ナチ政権下でのドイツ数学界の崩壊については、これまでも"ナチス支配下でのゲッチンゲンの数学"、"フランクフルト数学セミナーの歴史について"を紹介しました。
こういう惨状に至らしめたのは言うまでもなくナチなんですが、いつの時代でもどの国でも馬鹿共は必ず出現して繁栄し、それをまた馬鹿共が支持して世論を形成するという人間社会の構造的欠陥を今更とやかく言っても始まりません。問題は数学界にいる人々が政治的難題をどう考え、どう対応し、どう行動したかなんです。当時のドイツ数学界の状況を今から考えるとまともな人は海外移住するしか方法がなかったくらい馬鹿共が権勢を誇っていました。ヒルベルトがもう少し若くて元気であれば、もう少しソフトランディングを出来たかも知れないという非常に無責任な意見がありますが、そんな仮定上の話をしても仕方がないし、もう一人の力ではどうにもならないくらい当時のドイツ数学界は腐っていました。
その腐ったドイツ数学界で有名なのが誰もが知る、あの悪名高きルートヴィヒ・ビーベルバッハです。私はいつも言うのですが、どの分野でも超一流、一流は世界規模に視線を向けるが、二流、三流以下は国内にしか視線を向けません。ビーベルバッハは典型的な二流以下の人物です。それなりの数学貢献があると言う人もいますが、それを考慮してもビーベルバッハが仕出かしたことの重大性から見れば差し引きで完全に負しか残りません。ビーベルバッハは戦後に数学界から追放され失意の中で亡くなりました。
では、ビーベルバッハ以外の人物はどうなったか。それなりの罰則を受けた人が多い中で、うまく逃げ果せた人の代表例がヴィルヘルム・ジュースです。私や私の友人共よりも若い年齢の人達は無邪気にもジュースと言えばオーバーヴォルファッハ数学研究所を設立した人くらいの認識しかありません。そんなことでいいのかということで友人共の一人と相談して今回紹介するのはヴォルケル・レンメルト博士のMathematical Publishing in the Third Reich: Springer-Verlag and the Deutsche Mathematiker-Vereinigungです。
私がこの論文を知ったのは2010年で全く偶然でした。当時私はラインホルト・レンメルト博士のグラウエルト博士との共著論文の一つを読んでいて、ある箇所で数学的事項ではなくドイツ語の表現の仕方に違和感を覚え、こんな表現が普通なのかどうかドイツ語圏内で検索を繰り返したところ、その論文に出会いました。一瞬、あれぇレンメルト博士は数学史の研究もしていたのかと思いましたが、よく調べるとヴォルケル・レンメルト博士はラインホルト・レンメルト博士の御子息です。それからは友人共や海外の友人達に読め読めとしつこく言った思い出があります。なおラインホルト・レンメルト博士は2016年3月9日にお亡くなりになりました。遅まきながら、ご冥福をお祈り申し上げます。
そのヴォルケル・レンメルト博士の論文の私訳を以下に載せておきます。例のごとく、注釈欄を省いていますが、インデックスはそのままです。
[追記: 2018年02月17日]
この論文はあくまでシュプリンガー関連のみを扱っています。ビーベルバッハやジュース等は他にも悪事をやりたい放題やりました。それらの詳細は、この論文の参考文献にも載せられている同博士のMathematicians at war: Power Struggles in Nazi Germany's Mathematical Community: Gustav Doetsch And Wilhelm Süss(PDF)が詳しいです。
私がビーベルバッハやジュース等を許せないのは、彼等は数学をやっているのではなく、ヤクザ顔負けの脅し、陰謀、ナチ政権の忖度等を何の良心の呵責もなく平気でやっており、完全に数学者ではなく政治屋です。ここで政治家と言わないのは、政治家なら政治の舞台で正々堂々とやるべきなのに、それをやっていないからです。政治屋はそこらの総会屋と変わらないレベルの低い輩と言ってもいいでしょう。
こういう惨状に至らしめたのは言うまでもなくナチなんですが、いつの時代でもどの国でも馬鹿共は必ず出現して繁栄し、それをまた馬鹿共が支持して世論を形成するという人間社会の構造的欠陥を今更とやかく言っても始まりません。問題は数学界にいる人々が政治的難題をどう考え、どう対応し、どう行動したかなんです。当時のドイツ数学界の状況を今から考えるとまともな人は海外移住するしか方法がなかったくらい馬鹿共が権勢を誇っていました。ヒルベルトがもう少し若くて元気であれば、もう少しソフトランディングを出来たかも知れないという非常に無責任な意見がありますが、そんな仮定上の話をしても仕方がないし、もう一人の力ではどうにもならないくらい当時のドイツ数学界は腐っていました。
その腐ったドイツ数学界で有名なのが誰もが知る、あの悪名高きルートヴィヒ・ビーベルバッハです。私はいつも言うのですが、どの分野でも超一流、一流は世界規模に視線を向けるが、二流、三流以下は国内にしか視線を向けません。ビーベルバッハは典型的な二流以下の人物です。それなりの数学貢献があると言う人もいますが、それを考慮してもビーベルバッハが仕出かしたことの重大性から見れば差し引きで完全に負しか残りません。ビーベルバッハは戦後に数学界から追放され失意の中で亡くなりました。
では、ビーベルバッハ以外の人物はどうなったか。それなりの罰則を受けた人が多い中で、うまく逃げ果せた人の代表例がヴィルヘルム・ジュースです。私や私の友人共よりも若い年齢の人達は無邪気にもジュースと言えばオーバーヴォルファッハ数学研究所を設立した人くらいの認識しかありません。そんなことでいいのかということで友人共の一人と相談して今回紹介するのはヴォルケル・レンメルト博士のMathematical Publishing in the Third Reich: Springer-Verlag and the Deutsche Mathematiker-Vereinigungです。
私がこの論文を知ったのは2010年で全く偶然でした。当時私はラインホルト・レンメルト博士のグラウエルト博士との共著論文の一つを読んでいて、ある箇所で数学的事項ではなくドイツ語の表現の仕方に違和感を覚え、こんな表現が普通なのかどうかドイツ語圏内で検索を繰り返したところ、その論文に出会いました。一瞬、あれぇレンメルト博士は数学史の研究もしていたのかと思いましたが、よく調べるとヴォルケル・レンメルト博士はラインホルト・レンメルト博士の御子息です。それからは友人共や海外の友人達に読め読めとしつこく言った思い出があります。なおラインホルト・レンメルト博士は2016年3月9日にお亡くなりになりました。遅まきながら、ご冥福をお祈り申し上げます。
そのヴォルケル・レンメルト博士の論文の私訳を以下に載せておきます。例のごとく、注釈欄を省いていますが、インデックスはそのままです。
[追記: 2018年02月17日]
この論文はあくまでシュプリンガー関連のみを扱っています。ビーベルバッハやジュース等は他にも悪事をやりたい放題やりました。それらの詳細は、この論文の参考文献にも載せられている同博士のMathematicians at war: Power Struggles in Nazi Germany's Mathematical Community: Gustav Doetsch And Wilhelm Süss(PDF)が詳しいです。
私がビーベルバッハやジュース等を許せないのは、彼等は数学をやっているのではなく、ヤクザ顔負けの脅し、陰謀、ナチ政権の忖度等を何の良心の呵責もなく平気でやっており、完全に数学者ではなく政治屋です。ここで政治家と言わないのは、政治家なら政治の舞台で正々堂々とやるべきなのに、それをやっていないからです。政治屋はそこらの総会屋と変わらないレベルの低い輩と言ってもいいでしょう。
[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2018年02月16日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
第三帝国における数学出版: シュプリンガー出版社とドイツ数学者協会
2009年 ヴォルケル・レンメルト
1937年10月、フライブルクの数学者ヴィルヘルム・ジュース(1895-1958)がDeutsche Mathematiker-Vereinigung[訳注: ドイツ数学者協会](DMV)の総裁に選ばれた。DMV委員会のメンバー、ヘルムート・ハッセ、コンラッド・ミュラー、エマニュエル・シュペルナーが1937年8月に適格な候補者を探していた時、彼等はジュース支持論があることを知った。彼がDMV業務に関心を持っていることは知られていたし、DMV委員会での傾向、言い換えれば彼等自身のものと彼の見解が一致すると思った。彼はルートヴィヒ・ビーベルバッハ(1886-1982)の学生だった。ビーベルバッハは第三帝国においてDeutsche Mathematik[訳注: ドイツ人数学]という反ユダヤ主義の人種的理論をプロパガンダし、DMVに反対な国家社会主義者の数学者達のグループを率いていた。DMV委員会はジュースが元先生をDMVと和解させること、少なくともビーベルバッハの徒党からの政治的攻撃の脅威からDMV及びその政治的見解を守ることを出来るかも知れぬと願った。更にジュースは最近ナチ党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei[訳注: 国家社会主義ドイツ労働者党])のメンバーになっていたから、教育研究省と良い関係を持っていると思われた。従って、それが1937年10月にジュースの当選を賛同した。
ジュースは次第に第三帝国においてドイツの数学コミュニティの最も有力な代表者の一人になり、ナチ当局、特に教育研究省と親密に協力した。この協力中にDMVの専門家的ポリシーは、ナチ政府のまさに核心、特にその反ユダヤ主義と反国際主義に立つ問題と密接に絡み合った。教育研究省はこれらの価値観を科学の分野に伝えることに懸命だった。このプログラムにおけるDMVの協力、特にジュースの協力は(その結果は彼等のコントロールを超えていたが)、戦争の間の彼等の有力で成功した専門家的ポリシーの必要条件だった[10]。
DMV総裁の任期中(1945年まで続いたが)、ジュースは繰返しシュプリンガー出版社と対立した。シュプリンガーはドイツの最有力科学出版社の一つだが、その数学部門は世界中の名声を持っていた。第一次世界大戦後、シュプリンガーは数学において第一級の出版プログラムを始めるために傑出した数学者達を登用した。この事業においてフェリクス・クライン、ダフィット・ヒルベルト、リチャード・クーラントがゲッティンゲンの影響を意味した。シュプリンガーのイエロー本は最も遠い所にもすぐに知られ、どの数学者も逃れられないイエロー疫病とよくほのめかされた。DMV代表者としてのジュースとフェルディナント・シュプリンガー及び彼の数学的アドバイザーのフリードリッヒ・カール・シュミット(1901-1977)の間の衝突の多くの事例は国家社会主義のもとで科学出版の独立性がどのように動揺させられたかを実例で説明するのに都合がいい。
ジュースとMathematische Zeitschrift[訳注: 数学ジャーナルという意味ですが、固有名詞なので以降そのまま表記します]
1938年3月3日、ジュースはDMV総裁としてベルリンへ行きDames博士と会った。Damesは教育研究省において数学の責任者だった。ジュースはDMV委員会のメンバー、ハッセ、ミュラー、シュペルナーへの回覧状の中でこの会合について報告した1。最初ジュースとDamesは1938年9月にバーデン=バーデンで催されるDMVの年次コンファレンスの編成を議論した。それから彼等は、ユダヤ人と亡命者のDMVメンバー("Judenfrage"[訳注: ユダヤ人問題という意味ですが、固有名詞化しているので以降そのまま表記します])を対処する方法、数学出版におけるユダヤ人数学者達の影響を制限する方法についてもっと政治的に関連する問題に関して話した。これらの問題の処理に対する管理に関する重要政治課題または何らかのルールを教育研究省は直接的に厳命しなかった。それどころかジュースはDMV委員会の支持を受けて、"Judenfrage"に関するDMVポリシーをまとめることに率先した。彼の動機の中には、専門的ロビー活動の手段としてのDMVの立場がルートヴィヒ・ビーベルバッハに反対の根拠を失うだろういう懸念があった。特にビーベルバッハと彼の徒党が国家社会主義者数学者連盟(NS-Mathematikerbund)を計画していたので、彼等の計画を公認するためにユダヤ人と亡命者のDMVメンバーの問題を明確に指し示し、実質的にドイツの数学コミュニティにおける分裂を脅していたからだ。ジュースは、Damesに数学出版におけるユダヤ人数学者達の役割に注意を促した時、Mathematische Annalen[訳注: 数学年報という意味ですが、まさか数学界にいる人でこのジャーナルの名前すら知らない人がいるとは思えませんし、固有名詞ですから以降そのまま表記します]とMathematische Zeitschrift(MZ)、両方ともシュプリンガー出版社により刊行されているが、両誌の編集委員会の状況に関する"個人的見解"をしたことを報告している。ユダヤ人達は発表をまだ許されているはずだけれども、ドイツのジャーナルはユダヤ人達によってこれ以上代行されるべきではないと彼は述べ、この問題に関する彼の立場はDamesに明らかであると希望した。これに対してDamesはシュプリンガーに圧力をかけることを約束したが、その結果著者達はユダヤ人編集者達ともう交渉する必要はないだろう。
これはハッセ、ミュラー、シュペルナーへの回覧状の中でジュースが言ったことだけれども、Damesとの会話の中で彼は明らかにもっと明確になっていた。数日後彼がDamesへ手紙を書いた時、彼が思うシュプリンガー出版社における編集組織に関する問題に立ち戻った。彼はリチャード・クーラントの"イエローシリーズ" Grundlehren der mathematischen Wissenschaften in EinzeldarsteLLungen[訳注: 諸例における数理科学の基礎]のための段取りを述べた。"イエローシリーズ"ではF. K. シュミットが主任編集者、ユダヤ人亡命者クーラントが"アングロサクソン領域"のための編集者だった。彼はMathematische Annalenに対しても同様な段取りがなされていると判断した。Mathematische Annalenの編集長オットー・ブルメンタルはユダヤ人だった。ジュースによればシュプリンガーは英国で共同編集者を探していた。ジュースの見解は、"ドイツの名声"のために"我々のチャンピオンであるフェリクス・クラインによって創始された、この一流ジャーナル"2に影響を持っている外国人達を阻止すべくすべての手段が使用されるべきであるだった。既に起きている実例として、彼はZentralblatt Für Mathematik und ihre Grenzgebiete[訳注: 数学及びその周辺分野のための主要ジャーナル]を指し示した。このジャーナルは今や亡命者オットー・ノイゲバウアーによってコペンハーゲンから運営されていた。
MZに関してジュースによれば、事は良好だった。しかし、彼はDamesに頼んだこと、つまり教育研究省が"イサイ・シューア教授をMZ委員会から解任するよう出版社に命じること"を思い出させた3。彼自身はMZの編集長コンラート・クノップに問題を提起するだろうと付け加えて書いた。
1938年3月1日、つまりジュースのDamesとの会合の2日前、クノップはジュースに手紙を書き、MZの諮問委員会(wissenschaftlicher Beirat)に加わるよう招聘した。それはシュプリンガーの編集委員会をアーリア化しようとするジュースの努力をいくぶん曖昧に解明している4。クノップからもっと早期の招聘があったが、MZ委員会に2人のユダヤ人メンバー、エトムント・ランダウと先に言及したイサイ・シューア(1875-1941)がいたからジュースは辞退した。イサイ・シューアはクノップ、レオン・リヒテンシュタイン、エルハルト・シュミットと一緒に1918年のMZの共同創始者だった。エトムント・ランダウが1938年2月に亡くなり、状況を変えた。クノップがジュースに説明したように、これがクノップに改めて招聘させることとなった。ジュースがDamesにシューアをMZ委員会から解任せよと要求した時に、彼が3月3日までにクノップの2度目の招聘を既に読んでいたかどうかの推測は未解明だが、DMVのハッセ、ミュラー、シュペルナーへの報告の中で彼はシューアの問題に言及しなかったし、クノップへの返書の中でも言及しなかった。この返書の中でDamesとの会話を説明している。だが、ハッセ、ミュラー、シュペルナーへの報告で言ったこと及びDamesへの早期の手紙のそれと違うバージョンだ。クノップに対して、数学出版におけるユダヤ人数学者達の役割に関して指揮を執っているのは教育研究省だったと彼はほのめかし、教育研究省からはMZ委員会からシューアの排除があるだろうと聞いたと言っている。しかし、この行動の過程を明らかに要求していたのは彼自身だったことを言及していない。クノップへの手紙の中で描かれているように、ジュースの主な関心は彼がMZ委員会に合流するならシュプリンガーに関するDMVポリシーを実施するための彼の自由度に起こり得る制約だった。クノップは彼に、これは該当しないだろうこと、シューアに関してはクノップも数学ジャーナルにユダヤ人達が公式的にこれ以上参加することは実際的ではないと考えていたので、その問題に教育研究省が手を貸すことを歓迎するだろうことを言って安心させた5。
4月Reichsschrifttumskammer[訳注: 第三帝国文学院](ゲッベルスの宣伝省の一部門であり、その役割はドイツのライターと出版社をコントロールすることだった)は、Mathematische AnnalenとMZの委員会にまだユダヤ人編集者達がいるのなら理由をシュプリンガーから知ることを命じた。Reichsschrifttumskammerは特に教育研究省によって作られた質問に言及した。4月の終わりまでにシューアがMZ委員会を去らねばならないだろうことは明らかだった。クノップがこれをジュースに報告した時、MZ委員会へ合流の招聘は遂に了承された。シューアの名前は1939年のMZのタイトルページに現れず、彼は同年に移住した。
だが、これがシューアへの唯一の圧力ではなかった。1938年3月末、ビーベルバッハはプロイセン科学アカデミーにおいて、シューアを意味する"ユダヤ人達がまだ学界委員会のメンバーだということは驚く"と言っていた。数学者テオドール・ファーレン(1869-1945)は長年ナチ党員でビーベルバッハの盟友だったから、交代を要求していた。そして、マックス・プランクは問題を処理すると約束をしていた。一週間内にシューアは委員会を辞職していた[12, p. 122]。
Zeitschriftとシュミット事件
ユダヤ人数学者達とシュプリンガー出版社の間の関係に関するジュースの報告及び1938年3月のイサイ・シューアに関する告発が彼の数学出版への介入、特にシュプリンガーを攻撃する唯一の企てではなかった。
シュプリンガーがオットー・ノイゲバウアーとリチャード・クーラントの賛助のもとでZeitschriftを刊行したことで1931年にドイツの数学査読の分野に登場していた。始めからZeitschriftはベルリンのプロイセン科学アカデミーによって刊行された伝統的なJahrbuch über die Fortschritte der Mathematik[訳注: 数学の発展年鑑]と直接に競合した。Jahrbuchは査読において絶え間の無い遅れで悪名高かった一方で、Zeitschriftはもっと効率がいいことですぐに有名になった。1939年までにJahrbuchはルートヴィヒ・ビーベルバッハの絶え間の無いイデオロギー的干渉と付き合わなければならないでいた。ビーベルバッハはアカデミーのJahrbuchのスポークスマンとして就任していた。Zeitschriftもナチの人種的かつ国家主義的ポリシーに関する問題を抱えた。編集委員会に非アーリア人メンバー達がいた。つまり、例えばイタリア人数学者トゥーリオ・レヴィ=チヴィタ。彼は1938年10月に追い出されなければならなかった。その編集長である亡命者オットー・ノイゲバウアーはレヴィ=チヴィタ事件の結果として1938年11月に辞職した。その上に、ジャーナルは国際的にふさわしいのが明らかだったので、1937年12月にシュミットはZeitschriftとの協力のせいで教授職に関する交渉において一人の数学者が嫌われてしまっているとシュプリンガーに報告していた6。これらの環境を考慮に入れると、それぞれの出版社de Grnyterとシュプリンガーの間に経済的競争が無く、Jahrbuch委員会におけるビーベルバッハとシュプリンガーの間のイデオロギーの不一致が無ければ、2つのジャーナルがある種の同盟を結んでいたことは妥当であったであろう。しかし、30年代の終わりまでZeitschriftとJahrbuchの融合または少なくとも協力は議論された。
1938年末、新しいジャーナルMathematical Reviewsが米国においてアメリカ数学協会によって創刊されようとしているというニューズがドイツ数学コミュニティに広がった。当然これは、ナチ党員であるか否かを問わずドイツ人数学者達と出版社各社の間に騒動となった。1939年1月ビーベルバッハはde Grnyterとシュプリンガーに融合を考えるよう促し、手順に関する詳細な提案を作製さえもした。また1939年の始め、DMV、すなわち総裁ジュースがde Grnyterとシュプリンガーに融合させるために直接の圧力をかけようと努めた[12, pp. 167ff], [9, pp. 327-333]。
シュプリンガーが1939年の1月、遅くとも1939年3月に融合のアイデアを考えたと議論されて来ている[12, p. 168-170]。しかし、シュプリンガーは彼自身のプランを本当に持っていた。それは先ず米国人達と状況を議論し、出来ればZeitschriftとMathematical Reviewsの協力をもたらすことだった。
フェルディナント・シュプリンガーは1938年12月にオズワルド・ヴェブレンとMathematical Reviewsの創刊を議論し、彼の数学査読における利益のために主要数学アドバイザーのシュミットを米国に送ることを提案した[9, p. 331]。ジュースはこれを聞き知り、すぐに教育研究省のDamesに、シュプリンガーが動機についてジュースに知らせない限りシュミットに旅行許可を与えないよう迫った7。ジュースはまたDamesに省とReichsschrifttumskammerの両方の上司にシュプリンガーの計画を知らせてはどうかと言った。シュプリンガーが米国に行くシュミットのために省の許可を獲得していることをジュースが4月に知った時、Damesの上司のKummer大臣に手紙を書き、再びシュミットの旅行に強く反対した。彼はJahrbuchとZeitschriftの間の競合とそれらの融合に対するDMVの関心を指し示した。シュプリンガーのMathematical Reviewsとの接触が、実際に彼等がしたように、このアイデアに反して走るだろうという恐れをジュースは述べた。議論を強化するため、彼はZeitschriftを"ユダヤ人数学者達と彼等の友達のグループ"の組織として特徴づけ、シュプリンガーがまだ移住者達、特にリチャード・クーラントと近い結びつきを持っていると強調した。従って、"シュプリンガーのスポークスマンによってドイツの大義が米国においてともかくも表現されるだろう"ことは疑わしいとした。とうとう彼はシュミットが次週に米国へ旅立つつもりだから旅行許可を無効にしてはどうかと言った8。
2日後の4月29日、ジュースはベルリンのKummer大臣に事はどうなっているか訊ねるために電話をした。Kummerがシュミットは既に旅立っていることを知らせた時、ジュースは彼の知識によればシュミットは船に乗るためブレーメンに向かう途中に過ぎず、船は米国から5月1日または2日に到着するはずなので、シュミットをまだ止められることを意味していると言った。Kummerはこれを取り上げなかったが、教育研究省の彼の上司がきっぱりとシュミットに行かせることを決定していると説明した。シュミットがZeitschrift問題を議論するのみならず、米国人数学者達の中の雰囲気を評価し、可能なら彼等の気持ちを和らげることになっていたからだった。この時点でジュースは腹を立て、これはシュミットにふさわしくない仕事であり、この特別な男を送ることはわざわざ災難を招く無謀なことをしているので、シュミットにこの任務を続けさせる前に信頼すべきソースに意見を求めて省はもっと上手くやれたであろうとKummerを厳しく叱責した9。
米国から戻った後、シュミットは教育研究省にZeitschriftとJahrbuchの融合を妨げるならば少なくとも何人かの米国人数学者達の協力が単に確保されるであろうことを確信させた。融合はアンチドイツ宣伝を育成し、Mathematical Reviewsの創刊を促進するだろうと彼は主張した。ドイツ外でのドイツ科学文献の状況を現状よりも困難にするべきでないことを考慮すれば、ZeitschriftとJahrbuchの融合は"賢明"だとは考えられないという手紙を教育研究省が1939年7月末にシュプリンガーに書いたので、省はシュミットの報告に感銘を受けたようだ10。
米国でのシュミットの活動が何であれ、アメリカ数学協会委員会は1939年5月にヴェブレンにMathematical Reviewsを創始し管理する依頼を決定した[9, 332f]。この言葉はすぐにドイツ数学コミュニティに届き、Mathematical Reviewsの創刊はまだ妨げられるであろうと報告していたシュミットは奇妙な立場に追いやられた。9月22日(宣戦布告の3週間後)の手紙の中で、ジュース(彼の計画に反して動いた7月の省の決定を聞き知ったばかりだったが)はシュミットが米国からの帰国の際に間違っている情報を与えていたことを非難した。Mathematical Reviewsの創刊と戦争の勃発はずいぶんと状況を変えてしまっていると彼は説明した。結果として、ZeitschriftとJahrbuchの融合に関して米国と殆どの外国の立場を考える必要はもはやないと彼は判断した11。
翌日の9月23日、ジュースはシュプリンガーとde Grnyterに融合を考えるよう最終通告を出した[12, p. 223]。ジュースの行動方針はビーベルバッハとファーレンにより認められた。ビーベルバッハはプロイセン科学アカデミーがプレプリントジャーナルを刊行することを決めており、プレプリントジャーナルはJahrbuchの査読の遅さに対する改善策を見つけるために最も最近の査読を含むことになっているとジュースへ手紙を書いた。de Grnyterはこのプランに同意していたが、戦争とそれに続く紙不足がそれを引き延ばしていた。他方、シュプリンガーは同意していなかった。融合に対する彼の反感は7月から省の手紙によって後退していたが、ビーベルバッハによれば、その反感はずっと前に知られていた。戦争が環境を変えてしまったので、今やビーベルバッハは献身的なナチ党員Harald Geppertを編集長とする融合のアイデアを更に追求すること、そしてプレプリントジャーナルのタイトルにZeitschriftの名前を加えることを提案した12。
一方シュプリンガーはジュースの最終通告(10月3日をデッドラインとして設定されていた)10月4日に回答した。彼は最終通告に結合されている質問に答えられないこと、ジュースの手紙はジュースが出版ビジネスの不十分な知識しか持っていないこと示していると説明した。省の立場が変わってしまっているのかどうか知らない限り(7月の手紙をほのめかしている)融合を議論するのを辞退した13。
ジュースが教育研究省でZeitschriftとJahrbuchについて話したかった時、科学的出版の数を維持するための宣伝手法として戦時中に科学ジャーナルの融合すべてを外務省が禁じていることを知らされた14。このようにZeitschriftとJahrbuchの実際の融合は、戦争の勃発とMathematical Reviewsの創刊の後の新しい状況にもかかわらず、問題外だった。しかし、ビーベルバッハが提案していた線に沿ってZeitschriftとJahrbuchの協力を引き起こすことを決定し、それをジュースもGeppertと議論していた。査読方針はZeitschriftに関するスピードとJahrbuchに関する完全性だった。11月15日にビーベルバッハ、Geppert、シュミット、シュプリンガー、de Gruyterの代理人はベルリンで会合し、Geppertを編集長としてベルリンに置かれる統合編集部(Generalredaktion)のもとでのZeitschriftとJahrbuchの再編成に賛同することとなった[12, pp. 224-226]。それはDMV、ジュース、ビーベルバッハが願っていた融合に近かった。
数学ジャーナルの再編成
出版社としてシュプリンガーの独立性はZeitschriftとシュミット事件によってのみならず、全体として数学ジャーナルのシステムを再編成しようとするジュースの意図によっても脅かされていた。
ナチ党が政権を取ってから、ナチ党が考えたように数学ジャーナルの断片化を終わらせるため数学ジャーナルの数を減らそうという議論が既にあったが、特別なことは何もなされていなかった[3, p. 418]。特に、物理学者でノーベル賞受賞者(1919)のヨハネス・シュタルクは、1930年にナチ党に入党しフィリップ・レーナルトと共にドイツ人物理学運動を支持していたが、1933年の秋に統合編集部(Neuordnung des physikalischen Schrifltums)のもとでの物理学における科学文献の再編成を空しくも呼びかけていた[11, 329-331]。
おそらく1939年の春、ビーベルバッハは科学ジャーナルのシステムを再編成する方法(1933年のジュースのプランを大いに思い出させる)に関する詳細な提案を作り、そのコピーをジュースに送った15。彼はアイデアを実例で説明するために数学ジャーナルを選んだ。彼は、早期には断片と考えられていたもの、すなわち数学の特定分野に属する論文が5つほどのジャーナルよりも多くのジャーナルに散在し、その分野に関心を持つ科学者達にとっても役立たず、編集部にとっても役立っていないことを遺憾に思った。更に、これは個人予約が稀であるという負の経済効果を持った。ビーベルバッハの再編成に関する提案(ついでながら、それはZeitschriftとJahrbuchを含んでいる)はついにDMVを監督者とする中央的にジャーナルを管理するアイデアになった。
ジュースはビーベルバッハの首唱に賛成だった。彼も1939年11月にZeitschriftとJahrbuchを議論するため教育研究省でKummer大臣に会った時、数学ジャーナル作製の可能な再構築について話した16。科学ジャーナルの融合に反対の外務省の命令にもかかわらず、Kummerとジュースは新しい編成原理、すなわち数学ジャーナルは特化すべきであることを議論した。これは広く数学的多様性を持つ伝統的なジャーナル、例えばJournal für die reine und angewandte Mathematik[訳注: 純粋及び応用数学のためのジャーナル](Crelle's Journal)、Mathematische Annalen、Mathematische Zeitschriftを終わらせていただろう。ビーベルバッハはCrelle's Journalは代数学と数論に、Mathematische Annalenは解析学に、Mathematische Zeitschriftは幾何学に特化してはどうかと言っていた。ジュースは即このアイデアを追求し、編集長達と交渉すると決めていた17。Crelle's Journalの編集長ハッセはビーベルバッハのアイデアに共感し、"ビーベルバッハにはいつものことだが、ちょっと激しい"けれども"素晴らしくて健康的だ"と考えた。だが、言い訳して時間を稼ぐらしくプランは"実際に実現することは難しいだろう"と指摘した18。
ジュースはまたMathematische Annalenの編集長ハインリヒ・ベーンケとそのジャーナルの宿命を議論した。しかし、ベーンケは"ドイツ数学ジャーナルの望ましい再編成を理論的に議論"を進んでやる心構えだったけれども、ビーベルバッハとジュースのプランにさほど熱中しなかった。彼はジュースにAnnalen委員会においてエーリッヒ・ヘッケとB. L. ファン・デル・ヴェルデンが先任であり、彼等はジュースのプランに決して同意しないだろうことを思い出せた。DMV委員会メンバーのエマニュエル・シュペルナーは個人的にプランをシュプリンガーに話したが、シュプリンガーは予想される再編成と一出版業者としての彼の独立性への干渉について議論することを拒否した19。しかし、これらの大望が何であれ、結局彼等は戦争進行の間妨害された。
ジュースとDMVの数学出版及び数学査読のアイデア、イデオロギー的背景についてもっと多くのことを述べることが出来るが、彼等は単に見解としてこれらのアイデアを持つことで満足せず、数学査読及び出版の支配力を獲得するために、それらのアイデアを積極的に追求しようと決心したことは明らかだ。これに対して、シュプリンガー出版社はユダヤ人数学者達及び国際的な数学コミュニティとの近い関係、そしてフェルディナント・シュプリンガー自身にユダヤ人先祖がいたという事実のため奇妙な立場にいた[11]。従ってDMVとジュースは大ぴっらにシュプリンガーのポリシー及び彼の代理人シュミットに反対出来ただけでなく、シュプリンガーの編集組織に関するジュースの振舞い、例えば彼の1938年のシューアへの告発、乗船するために既にブレーメンに向かっていた後で米国へ旅行中のシュミットを止めようとしたこと(この場合は不成功だが)に見られるように、やがて政権が提案することに頼れた。
DMVの専門家的ポリシーは実のところナチ国家の中核に立つ問題と密接に絡み合っていた。つまり、その反ユダヤ主義、反国際主義、自給自足経済。教育研究省の目的はこれらの問題を科学の全範囲に伝道することであった。その究極的な結果は彼等のコントロールを超えたけれども、このプログラムにおけるDMV委員会、特にジュースの協力は戦争の間彼等の影響力と彼等のポリシーの成功によって報われた[10]。
第二次世界大戦中の対立
1941年末、物理学者ヨハンネス・ラッシュ博士は2つの覚書を第三帝国研究評議会(Reichs-forschungsrat)に送った。第三帝国研究評議会はドイツの科学研究の組織を担当する政府機関だった。ラッシュはジーメンス・ウント・ハルスケ会社の技師だが、工業における物理学者達と技師達が使用するための数学参考文献の不足について不平を述べた。彼は他の国々、特に米国におけるより良い状況を指摘した[7, pp. l15f]。ラッシュの覚書はすぐに反応され、1942年の始めに第三帝国研究評議会は利害関係のある人達のために主要な数学参考文献と文献を獲得するためのプログラムを始めた。これらの作業の殆どが、それらを作製するために特別に任命されている数学者達に割当てられ、刊行プログラムはジュースに任された。ずっと前の年々にジュースは繰返し第三帝国研究評議会にもっと数学に興味を持って貰い、特に数学の特定部門を設立して貰おうと頑張っていたが、いつも空しく終わっていた。その特定部門は物理学部門を通して評議会に代表しているのに過ぎなかった。ラッシュの首唱は"第三帝国研究評議会とDMVの実際的な連絡"を引き起こす歓迎すべき機会を与えていたから、当然ジュースはこの突然のチャンスから"数学の地位のために"利益を得ようと努めた20。
しかし、ジュースは第三帝国研究評議会からの公務を持たなかったけれども、それを実行するための十分な資金援助をまだ持っていなかった。彼はヘルマン・ゲーリングの強力な航空省とそのリソースの関心をプログラムに向けようと頑張ったが、問題が発生した。航空省のForschungsführung[訳注: 研究管理]において、数学に関係する問題はフライブルクの数学者グスタフ・デッチュ(1892-1977)の責任下だった。デッチュは工学の要求、特に航空産業による定式化を密接に研究したが、小規模と言えども同様の刊行プログラムを既に始めていた。彼は彼自身でラプラス変換に関する本を作業していた[10]。それにもかかわらず、彼等は1942年の9月に各々のアイデアを議論するために会合した。この会合においてジュースは最近再編成された第三帝国研究評議会から今や資金を集め終わったから、自身のプログラムを扱えるだろうと公表した。それにもかかわらず、彼等は彼等のやっていることを調整することに少なくとも賛同したが、その意味で彼等の活動は戦争の残りの年々の間共存した。ジュースのプログラムは明らかにもっと野心的なものだったし、プロジェクトの数、印刷されたモノグラフまたは戦争終結までに印刷準備完了のモノグラフの数の観点からももっと成功した[7, p. 115]。
デッチュとジュースの数学出版における張り合いは彼等の出版社の選択によって反映された。デッチュは彼自身の出版社のシュプリンガーと協力するつもりだったし、一方ジュースはベーンケの提案に従って、ゲオルク・ファイグル(1890-1945)がシュプリンガーとも交渉してくれと頼んでいたけれども、ライプツィヒにあるAkademische Verlagsgesellschaftと作業を始めた。デッチュの方では1942年10月にシュプリンガーを訪ね、シュプリンガーのいくつかのプロジェクトが彼自身のプログラムに完全になじむことを発見した。そのプログラムはウィルヘルム・マグナスによる公式集、ウィルヘルム・マグナスによる楕円函数に関する本、アルバート・ベッツによる等角写像論に関する本、ゲオルク・ファイグルとエルハルト・シュミットによる実函数による展開に関する本、Walther Meyer zur Capellenによる積分表。マグナスの公式集は1943年に出版され[4]、シュプリンガーは結局ベッツ、マグナス、Meyer zur Capellenによる本を戦後の数年に出版した[1], [5], [8]。その間に、ジュースは1944年に依頼した作品のリストにマグナスのモノグラフ[5]とファイグル/シュミットのモノグラフを含めた。後者は出版されることはなかった。
シュプリンガーの数学アドバイザーのシュミットはデッチュとジュースの間の競争をよく知っていたし、それらに関する彼の見解に非常な自信を持った。ジュースは数学出版に対する遠大なプランを全く人に話さなかったが、それはシュミットを特にシュプリンガーの出版ポリシーの独立性に関して心配させた。これらの恐れに加えて、シュミットはデッチュをジュースよりも実際的で能率的だと考えた。だから、いずれにせよ選択があるならシュミットはデッチュをシュプリンガーにとって良きパートナーだと信じた21。だが、シュミットは明らかにジュースが強い立場にあり、デッチュが彼に対抗してシュプリンガーのサポートを必要とするだろうと認めた22。
1943年の始め、デッチュのForschungsführungにおける影響が劇的に減少し、ジュースが数学モノグラフの依頼の実際的な独占を獲得した[10]。詳細なトピックに関して数学者達による同時作業が戦争中には事実上不可能だった(直接の競合の可能性を否定した)という理由でシュプリンガーは数学分野での彼等の支配が崩壊するかも知れないという危険を考えた。従ってシュミットはジュースの活動に構わず戦後に可能性のある著者達と交渉することになった23。9月までにシュミットはシュプリンガーの将来についていっそう楽観的になった。航空省はウォルター・ブローデル、Gerhard Damköhler、エーベルハルト・ホップの3つの計画されたモノグラフを戦争努力に重要であると認めていた。それは著者達にそれらの研究を始めることを許可した。ジュースがヴュルツブルクでのDMV会合で刊行プログラムに関する報告をしていた時に、彼がもっぱらAkademische Verlagsgesellschaftと作業することになっているのは明らかだったようだ。シュミットはジュースのプロジェクトが戦後ほとんど存在意義を無くす印象を受けた。従ってシュミットは再びシュプリンガーに長期間その地位を防衛するために戦後のためのプランに専念するように提案した24。
1938年以降ジュースの数学出版のシステムへ干渉する様々な企てはどういうわけか計画経済を引き起こそうとする試みに似た。DMVは数学での専門家的影響全体の絶対的なセンターになっていた。彼は1941年4月のゲオルク・ファイグルへの手紙の中でで、これを完全に明らかにした。すなわち"もっぱらDMVのために数学に対するすべての権利と責任を獲得する帝国主義的な目標を私は持っている"25。当然この野心的な目標は航空省でのデッチュの影響力のある地位と両立しなかった。しかし、刊行プログラムの取った進路はデッチュの悪化している勢力基盤とジュースの外見上は期待の新星の紛れもない兆候だった。1944年の2月ジュースはゲッベルスの宣伝省とシュペールの軍需省のための"数学出版に対する公式検閲官"にもなった26。これは数学作品を印刷するための申請すべてが彼の承認を必要とすることを意味し、数学出版における彼の影響はいっそう増加した。
戦後のシュプリンガーとジュース
1946年6月、ゲオルク・ファイグルの未亡人マリア・ファイグルはジュースがファイグルの本について質問して来ているとシュミットへ手紙を書いた。とりわけジュースは彼女がシュプリンガーと契約するのか知りたかった。ジュースは彼女に彼自身がモノグラフのシリーズを刊行しようとしているところであり、その中にファイグルの本が立派に含まれるだろうと言った。このシリーズはStudia Mathematicaとして実現し、ゲッティンゲンにあるVandenhoeck & Ruprechtによって刊行された。
シュミットは彼を教授職として考えているミュンスター大学に推薦状を送ることを依頼するため7月にシュプリンガーへ手紙を書いた時、マリア・ファイグルの手紙の写しを同封した。新しい戦後の政治的状況において、彼のナチ時代の態度をはっきりさせることが明らかに重要だった。シュミットは彼が1938年の末までユダヤ人数学者達と協力したことは知られており、1939年5月の彼の米国への旅行は非常に反対されたことをシュプリンガーが言及してはどうかと言った27。ミュンスター大学への推薦状の手紙の中で、フェルディナント・シュプリンガー(シュプリンガー出版社からファイグルの本をおびき出すジュースの企てに酷くいらついていた)はシュミットのアウトラインに従ったが、シュミットが当事者としてのジュースに言及しなかったのにシュプリンガーは言及した28。
9月に、そのストーリーはフライブルク大学の学長に届いた。ジュースは戦後フライブルクで大いに敬意を払われており、1945年の夏に2か月間の教授職を一時停止させたばかりだったので、学長はすぐにシュプリンガーに詳細を要求した29。非ナチ化の間にジュースへクレジットされた多くの"良い行為"にもかかわらず、彼のナチとの協力の範囲が一般的にフライブルクでも数学コミュニティにおいても知られていないことが彼にとって特別に重要であり、もちろん十分だった。それらの人々の殆どがこれらの事柄をたとえ知っていたかも知れないとしても、それらを暴露することに興味を持たなかった。
シュプリンガーはフライブルク大学の学長であるアーサー・オールゲアーへ10月に返答し、1939年に米国への道中でシュミットを逮捕しようとしていたこと、教育研究省においてシュプリンガーをユダヤ人移住者達、特にリチャード・クーラントとの接触のために公然と非難したことを申し立てた。シュミットもオールゲアーへ手紙を書き、以下のことを言った。シュプリンガーの共同経営者Tönjes Langeが教育研究省から旅行許可を確保しようと頑張った時に、Kummer大臣が彼にジュースは彼がまだユダヤ人移住者達と近い関係にあるので旅行に強く反対していること、そしてジュースは自身が代わりに米国に行くのはどうかと言っていることを話した30。ジュースはシュプリンガーとシュミットが告発している彼の責任すべてを否定した。彼はフライブルク非ナチ化委員会(Selbstreinigungsausschuβ)によって尋問されたが、完全に容疑は晴れた31。1938年末のJahrbuchとZeitschriftの融合の議論に先立って、教育研究省においてシュプリンガーを言及したことはないと彼は証言した。そして更にジュースはKummerをシュプリンガーの味方として特徴づけたが、従って何ら証明も無く信頼出来ない目撃者として。当然彼はDamesとの会合または1938年3月のシューアに関する公然の非難についての情報を自ら進んで申し立てしなかった。
シュプリンガーは1月末に手紙でジュースの容疑が晴れたことを知らされた。手紙に同封されたのは非ナチ化委員会の報告の写しだったが、それはシュプリンガー自身が事実をわい曲したことを暗示した。シュプリンガーはきっぱりと否認したが、彼の抗議から何も生じなかった32。
戦後の年々にシュプリンガーとジュースの間の関係が改善する兆しは無かった。1946年の夏、ジュースは新しい数学ジャーナルを刊行するプランを追求した。そのジャーナルはMathematisches Forschungsinstitut Oberwolfach[訳注: オーバーヴォルファッハ数学研究所]によって編集されることになった。Mathematisches Forschungsinstitut Oberwolfachは1944年末にジュースが設立していた。シュミットとシュプリンガーは新しいジャーナルをMZに対する公然たる競合相手と考えた。ジュースが適切な出版社を探した時、友人達は彼にシュプリンガーと交渉せよとしつこく言った。ジュースは明らかにシュプリンガーと交渉したくなかった。新しいジャーナルは結局1948年にArchiv der Mathematik[訳注: 数学アーカイブ]というタイトルのもとで出現したが、カールスルーエにあるVerlag Braunによって刊行された。そして、1952年にバーゼルにあるビルクホイザーに引き継がれた。
結語
ナチドイツにおける数学と数学者達の歴史は、ビーベルバッハとDeutsche Mathematikまたはゲッチンゲンの数学的伝統の廃止によって例証される極端な状態の歴史としてよく強調される。しかし、どれほど重苦しくても、これらの現象はよく目立つ現象に過ぎない。他方、科学出版におけるシュプリンガーの独立性に対する脅威は、一般的に大衆からは見えなかったし、公式指図からの結果にもならなかった。むしろ、その脅威はナチ党と政府官僚の毎日の協力から生じた。どんなに動機づけられても、この協力はナチ官僚主義の目的と機能にとって本質的だった。この観点から、シュプリンガー出版社とジュースとDMVでの彼の同僚の間の対立のストーリーは過ぎて行く歴史的詳細の単なる珍しいコレクションではなく、数学者達の専門家的ポリシーとナチのポリシーがどのように実際に相互作用したのかを実例で説明しているのである。
参考文献
(略)
これはハッセ、ミュラー、シュペルナーへの回覧状の中でジュースが言ったことだけれども、Damesとの会話の中で彼は明らかにもっと明確になっていた。数日後彼がDamesへ手紙を書いた時、彼が思うシュプリンガー出版社における編集組織に関する問題に立ち戻った。彼はリチャード・クーラントの"イエローシリーズ" Grundlehren der mathematischen Wissenschaften in EinzeldarsteLLungen[訳注: 諸例における数理科学の基礎]のための段取りを述べた。"イエローシリーズ"ではF. K. シュミットが主任編集者、ユダヤ人亡命者クーラントが"アングロサクソン領域"のための編集者だった。彼はMathematische Annalenに対しても同様な段取りがなされていると判断した。Mathematische Annalenの編集長オットー・ブルメンタルはユダヤ人だった。ジュースによればシュプリンガーは英国で共同編集者を探していた。ジュースの見解は、"ドイツの名声"のために"我々のチャンピオンであるフェリクス・クラインによって創始された、この一流ジャーナル"2に影響を持っている外国人達を阻止すべくすべての手段が使用されるべきであるだった。既に起きている実例として、彼はZentralblatt Für Mathematik und ihre Grenzgebiete[訳注: 数学及びその周辺分野のための主要ジャーナル]を指し示した。このジャーナルは今や亡命者オットー・ノイゲバウアーによってコペンハーゲンから運営されていた。
MZに関してジュースによれば、事は良好だった。しかし、彼はDamesに頼んだこと、つまり教育研究省が"イサイ・シューア教授をMZ委員会から解任するよう出版社に命じること"を思い出させた3。彼自身はMZの編集長コンラート・クノップに問題を提起するだろうと付け加えて書いた。
1938年3月1日、つまりジュースのDamesとの会合の2日前、クノップはジュースに手紙を書き、MZの諮問委員会(wissenschaftlicher Beirat)に加わるよう招聘した。それはシュプリンガーの編集委員会をアーリア化しようとするジュースの努力をいくぶん曖昧に解明している4。クノップからもっと早期の招聘があったが、MZ委員会に2人のユダヤ人メンバー、エトムント・ランダウと先に言及したイサイ・シューア(1875-1941)がいたからジュースは辞退した。イサイ・シューアはクノップ、レオン・リヒテンシュタイン、エルハルト・シュミットと一緒に1918年のMZの共同創始者だった。エトムント・ランダウが1938年2月に亡くなり、状況を変えた。クノップがジュースに説明したように、これがクノップに改めて招聘させることとなった。ジュースがDamesにシューアをMZ委員会から解任せよと要求した時に、彼が3月3日までにクノップの2度目の招聘を既に読んでいたかどうかの推測は未解明だが、DMVのハッセ、ミュラー、シュペルナーへの報告の中で彼はシューアの問題に言及しなかったし、クノップへの返書の中でも言及しなかった。この返書の中でDamesとの会話を説明している。だが、ハッセ、ミュラー、シュペルナーへの報告で言ったこと及びDamesへの早期の手紙のそれと違うバージョンだ。クノップに対して、数学出版におけるユダヤ人数学者達の役割に関して指揮を執っているのは教育研究省だったと彼はほのめかし、教育研究省からはMZ委員会からシューアの排除があるだろうと聞いたと言っている。しかし、この行動の過程を明らかに要求していたのは彼自身だったことを言及していない。クノップへの手紙の中で描かれているように、ジュースの主な関心は彼がMZ委員会に合流するならシュプリンガーに関するDMVポリシーを実施するための彼の自由度に起こり得る制約だった。クノップは彼に、これは該当しないだろうこと、シューアに関してはクノップも数学ジャーナルにユダヤ人達が公式的にこれ以上参加することは実際的ではないと考えていたので、その問題に教育研究省が手を貸すことを歓迎するだろうことを言って安心させた5。
4月Reichsschrifttumskammer[訳注: 第三帝国文学院](ゲッベルスの宣伝省の一部門であり、その役割はドイツのライターと出版社をコントロールすることだった)は、Mathematische AnnalenとMZの委員会にまだユダヤ人編集者達がいるのなら理由をシュプリンガーから知ることを命じた。Reichsschrifttumskammerは特に教育研究省によって作られた質問に言及した。4月の終わりまでにシューアがMZ委員会を去らねばならないだろうことは明らかだった。クノップがこれをジュースに報告した時、MZ委員会へ合流の招聘は遂に了承された。シューアの名前は1939年のMZのタイトルページに現れず、彼は同年に移住した。
だが、これがシューアへの唯一の圧力ではなかった。1938年3月末、ビーベルバッハはプロイセン科学アカデミーにおいて、シューアを意味する"ユダヤ人達がまだ学界委員会のメンバーだということは驚く"と言っていた。数学者テオドール・ファーレン(1869-1945)は長年ナチ党員でビーベルバッハの盟友だったから、交代を要求していた。そして、マックス・プランクは問題を処理すると約束をしていた。一週間内にシューアは委員会を辞職していた[12, p. 122]。
Zeitschriftとシュミット事件
ユダヤ人数学者達とシュプリンガー出版社の間の関係に関するジュースの報告及び1938年3月のイサイ・シューアに関する告発が彼の数学出版への介入、特にシュプリンガーを攻撃する唯一の企てではなかった。
シュプリンガーがオットー・ノイゲバウアーとリチャード・クーラントの賛助のもとでZeitschriftを刊行したことで1931年にドイツの数学査読の分野に登場していた。始めからZeitschriftはベルリンのプロイセン科学アカデミーによって刊行された伝統的なJahrbuch über die Fortschritte der Mathematik[訳注: 数学の発展年鑑]と直接に競合した。Jahrbuchは査読において絶え間の無い遅れで悪名高かった一方で、Zeitschriftはもっと効率がいいことですぐに有名になった。1939年までにJahrbuchはルートヴィヒ・ビーベルバッハの絶え間の無いイデオロギー的干渉と付き合わなければならないでいた。ビーベルバッハはアカデミーのJahrbuchのスポークスマンとして就任していた。Zeitschriftもナチの人種的かつ国家主義的ポリシーに関する問題を抱えた。編集委員会に非アーリア人メンバー達がいた。つまり、例えばイタリア人数学者トゥーリオ・レヴィ=チヴィタ。彼は1938年10月に追い出されなければならなかった。その編集長である亡命者オットー・ノイゲバウアーはレヴィ=チヴィタ事件の結果として1938年11月に辞職した。その上に、ジャーナルは国際的にふさわしいのが明らかだったので、1937年12月にシュミットはZeitschriftとの協力のせいで教授職に関する交渉において一人の数学者が嫌われてしまっているとシュプリンガーに報告していた6。これらの環境を考慮に入れると、それぞれの出版社de Grnyterとシュプリンガーの間に経済的競争が無く、Jahrbuch委員会におけるビーベルバッハとシュプリンガーの間のイデオロギーの不一致が無ければ、2つのジャーナルがある種の同盟を結んでいたことは妥当であったであろう。しかし、30年代の終わりまでZeitschriftとJahrbuchの融合または少なくとも協力は議論された。
1938年末、新しいジャーナルMathematical Reviewsが米国においてアメリカ数学協会によって創刊されようとしているというニューズがドイツ数学コミュニティに広がった。当然これは、ナチ党員であるか否かを問わずドイツ人数学者達と出版社各社の間に騒動となった。1939年1月ビーベルバッハはde Grnyterとシュプリンガーに融合を考えるよう促し、手順に関する詳細な提案を作製さえもした。また1939年の始め、DMV、すなわち総裁ジュースがde Grnyterとシュプリンガーに融合させるために直接の圧力をかけようと努めた[12, pp. 167ff], [9, pp. 327-333]。
シュプリンガーが1939年の1月、遅くとも1939年3月に融合のアイデアを考えたと議論されて来ている[12, p. 168-170]。しかし、シュプリンガーは彼自身のプランを本当に持っていた。それは先ず米国人達と状況を議論し、出来ればZeitschriftとMathematical Reviewsの協力をもたらすことだった。
フェルディナント・シュプリンガーは1938年12月にオズワルド・ヴェブレンとMathematical Reviewsの創刊を議論し、彼の数学査読における利益のために主要数学アドバイザーのシュミットを米国に送ることを提案した[9, p. 331]。ジュースはこれを聞き知り、すぐに教育研究省のDamesに、シュプリンガーが動機についてジュースに知らせない限りシュミットに旅行許可を与えないよう迫った7。ジュースはまたDamesに省とReichsschrifttumskammerの両方の上司にシュプリンガーの計画を知らせてはどうかと言った。シュプリンガーが米国に行くシュミットのために省の許可を獲得していることをジュースが4月に知った時、Damesの上司のKummer大臣に手紙を書き、再びシュミットの旅行に強く反対した。彼はJahrbuchとZeitschriftの間の競合とそれらの融合に対するDMVの関心を指し示した。シュプリンガーのMathematical Reviewsとの接触が、実際に彼等がしたように、このアイデアに反して走るだろうという恐れをジュースは述べた。議論を強化するため、彼はZeitschriftを"ユダヤ人数学者達と彼等の友達のグループ"の組織として特徴づけ、シュプリンガーがまだ移住者達、特にリチャード・クーラントと近い結びつきを持っていると強調した。従って、"シュプリンガーのスポークスマンによってドイツの大義が米国においてともかくも表現されるだろう"ことは疑わしいとした。とうとう彼はシュミットが次週に米国へ旅立つつもりだから旅行許可を無効にしてはどうかと言った8。
2日後の4月29日、ジュースはベルリンのKummer大臣に事はどうなっているか訊ねるために電話をした。Kummerがシュミットは既に旅立っていることを知らせた時、ジュースは彼の知識によればシュミットは船に乗るためブレーメンに向かう途中に過ぎず、船は米国から5月1日または2日に到着するはずなので、シュミットをまだ止められることを意味していると言った。Kummerはこれを取り上げなかったが、教育研究省の彼の上司がきっぱりとシュミットに行かせることを決定していると説明した。シュミットがZeitschrift問題を議論するのみならず、米国人数学者達の中の雰囲気を評価し、可能なら彼等の気持ちを和らげることになっていたからだった。この時点でジュースは腹を立て、これはシュミットにふさわしくない仕事であり、この特別な男を送ることはわざわざ災難を招く無謀なことをしているので、シュミットにこの任務を続けさせる前に信頼すべきソースに意見を求めて省はもっと上手くやれたであろうとKummerを厳しく叱責した9。
米国から戻った後、シュミットは教育研究省にZeitschriftとJahrbuchの融合を妨げるならば少なくとも何人かの米国人数学者達の協力が単に確保されるであろうことを確信させた。融合はアンチドイツ宣伝を育成し、Mathematical Reviewsの創刊を促進するだろうと彼は主張した。ドイツ外でのドイツ科学文献の状況を現状よりも困難にするべきでないことを考慮すれば、ZeitschriftとJahrbuchの融合は"賢明"だとは考えられないという手紙を教育研究省が1939年7月末にシュプリンガーに書いたので、省はシュミットの報告に感銘を受けたようだ10。
米国でのシュミットの活動が何であれ、アメリカ数学協会委員会は1939年5月にヴェブレンにMathematical Reviewsを創始し管理する依頼を決定した[9, 332f]。この言葉はすぐにドイツ数学コミュニティに届き、Mathematical Reviewsの創刊はまだ妨げられるであろうと報告していたシュミットは奇妙な立場に追いやられた。9月22日(宣戦布告の3週間後)の手紙の中で、ジュース(彼の計画に反して動いた7月の省の決定を聞き知ったばかりだったが)はシュミットが米国からの帰国の際に間違っている情報を与えていたことを非難した。Mathematical Reviewsの創刊と戦争の勃発はずいぶんと状況を変えてしまっていると彼は説明した。結果として、ZeitschriftとJahrbuchの融合に関して米国と殆どの外国の立場を考える必要はもはやないと彼は判断した11。
翌日の9月23日、ジュースはシュプリンガーとde Grnyterに融合を考えるよう最終通告を出した[12, p. 223]。ジュースの行動方針はビーベルバッハとファーレンにより認められた。ビーベルバッハはプロイセン科学アカデミーがプレプリントジャーナルを刊行することを決めており、プレプリントジャーナルはJahrbuchの査読の遅さに対する改善策を見つけるために最も最近の査読を含むことになっているとジュースへ手紙を書いた。de Grnyterはこのプランに同意していたが、戦争とそれに続く紙不足がそれを引き延ばしていた。他方、シュプリンガーは同意していなかった。融合に対する彼の反感は7月から省の手紙によって後退していたが、ビーベルバッハによれば、その反感はずっと前に知られていた。戦争が環境を変えてしまったので、今やビーベルバッハは献身的なナチ党員Harald Geppertを編集長とする融合のアイデアを更に追求すること、そしてプレプリントジャーナルのタイトルにZeitschriftの名前を加えることを提案した12。
一方シュプリンガーはジュースの最終通告(10月3日をデッドラインとして設定されていた)10月4日に回答した。彼は最終通告に結合されている質問に答えられないこと、ジュースの手紙はジュースが出版ビジネスの不十分な知識しか持っていないこと示していると説明した。省の立場が変わってしまっているのかどうか知らない限り(7月の手紙をほのめかしている)融合を議論するのを辞退した13。
ジュースが教育研究省でZeitschriftとJahrbuchについて話したかった時、科学的出版の数を維持するための宣伝手法として戦時中に科学ジャーナルの融合すべてを外務省が禁じていることを知らされた14。このようにZeitschriftとJahrbuchの実際の融合は、戦争の勃発とMathematical Reviewsの創刊の後の新しい状況にもかかわらず、問題外だった。しかし、ビーベルバッハが提案していた線に沿ってZeitschriftとJahrbuchの協力を引き起こすことを決定し、それをジュースもGeppertと議論していた。査読方針はZeitschriftに関するスピードとJahrbuchに関する完全性だった。11月15日にビーベルバッハ、Geppert、シュミット、シュプリンガー、de Gruyterの代理人はベルリンで会合し、Geppertを編集長としてベルリンに置かれる統合編集部(Generalredaktion)のもとでのZeitschriftとJahrbuchの再編成に賛同することとなった[12, pp. 224-226]。それはDMV、ジュース、ビーベルバッハが願っていた融合に近かった。
数学ジャーナルの再編成
出版社としてシュプリンガーの独立性はZeitschriftとシュミット事件によってのみならず、全体として数学ジャーナルのシステムを再編成しようとするジュースの意図によっても脅かされていた。
ナチ党が政権を取ってから、ナチ党が考えたように数学ジャーナルの断片化を終わらせるため数学ジャーナルの数を減らそうという議論が既にあったが、特別なことは何もなされていなかった[3, p. 418]。特に、物理学者でノーベル賞受賞者(1919)のヨハネス・シュタルクは、1930年にナチ党に入党しフィリップ・レーナルトと共にドイツ人物理学運動を支持していたが、1933年の秋に統合編集部(Neuordnung des physikalischen Schrifltums)のもとでの物理学における科学文献の再編成を空しくも呼びかけていた[11, 329-331]。
おそらく1939年の春、ビーベルバッハは科学ジャーナルのシステムを再編成する方法(1933年のジュースのプランを大いに思い出させる)に関する詳細な提案を作り、そのコピーをジュースに送った15。彼はアイデアを実例で説明するために数学ジャーナルを選んだ。彼は、早期には断片と考えられていたもの、すなわち数学の特定分野に属する論文が5つほどのジャーナルよりも多くのジャーナルに散在し、その分野に関心を持つ科学者達にとっても役立たず、編集部にとっても役立っていないことを遺憾に思った。更に、これは個人予約が稀であるという負の経済効果を持った。ビーベルバッハの再編成に関する提案(ついでながら、それはZeitschriftとJahrbuchを含んでいる)はついにDMVを監督者とする中央的にジャーナルを管理するアイデアになった。
ジュースはビーベルバッハの首唱に賛成だった。彼も1939年11月にZeitschriftとJahrbuchを議論するため教育研究省でKummer大臣に会った時、数学ジャーナル作製の可能な再構築について話した16。科学ジャーナルの融合に反対の外務省の命令にもかかわらず、Kummerとジュースは新しい編成原理、すなわち数学ジャーナルは特化すべきであることを議論した。これは広く数学的多様性を持つ伝統的なジャーナル、例えばJournal für die reine und angewandte Mathematik[訳注: 純粋及び応用数学のためのジャーナル](Crelle's Journal)、Mathematische Annalen、Mathematische Zeitschriftを終わらせていただろう。ビーベルバッハはCrelle's Journalは代数学と数論に、Mathematische Annalenは解析学に、Mathematische Zeitschriftは幾何学に特化してはどうかと言っていた。ジュースは即このアイデアを追求し、編集長達と交渉すると決めていた17。Crelle's Journalの編集長ハッセはビーベルバッハのアイデアに共感し、"ビーベルバッハにはいつものことだが、ちょっと激しい"けれども"素晴らしくて健康的だ"と考えた。だが、言い訳して時間を稼ぐらしくプランは"実際に実現することは難しいだろう"と指摘した18。
ジュースはまたMathematische Annalenの編集長ハインリヒ・ベーンケとそのジャーナルの宿命を議論した。しかし、ベーンケは"ドイツ数学ジャーナルの望ましい再編成を理論的に議論"を進んでやる心構えだったけれども、ビーベルバッハとジュースのプランにさほど熱中しなかった。彼はジュースにAnnalen委員会においてエーリッヒ・ヘッケとB. L. ファン・デル・ヴェルデンが先任であり、彼等はジュースのプランに決して同意しないだろうことを思い出せた。DMV委員会メンバーのエマニュエル・シュペルナーは個人的にプランをシュプリンガーに話したが、シュプリンガーは予想される再編成と一出版業者としての彼の独立性への干渉について議論することを拒否した19。しかし、これらの大望が何であれ、結局彼等は戦争進行の間妨害された。
ジュースとDMVの数学出版及び数学査読のアイデア、イデオロギー的背景についてもっと多くのことを述べることが出来るが、彼等は単に見解としてこれらのアイデアを持つことで満足せず、数学査読及び出版の支配力を獲得するために、それらのアイデアを積極的に追求しようと決心したことは明らかだ。これに対して、シュプリンガー出版社はユダヤ人数学者達及び国際的な数学コミュニティとの近い関係、そしてフェルディナント・シュプリンガー自身にユダヤ人先祖がいたという事実のため奇妙な立場にいた[11]。従ってDMVとジュースは大ぴっらにシュプリンガーのポリシー及び彼の代理人シュミットに反対出来ただけでなく、シュプリンガーの編集組織に関するジュースの振舞い、例えば彼の1938年のシューアへの告発、乗船するために既にブレーメンに向かっていた後で米国へ旅行中のシュミットを止めようとしたこと(この場合は不成功だが)に見られるように、やがて政権が提案することに頼れた。
DMVの専門家的ポリシーは実のところナチ国家の中核に立つ問題と密接に絡み合っていた。つまり、その反ユダヤ主義、反国際主義、自給自足経済。教育研究省の目的はこれらの問題を科学の全範囲に伝道することであった。その究極的な結果は彼等のコントロールを超えたけれども、このプログラムにおけるDMV委員会、特にジュースの協力は戦争の間彼等の影響力と彼等のポリシーの成功によって報われた[10]。
第二次世界大戦中の対立
1941年末、物理学者ヨハンネス・ラッシュ博士は2つの覚書を第三帝国研究評議会(Reichs-forschungsrat)に送った。第三帝国研究評議会はドイツの科学研究の組織を担当する政府機関だった。ラッシュはジーメンス・ウント・ハルスケ会社の技師だが、工業における物理学者達と技師達が使用するための数学参考文献の不足について不平を述べた。彼は他の国々、特に米国におけるより良い状況を指摘した[7, pp. l15f]。ラッシュの覚書はすぐに反応され、1942年の始めに第三帝国研究評議会は利害関係のある人達のために主要な数学参考文献と文献を獲得するためのプログラムを始めた。これらの作業の殆どが、それらを作製するために特別に任命されている数学者達に割当てられ、刊行プログラムはジュースに任された。ずっと前の年々にジュースは繰返し第三帝国研究評議会にもっと数学に興味を持って貰い、特に数学の特定部門を設立して貰おうと頑張っていたが、いつも空しく終わっていた。その特定部門は物理学部門を通して評議会に代表しているのに過ぎなかった。ラッシュの首唱は"第三帝国研究評議会とDMVの実際的な連絡"を引き起こす歓迎すべき機会を与えていたから、当然ジュースはこの突然のチャンスから"数学の地位のために"利益を得ようと努めた20。
しかし、ジュースは第三帝国研究評議会からの公務を持たなかったけれども、それを実行するための十分な資金援助をまだ持っていなかった。彼はヘルマン・ゲーリングの強力な航空省とそのリソースの関心をプログラムに向けようと頑張ったが、問題が発生した。航空省のForschungsführung[訳注: 研究管理]において、数学に関係する問題はフライブルクの数学者グスタフ・デッチュ(1892-1977)の責任下だった。デッチュは工学の要求、特に航空産業による定式化を密接に研究したが、小規模と言えども同様の刊行プログラムを既に始めていた。彼は彼自身でラプラス変換に関する本を作業していた[10]。それにもかかわらず、彼等は1942年の9月に各々のアイデアを議論するために会合した。この会合においてジュースは最近再編成された第三帝国研究評議会から今や資金を集め終わったから、自身のプログラムを扱えるだろうと公表した。それにもかかわらず、彼等は彼等のやっていることを調整することに少なくとも賛同したが、その意味で彼等の活動は戦争の残りの年々の間共存した。ジュースのプログラムは明らかにもっと野心的なものだったし、プロジェクトの数、印刷されたモノグラフまたは戦争終結までに印刷準備完了のモノグラフの数の観点からももっと成功した[7, p. 115]。
デッチュとジュースの数学出版における張り合いは彼等の出版社の選択によって反映された。デッチュは彼自身の出版社のシュプリンガーと協力するつもりだったし、一方ジュースはベーンケの提案に従って、ゲオルク・ファイグル(1890-1945)がシュプリンガーとも交渉してくれと頼んでいたけれども、ライプツィヒにあるAkademische Verlagsgesellschaftと作業を始めた。デッチュの方では1942年10月にシュプリンガーを訪ね、シュプリンガーのいくつかのプロジェクトが彼自身のプログラムに完全になじむことを発見した。そのプログラムはウィルヘルム・マグナスによる公式集、ウィルヘルム・マグナスによる楕円函数に関する本、アルバート・ベッツによる等角写像論に関する本、ゲオルク・ファイグルとエルハルト・シュミットによる実函数による展開に関する本、Walther Meyer zur Capellenによる積分表。マグナスの公式集は1943年に出版され[4]、シュプリンガーは結局ベッツ、マグナス、Meyer zur Capellenによる本を戦後の数年に出版した[1], [5], [8]。その間に、ジュースは1944年に依頼した作品のリストにマグナスのモノグラフ[5]とファイグル/シュミットのモノグラフを含めた。後者は出版されることはなかった。
シュプリンガーの数学アドバイザーのシュミットはデッチュとジュースの間の競争をよく知っていたし、それらに関する彼の見解に非常な自信を持った。ジュースは数学出版に対する遠大なプランを全く人に話さなかったが、それはシュミットを特にシュプリンガーの出版ポリシーの独立性に関して心配させた。これらの恐れに加えて、シュミットはデッチュをジュースよりも実際的で能率的だと考えた。だから、いずれにせよ選択があるならシュミットはデッチュをシュプリンガーにとって良きパートナーだと信じた21。だが、シュミットは明らかにジュースが強い立場にあり、デッチュが彼に対抗してシュプリンガーのサポートを必要とするだろうと認めた22。
1943年の始め、デッチュのForschungsführungにおける影響が劇的に減少し、ジュースが数学モノグラフの依頼の実際的な独占を獲得した[10]。詳細なトピックに関して数学者達による同時作業が戦争中には事実上不可能だった(直接の競合の可能性を否定した)という理由でシュプリンガーは数学分野での彼等の支配が崩壊するかも知れないという危険を考えた。従ってシュミットはジュースの活動に構わず戦後に可能性のある著者達と交渉することになった23。9月までにシュミットはシュプリンガーの将来についていっそう楽観的になった。航空省はウォルター・ブローデル、Gerhard Damköhler、エーベルハルト・ホップの3つの計画されたモノグラフを戦争努力に重要であると認めていた。それは著者達にそれらの研究を始めることを許可した。ジュースがヴュルツブルクでのDMV会合で刊行プログラムに関する報告をしていた時に、彼がもっぱらAkademische Verlagsgesellschaftと作業することになっているのは明らかだったようだ。シュミットはジュースのプロジェクトが戦後ほとんど存在意義を無くす印象を受けた。従ってシュミットは再びシュプリンガーに長期間その地位を防衛するために戦後のためのプランに専念するように提案した24。
1938年以降ジュースの数学出版のシステムへ干渉する様々な企てはどういうわけか計画経済を引き起こそうとする試みに似た。DMVは数学での専門家的影響全体の絶対的なセンターになっていた。彼は1941年4月のゲオルク・ファイグルへの手紙の中でで、これを完全に明らかにした。すなわち"もっぱらDMVのために数学に対するすべての権利と責任を獲得する帝国主義的な目標を私は持っている"25。当然この野心的な目標は航空省でのデッチュの影響力のある地位と両立しなかった。しかし、刊行プログラムの取った進路はデッチュの悪化している勢力基盤とジュースの外見上は期待の新星の紛れもない兆候だった。1944年の2月ジュースはゲッベルスの宣伝省とシュペールの軍需省のための"数学出版に対する公式検閲官"にもなった26。これは数学作品を印刷するための申請すべてが彼の承認を必要とすることを意味し、数学出版における彼の影響はいっそう増加した。
戦後のシュプリンガーとジュース
1946年6月、ゲオルク・ファイグルの未亡人マリア・ファイグルはジュースがファイグルの本について質問して来ているとシュミットへ手紙を書いた。とりわけジュースは彼女がシュプリンガーと契約するのか知りたかった。ジュースは彼女に彼自身がモノグラフのシリーズを刊行しようとしているところであり、その中にファイグルの本が立派に含まれるだろうと言った。このシリーズはStudia Mathematicaとして実現し、ゲッティンゲンにあるVandenhoeck & Ruprechtによって刊行された。
シュミットは彼を教授職として考えているミュンスター大学に推薦状を送ることを依頼するため7月にシュプリンガーへ手紙を書いた時、マリア・ファイグルの手紙の写しを同封した。新しい戦後の政治的状況において、彼のナチ時代の態度をはっきりさせることが明らかに重要だった。シュミットは彼が1938年の末までユダヤ人数学者達と協力したことは知られており、1939年5月の彼の米国への旅行は非常に反対されたことをシュプリンガーが言及してはどうかと言った27。ミュンスター大学への推薦状の手紙の中で、フェルディナント・シュプリンガー(シュプリンガー出版社からファイグルの本をおびき出すジュースの企てに酷くいらついていた)はシュミットのアウトラインに従ったが、シュミットが当事者としてのジュースに言及しなかったのにシュプリンガーは言及した28。
9月に、そのストーリーはフライブルク大学の学長に届いた。ジュースは戦後フライブルクで大いに敬意を払われており、1945年の夏に2か月間の教授職を一時停止させたばかりだったので、学長はすぐにシュプリンガーに詳細を要求した29。非ナチ化の間にジュースへクレジットされた多くの"良い行為"にもかかわらず、彼のナチとの協力の範囲が一般的にフライブルクでも数学コミュニティにおいても知られていないことが彼にとって特別に重要であり、もちろん十分だった。それらの人々の殆どがこれらの事柄をたとえ知っていたかも知れないとしても、それらを暴露することに興味を持たなかった。
シュプリンガーはフライブルク大学の学長であるアーサー・オールゲアーへ10月に返答し、1939年に米国への道中でシュミットを逮捕しようとしていたこと、教育研究省においてシュプリンガーをユダヤ人移住者達、特にリチャード・クーラントとの接触のために公然と非難したことを申し立てた。シュミットもオールゲアーへ手紙を書き、以下のことを言った。シュプリンガーの共同経営者Tönjes Langeが教育研究省から旅行許可を確保しようと頑張った時に、Kummer大臣が彼にジュースは彼がまだユダヤ人移住者達と近い関係にあるので旅行に強く反対していること、そしてジュースは自身が代わりに米国に行くのはどうかと言っていることを話した30。ジュースはシュプリンガーとシュミットが告発している彼の責任すべてを否定した。彼はフライブルク非ナチ化委員会(Selbstreinigungsausschuβ)によって尋問されたが、完全に容疑は晴れた31。1938年末のJahrbuchとZeitschriftの融合の議論に先立って、教育研究省においてシュプリンガーを言及したことはないと彼は証言した。そして更にジュースはKummerをシュプリンガーの味方として特徴づけたが、従って何ら証明も無く信頼出来ない目撃者として。当然彼はDamesとの会合または1938年3月のシューアに関する公然の非難についての情報を自ら進んで申し立てしなかった。
シュプリンガーは1月末に手紙でジュースの容疑が晴れたことを知らされた。手紙に同封されたのは非ナチ化委員会の報告の写しだったが、それはシュプリンガー自身が事実をわい曲したことを暗示した。シュプリンガーはきっぱりと否認したが、彼の抗議から何も生じなかった32。
戦後の年々にシュプリンガーとジュースの間の関係が改善する兆しは無かった。1946年の夏、ジュースは新しい数学ジャーナルを刊行するプランを追求した。そのジャーナルはMathematisches Forschungsinstitut Oberwolfach[訳注: オーバーヴォルファッハ数学研究所]によって編集されることになった。Mathematisches Forschungsinstitut Oberwolfachは1944年末にジュースが設立していた。シュミットとシュプリンガーは新しいジャーナルをMZに対する公然たる競合相手と考えた。ジュースが適切な出版社を探した時、友人達は彼にシュプリンガーと交渉せよとしつこく言った。ジュースは明らかにシュプリンガーと交渉したくなかった。新しいジャーナルは結局1948年にArchiv der Mathematik[訳注: 数学アーカイブ]というタイトルのもとで出現したが、カールスルーエにあるVerlag Braunによって刊行された。そして、1952年にバーゼルにあるビルクホイザーに引き継がれた。
結語
ナチドイツにおける数学と数学者達の歴史は、ビーベルバッハとDeutsche Mathematikまたはゲッチンゲンの数学的伝統の廃止によって例証される極端な状態の歴史としてよく強調される。しかし、どれほど重苦しくても、これらの現象はよく目立つ現象に過ぎない。他方、科学出版におけるシュプリンガーの独立性に対する脅威は、一般的に大衆からは見えなかったし、公式指図からの結果にもならなかった。むしろ、その脅威はナチ党と政府官僚の毎日の協力から生じた。どんなに動機づけられても、この協力はナチ官僚主義の目的と機能にとって本質的だった。この観点から、シュプリンガー出版社とジュースとDMVでの彼の同僚の間の対立のストーリーは過ぎて行く歴史的詳細の単なる珍しいコレクションではなく、数学者達の専門家的ポリシーとナチのポリシーがどのように実際に相互作用したのかを実例で説明しているのである。
参考文献
(略)
コメント