前に紹介した"虚空―あたかも虚空から呼出されたかのように: アレクサンドル・グロタンディークの人生 前篇"、"グロタンディークとは何者か?"、”アレクサンドル・グロタンディーク―名前でのみ知られる田園"の前置き及び追記で度々Winfried Scharlau博士の労作Who Is Alexander Grothendieck? Anarchy, Mathematics, Spirituality, Solitudeについて触れて来ました。この本は元々の独語版と英語版のみです。その理由は”アレクサンドル・グロタンディーク―名前でのみ知られる田園"の前置き及び追記で散々述べましたのでここでは繰り返しません。
この本は4部(第二部と第四部は未だ執筆中です)に分かれていますが、少なくとも第一部のAnarchyを読む限り、Scharlau博士はグロタンディーク氏に感情移入することなく多くの貴重な資料から事実だけを淡々と積み重ねて、いわば叙事詩のような感触を受けました。しかし、一箇所だけ素晴らしく叙情的な逸話があります。それが初っ端のプロゥログです。この逸話に出て来る青年がグロタンディーク氏であるという決定的証拠はありませんが、状況的に氏以外には考えられません。
そのプロゥログの私訳を以下に載せておきます。なお原文へのリンクは当たり前ですがありません。これを読んで皆さんも原書を購入する切っ掛けになれば幸いです。
[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。
Winfried Scharlau著アレクサンドル・グロタンディークとは何者か? 第一部 混乱よりプロゥログ: ブロンズ胸像
1949年パリス[訳注: パリという馬鹿丸出しのカタカナ表記を止めましょう]。Rue des Fontaines du Temple[訳注: フォンテーヌ・デゥ・タンプル通り]は市の3番目の行政区であるマレ地区にある短く狭い通りだ。ここに婦人向け毛皮ジャキツとコゥツの製造者のJacquesとLaila R.のアテリエィ且つお店がある。彼等は田舎の小さな村で戦争の恐怖を生き延びた(彼等の親戚の多くがビルケナウとアウシュヴィッツ[訳注: 日本ではアウシュヴィッツ強制収容所と通称されていますが、実際にはアウシュヴィッツ第一強制収容所がアウシュヴィッツにあり、アウシュヴィッツ第二強制収容所がビルケナウにありました]に国外追放されたけれども)。数年の間に今彼等はパリスに住んでいる。パリスは破壊から免れた市だった。彼等は商売を再開している。損害と傷跡は表面に見えない。
ある日、20歳をさほど過ぎていない若い男、見知らぬ人が店に現れる。彼はみすぼらしい身なりで、小作農らしく見える。彼は外国人であり、どこでも必ず彼が外国人だろうと思う。ユダヤ人がそうであるように、彼はユダヤ系であり得るが、彼の手と靴は南部からの小作農、田舎からの男のそれである。見事に完璧な仏語(彼がフランス生まれではなかったと気がつくけれども)で彼は要求、それも異常な要求をしたが、彼の要求全体が異常なものであろうと思わざるを得ない。
青年はR.家がブロンズ胸像を所有しており、それはおそらくR.家の親戚であろう、彫刻家Aron Brzezinskiが25年より前に青年の父親を題材にしていると聞いている。だから彼はこの胸像を買いたいと思っている。
Jacques R.は思い出す: Brzezinskiは親戚ではなかったが、家族の友人だった。フランスのユダヤ人が国外追放される前、1940年に彼は肺結核のために死んだが、おそらく貧困と取り分け絶望のためだった。彼は粗末な部屋に住み、アテリエィは配管業者の作業場の空き部屋だった。戦争中、彼は何の委託もなく、もはや売るものさえ無かった時、この暗く不潔な地下室のささやかな家賃でさえ彼にとって払うことが不可能になった。彼は芸術アカデミの高名な教授ブーシェの学生の時に良き時代を知っていた。彼は相当長く家賃を払ってなかったので、彼の死後すぐにR.が彼の遺品を確保するために現れた時に家主は所有物のどれも手放そうとしなかった。やっとのことで2つのブロンズ胸像を引き取ることが出来た。それらに対してさえも支払いを余儀なくされたが。R.はどれほどの数の芸術品と絵画が隅と配管業者の作業場の壁によりかかっていたのか未だ憶えていた。それら全部がいったいどうなったのか?
そう、それは事実だ: 4階建てのアパートの階段に2つのブロンズ胸像があり、それらの一つが"Sasha-Piotr"という奇妙な刻銘を持っている。それはその若い見知らぬ人の父を描いているのであろう。大変良く似ている。だが、どうやって見知らぬ人は彼がブロンズ胸像の所有者であると分かったのであろう? Brzezinskiの人生の最後は全くの孤独だった。彼は非常に貧しかったので手紙のための切手を辛うじて買えた。彼は友人がいなかったし、今は誰も彼のことを憶えていないだろう。R.家彼等自身が田舎に隠れていた。どうやって見知らぬ人は追跡を成功したのであろうか?
Jacques R.は見知らぬ人の要求に応えないが、彫刻家の2つの作品を所持していることを認め、それらを芸術家の記念として保持したいと願っている。それにもかかわらず、彼はそのことについて妻と議論するだろう。R.は商売人だから一目で見知らぬ人がおそらく一フランも持っていないことが分かるが、そんな顧客がしばしば最も信頼出来ることも知っている。主人R.は店の裏の作業場で仕事をしている夫人に話しに行くが、ドアを通って戻る時、彼は首を振っている。価格交渉もせずに、見知らぬ人はさようならを言って去っている。もし彼が、ル・ヴェルネ収容所のユダヤ人全員が国外追放される少し前に収容所の仲間によって描かれた油絵を除いて父親に関して何も持っていないと言っていたなら?
JacquesとLaila R.はそのことを再び話さなかったけれども、両者はこの出来事を憶えている。何十年間、そのブロンズ胸像は彼等のアパートの戸棚の上にタオルで包まれて放っておかれている。時々、彼等はその見知らぬ人は誰だったのだろうと自問する。
この本は4部(第二部と第四部は未だ執筆中です)に分かれていますが、少なくとも第一部のAnarchyを読む限り、Scharlau博士はグロタンディーク氏に感情移入することなく多くの貴重な資料から事実だけを淡々と積み重ねて、いわば叙事詩のような感触を受けました。しかし、一箇所だけ素晴らしく叙情的な逸話があります。それが初っ端のプロゥログです。この逸話に出て来る青年がグロタンディーク氏であるという決定的証拠はありませんが、状況的に氏以外には考えられません。
そのプロゥログの私訳を以下に載せておきます。なお原文へのリンクは当たり前ですがありません。これを読んで皆さんも原書を購入する切っ掛けになれば幸いです。
[追記: 2019年12月28日]
グロタンディーク氏の数学コミュニティとの決別に関して論じたものとして"グロタンディーク: 決別の神話"があります。
Winfried Scharlau著アレクサンドル・グロタンディークとは何者か? 第一部 混乱よりプロゥログ: ブロンズ胸像
1949年パリス[訳注: パリという馬鹿丸出しのカタカナ表記を止めましょう]。Rue des Fontaines du Temple[訳注: フォンテーヌ・デゥ・タンプル通り]は市の3番目の行政区であるマレ地区にある短く狭い通りだ。ここに婦人向け毛皮ジャキツとコゥツの製造者のJacquesとLaila R.のアテリエィ且つお店がある。彼等は田舎の小さな村で戦争の恐怖を生き延びた(彼等の親戚の多くがビルケナウとアウシュヴィッツ[訳注: 日本ではアウシュヴィッツ強制収容所と通称されていますが、実際にはアウシュヴィッツ第一強制収容所がアウシュヴィッツにあり、アウシュヴィッツ第二強制収容所がビルケナウにありました]に国外追放されたけれども)。数年の間に今彼等はパリスに住んでいる。パリスは破壊から免れた市だった。彼等は商売を再開している。損害と傷跡は表面に見えない。
ある日、20歳をさほど過ぎていない若い男、見知らぬ人が店に現れる。彼はみすぼらしい身なりで、小作農らしく見える。彼は外国人であり、どこでも必ず彼が外国人だろうと思う。ユダヤ人がそうであるように、彼はユダヤ系であり得るが、彼の手と靴は南部からの小作農、田舎からの男のそれである。見事に完璧な仏語(彼がフランス生まれではなかったと気がつくけれども)で彼は要求、それも異常な要求をしたが、彼の要求全体が異常なものであろうと思わざるを得ない。
青年はR.家がブロンズ胸像を所有しており、それはおそらくR.家の親戚であろう、彫刻家Aron Brzezinskiが25年より前に青年の父親を題材にしていると聞いている。だから彼はこの胸像を買いたいと思っている。
Jacques R.は思い出す: Brzezinskiは親戚ではなかったが、家族の友人だった。フランスのユダヤ人が国外追放される前、1940年に彼は肺結核のために死んだが、おそらく貧困と取り分け絶望のためだった。彼は粗末な部屋に住み、アテリエィは配管業者の作業場の空き部屋だった。戦争中、彼は何の委託もなく、もはや売るものさえ無かった時、この暗く不潔な地下室のささやかな家賃でさえ彼にとって払うことが不可能になった。彼は芸術アカデミの高名な教授ブーシェの学生の時に良き時代を知っていた。彼は相当長く家賃を払ってなかったので、彼の死後すぐにR.が彼の遺品を確保するために現れた時に家主は所有物のどれも手放そうとしなかった。やっとのことで2つのブロンズ胸像を引き取ることが出来た。それらに対してさえも支払いを余儀なくされたが。R.はどれほどの数の芸術品と絵画が隅と配管業者の作業場の壁によりかかっていたのか未だ憶えていた。それら全部がいったいどうなったのか?
そう、それは事実だ: 4階建てのアパートの階段に2つのブロンズ胸像があり、それらの一つが"Sasha-Piotr"という奇妙な刻銘を持っている。それはその若い見知らぬ人の父を描いているのであろう。大変良く似ている。だが、どうやって見知らぬ人は彼がブロンズ胸像の所有者であると分かったのであろう? Brzezinskiの人生の最後は全くの孤独だった。彼は非常に貧しかったので手紙のための切手を辛うじて買えた。彼は友人がいなかったし、今は誰も彼のことを憶えていないだろう。R.家彼等自身が田舎に隠れていた。どうやって見知らぬ人は追跡を成功したのであろうか?
Jacques R.は見知らぬ人の要求に応えないが、彫刻家の2つの作品を所持していることを認め、それらを芸術家の記念として保持したいと願っている。それにもかかわらず、彼はそのことについて妻と議論するだろう。R.は商売人だから一目で見知らぬ人がおそらく一フランも持っていないことが分かるが、そんな顧客がしばしば最も信頼出来ることも知っている。主人R.は店の裏の作業場で仕事をしている夫人に話しに行くが、ドアを通って戻る時、彼は首を振っている。価格交渉もせずに、見知らぬ人はさようならを言って去っている。もし彼が、ル・ヴェルネ収容所のユダヤ人全員が国外追放される少し前に収容所の仲間によって描かれた油絵を除いて父親に関して何も持っていないと言っていたなら?
JacquesとLaila R.はそのことを再び話さなかったけれども、両者はこの出来事を憶えている。何十年間、そのブロンズ胸像は彼等のアパートの戸棚の上にタオルで包まれて放っておかれている。時々、彼等はその見知らぬ人は誰だったのだろうと自問する。
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