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ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー

今回紹介するのは前回紹介した"書評 The Princeton Companion to Mathematics"で書評対象となったThe Princeton Companion to Mathematics(PCM)の主任編集者であるティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー記事"Interview with Sir Timothy Gowers"(PDF)です。ガゥワーズ卿と言えば、2012年にブログで出版社エルゼヴィアのボイコットを呼びかけたことは皆さんもご存じでしょう。これを最初に聞いた時、私は失礼ながらガゥワーズ卿は気骨のある人だなと感心しました。何故ならナイト称号を授けられるような人がそんな運動を起こすなど誰が想像したでしょうか。ですからそれ以来、私は卿のブログの愛読者になりました。そしてPCMにもよりいっそうの親しみを覚えました。
前置きはこれくらいにして、ガゥワーズ卿へのインタビュー記事の私訳を以下に載せておきます。非常に短いのですぐに読めます。
次いでながら、前回同様に英語のカタカナ表記を少しでも改善しようと思ったのですが、中途半端に終わったことを白状しなければなりません。最大の要因はいわゆるダークLをどう表記するかです。例えばジャーナルではなくてジャーノゥの方がはるかに近いのですが、そう表記しても読む人が分からなければ意味がありません。同様にスキルもスキォゥなのですが、これも読む人が分からないだろうと理由で断念しました。他にも断念した表記は多々あります。

[追記: 2019年02月21日]
上述したエルゼヴィアのボイコットについては"エルゼヴィアに対するボイコットが速度を速める"をご覧ください。

[追記: 2019年03月24日]
このペィジは2019年02月18日に某サイトに載せたものです。

ティモシ・ガゥワーズ卿へのインタビュー
2016年10月

Diaz-Lopez: いつ数学者になると分かったのですか?
ガゥワーズ: ブリツン[訳注: 日本には"ブリテン"という馬鹿じゃなかろうかと思うほど脳天気なカタカナ表記がありますが、ここでは少しでも改善するために、この表記を選びました。もっと正確に言えば、英語を話せる人なら知っているように、"ツ"は実際には発音せず、その舌の状態で/n/音を発します。つまり鼻から空気が抜ける音です。ここではその音を"ツン"と表記しました。その他にも以降、通常のカタカナ表記とは異なるものがあることをご了解ください]における教育システムによって助長させられて徐々に増して行ったプロセスだった。ブリツンではかなり早期に専門が分かれる。16歳で私は既に数学と物理だけをやっていた。そして大学へ行き、一つの学科を選ばなければならなかったが、その学科は明らかに数学だった。後で、純粋または応用のどちらかを専門に選ぶ機会があった時、純粋が私のやりたかったことなのが私にとって明らかだったし、各段階で私は次の段階へ到着したかった。だから、もし貴方がそのプロセスをその時に続ければ、帰納法により結局貴方は数学者になる。
Diaz-Lopez: 誰かが勇気づけたか、または奮い立たせたのですか?
ガゥワーズ: 特に優れた小学校の先生がいた。その人は私達が5歳の時にπについて語った。そして、次の小学校へ行った時、校長の細君がケンブリッジの数学の院生だったが、彼女も私達が習うとされている事柄をずっと超えている事柄を語った。小学校の後、再び私は、その職に対して必要以上の学歴だったかも知れない人を経験した。その人は数学においてケンブリッジのキングズ・コリッジのフェロゥだったが、学校教育へ転身し、非常に心を奮い立させる人だった。最後に、私がケンブリッジに行った時、私の勉強の監督者はベラ・バラバシだった。彼は次に私の研究の指導教官となり、非常に心を奮い立たせる数学者でもあった。
Diaz-Lopez: どのように貴方の研究を大学院生に述べるのですか?
ガゥワーズ: 私が主に研究している分野は加法的組合せ論だ。初等的命題を持つ問題は初等的手法を使って取組めるから私は組合せ論に引かれている。ここで言う初等的手法とは、始めるため文献読みに2年間を費やす必要が無いものを私は意味している。しかし、手法が余りにも初等的過ぎる時は好きでないから、いくつかのツールを持つことが私は好きだ。もっとはっきり言えば、たとえよく知られているツールを私が再発見していても、自分自身でツールを発見した幻影を持つことが好きだ。解析学、数論、群論のような分野と交叉する組合せ論、すなわち(私が呼ぶところの)不純組合せ論を私も好きだ。
Diaz-Lopez: 何の定理を貴方は最も誇りに思いますか?
ガゥワーズ: セメレディ定理の量的限界。それは既存の定理の新しい証明を与えているのに過ぎないから貴方は奇妙に思うかも知れないが、限界は新しかったから新側面が存在する。導入された手法は新しかったし、他の事柄の数に対してかなり好結果を生むことが判明した。興味深い発展に案内した。
Diaz-Lopez: 大学院生達に何のアドヴァイスを持ってますか?
ガゥワーズ: いつもアクティヴであれ。例えば貴方が難しい問題を考えようと頑張っていて、行き詰っていると感じるならば、多くの問いを発し、行き詰っている理由を分析しようと努めよ。他の問題に切り替えるかどうかすら考えよ。しかし、貴方がそれをやり続けているならば決して何もしないだろうから、あまり早すぎないように。最も重要な事柄の一つはどんどん問い続けることであり、貴方が解答出来て興味深い、または他の問いに貴方が答えるのを助ける一部を見つけるだろう。私のベストな成果の一部は、解決しようと努めた一つの問題には不成功だったが、他のものを私に解決させた展開しているしているアイディアだ。
もう一つのアドヴァイスは、たとえ知られている結果だと分かっていても証明することに興味を持つくらい数学的に好奇心を持ち続けることだ。貴方が自分自身で何とか証明出来れば本当に理解することになるのだから、何かが知られていることかどうか解決するために文献をあまり急いで見てはならない。だから考え続けよ。貴方が自分で考え、アイディアを持ち、発生させ、学び続けるならば、結果は来始めるだろう。
Diaz-Lopez: 2016年の共同数学ミーティングにおいて貴方のトークの一つの間に、我々は人々に研究方法を教えることを考えるべきだと貴方は言いました。貴方が誰かに研究方法を教えられる方法がありますか? もしあれば、どのようにしますか?
ガゥワーズ: 私は強く存在すると信じるが、今すぐにその信念を正当化出来ない。それは漠然と持っている計画だ。私は研究プロセスをやって来ている間に、研究プロセスについてずいぶんと考えている。これは部分的には、していることを絶えず分析しているならば、それをより良く、またはもっと早く出来る方法を考えられるので、やる方がいいからである。ある段階でいくつかのアイディアを論文に書くように努めたいが、ただ今のところ十分に整理された形でそれらを持っていない。だから、私は研究方法を説明する十分な努力を払っていないと他人を非難する罪を犯しているが、ある段階で研究方法に関して何かをするための覚悟としてそれを持っている。
Diaz-Lopez: 貴方はまた自動証明のアイディアに言及しました。その議題についての貴方の見解は何であり、何を達成しようと目論んでいるのですか?
ガゥワーズ: それは先程の質問と非常に関係がある。人間がどのように証明を見つけるかについて深く考えるベストな方法の一つは、証明発見のプロセスをどのように自動化するかを考えることだからだ。証明を見つける方法をコンピュータに教えられるならば、たぶん人にそれを説明出来る。人間相手には当然のこととして思える小さな事柄がたくさんあってコンピュータはもっと助けを必要とするのだから、コンピュータ相手にはもっと困難かも知れない。
私がやりたい主なことはモハン・ガネーシャリンガムと私が言うところの人間偏重指向自動定理証明[訳注: 原文にはextreme human oriented automatic theorem-provingとあり、未だに適切な訳語がついていないと思います。ここではこの訳語を仮に充てました。異議のある人は私にではなく、怠惰で周回遅れの日本の数学界、情報科学界、あるいは哲学界等、関連する学界に正々堂々と文句をお願いいたします]である。それは人間がするであろうやり方の種類でコンピュータに定理を証明させることから成っている。すなわち、正しい何かにたまたま出くわすまで大規模検索をするばかりでなく、人間がしばしばするトップダウンなアプロゥチを伴う検索プロセスも行う。そんなアプロゥチにおいて、貴方はどのようにそれが働くのかについて漠然としたプランを持ち、詳細を入れようと努める。いくつかの事柄が上手く働き、他の事柄が働かない。そして貴方はそれらを修正しなければならなず、等々。コンピュータ上で働くそれ全体を得ることは明らかにとても野心的な目標だ。私達が現在して来ていることは数学の特定の部分的分野においてかなり容易な事柄(それが本当に私達の興味をかき立てることだからではなく、何かを始めなくてはならないので)をしようと努めている。
私が望むことは2つの活動があるだろうことだ。つまり、研究方法を人間に説明する展望から研究プロセスについて一生懸命に考えることと、コンピュータに最も洗練された事柄を出来るようにさせるボトムアップなプロセスだ。ある時点でそれらの2つが中央で出会ってほしい。それでコンピュータは易しい事柄をやり、易しい事柄がもっと難しい事柄をやる方法に関するアドヴァイスの種類を得て、それらはその時からアドヴァイス通りに行動するだろう。それは確かに長期な計画だ。
Diaz-Lopez: いつこれが達成されると思いますか?
ガゥワーズ: それは最終目標として考慮することに依存する。今の時点で、賢い学部学生達が一時間内で解ける問題をコンピュータに解かせる根本的な障害を私は分からないが、多くの作業であり、その作業がいつ為され、何人の人々によるのか明らかではない。10年から20年の間に、一定だが十分に役立つ不定な事柄を満足出来る程度に出来るコンピュータを持てることを私は望む。例えば、一つの分野において貴方は研究しているとする。その時に貴方にとって一定と思える何かが、違う分野における誰かにとって極端に不定に見えるかも知れない。数学の全分野において一定な事柄を出来るコンピュータを持つことは非常に助かるだろう。特に、私がまさに記述した人間指向なやり方でそれが働くならば手助けになる。
Diaz-Lopez: 貴方はマシーンがいつか(数学者としての)私達に取って代わるだろうと思っていますか?
ガゥワーズ: それは漸次なプロセスになるだろう。人々は彼等の研究を手伝うために(私達が既にしているように)ますますコンピュータを使い始めるだろうし、各々の新しいステップは私達の研究生活をより容易にするだろう。例えば、私達がインターネットを持たなかった時を振り返って考えてみよ。プレプリントを入手することがいかに困難だったか。それで研究が徐々に容易になるならば、各々の新しい変化は事柄を証明するのに多大な思考を費やす必要が全く無くなるまでには進んで受入れられるだろう。その時点で貴方は問えると私は思う。つまり、私達は非常に価値あるスキルを失うのか? その答えを私は分からないし、それは問題となるだろう。他方、人が電卓の使用を考えているとしよう。私は電卓を持たないで育ち、長い割り算をする方法を学んだが、今大体において私が一つの大きな数をもう一つの数で割る必要があるとするなら、私は正確にそれをする方法を知っているが、電卓を使うことで長い時間を節約出来る。それは素晴らしいシステムのように思える。私達が人々に数学を教え続けるであろうシステムを持てるだろうが、人々に教えることについて私達はもっと慎重に考えるかも知れない。だから証明を見つけるために私達がコンピュータを使用する時に、何が起きているのか分かっているだろう。それはあまり正直な質問[訳注: つまり、前述の"私達は非常に価値あるスキルを失うのか?"のこと]ではないが、概して私は数学の時代が有限かも知れないという考えに屈託が無いし、その時になれば私達はやるべき他の事柄を見つけるだろう。
Diaz-Lopez: 貴方はジャーナルシステムを改革する必要があると言っています。最近、貴方はarXivオゥヴァレイジャーナルDiscrete Analysisを創りました。このプロジェクトについてもっと言えますか?
ガゥワーズ: Discrete Analysisは満足出来る程度に広く意図されているが、編集者達の関心と言う意味で広い。その関心は加法的組合せ論、解析的数論、そしてその他の関連分野だ。私達は非常に低コストでジャーナルを運営している。私達の年間コストは伝統的な出版社のうちの一社における一つの論文に対する論文掲載代金と比較出来るだろうと私は見積もった。君が述べたようにDiscrete AnalysisarXivオゥヴァレイジャーナルであり、私達が発行する論文はarXiv上で生きていることを意味する。読者達と著者達には代金が発生しない。私はこれが他の人々に対して同様のことをするための促進となることを望んでいる。現行の発表システムが崩壊して来ていない理由の一部は代替的な世間一般の給仕が存在しないことであり、Discrete Analysisは始めるべき多くの異なる試みの一つだ。
Diaz-Lopez: 何か最後にコメントがあれば?
ガゥワーズ: 私達が数学をただ今伝えているやり方がベストな方法であると必ずしも受取るな。

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