった。
彼と彼の仲間の学生達は方法を見つけ出した。MGUに入り、コースと非公式セミナーを聴講するために彼らは"フェンスをよじ登った"(文字通り: 建物はよくガードされていた)ものだった。ゲルファント、コルモゴロフ、キリーロフのような数学者達は、MGUに正式に入学していない学生達にしばしば寛容であり、または彼等をクラスに招くことすらした。エディクは特にDmitri FuchsとBoris Feiginの親切に世話になった。両者は彼等自身の時間の多くをその若い男に費やした。これらの手段はエディクと彼の友人達に微分多様体、リー群、表現論、トポロジーのような高度なトピックスを探求させることを可能にした。
ソビエト生活の奇妙な展開の中で、この非公式教育システムは以前に完全な学校を作っていた。すなわち、MGU内の夜間"大学"だ。何らかの正式な認可無しに大学の建物を使って、教授達と学生達は数時間後に集まり始め、ケロシンカや他の専門学校での講習を発展させ補う講習とセミナーを維持した。これらの講習で多くの学生達がユダヤ人だったから、学校は"ユダヤ人大学"という名前を間も無く付けられた。D. Fuchs、A. Sosinsky、A. Onitschik、B. Feigin、V. Ginzburg、A. Zelevinsky、A. Shenのような有名数学者達が非公式学校の教授達の中にいた。ユダヤ人大学は主催者の一人であるBella Muchnik Subbotovskayaの死により挫折をこうむった。彼女は教育的かつ数学的活動についてKGBに尋問された直後に疑わしい自動車事故で殺された。
これらの状況のもとで数学を追求することは相当な勇気が必要だった。とても多くの鮭が上流へ泳ぐように、何がエディクと他の者達を駆り立てて続行させたのか? 大学レベルで彼等が直面した差別が彼等の職業的人生においても続くだろうというすべての兆候があった。それでは、彼等は何故それほど徹底的に、しかも数学でのキャリアに対する見込みが殆ど無いにもかかわらず、自分達で準備するべきなのか? その答えは、ソビエトの数学文化の中心を射ており、この時代の数学史における多くの現象の説明に著しく貢献する。旧ソ連の国家統制主義的雰囲気の中で、知的分野は国家の自由でなすがままに据えられた。数学は著しい例外だった。数学は研究室または機器に依存せず、仲間のみに依存したから、政府の管理から比較的自由だった。この理由のため、活発な精神を持つ多くの若人達は他の分野よりも、この分野を追求した。米国では、多くの若人達が職業マーケットを見てキャリアを選ぶ。旧ソ連では、研究分野を選ぶ際に若人達は彼または彼女の個人的好みに従う傾向にあり、そして彼または彼女のスキルを使用して雇用を選ぶ。これはしばしば上手くいった。ケロシンカの卒業生達はいくつかの技術研究所で、また特殊な数学プログラムを持つ高校で職を見つけた。職業マーケットにおけるいくつかの余地は、また別のソビエト機関、"箱"と呼ばれる秘密調査機関によって彼等のために作られた。郵便局箱のアドレスのみ知られており、これらは軍事または国家機密の産業を扱っている研究室や学界部門だった。これらの部門の従業者は機密資料への簡単なアクセスを持っていたので、"非の打ち所が無い申請"より以下の誰も(ユダヤ人も含めて)が除外された。
しかし、政治的出来事がこれらの学生達の計画に追い付いたことを我々は知っている。ロシアのアカデミーは今や贅沢でなくとも研究するためにもっと開放されている場所であり、ソ連崩壊は世界中に数学者達をばら撒いて来ている。Kerosinshchiksのウェブページ6[訳注: 現在はウェブアドレス自体も残っていないようです]は卒業生の部分的リストを与えている。リストされている人々の半分より以上が技術分野において米国で働き、別の4分の1かそこらがイスラエルで、そしてもっと少数が他の西側諸国で働いている。リストされている卒業生の4分の1より以下が旧ソ連で働いている(この統計はウェブまたは電子メールのアクセスの困難さに多分影響されるけれども)。Kerosinshchiksの教育は彼等に大変役立っている。
そしてエディクは? 彼の本当の名前はエドワード・フレンケルであり、モスクワでの試験は彼の能力を示すことが出来なかった。多くのKerosinshchiksと同様に、彼は既に数学へ重要な寄与をしている。ケロシンカを卒業後、彼はハーバードで研究するたった3人のロシア人数学者達の一人として選ばれた。一年の研究の後、1991年に彼はそこでPh.D.を取得し、29歳でバークレーのカリフォルニア大学の学部において正教授になった。
フレンケルが有名なモスクワ数学サークルに参加する機会を持たなかった一方で、彼は妻のZvezdelina Stankova-フレンケル(彼女も才能豊かな数学者だ)のためにサポートとインスピレーションを与えている。彼女は才能ある若人のためにサンフランシスコ湾地域の数学サークルを創立した。これらのサークルのレギュラー講師陣の中には、Dmitri Fuchs彼自身のみならず、少なくとも一人のケロシンカ卒業生であるバークレーのAlexander Giventalがいる。
このストーリから我々は何を学べるのか? 数学史において非常に奇妙な名前を持つ脚注以上のものなのか? 他の国々における経験から教訓を得る際には慎重でなければならない。独創的プロセスは、我々の理解しない流儀における文化に対して高度に慎重さを要するらしい7。
我々が特記出来る一つの事柄は、ソビエト数学の発展は米国とはきわめて異なる力によって導出されていることだ。米国の殆どの学問と同様に、米国の数学は主に発表によって導かれている。なるほど大学での在職権と昇進プロセスは発表する必要性で占められている。しかし、ソ連においては文化的及び政治的環境のデリケートな集まりが、数学を通しての連帯感に主として基づく数学的文化の開花を考慮に入れた。私はどこか他所で、その学科の才能ある学生達における、その影響を追跡したことがある8。ケロシンカのストーリはこの場面のもう一つ別の観点を与える。
共に数学をする喜びは旧ソ連において力強い推進力だった。この力を知ることで、例えば今まで我々の職業における進出比率が低い数学の学生達を含めるために、多分その力を利用出来る。また、いかなる学歴の出身であれ才能ある高校生及び学部学生を数学に引寄せるために、その力を利用出来る(それから多分、米国の大学の学部学生に大学院の数学研究に進むことをもっと奨励出来るだろう)。そして、若い教員達に対する思いやりは、彼等の非常に困難な生活を改善する方向へ行くかも知れぬ。
この記事の最初に引用されている言葉の中で、詩人ジェラード・マンリ・ホプキンスは、数学の楽しさよりも非常に広大なトピック、"神の偉大"について書いている。それでも、数学コミュニティは彼の言葉から学ぶかも知れない。ソビエト生活の厳しい環境の中で独創的衝動がはけ口を見つけるならば、我々も米国数学に寄与するためにその方法を見つけられるはずであろう。
著者の覚書: この記事に結実した研究に対して以下の人々の寄与を承認することは喜びである:
エドワード・フレンケル、Dmitri Fuchs、イズライル・モイセーエヴィチ・ゲルファント、Marina Kulakova、Leonid Levin、Maria Litvin、Yuri Litvin、Vladimir Retakh、Yuri Salkinder、Alexander Shen、Nina Shteingold
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