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ガーチュルーデュ・コクスと統計設計

いくら基礎数学(あえて純粋数学とは言ってません。この言葉はおかしいので廃止して基礎数学を私は推薦します)しか勉強したことがない人でもGertrude Cox[/gˈɚːtruːd kˈɔks/。以降ガーチュルーデュ・コクスとカタカナ表記します]博士の名前くらいは聞いたことがあると思います。私や私の友人共よりも年配の先輩がたにはコクラン-コクスですよと言えば直ぐに分かって下さいます。コクラン-コクスというのはコクス博士がコクラン博士との共著で出版した、あの名著Experimental Designsを指します。今でこそ類書がたくさんあるようですが、私達の世代でもまだコクラン-コクスがバイブル的存在で真っ先に勧められました。私は学部時代に数学科の講座で数理統計学も履修したことがあるのですが、コクラン-コクスまでは時間的余裕が無く読んでませんでした。しかし、院生になってから環境アセスメントの関係で全く畑違いの私までが統計調査要員の一人として駈り出され、無理矢理コクラン-コクスを読まされた思い出があります。その調査団の指揮官を始め先任者は皆真剣そのものでした。と言うのは調査団は或る役所の肝煎りで結成されたからです。そのおかげで統計のド素人の私はコクラン-コクスでしごかれました。その懐かしいコクラン-コクスも今私の手元にも書棚にも残念ながらありません。幾たびかの引っ越しの際に古本屋さんに引き取って貰ったからです。
さて今回紹介するのはコクス博士のことを書いた記事"Gertrude M. Cox and Statistical Design"(PDF)です。これは今年のAMS Notices3月号に掲載されたものですが、私は写真を見るなり思わず懐かしいと叫んでいました。実際、この写真は私がかって所持していたコクラン-コクスにも同様の構図のものが裏表紙かどこかのペィジで使用されていた記憶があるからです。 この記事を読んで思ったのですが、"我々が数学を職業として選ぶのではなく、数学が我々を選ぶ: ユーリ・マニンへのインタビュー"のユーリ・マニン博士の言葉を借りれば、コクス博士が統計学を職業として選んだのではなく、統計学が彼女を選んだということがまさにぴったりだと感じました。だって彼女は24歳まで孤児院の寮母さんだったんですよ。それが多士済々な人物を他国よりも抜きん出て輩出して来た米国でも最も成功した女性科学者の一人になるのですから、その学問の神が彼女を選んだとしか言いようがありません。普通の凡人はwannabeやwould-beだけで、せいぜいどこかの大学の学者とは名ばかりの教員止まりで、神に望まれていないから歴史に名を遺すことなく消え去るだけなんです(もっとはっきり言えば邪魔だからです)。
いずれにせよ、その記事の私訳を以下に載せておきます。

[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2019年03月17日に某サイトに載せたものです。

ガーチュルーデュ・コクスと統計設計
2019年3月 Sharon L. Lohr

始めに
1959年12月2日、ノースカロライナ統合大学の統計学研究所の所長ガーチュルーデュ・コクス(図 1[訳注: 図と言っても写真ですので原文の方を見て下さい])はペェアツ・バーバという若い女性からの質問、女性にとって統計学での職業機会について返答した。コクスは"確かに統計分野は女性達に広く開放している"と答え、統計学者としての彼女自身の経験のいくつかを記述した。すなわち、

実験統計学のこの分野において、私達は他の科学分野の研究者達と計画、そして彼等の研究結果の評価と解釈を共同研究する。私が協力して来た、温室での花栽培の最も良い手法、新種のトウモロコシの成長と選別、グゥワーテマーラにおけるインディヤン人の子供達の間の栄養問題、南アフリカにおける金の標本抽出の方法、ケィクに即席の糖衣を作るやり方での変化、殺虫剤スプレィの評価方法やその他多くのことのように、いろいろな興味深い分野のリストを私は与えられるであろう[17]。

コクスの手紙は科学におけるパートナとしての統計学者の彼女の見解を反映した。見解は現在、一部彼女の影響もあって標準になっている。彼女の先駆的な貢献と手本が世界中で統計学における機会を広げた。彼女の業績を少しリストすると彼女は、

・1941年にノースカロライナ州立大学で世界で最初の統計学部門の一つを設立した。
・1949年に国際統計協会において女性初の会員に選出され、1975年に米国科学アカデミに初めて選出された統計学者達の一人となった。
・1959年に"人類の福祉への貢献"のためノースカロライナ大学からオリバ・マックス・ガードナ賞を受賞した。
・1956年にアメリカ統計学会、1968年に国際計量生物学会の総裁を務め、1947年から1968年までジャーナルBiometricsの創立編集者だった。
・1950年に初めて刊行され今もなお印刷されている、今まで書かれた最も影響力のある統計学本の一つであるExperimental Designsを共著した。
・統計学研究のための電子計算機の使用を擁護した。

彼女の共同研究者ウィリヤム・ジェメル・コクランは"私達が現在知っている統計学の専門職を築き上げることに対して彼女よりも誰かが貢献したか疑問に思う"[11]と書いた。

初期の経歴
ガーチュルーデュ・メアリ・コクスが20世紀の最も影響力を持つ統計学者達の一人になるだろうと1924年に殆どが予期しなかったであろう。その時彼女はモンタナの孤児院で16人の少年達のための24歳の寮母だった。それ以前にはアイオワの一部屋の校舎で教えたり、アイオワの国民聖書訓練学校で勉強していた[21]。
コクスは彼女が計画した孤児院長としての経歴のための訓練と資格取得のためにアイオワ州立大学に入学した。彼女は1975年のインタヴューでどのように統計学者になったのか説明した。すなわち、彼女は数学が好きで"最も易しい科目"だったから数学でのコースを選び、彼女の選んだ経歴で必要であった心理学と工芸のクラスも取った。彼女の微積分教授ジョージ・スネデカが彼女を数学統計サーヴィスセンタでの計算手[訳注: 原文ではa computerと書かれており、現在私達が思う"コンピュータ"の意味でないことは明らかなので、この訳語をあてました]として招いた後、彼女は統計学に興味を持った。"人々と一緒に数学知識とオーリエンティシュンを習得出来たとたんに、それが人生となった"[19]と彼女は追憶した。
1950年代を通して、"コンピュータ"は(図 1で暖房用ラディエィタの傍の机の上に見られる物のような)手操作機械上で計算を行う人(通常は女性)を意味した。女性達は男性達よりも退屈な計算に忍耐強いと考えられていたので、女性達がこの仕事に雇用された。ついでながら、賃金もずっと安く出来た[19, 20, 30]。
多くの統計計算が相関または回帰係数を見つけることを伴った。非常に多くの独立変数を持つ回帰モデルのための計算は数週間[25]かかることもあり得た。コクスの最初の発表[13]は高校科目と大学コースのアイオワ州立大学の適性検査に関する記録間の相関表だった。
コクスは1929年に数学で学士を受けた。彼女はスネデカを指導教官として1931年に数学部門から授与される統計学での最初の修士号を得るためにアイオワ州にそのまま残った。

1933年に彼女がキャリフォーニヤ大学バークリ分校で心理学における博士課程の途中で、スネデカは彼女にアイオワ州に戻るよう促し、"私は...大学の大きな役割として統計学上の責任に急に引き込まれている。貴女はこの一部になりたいと思いますか? その機会は大きいと私は思う。興味ありますか? すぐに貴女は少女達、140の計算機器、私が貴女に対して入手出来る離れ離れな仕事全体の責任を負うだろう"[18]と書いた。
アイオワ州立統計学研究所の3人の初期教員の一人として、コクスは計算手達が実行するディタ解析を監督した。彼女はいかにディタが集められているかを見るために研究所と現場を訪問し、それが科学的問題に一番よく答えているであろう実験設計と解析を発展させるために研究者達との共同研究につながった。実験設計における彼女のクラスは大学構内の至る所からの学生達を引き付け、その分野のエクスパートとして間も無く有名になった。最初スネデカの助手として雇われたが、1939年にコクスは助教授に任じられた。
1941年にコクスはノースカロライナ州立大学の女性初の正教授となり、研究者達に統計学専門家達を供給する部門を発展させる任務を持つ女性初の部門長となった。彼女の同僚のリチャド・アンダースンはどのように任命が行われたのか詳しく述べた。すなわち、

1940年にスネデカはノースカロライナ州立大学の農学校の実験統計学の新部門を率いる候補者達の推薦を問われた。"何故私の名前をリストに載せなかったのですか?"とガーチュルーデュはスネデカが彼女に男性候補者達ばかりのリストを見せた時に訊いた。彼女の名前は付随する手紙に加えられており、次のような追記だった。"貴方がこの職に女性を考えるのであれば、私の配下のガーチュルーデュ・コクスを推薦したい"。このそっけない注意は統計学にとって遠大な結果を持つことになった。と言うのは、ガーチュルーデュが選考対象にされただけではなく彼女が選ばれたからだ[10]。

科学史家マーグレツ・ロシタは1940年代に部門長の地位のために選考対象にされることは一女性にとってどれほど異常だったかを記述した。"部門長職、つまり大学運営の最低レヴェルについて言えば、40年代、50年代、そして60年代半ばに女性科学者達が男女共学学校でこれらの地位を占めることは非常に珍しいので、これらの例外を両手ほどにも数えられる"。ロシタは一握りの中の最も成功した人としてコクスを選び、その時代の他の多数の女性大学人とは異なり、彼女の部門と科学分野を構築する業績に対して信頼を得ることになったと注記した。"彼女は1950年代と1960年代の大サイエンスの波に乗れたのみならず、大サイエンスが取る形と彼女の大学、分野、地域上でそれが持つ影響を具体化するために十分先に進めた"[29]。

実験設計
コクスはアイオワ州での仕事で見せたのと同じくらいのエナジでノースカロライナでの新しい職を始めた。すぐに育成プログラムの確立、教員の雇用、科学者達との共同研究、大学及び全国的に統計学の促進、実験設計に関する教育クラスを進めた。彼女は実験設計のクラスでの彼女の謄写版ノゥトから本Experimental Designs[12]に発展させ、1950年にウィリヤム・ジェメル・コクランとの共著で刊行した。
Experimental Designsは3つの原則を強調する:

1. 統計家達は計画段階から研究に参加することが必要である。一番目の段階、実験目標の明記と分析の計画立案は重要だ。しばしば、統計家の最も価値ある貢献の一つが"実験者がその実験をしている理由を説明すること、実験者がその効果を比較すべきと提案している実験処置を正当化すること、実験完了が実現すべき目標を可能にするだろうという実験者の主張を弁明することを行う調査官を得ることによって"引き起こす。統計家がディタが集められた後のみ意見を求められ、不十分に計画されている実験が研究問題に答えられないことを発見する時、"これらの不幸な状況において、なすことの出来るほぼすべてのことは、出来れば将来の実験でこの結果を避ける方法を示していることだ"[12, pp. 9, 10]。

2. 無作為可能なすべてのものを無作為化せよ。"起きるか起きないかも知れない、そして起きる時には深刻かそうでないかも知れない妨害に対する予防策という点で、無作為化はいくぶん保険に似ている。無作為化失敗から深刻な偏りがありそうにもない時にでも無作為化するための困難を取り除くことが一般的に勧められる。こうして実験者は期待を覆す異常な出来事に対して保護される"[12, p. 8]。

3. 変動制の効果を低減させるために可能ならばいつでも局所管理を使え。局所は実験単位の同類集団である。例えば同一双子、農業計画の近傍、原材料の束、同じ人口動勢と病状段階を持つ癌患者、同市の学校、または同一日になされる実験的行程。処置が無作為に局所内の実験単位に割当てられている(双子の一方が処置Aを受けるために、他方が処置Bを受けるために無作為で選ばれる)時、局所対局所の変動は処置の比較からは取り除かれる。局所が実験条件の分布を表しているなら、局所化実験からの結果は処置効果の評価に対する増強された正確性と共により広い応用性を持つ。

その1950年の本と1957年の第二版はラテン方陣、要因、一部実施、分割法、格子、釣合い不完備局所、その他の設計を説明した。各々の設計の記述は実例で始まり、設計が適合する時の議論と無作為化を実施する方法に対する詳細な指図が続いた。それから、一つかそれより多いケィス学習が来て、各実験にその設計が選ばれた理由とそれがどのように無作為化されたかを示し、分散分析表の構築と処置方法の違いに対する標準誤差を評価するために必要な計算を通して読者を一歩一歩連れて行った。著者達も完全無作為設計に比べて設計の効率性を評価する方法と一つかそれよりも多い実験的行程にディタ欠如があった時に結果となった不釣合い構造に対する計算方法を議論した。
複雑な設計に関する章は異なる局所サイズと処置数のための表を含んだ。今日、統計ソフトウェアがほぼ任意の実験構造のための最適設計をすぐに計算するが、1950年には印刷された設計表が必要であり、特に一つ局所変数よりも多い時、または処置数(t)が局所内の実験単位の数(k)を超えている時に必要だった。
後者の状況に対して、釣合い不完備局所設計が推薦された。その設計では同数の局所内で処置の各ペアが一緒に発生する。もちろん、そんな設計は一度にk個取られたt個の処置のすべての組合せを使うことにより、いつでも構築出来る。しかし、Experimental Designsは最小の実験単位を持つ制約に合致する設計をした。例えば7個の局所と28個の実験単位しか要求されない、サイズ4の7つの処置と局所を持つ最小釣合い不完備局所設計、つまり全組合せ設計の五分の一のサイズの設計だ。
コンサルティングをする統計学者としてのコクスの経験は本のすべてのペィジで見受けられる。計算手としての彼女の素養も明らかだ。分散分析表に対する計算の指図の各セッツが計算が正しいということを確実にするための実践的ティプスと品質チェクスと共に来た。確かに、Experimental Designsで一番目に記述された実験は交配法を使って2つの計算機器AとBの速度を比較した。そこでは同一人物が各機器上で27個の数字の10セッツ(局所)の平方の和を計算した。結果Bが断然速く、27個の数字の平方の和を計算するのに平均して2分13.6秒しかかからなかった。
コクスが彼女の経歴を始めた時、無作為化は実験からの系統だった誤りに対して防御する、または正しい推量を促進するためには滅多に使用されなかった。一部の人は無作為化が変動管理の企てと対立すると考えた[25]。彼女は無作為化を現代統計的実験設計の著しい特徴だと考えた。その特徴は結果から引き出される正しい推量を可能にする。
コクスは本の中のケィス学習のために無作為化の重要性を強調した。例えば計算機器の実験において、機器の順番の無作為化は本質的だった。数字の各局所に対する平方の和が最初はAで、次にBで比較され、Bがより速いと判明したなら、その違いの原因を機器にあるとは言えなかった。オペレィタが最初の機器に数字を入力した後にそれらの数字に馴染みになり、次の機器により速くそれらを入力出来たからだったかも知れない。機器Aに最初は局所の5つ、機器Bに最初は残りの5つ無作為に割当てすることで、コクスは順番の効果を切り分け出来て、速度の違いは確かに機器のためだと結論を出せた[12]。
コクスは統計家に"実験の要求に合致する最も簡単な設計を使え"[14]と忠告した。彼女がコンサルツした多くの実験で、費用制約に合致する最も簡単な設計は局所化または他のタイプの制限された無作為化を必要とし、彼女と彼女の部員達は各実験に応じて設計を仕立て、開発した。1942年から1948年までノースカロライナ農業試験センタで実施された6,317個の実験のうち59個を除きすべてが或る形の局所化を伴った。62%が無作為完全局所設計だった[14]。彼女は"時間とお金の最小経費で最大量の情報を得られるように"[6]実験実施の方法を開発しようと努めた。
Experimental Designsは依然として実験設計する人達に広く利用されている。WoodとPorter[33]やReeves等[28]を含む多くの実験研究者達が最近その本に指導のため頼って来ている。WoodとPorterは強い政治的信念を持つ人達に実際の情報を提示する効果を研究するためにラテン方陣設計を採用し、Reeves等は黄斑変性症を持つ人達に対するコミュニティと病院のアイケアを比較するために釣合い不完備局所設計を使った。

統計職を設計する
コクスの実験設計における貢献と同等に重要なのは統計分野の形成における貢献だった。

統計訓練
ノースカロライナでの最早期の活動の一つが統計学における夏期訓練プログラムの確立だった。1941年の6月と7月の間に最初の6週間プログラムにおいて、コクスは実験の設計に関する入門と上級コースを、スネデカが応用統計学に関する2つのコースを、ハロルド・ホテリングが数理統計学を教えた。ロナルド・フィッシャは教える予定になっていたが、ランドン[訳注: もうロンドンなどという馬鹿丸出しのカタカナ表記は止めましょう]の戦時当局が彼の旅行許可を保留した。そのプログラムの間、教員と部員すべてが統計問題に関して学生達との個別相談のため都合がついた[5, 3, 21]。これらのコースと3つの系列の一週間コンファレンスは国中から統計職の指導者または指導者となる多くの人を含む243人の登録者を得た。
教育は未来の統計家達に限らなかった。学部は州政府役人達やコミュニティ内の他の人達を助けるために複数のコースを教えた。コクスは彼女の運営管理任務や他の教務任務に加えて、表作成の事務官や計算手のための実験統計学に関する入門コースを提案した。
1943年にコクスは戦時と戦後の要求に合致する訓練された統計家達を供給するための学部の作業を強化した。1943年の夏期学期は標本抽出法を含む"大学院生と学部高学年生の若い女性達にアピールするために工夫された応用統計学の4つの集中コース"を提供した。コクスは"至急の作業を手伝うべき有能な働き手を持つ最重要性のために訓練が提供された。今進行中のいろいろな標本抽出調査がある。例えば食品製造と流通問題の研究のためのものと同様に農場労働の資源割当てと要求に対する標本抽出。計算機器の問題と統計及び標本抽出法における訓練は限られた人的資源の戦争逐行において直接の価値がある"[2]と言った。
1946年までにノースカロライナの統計学はノースカロライナ州立大学の実験統計学部とノースカロライナ大学の数理統計学部を含むコクスの統率力のもとで育っていた。両学部は統計学研究所に含まれており、コクスはそこを指揮した[27]。1960年に大学を定年退職してからコクスは新しく作られたリサーチ・トライアングル・インスティツート[訳注: 通称RTIのこと]の統計調査部を率いた。1965年に二回目の"退職"の後、彼女は統計学促進を続け、統計的助言を与え、統計学プログラムの確立を手伝うために世界中を旅行した。旅行の間に彼女は米国国勢調査局、農務省、米国国立科学財団やその他多くの組織に対する諮問委員を務めた。
コクスが1941年にノースカロライナ州立大学で実験統計学部を設立した時、世界には一握りの統計学部しか無かった。最初の、ユーニヴァースティ・コリッジ・ランドンにおけるカール・ピアスンの応用統計学部は1911年に設立されていた。一般的に数理統計クラスは数学部門で教えられた。応用統計クラスは農業、心理学、生物学、またはもう一つの学科の部門で教えられた。各々において、統計学はそれが教えられている学科の副科目として考えられた。後にコクスの統計学研究所に合流するハロルド・ホテリングは1940年に統計学における多くの現在の知識は依然として口述の伝統の形の中にあり、"統計理論に関して真実を求める探求者は様々な量のがらくたと純然たる誤りを通り抜けるか回避して道を進むしかない。十分にその分野を研究して来ていない著者達による統計理論と手法に関する膨大な刊行物の蓄積は同じ著者達による教室よりももっと危険である"[23]と書いた。
学生達は数学理論と統計応用の徹底した基礎訓練を受けて、そして科学者達との共同研究で経験を得るべきだとコクスは強く要求した。統計プログラムの確立について彼女に相談した大学と組織はこの考えを継承し、今日の殆どの統計部門は彼女が学生訓練に対して主張した原則周りで組織された。
統計学における大学院及び学部のプログラムに対する米国統計協会の最近の指針[8, 9]は実際の問題に関する共同研究と設計研究と同様に"大学院生は統計理論と手法についてしっかりとした基礎を持つべきである"と促し、コクスが1953年に統計学教育に対して概要を述べた多くの原則を繰り返している:

急速に拡大している統計学知識の情報に通じていること、そんな情報を統計学のユーザが見つけられるようにすることは統計学者の務めである。応用分野に適した能力に沿う統計理論と手法の徹底した知識の組合せはコンサルタンツ統計家が相当な能力を持つ人であることを要求する...理論と応用の間の密接な統合は統計科学における重要な進歩のための最善な基礎を構成する[15]。

共同研究分野としての統計学 
 統計学は本質的に共同的だとコクスは固く信じた。統計家達は広い範囲の理論的かつ応用的調査に従事するけれども、それらの調査は"意思決定に関する問題解決"[16]へ向けられる必要がある。"統計家が他の分野の研究者達と協議し研究する時に関係する協力はすべてに有利だ。また、通常の統計学利用でコンサルティングする、または応用する統計家は理論統計家の助けを求める新しい問題に遭遇する。理論統計家は新しいテクニークの有用な開発に導く実践的要求の刺激を必要とする"[18]。
結果の提示方法も同等に重要であり、良い実験設計は明確な発見につながる。"実験が始まる前に研究者達と統計家の間の密接な協力、つまり集められた統計が平均的知性のある人に容易に理解されるように実験を設計する"[1]。
コクスは彼女が説教することを実践した。1940年にノースカロライナ州立大学に着任した後の一週間以内に"彼女はラーリ近郊の大豆畑を隔てて群れを成して外出し、実験所の農学者が実験に対する一番良い設定を考え出すのを手伝った。彼女はまた同じ目的で多数の試験農場を訪問している"[1]。彼女の経歴を通じて、彼女は飽きることなく世界中に統計学を促進、専門知識を提供、統計学のプログラム発展を助けた。彼女の旅行はイージプト、タイランド、南アフリカ、グゥワーテマーラ、日本、香港、レバノン、マレィジャ、ブラジル、そしてホンデゥラスを含んだ。米国での多くの講演や国際統計コンフレンスにおいてコクスは共同研究と堅実な統計実践を奨励した。彼女はまたコミュニティを統計活動の提携者と考え、定期的に統計とラーリの市民団体及び婦人会への彼女の訪問について語った。Raleigh News and Observerは多くのコクスの地域トークをリポートした。例えば1954年に、その新聞は"ノースカロライナ大学統計学長のガーチュルーデュ・コクスによるトークは昨晩のルーイス学校PTA会合のハイライトだった"と書いた。彼女のトークに続いてHicks夫人の第4クラスからミニュエット曲の披露があった[4]。
ラーリでの年々を通じてコクスは国際的にと同様に地域的に統計専門知識を提供した。例えば1975年に、ノースカロライナの幼稚園の有効性に関する異論の多い統計調査を鑑定することを彼女は問われた。調査官達は査定のため18学校を選んでいたが、1学校を分析から省いていた(その結果は結論を変えていたであろう)。コクスの第一の勧告は不正があれば分析されるべきディタ選択に分析が選り好みするはずがないことだった。小さな標本サイズと可能な選択の偏りが研究から明快な結論を引き出すことを困難にしたと彼女は主張した。その調査官達は"能力のある統計家達から多大な助けを使えた"[7]と彼女は結論した。調査官達が研究の結論を出す前に統計家に相談していたなら論争は避けられていたであろうと言う穏やかなやり方だった。

計算と統計学
統計学にとって計算の重要性をよく知っていたコクスはノースカロライナに移ってすぐに計算研究室を設立した。研究室は構内の他の部門に対してと同様に統計分析に対して計算を実行した。第二次世界大戦の間、学部は戦争努力のため計算手として女性を訓練するクラスを提供した。
おそらく人間計算手としてのコクスの仕事ぶりのため、彼女は分野に貢献する"電子計算機"の能力を進んで受け入れた統計学における最初の人達の一人だった。すぐに回帰問題と複雑な標本抽出設計のための標準誤差計算に対する電子計算機の使用を見て、彼女はそれらが間も無く統計学において統計学者達が"より広い未開拓分野さえも開発する"のを可能にするだろうと予測した[16]。

驚くことではないが、コクスの学部が1956年に国内で新しいIBM-650電子計算機の一つを獲得した始めての一つだった[27]。大規模回帰モデルに対する計算が数週間かかるのではなく、今や20分足らずで終えることが出来た。回帰と分散分析に対する最初期のコンピュータプログラムのいくつかはノースカロライナ州立大学で書かれた[22]。
計算問題におけるコクスの関心は大学の定年退職後もかなり続いた。1970年代早期、普遍個人識別として社会保険番号の使用案ともっと一般的に電子記録システム[訳注: 原文ではcomputer-based record-keeping systemですが、適切な訳語が無いようですので、ここでは仮にこの訳語を充てました]内に集められていた大量の個人ディタに関して米国保険教育福祉省に統計、計算、プライヴァシ問題について専門的知識を提供した。自動個人ディタシステムに関する諮問委員会の1973年リポートは後に米国プライヴァシ法案の基礎となった原則(すなわち公正情報取扱原則)を述べた[32, 31]。リポートの勧告は彼または彼女のディタがどのように使用されているのかを知る権利を個人は有するというコクスの強い見解を反映した。

統計学新分野
コクスは"統計学新分野"と題された1956年の米国統計協会総裁としての講演で統計学に対する彼女の展望をまとめた。彼女は聴衆を統計世界の3大陸ツアに招待した: "(1) 記述統計学、(2) 実験と調査の設計、(3) 分析と理論"[16]。各大陸を訪問しながら、彼女は統計家達が設計と分析のための多くのテクニークを開発して来ている"良く開発されている国"のいくつかを簡単に説明した。それから、もっと探究が必要な新分野の実例を与えた。
記述統計学は最も長い歴史の探究があったけれども、それにもかかわらず多くの新分野があった。統計表作成は共通だったけれども、人口の可変性または推定値の不確実性を記述する人は殆どいなかったとコクスは注意した。彼女はまた結果提示方法という国への統計家達の貢献を強調した。そこでは"論理的編成、正確性、理解の容易さへの忠誠を誓うことが問われるだろう"[16, p. 3]。

驚くことではないが、ツアの最も長い滞在は実験と調査(標本抽出)の設計という大陸だった。コクスは非標本誤差を判断し管理する統計的手法に対する要求のような調査抽出研究問題が未来の数十年に起きるだろうことを予測し、分散見積りに対するコンピュータ中心の手法の発展を予想した[24]。
分析と理論の大陸を訪問する間にコクスは分散成分モデルと非母数法のような1950年代遅くの新分野のいくつかを言及した。彼女はまたこれらの新分野における未来の統計家達にに直面する推論の根本的問題を感知した。設計された実験または注意深く集められた確率標本からのディタに対して働く統計推論の手法がたまたま好都合に近くにあったディタには必ずしも適用しない。彼女は"非実験ディタの分析に対して私達が確率論に基づく統計手法を使うのはどれくらい正当であるのか? 記述的手法の大陸で使用される多くのディタは観測用または非実験記録である"[16]と書いた。
コクスのコメントは今日の統計学の多くの新分野と関係がある。2019年における一つの新分野はクレディトカード取引、電子医療記録、センサディタ、またはインタネット活動量のような大量観測ディタから推論を作ることに関係する。"ビグディタ"からの統計はしばしば不確実性の何らかの尺度無しに提示される。"ビグディタを扱う時の科学的推論の概念の洗練化"に関する2017年米国科学アカデミのワークショプの出席者達は統計的共同研究、注意深く設計された実験、そして適切な統計学的推論の必要性に関するコクスの見解を繰り返した。リポートの中で彼等は書いた:

・"実験が既に設計され、ディタが集められた後でのみ科学研究プロジェクトに統計家達が参加することが多くなった。そんな'流れを遡る'活動の中へ統計家達の不適当な参加は信頼される推論のために必要な情報の集まりが最適でないことのために否定的な意味合いで'下流'の推論に衝撃を与える可能性がある"[26, p. 5]。

・部分的に"大量のビグディタは無作為化された実験または間近の推論作業のため特別に設計された確率標本を通す代わりに日和見的に集められているので"、"より大きなディタが必ずしもより良い推論につながるとは限らない"[26, p. 14]。

・"利用可能なディタと適用される統計手法の両方の適合性の注意深い考慮をせずに、ビグディタの分析が間違っている相関性と偽の発見という結果になるかも知れない。それは結果が再現可能でなければ科学研究における信頼を密かに弱めている可能性がある"[26, p. 1]。

統計学に関するコクスの見解の殆どが2019年の統計家には革新的とは思えない。それは1920年代のコクスの登場から1978年の彼女の死に至るまで彼女が統計職を定めることを促進したからである。科学の提携者としての統計家(研究の設計と分析を共同で行い、そして必要なら新しい統計理論を作れる)に関する彼女の展望は現在の分野を特徴づけている。彼女は彼女の設立した学部と研究所において、コミュニティにおいて、そして世界中で堅実な統計学実践を促進した。
1940年に彼女が言ったように"実験作業に関しては魅力がある。新しい真実に対する未知を探す際に神秘があり、冒険があり、そして発見のスリルがある"[1]。

参照文献
(省略)[訳注: 興味ある人は原文で確認して下さい]

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今回紹介するのは abc 予想の証明に関する最近の動向を伝えている記事です。 これを選んだ理由は素人衆が知ったかぶりに勝手なことを書いているのをネット上で散見するからです。ここで言う素人衆は日本のメディアはもちろんのこと、馬鹿サイエンスライターも当然含みます。昨年末(2017年12月16日)に某新聞が誤報に近いことを報道したことも記憶に新しいでしょう。そんな情報に振り回されないために今回の記事です。 今回の記事は正確かつ公平だと私は思いました。私の友人共の何人かは、この方面の専門家だから門外漢の私はいろいろなことを教えてもらいました。その上での感想です。 その方面の専門家でなくても数学の研究者なら望月論文は無理でもレポートは読めるはずなので、もっと詳しく知りたい人はレポートを読んで下さい。 前置きはこれくらいにして、紹介する記事は" Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture "です。その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] ここに至るまでの経緯については" 数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明 "を読んで下さい。その記事は2015年12月にオックスフォードで行われた望月論文に関する初めての国際的ワークショップより前の話が書かれています。 このワークショップはいろいろ評価が分かれるけれども、私が聞く限り、大失敗だと言う人が多いです。実際、私の海外の知人の一人がワークショップに参加しており、ボロクソに言ってました。 このワークショップを境に、海外特に米国では望月論文を理解しようとする熱意が急速に薄れたように感じますし、ショルツ、スティックス両博士の異議申し立てが出るまで実質何の音沙汰もない状態でした。 [追記: 2018年10月23日] 私の友人共に指摘されたのですが、この記事の私訳を読む人の殆どが日本の全くのド素人なんだから、たとえ原文に記載されていなくても誤解を生じさせないように訳者が万全を期するべきだと言われました。 記事に出て来る Publications of the Research Institute for Mathematical Sciences (略してPRIMS)

数学における最大の謎: 望月新一と不可解な証明

前回紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "はもちろん一般大衆向けの記事です。数論、数論幾何学、IUTT(宇宙際タイヒミュラー理論)のいずれかの専門家なら、そんな記事を読まなくても、そこまでに至る経緯は十分に承知しています(何故なら自分達の飯の種を左右する問題だから)。その方面の専門家でなくても数学研究者なら数学コミュニティ又は数学界を通して大概の経緯を聞き及んでいます。 私の身辺(私の友人共はすべて何らかの形で数学研究に携わっているので、それらを除きます)でその記事を読んだ感想は"そんなに拗れるのは不思議だ。もっと経緯を知りたい"というのが多かったです。その身辺の彼/彼女等はもちろん素人衆ですので、望月新一博士の名前も報道でしか聞いたことがないし、数学で何故これほどまでもつれるのか不思議でならないそうです。彼/彼女等は至って真面目です(何故こういう事を書くかと言うと、素人衆と言っても千差万別で、中にはネット上で国家高揚か日本民族高揚のために望月博士のことを書いているとしか思えない不逞の輩がいるからです)。そこで、それらの真面目な人達のために今回紹介するのは2015年10月の Nature 誌に載っていた" The biggest mystery in mathematics: Shinichi Mochizuki and the impenetrable proof "です。 何故これを選んだかと言うとエンターテイメント性があり、素人衆でも面白く読めるだろうと思ったからです。但し断っておきますが、いろいろな数学者の証言を繋ぎ合わせて望月博士の心情を勝手に推測するのははっきり言って妄想であり、さすがエンターテイメント性を重視して堕落した Nature 誌だけのことはあると私は思いました(あのSTAP論文を掲載したことも記憶に新しいでしょう)。 その私訳を以下に載せておきます。 [追記: 2018年10月06日] この記事は2015年12月に行われたオックスフォードでのワークショップより前の話です。このワークショップは望月論文に関する初めての国際的な会合で、この記事でもこのワークショップにかなりの期待を寄せているところで終わっています。 しかし、いろいろ評価が分かれ

谷山豊と彼の生涯 個人的回想

数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の内容にタッチしていないと言ってもいいかと思います。勿論、その周辺は谷山氏の研究分野でしたから周辺にはタッチしていたでしょうが、志村博士は全く独立にきちんと予想を定式化しました。ですが、谷山氏と志村博士はいわゆる盟友関係であり、また谷山氏の不幸な亡くなり方を悼む日本人的感情(つまり、センチメンタル)から日本人は谷山-志村予想と頑なに呼んでいるのだと私は理解しています。ですが、これは数学なのであり、事実を直視しなければいけないと思います。また、最終的に志村予想は証明されたのですから、何とかの定理と呼ぶべき時期だと思います。この"何とか"に何を冠するかはいろいろ意見があるようですのでこれ以上は触れないでおきます。 さて、志村博士の"The Map of My Life"の第4章、18節に"18. Why I Wrote That Article"があります。ページ数で言えば145ページ目です。タイトルが示している"あの記事"とは、志村博士が英国の専門誌 Bulletin of the London Mathematical Society に発表した" Yutaka Taniyama and his time, very personal recollections "

識別の危機

昨年紹介した" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "の元記事はもちろん大衆向けのオンライン科学ジャーナル Quanta Magazine に掲載されたものですが、著者はErica Klarreich女史です。彼女はサイエンスライタではあるけれども、歴とした数学者です。しかも、幾何的トポロジで彼女の名前を冠した定理を持つくらいの立派な方です。何故こういうことを書くかと言うと、IUTを支持するイヴァン・フェセンコ博士がKlarreich女史をいかにも素人呼ばわりした非常に下らないドキュメントを書いたからです。大学にポストを持っていなければ全員が素人なんですかと問いたいくらいです。これでは世界からIUT自体が白眼視されるのも無理からぬことだと思いました(本当のところは全く違う理由からなんですが、話せば切りが無いので止めておきます)。 さて、今回紹介するのはディヴィド・マイケル・ロバース博士が書いた記事" A Crisis of Identification "です。ロバース博士と言えばショルツ、スティクス両博士のリポートが公開された直後からキャテグリ論の専門家として非常に冷静な分析をされていたことに私は感心してましたから直ぐに記事を読みました。一つの不満を除いて非常によく書けていると思います。" ABC予想の壮大な証明をめぐって数学の巨人達が衝突する "も勿論読み応えのある立派な記事でしたが、どちらかと言うとドキュメンタリ風の記事でしたし、読者層が一般大衆であることを考慮してあまり数学を前面に出していませんでした。ロバース博士の記事はもう完全に数学を前面に出しています。 前述した一つの不満はグロタンディーク氏のことにスペィスを割いて結構触れていることです。今のABC予想の置かれている状況とはあまり関係がないと私は思いました。やはり大衆受けを狙ったのかと感じました。まぁ、日本でも素人には何故かグロタンディーク氏は大人気ですから(捏造されたエピソゥド、つまりグロタンディーク素数がどうたらこうたらに踊らされて?)、それはそれで良いのかも知れませんが。 前置きはこれくらいにして、この記事の私訳を以下に載せておきます。なお著者の注釈欄を省いていますが、注釈へのインデクスはそのままです。 [追

数学教育について

聞くところによれば、関数型プログラミング言語の流行とともに数学の圏論がブームだそうで。圏の概念が他の数学の分野を全く知らない人でも意味が分かるのか疑問を持っています。その理由は後で述べます。 私の手許に故Serge Lang博士の名著"Algebra"があります。この本は理由があって、何と大昔の1974年の初版第6刷です。非常に貧しい学生だった私に恩師が2冊持っているからと言って1冊を下さり、私の生涯の宝物です。 仮に数学を代数学、幾何学、解析学という全く意味が無い区分けをしたとします。意味が無いと言うのは、例えば多様体論なんかはどの分野にも入るからです。そうであっても無理に区分けしたとしましょう。この3分野のうちでも、代数学(厳密に言えば抽象代数学です)が、勉強するだけなら(あくまで勉強するだけですよ、研究となれば別の話です)数学的予備知識も数学的センス(故小平邦彦博士の言うところの"数覚"、位相群で有名だった故George W. Mackey博士の言うところの"数学的成熟度"、まぁ簡単に言えば数学的才能ですね)も全く必要としません。必要なのは論理を追うための忍耐力と言えます。ですから、理解出来るか否かは別にして、代数構造を"言葉"として吸収することは誰にでも出来ます。数学のどの分野を専攻してもLang博士の"Algebra"程度の知識は"言葉"として知っていなければ話にならないのです。数学での代数学は、私達が日本語や英語等でコミュニケーションするのと同じく、数学の言語なのです。 Lang博士の"Algebra"には、第1章群論の第7節に早くも"圏と関手"が登場します(ページで言えば25ページ目です)。ついでながら、この圏、関手という日本語は全く元の英語が想像出来ないので、以降カテゴリ、ファンクタと書きます。 ところで、Lang博士はブルバキにも入っていた人ですから、こういう抽象度が高い概念を重要視しているかと思いきや、決してそうではないのですね。元々カテゴリ、ファンクタ(ファンクタの方が重要な概念でして、カテゴリはファンクタが扱う対象物です)は、ホモロジー代数の一部として提案された概念です。ホモ