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小平教授の個人的回想

私は今まで私個人の経歴等をネット上では言及して来ませんでしたが、ほんの少し暴露しますと、数学科卒業です[こんなことは私の身辺及び友人共は百も承知ですが、特に友人共の知り合いの中には私が何者か知らない人もいるので念のために]。今でもよく数学や理論物理の本を読むのが好きです[と言うか、これでも研究者の端くれですから]。私がこれらの類の本を読むのは、実生活で嫌なことに出会った時に多いのです。昨年後半から体調が優れず、最終的には結構な期間、入院せざるを得なくなり、暇つぶしにと、故Serge Lang博士の"Complex Analysis"を持ち込みました。余談ですが、この本は内容がとてもいいのですが、第3版にもかかわらず、変な処でミスプリント(例えば、留数定理の応用の例で、ローラン展開の級数の符号が逆になっているとか)、著者の勘違いで定理の引用の番号が間違っているとか、定理の証明でもLang博士独特の飛躍が処々見受けられ、初学者がつまずきやすい嫌いがあります。ですから、複素函数論を初めて勉強される人にはお勧めしません。
あれやこれや楽しんでいる時に、"Asian Journal of Mathematics"の2000年度第4巻の№1の巻頭が、故小平邦彦博士の生誕85周年を記念して特集を組んでいることを知りました。小平博士のことは私が言うまでもなく、現代数学の巨匠の一人であり、皆さんよく御存知でしょう。私が函数論を勉強した時に読んだ本が博士の"複素解析"でした。この本は非常に丁寧に書かれていて、内容もいいので後に英訳され、ケンブリッジ大学出版から"Introduction to complex analysis"として出ております。私は何とこの英訳本も読みました(残念ながら、英訳本ではいくつかの定理の証明での式にミスプリントがあり、博士の名誉のためにも改訂されることを希望します)。もっと遡れば、私の中学校の数学の教科書は小平博士の執筆による東京書籍のものでした。
その"Asian Journal of Mathematics"の2000年度第4巻の№1の巻頭の中に、佐武一郎博士が"PERSONAL REMINISCENCES OF PROFESSOR KODAIRA"(PDF)を寄稿なさっています。佐武博士の本と言えば、"線型代数学"が有名で、これも後に英訳されています。大学理工系学生の数学一般教養の中で2大双璧は言うまでも無く、微積分と線型代数ですが、微積分では故高木貞治博士の"解析概論"と並び、必読書と言われたものでした。
以下に、寄稿文の私訳を載せておきますが、非常に躊躇いもあります。すなわち、自然科学系の学生、少なくとも数学、物理を履修した人なら、これくらいの英文は当り前に読めるはず(数学、物理の卒業研究では、いやでも原論文を読むはずであり、私の経験では英語のみならず独仏語まで必要だったし、分野によっては露語までやらされた人までいます。因みに私の卒業研究は多変数解析函数論でした)なので、和訳の必要性なぞ全くないと確信するからです。だけども、まだ教養年度の学生や意欲のある高校生を念頭に、進路を見失いがちな若い人達への幇助となれば幸いです。

[追記: 2019年03月18日]
このペィジは2011年01月05日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。

小平教授の個人的回想
2000年03月20日 佐武 一郎

私が小平教授と初めて会ったのは、1958年の晩夏だった。私達(妻と私)はパリから、一学年度(実際には二年だった)を高等研究所で過ごすため着いたばかりだった。私が1947-50年の東京大学学生で、彼は1944-49年に物理学科の助教授だったから、私達はお互いに見た機会があったはずであるが、私はその時は名前でしか知らなかった。
小平教授と夫人は私達の家(高等研究所のプロジェクトハウス)に来て、挨拶をし、親切にも米国及びプリンストンで生活するのに必要な指導をしてくれた。小平教授は、複素多様体の変形理論のコースを既に始めており、その中で例外的リー群の詳細が必要なんだと私に語った。だが、私のリー群の知識は彼の質問に答えるのには明らかに不足だったので、関連する参考を与えることしか出来なかった。

高等研究所で、小平教授とDon Spencerは、トピックスに制限を設けないことを意味する"何も無いセミナー"と呼ばれるセミナーを実行していた。私はこのセミナーでいくつか話をしたが、常連ではなかった。GrauertとAndreotti、Calabi、Vesentiniの3人のイタリア人数学者は常連だった。私はまた、小平教授のプリンストン大学及び後にはジョンズ・ホプキンス大学での講義に参加する機会があった。彼の講義は一種のマジックだった。説明の必要が殆ど無いほどに明快に組立てられていた。一度、井草家のパーティでMumfordが、小平教授とSpencerが殆ど会話をせずに、とても複雑な話題について互いにコミュニケーションを取れるのか疑問を発したことがあった。

プリンストンでは、週末の郊外へのドライブに小平家と私達はよく同伴した。New Hope、Washington Crossings等を訪れる午後を楽しみ、プリンストン大学聖堂でのコンサートで素晴らしい夕べがあった。また、小平家は私達をとても親切によく家に招待してくれた。私達がくつろいだ時に、小平教授は、数学者と音楽家の多くの面白い物語(殆が逸話)を話すのが好きだった。よく知られているように、彼は自分でピアノをうまく弾いたので、とても音楽を好んだ。演奏不可能なバルトークの楽譜があると言いながら、冗談を楽しんだ。彼は動物にも興味を持っていた。時には動物または魚のかわいい顔の写真を私達に見せて、有名な数学者の顔を思い出すに違いないと言った。

だが、彼の家を訪問する時、いつも数学をする用意があるのを印象深く思った。居間やどこにおいても、彼が偶々座った椅子の側には、計算の跡が残るメモ用紙があるのを私は気づいた。彼が研究室よりも台所で仕事をしたことは有名である。多くの数学者は静かな孤立した環境で仕事をするのを好む。しかし、小平教授は夫人の周辺の温かい家族的雰囲気の中で、数学に専念するのを好んだ。

私はまた、岩澤健吉教授と実懇であり、彼は私の東京大学での教師の一人で、小平教授よりも二歳半若かった。これら二人の著名な数学者の比較を心中で思い描くことは非常に面白い実験だった。小平教授に対して、岩澤教授は音楽または動物に殆ど興味を見せなかったが、文学に興味を持っていた。小平教授はクラシック音楽のレコードの大きな収集を持っていたが、岩澤教授の書棚には井伏鱒二と谷崎潤一郎のような小説家の全集を見た。彼等は性格は全く違うけれども、共通した習癖があった。たぶん彼等の細君が例外的に運転が(日本人妻のうちで)上手だからであろう、どちらも全く自動車運転をしなかった。両者とも旅行を面倒臭かった。と言うのは、一度、ウッズホールで私が小平教授と一緒にいた間、Andreottiがある申し込みをするため彼に交渉をした。つまり、Andreottiはイタリアに彼を招待したかった。彼がただイタリアに来るつもりなら(殆ど講義をせず)、旅行の手続き、小平家のための費用すべて持つと、Andreottiは言った。私はそれは非常に親切な申し込みだと思った。が、小平教授はうんとは言わなかった。

彼の旅行に対する面倒臭がりの非常に少ない例外的な一つは、1985年のウルフ賞授与のためのイスラエル旅行だった。偶然にも、私も同時期にPiatetskii Shapiroからテルアビブに招待されたが、Shapiroは親切にも私達がセレモニーに参加出来るよう取り計らってくれた。それは私達とっても忘れ難い経験だった。しかし、小平教授は着物姿の娘のYasuko(訳注:漢字名が分からないので、失礼が無いように原文のままにしました)を同伴していて、長旅の後の多くの歓迎会、少しの大学での講義で少し疲れているように見えた。

小平教授と家族は1967年以降日本に戻っていたが、同時期私はシカゴからバークレーに移った。私達が1980年仙台に戻って来た後、米国でよりも日本で会う機会が少なかったけれども、東京で小平家と会う機会があった(時には池袋近くの彼等の家で)。台所で非常に素晴らしいステレオ・ビデオシステムがあったのを憶えている。それで、彼は音楽と同様に"落語"を楽しんでいた。一度、訪問した時、彼は電気工に会うため外出すると朗らかに謝った。小平夫人は私達に、主人は近くの電器店の上客だと言い添えた。

1986年、日本数学会が1990年の国際数学者会議を京都で開くため準備を始めた時、彼は名誉会長に指名され、最初の少しの会合では組織委員の議長として世話をしていた。彼からの電話で、国際数学者会議報告書のためのチーフエディタをやってくれないかと請われて、それを私はSpringer-Verlag東京支社と一緒にやった。だが、残念ながら、小平教授は喘息を患っていて、国際数学者会議での彼の義務を放棄せざるを得ないほどまでに悪化した。他にも、聴力に障害を来たし、もはや音楽を楽しむことが出来ず、それは健康にも影響があったに違いない。京都での会議の数年後、私達は山梨で入院していると聞かされた。その入院先では、義理の息子(Yasukoの主人)が医師だった。1997年夏、私達は彼がとうとう逝去したと聞いて、悲しんだ。しかしながら、小平教授は、彼の数学上での偉大な業績によってだけではなく、彼を知るすべての人を魅了する、温かく友好的な人柄によって、長らく私達の記憶に残るであろう。

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