志村予想と言えば、"有理数体上の楕円曲線はモジュラである"(何故、これを志村予想と呼ぶのか、そしてそう呼ぶのが一番正確であり、そう呼ばれるべきかはサージ・ラング博士の"志村-谷山予想の或る由来"を読んで下さい。これは数学なんですから、そこに日本人的な甘ったれたセンチメンタル感情の入る余地は本来無いはずなんですが、なかなか日本人素人衆[何人かの専門家も含めて?]は事実を直視しようとしません)が有名ですが、他にもウッズホールの不動点定理、今ではアティヤ-ボットの不動点定理と呼ぶ方が通りが良いようですが、それも志村予想でした。この事実も余り日本人は知りません(勿論、専門家を除いて。以降いちいち断りを入れませんから、そのつもりで)。
マイケル・アティヤ博士もラウル・ボット博士も最初の頃は志村五郎博士の貢献を認めていたのですが、いつの頃からか、特にボット博士はNotices of the American Mathematical Societyの"Interview with Raoul Bott"(PDF)で"自分達で発見した"という趣旨の尊大な発言をしてしまい、志村博士の怒りを買ってしまうことになりました。
今回紹介するのは、その経緯を語る資料として、先ず志村博士のNotices編集部宛の抗議文"History of the Woods Hole Fixed-Point Theorem"(PDF)とボット博士の"Response to Shimura's letter"(先の志村博士の抗議文とセットになっています)です。これが2001年なのですが、2008年にも志村博士は自伝的著作The Map of My Lifeで、このことに触れており、つまり怒りは治まっていなかったということなんでしょう。この部分も抜粋して追加しております。
なお次いでながら言いますが、日本語版"記憶の切繪図"とThe Map of My Lifeは内容が同じだと思っている日本人が多いです。実際は違っており、"記憶の切繪図"⊂The Map of My Lifeであり、しかも"記憶の切繪図"≠The Map of My Lifeなのです。それは当然でして、各々の出版社が片や日本の筑摩書房、一方は数学書籍で歴史があり世界に冠たるシュプリンガー社なんですから、想定している読者層が違います。日本語版はほぼ一般日本人を、英語版は世界の人々(まともな数学者も含めて)を想定しているはずですから、志村博士が著書で取上げた数学者の数や付録(実際、"André Weil As I Knew Him"等が英語版に収録されています)の量が違うのは当たり前なんです。志村博士はほぼ同時に書いたと言ってますが、私の感触では(実際の出版がどちらが早いかは別にして)先に英語版を脱稿しており、その後で適当に題材を切捨てながら日本語版を書き上げたのではなかろうかと推測します。
いずれにせよ、志村博士の抗議文等を以下に載せておきます。
[追記: 2016年01月06日]
志村博士の怒りが治まらなかった理由の一番の要因として、私が推測するのは、ボット博士の謝罪文の内容が曖昧なところがあるからだと思います。あれだけ長々と経緯を書きながら、一体どういう形のものを志村博士から示唆されたのか、肝心な点が非常に曖昧です。わざわざフロイトまで持ち出して、自己釈明の羅列を書いたと言われても致し方が無いと私は思いました。それでは志村博士が納得しなかったのも当然でしょう。
以上のことも含めて、プリンストン大学の学部学生の時にシニア論文(プリンストン大学では今でも4年生が解説的な論文を提出することになっています)の指導官が志村博士、そしてハーバード大学院生の時の指導官がボット博士だったLoring W. Tu博士が昨年の10月に報告書をまとめていますので、次回以降に紹介する予定です(私は気まぐれなので確約はしませんが)。
[追記: 2016年01月10日]
上記の追記で述べたLoring W. Tu博士の報告書については"ウッズホールの不動点定理の起源について"を見て下さい。この記事は、私が最近読んだ数学関連記事の中でも最も面白かった記事の一つです。
[追記: 2016年09月25日]
上述した志村博士のThe Map of My Lifeに付録として掲載されている"André Weil As I Knew Him"については、既に"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"として私訳を紹介しています。
[追記: 2016年10月01日]
いろいろ考えることがあって、私訳の最下段に[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を追加しました。
[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2016年01月04日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
ウッズホールの不動点定理の歴史
2001年4月13日 志村五郎 プリンストン大学
私は最近、"Interview with Raoul Bott"[訳注: ラウル・ボットへのインタビュー], Notices vol. 48, No. 4 (April 2001), p. 379.の次の一節に注目した。
"1964年にマイケル[訳注: マイケル・アティヤ卿]と私はウッズホールの代数幾何学コンファレンスで再び一緒だった...そのコンファレンスの間に、私達は私達の不動点定理、つまり新しい条件下でのレフシェッツの不動点定理を発見した"。
彼等が楕円型複体の条件で定理を証明したことを私は確かに認めることが出来るが、彼の言い草"私達が発見した"には強く反対する。それは彼等がそれを彼等自身で完全に発見したことを意味するからだ。彼の言うことは、彼とアティヤが36年前に言ったことと不一致である。
もっとはっきり言えば、"Notes on the Lefschetz fixed point theorem for elliptic complexes"[訳注: 楕円型複体に対するレフシェッツの不動点定理に関するノート], Harvard University, Fall 1964の序論の中で、彼等は次のことを書いた: "私達の主要式はアイヒラーの代数曲線に関する結果(それは、最近のウッズホールでの代数幾何学のコンファレンスの期間、志村によって私達に注意させた)も一般化している。もっとはっきり言えば、この研究はこの方向での志村予想を証明する試みからの結果だった"。
また、Bull. Amer. Math. Soc. 72 (1966), 245–250の中の彼等の記事は次の文章を含んでいる: "これら[その記事において定理2を意味する]の第一は志村によって私達に予想され、1次元に対してはアイヒラーによって証明されていた"。
彼等の論文[42](Ann. of Math. 86 (1967))に同様の承認があるかどうか私は憶えていない。おそらく、序論には無い。
非常に多くの数学者達がコンファレンスに参加し、彼等の多くが私の予想が故に定理が存在するようになったことをまだ憶えていると私は思う。"私達が発見した"という表現を彼等が受取れるかどうかと思う。
同じパラグラフが次の文章で終わっている: "数論学者達は最初私達が間違っているはずだと言ったが、それから私達が正しいとなった。だから私達はそれを愉快に思った!"。
これは完全に間違いだ。私が思い出せる限り、数論学者の誰も間違っているはずだと言わなかった。何と言っても、私がそれを正則の場合に予想し、数論学者の誰も楕円型複体に対する定式に反対するほど十分な知識が無かった。これらの文章は数論学者達(その中に私もいる)の助け無しでそれを"発見した"と言うために付け加えられたと私が言っても許されるだろう。
志村の手紙に対する返書
2001年5月14日 ラウル・ボット ハーバード大学
志村教授の指摘はよく分かり、私はインタビューでの失言を謝罪する。私が2つの不快にさせた文章を置き換える力を持つなら、喜んでそれらを以下のように置き換えるであろう:
ウッズホールでアティヤと私は、志村の予想した不動点式を楕円型の場合に一般化する方法を発見し、結局私達は擬微分手法でこの一般化を確立出来た。
私の元々の説明がどのように来たのか謎が残っている。残念ながら、この疑問に対する答えは、インタビューの最終段階で私が避けようとしたこと、すなわち関連するもう一つ別の長い話に私を巻き込む。だが、それも仕方がないし、最終草稿における元々の衝動的な説明を検閲することの失敗に対する私の罰としよう。
しかし、先ず、特に若い読者達に前以って警告する。賢明にも神は私達皆に、老齢でさえも人生を耐えられるように設計され、非常にえり好みの記憶を持つ能力を授けられている。
一般に私達は最小の功績ですら憶えているが、最大の失敗を除いてすべてを忘れる傾向にある。どうか、これを以下の語りの間、心に留めてほしい。
今は私がよく分からない理由のため、マイケル・アティヤと私はコンファレンスの初期に正則不動点定理に関する実験作業を始めた。私達の実験作業が虚2次拡大におけるヘッケ対応に関係していたと私は信じる。いずれにせよ、不動点は複素数で数えられるが、それでも適当な条件下でそれらが合計して整数になるという私の困惑に関する限られた記憶を持っている。私達の計算は写像のみならず曲線における対応も扱った。いずれにせよ最終的に私達は数論学者の友人達の何人かに助言を求め、この段階の討議で予想されていた式に関する私達の計算は間違いだと最初宣告されたが、もっと慎重な分析の後で正しいことが分かった。これが私の2番目の文章で言及された出来事である。疑いもなく小さな貢献だが、私達を元気にさせ、何かに気づいていると確信させたものだった。この出来事はマイケルによって確認が取れたが、私達が相談した人達は憶えてなかった。
私の説明の次の部分はもっと胡散臭いが、それをここに認めるのであれば、私は正直ではないだろう。私達が志村とやり取りする前に、これらを、または類似の計算をやっていたと私は憶えているようだ! 私の記憶では、これらの問題に関する専門家を志村に見出して喜んだのは、そんな式に対する私達の研究の間であり、他の多くの人達によって私達がアイヒラーの研究を参考した後だった。志村は私達を打ち解けさせ、実はかなり長い間、十分一般的な形で正則不動点式の予想を立てていたことを知らせた。ここで私の記憶は、私達が彼と話す前に一般式を気づかなったことである。その時から私達は、もちろん、そしてきちんと不動点式を志村予想と呼んだが、私は主観的にいつも意外な新事実との出会いよりも確信として憶えていた。
いずれにせよ、このやり取りはなおさら私達に証明を見つけようと決心させた。この段階で、私達もレフシェッツ式がいかに完璧にヘルマン・ワイルの指標公式に合致するかを発見し、そして他の興味深い実例を見出した、と私は思う。同時に私達はこの点に関して残酷にコンファレンスで非常に多くの代数幾何学者に助言を求め、結局このトピックに捧げられた特別セミナーにおいて、代数的条件下におけるレフシェッツ式の証明がスケッチされた。この結果への非常に多くの入力の観点で、それは"ウッズホール不動点定理"と名付けられた。そのイベントで私は一種のセレモニーの主役の代理をしたと信じる。この証明は層理論的であり、内部Homと導来圏を使ったが、専門家達にとって難しいと思われなかった。
これらのテクニックは正則圏において直接応用可能ではないので、マイケルと私は、これまでの展開において演技者というよりもプロデューサだったが、この場合に注意を傾け、結局定理のもっと一般的な楕円型バージョンに注意を傾けた。
私達にとって特に忘れられない瞬間がホイットニー地所の庭園での散歩の間に起こった。その時、ディラック演算子が事情に合うことを発見した。そして、私が最初に注意したように、結局私達は本質的に擬微分手法を使って証明を作った。
最後に、ウッズホール物語の現代的説明からの志村教授の手紙中にある引用についてのコメント、それらの両方が私によって書かれたと信じる。ああ、ここで長い物語を短くカットすることに対する私の好みを再び認めなければならぬ。と言うのは、それらの説明の中にある上記のいくつかを含めるかどうか熟慮した異なる記憶があるからだが、その時とその文脈において不適当だと私には思われた。
そして、これはボットの長い、長い話だ。それは本当なのか、または私の空想の産物なのか? 時間と共に私達の記憶の"Anosov"進化の普遍的性質(それを私は最初に言及した)があるから、決めるのは難しいだろうと私は心配する。だが、真にせよそうでないにせよ、私のインタビューにおいて、名前をまったく省略してしまったことに対し、志村教授に心から遺憾を述べることで終わらせてほしい。前述の観点で、今出来ることのすべては私が"フロイト的"過失を犯してしまったことに対する彼の許しを請うことだ。
マイケル・アティヤ博士もラウル・ボット博士も最初の頃は志村五郎博士の貢献を認めていたのですが、いつの頃からか、特にボット博士はNotices of the American Mathematical Societyの"Interview with Raoul Bott"(PDF)で"自分達で発見した"という趣旨の尊大な発言をしてしまい、志村博士の怒りを買ってしまうことになりました。
今回紹介するのは、その経緯を語る資料として、先ず志村博士のNotices編集部宛の抗議文"History of the Woods Hole Fixed-Point Theorem"(PDF)とボット博士の"Response to Shimura's letter"(先の志村博士の抗議文とセットになっています)です。これが2001年なのですが、2008年にも志村博士は自伝的著作The Map of My Lifeで、このことに触れており、つまり怒りは治まっていなかったということなんでしょう。この部分も抜粋して追加しております。
なお次いでながら言いますが、日本語版"記憶の切繪図"とThe Map of My Lifeは内容が同じだと思っている日本人が多いです。実際は違っており、"記憶の切繪図"⊂The Map of My Lifeであり、しかも"記憶の切繪図"≠The Map of My Lifeなのです。それは当然でして、各々の出版社が片や日本の筑摩書房、一方は数学書籍で歴史があり世界に冠たるシュプリンガー社なんですから、想定している読者層が違います。日本語版はほぼ一般日本人を、英語版は世界の人々(まともな数学者も含めて)を想定しているはずですから、志村博士が著書で取上げた数学者の数や付録(実際、"André Weil As I Knew Him"等が英語版に収録されています)の量が違うのは当たり前なんです。志村博士はほぼ同時に書いたと言ってますが、私の感触では(実際の出版がどちらが早いかは別にして)先に英語版を脱稿しており、その後で適当に題材を切捨てながら日本語版を書き上げたのではなかろうかと推測します。
いずれにせよ、志村博士の抗議文等を以下に載せておきます。
[追記: 2016年01月06日]
志村博士の怒りが治まらなかった理由の一番の要因として、私が推測するのは、ボット博士の謝罪文の内容が曖昧なところがあるからだと思います。あれだけ長々と経緯を書きながら、一体どういう形のものを志村博士から示唆されたのか、肝心な点が非常に曖昧です。わざわざフロイトまで持ち出して、自己釈明の羅列を書いたと言われても致し方が無いと私は思いました。それでは志村博士が納得しなかったのも当然でしょう。
以上のことも含めて、プリンストン大学の学部学生の時にシニア論文(プリンストン大学では今でも4年生が解説的な論文を提出することになっています)の指導官が志村博士、そしてハーバード大学院生の時の指導官がボット博士だったLoring W. Tu博士が昨年の10月に報告書をまとめていますので、次回以降に紹介する予定です(私は気まぐれなので確約はしませんが)。
[追記: 2016年01月10日]
上記の追記で述べたLoring W. Tu博士の報告書については"ウッズホールの不動点定理の起源について"を見て下さい。この記事は、私が最近読んだ数学関連記事の中でも最も面白かった記事の一つです。
[追記: 2016年09月25日]
上述した志村博士のThe Map of My Lifeに付録として掲載されている"André Weil As I Knew Him"については、既に"私が交流したアンドレ・ヴェイユ"として私訳を紹介しています。
[追記: 2016年10月01日]
いろいろ考えることがあって、私訳の最下段に[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]を追加しました。
[追記: 2019年03月23日]
このペィジは2016年01月04日に某サイトに載せたものです。従いまして、当時生きていたリンクも現在ではリンク切れになっている可能性があります。
ウッズホールの不動点定理の歴史
2001年4月13日 志村五郎 プリンストン大学
私は最近、"Interview with Raoul Bott"[訳注: ラウル・ボットへのインタビュー], Notices vol. 48, No. 4 (April 2001), p. 379.の次の一節に注目した。
"1964年にマイケル[訳注: マイケル・アティヤ卿]と私はウッズホールの代数幾何学コンファレンスで再び一緒だった...そのコンファレンスの間に、私達は私達の不動点定理、つまり新しい条件下でのレフシェッツの不動点定理を発見した"。
彼等が楕円型複体の条件で定理を証明したことを私は確かに認めることが出来るが、彼の言い草"私達が発見した"には強く反対する。それは彼等がそれを彼等自身で完全に発見したことを意味するからだ。彼の言うことは、彼とアティヤが36年前に言ったことと不一致である。
もっとはっきり言えば、"Notes on the Lefschetz fixed point theorem for elliptic complexes"[訳注: 楕円型複体に対するレフシェッツの不動点定理に関するノート], Harvard University, Fall 1964の序論の中で、彼等は次のことを書いた: "私達の主要式はアイヒラーの代数曲線に関する結果(それは、最近のウッズホールでの代数幾何学のコンファレンスの期間、志村によって私達に注意させた)も一般化している。もっとはっきり言えば、この研究はこの方向での志村予想を証明する試みからの結果だった"。
また、Bull. Amer. Math. Soc. 72 (1966), 245–250の中の彼等の記事は次の文章を含んでいる: "これら[その記事において定理2を意味する]の第一は志村によって私達に予想され、1次元に対してはアイヒラーによって証明されていた"。
彼等の論文[42](Ann. of Math. 86 (1967))に同様の承認があるかどうか私は憶えていない。おそらく、序論には無い。
非常に多くの数学者達がコンファレンスに参加し、彼等の多くが私の予想が故に定理が存在するようになったことをまだ憶えていると私は思う。"私達が発見した"という表現を彼等が受取れるかどうかと思う。
同じパラグラフが次の文章で終わっている: "数論学者達は最初私達が間違っているはずだと言ったが、それから私達が正しいとなった。だから私達はそれを愉快に思った!"。
これは完全に間違いだ。私が思い出せる限り、数論学者の誰も間違っているはずだと言わなかった。何と言っても、私がそれを正則の場合に予想し、数論学者の誰も楕円型複体に対する定式に反対するほど十分な知識が無かった。これらの文章は数論学者達(その中に私もいる)の助け無しでそれを"発見した"と言うために付け加えられたと私が言っても許されるだろう。
志村の手紙に対する返書
2001年5月14日 ラウル・ボット ハーバード大学
志村教授の指摘はよく分かり、私はインタビューでの失言を謝罪する。私が2つの不快にさせた文章を置き換える力を持つなら、喜んでそれらを以下のように置き換えるであろう:
ウッズホールでアティヤと私は、志村の予想した不動点式を楕円型の場合に一般化する方法を発見し、結局私達は擬微分手法でこの一般化を確立出来た。
私の元々の説明がどのように来たのか謎が残っている。残念ながら、この疑問に対する答えは、インタビューの最終段階で私が避けようとしたこと、すなわち関連するもう一つ別の長い話に私を巻き込む。だが、それも仕方がないし、最終草稿における元々の衝動的な説明を検閲することの失敗に対する私の罰としよう。
しかし、先ず、特に若い読者達に前以って警告する。賢明にも神は私達皆に、老齢でさえも人生を耐えられるように設計され、非常にえり好みの記憶を持つ能力を授けられている。
一般に私達は最小の功績ですら憶えているが、最大の失敗を除いてすべてを忘れる傾向にある。どうか、これを以下の語りの間、心に留めてほしい。
今は私がよく分からない理由のため、マイケル・アティヤと私はコンファレンスの初期に正則不動点定理に関する実験作業を始めた。私達の実験作業が虚2次拡大におけるヘッケ対応に関係していたと私は信じる。いずれにせよ、不動点は複素数で数えられるが、それでも適当な条件下でそれらが合計して整数になるという私の困惑に関する限られた記憶を持っている。私達の計算は写像のみならず曲線における対応も扱った。いずれにせよ最終的に私達は数論学者の友人達の何人かに助言を求め、この段階の討議で予想されていた式に関する私達の計算は間違いだと最初宣告されたが、もっと慎重な分析の後で正しいことが分かった。これが私の2番目の文章で言及された出来事である。疑いもなく小さな貢献だが、私達を元気にさせ、何かに気づいていると確信させたものだった。この出来事はマイケルによって確認が取れたが、私達が相談した人達は憶えてなかった。
私の説明の次の部分はもっと胡散臭いが、それをここに認めるのであれば、私は正直ではないだろう。私達が志村とやり取りする前に、これらを、または類似の計算をやっていたと私は憶えているようだ! 私の記憶では、これらの問題に関する専門家を志村に見出して喜んだのは、そんな式に対する私達の研究の間であり、他の多くの人達によって私達がアイヒラーの研究を参考した後だった。志村は私達を打ち解けさせ、実はかなり長い間、十分一般的な形で正則不動点式の予想を立てていたことを知らせた。ここで私の記憶は、私達が彼と話す前に一般式を気づかなったことである。その時から私達は、もちろん、そしてきちんと不動点式を志村予想と呼んだが、私は主観的にいつも意外な新事実との出会いよりも確信として憶えていた。
いずれにせよ、このやり取りはなおさら私達に証明を見つけようと決心させた。この段階で、私達もレフシェッツ式がいかに完璧にヘルマン・ワイルの指標公式に合致するかを発見し、そして他の興味深い実例を見出した、と私は思う。同時に私達はこの点に関して残酷にコンファレンスで非常に多くの代数幾何学者に助言を求め、結局このトピックに捧げられた特別セミナーにおいて、代数的条件下におけるレフシェッツ式の証明がスケッチされた。この結果への非常に多くの入力の観点で、それは"ウッズホール不動点定理"と名付けられた。そのイベントで私は一種のセレモニーの主役の代理をしたと信じる。この証明は層理論的であり、内部Homと導来圏を使ったが、専門家達にとって難しいと思われなかった。
これらのテクニックは正則圏において直接応用可能ではないので、マイケルと私は、これまでの展開において演技者というよりもプロデューサだったが、この場合に注意を傾け、結局定理のもっと一般的な楕円型バージョンに注意を傾けた。
私達にとって特に忘れられない瞬間がホイットニー地所の庭園での散歩の間に起こった。その時、ディラック演算子が事情に合うことを発見した。そして、私が最初に注意したように、結局私達は本質的に擬微分手法を使って証明を作った。
最後に、ウッズホール物語の現代的説明からの志村教授の手紙中にある引用についてのコメント、それらの両方が私によって書かれたと信じる。ああ、ここで長い物語を短くカットすることに対する私の好みを再び認めなければならぬ。と言うのは、それらの説明の中にある上記のいくつかを含めるかどうか熟慮した異なる記憶があるからだが、その時とその文脈において不適当だと私には思われた。
そして、これはボットの長い、長い話だ。それは本当なのか、または私の空想の産物なのか? 時間と共に私達の記憶の"Anosov"進化の普遍的性質(それを私は最初に言及した)があるから、決めるのは難しいだろうと私は心配する。だが、真にせよそうでないにせよ、私のインタビューにおいて、名前をまったく省略してしまったことに対し、志村教授に心から遺憾を述べることで終わらせてほしい。前述の観点で、今出来ることのすべては私が"フロイト的"過失を犯してしまったことに対する彼の許しを請うことだ。
The Map of My Life p. 130-131
2008年11月 志村五郎
As I already mentioned, I participated in a conference in 1964,
which was officially called the Summer Research Institute on Algebraic
Geometry, held at Woods Hole, Massachusetts, where I had
my near-drowning experience as I narrated in Section 4. Several
months earlier I had formulated a possible new trace formula which
would generalize the Lefschetz fixed point formula. During the
conference I told this first to John Tate, and then to Michael
Atiyah and Raoul Bott. The latter two were extremely excited
about my conjectural formula, which was completely new to them.
Eventually they proved the case that concerned a map, whereas I
formulated the formula more generally for a correspondence. At
first they acknowledged that the idea was due to me. But interestingly
they gradually tried to minimize my contribution. In fact, in
2001 Bott claimed that I was not involved in the matter, and later
was forced to concede that he was wrong. However, Atiyah noted
in one of the volumes of his complete works that they learned it
from me.
既に言ったように、私は1964年にコンファレンスに参加した。そのコンファレンスは公式的に代数幾何学に関する夏期研究会と呼ばれ、マサチューセッツのウッズホールで開催されたが、第4節で話したように、そこで私は殆ど溺れそうになった。数ヶ月前、レフシェッツ不動点式を拡張するだろう新しいトレース式を私は定式化していた。コンファレンスの間、これを最初にジョン・テイト、そして次にマイケル・アティヤとラウル・ボットに話した。後者の2人は私の予想式に非常に感銘し、彼等にとって完全に新しいことだった。結局彼等は写像に関する場合を証明したが、私は対応に対してもっと一般的に定式化した。最初彼等はアイデアが私によるものと承認した。しかし、面白いことに彼等は次第に私の貢献を最小にしようとした。もっとはっきり言えば、2001年にボットは私が問題に参加していないと主張し、後で彼が間違っていたことを認めざるを得なかった。しかし、アティヤは彼の全集の巻の一つの中で、彼等は私から学んだことを特記した。
[訳者からの注記事項(2016年10月1日)]
志村博士が日本語で谷山氏と書いた近代的整数論に対して復刊リクエストが後を絶たないそうですが、出版社は著者の意向で復刊出来ない旨を回答したと聞きました。このことを友人共から教えられた時、こういうリクエストをする人達は志村博士の書いたものを全然読んでいないと私は思いました。つまり、そういう人達は志村博士の意思を完全に無視しているわけです。何故復刊リクエストに応えないのか、志村博士のThe Map of My Lifeを読んでいれば分かりそうなもんです。
The Map of My Life p. 119下段-p. 120中段より抜粋
As I said in the preface, there were
several unsatisfactory points in the book. One of them was the
proper definition of “the field of moduli,” which I discovered only
in October 1958 and which I told Weil immediately after my arrival
in Paris. Thus, the first thing I did after coming back to Tokyo in
the spring of 1959 was to write the whole theory in English in a
better form by using this new definition.
We had actually planned an English version, but nothing was
done except for a short section I wrote in English on differential
forms on abelian varieties. Sometime in 1957 I handed it to
Taniyama, who died in November 1958. It was returned to me
when I met one of his brothers. I eventually published the book
in English as a collaborative work with him in 1961, but actually
I wrote everything alone, and he was not responsible for the
exposition.
I had known that he was not a careful type, but after starting
this project in 1959 I realized that the problem was more serious
than I had thought. Indeed, I had to throw away many things
he wrote in that book in Japanese. In my article about his life
published in Bulletin of the London Mathematical Society (1989),
I wrote: “Though he was by no means a sloppy type, he was gifted
with the special capability of making many mistakes, mostly in the
right direction.” I also wrote in the preface of the 1961 book in
English: “The present volume is not a mere translation, however;
we have written afresh from beginning to end, revising at many
points, and adding new results such as §17 and several proofs of
propositions which were previously omitted.”
Thirty-five years later in 1996 I published a book, of which
I was the sole author, the first half of which was a revision of
this book, and the last half of which contained new results on
the periods of abelian integrals. Although this subject is related
in various ways to other topics I investigated later, I do not talk
about them here.
(私訳)
本[訳注: 近代的整数論のこと]の序文の中で述べた通り、本には多数の不満足な点があった。それらの内の一つが"モジュライ体"の正しい定義だった。それを私は1958年の10月に発見したばかりであり、パリに到着後すぐにヴェイユに話した。こうして、1959年の春に東京へ戻った後で私が最初にしたことは、この新しい定義を使用することにより理論全体をより良い形に英語で書くことだった。
私達[訳注: 志村博士と谷山氏]は英語版を計画していたが、アーベル多様体における微分形式について私が英語で書いた短いセクションを除いて何もなされなかった。1957年の或る時に、その短いセクションの原稿を谷山に渡したが、彼は1958年の11月に死去した。彼の兄弟の内の一人に会った時、その原稿が私に返された。私は結局1961年に彼との共著として英語で刊行したが、実際には私がすべてを一人で書き、彼はその解説書に対して責任がない。
私は彼が注意深いタイプでないことを分かってはいたが、このプロジェクトを1959年に始めた後で、私が考えていたよりも問題がずっと深刻であることを認識した。実際、あの本[訳注: 近代的整数論のこと]の中で彼が日本語で書いた多くの事柄を私は捨てなければならなかった。彼の人生についてBulletin of the London Mathematical Society (1989)に発表された私の記事[訳注: Yutaka Taniyama and his time, very personal recollectionsのこと。これについては"谷山豊と彼の生涯 個人的回想"を見て下さい]の中で以下のことを書いた。"彼はいいかげんなタイプでは決してなかったけれども、多くの間違い(大部分は正しい方向に)を作る特殊な才能に恵まれていた"。また私は1961年の本[訳注: 先に志村博士が説明している通り、形式的に谷山氏との共著としたComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと。因みに題名の和訳は"アーベル多様体の虚数乗法とその整数論への応用"となります]の序文の中で以下のことを英語で書いた。"しかし、ただいまの本は単なる翻訳ではない。私達は始めから終わりまで再度新たに書いた。つまり、多くの箇所を訂正し、§17のような新しい結果と以前には省略されていた命題の多くの証明を追加した"。
35年後の1996年に私はある本[訳注: Abelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsのこと]を出版したが、私が単独の著者だった。その本の最初の半分はこの本[訳注: 前述の1961年の本Complex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryのこと]の改訂であり、最後の半分はアーベル積分の周期に関する新しい結果を含んだ。この議題は後年私が調べた他のトッピクスに様々な意味で関係するけれども、それらをここでは語らない。
以上の通り、志村博士は明確に理由を書いています。つまり、中途半端で不完全な近代的整数論の代わりにComplex multiplication of abelian varieties and its applications to number theoryを出し、更にはAbelian Varieties With Complex Multiplication and Modular Functionsも出しているのに、何故旧著を復刊する必要があるのかということです。
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